瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:津田古墳群


津田古墳群周辺図1
津田古墳群
今回見ていくのは岩崎山4号墳です。この古墳は、前方部を東側の平野側に向けます。北に龍王山古墳、南東にうのべ山古墳、けぼ山古墳、一つ山古墳のある鵜部半島、南西には今は消滅した奥3号墳に囲まれた位置にあります。周辺古墳との関係を押さえておきます。
津田湾 古墳変遷図
津田古墳群変遷表
岩崎4号墳は羽山エリア勢力が最後に造った前方後円墳で、富田茶臼山以前には最も大きいものになるようです。また築造時期は、鶴羽エリアのけぼ古墳と同時代か、少し先行する時期の古墳になるようです。そして、次の時代には富田茶臼山へと一気にジャンプアップしていきます。

津田古墳群変遷3

先行する前方後円墳と、富田茶臼山古墳への橋渡し的な役割が見られるのが岩崎山4号墳や前回見たけぼ山古墳になるようです。今回は岩崎山4号墳を見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。

岩崎山古墳群 津田古墳群

岩崎山4号墳の北側の麓には牛頭天王社(野護神社)が奉られ、そのそばに南羽立自治会館があります。地域の信仰センターの背後の霊山として信仰を集めてきたことがうかがえます。4号墳から南に伸びる尾根には、5号墳 → 3号墳 → 2号墳 → 6号墳 → 1号墳と5つの古墳が尾根沿いに造り続けられました。この中で消滅した3・5号墳以外は現地で墳丘を観察することができます。

岩崎山4号墳4

まず、岩崎山4号墳の先行研究を見ておきましょう。
岩崎山4号墳は文化6年(1809)に発見され、刳抜型石棺と人骨、鏡、壺、勾玉が確認されています。当時の状況は文政11年(1828)の『全讃史』、嘉永6年(1853)の『讃岐国名勝図会』に記されています。それによると、出土した遺物は村人が恐れて再び埋められたこと、その中で鏡は埋めもどされずに髙松藩の役人が持ち帰ったことを記します。
 明治30年(1897)頃に、松岡調が著した『新撰讃岐国風土記』には、次のように記します。
①鏡は高松藩の寛政典が所蔵していたが明治6年(1873)から後に行方不明となってること
②東京の人から伺書の付属する石棺図が送封されてきたこと
③伺書は明治6年(1873)に久保秀景が名東県県令に提出したもので岩崎山4号墳の発掘に関する伺書であること
④図面が5図載せられていて、石枕、人骨、石製品など石棺内部の様子や石棺の形、蓋石の様子、方形に並べられた49個体の埴輪列が描かれていること
明治6年の発掘について、大正5年(1916)に長町彰氏は発掘に携わった古老に聞き取りを実施しています。その中に、49個体の方形埴輪列は底のない甕形であったと述べています。
昭和2年(1927)に岩崎山1号墳が発見された時に、4号墳も発掘されます。
出土した人骨、管玉22、小工30、車輪石1、石釧2、貝釧3、埴輪片、朱は昭和5年(1930)『史蹟名勝天然記念物報告書 第5冊』に記載され、現在遺物は東京国立博物館に移管。
昭和26年調査報告書には、この時他に鍬形石1、石釧3、硬玉製丁字頭勾玉1、管玉7~8があったが海中に捨てたと記す。
昭和4年(1929)は、墳丘南側で円筒埴輪列を確認。発掘された埴輪は坂出市鎌田共済会郷土博物館に保管。
昭和26年(1951)、京都大学梅原末治氏による学術調査が実施。
ここで初めて墳丘規模、埋葬施設、刳抜型石棺石棺の様子が明らかになります。遺物は棺内に残っていませんでした。しかし、石室の上からもともとは棺内にあったと思われる勾玉2、管王、小玉、石釧2が見つかります。また、棺外から鏡や鉄製品が出てきます。この時の遺物は、さぬき市歴史民俗資料館に保存されています。
平成12年(2000)2月、後円部南西部に携帯無線基地局の建設が予定され、試掘確認調査実施。しかし、古墳関連の遺構は出てこなかったようです。現在、このときの試掘箇所には畑が造成されています。ここからは墳丘傾斜面と葺石が確認され、墳丘の一部が畑によって破壊されていたことが分かっています。
岩崎山4号墳 円筒埴輪 津田古墳群
         岩崎山4号墳の円筒埴輪

トレンチ調査では崩落した葺石に混じって多量の埴輪片が出てきました。
その多くが円筒埴輪片です。円筒埴輪が墳丘を囲続していたと研究者は考えています。形象埴輪はこれまでの採集遺物や今回の調査において小片が確認されています。墳頂部には形象埴輪が並んでいたことが考えられます。葺石に混ざって、古代末期の土師器皿が数点見つかっています。これは古墳が後世に宗教儀式の場として再利用・改変させられていたことを推測させます。

津田古墳群円筒埴輪の変遷
津田古墳群の円筒埴輪変遷

岩崎山4号分の墳形の特徴は

岩崎山4号墳7
①前方後円墳は前方部が先端に向ってあまり開かない柄鏡形
②前方部を平野側に向け墳丘裾部を水平に整形する点は臨海域の津田古墳群と同じ
③葺石は大型石を基底石にして上部は人頭大の石材をさしこむように積んいる
④この積み方も、海岸エリアの先行する古墳群を踏襲
⑤全員61,8mで津田古墳群の中では最大規模です。
⑥トレンチ調査では段築と断定できるものは出土しなかった。

埋葬施設
①後円頂部は埋葬施設の凝灰岩製天丼石2枚を縦に重ね、その上に祠を安置
②赤山古墳、けぼ山古墳に見られるような小礫の墳頂部への散布はない。
③4枚の天丼石のほぼ中間に位置し、埋葬施設は墳丘の中心に位置する

津田湾岩崎山4号墳石棺
         岩崎山第4号古墳の地元火山産の石棺
副葬品で保管されているものは、次の通りです。
昭和2年 (1927)の出土品は東京国立博物館保管、
管玉11、ガラス玉2、貝輪14(イモガイ製)
昭和26年(1951)の出土品はさぬき市歴史民俗資料館保管
斜縁二神四獣鏡1、石封11、鉄刀1、鉄剣9、銅鏃5、鉄鏃2、鉄刀子3、有柄有孔鉄板4、鉄鎌3、鉄斧3、鉄釦7~8、鉄錐1、鉄馨1、勾玉2、管玉11、ガラス玉8

津田湾岩崎山4号墳石棺3
     昭和26年(1951)の出土品(さぬき市歴史民俗資料館)
以上を整理要約しておきます。
岩崎山4号墳は全長61、8mで、津田古墳群の中では最も規模の大きい古墳になります。また、以下の点が畿内的な特徴だと研究者は指摘します。
①埋葬施設が南北方向を向いていること
②多量の副葬品が見られること
さらに次のような特徴を指摘します。
③葺石構造においても、従来の讃岐の古墳には見られない工法が用いられていること。
④それは大型石を基底石としてその上に人頭大の礫を墳丘傾斜面に差し込むように石積する手法で、同時期の一つ山古墳、龍王山古墳などにも用いられていること。
⑤墳丘の大部分が地山を整形して造作されていること。
⑥墳丘裾部は水平に揃えられていること。これもも一つ山古墳、けぼ山古墳などと共通する。
⑦後円部端、前方部端は墳丘を自然地形から切り離した区画溝があること。
⑧円筒埴輪片が各トレンチから多量に出土し、円筒埴輪が墳丘を囲続していたこと
⑨一方、壺形埴輪や朝顔形埴輪片はほとんど出てこなかったこと

