瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:洲崎寺

浄土真宗の讃岐での教線拡大について、三木の常光寺と阿波美馬の安楽寺が果たした役割の大きさについて以前にお話ししました。

松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来

そんな中で先達から紹介されたのが「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として―四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」です。松原秀明は、金毘羅宮の学芸員として、さまざまな史料を掘り起こし、その結果として「金毘羅大権現に近世以前の史料はない」ことを明らかにしていった研究者でもあります。彼が30年以上も前に発表した文章になります。

ウキには「御領分中宮由来」と「御領分中寺々由来書」について、次のように記します。
成立 寛文九(1668)年 写本 木田郡牟礼町洲崎寺
高松藩が各郡の大政所に寺社行政参考のために書上げさせたもの。神社は所在地・由来・変遷・祭礼・別当寺・神宝・社地・末社、寺院は宗派・創建・変遷・本末関係・諸堂・本尊・宝物・寺地などを記している。写本は文政13年写。活字本 新編香川叢書史料篇
 「御領分中寺々由来書」は、高松藩の寺院一覧表としては最古のものになります。
これが新編香川叢書史料篇におさめられて以後は、近世前半の寺院の簡単な由緒を知る時の史料として、「町史」などにはよく引用されています。原本は、牟礼町州崎寺にあり、「御領分中宮由来」と合せて一冊になります。表紙の題は、「御□□宮由来 右同寺々由来」と読めるようです。扉の題は次のように記されています。

「御領分中宮由来 寛文九酉年郡々大政所書上 同寺々由来 久保停有衛門 蔵書」

「宮由来」には標題はありませんが、「寺々由来書」には「御領分中寺々由来書」と書かれています。ここで押さえておきたいのは、「御領分中寺々由来書」と「御領分中宮由来」は合せて一冊であったことです。
  
 この史料を最初に世に出したのは、松浦正一氏です。
松浦氏は、昭和13年1月、「寺々由来書」を翻字して孔版印刷で関係者に配布します。松浦氏が出版した孔版本の奥書は「文政十三寅冬写 久保博右衛門 蔵書」という原本の奥書に続いて、次のように記されています。
「昭和十三年一月片一日 以御城俊氏蔵本篤之畢 於高松市天神前表誠館 松浦正一」

 蔵書していた御城俊騨氏は、州崎寺の前々住職になるようです。洲崎寺の住職が保存していたものを、松浦正一氏が見せられて、重要性に気付き簡易的に出版したようです。松浦氏は「宮由来」と「寺々由来書」について、「香川史学第二号」(昭和47年11月発行)の「中世讃岐の信仰」で次のように記します。

「御領分中寺々由来」は次に述べる『御領分中宮由来』と題する、高松藩領内の神社の調査と同じころに調べが行なわれ、藩に報告されたものと思われる。その寺と宮との調査は当時の藩主頼重公の命令で、各郡大庄屋によって調べられ、書き上げたもの」

 これを受けて昭和54年2月に発行された「新編 香川叢書 史料」に翻刻されたときの解説にも次のように記します。

「初代高松藩主松平頼重が社寺行政の資料とするため、領内各郡の大庄屋に書上げさせた報告書である」

「各郡の大庄屋に書上げさせた報告書」という説は、その後に出版された各市町村史にも受け継がれているようです。
 この通説に対して、松原秀明氏は次のように疑いの目を向けます。

①「宮由来」は大内・寒川・三木・山田・南条・北条・鵜足・那珂の郡別になっていること
②それぞれの末尾には「右之通、村々社僧・神主吟味仕、書上け申所相違無御座候、依て如件」という文言があること。
③具体的には次の通り
大内郡 寛文九酉年二月十一日
大山太郎左衛門
日下佐左衛門
寒川郡 寛文九年西二月
寒河都鶴羽浦  真鍋専右衛門
同神前村 蓮井太郎三郎
三木郡 寛文九年酉ノニ月朔日
三木部井戸村   古市八五郎
同ひかみ村   山路与三大夫
山田郡 寛文九年酉二月五日
岩荷八郎兵衛
佐野弥二右衛門
南条郡 寛文八申年
花房九郎右衛門
植松長左衛門
北条郡 寛文九酉年 月朔日
北条郡加茂村   宮武善七
鵜足郡 寛文九年酉ノ
久米膝八
内海次右衛門
那珂郡 寛文九年西ノニ月九日
高 畑 甚 七
新名助右衛門

