瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:洞林院

白峯寺法蔵 崇徳上皇 歌切図 
崇徳上皇 (白峯寺蔵)
保元の乱に敗れて讃岐に流された崇徳上皇は、長寛2年(1164)8月、当地で生涯を閉じます。白峯寺の寺域内西北の地に崇徳上皇の山陵が営まれ、これを守護するための廟堂として頓證寺(御影堂・法華堂ともよばれる)が建立されます。この頓證寺の建立が、白峯寺の歴史にとって大きな意味を持つことになるのは以前にお話ししました。

白峰寺伽藍配置
現在の白峰寺の境内配置図(現在の本坊は洞林院)
 ここまでの白峯寺は、同じ五色台にある根来寺と同じように、山林修行者の「中辺路」ルートの拠点としての山岳寺院でした。それは弥谷寺や屋島寺などと性格的には変わらない存在だったと私は考えています。それが崇徳上皇陵が境内に造られることで、大きなセールスポイントを得たことになります。これは中世の善通寺が「弘法大師空海の生誕地」という知名度を活かして「全国区の寺院」に成長して行ったのとよく似ているような気もします。善通寺は空海を、白峯寺は崇徳上皇との縁を深めながら、讃岐のその他の山岳寺院とは「格差」をつけていくことになります。今回は、頓證寺と白峰寺の関係に絞って、見て行くことにします。テキストは     「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」
です。

 最初に確認しておきたいことは白峰御陵の附属施設として建立された「崇徳院御廟所」は、厳密に云うと頓證寺だということです。そして、次のように頓證寺と白峯寺は同じ寺ではなく、もともとは別の寺であったということです。
白峯寺=修験者の中辺路ルートの山林寺院
頓證寺=崇徳上皇慰霊施設
二つの寺は、建立時期も、その目的もちがいます。
P1150681
頓證寺殿
頓證寺は何を白峰寺にもたらしたのでしょうか。第1に経済的な基盤である寺領です
 中央政府や都の貴族たちが寄進を行うのは頓證寺であって、もともとは白峰寺ではなかったようです。それが白峰寺と頓證寺が次第に一体化していく中で、頓證寺の寺領管理を白峯寺が行うようになります。

白峰寺明治35年地図
白峰寺の下の郷が松山郷
『白峯寺縁起』によれば、次のような寺領寄進を受けたと記します。
①治承年間(1177~81)に松山郷青海と河内
②文治年間(1185~90)に山本荘
③建長5年(1253)に後嵯峨上皇によって松山郷
しかし、この記述に対して研究者は、いろいろな疑義があると考えていることは以前にお話ししましたのでここでは省略します。本ブログの「四国霊場白峯寺 白峯寺が松山郷を寺領化するプロセス」参照
白峯寺 千手観音二十八部衆図
千手観音二十八部衆像(白峯寺)
 暦応5年(1342)の鐘銘写には「崇徳院御廟所讃州白峯千手院」との銘文があります。
この千手院は千手院堂ともよばれ、後嵯峨上皇の勅願所になったとされます。先に寄進された松山荘は千手院堂の料所であったとも伝えられます。白峯寺の本尊が千手観音であることを思えば、この千手院は白峯寺の本堂のことだと研究者は考えているようです。頓證寺に寄進された松山荘が、この千手院堂の料所となっているのは、頓證寺と松山荘が、どちらも白峯寺の管理下になっていたためでしょう。ここからは、14世紀半ば頃には、廟所としての頓證寺が白峯寺と一体化していたことがうかがえます。ある意味で頓證寺が白峰寺にのみ見込まれていったというイメージでしょうか。こうして「廟所としての白峯寺」というイメージが作り出されていきます。
南海流浪記- Google Books
道範の南海流浪記
 建長元年(1249)に、高野山の党派抗争で讃岐に流されていた道範が8年ぶりに帰国を許されることになります。その際に、白峯寺院主に招かれて白峯寺に立ち寄っています。そして白峯寺を「南海流浪記」に次のように記します。

此ノ寺(白峯寺)国中清浄ノ蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟

ここからは、13世紀半ばの鎌倉時代にはすでに「廟所としての白峯寺」というセールスポイントが作り出されていたことがうかがえます。建立された頓證寺が寺僧集団をともなっていたかどうかは、史料的には分かりません。しかし、隣接する近い仲です。頓證寺と白峯寺との関係が密接になる中で、しだいに頓證寺の法会等にも白峯寺僧が出仕するようになったことは考えられます。
 
白峯寺 四国名所図会
白峯寺(四国遍礼名所図会)