以上から築造年代については⑧の大量に出てきた円筒埴輪の情報から次のように推察します。
①口縁部の突帯から外反して55㎝ほどで突端に至る埴輪は、快天山古墳円筒埴輪がある。
②快天山古墳円筒埴輪と比較すると、岩崎山4号墳の方が若干古い。
③津田古墳群内では龍王古墳・けぼ山古墳の円筒埴輪よりは古い。
④赤山古墳埴輪とは類似点が多く、同時代。
以上から次のような築造順を研究者は考えています。
岩崎山4号墳 ⇒龍王山古墳・けぼ山古墳
葺石、埴輪の形態からは讃岐色の強い在地性よりも、畿内色が強くなっていることが分かります。
  岩崎山4号墳は先行研究では、「畿内から派遣された瀬戸内海南航路の拠点防衛の首長墓」とされてきました。その説と矛盾はせず、それを裏付けられ結果となっているようです。

   津田湾岸の前期古墳に畿内色が強いわけは?
以上の研究史からわかることは、瀬戸内海沿岸で前期前方後円墳が集中するエリアは、畿内勢力の対外交渉を担う瀬戸内海航路の港湾泊地で、「軍事・交易」的拠点であったと研究者は考えているようです。その拠点の一つが津田湾岸で、そのためここに築かれた前期古墳は、讃岐の他の地域とはかなり異なった性格をもつようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」

    
津田古墳群 うのべ山・けぼ
津田古墳群 鵜部半島の3つの古墳

津田湾の鵜部半島は、古代は島でした。その島に3つの古墳があります。その造営順は、うのべ山古墳→ 一つ山古墳 → けぼ山古墳となります。今回は、臨海エリアで最後の古墳となるけぼ古墳を見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
津田古墳群 一つ山・けぼ古墳
けぼ古墳(4期)と一つ山古墳(3期)
けぼ山古墳は、鵜部山から西に延びた尾根上にあり、北側は海蝕崖になって瀬戸内海に落ちています。古墳は前方部を東側(平野側)に向けた前方後円墳です。この古墳の250m東には、前回にみた一つ山古墳(円墳)があります。けぼ山古墳の谷を隔てた南側の尾根は、今は削られて平坦になっていますが、かつてはここにも古墳があったようです。けぼ山古墳からは、平野方面の眺望は開けていませんが、北側は小豆島、東は淡路島方面への海を望むことができます。一つ山古墳とけぼ山は、畿内や紀伊から瀬戸内海南航路をやってくる古代の交易船が最初に目にした古墳になります。けぼ山古墳の先行研究史を見ておきましょう。

けぼ山古墳5
けぼ山古墳の最初の記録は明治時代中期頃の松司調氏『新撰讃岐国風土記』です。その中に「鵜部塚」として次のように紹介されています。
頂上に大石で1間~2間の範囲で囲んだ場所があり、その中に白粉石で細長く円形に造った物を上下に合わせているのを埋めている。これを石棺と見ています。
大正11年(1922)の大内盬谷氏『津田と鶴羽の遺蹟及遺物』には、次のように記します。
大正11年(1922)以前に発掘され、鋼鏡、鉄刀、勾玉、7尺ほどの人骨が出土したこと、細長い円形の石棺があったこと、板石・栗石・土器片が散在していたこと

先ほど見た「新撰讃岐国風土記」の記録から松岡調などによって明治中期頃に発掘された可能性があるようです。
聞き取り調査によると、その後、昭和9(1934)に地元の住民の連絡で岩城三郎氏らが墳頂部の調査を行ったようです。その時には、方形の蓋が並んで見られ、石をいくつかはずした段階で元に戻したこと、蓋石の下は空洞になり、竪穴式石室と刳抜型石棺が見えたと伝えられます。
昭和10年(1935)、寺田貞次氏は「讃岐における後円墳」で、けぼ山古墳を前方後円墳としています。
昭和34年(1959)の『津田町史』には、昭和15年頃に主体部が掘り出されて、4枚の蓋石が投げ出されていると記します。
昭和40年(1965)六車恵一氏は「津田湾をめぐる4、5世紀ごろの謎」で、けぼ山古墳の墳丘の特徴を次のように指摘します。
①前方部と後円部の高さの差がなく出現期の前期古墳ではないこと
②墳丘裾部に葺石、埴輪があること、
③埴輪は墳頂部にもあること
1976年、藤田憲司氏は「讃岐(香川県)の石棺」で、次のように記します。
①石棺の蓋がとがって家のようであったという言い伝えを紹介し、岡山県鶴山丸山古墳のような特殊な家形の石棺であった可能性
②蓋石に縄掛突起の加工があることから鶴川丸山古墳との類似点
③岩崎山4号墳に続く古墳であること
1983年、真鍋昌宏氏は『香川の前期古墳」で次のように記します。
①蓋石の縄掛突起は奈良県新庄天神山古墳、宮山古墳に例があるので5世紀のもの
②墳形・施設・遺物などを考慮すれば5世紀前半代のもの
1990年、国木健司氏は「富田古墳発掘調査報告書』で、けぼ古墳について次のように記します。
①後円部に尾根から墳丘を切り離す区画溝が見られること
②後円部が正円であること
③二段築成であること
これらの諸特徴から讃岐色の強いそれまでの古墳にはない「墳丘築成上の技術的革新」が見られることを指摘します。
2003年、蔵本晋司氏は「四国北東部地域の前半期古墳における石材利用についての基礎的研究」で、次のように記します。
古墳の表面に安山岩類の板状石材の散乱が確認される古墳の一つがけぼ山古墳である。埋葬施設の構築材、とくに板石積み竪穴式石椰に伴なう可能性の高い。

以上が研究史です。
 今回の調査で刳抜型石棺の発見された基檀が解体され、次のような情報を得られたようです。
基檀を解体していくと、基檀内から石仏の台石が2段出てきました。ここからは基檀は、明治12・13年(1879・1880)の石仏安置から一定期間を経た後に増築されたことが分かります。石仏の前に位置している礼拝石には一部基壇の石積が重なっています。その礼拝石の下から十銭が出てきました。十銭は錫製で昭和19年(1944)の年号があります。つまり、昭和19年以降の大平洋戦争終戦前後に基檀は造られたことになります。
基檀に使用されている石材は安山岩の板石で、埋葬施設の竪穴式石室の石材を転用しているようです。そのため埋葬施設、刳抜型石棺が破壊され、その一部が基檀として利用され、破壊された石棺片の一部が石仏横に安置されたと研究者は考えています。そして今も墳頂部の凝灰岩製蓋石の下には石棺片がいくつか埋まっているようです。
 後円部の墳頂部平坦面は直径12mに復元できます。ここには過去の記録では4枚の蓋石があったとされています。現在、観察できるのは3枚です。ただし、残り1枚も露出した蓋石に隣接していることが確認できます。石材は火山で採石される凝灰岩(火山石)です。
南端の蓋石(蓋石1と呼ぶ)は完全にずらされた状況で少し離れて南側に位置し、南端から2枚目の蓋石(蓋石2と呼ぶ)もずらされているようです。3枚目の蓋石(蓋石3)は盗掘孔に対して直交して位置します。
次に個別に蓋石を見ておきましょう。報告書には次のように記されています。(要約)
けぼ山古墳 口縁部と蓋石