ここには日付と大庄屋の署名があるので、「社僧・神主吟味」した上で、大庄屋が藩へ提出した書上げであることは間違いありません。しかし、成立年紀については、疑問が残るとします。それはこの時点では、あくまで各郡大庄屋の書上げ段階だからです。これを集めて書物にして「御領分中宮由来」という題名を付けたのは、それから何ヶ月か何年か後になるはずです。その際に、各大庄屋が高松に集まって編集会議を行って相談のうえで書名を決めたというのは、非現実的です。実際には、書上げを受取った藩の役人か、あるいはこの方面の事に興味を持つ誰かが、書上げを清書して「宮由来」と命名したというのが現実的だと研究者は指摘します。
 なお、「宮由来」には高松城下・香東・香西の部が欠けています。これは何かの事情で書上げが提出されなかったか、まとめられるまでに散逸したかのどちらかでしょう。もし、後者ならば書き上げ提出から、それがまとめられるまでに相当の年月があったことがうかがえます。
次に「寺々由来書」の方を見てみましょう。     
①浄土・天台・真言・禅・法華・一向の各宗派に分けて、寺院を次のような本山別に分類しています。
真言は仁和寺・大覚寺・誕生院、
禅宗は妙心寺・能州紹持寺
法華は身延・京都妙蓮寺・京都妙覚寺・尼崎本興寺・備州蓮昌寺
真宗は西本願寺・東本願寺・興正寺・阿州東光寺・阿州安楽寺
②収められた各宗派の寺数は、浄上8、天台2、真言115、禅宗7、法華12、 一向129、律宗・時宗・山伏各1の計376寺
③記載様式の特徴は、各宗本山の下に直末寺院があり、それに付属する末寺は直末寺院に続けて挙げてあること
④各寺院には簡単な山緒が書き添えがあること
しかし、ここには「宮由来」のように各郡の大庄屋の名前は、どこにもありませんし、作成年月も記されていません。

例えば、真宗興正派の教線拡大の拠点寺となった常光寺(三木町)の末寺・孫末寺30ヶ寺を郡別に見てみましょう。

真宗興正派常光寺末寺一覧
興正寺末寺の常光寺(三木町)の末寺一覧
 「御領分中寺々由来書」の常光寺(56)の末寺・孫末寺は高松2・寒川2・三木6・山田4・香東3・北条1・南条6・那珂6となっています。この表を「大庄屋が取調べて藩へ提出した」とすると、どのようにして調べたのでしょうか。考えられるのは
①各郡に散在する末寺諸院を、どこかの大庄屋が一人で調査した
②各郡の大庄屋が情報を持ち寄って、常光寺の末寺・孫末寺の書上げを作って、だれかがまとめた。
しかし、孫末寺までの複雑な本末関係関係を、大庄屋の手で調査したというのは現実的でないというのです。各宗本山ごとに国内の頭取の寺院が調査するか、あるいは末寺・孫末寺から提出させた調書の記事
をもとにして寺社奉行で作成したと考える方が自然だとします。どちらにしても「大庄屋が取調べて藩へ提出した」というのは、考えられないとします。
 次に真言宗寺院について、由緒記事を省略して本末関係のみを示した一覧表を見ておきましょう。

