瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:法蓮

秦王国1
豊前の秦王国
秦王国には飛鳥よりも早く仏教が伝わっていたと考える研究者がいます。まず、五来重氏は次のように考えています。
①『彦山縁起』には、英彦山の開山を仏教公伝(538)より早い、継体天皇二十五年甲寅(534)に、北魏の僧善正が開山したと記すこと。
②『彦山縁起』が典拠とする『熊野権現御垂逃縁起』(『熊野縁起』)には、熊野三所権現は唐の天台山から飛来した神で、最初は彦山に天降って、その後に彦山から伊予の石鉄山、 ついで淡路の遊鶴羽岳、さらに紀伊の切部(切目)山から熊野新宮の神蔵山ヘ移った
③彦山への飛来は、『彦山縁起』のいう「継体天皇二十五年甲寅」こと。
以上を根拠にして、仏教公伝以前に彦山に仏教が入ったとする伝承について、次のように記します。
「私は修験道史の立場からは、欽明天皇七年戊午(588年)の仏教公伝よりはやく、民間ベースの仏教伝来があったものと推定せざるを得ない」

「民間ベースの仏教伝来」の例として、『日本霊異記』(上巻28話)の、役小角が新羅に渡ったとあること、「彦山縁起』に、役小角が唐とも往来したとある例がある」
「これは無名の修行者の往来があったことを、役小角の名で語ったもの」で、「彦山は半島にちかい立地条件にめぐまれて、朝鮮へはたやすく往来できた」
「無名の修行者」が、仏教公伝より早く、仏教を彦山にもちこんむことも可能であった。

 朝鮮への仏教渡来は、「道人」が伝えている。そのため列島への豊前への仏教伝来も「道人」といわれる日本の優婆塞・禅師・聖などの民間宗教者によって行われ、仏教にあわせて陰陽道や朝鮮固有信仰などを習合して・占星術・易占・託宣をおこなったものとおもわれ、仏教・陰陽道・朝鮮固有信仰がミックスしたかたちで入った」
と推測します。
中野幡能は、仏教伝来を彦山に限定せず、豊国全般に公伝以前に仏教は入っていたとして、次のように記します。
雄略朝の豊国奇巫は、「巫僧的存在ではなかったかと想像される」として、「少なくとも5~6世紀の頃、豊国に於ては氏族の司祭者と原始神道と仏教が融合している事実がみられる」

 用明天皇二年(587)に、豊国法師が参内していることから、6世紀末には「九州最古の寺院」が、「上毛・下毛・宇佐郡に建立されていて、」「秦氏と新羅人との関係からすると、その仏教の伝来は新羅人を通して6世紀初頭に民間に伝わって来たか、乃至は新羅の固有信仰と共に入ったものではあるまいか」

このように、五来・中野の両氏は、仏教公伝以前に、豊前に仏教が入ったと見ています。
それではどうして、飛鳥よりも先に豊前に仏教が入ったのでしょうか。
中野幡能は、豊前の「秦氏と新羅人の関係」があったからと考えています。「秦氏と新羅人の関係」とは、具体的には秦王国の存在です。豊前に秦王国があったこと、つまり、倭国の中にあった朝鮮人の国の存在が、仏教公伝に先がけて仏教がいち早く人った理由というのです。
仏教には、「伽藍仏教」と「私宅仏教」があります。
鎮護国家にかかわる公的な仏教は「伽藍仏教」で、蘇我馬子が受け入れようとしたのは「伽藍仏教」です。馬子は「伽藍仏教」の僧や尼を必要としたので、法師寺を建て、受戒した僧・尼を養成しようとしています。こうした馬子の仏教観に対し、豊国の法師の仏教は、「私宅仏教(草堂仏教)」で、巫女の伝統を受けつぐ「道人」的法師であっようです。だから、病気治療などに活躍する、現世利益的な個人的要素が強かったと研究者は考えています。
田村同澄は、次のように記します。
「宮廷に豊国法師が迎え入れられたのは、九州の豊前地方には、後に医術によって文武天皇から賞せられた法蓮がいたように、朝鮮系の高度の文化が根を張っており、したがって医術の名声が速く大和にまで及んでいた」
 