けぼ山古墳の後円部と蓋石 
蓋石1
幅0、9m・長さ1、72m・厚さ0、24mの長方形。両端に縄掛突起を造り出す。縄掛突起は中軸線からずらしており、両端部で対角線上に設けている。縄掛突起は端部の剥離が顕著なため、本来の形態、法量はよくわからない。現状では幅28㎝、厚さ26㎝、突出高13~15㎝の楕円形を呈し、2つの縄掛突起は同形。付け根から先端部にかけて少し広がっている。蓋石との接合部は両端で若千異なっている。西側の縄掛突起は、上側が蓋石上面から一段下がって縄掛突起がのびるのに対して、下側は蓋石下面からそのまま縄掛突帯に至り外方に広がっている。東側の縄掛突起は蓋石の上面、下面ともに段をもって整形されている。表面は破砕痕や落書きが顕著に見られ、蓋石製作時の工具痕はよく分からない。また、赤色顔料の塗布は外面に一部可能性のあるものがあるが、ほとんど確認することができない。

けぼ山古墳 蓋石
蓋石2
西側端部の一部が露出し、幅0、8m以上。北側長辺より25㎝内側に縄掛突起が見られる。蓋石1と同じ法量とすると、縄掛突起は中軸線より横にずらして造り出している。縄掛突起は幅30㎝です。厚さ、突出高は土中のためよく分からない。蓋石1に類似した構造のようで、赤色顔料は塗布されていない。
蓋石3
両端部は土中のため不明。幅0、9m、長さ1、5m以上、厚さ0、25~0、29m。蓋石1ほぼ同じ規模。両端部が土中のため縄掛突起は観察できない。赤色顔料の塗布は認められない。
蓋石4
全て土中であり、観察できない。
けぼ山古墳の刳抜型石棺
けぼ山古墳刳抜型石棺

刳抜型石棺片は3片出ています。報告書には次のように記されています。
3片ともに火山で採石される凝灰岩。小口部の破片1片と側面部で接合関係にある2片がある。小口部の破片は小口部が傾斜し、また、刳り込みの上端幅が狭いことから棺蓋と判断される。刳り込みは下端部からゆるやかに立ち上がり天丼部中央が最も高くなっている。中央部は側面肩から24㎝内側で、ここを軸として復元すると、刳り込み幅48㎝。深さ19㎝、石棺幅は77㎝に復元される。

刳抜型石棺片は3片出ています。3片ともに火山で採石される凝灰岩です。これらはパズルのように組み合わせることができるようです。

けぼ山古墳のまとめ (調査報告書103P)
①全長55mの前方後円墳で津田古墳群の中では岩崎山4号墳とともに最大級の古墳
②岩崎山4号墳と比較して前方部の発達が見られ、形としては富田茶臼山古墳に近い。
③時期的には埴輪の特徴から津田古墳群の中でも新しい段階に位置づけることができる
④刳抜型石棺の形態からは前期、前期後半の築造年代が推測される。
そういう意味では、次に現れる富田茶臼山との関係を検討する上で重要な古墳であると研究者は考えています。
畿内的特徴の多い富田茶臼山古墳に対して、けぼ山古墳は葺石・構造・埴輪に畿内的特徴とは異なる点を研究者は次のように指摘します。
①葺石構造は、拳大の石材を墳丘裾部に礫敷きしている可能性がある。
②埴輪は壺形埴輪を墳丘に並べるという特異な様相を見せる。
③円筒埴輪は破片が1点出土したのみで形象埴輪は出土しなかった。
このようにけぼ山古墳には、独特の墳丘施設が見られます。これは九州や讃岐など、畿内地域以外の地域間の交流があったことを研究者は考えています。一方、墳丘に多量に利用されている小礫は先行する一つ山古墳、赤山古墳にも見られる特徴です。一方で岩崎山4号墳、龍王山古墳では見られません。これをどう考えればいいのでしょうか。津田古墳群の中での津田地域と鶴羽地域の地域性のちがいととらえることができそうです。
津田湾 古墳変遷図
 
津田古墳群 変遷図3
津田古墳群変遷表

このような上に立って広い視点で4期の津田古墳群を見ておきましょう。
①4期には、羽立エリアに岩崎山4号、鶴羽エリアにけぼ山古墳が現れ、ふたつの地域に首長が並び立っていた。
②しかし、その首長墓は従来の讃岐在来色からは大きく脱したもので、首長たちの権力基盤や交流ネットワークに大きな変化があったことがうかがえる
③従来は、この変化を「瀬戸内海南岸ルート押さえるために畿内から派遣された軍事指導者達の痕跡」で説明されてきた。
④5期になると、鶴場エリアでは古墳造営がストップする。羽立エリアでも前方後円墳は消える。
⑤そして、突然内陸部に富田茶臼山古墳が現れる。
⑥これは津田湾だけでなく、内陸部も含めた政治統合が畿内勢力によって進められた結果だと説明される。
⑦そして畿内勢力は、髙松平野の東の奥から次第に中央部に勢力を拡げて、髙松の峰山勢力を飲み込んでいく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」
関連記事


 
津田古墳群周辺図4
津田古墳群の分布地図
津田湾 古墳変遷図
③鶴羽エリアの古墳築造順は
「うのべ山古墳 → 川東古墳 → 赤山古墳 → 一つ山古墳 → けぼ山古墳」

津田古墳群変遷1
津田古墳群の変遷

前回は津田古墳群・臨海エリアの鶴羽地区で、最初に現れたのがうのべ山古墳で、それに続いて赤山古墳が登場することを見ました。今回は、これらに続いて現れる一つ山古墳について見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
津田古墳群 うのべ山・けぼ

一つ山古墳は、鵜部半島東側の独立した丘陵頂部にある円墳です。古代には陸から離れた島で、潮待ちのための船が立ち寄っていたことがうかがえます。津田湾に入ってくる船からはよく見える位置にあります。また、墳丘からは北に小豆島、東に淡路島が見え、被葬者が瀬戸内海のネットワークに関わっていたことがうかがえます。

津田古墳群 一つ山・けぼ古墳
①墳形は円墳で最高所の標高は32m
②丘稜には一つ山古墳が単独で築造されている
一つ山古墳3 津田古墳群
一つ山古墳墳丘復元図

一つ山古墳は、20年前の2004年の調査までは、あまり注目されてこなかった古墳のようです。

最初の記録は、約百年前の大正11年(1922)発行の大内盤谷氏『津田と鶴羽の量蹟及遺物』です。そこには、二十四輩さんを墳頂に安置したときに、石棺に朱づめにした人骨や、約15cmの鏡や太刀が出土したことが記されています。二十四輩さんは、明治7年(1874)に設置されているので、この時が一つ山古墳は発見されたことになります。出土遺物は津田分署に引き取られたとされますが、現存はしていないようです。大内氏自身が現地を訪れた時は、石仏以外は何もなく土器も採集できなかったと記します。
昭和元年(1926)の『津田町史』には、一つ山古墳については何も記していません。戦後の昭和34(1959)年刊行の『津Ш町史』には、明治年間に発掘されたこと、その時に石棺材も連ばれたことが記されています。
昭和40年(1965)、六車恵一氏は「讃岐津田湾をめぐる四、五世紀ごろの謎」で、直径20m、高さ3mの円墳と紹介し、墳丘裾に海岸の砂利を葺石にして使用していると指摘します。こうしてみると、明治7年(1874)の発見以降、一つ山古墳は発掘調査がされていないことが分かります。

