瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:浄土寺

前回は、西大寺律宗が奈良の般若寺を末寺化するプロセスを次のようにまとめました
①西大寺律宗中興の祖・叡尊にとって、十三重石塔は信仰の中心的な存在で、伽藍造営の際には本堂や本尊よりも先に造立された。
②そのため新たに末寺として中興された寺院には、大きな十三重石塔や多重石塔などの石造物がまず姿を見せた。
③これらの石造物は、南宋から東大寺再建時に南宋からやってきた伊派石工集団の手による「新製品」であった。
④西大寺律宗の全国展開に、伊派石工集団が深く関わっている。
今回は尾道の浄土寺を西大寺が、どのように末寺化したかを見ていくことにします。テキストは、辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六」です。

1400年の歴史を後世に。浄土寺完全修復に向けて<第1弾>(小林暢善(国宝浄土寺住職) 2019/10/21 公開) - クラウドファンディング  READYFOR
尾道の浄土寺
浄土寺は、国宝の本堂など見所の多い寺で、尾道観光には欠かせない観光スポットになっています。この寺の創建は13世紀中頃とされ、尾道の「光阿弥陀仏」によって、弥陀三尊像を本尊とする浄土堂・五重塔・多宝塔・地蔵堂・鐘楼が建立され、真言宗高野山派寺院として創建されます。その伽藍については「當浦邑老光阿彌陀佛或興立本堂、加古佛之修餝或始建堂塔、造立數躰尊像」と記しています。しかし、13世紀末には退転していたようです。
 叡尊の弟子定證は、1298(永仁六)年に浄土寺にやってきて曼荼羅堂に居住するようになります。
『定證起請文』には、当時の浄土寺の住持もなく、荒れ果てた姿を次のように記します。
當寺内本自有堂閣有鐘楼有東西之塔婆、無僭坊無依怙無興隆之住侶、唯爲爲青苔明月之閑地、空聞晨鐘夕梵之音聲、此地爲躰也」
 
定證は西大寺の指示を受けて尾道にやってきたのでしょう。翌年には、すぐに浄土寺の再興にとりかかります。
定證の再興は「定證勸進、十方檀那造營之。」
壇那衆は「晋雖勸十方法界、多是當、浦檀那之力也。」
とあるので、尾道浦の壇那衆をその中心として、金堂・食堂・僧坊・厨舎などを勧進・造営していったことが分かります。金堂にはその本尊として、大和長谷寺の観音菩薩像を模した金色観音菩薩像を安置します。その足下には『書記知識奉加之目録』が納められ、さらに、「各牽寸鐡尺木之結縁、爲預千幅輪文之引導也」とあるので、結縁者が観音により極楽へ引導されることを説いたようです。
 1306(嘉元四)年9月上旬に、浄土寺金堂は完成します。
9月29日に、定證の招きで西大寺第二世長老以下60余人の僧侶が尾道に到着しています。さらに、山陽、山陰より律僧60余人も集まってきます。そして、10月1日から13日間に渡って、金堂上梁・曼荼羅供養が行われたことが「日々講法時々説戒無有間断」と記されています。そして、近隣地より幾千万の道俗結縁者が供養会に参集したともされています。そして、十月になると定證に、太田庄預所和泉法眼淵信より別当職が譲与されます。こうして浄土寺は、西大寺末寺となります。これは前回に見た奈良の般若寺の末寺化プロセスを踏襲するものです。
 ちなみに中興直後の1325(正中2)年に、浄土寺は焼失してしまいます。そのため西大寺律宗時代の遺物は、石造物としてしか残っていないようです。現存の国宝の本堂・多宝塔、重要文化財の阿弥陀堂は、有徳人道蓮・道性夫妻によってその後に復興されたものになります。西大寺の瀬戸内海沿岸での活動は、目に見えた形では残っていません。石造物が「痕跡」として残るのみです。
浄土寺境内に残された石造物を見ておきましょう。