 これについて山岸常人氏は、次のように指摘します。

白峯寺が13世紀中期以降は、頓証寺の供僧21口を構成員とする新たな寺院に転換したと言えよう。頓証寺の供僧集団が前身寺院(白峯寺)をも継承した

 頓證寺が中央政府によって建立されて以後、白峯寺と頓證寺との一体化が進んだのです。
そして建長4(1252)年の段階では、白峯寺と頓證寺は法会を通じて分かちがたく結びついたと研究者は考えています。しかし、あくまで前面に立つのは頓證寺であって、白峯寺ではなかったようです。「十一日の供僧勅請として、各十一通の御手印の補任を下さる」というのも事実かどうかは分かりません。しかし、そうした主張ができるのは廟所である頓證寺だからこそできることです。こうして21院を、白峰寺の院主が統括するというスタイルで一山は運営されていたと研究者は考えています。
 以上をまとめておくと、
①千手院を中心とする中世の白峯寺は、実質的に頓證寺と一体化し、それによって廟所を名乗るようになった。
②ただし表に出るのは頓證寺の方であったので、頓證寺の供僧集団が白峯寺を吸収し、継承したとみることもできる。
③どちらにしても白峯寺と頓證寺とは、それぞれ別に存在して両者を補完する関係にあった
④それを示すかのように、戦国期の如法経供養は千手院と頓證寺のそれぞれで行われた

こうして 「崇徳上皇の廟所 + 中辺路修行の山岳寺院 + 安定した寺領と経済力」という条件の備わった中世の白峯寺は多くの廻国の聖や行者を集め、活動の舞台を提供する寺になります。僧兵集団も擁していたと考える研究者もいます。このような状況が21もの子院の並立を可能にする背景だったのでしょう。その結果、一山寺院として衆徒や聖などの集団が、念仏阿弥陀信仰や時衆信仰、熊野信仰などなどの布教活動を周辺の郷村で行うようになります。

 白峰寺の頂点は前回見たように院主でした。しかし、子院の中でも洞林院のような有力なものもあらわれています。
洞林院は戦国時代には衰退したこともありますが、慶長期になると秀吉の命で讃岐国守として入部した生駒氏の保護のもとで、別名が白峯寺再興の役割を果たします。別名は、生駒氏の支持を受けて山内での勢力基盤を強化します。その結果、洞林院が山内の中心的な位置を占めるようになります。現在の本坊にあるのは洞林院ということになります。

白峯寺本坊 弘化4年(1847)金毘羅参詣名所圖會:
幕末の絵図 金毘羅参詣名所図会には本坊に洞林院が描かれている。


以上をまとめておきます
①古代の白峯寺は、五色台を行場とする山林修行者の行場のひとつから生まれた。
②律令国家の下で密教が重視されると国分寺背後の五色台に、山林寺院が整備されていく。そのひとつが白峯寺や根香寺であった。
③12世紀後半に崇徳上皇陵が白峰山に作られ、廟所・頓證寺が建立されたことが白峯寺にとっては大きな意味を持つことになる。
④頓證寺に寄進された松山荘は、実質的には白峯寺の管理下にあって経済基盤となった
⑤鎌倉期以降、白峯寺と頓證寺との一体化が進展していく。
⑥中でも鎌倉中期に頓證寺に21の供僧が設置されたことが白峯寺にとって重要な意味をもった。
⑦ここに白峯寺と頓證寺とが法会を通じて分かちがたく結びついた
⑧白峯寺と頓證寺とは、それぞれが補先する関係にあり、その関係は中世を通じて継続した

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」
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白峯寺の頓證殿
白峰寺の紫陽花が見頃ですよと教えていただいて、花見ついでに境内や奥の院の毘沙門窟を歩いてきました。境内に咲き誇る紫陽花は見事なもので、古い堂宇を引き立てていました。ところで紫陽花の背後の堂宇に近づいて眺めていると、どれもが「重要文化財」と書かれています。白峰寺に重要文化財の建物がこんなにあったのかなと不思議に思っていると、2016年に白峰寺の7つの堂宇が国の重要文化財に一括して指定されていたようです。何も知りませんでした。お恥ずかしい話です。それらの重要文化財の縁側に腰を下ろして、紫陽花を眺めながら白峯寺の報告書を読みました。

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白峯寺の柏葉紫陽花
訪れる人も少なく、ヤブ蚊に悩まされることもなく至高の時間を頂きました。その時に読んだ報告書の内容を、私なりに要約すると次のようになります。

 白峰寺や根香寺がある五色台は、国分寺背後の霊山で、そこは三豊の七宝山のように修験者たちの「中辺路」の行場ルートがありました。海と山と断崖の窟の行場を結んで行者たちは「行道」と「瞑想」を日夜繰り返します。その行場の近くに山林修行者がお堂や庵が姿を現します。行場の一つである稚児の瀧の近くに建てられたお堂が白峯寺の起源だと研究者は考えています。白峰寺は、行場に造られたお堂から発展してきたお寺なのです。これは根香寺も同じです。

今回は中世の白峯寺が、どんな僧侶たちの集団によって構成されていたのかを見ていくことにします。
比較のために以前にお話しした善通寺の僧侶集団のことを見ておきましょう。中世の善通寺には次のような僧侶達がいました。
①二人の学頭
②御影堂の六人の三味僧
③金堂・法華堂に所属する18人の供僧
④三堂の預僧3人・承仕1人
このうち②の三味僧や③の供僧は寺僧で、評議とよばれる寺院の内意志決定機関の構成メンバー(衆中)でした。その下には、堂預や承仕などの下級僧侶もいたようです。善通寺の構成メンバーは約30名前後になります。