 法蓮は、宇佐神宮の神宮寺であった弥勒寺の初代別当で、英彦山や国東六郷満山で修行したと伝えられる修験者的な人物です。
宝亀8年(777年)に託宣によって八幡神が出家受戒した時には、その戒師を務めて、宇佐市近辺にいくつもの史跡・伝承を残しています。『続日本紀』の大宝三年(703)9月25日条は、次のように記します。
史料A 施僧法蓮豊前國野冊町。褒霊術也
(僧の法蓮に豊前国の野四十町を施す。医術を褒めたるなり)
史料B 養老五年(七二一)六月三日条、
詔曰。沙門法蓮、心住禅枝、行居法梁。尤精霊術、済治民苦。善哉若人、何不二褒賞。其僧三等以上親、賜宇佐君姓
意訳変換しておくと
詔して曰く。「沙門法蓮は、心は禅枝に住し、行は法梁に居り。尤も医術に精しく、民の苦しみを済ひ治む。善き哉。若き人、何ぞ褒賞せざらむ。その僧の三等以上の親に、宇佐君の姓を賜ふ」)

史料Aからは医学的な功績として豊前国の野40町を賜ったこと、史料Bからは、その親族に宇佐君姓が与えられことが記されています。このような記述からは仏教公伝・仏教私伝以前に北部九州へ仏教が伝来していた可能性を裏付けます。法蓮は九州の山中に修行し、独自に得度して僧となり、山中に岩屋を構え、独特の巫術で医療をおこなっていました。また『八幡宇佐宮御託宣集』『彦山流記』『豊鐘善鳴録』などでは、法蓮は山岳修験の霊場彦山と宇佐八幡神の仲介をした人物とされています。そして法蓮を彦山を中心に活動した山岳仏教の祖とする多くの伝承が生れます。一方、法蓮は用明天皇の病気治療のため入内した豊国法師、あるいは雄略天皇不予の際に入内したとされる豊国奇巫の系譜を引く人物であったと次のように考える研究者もいます。
 豊国法師の伝統を受けついだ代表的な僧が、法蓮であったから、彼の医術は特に「監」と書かれたのだが、法蓮は、薬をまったく用いなかったのではない。薬だけでなく巫術も用いたから、単なる「医者」でなく「巫医」なのだ。法蓮が用いた薬に、香春岳の竜骨(石灰岩)がある。「竜骨」を薬として用いる術は、豊国奇巫・豊国法師がおこない、その秘術を法蓮が受けついでいた。このような豊国の僧(法師)の実態は、仏教公伝以前に秦王国に入っていた仏教が、巫術的なものであったことを示しており、豊国奇巫ー豊国法師―僧法蓮には、一貫した結びつきがある。

 『日本書紀』(敏達天皇12年(584)には、百済から持ってきた仏像二体のための「修行者」を、「鞍部村主司馬達等」らに探させ、播磨国にいた「僧還俗」の「高句麗の恵便」をみつけた、とあります。ここからも仏教公伝以前に、渡来人が「私宅仏教」の本尊を飛鳥で礼拝していた可能性が見えて来ます。司馬達等は、法師を探し出す役を馬子から命じられ、恵便の一番弟子として娘の島(善信尼)を入門させています。ここからは司馬達等は、公伝以前に入った「私宅仏教」の信仰者であったことがうかがえます。
 司馬達等(止)を、『扶桑略記』は「大唐漢人」、『元亨釈書』は「南梁人」と記します。しかし、日本古典文学大系『日本書紀・下』の補注には、「一般に漢人は必ずしも中国からの渡来者ではなく、大部分は百済から来たものであるから」「大唐」、「南梁」の人とするのは「当らない」とあります。「司馬」などの二字姓は、百済・高句麗にもあるので、扶余系の渡来人と研究者は考えています。
 このように大和の飛鳥の地でも、私宅に仏像を安置して礼拝していた人たちはいて、彼らは百済系渡来人でした。それに対して、秦上国の「私宅仏教」は、新羅・加羅系渡来人によるものです。
新羅の「伽藍仏教」は、六世紀前半の法興上のとき以後になるので、それより百年ほど前の訥祗王の時代に、すでに新羅には「私宅仏教」は入っていたことになります。この「私宅仏教」は、私宅に窟室を作り、窟室に仏像・経典などを置いて、礼拝します。窟室、つまり洞窟は、新羅に最初に仏教を伝えた僧墨胡子を「安置」したというので、祖師の洞窟修行の姿が、礼拝の対象だったことがうかがえます。
仏教公伝以前に仏教が入ったという彦山の『彦山流記』(建暦三年〈1212〉成立)は、次のように記します。
震国の「王子晋」は、舟で豊前国田河郡大津邑に着き、香春明神の香春岳に住もうとしたが、「狭小」だったので、香春より広い彦山の「磐窟」の上に天降り、四十九箇の洞窟に、「御正然」を分けた
『彦山流記』『彦山縁起』も、法蓮も玉屋谷の般若窟に住み、その他の修行者も、彦山四十九窟の洞窟を寺とした。
このは伝承に出てくる王子晋・法蓮は、窟室の墨胡子と重なり、新羅の「私宅仏教」の窟室信仰に結びついていたことが見えて来ます。仏教公伝以前に入った秦王国の仏教は、彦山の仏教や法蓮の信仰につながっていることを、『彦山流記』の伝承は語ってくれます。