 
  浄土寺納経塔(重文) 弘安元年(1278)花崗岩製高:2.8m)
銘文:(塔身)
「弘安元年戊寅十月十四日孝子吉近敬白 大工形部安光」 

定証の浄土寺中興以前に伽藍の修繕に尽力した光阿弥陀仏の子・光阿吉近が父の供養塔として建立したものです。1964年に移動させた時に、塔内から法華経・香の包・石塔の由来を墨書した木札が、金銀箔を押した竹筒に納められて出てきています。塔身・露盤・請花の形態は古調で、全体的に重厚豪快な鎌倉時代の逸品とされます。
浄土寺(じょうどじ)宝篋印塔(越智式)
  浄土寺宝篋印塔(越智式:重文)貞和4年(1348)総高:2.92m)
逆修と光考らの冥福を祈り、功徳を積むのために建立されたものです。塔身と基礎の間にある請花・反華の二重蓮華座の基台は備後南部・伊予地域の宝篋印塔に見られる特徴のようです。

「基壇・基礎には多めの段数が、また基礎上部の曲線の集合・椀のような輪郭をもつ格狭間が装飾性を豊かにしている。南北朝期を代表する塔。」

と研究者は評します。
 光明坊(こうみょうぼう)十三重石塔
  瀬戸田町光明坊十三重塔 永仁二年(1294)、総高:8.14m)
銘文:(基礎背面)「釈迦如来遺法 二千二百二二(四)十参年奉造立之 永仁二年甲午七月日」 
基壇に「石工心阿」
中世の瀬戸田は中国や朝鮮などとの交易を行っていて、芸予諸島の中心的交易港として栄えていました。戦国大名に成長する小早川氏は、この地を制して後に急速に成長して行きます。その瀬戸田にも西大寺の末寺があったことが、この十三重石塔からも分かります。研究者は次のように評します。
笠石は肉質が厚く力強い反りを示すが、上にいくほど厚みは減少している。遠近法を取り入れてより高く、重厚さを感じさせる緻密な計算がなされている。

光明坊十三重塔を作成した「石工心阿」は、次のような寺の石造物にも名前を残しています。
①三原市の宗光寺七重塔
②兵庫県朝来郡の鷲原寺不動尊
③神奈川県箱根山中の宝篋印塔
④神奈川県鎌倉市の安養院宝篋印塔
鎌倉のイエズス会、西大寺教団 - 紀行歴史遊学
三原市の宗光寺七重塔
「心阿」という人物については、よく分かりません。しかし、作品が全国に散らばっているところをみると、各地で活動を行っていたことが分かります。
 一方寺伝では、光明坊十三重石塔は奈良西大寺の僧叡尊の弟子忍性が勧進したと伝えられます。
そして、心阿作の石造物が残る④安養院・③鷲原寺や瀬戸田の光明坊には、忍性の布教活動の跡がたどれるという共通点があります。ここからは忍性と心阿がセットで、布教活動を行っていたことが推測できます。叡尊の教えを拡めるべく各地に赴いた弟子たちには、こうした石工集団が随行していたと研究者は考えています。
 光明坊十三重塔の「石工心阿」という銘文から、高い技術を備えた伊派石工が尾道周辺に先進技術をもたらし、後にこの地に定着していったことが推測できます。浄土寺を再興した定証にも、彼に従う伊派石工がいたはずです。彼らが尾道に定着し、求めに応じて石造物制作を行うようになった。それが近世の尾道を石造物の一大生産地へと導いていったとしておきます。
国分寺 讃岐国名勝図会
讃岐国分寺(讃岐国名勝図会)
  西大寺の勧進活動と讃岐国分寺の関係について触れておきます。
13世紀末から14世紀初頭は、元寇の元軍撃退祈祷への「成功報酬」として幕府が、寺社建立を支援保護した時期であることは以前にお話ししました。そのため各地で寺社建立が進められます。
 このような中で叡尊の後継者となった信空・忍性は朝廷の信任が厚く、諸国の国分寺再建(勧進)を命じられます。こうして西大寺は、各地の国分寺再興に乗り出していきます。そして、奈良の般若寺や尾道を末寺化した手法で、国分寺を末寺として教派の拡大に努めます。
 江戸時代中期萩藩への書状である『院長寺社出来』長府国分寺の項には、「亀山院(鎌倉時代末期)が諸国国分寺19力寺を以って西大寺に寄付」と記しています。別本の末寺帳には、1391(明徳2)年までに讃岐、長門はじめ8カ国の国分寺は、西大寺の末寺であったとされます。
 1702(元禄15)年完成の『本朝高僧伝』第正十九「信空伝」には、鎌倉最末期に後宇多院は、西大寺第二代長老信空からの受戒を謝して、十余州国分寺を西大寺子院としたと記されています。この記事は、日本全国の国分寺が西大寺の管掌下におかれたことを意味しており、ホンマかいなとすぐには信じられません。しかし、鎌倉時代終末には、讃岐国分寺など19カ寺が実質的に西大寺の末寺であったことは間違いないと研究者は考えているようです。
 どちらにしてもここで確認しておきたいのは、元寇後の14世紀初頭前後に行われる讃岐国分寺再興は西大寺の勧進で行われたことです。そして、その際には優れた技術を持った石工が西大寺僧侶とともにやってきて石造物を造立したことが考えられます。こういう視点で白峰寺の十三重石塔(東塔)や高瀬の「石の塔」を見る必要があるようです。ちなみに、白峯寺は国分寺の奥の院とされていました。その関係で、西大寺による国分寺再興の動きの中で、白峰寺の別院に造立されたとも考えられます。