真言宗本末関係
高松藩真言寺院の仁和寺末寺

真言宗仁和寺の讃岐末寺
大覚寺末寺
ここからは次のようなことが分かります。
①高松藩内の真言寺院は、ほとんどが仁和寺・大覚寺両本山に属する。その他の末寺は、善通寺誕生院以外にはない。
②志度寺・白峰寺・八国(栗)寺は、末寺を持たない。
③孫末寺院は、大内・寒川・三木・山田という東から西への順序に並べられている。
④大覚寺末の三木郡八口寺(八栗寺)が仁和寺末聖通寺末の安養寺と仁和寺末屋島寺の間に入っている。以前は八栗寺は、仁和寺末であったことが考えられる。
⑤仁和寺末香東郡大宝院(115)が、誕生院末四ヶ寺の後、真言宗としては最後尾に置かれている
どうしてこのような順番や配列になるのか、研究者にも理由が分らないようです。しかし、全体を見渡すと、各寺院の本末関係は一目瞭然で、よく分かります。本末関係を確認するには、いい史料です。
今回は、このあたりまでとします。次回は真宗の本末関係を見ていくことにします。

  以上をまとめておきます。
①「御領分中宮由来」と「御領分中寺々由来書」は、同一冊にまとめられていたために、どちらも各郡の大庄屋によって書き上げられたものを、まとめたものとされてきた。
②しかし、「寺々由来書」については、庄屋によって作成された書上げを、藩がまとめたとは考えにくい。
③「寺々由来書」の成立は、寛文九(1668)年以後のことと考えられ、高松藩最古の寺院一覧表である。
④「寺々由来書」は17世紀後半の高松藩の寺院の本末関係や簡単な由来を知る際の根本史料となる。
⑤この書が「新編香川叢書史料篇」に入れられることによって、各寺院の寺伝や本末関係を知る際には欠かせない史料となっている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行

松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来2

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白峯寺の境内には、崇徳院白峯御陵の御霊を廟として祀るために、後白河法王によって頓証寺が建立されていました。ここには、古くから皇室や武家が崇徳上皇の霊を慰めるため夥しい数の什器・宝物類が、寄進されてきました。永徳2年(1382)火災によって、大半は焼亡しましたが、それでもなお多くの宝物が幕末には残っていました。これは神仏習合の下では、白峯寺により守られてきました。それらの寺宝が、その神仏分離の嵐の中で、どのようになって行くのでしょうか?

siramine19讃岐國名勝図会:明治維新直前の景観
維新直前の白峰寺(讃岐国名勝図絵)
最初に白峰寺をめぐる年表を見ておきましょう
明治2年 明治天皇の命で、崇徳上皇霊を新に創建した京都白峯神宮に遷祀。
明治6年 白峯寺住職恵日が復飾し御陵陵掌に転じ、寺は無住化。
明治8年 白峯陵掌友安十郎、白峯寺堂宇の取払いを建議。
明治11年 寺は白峯神社と改称、金刀比羅宮の摂社となる。
明治31年 仏寺に復する。頓証寺は白峯寺に返還される。
崇徳上皇陵

  明治元年(1868)三月に新政府によって出された神仏分離令については、讃岐の神仏混淆の各寺院は、何が起きているのか分からず、当初は模様眺めであったようです。金毘羅大権現社のように、別当自らが京都にのぼって打開策を探ると云うのは特異な行動でした。模様眺めの白峰寺にとって寝耳に水のような知らせが届きます。
新政府の神祇科は、御陵を宮内省の管轄に移し、御霊を京都へ移すというのです。

崇徳上皇
崇徳上皇
 京都の今出川通りの西に廟を造営して、崇徳上皇の御霊はここに祀るというのです。これは、白峰陵の御霊を京都の新しい神社に移すということです。
   崇徳上皇の御霊代(みたましろ)である御真影と愛用の笙(しょう)を頓証寺から受け取るために京都から勅使がやってきて「奉還」されることになります。しかし、白峰寺は何も出来ません。やってきた勅使が御霊を抜き、御像を移す儀式を、僧侶である白峰寺の住職は見守るしかなかったようです。事前に遷還に奉仕したいと願いも許されませんでした。こうして勅使を載せた御用船が、坂出港から京に向かって出航したのは、明治元年8月28日のことでした。