玉屋神社 in 英彦山(9) - 耳納の神々
彦山四十九窟 牛窟

彦山四十九窟は、豊前・豊後。筑前にまたがる彦山を中心に分布しています。
これについて、中野幡能は、次のように記します。
「個々の宮寺を窟又は岩屋という」修験の霊山は、「他には豊後国の六郷山しかなく」、筑前宝満山にも「四十八嘔」があるが、この「岨」は、吉野の大峯の「宿」と同じ意で、彦山や六郷山の宮寺を「窟」というのとちがう。
そして、新羅の慶州の「南山の五十五ヶ寺の寺院が、一ヵ寺ずつ、寺号を名乗っている」のは、六郷山の「窟又は岩屋」が「一々山号寺号をもっている」のと「似て」おり、「六郷山の原型」は、「新羅の慶州南山」とみられる。「その意味では彦山四十九窟も、慶州南山のあり方と全く同じ方式とみてよい」
求菩提山 (くぼてさん):782m - 山と溪谷オンライン
求菩提山(くぼてんやま)

宇佐八幡宮の祭祀氏族の辛島氏と深くかかわる修験の求菩提山も、石窟がたいへん多いところです。
主要な霊場が窟なのも新羅の南山の岩窟の仏教信仰と共通しています。彦山四十九窟は法蓮伝承と結びついていますが、六郷山の山岳寺院も、法蓮が初代別当であった弥勒寺の別当に所属しています。ヤハタの信仰にかかわる山岳寺院だけが、新羅仏教と強い結びつきをもっていることになります。しかも、新羅が公式に入れた「伽藍仏教」でなく、それ以前に新羅に入っていた「私宅(草庵)仏教」と結びついています。新羅の「私宅仏教」は、高句麗の「道人」の暴胡子や阿道が新羅に来て、毛礼の家で拡めたされます。
 『後漢書』東夷列伝の高句麗の条には、次のように記します。
其国東有大穴、号隧神。亦以十月迎而祭之

『魏志』東夷伝の高句麗の条にも、
其国東有大穴、名隧穴。十月国中大会迎隧神。還於国東上祭之、置木隧於神坐。

『宋史』列伝の高麗の条には、
国東有穴 号歳神。常以十月望甲迎祭。

大穴を、「終神・隧穴・歳神」などと呼んでいたようです。これについて上橋寛は、『魏志』東夷伝高句麗の条の「隧穴」に、「置木隧於神坐」とあり、『宋史』が歳神と書いていることから、木隧を豊饒を祈る木枠のようなものと解釈します。

