汐木山の麓の汐木湊の今昔

詫間湾の南に、かつては甘南備山として美しいおむすび型の姿を見せていた汐木山。
今は採石のために、その「美貌」も昔のことになってしまいました。
そのふもとをあてもなく原チャリツーリングしていると・・・
河辺に大きな燈籠が見えてきました。

燈籠大好き人間としては、燈籠に吸い付けられる俄のようなもの・・・
自然と近づいていきます。

汐木荒魂神社の東方の馬場先に、建っているのですが場違いに大きい。約六メートル近くはありそうです。

燈籠正面には[太平社]と刻まれています。
側面には「慶応元年乙丑六月立」、
「発願 三木久太郎光萬 福丘津右衛門秀文 世話人竹屋文吉 土佐屋武八郎
藤屋百太郎 汐木浜中」とあります。
刻まれた「汐木浜中」という文字が気になります。
少し「周辺調査」をすると

こんな記念碑を見つけました。
説明板にはこう書かれてありました。
旧跡汐木港
昔この辺り、汐木山のふもと三野津湾は百石船が出入りした大干潟であった。
寛文年間(1660)頃、丸亀藩京極藩によって潮止堤が築かれ、汐木水門の外に新しく港を造った。これが汐木港である。当時藩は、御番所、運上所、浜藏(藩の米藏)を建て船の出入り多く、三野郡の物資の集積地となり北前船も寄港した。
明治からは肥料・飼料・石材を揚げ、米麦・砂糖等を積みだし、銀行商店が軒を並べたが1937年の「的場回転橋」が固定で港の歴史は終わった。ちなみに、荒魂神社の常夜灯大平社は、かつての港の灯台であった。

先ほどの大きな燈籠は、やはりただものではなかったのです。
汐木港の灯台の役割ももっていたのです。なお、この高灯寵の位置は、現在よりも北方にあったそうです。いま燈籠があるところから北が、かつての汐木湊だったのです。今では、想像できないのですが、その頃の汐木は湊としての機能を備えていました。

詫間の的場からさらに南まで船が遡り、現在の汐永水門のあたりに湊が築かれ、その岸壁には高灯龍、御番所(汐木番)、浜蔵(藩御用米の収納)などが建てられていました。汐木港には、吉津や比地・高瀬などから年貢米や砂糖などの物資が集まり、丸亀やその他に船で運ばれていきました。

背後の汐木山に鎮座する汐木荒魂神社の狛犬には「天保丸亀大阪屋久蔵」などの屋号がついた十二名の丸亀の商人の名前が刻まれています。北前前などの廻船が、粟島や積浦の湊だけでなく、この汐木湊からも北海道までも産物を積み出していました。そして、北海道産の昆布や鯡などの北のの産物を積んで帰ったのです。

汐木荒魂神社
港の背後には旧村社が鎮座しています。
戦前に旧吉津村は、青年団を中心とした運動によって汐木(塩木)荒魂神社を「讃岐十景」に当選させています。その記念碑が誇らしく建っています。「讃岐十景」を見に登ってみましょう。
汐木荒魂神社
長い階段が待っていました。
見上げて一呼吸いきます。

安政2年のお百度石と、陶器製の狛犬が迎えてくれました。
ここから汐木港を見守ってきたのでしょう。
昭和初期の新聞には、この港が次のように紹介されています。
汐木の繁栄を高らかに伝える新聞記事 (香川新報)
西讃詫間の奥深く入りし高瀬川の清流注ぐ河口に古来より著名の一良港あり汐木港と云ふ。
吉津村にありて往時は三野郡一圃の玄関口として殿賑なる商港であったが海陸の設備に遠ざかりしか一時衰退せしも近時は米穀,飼料及び夙等の集散港として讃岐汐木港の名声は阪神方面に高く観音寺港を凌駕せんす勢いを示して居る。

時の流れに、港は取り残されていきます。
「近代」という時代の流れがこの港を呑み込んでいきます。
河口港である汐木港は水深も浅く、大きな船の入港はできません。
そして、1903年には、港の前面に塩田が築造され、幅30メートルほどの運河によって三野津湾とつながった状態になります。さらに日露戦争直前には,善通寺の陸軍第11師団により善通寺と乗船地の 1つである須田港を結ぶ道路が建設・整備され,その運河に「回転橋」が架けられました。その上に 1913年には予讃線の多度津・観音寺間が開業します。運河に架けられた橋を、料金を払って通過する必要のある汐木港は不利です。そのため省営バス路線開通に伴う的場回転橋の固定化にも目立った反対はなかったようです。

現在,汐木集落は塩田跡地のゴルフ場や住宅地によって三野津湾から遠く隔てられています。かつて荷揚場や倉庫があった付近には新しい住宅が立ち並び,港町であった当時を偲ばせるものはほとんどありません。



