瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:津之郷盆地

丸亀平野の古代史を考える上で、避けて通ることの出来ない遺跡がいくつかあります。その中のひとつが下川津遺跡(坂出市)です。この遺跡は坂出インターチェンジ建設のために発掘されたので、その調査エリアが広大で、ひとつの集落がまるごと出てきました。それも弥生時代から室町時代までの集落変遷がわかるものです。こんな例は善通寺王国の旧練兵場遺跡群以外には讃岐では例がありません。ここから明らかになったデータを元にして、さまざまな指標が作成され讃岐の古代が語らえています。まずは古代の川津郷をとりまく状況を報告書で見ていくことにします。テキストは 大久保 下川津遺跡周辺の遺跡分布 瀬戸大橋建設に伴う埋蔵文化財調査既報告 下川津遺跡」です


古代川津郷は、鵜足郡北端の大束川下流地域にありました。

川津・二村郷地図
大束川河口の川津郷
川津は大束川河口部で瀬戸内海に通ずる津でした。古代は「丸亀扇状地」を、土器川がいくつもの首を持つ龍のようにのたうって流れていました。そのため弥生時代の集落は不安定な状態におかれていて、洪水によって流されることもたびたびあったことが発掘調査から分かっています。
 鵜足郡北端部の川津郷は東西約3km,南北約3kmの範囲を自然の境界によって区画され、「地理的な一小単位」を構成します。交通路から見ると、大束川河口部を経て広く内海沿岸諸地方に連なり,東の谷筋を抜けて後の国府ができる阿野郡中枢部府中にも通じます。さらに古代には、大束川には川船が行き来して水運機能もありました。つまり、川津は「瀬戸内海海運+大束川水運+主要陸上路」の交点として、交易上の要地であったことになります。そして、近世後半段階になると旧東西川津村域は200町歩以上の穀倉地帯がひろがる地帯となります。

  弥生時代以降の地域史を考えるためには、現在の現景観に至る耕地拡大の歴史を知ることが大切だと言われます。いわば「復元地形」をイメージすることです。そのために川津エリアの水利条件と潅漑設備の整備の歴史から見ていくことにします。

下川津遺跡周辺では、現在は次の3つの水系から取水しています。
下川津遺跡水路図2
下川津遺跡周辺の用水路網
A 大束川中流
B 綾歌郡飯山町で取水する坂元用水
C 西又用水と丸亀市飯野町で土器川中流から取水する飯野幹線用水
ここでは域外からの広域用水路への依存が高いことを押さえておきます。
どうして域外からの取水に大きく頼るのでしょうか? それは大束川が用水源になり得ていないことにあるようです。
大束川 川津遺跡周辺
大束川と周辺遺跡の高低関係 大束川の水位が低く直接には取水できない

その要因は、大束川の河床が低過ぎて取水・揚水ができなかったためと研究者は考えています。そのため古代の川津は、周辺丘陵部からの落ち水や小河川に用水を頼らざるを得なかったのです。そうなると、大束川東岸南部の城山川流域の谷筋はまだしも、その程度の小川すらない東岸北部の下川津遺跡周辺や、西岸の飯野山山麓地域は水利面で非常に不利なエリアだったことになります。