京都の崇徳天皇廟
           京都の崇徳天皇廳 

約七百年余にわたって崇拝の対象となっていた崇徳上皇の御霊がなくなるということは、白峰寺にとっては精神的に大きなダメージになりました。
  さらに追い打ちをかけるように明治4年には寺領上知令が出されます。
これにより境内以外の寺領は国家に没収されることになります。これは、中世以来の朱印地を全て失う事でした。この間に、脇坊の僧侶の中には寺を廃寺として、寺院の土地、建物を私有化する者も現れます。財政基盤をなくし、白峰寺の将来を考えたのか当時の白峯寺住職・恵日は、明治6年10月に還俗して、隣の崇徳天皇白峯御陵の陵掌に転身します。僧侶から神職になったのです。このため白峰寺は住職がいない無住寺院となります。明治5年の太政官布告234号で「無檀家・無住寺院は廃寺」の通達が出ていましたので、主をなくした白峰寺は廃寺となってしまいます。

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頓証寺

  四国巡礼の札所がこんなありさまになったのを、なげき立ち上がったのは講中、信徒たちです。彼らは明治8年7月、白峯寺住職選定の願いを阿野郡大区長片山高義あてに出します。これに対して大区長はすぐに名東県令(当時は愛媛と合併)古賀定雄に取りつなぎます。当時は、廃寺になった各地の札所からの復興要望が出されていたようです。また、中央政府も神仏分離の行き過ぎを修正し、廃寺になった寺院に対する救済策がとられるようになっていたために直ちに聞き届けられます。その結果、明治11年には牟礼・洲崎寺の橘渓導が住職として、無住となっていた白峰寺に入ります。
 神霊奉還後の頓証寺を見ておきましょう。
中央に崇徳上皇宸筆とされる「南無阿弥陀仏」の六字名号を御霊代として安置されていました。これは、流石に京都からやってきた勅使も持って行かなかったようです。

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       頓証寺の中央に奉られる崇徳天皇

頓証寺には、中央に崇徳天皇、向かって右側に十一面観世音菩薩、右側に山ノ神相模坊(天狗)を祀っが祀られていました。この姿は神社ではなく、仏舎であったことを物語っています。御陵は宮内省に属して、白峯寺の管轄を離れ、陵掌の守るところとなっていました。が、頓証寺は寺号であったので、白峯寺の一部として依然その管轄下にあったのです。

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左に(白峰)相模大権現(白峰の天狗)
ところが、第三の災難が白峰寺にふりかかってきます。
明治11年、金刀比羅宮の禰宜松岡調から頓証寺を神社して、金刀比羅宮の摂社とするが願い出られたのです。これに対して、県や国の担当者は、白峯寺への現地調査も聞き取りも行わずに、机上で頓証寺を金刀比羅宮へ引き渡すことを認めてしまいます。この時から頓証寺は白峯神社と呼ばれる事になります。つまり頓証寺という崇徳天皇廟の仏閣がたちまちに神社に「変身」してしまったのです。ある意味では、これは金刀比羅宮の「乗っ取り」といえます。

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頓証寺の相模(白峰)大権現(天狗)
こうして頓証寺は金刀比羅宮の摂社とされ、白峯寺から「所有権」が金刀比羅宮に移ってしまいました。
これが明治11年4月13日のことです。この時に白峯寺の宝物は、上下二棟の倉庫に納められていました。上の倉には准勅封として帝に関する宝物を納め、さらに下の倉には白峯寺に関するものが納められていました。上の倉は、頓証寺を摂社化した金刀比羅宮が引き継ぐことになります。そして、残りが寺側の所有となったのです。これは、現代風に云えば「資産乗っ取り」と云えます。

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崇徳上皇白峰御陵
  なぜこのようなことを県や国担当者は許したのでしょうか。
担当者が事情に通じてなくて、軽はずみに判断したためとも云われます。しかし、私にはそれをすんなりと信じる事は出来ません。なぜなら、この時期の金刀比羅宮の禰宜職は松岡調なのです。彼が讃岐の神仏分離の立役者であったことは、以前触れましたので省きます。松岡貢と白峰寺の接点としては次の点があげられます。
①松岡調が若いころの1850年代に「讃岐国名勝図絵」の挿絵を担当し、白峰寺も描いていること。
②明治の神仏分離の際には、「神社取調」調査の担当者として、白峰寺を担当していること
以上から、白峰寺と頓
頓寺の事情と頓証寺が保管する「宝物」は周知していたはずです。そして当時の彼は讃岐神道界のリーダー的な存在として発言権を高めていました。同時の彼が禰宜を務める金刀比羅宮は、香川の神道界の中心的な立場にもありました。彼の手回しで「頓証寺の白峯神社化と摂社化が進められ、宝物は金刀比羅宮のものとするという手順」案が作成されたと私は考えています。そして、当局への根回しも行われていたのではないでしょうか。