アメノヒボコ
新羅の王子・天之日矛(あまのひびこ)
そして新羅の王子・天之日矛(あまのひびこ)を祭る大和の穴師兵主神社の祭神が、御食津(みけつ)神で神体が日矛であることから、御食津神を歳神、神体の日矛を木隧という説を出しています。
洞窟に「木隧を置いて神坐す」というのは、家の中に「窟室」を作り、仏像を置くのことと重なります。終神・歳神の本隧が、仏像に姿を変えたのです。高句麗の民間信仰に仏教が習合したと研究者は考えています。これが高句麗の「私宅仏教」が新羅に入ったことになります。
ここでは天之日矛(日槍)を、木隧と見立てていますが、天之日矛を祭る穴師兵主神社は、穴師山にありました。
穴師山は弓月嶽とも云います。そうだとすれば、秦氏の始祖の弓月君と穴師兵主神社があった弓月嶽に関連性があったことになります。弓月嶽・弓月君・秦氏の関係は、朝鮮の洞窟での神祭りが、秦氏の穴師兵主神社でもおこなわれ、一方、仏教化して、新羅の窟室信仰が、彦山・六郷山の洞窟信仰になったと研究者は推測します。
 穴師の「穴」も、「大穴」での祭と無関係ではありません。
穴師兵主神社の祭神の天之日矛は、『日本書紀』の垂仁天皇条には、「近江国の吾名邑に入りて暫く住む」とあり、「穴」地名と関わりがあるようです。近江の「吾名邑」は、『和名抄』の「坂田郡阿那郷」に比定する説もあります。阿那郷は宇佐八幡宮が官社化した後には、祭神にした息長帯比売(神功皇后)の息長氏の本拠地になります。息長帯比売は『古事記』には、祖を天之日矛としていて、新羅王子に系譜を結びつけています。この天之日矛や息長帯比売にかかわる地名に、「穴師」「吾名邑」「阿那郷」があることから、穴・窟の信仰は、泰王国の信仰と深くかかわっていると研究者は指摘します。
以上をまとめておきます。
① 公伝以前の仏教と高句麗での穴の中で神を祀る儀礼が、習合する
② 私宅に窟室を作り仏像を安置して、木隧の代りに拝むようになった。
③ 仏教と朝鮮の民間信仰が習合した形で、新羅の仏教は民間に浸透した。
『三国史記』『三国遺事』には、次のような事が記されています。
新羅に人った仏教は、王都の慶州にもひろまり、法興王は仏教を受け入れようとした。ところがこれに貴族の大半が反対した。

ここからは、最初に新羅に入った仏教は、一般庶民サイドの上俗信仰と習合した仏教であったことが分かります。わが国に公伝した仏教も、飛鳥の場合には「私宅仏教」の信者であった百済系渡来人が受容します。公伝以前から仏教信者であった鞍部は、雄略朝に渡来し、高市郡の桃原・真神原に住んでいました。その時、鞍部と共に衣縫部も来ていますが、『日本書紀』は、崇峻天皇元年(588)に、次のように記します。
「飛鳥衣縫造が祖樹葉の家を壊して、始めて法興寺を造る」

ここでは最初に伽藍仏教の寺院を建てた地を「真神原」といっています。衣縫造は鞍部村主と同じに、「私宅仏教」の信者であり、この私宅を「伽藍仏教」の伽輛(寺)にし、法興寺(飛鳥寺)を創建したと研究者は指摘します。
この飛鳥の寺地について、田村園澄は次のように述べます。

真神原と呼ばれたこの地には、飛鳥寺の創建以前から槻の林があった。飛鳥寺の造営のため一部は伐採され、土地は拓かれて寺地となったが、なお飛鳥寺の西の槻の林は残されていた。槻の林は、元来はこの地に居住していた飛鳥衣縫氏の祭祀の場であり、すなわち宗教的な聖地であったと思われる。朝鮮半島において、原始時代に樹木崇拝が行われていた。樹木の繁茂する林は神聖な場所であり、巫峨信仰の本拠でもあった。新羅仏教史において、早い時期に建立された寺のなかに、林に関連した事例がある。すなわち慶州の興輪寺は天鏡林が、同じく四天王寺は神遊林が、寺の根源であったと考えられる。図式的にいえば、仏教伝来以前の樹木崇拝の聖地に、仏教の寺院が建てられ、そして巫現が僧尼になったことになる。