下川津遺跡 条里制
下川津遺跡周辺の条里制分布図

上の条里制分布図を見てみると、川津は丸亀平野の条里地割分布域の東端に当たります。しかし、東の大束川との間を含めて、周辺の方格線はやや乱れて、空白になっているところが多いようです。これは古代において開発が遅れたエリアであったことになります。都市化した集落が出現しているのに、周辺の土地開発は遅れていたことになります。これをどう考えればいいのでしょうか?
 それは置いておくことにして先に進みます。周辺を見ると、次のような3つのエリアに分類できます。
A 城山川流域は東西坪界線がはっきりとしていること。これは城山川を取水源として大束川に排水する水利系が早くから作られたため
B 下川津遺跡周辺は条里地割がもっとも未発達。城山川流域から引水する南北線が僅かにみえるだけ。
C 大束川西岸の飯野山山麓地域では東西線の方が明確で、大束川は排水路の役割のみ。
こうしてみると大束川に頼らない灌漑網の整備が進められてきたことがうかがえます。。これは金倉川と同じ性格です。
 同時に城山川流域、下川津周辺地域,飯野山山麓地域の3つのエリアでは、それぞれ条里地割の分布パターンにちがいがあります。これは古代の水利条件の違いを反映していると研究者は考えています。さらに推論するとこのエリアがもともとは、三つの勢力によって開発されたことを示すものかもしれません。 ここでは下川津遺跡の位置は灌漑面では不利で、その中では城山川流域がもっとも容易に開発を進められる条件を備えていたことを押さえておきます。
次に各時代の下川津遺跡周辺の遺跡分布を見ていくことにします。
弥生時代中期中葉から後期までの丸亀平野の初期農耕集落は、短期間で移動を繰り返していました。

丸亀平野の環濠集落
中ノ池遺跡(丸亀市)の二重環濠集落 坂出市史より

中ノ池遺跡のように環濠をもつ集落に成長して行く所もありますが、突然のように中期前半になると姿を消します。そして、中期後半~後期初頭には、丘陵上に生活拠点を移します。

度重なる大きな洪水に襲われそこから再生して集落
古代における洪水の脅威
これは気候変動による洪水のためとする研究者もいますがよく分かりません。どちらにしても平地部の遺跡がなくなるのです。そのような中で生き残るのが善通寺王国の旧練兵場遺跡です。ここでは弥生時代前期に下川津に定着した人々は、後期になると姿を消すということを押さえておきます。 

丸亀平野 扇状地から平野へ

次に下川津遺跡周辺の古墳群の展開と消長を見ていくことにします。

古墳時代前期の下川津遺跡周辺には、次の4つの初期前方後円墳が造られます。

坂出の古墳 聖通寺・ハカリゴーロ
①聖通寺山山頂には墳形不詳の積石填,聖通寺山古墳がある。
②その南に続く尾根鞍部には、この地域最大の全長79mの前方後円墳で埴輪を持つ田尾茶臼山古墳
③下川津遺跡の東に川津(連尺)茶臼山古墳
④青の山南麓に、筒形銅器と鋼鉄を出土した吉岡神社古墳。
古墳編年 西讃
大束川河口の前方後円墳の系譜 聖通寺山 → 吉岡神社 → 川津茶臼山 →田尾茶臼山古墳
③の川津茶臼山古墳と④吉岡神社古墳は副葬品から前Ⅰ期以降のもの、②の田尾茶臼山古墳は埴輪から前期Ⅲ期以降のもの研究者は考えています。そして、①~④の4つの前方後円墳を「恐らく単一の首長墓系列」と判断します。津之郷盆地の首長が海に突き出した半島だった角山から聖通寺山の尾根の上に備讃瀬戸南航路を意識して、同一の首長系譜が連続して造ったものと考えられます。これらの①~③の初期前方後円墳の首長を支える母胎集落が、下川津遺跡であったことが想像できます。ちなみに④の吉岡神社古墳が姿を見せるのと、下川津遺跡が2度目の消滅が重なりあうようです。これをどう考えればいいのでしょうか? 課題ばかりが増えていきます。
讃岐の古墳時代前期の情勢

 ここまで4つの前方後円墳を築き、小さいながらもヤマト連合政権の一員であった下川津(津之郷)勢力には続く後継墳が見当たりません。後期段階で首長墓とできるのは6世紀後葉の青の山南麓の大形横穴式石室を持つ竜塚古墳だけです。そして、その期間は下川津遺跡は消えたままです。