白峯寺 構成メンバーE
大寺院の構成メンバー 
寺院の中心層は、学僧や修行僧たちです。
しかし、彼らに仕える堂衆(どうしゅう)・夏衆(げしゅう)・花摘(はなつみ)・久住者(くじゅうさ)などと呼ばれた存在や、堂社や僧坊の雑役に従う承仕(しょうじ)公人(くにん)・堂童子(どうどうじ)、さらにその外側には、仏神を奉じる神人やその堂社に身を寄せる寄人や行人たちが数多くいたようです。特に経済力があり寺勢が強い寺には寄人や行人が集まってきます。また武力装置として僧兵も養うようになっていきます。

   弥谷寺の「中世の構成員」も見ておきましょう。
  鎌倉時代の初めに讃岐に流刑となった道範から弥谷寺の中世の様子が見えてきます。道範は高野山で高位にあった僧侶なので、善通寺が彼を招き入れます。道範は、善通寺で庵を結んで8年ほど留まり、案外自由に各地を巡っています。それが『南海流浪記』に記されています。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物でもありました。彼は、讃岐にも阿弥陀信仰を伝えた人物でもあるようです。道範が「弥谷上人」からの求めで著した『行法肝葉抄』(宝治2年(1248)の下巻奥書に、次のような記述があります。
宝治二年二月二十一日於善通寺大師御誕生所之草 庵抄記之。是依弥谷ノ上人之勧進。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。
書籍不随身之問不能委細者也。若及後哲ノ披覧可再治之。
是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
                阿開梨道範記之
意訳変換しておくと
宝治二(1248)年2月21日、善通寺の弘法大師御誕生所の庵で書き終える。この書は弥谷ノ上人の勧進でできたものである。(弥谷上人からの)依頼を受けて、すぐさまに書き上げたもので、流刑の身で手元に参考書籍などがないために、細部については落ち度があるかもしれない。もし後日に誤りが見つかれば修正したい。是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
                阿開梨道範記之
 ここで研究者が注目するのは「弥谷の上人の勧進によってこの書が著された」と記されている箇所です。普通は、上人とは高僧に対する尊称です。しかし、ここでは、末端の堂社で生活する「寄人」や「行人」たちを「弥谷ノ上人」と記していると研究者は指摘します。また「弥谷寺」ではなく「弥谷」であることにも注意を促します。ここからは、行人とも聖とも呼ばれる「弥谷ノ上人」が拠点とする弥谷は、この時点では行場が中心で、善通寺のような組織形態を整えた「寺」ではなかったと研究者は考えています。また、この時点では、弥谷寺と善通寺は本末関係もありません。善通寺と曼荼羅寺のような一体性もありません。弥谷(寺)は、善通寺の「別所」であり、行場でした。そこに阿弥陀=浄土信仰の「寄人」や「行人」たちがいたのです。
行人層は、寺領によって日々の糧を保障されている上部僧の大衆・衆徒とは違って、自分の生活は自分で賄わなければなりません。
そのため托鉢行を余儀なくされたでしょう。その結果、地域の人々との交流も増え、行基や空也のように、橋を架け、水を引くなどの土木・治水活動にも尽力します。さらに治病にも貢献し、死者の供養にも積極的に関わっていったようです。そうした活動の中で、庶民に中に入り込み、わかりやすい言葉で口称念仏を広めていきます。高野山が時衆念仏で阿弥陀信仰に染まった時期には、高野聖たちによって弥谷寺や白峯寺も阿弥陀信仰の布教拠点となります。それは、現在でも白峰寺境内に阿弥陀堂があることからもうかがえます。

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白峯寺阿弥陀堂
 このように地方の有力寺院の場合、学侶(学問僧)・行人・聖などで構成されていたようです。まず学侶(学頭)については、寺院の僧侶身分の中で最も上位に立つ存在で、中心的な位置を占めていました。学業に専念する狭義の学頭がいたようです。しかし、白峰寺や根来寺では、学問僧の影は薄いようです。
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白峯寺薬師堂
白峯寺で多くを占めたとみられるのは「衆徒」です。
『白峯寺縁起』に「衆徒中に信澄阿閣梨といふもの」が登場します。また元禄8年(1695)の「白峯寺末寺荒地書上」には、中世まで活動していたと考えられる「白峯寺山中衆徒十一ケ寺」が書き上げられています。この他、天正14年(1586)の仙石秀久寄進状の宛所は「しろみね衆徒中」となっています。一般には武装する衆徒も多かったようです。当時の情勢からして、白峯寺が僧兵的な集団を抱え込んでいた可能性は充分にあることは以前にもお話ししました。