飛鳥衣縫氏が真神原で祀っていた神については、よく分かりませんが異国の神だった気配がします。その後に、真神原を人手した蘇我馬子は、この地に別の「他国神」のための伽藍を建てます。新羅の寺院建立の例からすると、宗教的聖地が寺地になるのは自然なことです。飛鳥寺の場合、その寺地は「国神」の聖地ではなく、朝鮮半島系の神の聖地であったと研究者は考えています。
  飛鳥に公式に入った伽藍仏教の伽藍(寺院)を建てた地が、もともとは百済からの渡来人が祀っていた神の聖地であったことになります。それは渡来して来た朝鮮人の信仰の上に、「大唐神」「他国神」の信仰が「接ぎ木」されたとも云えます。
このように大和の場合も、仏教公伝以前から仏教は、飛鳥の渡来人の居住地区に、「私宅仏教」として入ってきたようです。しかし、飛鳥の場合は限られた狭い地域でした。それに対して、豊前に入った仏教は、秦王国の全域に拡がります。そのため仏教公伝のころには、道人的法師団(豊国法師)が形成されるまでになっていたのでしょう。この「豊国法師」の仏教は、土俗信仰や民間道教信仰と習合したもので、「豊国奇巫」が「豊国法師」になったと研究者は考えています。
 九州の初期寺院は、大宰府のある筑前に多く創建されていいはずです。しかし、筑前よりも、豊前に初期寺院が多いのをどう考えればいいのでしょうか。これは今見てきたように、仏教公伝以前から、豊前には民間ベースで、新羅の私宅仏教が普及していたからでしょう。白鴎時代に作られた寺院跡からも、新羅系遺物が多く出土してくるのもそれを裏付けます。
以上述べたように、わが国に仏教信仰が一番早く人ったのは、秦王国の地であることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和岩雄 仏教が一番早く入った「秦王国」 秦氏の研究

 空海には謎の行動がいくつかあります。そのひとつが帰国後の九州滞在です。
弘法大師・空海は下関市筋が浜町に帰国上陸した! | 日本の歴史と日本人のルーツ

空海は806年8月に明州の港を出帆しますが、いつ九州へ着いたのかを記す根本記録はないようです。10月23日に、自分の留学成果を報告した「御請来目録」を宮廷に提出しているので、それ以前に帰国したことはまちがいありません。ここで、多くの空海伝は入京を翌年の秋としています。とすれば九州に1年いたことになります。この根拠は大和国添上郡の虚空蔵寺について、「正倉院文書抄」が大同二年頃に空海が建立したと書かれているからです。
空海―生涯とその周辺 (歴史文化セレクション) | 高木 〓元 |本 | 通販 | Amazon

しかし、この文書については、高野山大学の学長であつた高木伸元は、『空海―生涯とその周辺―』の中で、この記述は後世の偽作だと論証しています。そして空海が入京したのは、大同四年(809)4月12日の嵯峨天皇の即位後のことであるとします。そうだとすると、空海は2年半も九州に居たことになります。
 どうして、空海は九州に留まったのでしょうか。あるいは留まらざる得なかったのでしょうか。
この答えは、簡単に出せます。入京することが出来なかったのです。空海は長期の留学生として派遣されています。阿倍仲麻呂の例のように何十年もの留学生活が課せられていたはずです。それを僅かな期間で、独断で帰国しています。監督官庁からすれば「敵前逃亡」的な行動です。空海は、そのために自分の持ち帰ったものや書物などの目録を提出して、成果を懸命に示そうとしています。しかし、それが宮廷内部で理解されるようになるまでに時間が必要だったということです。そこには最澄の「援護射撃」もあったようです。まさに九州での空海は、査問委員会のまな板の上に載せられたような立場だったと私は考えています。
スポット | たがわネットDB
香春神社
それでは、その間に空海は何をしていたのでしょうか?
その行動はまったく分からないようです。研究者は、二年半の九州滞在中に、宇佐や香春の地など、秦氏関係地をたずねて、その地にしばらく居たのではないかと推測します。この期間が結果として秦氏との関係を深めることにつながったと云うのです。
伊能忠敬が訪れた香春神社がある香春町の街並み。後方は香春岳の一ノ岳 写真|【西日本新聞ニュース】
香春岳のふもとに鎮座する香春神社(秦氏の氏神)
「空海=宇佐・香春滞在説」を、裏付けるものはあるのでしょうか?
①秦氏出自の勤操は、空海が唐に行く前から、虚空蔵求聞持法を通してかかわっていた
②空海は故郷の讃岐でも秦氏と親しかった
③豊前の「秦王国」には虚空蔵菩薩信仰の虚空蔵寺があった。
④虚空蔵寺関係者や、八幡宮祭祀の秦氏系の人々は、唐からの帰国僧の空海の話を聞こうとして、宇佐へ呼んだか、空海自身が八幡宮や虚空蔵寺へ出向いた(推理)
⑤最澄は入唐前に香春岳に登り、渡海の平安を願ている。最澄が行ったという香春へ、空海も出向いた(推理)
⑥「弘法大師年譜』巻之上には、空海は航海の安全を祈願して香春神社・宇佐八幡官に参拝し、「賀春明神」が「聖人に随いて共に入唐し護持せん」と託宣したと記す。
⑦空海は虚空蔵信仰の僧であった。
⑧和泉国槙尾山寺から高雄山寺へ入寺した空海は、「宇佐八幡大神の御影を高雄寺(高雄山神護寺)に迎えている」と書いている。虚空蔵寺のある宇佐八幡宮に空海がいたことを暗示している。