調査報告書は、一つ山古墳の墳形の特徴を次のように記します。(56P)
①墳形は南北直径27m、東西直径25mのやや楕円形を呈する円墳。
②円墳ではあるが、規模は60m級の前方後円墳の後円部直径に相当する
③墳丘裾部を水平に揃え、丁寧に段築のテラスを造作し、テラス面に小礫を敷く工法けぼ山古墳に共通
④葺石に基底石に大型石を置き上位の葺石を傾斜面に直交してさしこむように積んでいく工法は岩崎山4号墳、青龍王山古墳と共通
以上から一つ山古墳は円墳ですが、首長墳の一つとして研究者は考えています。

明治初期に盗掘された際に破壊された刳抜型石棺の一部は周辺に投げ捨てられていたようです。それを埋め戻したものが盗掘孔内の埋土からて出てきました。
一つ山古墳石棺 津田古墳群
一つ山古墳の石棺(津田古墳群)
調査報告書は、刳抜型石棺について次のように記します。
刳抜型石棺は安山岩集中地点の南に棺蓋が横になった状態で検出(石棺1と呼称する)され、北側にも部材が確認できる(石棺2と呼称する)。現在のところ、この2片が比較的形状のわかる個体で、他に破砕片が数点観察される。石棺1の両端はトレンチ外に延びていたが平成23年(2011)の亀裂によって縄掛突起が露出し小口面の形状が明らかとなった。石棺高が低く、赤山古墳2号石棺蓋に比較的類似することから棺蓋として記述を進める。幅52cm、高さ29cmである。長さは途中で欠損しており、140cm分が残存している。平面形は長方形で片方に向かって広がる形態ではなく、高さもほぼ同値である。
一つ山古墳石棺2 津田古墳群
一つ山古墳の刳抜型石棺
ここからは次のようなことが分かります。
一番大きい部位は長さ140cmの火山産凝灰岩で、石棺1が棺蓋であること。赤山古墳2号石棺とよく似ていて、同時代に造られたことが考えられること。
津田碗古墳群 埴輪編年表2

葺石の構造は基底に大型大の石をさしこんでいます。
讃岐の従来工法は、石垣状に組む手法です。ここでも外部の技法が導入されています。墳丘には壺形埴輪が並べられていました。そのスタイルは先行するうのべ山古墳のものとは、おおきく違っています。うのべ山古墳の埴輪は、広口壺で讃岐の在地性の強いものでした。ところが一つ山古墳の埴輪はタタキなどが見られない粗雑な作りです。
 一つ山古墳よりも一段階古いとされるのが前回見た赤山古墳です。
赤山古墳は前方後円墳で円筒埴輪が出てきます。ところが一つ山古墳からは、円筒埴輪が出てきません。ここからは、被葬者の身分や墳丘形によって、.採用される埴輪の種類が決められていたことが考えられます。墳丘や埋葬品によって、被葬者の格差に対応していたことになります。
津田碗古墳群編年表1
津田古墳群変遷図
一つ山古墳の調査結果を、調査報告書は次のようにまとめています。
刳抜型石棺は、津田古墳群では前方後円墳の首長墓からだけ出てくるので、この古墳の被葬者が準首長的な存在であったことがうかがえます。前方後円墳ではありませんが首長墳の一つと研究者は位置づけます。また、刳抜型石棺は赤山古墳2号石棺と共通点が多いようです。特に小口部が上端に向って傾斜する構造は、これまで赤山古墳だけに見られる特徴で、九州の刳抜型石棺の系譜上にあるもとされます。赤山古墳や一つ山古墳の初期の津田古墳群の首長たちが、九州勢力とのネットワークも持っていたことがうかがえます。同時に、三豊の丸山古墳や青塚古墳には、わざわざ九州から運ばれた石棺が使用されてます。この時期の讃岐の首長達は畿内だけでなく、瀬戸内海・九州・朝鮮半島とのさまざまなネットワークで結ばれていたことが裏付けられます。

最後に研究者が注目するのは、立地条件です。
海から見える小高い山上にある津田古墳群の中で最も東にあるのが一つ山古墳になります。つまり、畿内方面からやって来る航海者が最初に目にする古墳になります。一つ山古墳のもつ存在意義は重要であったと研究者は推測します。
東瀬戸内海の拠点港としての津田古墳群
東瀬戸内海の南航路の拠点としての津田古墳群
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。

以前に「岩崎山第4号古墳発掘調査報告書2002年 津田町教育委員会」にもとづく津田古墳群の性格について読書メモをアップしておきました。それから約10年後に「津田古墳群調査報告書」が出されています。これは周辺の古墳群をほぼ網羅的に調査したもので、その中で見つかった新たな発見がいくつも紹介されています。津田古墳群の見方がどのように変化したのかに焦点を当てながら見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
東讃地区の古墳編年表
讃岐東部の古墳変遷表
津田湾 古墳変遷図
津田古墳群の変遷表
前回に示されていた古墳編年表です。ここからは次のような事が読み取れます。
①1期に各エリアに初期型前方後円墳が登場すること
②3期になると前方後円墳は赤山古墳だけになること
③その背景には津田湾周辺を巡る政治的な統合が進んだこと
④5期には前方後円墳が姿を消し、円墳しか造営されなくなること
⑤そして、内陸部に富田茶臼山古墳が現れ、他地域から前方後円墳は姿を消すこと
⑥これは、津田湾から髙松平野東部にかけての政治的な統合が進んだことを意味する
なお鶴羽エリアの築造順は、次の通りです 

うのべ山(鵜部)古墳 → 赤山古墳 → 一つ山古墳(円墳) → けぼ山古墳


一つ山古墳が円墳ですが首長墓として認められるようになっていることを押さえておきます。それでは今回の調査で新たに明らかになったことを見ていくことにします。まず第1は、1期に先立つ初期モデルがうのべ(鵜部)山古墳とされたことです。
津田古墳群首長墓一覧
津田古墳群の首長墓一覧

最初に津田古墳群の総体的な変遷を見ておきましょう。

津田古墳群周辺図1
津田古墳群
①臨海域では、初期モデルとして「うのべ山古墳」が出現
②少し時期をおいて「赤山古墳 → 岩崎山4号墳 → けぼ山古墳」と築造が続く。
③円墳の「一つ山古墳、龍王山古墳」も前方後円墳の後円部直径に匹敵することから首長墓の一つ
④「野牛古墳、泉聖天古墳、岩崎山2・5・6号墳、吉見弁天山古墳、中峠古墳」は小規模古墳で、階層的に首長墓の1ランク下の位置付け。
⑤臨海エリアでは、中期初頭(4期)の岩崎山1号墳を最後に古墳が築造されなくなる。
⑥それ以降は古墳時代後期の宮奥古墳だけで、臨海域の古墳は築造時期が古墳前期に集中する。
内陸エリアの前期古墳を見ておきましょう。、
①川東古墳、古枝古墳、奥3・13・14号墳が前期の前方後円墳。
②その中には、奥2号墳のように円墳が含まれる。
③川東古墳は相地峠と津田川の支流土井川に比較的近い場所に、古枝古墳は津田川沿い、奥3・13・14号墳は津田川から雨滝山を山越えする連絡路沿いに立地し、臨海域と内陸域を結ぶ要衝に立地する。
④内陸エリアでも、前期後半になると前方後円墳が造られなくなる。
⑤そして登場するのが中期初頭の四国最大規模の前方後円墳・富田茶臼山古墳。
⑥富田茶臼山古墳の後には、前方後円墳そのものが姿を消し、大井七つ塚古墳群や石田神社古墳群のような群集円墳が造られるようになる。