坂出古代海岸線
7世紀頃の坂出周辺の海岸線復元図 聖通寺山は半島で、下川津まで海が湾入

古代坂出海岸線復元図
坂出・川津の古代海岸線復元図 津之郷盆地に海が湾入していた

もっと広い視野で丸亀平野一円を見ておくことにしましょう。

丸亀平野古墳分布図
丸亀平野の古墳分布図
丸亀平野では、小さな範囲内で継続的に首長墓系列を造り続けたエリアがいくつかあります。
A 大束川上流地域
 ①綾歌町石塚山古墳群 ②快天山古墳 ③陣の丸古墳群
B 綾川下流域
 ④爺が松・ハカリゴーロ両古墳 ⑤綾北平野の雌山古墳群 ⑥タイバイ山古墳や白砂古墳群
C 弘田川下流域では
 ⑦多度津白方のミタライ山古墳 ⑧黒藤山古墳群
D 弘田川上流、金倉川中流
 ⑧善通寺地域 ⑨吉原地域
E 土器川上流
 ⑩まんのう町長尾地域でも規模は小さいが前方後円墳を含む1単位の系列と考えられる古墳群

こうして見ると丸亀平野では、小地域単位で前方後円墳を主体とする首長墓系列が水系毎にあったことが見えてきます。これを研究者は次のように記します。

小地域集団の首長たちは最小クラス規模の勢力でありながら、前方後円墳を築きうる立場を畿内中枢の諸首長との関係において保持していた

 下川津の属する津之郷盆も、こうした地域のひとつだったとしておきます。。

古墳編年表4

 そのような中で前期後半以降になるとこれらのグループに「地域間格差」が現れ始めます。
川津(津之郷)エリアでは、先ほど見たように4つの前期後半に続く首長墓系列がはっきりしません。かといって中小規模墳の群集墳も現れません。探すとすれば、副葬品の点から川津向山古墳や青の山墓地公園東古墳になります。すでに壊されたものもあるでしょうが、大規模な群集墳があった形跡はありません。
 それに比べて綾川が大きく屈曲する羽床盆地では津頭西・東古墳、岡の御堂1号墳などの武具・馬具を揃えた首長墓クラスの大形円墳が前期後半以降になっても築造され続けます。同時に規模・石室構造・副葬品などの面で、ランク下の滝の宮万塚古墳群、浦山古墳群などの中小規模墳が密集して造られるようになります。この地域の中小規模墳で時期が推測できる約70基のうち50基近くが前期後半段階のものだと研究者は指摘します。これは後期後半以降の横穴式石室墳よりはるかに多いようです。おなじような状況は大束川上流地域でも見られます。岡田万塚古墳群では小型の前方後円墳を中心にかつては数十の中小規模墳が群集していたようです。
 これらの群集化・密集化と対照的なのが弘田川上流の善通寺地域と、綾川下流の綾北平野です。
善通寺地域では青竜古墳生野カンス塚古墳等の首長墓クラスの大形円墳と共に周辺丘陵裾部に箱式石棺群の群集が濃密です。そして中小規模墳の数は余り多くありませんし,群集墳もありません。これは綾川下流域も同じです。善通寺は後の佐伯氏の拠点、綾北平野は、綾氏の拠点となるところです。ここでは川津(津之郷)地域は、善通寺や綾川河口の綾北平野の状況に似ていることを押さえておきます。
群集横穴式石室墳の広がりと群集墳出現の関係
A 横穴式石室の採用を契機に群集墳が形成される地域
B 横穴式石室以前から群集墳が造られているに地域
羽床地域や大束川上流地域はBで、前代ほどの群集はありません。逆に善通寺域はAで「墳丘を有する」古墳はこの時期に爆発的に増大します。Aの川津・津之郷地域は、この段階で群集墳の形成が始まり、青の山の横穴式石室墳の群集や、飯野山山麓、城山川流域の谷部等に群集墳が現れます。古墳時代後期後半、6世紀後半段階に造られる横穴式石室群集墳の量は,前代の群集墳に比べると多くなっています。しかし、周辺地域に比べて特に強い群集状況ではありません。
 例えば城山川流域の谷部は、土地条件から見て最も開発が容易で、交通路から見ても阿野郡中枢部へ抜けるコース沿いに位置していて、「最適な開発候補地」なはずですが、ここにも古墳はあまり造られません。青の山の後期古墳群にしても群集密集度という点では傑出したものではありません。高松市浄願寺山古墳群などと比べると、その違いははっきりと現れます。ここでは大束川下流域のエリアでは、後期段階の首長墳系列の不明確であることを押さえておきます。ここからは突っ込んで考えると6世紀の下川津・津之郷エリアには、古墳を築く首長たちや群集墳を築く中間層もいなくなっていたということも推測できます。
讃岐須恵器窯の分布
須恵器 讃岐7世紀の窯分布図