最後に叡尊と十三重石塔との関係をまとめておきます
①西大寺中興の叡尊は、信仰の中心として多重石塔を勧進した。
②そして、百人を超える律僧を参集しうる勧進集団を形成した。
④西大寺には叡尊を頂点とする勧進集団が構成され、各地の国分寺再建を行い、末寺化するなどして急速に教勢を拡大した。
⑤そのため西大寺末寺には、十三重石塔などの当時最先端技術で作られた石造物が造立された。
⑥この石造物を作ったのは西大寺僧に同行した伊派石工たちである。
⑦尾道の浄土寺や瀬戸田の光明院の石造物も西大寺僧侶に従った伊派石工の手によるものであった。
⑧彼らの中には石材が豊富な尾道に定住し、花崗岩製の優れた石造物を作り続ける者も現れた。
④それが近世の尾道を石造物の一大生産地へと導いていった。

それでは西大寺の末寺が14世紀後半以後は増えず、西大寺の教勢時代が下火になっていくのは、どうしてでしょうか。
この背景には、西大寺が大荘園経営を行なわず、光明真言・勧進活動による寺院経営を行なっていたことがあるようです。大きく強力な荘園を持たなかった西大寺では、高野山のように荘園内で僧侶の再生産は困難で、勧進聖集団が継続して育ったなかったからと研究者は考えているようです。詳しくは、また別の機会に。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        辻富美雄 西大寺叡尊における石塔勧進考 佛教大學大學院研究紀要第八號六六」

   浄土寺の落書
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浄土寺

 
四十九番の浄土寺は落書で非常に有名です。
厨子に室町時代ごろの遍路の落書があります。本尊は釈迦如来です。
孝謙天皇の勅願で行基菩薩が作ったという縁起は信用がおけませんが、鎌倉時代に再興されたことは事実です。

   このお寺を保護したのは、河野水軍の河野氏です。
 河野通信という武将が源義経の召しに応じて壇ノ浦の合戦に軍船を出して、熊野水軍とともに源氏を勝利に導きました。熊野水軍が五百隻ぐらいの船を出しだのに対して、河野水軍は二百五十隻ほど出したといわれています。その後、河野氏は伊予の北半分の守護になりました。 
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浄土寺
 河野氏は大三島の大山祗神を一族の氏神にして、守護であると同時に神主を兼ねました。神主は普段は大三島にはおりません。承久の変が起こると、通信は二人の子どものうち長男は京方、次男は鎌倉方に味方させて、自分は長男とともに京方に付きました。承久の変が京方の敗北に終わっても、源頼朝による伊予半国の守護に任ずるという約束は守られます。
通信は斬罪から逃れて、奥州の北上のあ屹りに流されて、そこで死にました。いまの江刺市と北上市の境にある聖塚が通信の墓ではないかとされています。
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 『一遍聖絵』には、河野通信の孫の一遍上人がお祖父さんの墓を弔いに行って、行道念仏をしたときの景色が描かれています。一遍上人が坊さんになったのも、承久の変で家が没落したからだ、非常に武士的な気迫をもった坊さんであったのも、武将の家に生まれたからだという説もあるくらいです。
  浄土寺に空也上人がしばらく留まっていたということから、浄土寺と浄土寺の西の日尾八幡という非常に大きな八幡さんとの間の、みかん畑になっている谷が空也谷と呼ばれています。