空海に虚空蔵求聞持法を教えたといわれている勤操は、空海の師と大和氏は考えています。そして、次のように推測します。
「勤操が空海帰国直後から叡山を離れ、最澄の叡山に戻るように云われても、戻らなかったのは九州の空海に会うためとみられる。延暦年間、勤操は槇尾寺で法華経を講じていたというから九州から上京した空海を棋尾山寺に入れたのも、勤操であろう。」

 この期間に勤操は「遊行中」で所在不明となっている。唐から帰国して九州にいた空海に会って、虚空蔵求聞持法についての新知識を聞いたりしていたのではないか

「空海が帰国し、槇尾山寺から高(鷹)尾山寺に移たのも、秦氏出身の勤操をぬきには考えられない」

以上のような「状況証拠」を積み重ねて、2年半の九州滞在中に空海は師である勤操と連絡をとりながら、八幡宮の虚空蔵寺や香春岳をたずねたのではないかと大和氏は推察します。

虚空蔵寺跡

  虚空蔵寺は、辛嶋氏の本拠地辛嶋郷(宇佐地方)に7世紀末に創建された古代寺院で、壮大な 法隆寺式伽藍を誇ったようです。その別当には、英彦山の第一窟(般若窟)に篭って修行したシャーマン法蓮が任じられます。宇佐八幡宮の神宮寺である弥勒寺は、この虚空蔵寺を改名したものです。秦氏には、蚕神や漆工職祖神として虚空蔵菩薩を敬う職能神の信仰があったようです。
法蓮は新羅の弥勒信仰の流れを引く花郎(ふぁらん)とも言われます。
彼は7世紀半ば(670頃)に、飛鳥の法興寺で道昭に玄奘系の法相(唯識)を学びます。そして、「秦王国」の
霊山香春山では日想観(太陽の観想法)を修し、医術(巫術)に長じていたとされます。
 このような秦氏の拠点と宗教施設などで、
空海は九州での2年半の滞在を過ごしたのではないか。その中で今まで以上に、秦氏との関係を深めます。それを受けて、秦氏は一族を挙げて、若き空海を世に送り出すための支援体制を形成してきます。その支援体制の指揮をとったのが空海の師・勤操ということになるのでしょうか。大和氏の描くシナリオは、こんな所ではないでしょうか。 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係 続秦氏の研究」

虚空蔵求聞持法とは一体何なのでしょうか?