讃岐の須恵器窯の分布 7世紀は一郡一窯体制
讃岐では奈良時代までは、各郡単位に次のような須恵器窯があったことは以前にお話ししました。
①阿野郡では綾川上流(現府中ダム)に打越窯
②多度郡では弘田川下流に黒藤窯
③鵜足郡域では岡田廃寺の瓦窯で須恵器を焼成している例
④青の山南麓の青の山1,2号窯が7世紀前半の操業
⑤城山川上流峠奥窯は、7世紀を通じて操業
こうしてみると鵜足郡と阿野郡には、須恵器生産という最先端のハイテク技術を持った渡来系技術者集団が集中していたことにもつながります。
 ハイテク技術と文明化の象徴は、古代寺院建立にも見られます。
讃岐地方は南海道諸国中、古代寺院の数が最も多く32ケ寺を数えます。阿野郡と那珂郡を見ると、
A 阿野郡 国分寺・国分尼寺に綾川流域に開法寺・鴨廃寺・醍醐廃寺
B 鵜足郡 大束川上流の法勲寺廃寺と岡田廃寺
C 那珂郡 丸亀市の田村廃寺・宝憧廃寺,まんのう町の弘安寺廃寺
C 多度郡 善通寺市の仲村廃寺・善通寺
  それぞれ郡域の中枢部分に分布します。ところが津之郷盆地には古代寺院は最後まで姿を見せませんでした。
以上、下川津についてまとめておきます。
①津之郷盆地の川津は、土地条件・交通関係に恵まれ、鵜足郡の中枢として十分機能しうる位置にある
②古墳時代前期にでは、4つの前方後円墳から首長墓系列が復元可能
③しかし前期末以降その系列は途絶え、中小規模墳の展開もあまり見られない。
④古墳時代後期以降は、下川津は相対的な「地盤沈下」傾向が奈良時代まで続く
⑤そのためか津之郷盆地には古代寺院が姿を見せない。建立できる有力氏族の不在が考えられる
⑥にもかかわらず、6世紀末~7世紀代には鵜足郡域の須恵器生産と供給の中心地であった
こうしてみると7世紀には、有力氏族はいないが鵜足郡の経済活動の中心地ではあったということになります。これをどう考えればいいのでしょうか? 

次に断片的に残された文献資料から古代・中世の川津周辺を見ていくことにします。
  正倉院資料中に「讃岐国鵜足郡川津郷戸主内部宮麻呂調施萱匹長六丈虞一尺九寸 天平十八年十月」の墨書があります。これが文字資料として現れる「川津」の初例のようです。調物として縄を川津から貢納していたことが分かります。川津郷は752年(天平勝宝4年)他の19郷と一緒に東大寺封戸に編入されたのです。この時に一緒に勅施入されたのが讃岐では山田郡宮処郷(現高松市前田町周辺),香川郡中間郷(現高松市中間町,御厩町周辺)です。
 封戸制度はm東大寺の荘園ではありません。そのため東大寺が直接的に経営に関わり、川津郷に対して強い影響を行使することはなかったようです。管理経営は、国司や郡司などの在地支配層が間に入りって行いました。しかし、この関係によって古代末まで「川津郷」が東大寺文書に散見することになります。
 その中の天暦四年(950)「東大寺封戸井寺用雑物目録」では、川津郷から封物として調綿40疋7尺,庸米44石5斗5升,租白米41石2斗6升5合,中男抽1斗5升を毎年貢納することになっています。これら頁納物の品目は、讃岐の宮処郷・中間郷と同じです。その中に調縮40疋があります。これが川津エリアの特産物であったようです。

