近世初頭の生駒藩の時代には、庄内半島の浦々は「庄内八浦」としてひとつに捉えられていたようです。
庄内八浦(天保国図)
庄内組を構成する村は、大浜浦・積浦・生里浦・箱浦・香田浦・家浦の六浦と粟島・志々島の二島をあわせたもので、「庄内八浦」とも呼ばれていました。それが幕末(天保期)に分村されます。つまり、庄内組は、もともとは庄内浦としてひとまとまりの「浦」社会だったと研究者は考えています。これは次のように裏付けられます。
以上からは、「庄内八浦」は「庄内浦」や「庄内中」として、ひとまとまりに捉えられていたようです。①「寛永国絵図」に「庄内浦」とあり、各浦が描かれ全体で「高六三八石」と記されている②寛永17年(1640)の生駒領高覚帳では「庄内中」としてほぼ同高とされている。
その上で「西讃海陸予答」・「西讃府誌」は、の各浦の特徴を次のように記します。(要約)
①大浜浦は、最も人家が多く漁業が年中盛んで鯛の網代場がある。庄内浦の産土神船越八幡宮が鎮座
②生里浦は、浦の土地が狭く漁業を業とする。そのため、他の浦との衝突をも生む。
②生里浦は、浦の土地が狭く漁業を業とする。そのため、他の浦との衝突をも生む。
③箱浦は、鰯(いわし)漁の網代があり、網元がいる
④積浦には、鯛の網代場があり、漁業が盛んであり、爛(たで)場がある。
⑤香田浦は、番匠(大工)など諸職人がいて、「船手之役(水主役)も多い。そして芸州能地の家船の定住地である
⑥家浦は、燧灘に面しているので仁保(仁尾)村との関係が強い
⑥家浦は、燧灘に面しているので仁保(仁尾)村との関係が強い
⑦粟島は、廻運が盛んで、摂津大坂の大船が立ち寄り、各国と交易する廻船問屋が何軒もあること
⑧志々島は、漁事と廻運か盛んで、鮪や蝶が名産で、タデ場もあること
⑦には粟島について、大坂や松前藩の大船が寄港し、廻船問屋が何軒もあると記します。これは前回に紹介しました。しかし、ここには粟島だけでなく⑧の志々島にも船問屋があったことが記されています。粟島以外の交易活動を行っていた浦々を今回は見ていくことにします。
享保年間の「諸国廻船入船帳」には、入港してきた船について入津年月日・船頭名・船名などが記されています。




浜田市外ノ浦の旧廻船問屋(米屋)の客船帳
この記録は、船番所というた公的な機関が残したものですが、それがやがて商人が行うようになり、さらに船宿に業務が移っていきます。そして、業務の細分化・複雑化が進むと船問屋が出現するようになります。こうして船問屋が入港船を整理し、今後の経営資料とするために、入津年月日順ではなく国別・地域別に編集し直します。「諸国客船帳」と呼ばれるものです。ここで注意しておきたいのは、これに一旦記載されると船主は勝手に船問屋を変えることはできませんでした。そのため船問屋の方は、船主を大切にしていたようです。 庄内半島の浦々には、「御客船」として全国の船がやって来ていました。
以前に大崎下島の御手洗でお話したように、廻船が立ち寄るのは、その港に船乗りたちを引き寄せる吸引力があっためです。庄内半島の浦々にはどんな吸引力があったのでしょうか。また、どんな船問屋がいたのでしょうか。浦島太郎伝説の伝えられる箱浦を見ていくことにします。
以前に大崎下島の御手洗でお話したように、廻船が立ち寄るのは、その港に船乗りたちを引き寄せる吸引力があっためです。庄内半島の浦々にはどんな吸引力があったのでしょうか。また、どんな船問屋がいたのでしょうか。浦島太郎伝説の伝えられる箱浦を見ていくことにします。
箱浦の浦島太郎墓碑の由来
まずは角川の「日本地名大辞」で箱浦を調べると次のような情報を得ることができます。
①箱浦の地名由来は箱崎八幡官が鎮座したことにちなむと(西讃府志)②近代になって浦島伝説が流布されようになり、玉手箱の箱によるという伝えができた。③馬神塚は畑を荒らす八幡官の神馬を殺した農夫が心乱して狂死し、その後も村内に崇が多く出たので、村人が神馬の骨を埋めて供養した塚である。④近世の箱浦は詫間郷に属し、庄内村が幕末期に大浜浦・生里浦・積浦・栗島・志々島・香田浦・家浦の諸村に分村して成立。丸亀京極藩荘内組に属す。⑤村高 102石余⑥戸数 121(うち加古(水夫)50)⑦人口 570(男284・女286)⑧舟 70石1・55石1・50石1・35石1・30石9・15石29⑨牛 60⑩泉は山田泉・石丸泉・新田泉・辻之内泉・平石泉