麻生祇 燐 の オカルトコレクション: 虚空蔵求聞持法
空海が出家するきっかけとなった虚空蔵求聞持法の継承ラインが
「道慈→善儀→勤操→空海→勤操
であるという大和岩雄「秦氏の研究」を前回は見てきました。
虚空蔵求聞持法とは一体何なのでしょうか? 素人ながらその闇の中に分け入って「迷子」になってみようと思います。

まずは、虚空蔵求聞持法をインドから請来した善無畏三蔵

善無畏三蔵図 - 埼玉県飯能市 真言宗智山派 円泉寺
(インド名、シュバカラシンバ)について見てみましょう。
『宋高僧伝(巻二)』によれば、
三蔵はインドですでに虚空蔵求聞持法など密教の奥義を極めており、中インドに大旱のあったとき、請われて祈雨によって雨をふらせています。また、金を鍛えて貝葉のようにして大般若経を書写し、銀を型に入れて鎔して卒塔婆を仏身と同じ量に作り、寺で銅を鋳て塔を建てた、
とあります。
  「祈雨によって雨をふらせ」という雨乞い祈雨は、後の空海にもつながっていくものです。 「銀を型に入れて鎔して」からは、冶金・鍛冶術を身につけていたことが分かります。   

虚空蔵求聞持法には具体的に、次のような「技術」が書かれています。

「牛蘇一両を取りて執銅の器の中に盛り貯え、並に乳ある樹葉七枚及び枝一条を取りて壇の辺に軋どけ、華香等の物、常の数に加えて倍せよ。供養の法は前に同じ。供養し我ごて前の樹葉を取り、重ねて壇の中に布の上に置いた葉の上に於て酪器を安置せよ。手印を作りて陀羅尼三遍を誦して此の酪を護持せよ。また樹の枝を以て酪をまぜて其の手を停むる刎れ。目に日月を観ご兼ねてはまた酪を看よ。陀羅尼を誦して遍数を限ることなし。初めて蝕するより後に退して未だ円たざる已来に、其の酪に即ち三種の相現ずることあらん。一には気、二には煙、三にはに喰り。此の下中上の三品の相の中に、隨いて一種を得ば、法即ち成就す。この相を得已りぬれば便ち神薬と成る。
酪は蘇とも書き、牛または羊の乳を煮つめて作ったもので、牛酪は一斗の牛乳で一升できるといいます。この求聞持法の工程は、漆塗りの工程に似たところがあるようです。 

前回も記したように、虚空蔵求聞持法をはじめて列島に伝来したと伝えられる道慈は、

渡来系秦氏と関係の深い額田氏出身で、大和郡山市額田部寺町にある額安寺は額田氏の氏寺です。この寺は道慈が自ら彫刻した虚空蔵仏を本尊とします。求聞持法の「神薬」製法には、額田氏のもつある技術と重なるものがあったといいます。それが道慈が虚空蔵求聞持法に興味をもった理由かもしれません。それは何でしょうか?

 虚空蔵求聞持法の伝授は、経文に書かれていることだけなら経文を読めばいいのですが、経文に秘められた奥義は、師からの口承による伝授でした。

 道慈の一族は、鍛冶・鋳物集団の「工巧」で、その職業的な原点が師のインド僧善無量から求聞持法を学んだ動機だったとも考えられます。
 とすれば、豊前「秦王国」の秦氏系辛島勝の本拠地に建てられた九州最古の寺が虚空蔵寺であることと、香春岳の銅や八幡信仰の鍛冶翁伝承は、無関係とはいえません。虚空蔵信仰は、鍛冶鋳造にかかわる人と結びつく要素が強かったようです。 

宇佐八幡の神宮寺であった虚空蔵寺の座主は、弥勒寺の座主になった法蓮です。

法蓮は、医術に長じていて虚空蔵求聞持法の「神薬」製法をマスターしていたようです。この「神薬」の効用を虚空蔵求聞持法は、
「若し此の薬を食すれば即ち聞持を獲て、一たび耳目に経るるに文義倶に解す。之を心に記して永く遺忘することなし。」
と記し、知恵増進は、記憶力の増進・強化で、更に
「諸余の福利は無量無辺なり」と、福徳を述べ「始めてより却退し円満するに至るまでの已来に、三相若し無くんば法成就せず。徹更に初めより猷め而も作すべし」
と記します。
三相(気・煙・火の三品の相)が成就しなかったら、はじめからやり直せというのです。そして、七遍すれば
「極重の罪障あれども、亦みな鎔滅して法定んで成就す」
と述べ、罪障消滅の功徳も記しています。知恵増進と福徳は「神薬」を飲んだ結果ですが、飲まなくても、この法を「七遍」もくりかえしおこなえば、罪障消滅はできるというのです。
  もちろん、この牛酪の呪法は、その前に陀羅尼を百万辺誦習するという難行が前提です。 
嵐山の法輪寺を開山した空海の弟子道昌が、虚空蔵求聞持法を百ヶ日修したのは、百万辺の誦習のためです。
しかしその後、虚空蔵像を刻んだのは、神薬を作る法の代りでもありました。 