白峯寺縁起 巻末
白峯寺縁起 巻末部分

13世紀半ばの「白峯寺勤行次第」には、次のようなことが書かれています。
①浄土教の京都二尊院の湛空上人の名が出てくること
②勤行次第の筆者である薩摩房重親は、吉野(蔵王権現)系の修験者であること
③勤行次第は、修験者の重親が白峯寺の洞林院代(住持)に充てたものであること
 ここからは、次のような事が分かります。
①子院の多くが高野聖などの念仏聖の活動の拠点となっていたこと
②熊野行者の流れをくむ修験者たちが子院の主となっていたこと
③修行に集まってくる廻国修行者を統括する中核寺院が洞林院であったこと
 鎌倉時代後期以降の白峯寺には、真言、天台をはじめ浄土教系や高野系や熊野系、さらには六十六部などの様々の修行者が織り混じって集住していたと坂出市史は記します。その規模は、弥谷寺などと並んで讃岐国内で最大の宗教拠点でもあったようです。
 それぞれの子院では、衆徒に対して奉仕的な行を行う行人らが共同生活をしていたと研究者は考えています。
白峯寺における行人の実態は、よくわかりません。おそらく山伏として活動し、下僧集団を形成したと研究者は考えています。たとえば若狭国の有力寺院である中世の明通寺では、寺僧は「顕・密・修験」を兼ねていました。白峯寺における衆徒の中にも修験に通じ、山岳修行を行っていた人々もいたはずで、集団としての区分も曖味であったかもしれません。彼らにとっては、真言・天台の別はあまり関係なかったかもしれません。

白峯寺 境内建物変遷表2
白峰寺境内実測図
上の白峰寺の実測図を見ても、数多くの子院跡があったことがうかがえます。
学侶の代表として、一山全体を統括したのが「院主」です。
先ほど見た高野山の高僧・道範は、讃岐での8年間の滞在記録を「南海流浪記」として残しています。この日記の中で白峰寺が登場する部分は、建長元年(1249)8月に道範が流罪を許されて高野山へ還る途上のことです。そこには、善通寺から白峯寺へ移り、白峯寺院主の静円(備後阿閣梨・護念房)の求めに応じて伝法しています。その後、本堂修理供養の曼茶羅供で大阿闊梨を勤めたことが記されています。
 ここからは次のようなことが分かります。
①静円が院主であったことから、当時の白峯寺が院主を中心に、子院連合で運営されたこと
②院主静円は、高野山の高僧・道範から伝法されているので高野山系の真言僧侶であったこと。
また室町期の応永21年(1414)に後小松上皇が廟所・頓證寺の額を収めていますが、その添書は「院主御坊」宛になています。ここからも中世の白峯寺は、院主を中心とした体制であったことが裏付けられます。比較のために若狭国の明通寺を見てみると、戒薦によって一和尚から五和尚までの位階があり、一和尚が院主に補任されることとなっています。暦応5年(1342)の白峯寺の記録にも「一和尚法印大和尚位頼弁」と見えます。ここからは、戒蕩によって院主が補任されていたことが裏付けられます。
 中央の顕密寺院では三綱や政所などの運営組織がつくられ、寺務を担っていました。しかし、中世の白峯寺の場合は、そうした組織は史料には出てこないようです。若狭国の明通寺の場合などは、年行事が寺僧から選ばれ、一年交代で一山の寺務を行ったのではないかと研究者は考えています。このような運営が白峯寺でも行われていたことが推察できます。なお、江戸時代末期の納経帳には「白峯寺政所」の記述がありますが、これが中世までさかのぼるとは研究者は考えていないようです。

白峯寺古図拡大1
白峯山古図(部分)

聖については「白峯山古図」に、阿弥陀堂や別所が見えているので、聖集団が存在したようです。
発掘調査でも、現在の境内からはやや離れた山の中に別所があったことが分かっています。ここからも白峯寺の周縁部に聖集団がいたことが裏付けられます。

白峯寺 別所
白峰山古図に描かれた別所 
白峯寺には中世の連歌作品が「崇徳院法楽連歌」として残されています。
期間は天文17年(1548)から天正4年(1576)までの約30年間のものです。これについて研究者は、この連歌会は、白峯寺僧らによって運営されていたと指摘しています。この連歌会によく登場する「良宥、宥興、宗盛、宗意、宗繁、増盛、宗伝、宗源、惣代、増鍵、勢均」です。また永禄(1558~70)ころ以降に登場する者には「恰白、宗任、増厳、宗快、増徳、増政、宋有」らがいます。名前を見ると「宥」「宗」「増」などの字が多いことに気がつきます。「これらは多分白峯寺かもしくは近隣の僧侶や神官たちであったのではないか」と研究者は考えています。その裏付けは以下の通りです。
 戦国期の白峯寺については、「宗」のつく人物として永禄10年(1567)の「岡之坊宗林」が『讃岐国名勝図会』の「大鼓筒」の筒内銘で確認できます。ここには「院主宗政」や「再興洞林院代宝積院阿閣梨宋有」の名もあります。このほか慶長9年(1604)の棟札には、一乗坊宥延・花厳坊増琳・円福寺増快・西光寺宗円・円乗坊宥春・南之坊宗伝・宝林坊増円が名を連ねています。「宥」「宗」「増」を通字とした白峯寺僧がいたことが分かります。ここからは戦国期の「崇徳院法楽連歌」は白峯寺の僧やその周辺にいた有力者人たちによって担われ、彼らに支えられて戦国期の白峯寺は綾北平野の文化活動の拠点となっていたと研究者は考えています。