律令国家の動揺の中で、各地の東大寺初期荘園・封戸も解体していきます。
川津郷も御多分に漏れません。康治元年(1142)「東大寺返抄案」で讃岐園百五十戸料として御封米732石4斗4升6合が頁進されます。ここからは12世紀中葉までは、封戸が川津郷にあったことが分かります。しかし弘安三年(1168)寺家御封便補保として三木郡原保,那珂郡金倉保を代わりに立てています。ここからは川津郷を含めた讃岐園封戸三郷からの対物確保が難しくなったために、新たな対応策がとられたことが分かります。
 13世紀中葉には、九条道家初度惣処分状(建長二年1250)の一条実経譲与分の「新御領」中に「春日社領河津庄」が出てきます。これは九条道家が讃岐の知行国主であった頃に、公領川津郷の一部を割いて立荘したようです。ここからは平安時代末から鎌倉時代になると律令制度に基づく収奪や封戸制度としての収奪ができなくなって、立荘や公領の纂奪=荘園化で対応するようになったことが見えてきます。律令的収奪に抵抗する動きや、荘園化によって負担軽減,権利拡大を求める在地の動きがあったのかもしれませんが史料からは分かりません。ここでは13~14世紀になると、公領川津郷と河津「庄」が併立していたことを押さえておきます。
 このときの郷と庄の位置関係を記した史料はないようです。ただ川津町東山に春日神社が鎮座します。ここからは川津郷東南部の城山川流域を中心とする地域が河津庄の故地と研究者は推測します。先ほど見たように。城山川流域が開発が最も進んだ地域だったのです。
 
 鎌倉時代末から室町時代初頭の南北町の騒乱期には、川津庄でも混乱が起きます。
建武四年(1337)から暦応四年(1341)にかけて「川津郷 + 河津庄 + 興福寺領二村荘」で仁木弥次郎が軍勢を率いて盛んに檻妨を働き,これに対して興福寺衆徒,川津郷領家職修理亮資任から濫妨停止の申状が出されています。修理亮資任申状案(「外記日記」紙背文書)には、仁木弥次郎は「預所」と号したとあります。ここからは二村郷の在地支配権を巡る紛争だったことがうかがえます。彼が在地勢力であるのか,本家や領家により任命され外部から派遣された者なのかはよく分かりません。ただ記録を見る限りは4年間も,鵜足郡北部で荘園秩序を脅かす活動を続けています。その背後には荘園領主の支配に抵抗し、それを支える在地の勢力があったことがうかがえます。そのために興福寺等の荘園領主は、幕府に訴えてその解決を求めなければならなかったのでしょう。この一連の騒動の後,宣政門院領川津郷・春日社領河津庄・興福寺領二村荘に関する史料はないようです。つまり、その後の経過は分かりません。

中世になると堆積や気候変動などで海岸線が前進してきます。その結果、川津や津之郷は陸封され、湊としての機能を失うようになります。それに代わって宇多津が新しい湊として台頭してきます。宇多津には室町時代前半には、細川氏が守護所を置きます。こうして守護細川氏の領国支配の政治的拠点として,また物資集散地として讃岐の中で最も活発な交易活動を展開するようになることは以前にお話ししました。
こうして古代には「都市化」していた川津や津之郷は、中世に成ると周辺湿地帯を開拓して農地に変え、農村地帯へと変貌していくことになります。そして宇多津の後背地としての役割を果たすようになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大久保 下川津遺跡周辺の遺跡分布 瀬戸大橋建設に伴う埋蔵文化財調査既報告 下川津遺跡」
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飯野町東二遺跡 赤山川jpg
飯野山西麓を流れる赤山川(場所はさぬき福祉専門学校の下)

  前回は飯野・東二瓦礫遺跡の周辺遺跡巡りをしました。今回は、この遺跡の条里制地割に沿って掘られた用水路(赤山川)について見ていくことにします。

飯野・東二瓦礫遺跡4
              飯野・東二瓦礫遺跡周辺の10㎝等高線図

この地形図からは次のような事が読み取れます。
飯野・東二瓦礫遺跡は。飯野山西麓と土器川の間に挟まれたエリアに立地する
②土器川右岸に氾濫原と自然堤防が広がり、飯野山の西麓との間に狭い凹地が南北にある。
③そこを赤山川が南北方向に流れている。
④凹地は、遺跡周辺で最も狭くなっている。
⑤遺跡の東北方向が津之郷盆地で、赤山川から山崎池の下を通って分水用水が伸びている。
次に遺跡周辺の地質分類図(第3図)を見ておきましょう。
飯野・東二瓦礫遺跡地形分類図