この背景を研究者は次のように解釈します。
①弥生時代後期から古墳を造り続けた雨滝山西部から南部にかけての地域は、前期中頃には前方後円墳が築造できなくなったこと。
②中期になると北西の寺尾山(寺尾古墳群)や南束の大井地区(大井七つ塚古墳群、落合古墳群)へと指導権が移行したこと
③後期になると横穴式石室を埋葬施設に持つ古墳が出現するが、この時期に再び雨滝山に古墳が確認されるようになる(奥15号墳)
④この段階の古墳の分布として、平砕古墳群、一の瀬古墳群、八剣古墳群、柴谷古墳群と各地に群集墳が展開
津田古墳群 うのべ山・けぼ
鵜部半島の古墳群

うなべ山古墳 津田古墳群
うのべ山古墳
それでは、津田古墳群で最初に登場するうのべ山古墳を見ておきましょう。
うのべ山古墳のは、今は鵜部半島の付け根辺りに位置しますが、地形復元すると古代にはこの半島は島であったようです。その島に初期の古墳が3つ連続して造られています。うのべ山古墳からは、広口壺が出てきます。これが弥生時代からのものなので、うのべ山古墳は出現期古墳に位置付けられることになります。また、類似した広口壺はさぬき市丸井古墳、稲荷山古墳等に見られ、香川県の独特の広口壼でもあるようです。
うのべ古墳 津田湾古墳群の初期モデル

報告書は、うのべ古墳の特徴を次のように指摘します。
①広口壺の出土から築造年代は、古墳時前期初頭の出現期古墳であること
②香川県内でも最古級の古墳であり、津田古墳群の中で最初に築造された古墳
③墳丘が積石塚であり、讃岐の在地性が強い
④前方後円墳の墳形が四国北東部の古墳に多い讃岐型前方後円墳であること
⑤後円部から前方部中央を取り巻く外周段丘を有すること、
⑥全長37mは四国北東部の多く前方後円墳と、ほぼ同規模であること、
⑦弥生時代以来の伝統を受け継いだ広口壺を供献していること
これらの特徴から、この古墳が四国北東部の在地型古墳として造られていると研究者は判断します。ここでは、後の津田古墳群が畿内色が強まる中で、最初に造られたうのべ山古墳は讃岐色の強い古墳であったことを押さえておきます。

一方、うのべ山古墳の特殊性を研究者は次のように指摘します。
⑧標高9mという島の海辺に築造されていること
⑨積石塚としてのうのべ山古墳は海辺に立地し、安山岩の入手が困難だったために、海浜部を中心として様々な石材を使用している。
⑩海に隣接する低地への築造に海と密接に関わる津田古墳群の特徴が見て取れる。
赤山古墳1号石棺 津田碗古墳群

次に登場する赤山古墳を見ておきましょう。
赤山古墳は臨海エリアの津田町鶴羽から、富田の内陸エリアに抜ける相地峠の登口の道沿にあります。ここの道は近世には「馬道」と呼ばれており、物資輸送等に使用された古道でもあようです。現在この道は赤山古墳を取り囲むようにして津田湾へと下っていきます。この道が古墳時代にまで遡るかどうかは分かりませんが、赤山古墳は津田湾から富田方面への入口に当たる地点に築造された可能性が高いと研究者は考えています。
 赤山古墳は火山の北東の谷地に突出した標高23mの尾根上です。墳丘からは北に津田湾を一望でき、北東にはけぼ山古墳、うのべ山古墳、一つ山古墳のある鵜部山を望むことができます。墳形は前方部を南側(山側)に向けた前方後円墳です。過去の記録には全長50mとありますが、現在は後円部の一部を残すのみとなっているようです。ここには2基の刳抜式石棺が露出しています。
 赤山古墳が発見されたのは安政2年(1855)頃で開墾中の出来事です。
明治時代中期頃の松岡調氏の「新撰讃岐国風土記」は、次のように記します。

赤山古墳石棺 津田碗古墳群
赤山古墳の2つの石棺

石棺が発見され、そばから勾玉、壺、高杯等の土器が多数出土したとされます。石棺は3基が発見された。1基は凝灰岩の蓋石をもつ石槽の中から、2基は石棺単独で埋められていた、石棺発見後は祟りを恐れて元のように埋め、桜と火山にあった白羽明神を遷し祀った。

 大内空谷氏『津田と鶴羽の遺蹟及遺物』(大正11年(1922)は、次のように記します。
1922年当時すでに畑などの開墾が行われ墳形が変形して、円墳と判断。
古墳の周囲の田畑からは採集された土器片については、「弥生式に祝部を混じ偶に刷毛目のあるものもあり祝部には内部に渦文の付せられたる土器把手も落ちて居る」
大内氏が紹介した3年後の10月10日に盗掘に遭います。
赤山古墳石棺2 津田碗古墳群
赤山古墳の石棺(津田古墳群)
盗掘翌年の大正15年(1926)の『大川郡誌」は次のように記します。
「前方後円墳で、開墾によって形状が大きく変化しているが瓢箪形をしている」
「前年の盗掘については、石棺(1号石棺)は孔を穿って盗掘され、石棺の中に遺物は残されていなかったが付近から管玉、ガラス玉12個を採集した。盗掘孔に緑青の破片が落ちていたことから銅製品があった可能性がある。小型の石棺(2号石棺)は蓋を開けて盗掘され、残された遺物として頭骸骨の破片、歯「(門歯4本、大歯1本、自歯2枚)、管玉11個、ガラス玉93個」があった」
報告書(2013年)の赤山古墳のまとめを要約しておきます。
①赤山古墳は全長45~51mの前方後円墳であること
②円筒埴輪は岩崎山4号墳円筒埴輪に極めて似ていて、同じ埴輪製作集団が作った可能性が高い
③岩崎山4号墳円筒埴輪のやや新しい特徴を備えた橙色弄統の円筒埴輪が赤山古墳円筒埴輪には見られない
④突帯がわずかに高いこと、形象埴輪を伴わないことから、やや赤山古墳円筒埴輪が時期的に先行する
⑤到抜式石棺からは1号石棺⇒2号石棺の時期的遺構が想定できる
⑥2号石棺は、一つ山古墳出土の刳抜式石棺に類似する。
⑦以上から、赤山古墳⇒一つ山古墳の築造順になる
⑧岩崎山4号墳の刳抜式石棺とは、形態差が大きく同じ系譜上にはない
⑨平面形が角の明瞭な長方形を呈する岩崎山4号刳抜型石棺に対して、一の山古墳刳抜式石棺は隅丸方形で、赤山古墳⇒岩崎山4号墳の順になる。
このように考えると津田湾の臨海域でうのべ山古墳の次が赤山古墳となり、その間に若干の時期差があるようです。