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白峯寺の「別所」の現在位置
 歌人として著名な西行も「本職」は高野聖でした。
讃岐では白峯御陵を訪ねた後は、善通寺の我拝師山の捨身ケ岳で修行を3年行っています。連歌師として活躍する高野聖が多かったことは、いろいろな史料から分かります。この時代の白峰寺周辺には、連歌会に参加する僧侶が何人もいて、彼らが子院の居住者であったことが推察できます。ここからも中世の白峯寺に多数の子院があったことが事実であったことが裏付けられます。さらに、香西氏の一族が定期的に参加する連歌会が行われていた史料もあります。ここからは、香西氏などの有力者を保護者としていたこともうかがえます。

中世には活発な海上交通などを背景として讃岐でも熊野信仰が定着し、熊野参詣者(檀那)も増えます。
文明16(1484)年の熊野那智大社の檀那売券に「福江之玉泉坊」があります。ここからは福江(坂出市)には熊野参詣へ赴く旦那がいたことが分かります。さらに天文22(1553)年の「中国之檀那帳」には、旦那がいた地域として「賀茂 氏部 山本 林田 松山」の「綾北条五郷」があげられています。このように中世後期には、綾北平野の有力者が熊野参詣を行っていたことが分かります。熊野詣では、個人参拝ではなく先達に率いられて行く集団参拝でした。つまり、それを率いていく先達(熊野行者)が周辺部にいたことになります。
 文明5(1473)年には、紀州熊野那智社の御師光勝房が、相伝してきた讃岐国の旦那権・白峯寺先達権を銭18貫文、年季15年で花蔵院へ売り渡している記録があります。ここからは、白峰寺の子院の中には、熊野詣での先達を務める行者がいたことが分かります。熊野行者をはじめ、多くの廻国する聖や行者らが白峯寺を拠点に活動していたことが、ここからも裏付けられます。
 このように中世の白峯寺は、古代に引き続いて山岳仏教系の寺院として展開していたようです。さらに近世になっても行者堂が再建立されています。白峯寺は山岳信仰の拠点として長らく維持されたといえます。
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白峯寺行者堂
 白峰寺の「恒例八講人数帳」及び「恒例如法経結番帳」には、戦国期の白峯寺には次のような21の坊があったと記します。

持善坊・成就坊・成実坊・法花坊。新坊・北之坊(喜多坊)・円乗坊・西之坊・宝蔵寺・一輪坊・花厳坊・洞林院・岡之坊・宝積院・普門坊・一乗坊・明実坊・宝光坊・実語坊・千花坊・谷之坊

これらの子院は、どのように形成されたのでしょうか。
研究は、『白峯寺縁起』(応永13年(1406)の次の部分に注目します。
「建長四年十一月の比、唐本の法華経一部をくりまいらせさせ給、翌年松山郷を寄られ、御菩提のため十二時不断の法花の法を始をかれ二十一口の供僧勅請として、各二十一通の御手印の補任を下さる、(中略)又六年より法華会を行はる」

意訳変換しておくと
「建長4(1252)年11月頃に、唐本の法華経一部が寄贈され、翌年には松山郷が寄進された。これ以後、御菩提のため不断法花の法が開始され、21人の供僧勅請として、各21通の御手印の補任が下された。(中略)又六年からは法華会が行われるようになった。

ここからは、室町時代中期の白峯寺では建長4年(1252)頃から法華経を講説する法会が行われるようになり、それに伴って21の供僧が置かれたとする認識があったことが分かります。例えば京都鳥羽の安楽寿院の場合を見てみると、天皇の菩提を弔う供僧がそのままその寺院を構成する院家となって、近世まで受け継がれています。天皇の墓を核とした寺院では、こうした寺院組織の形成と継承が行われていたようです。
 また、元禄8年(1695)の「白峯寺末寺荒地書上」にも荒廃する以前の状況として「白峯寺山中衆徒廿一ケ寺」が書き上げられています。そこには、18か寺が荒廃した結果、残っているのは3か寺のみと記されます。棟札などから考えると、江戸時代の白峯寺には洞林院・真蔵院(新坊力)・一乗坊・遍照院(北之坊)・円福寺(円乗坊)・宝積院が存続していて、洞林院がその中心的な位置を占めるようになっていたことが分かります。