虚空蔵信仰が自力による知恵増進・福徳・災害消除なのに対し、弥勒信仰は弥勒の上生・下生を待つ他力の信仰です。

これをミックスしたのが空海の密教とも言えます。
 空海の最初の著書である『三教指帰』は、仏教を代表する仮名乞児の口を借りて、
「滋悲の聖帝(釈迦)が滅するときに印璽を慈尊に授け、将来、弥勒菩薩が成道すべきことを衆生に知らせた。それゆえ私は、旅仕度をして、昼も夜も都史の宮(兜率天)への道をいそいでいる」
といわせ『性霊集(巻八)』も弥勒の功徳を述べています。
 また、空海が弟子たちに自分の死後のことをさとした『御遺告二十五ヶ条』の第十七条には、
「私は、眼を閉じたのち、かならず兜率天に往生し、弥勒慈尊の御前で待ち、五十六億余年ののちには、かならず慈尊とともに下生して、弥勒に奉仕し、私の旧跡をたずねよう」
とあります。
 平岡定海は、「平安時代における弥勒浄土思想の展開」で、
「秦王国の彦山が、弥勒の浄土の兜率天とみられていたように、空海も高野山を兜率天に往生する山と見立てていた。したがって、後に、高野山は、兜率天の内院に擬せられたり、空海は生身のまま高野山に入定し、弥勒の下生を待っている、という信仰も生まれた」
と記します。

「聖徳太子の太子信仰」が「弘法大師の大師信仰」とスライドしていくのは

その根っこに弥勒信仰があったからのようです。太子・大師・弥勒信仰に秦氏がかかわっていることからして、これらの信仰を流布した秦氏が、タイシとダイシの信仰を習合させたと推察します。
 宮田登は、
聖徳太子を祀るタイシ講は、大工・左官・屋根屋・鍛冶屋・桶屋・樵夫・柚などの職業集団で祀られていることは、よく知られる民俗である。しかし何故、彼らだけが太子を祀るのかというと十分に説明はできていない。大工が古く寺大工から派生したものだとすると、代表的寺院であった法隆寺などの関係からそれが説かれたことも想像されるがはっきりしない。
木樵たちの場合、山の神の子を太子として信仰していたことから太子が聖徳太子と成り得たとするがこれも確証はない。ただ聖徳太子の宗派性を問題とすると、真宗・天台宗がこれに大いに関係してくることは指摘できる」
と書きます。
 タイシ講の職業集団は、秦氏が深く関与している職業です。
法隆寺の聖徳太子の寵臣は、『日本書紀』によれば秦河勝で、真言・天台宗の開祖も秦氏の信仰と結びついていることからみても、キーワードは秦氏であり、秦王国なのかもしれません。
 特に、太子信仰は虚空蔵信仰と同じ職人の信仰です。もともとは虚空蔵菩薩は、もともとは鉱山関係者の信仰する仏だったようです。そして太子信仰も、鉱山関係の人々の間に多いようです。

秦氏の妙見信仰・虚空蔵
 これらの源流は、がっての秦王国にあったもので、秦王国の豊国奇巫・豊国法師の伝統を受け継いだものであり、秦王国の信仰が、空海に継承されたともいえます。

大和岩雄は「秦氏の研究」で
「この法を弥勒信仰と結びつけて勤操が説いたのを、十八歳の空海が聞いて、出家の決意をしたのだろう。」
と推察します。
 やはり危惧していたように虚空蔵求聞持法をめぐる迷路の中で、迷子になったようです。
しかし、秦氏 秦王国 職能集団 弥勒仏 虚空蔵求聞持法のつながりがかすかに見えてきたように思えます。

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