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本堂の中には室町時代初期ぐらいの空也上人像があります。

 こういう伝承があるところは、空也聖(阿弥陀聖)がいたところです。伝説では空也の墓は八つも九つも数えられていますが、それもおかしなことです。
空也聖は念仏を唱えながら諸国を歩いて、空也上人とほとんど同じことをしています。空也が亡くなったときに作られた『空也誄』という非常に信憑性のある伝記には、空也上人は峠で人馬が苦労していると、鍬をもって平らげて通りよくしたということが書かれています。
  やがて空也聖が遊行をやめて定住するようになると、葬式を執り行う村が生まれました。そこには空也の墓と称するもの、あるいは空也堂と称するものがあります。
 その村の人たちは本当に空也がそこに埋まっていると思って拝んでいたようです。空也聖たちは多少差別されたので、精神的なよりどころとして空也の墓谷や、空也堂を建てていたと解釈して間違いありません。
 空也堂にまつっていた阿弥陀さんを三蔵院、あるいは三蔵寺と呼ばれた日尾八幡の別当寺に移して浄土寺という名前に変えたのではないかと推察できます。
 そう考えないと、お釈迦様をまつったお寺を浄土寺というのはおかしいわけです。
浄土寺という名前に変わったのは、むしろ阿弥陀様の信仰が強かったということを示しています。
 
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 本堂の本尊の厨子に、室町時代の辺路修行折の落書きあり。

これは国宝ですから、めつたに拝観できません。
 大永八年(1528)の年号が書かれた落書には、「金剛峯寺谷上惣識善空、大永八年五月四日」と書いてあります。高野山には、現在でも谷上という場所があります。そこの惣識とあるので、大永八年五月四日に善空という大が代表してお参りしたということだとかもいます。
 その次は「金剛峯寺満口口同行六人、大永八年五月九日」という落書です。
現在のお遍路さんは、菅笠や札ばさみに「同行二人」と書いています。これは、一人でも弘法大師と二人で歩いているという意味ですが、昔は一人だけれども弘法大師と二人だ。したがって、三人で回ったら同行六人だという数え方はしないので、実際、六人で回ったようです。
 その次は「享禄四年七月廿三日 筆 覚円、連蔵、空重、泉重、覚円」とあるので、四人で参っています。その中でこの落書を書いた人物は覚円だとみずから語っております。
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 江戸時代に入ると、遍路という字と辺路という宇が混じって使われるようになります。そして、元禄年間以降になると遍路に変わります。
その次の落書には、「四国辺路同行四人川内口津住口覚円廿二歳」と書いてあるので、前の筆者と同じ筆者がもういっぺん自分の年を宣伝するために書いたものかもしれません。
 その次に「三川同行口口遍路大永五年二月十九日」という落書の三川は三河です。
 その次は平仮名混じりで「四国中えちぜんのくに一せうのちう八いさの小四郎」と書いてあります。「一せうのちう」というのはよくわかりませんが、越前の国の一つの荘の役をしていた八いさの小四郎という者が四国中を参ったということだとおもいます。
 
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そのあとに「四国中辺路」が出てきます。

「四国中辺路口善冊口辺路同行五人のうち阿烏名東住人口大永七年七月六日」の烏は州と同じですから阿烏は阿波です。
 それから、「書写山泉俊長盛口口大永七年七月吉日、なれ大師辺照金剛」という落書もあります。みんなでいろいろと書いたものです。

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