以上をまとめておきます。
①古代の五色台は霊場で、各地に行場が点在し、それを結ぶ「中辺路」ルートが形成されていた。
②各行場には行者たちが集まり、次第にお堂が姿を見せ、白峯寺の原型が姿を見せるようになる。
③中世白峰寺は、21の子院の連合体であり、そこには行者や聖たちが拠点とした別所や阿弥陀堂もあった。
④彼らは白峯寺を拠点に周辺の郷村への念仏や浄土阿弥陀信仰を広め、有力者の支持を受けるようになった。
⑤16世紀の連歌会史料からは、地域の有力者を集めて拓かれた連歌会を取り仕切っているのは、白峰寺を拠点とする聖たちで、彼らが地域の文化的な担い手であったことがうかがえる。
⑥戦国時代に荒廃した白峯寺の復興を担ったのも、地域の有力者の支持を得ていた聖たちで、彼らは勧進僧としての役割をいかんなく発揮している。
⑦そのような子院の中で、台頭してくるのが洞林院である。
洞林院については次回に見ることにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」です
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白峯寺 白峯寺古図(地名入り)
白峰寺古図 中世の白峰寺周辺 江戸時代になって描かれたもの 
「どこの霊場かわかるな?」
と聞かれて、この図絵を初めて見せられ時に、私は戸惑いました。ヒントをあげるわ、讃岐の霊場や」と云われて、ますます分からなくなりました。
まず、青い水面が海とすれば、直立した岩壁の上に伽藍があります。そして、その伽藍から瀧が直接に海に落ち込んでいるようにもみえます。さらに、丸い聖なる甘南備山の下にいくつもの建築物が並び、山上には2つの塔も見えます。海と岩壁と山上の伽藍と云えば屋島寺かな、とも思いましたが、山上のドーム型の山の姿が屋島ではありません。
 瀧があるので・・・これが稚児の瀧なら・・??白峰寺・・?
「よう分かったな。これが中世の白峰寺の姿や
しかし、すんなりと受けいれることができませんでした。私の中にある白峰の姿とは、遠く離れているからです。ひとつひとつ疑問を挙げていきながら、師匠に教わったことを記していきます。
Q1稚児の瀧の下にあるのが青海神社とすれば、青海の部落はこの時代には海の中にあったということになり不自然でしょう?
A1昔の絵図に、デフォルメはつきもの。手前の半島の先端が高屋の雌・雄山でその向こうが松山の津と見てみ。湾が深くまで入り込んでいるのが「青海」や。これが近世に開拓されて青海村が生まれる。
Q2 そしたら、手前の青い帯は綾川ですか。白峰の下の谷にも塔が見えますが、こんな所にお寺があったんですか?
A2 これは神谷神社や。神も仏も一緒やった時代には、神社に神宮寺がくついて、その塔があっても別に変ではないからな。それと、白峰寺の中の一部のように描かれているので、神谷神社は中世には白峰寺と強い関係があったとは考えられるわな。
Q3 山上に建物がたくさん見えます。三重塔も左右にふたつありますが、こんなに多くの建物が中世にはあったんですか?
A3 あったと主張するために描かれたのかもしれんわなあ。しかし、考古学的な調査からも白峰寺にはいくつもの院坊があったことがわかる。
      
 
白峯寺境内建物分布図
  白峰寺境内測量図 多くの子院跡があったことが分かる          

見放された私は、絵図をもう一度見ながら山上の部分にズームインしてみます。

白峯寺古図 本堂への参道周辺
        白峰寺古図(山上拡大図)

右下の中門を入るとここに白峰寺の金堂があります。境内の中に白い十三重の石塔が二つ並んで建っているようです。これが重文の東西2つの十三重塔でしょうか。その背後には、建物が何棟も見えます。この付近にも子院があったようです。さらに進むと谷川が流れています。これが稚児川です。この川はここからすぐ下で滝となって断崖を落ちていきます。それが稚児の滝で、周辺は昔から修験者の行場でした。その周辺に修験者がたちがお堂を開き、いくつもの寺院へと成長したことがうかがえます。

 稚児川にかかるアーチ状の木橋を渡ると左手に「御本社」と記された寺院があります。これが崇徳上皇陵(白峯陵・保元の乱で配流)を守るための廟堂として中世に建立された頓証寺のようです。こう見ると橋の位置は現在とは違っています。参道を真っ直ぐに登っていくと本堂です。そして、その左奥に三重塔。右手には三王七社が祀られています。まさに神仏混淆のお山です。そして、背後の白峰山には権現が祀られています。ここでは、この山が崇徳上皇慰霊の聖地であると同時に、修験道の聖地であったことを押さえておきます。白峰大権現のことを少し見ておきます。

相模坊
「相模坊(さがんぼう:白峰大権現)」 

白峰山には
「相模坊(さがんぼう)」という天狗が住んでいるという伝承があります。
上田秋成は、この天狗を崇徳院に仕えるものとして雨月物語に登場させています。崇徳院の霊を慰め鎮守するため讃岐の地へやって来て“白峯相模坊”となったというのです。