津田古墳群の刳抜型石棺の比較について

赤山古墳1号石棺2 津田碗古墳群
 赤山古墳1号石棺
津田湾古墳群の石棺編年表1
          火山石石棺の比較
一つ山古墳石棺 津田古墳群
一つ山古墳石棺
津田湾の刳抜型石棺については、渡部明夫氏によって編年表が示されています。それを要約整理しておきます。
①火山石石棺群の特徴は棺蓋は横断面が半円形を基本とし、両端部上面を直線的に斜めに切っていること
②棺身は小口面が垂直であること
③形態変化としては、棺蓋両端部上面を斜めに切った部分の傾斜角度が大きくなり、前後幅が狭くなっていくこと
④その点に忠告すると注目すると、赤山1号石棺⇒赤山2号石棺⇒一つ山石棺⇒鶴山丸山石棺 → けぼ山石棺
⑤棺蓋長側面の下部が平坦而を持たないものから内傾する平坦面、垂直な平坦面へと変化して、平坦面が強調され、幅広の凸帯になっていくこと
⑥その点に注目すると赤山1号石棺 ⇒ 赤山2号石棺 ⇒ 一つ山石棺 ⇒ 鶴山丸山石棺
⑦刳り込みの隅が曲線に仕上げられ稜をもたないものから鈍い稜線が目立つようになり、明確な稜線を持つようになること
⑧その点に注目すると赤山1号石棺・2号石棺⇒一つ山石桔⇒ 岩崎山石棺・けぼ山石棺。大代石棺
⑨刳り込みの中央部を両端よりも深くするものから平坦な底面への展開
⑩その点に注目すると赤山1号石棺・2号石棺⇒ 一つ山石棺⇒ 岩崎山石棺・鶴山丸山石棺・けぼ山石棺
以上、各属性の変遷から刳抜型石棺の出現順を研究者は次のように判断します。

赤山1号石棺⇒赤山2号石棺⇒一つ山石棺⇒岩崎山石棺

津田碗古墳群 埴輪編年表2

さらに土器・埴輸・割抜式石棺編年を加味した編年的位置づけを次のように述べています。  160P
墳丘形態・墳丘構造、埋葬施設、副葬品の編年的位置づけから、土器・埴輪・刳抜型石棺だけではよく分からなかった奥3号墳、古枝古墳、岩崎山1号墳の位置付けが見えて来ます。
①奥3号墳と古枝古墳は墳丘スタイルから古墳時代前期前半の川東古墳と同時期、
②岩崎山1号墳は副葬品から津田古墳群では最も新しい古墳時代中期初頭に位置付けられる
③奥13号墳は十分な資料がなく、時期的な位置づけが困難であるが、低い前方部、墳丘主軸に斜交する竪穴式石室からは奥14号墳に近い時期の可能性が強い。

津田碗古墳群編年表1
津田古墳群の編年表
 以上より、報告書は 津田古墳群の前期前半の編年を次のように記します。
①前期前半のものとしては、うのべ山古墳、川東古墳、古枝古墳、奥3号墳、奥14号墳。
②これを二つに分類すると、前半にうのべ山古墳、奥14号墳、後半に川東古墳、古枝古墳、奥3号墳
③奥14号墳は壷形土器からはうのべ山古墳より後に見えるが、墳形からはうのべ山古墳に近い時期を想定
④後半の3古墳の前後関係としては、副葬品から奥3号墳 ⇒ 古枝古墳
⑤この時期は墳形、葺石構造、壷形土器、東西の埋葬方位等に讃岐的特徴が認められる。
⑥墳丘全長はうのべ山古墳(37m)、川東古墳(37m)、古枝古墳(34m)、奥3号墳(37m)、奥14号墳(30m)で格差はない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
津田古墳群調査報告書 21013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集
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津田古墳群周辺図3
津田古墳群
津田湾に、なぜ多くの古墳が並ぶのかについては、多くの議論がされてきました。その中で、同じように古墳が並ぶ瀬戸内海の港町との比較でいろいろなことが分かってきたようです。まずは、その「研究史」を見ていくことにします。テキストは「古瀬清秀 岩崎山古墳群について    岩崎山第4号古墳発掘調査報告書 2002年」津田町教育委員会です。
昭和31年に、近藤義郎氏が牛窓湾岸の古墳についてその性格を研究ノートという形で次のように提示します。
津田湾 牛窓古墳群

 港町として栄えた牛窓には、天神山古墳を始めとする50mを越える前方後円墳5基が年代を追って順番に、平野の少ない牛窓湾岸に築造されます。それを「畿内勢力」が瀬戸内海ルートにおいた港湾拠点と関連づけます。「畿内勢力」の要請・後盾を得た吉備国邑久の豪族が、拠点港や交易ルートの管理権を握り活躍し、死後にこの古墳に埋葬されたという仮説を提示します。
 これが瀬戸内沿岸に造られた初期の前方後円墳について、最初に歴史的な位置づけを与えたものとなり、その後の研究の指標となります。

これを受けて昭和41年に、津田湾の岩崎山古墳群の発掘調査に参加した地元の六車恵一氏は、次のように発展させます。

津田湾古墳 奥崎4号墳

 津田湾岸の前半期古墳群は、牛窓と同じ環境にあること。そして岩崎山第4号古墳など5基の古墳に埋葬者は、海運、港湾泊地、水産等、水路防衛などの海を背景とした首長層であったこと。さらに瀬戸内海には古くより2つの航路があり、津田湾をその四国側ルートの拠点港に位置づけます。

さらに六車氏は、昭和45年に刊行された河出書房新社の「日本の考古学」シリーズの中で、自説をさらに補強します。

 六車氏は担当した「瀬戸内」の中で、瀬戸内海の沿岸部や島嶼部の前期前方後円墳を「畿内勢力の拠点の形成」という視点で捉えます。その背景には「畿内勢力の朝鮮半島侵略の事業」として、そのルートになる瀬戸内海の海上権確保のための拠点設置という戦略があったことを指摘します。そして、津田湾岸の古墳もその拠点の一つで、難波津から西行し、芸予諸島で北岸航路に合流する瀬戸内海航路に合流するルートの一環だったとします。
津田湾 瀬戸内海の拠点港

 次いで角川書店の『古代の日本』シリーズで、間壁忠彦氏は次の点を指摘します。
 牛窓湾や津田湾、山口県平生湾などに並ぶ前方後円墳の築造年代が前期後半から中期前半に限定されること。それは「畿内勢力」の朝鮮半島進出時期と重なります。同時に、朝鮮半島進出に瀬戸内海沿岸勢力も深く関わったこと、それが彼らの性格を物語っていることを指摘します。津田湾岸の古墳群も4世紀後葉から5世紀にかけて作られたものです。
 こうして津田湾の前方後円墳は、讃岐東部の海上ルート確保と、朝鮮半島南部の拠点確保に強い意欲をもった首長墓として注目されるようになります。

 昭和57年に玉木一枝氏は、讃岐の前方後円墳の特徴について次のように指摘します。
①狭いエリアに限定されながらも、100基を越える前方後円墳が築造されていること
②それも墳長40m前後の小型前方後円墳が大半で
③前期に限れば、前方部の形態がバチ形を呈する
さらに昭和60年には、香川県における前期古墳の特質として
①墳長30~40mの小形の前方後円墳の多いこと
②それらには盛土古墳と積石古墳の2種類があり
③埋葬施設の主軸方向が東西指向が強い
ことをあげます。その上で、津田湾岸の岩崎山第4号古墳、龍王山古墳などは、この傾向に反して
④竪穴式石室は南北方向を向くこと
⑤刳抜式石棺が導入されていること
をあげ、津田湾岸の古墳が香川県内においては極めて特異な存在であることを指摘します。