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白峯御陵への階段
 当時の松岡調の提言は、おそらく次のようなものだったでしょう。

崇徳上皇は讃岐の地に移られてから親しく琴平の宮に参籠されおり、ここには「古籠所」・「御所の屋」という上皇ゆかりの旧跡も残っている。そのようないきさつから、琴平の宮では古くから上皇の御霊をひそかにお祀りしてきた。頓証寺に祀られていた上皇の御霊が京都に還った以上、頓証寺は抜け殻になってしまったのだから琴平の宮が上皇を祀る讃岐の中心でなければならない、

というようなものだったのではないでしょうか。
この結果、頓証寺が長年にわたって皇室や武家から寄進を受けてきた什器・宝物類が金刀比羅宮に移されることになったのです。同時に金刀比羅宮では崇徳上皇が祭神として祀られるようになります。

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白峰御陵

廃仏毀釈の嵐が弱まると、白峯寺の渓導住職や信徒らは、頓証寺の復興計画を立てます。
そして、白峰神社(旧頓証寺)の返還を金刀比羅宮に求めるようになります。こうして、金刀比羅宮への反撃が始まったのです。しかし、協議では解決できないと見るや、金刀比羅宮を訴訟します。その言い分は、次の通りです。

白峯寺と頓証寺は、金刀比羅宮と歴史的に何の関係もない。にもかかわらず、金刀比羅宮が頓証寺を自社の末社として古くから頓証寺に伝わる宝物まで占有管理しているのはおかしい、


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白峰御陵

 明治17年に裁判所は、白峯寺勝訴の判断を下します。
その後も、いろいろなやりとりが金刀比羅宮との間で行われますが、明治28年に松岡調が大陸における布教事件で失脚して後の明治31年9月に、県の命令で、白峯神社は白峰寺に返還されることになります。こうして金刀比羅宮から境内・建物の返還を受け、頓証寺として元の仏堂にもどすことができたのです。
 このため金刀比羅宮には祭神とした崇徳上皇を祀る神社がなくなってしまいました。そこで、本社から奥社への参道沿いの現在地に「白峯神社」が「創建」されたようです。

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「崇徳上皇陵」ではなく「白峰陵」

 しかし、20年ぶりに金刀比羅宮から頓証寺は変換されましたが、問題は残りました。金刀比羅宮は、摂社とした頓証寺から多くの宝物を持ち去っていました。その宝物の変換を白峰寺は要求します
白峯寺の言い分は、
歴史的経緯からいってすべて頓証寺に返還するのが当然だということです。

一方の金刀比羅宮の言い分は、
明治11年から20年間頓証寺が白峯神社として金刀比羅宮の末社であったことは政府の命令に基づき行われたことであって、すべての宝物を返還する理由は無い

ということのようです。
 結局、この問題は最終決着がつきませんでした。その結果、頓証寺から金刀比羅宮に移された宝物の多くが金比羅宮に残されたのです。その代表例が下の重要文化財の絵巻物「なよ竹物語」です。

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 昭和40年にもこの問題がぶり返し、地元の青年団から金刀比羅宮に対して、宝物返還の嘆願が出されています。どちらの言い分が正しいかどうかは別として、歴史的な経緯は後世に正しく伝えていく必要があるというのが歴史家の考えのようです。

なよ竹物語
 
 最後に明治の神仏分離政策が白峰寺に与えたダメージは
1 天皇家によって崇徳上皇の御霊を京都へ移され
2 明治政府によって土地財産を奪われ
3 その結果、お寺は一時的にせよ廃寺となり
4 さらに金刀比羅宮によって頓証寺の摂社化と、その宝物の「横取り」された。
5 その復活・復興に30年を要したということになるようです。

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