白峯寺 雨月物語
 雨月物語の中の白峯相模坊

日本の各地には色々な天狗伝承が伝わっていますが、その中でも白峯相模坊は有名で、
相模大山の伯耆坊(神奈川)
飯縄山飯綱の三郎(長野)
比良山次郎坊(滋賀)
愛宕山太郎坊(京都)
鞍馬山僧正坊(京都)
大峰山前鬼坊(奈良)
英彦山豊前坊(福岡)
とともに、日本八大天狗の一に数えられていました。天狗=修験者ですから、この地が修験者たち聖地で、数多くの山伏が周辺の辺路ルートで修行を行っていたのでしょう。

白峰大権現
白峰寺頓証寺の白峰大権現のお札
 
 いまは山の神は相模坊という天狗だといって、相模坊天狗をまつっています。
これが奥の院でしょう。相模坊という天狗は、山の神様でもあります。それと恨みを抱いて魔縁になった崇徳上皇とが、いつしか一つになったようです。謡曲でも相模坊と崇徳上皇を別にしたり一緒にしたりしています。山伏達はこんな「創作物語」が大好きです。天狗の話になると、脇道に話がそれてしまいます。もとの道に戻りましょう。

白峯寺古図 本堂と三重塔
                白峰寺古図(拡大図) 白峰大権現と本堂
本堂からは右に路が続いています。これは、かつては根香寺へと続く遍路道でもあったようです。そして、本坊の洞林院は中世には、本堂の東側にあったことが分かります。

中世の白峰寺がなぜ、これほどの伽藍を形成できたのでしょうか? 
1191年(建久2)に崇徳上皇陵の祟りをおそれて慰霊のために御影堂が建立されます。以後、白峰寺は御影堂(=頓証寺)を新たな信仰の場として、そこに寄せられた近在の所領を経済基盤として、中世的な転換を行っていきます。それを中世から近世の寄進関係を一覧表にすると・・
・建永2年(1207) 法然上人松山巡る 
・治承年間(1177-1180)高倉天皇 青梅・河内村を寺領として寄進
・寿永3年(1184) 後白河法皇 青梅・河内の庄を寄進
・元歴2年(1185) 源頼朝 備中妹尾郷を寄進
・文治2年(1186) 後鳥羽院 丹波国粟村庄、豊前福岡庄を寄進、
         源頼朝讃岐国北山本庄を寄進
・文地4年(1188)  後鳥羽院 崇徳院25回忌を奉修 
                       頼朝:備前福岡庄を寄進
・建久2年(1191)  後白河法皇 頓証寺の建立
・寛喜3年(1231)  土御門院 法華経を奉納
・建長4年(1252)  後嵯峨院 法華経を奉納 松山郷を寄進
・建長6年(1254)  後嵯峨院 西山本新庄(阿野郡山本郷)、津郷、寄進 
・康元元年(1265) 後嵯峨院 北山本新庄(阿野郡山本郷)を寄進
・文永4年(1267)  頓証寺灯篭を建立
・應永21年(1414)  後小松帝 御真筆「頓証寺」の扁額を勅納
・長禄3年(1459)  後花園院 崇徳院御領神役を定める
・天正15年(1587)  生駒雅楽頭近規 白峯寺へ寺領50石寄進
・慶長4年(1599)  生駒近規 本堂再建
・寛永8年(1631)  生駒高俊 白峯寺の真宝目録を作成
・寛永12年(1643)  松平頼重 頓証寺殿を復興
・万治4年(1661)  松平頼重 阿弥陀堂に供養料
・寛文3年(1663)  崇徳天皇500回忌 
・延宝8年(1680)  松平頼重 頓証寺殿、勅額門の再建、
・元禄2年(1689)  松平頼重 石灯籠2基を頓証寺殿に奉献
・宝暦13年(1763)  崇徳天皇600回忌
・安永8年(1779)  松平頼真 白峯寺行者堂を再建
・文化8年(1811)  松平頼儀 大師堂を再建
・文久3年(1863)  崇徳天皇700回忌 
・慶應2年(1865)  松平頼聰 石灯篭2基御廟前に奉献
また、土地関係の寄進は次のようになります
1177年 高倉天皇、西山本郷、福江、御供所を寄進 
1190  源頼朝 稲税を収める
      土御門天皇勅額書と以降毎年下向使の儀
1244  後嵯峨天皇、荘園(西庄)寄進
天正年間  生駒正親 四石五斗年を西庄村と摩尼珠院に寄進。
  京から神官、僧侶を招請し学問、文学、芸能、医薬を施行
初代高松藩主の松平頼重「当山は、旧地といい、かつ、天皇御鎮座所なれば敬い住職たるべし」として京都から中興寺宥詮阿闍梨を召く。
1642  松平頼重、摩尼珠院へ四石五斗寄進
1701  松平頼常、摩尼珠院へ四石五斗寄進
1865  孝明天皇、御撫物を供え
 菅原道真と同じように、崇徳上皇は、早いうちから怨霊と化したことが京都の貴族たちの間で信じられていました。西行の来讃もその霊を鎮めることが目的の一つと言われます。このため御影堂=頓証寺の建設と整備は、京都の貴族たちの肝入りで行われます。その結果、京都の影響を受けてた石造物や舞台道具が白峰寺周辺には残っています。このお寺の伽藍や寄進物には「都貴族による崇徳慰霊」という成立事情が反映されているようです。