⑪神社は仲哀天皇・応神天皇をまつる箱崎八幡宮,総社大明神ほか祠7
⑫寺院は地蔵菩薩を本尊とする香蔵寺ほか堂2⑬丸亀藩の番所が置かれ役人1名が駐在
箱浦には、守(森)屋という廻船問屋がありました。森家に残された文書目録を見ておきましょう。


讃岐国三野郡箱浦勝間屋森家文書目録目次 船問屋 (一) 一、松前伊豆守領大坂蔵屋敷関係 〔取締役 森歓兵衛〕 〔大森・高橋一件〕 ニ、廻 船
三、航 海 〔長者丸〕〔晴雨録〕
四、経 営 〔圓亀米社〕〔借用金〕
五、役向書状 〔森飲兵衛宛書状〕〔森徳三郎宛書状〕〔森茂平治宛書状〕
船問屋(二)
一、回 漕 〔肥料〕〔水揚〕〔荷物運賃仕出簿〕〔右近権左衛門船〕 ○森仙吉関係 〔中村三之亟船〕
〔広海二三郎船〕 〔客船ひかえ〕
ニ、経 営 〔煙草〕 〇全国煙草元賣捌人協会、○丸亀煙草元賣合名会社、○多度津支店、○阿州證券
〔塩〕 ○塩賣買 林田塩田 与島製塩 仁尾塩田
〔諸取引〕〔證文〕〔日賀恵〕〔金銭出入〕〔差引簿〕〔電信扣〕
三、諸会社 〔丸亀米会舎〕〔三栄組・讃栄社〕〔讃豊合資会社〕〔明治商船合資会社〕〔林兼船舶部〕〔実業会〕・・・・ 六〇 網 元 一、鯛 網 〔縛網〕〔網子〕
○契約勘定 〔造船〕〔作業〕〔網仕込〕〔水揚〕 ○水揚 ○仕切
〔金銭出入〕 ○諸通帳 ○地子取立
二、朝鮮出漁
三、諸猟漁 〔算用〕〔水揚〕〔賣買〕〔萬覚帳〕
四、漁業組合 〔三豊郡漁業共同会〕〔三崎漁業会〕
五、書 状 〔友八宛書状〕 〔森役太宛書状〕
以下略
この目次からも分かるように、森家は越前国河野浦の大廻船問屋として有名な右近家と取引をしていた船問屋である一方、網元でもありました。
繁栄したこと。文書からは森家の当主が当主の活動を行っていたことが読み取れます。
①茂平治 → ②善蔵 → ③歓兵衛→ ④徳三郎 → ⑤庄太郎 → ⑥役太
船問屋としての始まりは、文化・文政期頃まで遡ります。天保5(1834)から2年間は、当主の③歓兵衛は北海道松前に住んでいたようです。そして松前藩から直々に「藩の大坂蔵屋敷の取締役になってくれ。」というような話が、丸亀藩を通じてあったようです。病身でもあったので断っていますが、「とにかく是非にというので参加した」というように史料には載せられています。遠く離れた讃岐の商人を、藩の取締役に取立てられるとするのですから松前藩のリクルート戦略も大胆です。
②善蔵の時代の弘化2年(1845)には赤間関にも出店して、扇子・大麦・酒・鯛・干鰯・昆布・瀬戸物などを取引しています。さらに明治2年(1869)には多度津にも支店を出しています。
研究者が注目するのは、松前藩御手船の長者丸の動きです。この船は松前藩の御座船で、参勤交代の時には、上に屋形を乗せて江戸に走り、荷物を運ぶ時には屋形を外して廻船の仕事をしています。この船が讃岐にも来港しているのです。北海道とのつながりだけでなく、大坂・下関・兵庫・堺など瀬戸内海各地との取引を行っています。
下の表は、箱浦にやってきた船籍別船数です。ここからは次のようなことが分かります。
①大阪と松前船籍の船が同数(27隻)で、飛び抜けて多く、両者で約半数をしめる。②粟島・仁尾・積・詫間など近隣の港からの入港が13を数える。③又十柏屋が14隻あるが、よくわからない。
こうして見ると全体で102隻、その内の半分は大阪周辺と松前船籍であったことになります。ひと船入ると、周辺の村々が潤うとされた時代です。102艘もの廻船が出入りした箱浦の繁栄ぶりと、それを差配した船問屋森家にもたらされた富はいかばかりのものだったでしょうか。ここからは粟島ばかりでなく、その対岸の箱浦にも多くの廻船がやってきていたこと、そこには勝間屋(森家)という廻船問屋があり、多くの富を集積していたことが分かります。
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