ここからは、次のような事が見えて来ます。
①土器川の氾濫原と飯野山西麓の間に、条里制跡が見られる
②条里制以前の埋没河川痕跡が幾筋も網目状に見える。
③崖面以東の平地部と比較すると、この遺跡周辺は地表面高が約0,5mほど低い凹地となっている。
④この低地部分は、土器川が蛇行した痕跡で、古代末頃の「完新世段丘」により形成された「氾濫原面」である。
⑤崖面上位の平地面を「段丘1面」とする。
⑥段丘1面と氾濫原面の旧河道は不連続である

 1次調査区(昭和63年度調査、香川県埋蔵文化財調査センター1996)の調査報告書には、次のように記します。
A 段丘1面の旧河道は弥生時代~古墳時代のもので、古代には埋没過程にあったこと
B 氾濫原面の旧河道(SR01)は、14世紀頃に新しく掘られたものであること。
ここからも、段丘1面が形成されたのは古代末期であること、そして14世紀に新しい用水路が造られたことが裏付けられます。

飯野町東二遺跡赤山川
            現在の赤山川(さぬき医療専門学校の下)
飯野山の尾根が張り出して崖になっているところが、最も狭くなっているくびれ部分。その南側を真っ直ぐに流れる赤山川

この遺跡の主役である赤山川について、調査報告書は次のように記します。
①延長約3、5kmの土器川の小さな支流の一つ
②氾濫原面の出水が水源で、緩やかに蛇行しながら北に流れ、遺跡の南方で大きく東に屈曲
③その後は、微高地を横断して段丘1面上を北流し、遺跡北方で再び西へ屈曲して、土器川へ合流。
地図を見れば分かるように、赤山川は自然河川としては怪しい不自然な流れをしています。
南で氾濫原面を流れるときには、何度も屈曲していますが、段丘1面上では、条里型地割の方向に沿って直線的です。これは条里制施工の時に、流路が人工的に変えられたことが考えられます。どちらにしても、赤山川は自然の川ではないようです。
 赤山川に合流する小さな支流の水源は、すべてが出水です。土器川伏流水の出水からの水を、人為的に条里型地割に沿って掘られた用水路で水田に供給されていたことになります。つまり、これらの小さなな支流は、人為的に開削された用水路だったと云うのです。それらが赤山川として、凹地の中央を北にながれていたことを押さえておきます。

IMG_6638
               飯野山西麓から土器川に流れ込む赤山川

 もともとの赤山川は、氾濫原面を流れていた旧土器川の網状流路の一つだったようです。
それが段丘面上につくられた用水路に人為的に接続され、現在の流路となったのです。その目的は、赤山川の北方の津之郷盆地(飯野町西分地域の段丘面上の耕地)への農業用水の供給です。それを出水を源とする赤山川の水量で賄うことを目的としたことになります。ここで注意しておきたいのは、直接に土器川から導水はしていないということです。土器川に堰を造って導水する灌漑技術は、当時はありませんでした。
飯野・東二瓦礫遺跡周辺土地条件図
飯野・東二瓦礫遺跡周辺の土地条件図


それでは、赤山川の流路変更は、いつだったのでしょうか?
すぐにイメージするのが、条里制施行に用水路も掘られたという「条里制施工時の用水路説」です。しかし、どうもそうではないようです。発掘調査で明らかとなった古代の溝は、深さが0、5m以下で浅いのです。段丘1面上を流れる旧土器川の支流から直接取水し、用水路として利用していたことが考えられます。一方、中世以降になると、残存深0、7m以上と、一定の深さ深度を有する溝が出てきます。これは、古代末頃の河床面の下刻と重なります。
 また、段丘面上には遺跡南部に条里型地割に沿った埋没河川(第3図流路b)があります。これは段丘面が形成されたことで放棄・埋没した古代基幹水路であった可能性があります。つまり、古代の用水路は流路bということになります。
 このような大型幹線水路は、飯野山東麓の大束川両岸の川津川西遺跡や東坂元秋常遺跡にもあったことは、以前にお話ししました。