  
白峯寺 四国遍礼霊場記2

元禄2年(1689)四国遍礼霊場記の白峰寺
この絵図は、四国遍礼霊場記に描かれた白峯寺です。高松松平藩の保護下に、山内には多くの脇坊があり、諸堂が立ち並び、近世はじめの伽藍と変わりないように見えます。しかし、二つの三重塔は見当たりません。そして「塔跡」と記されています。近世初頭にあった三重塔はこの時にはなくなっていたようです。崇徳上皇をまつる「頓証寺」は周りに玉垣(?)がめぐらされて神社化しているようです。
 幕末にはどうなるのでしょうか? 四国遍礼名所図会(1800年)から見ていくことにします

白峯寺絵図 四国遍礼名所図会
白峰寺(四国遍礼名所図会 1800年)
この図会から読み取れることを、あげておくと
①稚児川に架かっている橋は、洞林院(本坊)の西側に移されている
②本堂への参拝ルートは 「洞林院 → 頓証寺 → 本堂」となっている。
③現在は本堂の東側にある太師堂は姿がない。 

幕末の弘化4年(1847)に出された金毘羅参詣名所圖會には、次の三枚の白峰寺関係の絵図が載せられています。
 
siramine16 金毘羅参詣名所圖會1(白峯山大門)
絵図④ 白峯山大門(金毘羅参詣名所圖會)
1枚目には、白峰寺の大門に至る2つの遍路道が記されています。
①左側 高屋村の天王社(高屋神社)
②右側 神谷村の神谷神社から大門に至る遍路道が描かれてます。
 今は②のルートは忘れ去られていますが、このルートがあったことを押さえておきます。

白峯寺 金毘羅参詣名所図会(1847)3
本坊洞林院
2枚目です。先ほどの白峰寺古図では、本堂の東側にあった洞林院が、現在地に降りてきて本坊となっている姿が描かれます。洞林院が中世末から近世初頭に、山上での主導権を握り「本坊」と呼ばれるようになったことがわかります。
siramine18 金毘羅参詣名所圖會3(白峯本堂・崇徳天皇御廟)
          図⑥ 白峯本堂・崇徳天皇御廟 
そして3枚目です。左下に崇徳上皇陵領が描かれ、その下に「上皇本社(頓証寺)」が神社として鎮座しています。参道は、上に向かって真っ直ぐと伸びていて、白峰寺の本堂が迎えてくれます。その東側に並ぶのは大子堂のようです。霊場としての伽藍整備も整っているようですが、近世初頭に見えた多くの伽藍や塔の姿はありません。その姿は大きく変わっています。元禄8年(1695)「末寺荒地書上」には、白峯衆徒21ヶ寺で、内18ヶ寺は退転し、寺地は山畠となると記されています。この間に白峰寺では、大きな変動があったようです。

白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)

白峰寺(讃岐國名勝図会)
  そしてこれが「讃岐國名勝図会」に描かれた明治維新直前の白峰寺の姿です。
最初に見た江戸初期の絵図と見比べてみると、印象が大きく違います。現在の姿に近いのです。それは山上の本堂から東に、お堂や塔が伸びていたのがなくなり、根香寺へつながる遍路道も消えています。本堂に御参りすると再び同じ参道を帰って来ないと根香寺には行けなくなっています。
 改めて江戸時代初期の伽藍配置と参道を見てみましょう。
siramine16_11

ピンクのルートが江戸初期の遍路道です。一番左の本堂前からスタートします。このルート沿いには、金堂の洞林寺を始め、多くの坊や諸堂が立ち並んでいたことが分かります。しかし、今は自然に帰りその跡も分からない所が増えました。このピンクの道は、行場であった奥の院を抜けて、根香寺につながっていました。それが、幕末には現在の緑ルートになっていたようです。

siramine44 白峯山境内実測図
白峰寺に明治の神仏分離の風は、どのように吹いたのでしょうか。
讃岐の寺院の中でもっとも「影響=被害」を受けたのは、白峰寺だと云われます。
白峯寺の境内の頓証寺は、後白河法皇が崇徳上皇の霊を祀るため平安末期に建立したものです。これは神仏混淆の下では白峯寺の僧侶たちによって管理されてきました。そして、古くから皇室や武家が崇徳上皇の霊を慰めるため夥しい数の什器・宝物類が、ここに寄進されてきたことは先述した通りです。永徳2年(1382)火災によって、大半は焼亡しましたが、それでもなお多くの宝物が幕末には残っていました。それらの寺宝が、その神仏分離の嵐の中で、どのようになって行くのかを次回は見ていきたいと思います。
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