津田湾岩崎山4号墳石棺
岩崎山第4号古墳の地元火山産の石棺
津田湾岸の前期古墳に畿内色が強いわけは?
以上の研究史からわかることは、瀬戸内海沿岸で前期前方後円墳が集中するエリアは、畿内勢力の対外交渉を担う瀬戸内海航路の港湾泊地で、「軍事・交易」的拠点であったと研究者は考えているようです。その拠点の一つが津田湾岸で、そのためここに築かれた前期古墳は、讃岐の他の地域とはかなり異なった性格をもつようです。
それでは「畿内勢力の地域拠点」とは、具体的にどんな意味を持っていたのでしょうか。
検討材料として、研究者は次の2点を挙げます。
①墳長50m以上の前期前方後円墳が3基も集中すること
②その埋葬施設に地元の火山産凝灰岩製の割抜き式石棺などが使用されていること
これらについて具体的な古墳のありようが次のように検討されます。
①について岩崎山第4号古墳、赤山古墳を具体的に見ていきます
この2つの古墳は、墳長60m規模です。
津田湾岩崎山4号墳石棺3
岩崎山第4号古墳の副葬品
前者からは「中国鏡2面、碧玉製腕飾り類5個以上、硬玉勾玉を含む多数の玉類、豊富な鉄器類」
後者からは「大型倭鏡2面、多量の玉類、多数の碧玉製腕飾り類」
といった副葬品目は、他の前方後円墳を圧倒します。
 この地域で前期・前方後円墳は古枝古墳、奥第3号、13号、14号古墳、中代古墳などがありますが、どれも墳長30m前後の小型です。また副葬品目は中国鏡1面、玉類、少量の鉄器類といった組合せが大半です。

  津田湾 奥古墳群

昭和48(1973)年に、津田湾岸から山一つ内陸側で奥古墳群の発掘調査が実施されました。
 寒川平野から津田湾に抜ける峠道を挟んで、たくさんの古墳(前方後円墳3基含む奥古墳群16基)がありました。昭和47(1972)年にゴルフ場が建設されることになり、発掘調査が行われます。この調査で、奥第10~12号などの弥生時代後期の墳丘墓や前方後円墳の奥第3、13、14号古墳が発掘されました。奥3号墳からは卑弥呼に関係するといわれている三角縁三神五獣鏡(魏鏡)も出土しています。これは京都椿井大塚山古墳出土のものと同范鏡です。
 また、奥14号墳は全長30mの前方後円墳で2基の竪穴式石室からは、銅鏡2枚の他に鉄製武器、鉄製工具、勾玉・管玉・ガラス玉などの装身具が発見されています。しかし、残念ながら今は消滅したようです。
  これらの古墳群の立地と変遷から次のようなことが分かってきました。
①奥古墳群は、津田湾西にある雨滝山山麓に、長尾平野と津田湾の両方を見下ろすように立地する。
②また、津田湾と長尾平野を結ぶ谷道ルートを見下ろす尾根に立地する。
 つまり、奥古墳群は内陸の平野部だけでなく、津田湾をも意識した立地になります。さらに重要なことは、この奥古墳群は津田湾の前期古墳より早い時期に造られていることです。そこに葬られた首長たちは、頭部を西に向けて東西方向に埋葬されます。墳丘の前方部はいずれもバチ形に近い形態で、埴輪類はありません。これらの特徴は、さきほど紹介したように玉本氏の指摘する「讃岐の前期古墳」の典型です。これを研究者達は「在地性(讃岐的特徴)の強い前方後円墳」と呼んでいます。
 それに比べて、津田湾岸の古墳をもう一度見てみましょう
  岩崎山第4号古墳は、柄鏡形の細長く延びる前方部をもち、南北方向に埋葬されています。これはすぐ北側の直径約30mの円墳、龍王山古墳でも同じです。このエリアでは南北に造られた狭くて長い6,1m竪穴式石室に埋設されています。また円筒埴輪のほかにも、多彩な形象埴輪類が出てきます。ここから「在地色」はうかがえません。それよりも畿内の首長墓のスタイルに似ています。
 
 ここまでだけで、内陸の奥古墳群と津田湾の前方後円墳を比べると、「畿内勢力が津田湾に進出・定着」し、瀬戸内海ルートの拠点港湾としたと早合点しそうになります。しかし、そうは言えないようです。
津田湾 古墳変遷図
まず古墳の築造変遷を上図で、見てみましょう。
①2期の積石塚の川東古墳、奥第3号古墳の築造に始まり、
②奥第14号古墳、古枝古墳、奥第13号古墳、赤山古墳、岩崎山第4号古墳、けぼ山古墳
と、両地域で継起的に築造され続けています。
ここからは津田湾と寒川平野の双方の首長たちは、対立関係にあったのではなく、むしろ並立依存関係にあったのではないかと研究者は考えているようです。そして、古墳のスタイルの違いを、ヤマト王権との関わり方の強弱に求めます。つまりヤマト王権へのベクトルが大きいほど古墳のスタイルから在地性(讃岐型特性)が消えて、畿内スタイルになっていくと考えます。

 雨滝山とその東隣にある火山の南側は長尾平野になります。
ここは高松平野の最東端に当たり、「袋小路」でもあります。この地点に、四国最大の前方後円墳である富田茶臼山古墳が周囲を威圧するように姿を見せます。それは、上図から分かるように、津田湾に大型の古墳が築造されなくなる時期と重なります。これをどう考えればいいのでしょうか。
かつては、これをヤマト政権による「東讃征服の武将の勝利モニュメント」と考える説もありました。ヤマトから派遣された武将によって、東讃がヤマトに併合され、その主がここに眠っているという説です。
冨田茶臼山古墳
富田茶臼山古墳

 しかし、現在では津田湾の親畿内勢力によって東讃の覇権が確立された結果、統合モニュメントとして富田茶臼山古墳が出現することになったと研究者は考えているようです。
 そうだとすると津田湾は、ヤマト政権の「瀬戸内海航路の拠点港湾」としての役割だけを担っていたのではなくなります。津田湾勢力は、寒川平野などの内陸部と一体化しつつあったと考えられます。その津田湾勢力の内陸進出を通じて、畿内勢力は津田湾勢力の後ろ盾として四国経営上、重要な地域であった讃岐東部を影響下に納めたということになります。その結果、東讃の古墳はこれ以後小型化し、同時に地域色を急速に失っていきます。

古墳終末期の讃岐の古墳造営状態を示す地図を見てみましょう。
綾北平野の古墳 讃岐横穴式古墳分布
大きな石室を持つ古墳が赤や紫の点で示されています。
東讃には大型石室をもつ古墳はありません。つまり、古墳を造れる地方豪族が不在であったことを物語ります。富田茶臼山古墳の後は、ヤマト王権の「直属化」が進んだとも考えられます。
津田湾岩崎山4号墳石棺2
火山産石材で造られた岩崎山4号墳石棺の石枕 

火山産石材を用いた割抜式石棺は、何を語るのでしょうか
研究者は、津田周辺で造られた石棺がどこに運ばれたのかを検討します。火山産の凝灰岩は津田湾のすぐ背後にそびえる火山がで産出します。地元では白粉(しらこ)石と呼ばれ、白っぽい色調で肉眼でも見分けができます。津田湾岸ではこの火山石が、岩崎山第4号古墳の石棺、赤山古墳の2基・3基の石棺、けぼ山古墳の石室蓋石などに使われています。
 最近の調査研究で、この火山産石棺が讃岐だけでなく他県にも「輸出」されていたことが分かっています。例えば
①岡山県吉井川流域の代表的な前期古墳、備前市鶴山丸山古墳の特徴的な形態の大型石棺
②徳島県鳴門市大代古墳の舟形石棺
③大阪府岸和田市久米田貝吹山古墳の突帯をもつ石棺
などです。これらはいずれもそのエリアを代表する前方後円墳か、は大型円墳です。
①の鶴山丸山古墳は、牛窓湾から吉井川を十数km北に遡った地域にある直径約55mの大型円墳です。
丸山古墳 - 古墳マップ