飯山町 秋常遺跡灌漑用水1
                飯野山東麓の古代用水路

 その開削時期は8世紀代で、11世紀代には廃絶しています。開削された初期には、段丘面上を流れる旧大束川を水源としていましたが、大束川の河床面が低下することで、大束川からの導水ができなくなります。その対応策として、中世の人達は上流に大窪池を築き、現在の上井用水・西又用水を改修・延長したことは以前にお話ししました。同じように土器川左岸では、大型幹線水路として古子川が開かれます。研究者は、このような大規模な灌漑用水の開削時期を10世紀代以前とします。そして、その整備には「小地域の開発者相互の結託ないし、より上位の権力の介在」が必要であったと指摘します。
 以上をまとめておくと、
①土器川の氾濫原と飯野山に挟まれた飯山町東二にも、古代の条里制施行が行われた。
②その水源は土器川氾濫原の出水を水源地として、条里型地割に沿った埋没河川(第3図流路b)によって供給されていた。
③ところが古代末から中世にかけての地盤変化によって、段丘面が形成されてそれまでの用水路が使えなくなった
④そこで新たなに掘られた用水路が現在の赤谷川である。
⑤赤谷川(用水路)は、本遺跡周辺に分水機能を持ち、津之郷盆地と土器川へ用水を分水した。
⑥それは津之郷盆地への農業用水の供給と共に、洪水防止機能を持っていた

IMG_6643
赤山川の津之郷方面と土器川の分地点

ここでは、古代後期以後の完新世段丘の形成が、それまでの灌漑施設に大幅な改変を強制したこと、
その対応のために広域的な地域的統合や開発領主と呼ばれる新規指導者層の登場を招くことになったことを押さえておきます。それが新たな中世の主役として名主や武士団たちの登場背景となります。そこに東国からの進んだ灌漑・土木技術をもった西遷御家人たちの姿が見えてくるようです。これは、飯山町の法勲寺あたりの灌漑用水整備で以前にお話ししました。
最後に1970年代の「古代讃岐のため池灌漑説」で、津之郷盆地がどのように記されていたかを見ておきましょう。
讃岐のため池整備が古代にまで遡るという説の背景には、古代の条里制施行に伴って、耕地が拡大したと考えられたことがあります。その用水確保のために古代からため池が築造されたというものです。これが空海の満濃池改修などに繋がっていきます。例えば津之郷盆地の溜め池展開について、次のように記します。

津之郷盆地の溜め池展開
 津の郷における稲作発展の第1次は、津の郷池(前池ともいう)の設置から始められた。
大束川の周辺では流水はそのまま横井堰から引かれ、また、ため池程の大きさでなく少し掘れば伏流水が湧出する出水などが作られた。2メートルも掘れば清水の得られる井戸も沢山作られ、かめて水を汲みあげる方式などもとられたであろう。第2次展開は、飯の山山麓にある蓮地と長太夫池であろう。柳池というのも一連のものと考えても不合理ではないが、その大きさと構造から考えて第3次展開とした方がよいかも知れない。
 ため池発展の過程を1次、2次、3次という風に抽象的な言葉で表現したのは、稲作が拡大していく順序をいうもので、現在のそれらのため池が現状の規模や大きさで古代からあったという意味ではない。したがって、そこには当然そのため池の前身らしきものがあったか、あり得なければならないという必然性を指摘するものである。そういう意味である。
 
   この説を現在の考古学者の中で支持する人はいません。しかし、津之郷盆地西部の開発のための灌漑用水路は、赤山川から引かれていたことは今見てきた通りです。それは、上の地図上で示したため池展開のルートと一致します。水源をため池とするか、土器川の氾濫面の出水からの灌漑用水とするかの違いであったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
蔵文化財発掘調査報告

参考文献
「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」
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