 竪穴式石室には大型の家形石棺が納められています。石棺の周囲から大、中型倭鏡30面以上、書玉製品などが出てきます。石棺の形からは、岩崎山第4号古墳より少し新しい時期の築造でとされます。
 この地域には先行する花光寺山古墳、新庄天神山古墳といった大型前方後円墳や大型円墳があり、組合せ式石棺や刳抜式石棺が使われています。花光寺山古墳は墳長100mと大型ですが、柄鏡形の前方部で、岩崎山第4号古墳と相似形の前方後円墳です。石棺は南北方向で、埴輪が並べられているのも津田湾岸の古墳とよく似ています。
 牛窓湾岸の古墳と吉井川東岸流域は、古代吉備世界の中において、特殊器台形埴輪を共有するエリアです。それは前方後方墳系列から始まる備中地域とは、古墳文化の異質とされます。吉井川流域の東岸域は、畿内地方の古墳文化に近いと研究者は考えているようです。
   この古墳の首長が眠っていた石棺は、瀬戸内海を越えて讃岐の津田湾の火山石で作られたものが運ばれてきています。刳抜式石棺や石室石材は非常に重いため、運搬には多大の労力と技術が必要とされます。にもかかわらず、讃岐から運ばれているのです。香川の津田湾の奥4号墳の首長と、この古墳の主とは「同盟関係」にあったのかもしれません。
津田湾 鳴門大代古墳jpg
鳴門市大代古墳
②の大代古墳は鳴門海峡を遠望する丘陵上にある墳長54mの前方後円墳です。
柄鏡形の前方部をもち岩崎山第4号古墳に、大きさや形が非常によく似ています。同じ設計図から造られたのかもしれません。岩崎山第4号古墳と比べてみると、副葬品の組合せなどからこちらの方が少し新しいようです。この古墳は後円部に南北方向に竪穴式石室が造られています。
津田湾 鳴門大代古墳の火山産石棺

そこに、津田湾の火山石製の舟形石棺が置かれています。津田から舟で運ばれてきたのでしょう。

③の久米田貝吹山古墳は大阪南部の、大阪湾を遠望できる標高35mの低い丘の上にあります。

津田湾 久留米田貝塚山古墳

 約130mの大型前方後円墳で、竪穴式石室の中に讃岐の火山石製割抜式石棺がありました。しかし、盗掘のため砕片だけになってしまいました。石棺片には突帯状の彫刻があるので、時期的には津田湾古墳群の岩崎山第4号古墳と同時代に作られたものとされます。石室石材には、徳島県吉野川流域産の紅簾石片岩が使われています。石室用材を鳴門から、そして石棺は讃岐の津田から舟で運んできた首長が葬られたようです。
  以下の3つの古墳の首長達は、紀伊水道を挟んで海のルートで結ばれていたことが分かります。
岸和田久米田貝吹山古墳 → 紀伊水道の四国側の鳴門市の大代古墳 → 東讃岐・津田湾岸の奥4号墳

ここで、もう一度津田湾岸の古墳に戻ることにしましょう。
香川県の前期前方後円墳は、次のような特徴がありました。
①墳形では前方部がバチ形に開く形態
②埋葬施設の主軸が東西方向を指向
③埴輪をもたない場合が多いといった特徴を示す。
これに対して、津田湾岸の古墳は、岩崎山第4号古墳・龍王山古墳のように前方部が細長く延び、埋葬施設の石棺は南北方向を向きます。ここから津田湾岸の前期古墳は、讃岐型の在地的なスタイルではなく、畿内的スタイルが強いことをもう一度確認しておきます。 
IMG_0001
岩崎4号墳測量図

この有り様は、津田湾だけでなく火山石製石棺等が運ばれた上のエリアの古墳にも共通するというのです。例えば、吉井川流域東岸の備前を代表する前期古墳は、畿内地方と強い連関性があることを見てきました。
その両者をつなぐ橋頭保として牛窓湾が近畿勢力によって打ち込まれます。同じように寒川平野の讃岐内陸部と畿内地方を結ぶ橋頭保として津田湾があったと研究者は考えているようです。
牛窓は、吉備中枢・備中勢力への牽制
津田は、高松の峰山勢力への牽制
が重要な役割だったのでしょう。どちらも畿内勢力の地方への進出と勢力拡大政策の窓口だったというのです。そして、畿内勢力が東吉備や東讃岐で覇権を確立した時には、その地域は地政学的意味を失います。それは「讃岐型前方後円墳」の築造が終わるときでもあったと研究者は考えているようです。
 津田湾岸の首長は単に水産、航海術、港湾泊地等の実権を掌握したから優勢を示したのでなく、畿内勢力の後ろ盾にしていたから地域で最優勢を維持できたのかもしれません。それが富田茶臼山の出現につながるのでしょう。
津田湾 古墳変遷図2

以上をまとめておきましょう。
①津田湾の古墳は、畿内勢力進出の橋頭保であった。そのため寒川などの内陸部の古墳も連携した動きを見せた。
②バチ形の前方部をもつ在地の前方後円墳の築造の流れの中に、極めて外来的な様相を示す前方後円墳の築造が赤山古墳、岩崎山第4号古墳、けぼ山など、4世紀中葉から5世紀初頭まで連続して築造され続ける。
③それは在地の首長の前方後円墳が墳長40m前後なのに対し、津田湾のものが一回り大きい60m規模であったことからもうかがえる。
津田湾岸の首長たちの努力が報われ、その役割を終えたとき、在地色をぬぐい去った冨田茶臼山古墳が悠然と姿を現します。そして以後は、単なる港湾泊地となった津田湾に、大型古墳が築造されることはなかったのです。
最後に津田湾の前方後円墳に葬られたのは、どんな人たちだったのでしょうか?
親畿内勢力の在地首長だったのか、あるいは畿内から派遣された首長であったかについては、研究者は「現状では不明」と答えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
1古瀬清秀 岩崎山古墳群について   
 岩崎山第4号古墳発掘調査報告書 2002年  津田町教育委員会

さぬき市歴史民俗資料館HP 考古室ガイドさぬきの古墳時代編

2近藤義郎「牛窓湾をめぐる古墳と古墳群」『私たちの考古学』10 1956(昭和31)年
3六車恵一「讃岐津田湾をめぐる四、五世紀ごろの謎」『文化財協会報特別号』香川県文化財保護協会
4六車恵一 潮見浩「瀬戸内」『日本の考古学』IV 河出書房新社1966年
5真壁忠彦「沿岸古墳と海上の道」『古代の日本』4 角川書店 1970年
6玉木一枝「讃岐地方における前方後円墳の墳形と築造時期についての一考察」『考古学と古代史』同志社大学考古学シリーズ1982年
7古瀬清秀「原始・古代の寒川町」『寒川町史』香川県寒川町 1985年
8渡部明夫「四国の割抜式石棺」『古代文化』46  1994年


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