
史料Bは1391(明徳二)年のもので、8月に行われる放生会の駕輿丁(神の乗る駕篭かき)のローテション・リストです。これを見ると、太鼓夫を仁尾が担当し、駕輿丁を他の4つの村が担当していることが分かります。
研究者が注目するのは、この時点で浪打八幡宮名主座の名が、村ごとに区分けして表示されていることです。ここからは、14世紀末期には詫間荘には個別村落が姿を見せていたことがうかがえます。
研究者が注目するのは、この時点で浪打八幡宮名主座の名が、村ごとに区分けして表示されていることです。ここからは、14世紀末期には詫間荘には個別村落が姿を見せていたことがうかがえます。
浪打八幡宮名主座の場合は、惣荘名主座の名がそれぞれの個別村落名で表記されています。これは詫間荘の名というよりも、吉津村、中村、比地村、仁尾村(仁尾上村)や詫間村の名という意識の方が強いように思えます。そうだとすれば、浪打八幡宮名主座の名は、「個別村落の名」の集合体ということになります。
これについては、前回見たように詫間荘内の仁尾浦の動きが強い影響を与えていると研究者は推測します。
これについては、前回見たように詫間荘内の仁尾浦の動きが強い影響を与えていると研究者は推測します。
仁尾浦の京都鴨社の供祭人(神人)たちは、神饌奉納の代償として、いろいろな特権を手に入れ、広範囲の経済活動を燧灘を舞台に繰り広げます。それが仁尾賀茂神社を単なる個別村落鎮守社にとどまらない、より広範囲に影響力をもつ神社へと成長させたことは前回見たとおりです。仁尾賀茂神社は「準惣荘鎮守社的な存在」に成長したのです。このような仁尾浦の動きが、他の吉津村、中村、比地村や詫間村を刺激し、自立化を促したというのです。
【史料H】 1769(明和六)年に浪打八幡宮検校宝寿院が詫間村庄屋に社領の内容を伝えた覚書を見ておきましょう。
覚高四拾石一五町七反四畝拾歩生駒様御代より御免許御証文御座候(中略)〆右之通浪打八幡宮社領分二而御座候、以上詫間村検校明和六(1769)年丑七月六日庄屋 惣十郎殿(香川県立文書館所蔵片岡氏収集文書一五七号)。
ここからは次のようなことが分かります。
①浪打八幡社は、生駒時代に寄進された40石(約15、7㌶)の社領を持っていたこと②所有社領面積を、浪打八幡宮検校(宝寿院)が詫間村庄屋(惣十郎殿)伝えていること
この背景には江戸時代の後半になると、荘郷神社が維持管理することが難しくなったことが背景にあるようです。ここは浪打八幡宮が社領の維持管理が困難になって、詫間の庄屋に援助を求めていることがうかがえます。これは、経済的基盤が崩れた惣荘鎮守社の名主座が、だんだんと政治的主導権を失っていく過程でもあるようです。浪打八幡宮の名主座も、それまでのスタイルでは存続できなくなってきたようです。
【史料I】未(元禄四年力)八月浪打八幡宮旧例書(香川県立文書館所蔵)
豊後相模浪打八幡宮旧例書浪打八幡宮神方旧例有来之次第一 毎年八月祭礼二五ヶ之頭人方へ門注連おろし二御前人三右衛門榊を持進、五ヶ村之村頭人方へ参、門注連八月朔日二おろし申次第一番 吉津村二番 中村二番 比地村四番 仁尾村五番 詫間村右之通仕来り申候一 八月三日四ヶ之村頭人詫間之頭人方へ寄合、神事有来之相談仕、詫間頭人より四ヶ之村頭人を振廻申候、右之通、毎年仕来り申候一 八月十日八幡宮御はけおろし、所かざり仕、検校説言上ヶ御ヘい三右衛門請取、社人頭人共頂戴仕次第一番 中村 豊後二番 中村 相模三番 吉津村 頭人四番 中村 頭人五番 比地村 頭人六番 仁尾村 頭人七番 詫間村 頭人八番 詫間村 惣大夫右之通頂戴仕候、其上二検校上座二面右之次第二座を作り、検校より御かわらけ始り連座次第二御酒頂戴仕候而宮ヲ披申候(中略)未ノ八月廿二日 中村社人 豊後 判同村社人 相模 判中村豊後・相模相談、両人旧例書仕、吉田へ指上候へ者、御帰被成、拙僧二、二人之社人役付旧例書付候へと被仰出、書付指上候、則吉田二留り、其返二被仰付候検校理巌
意訳変換しておくと
豊後相模浪打八幡宮の旧例書の次第は次の通りである一 毎年八月祭礼の際には、25の頭人が門注連を下ろしのために、御前人三右衛門の所へ、五ヶ村の村頭が榊を持っていく。門注連を八月朔日(旧暦8月1日=新暦9月半ば)に下ろす順番は次の通りである。一番 吉津村二番 中村二番 比地村四番 仁尾村五番 詫間村ローテンションは以上の通りである。一 8月3日に四ヶ村の頭人が詫間の頭人方へ集合して、神事進行について協議した。そこで詫間頭人から四ヶ之村頭人を振り分け、以下のようなローテションにすることになった。一 8月10日八幡宮御幣おろし(おはけおろし=神社の祭前の清め)、所かざりを行った後で、検校(宝寿院)から、三右衛門が受取り、社人頭人がともに頂く。その時の順番は以下の通りである。一番 中村 豊後二番 中村 相模三番 吉津村 頭人四番 中村 頭人五番 比地村 頭人六番 仁尾村 頭人七番 詫間村 頭人八番 詫間村 惣大夫以上のような順番で受取り、上の順番で座を作って検校(宝寿院)を上座にして座を作り、御かわらけを廻して御酒を頂戴することにする。(中略)未ノ八月廿二日 中村社人 豊後 判同村社人 相模 判以上は、中村豊後・相模が相談し、両人が旧例を書きだし、吉田へ提出されたものである。拙僧び、二人の社人役付が旧例書付があることを申し出て、それを提出したので、吉田が預かり確認した上で、返却を申しつけた検校(宝寿院)理巌
史料Iは年紀未詳、未八月の文書です。浪打八幡宮の中村社人である豊後・相模両人の社務に関する係争があったことが別の文書から分かります。その文書には1691(元禄四)年八月の年紀が入っているので、史料Ⅰも同年文書のようです。

注連下ろし
文書に出てくる「門注連を下ろし」とは、祭りの始まる前に、神域や町内を清めるために行う行事のことです。注連縄を貼った青笹を門状に立て、竹串御弊(たけぐしごへい)と呼ばれる竹で作った御弊を飾って神域にします。つまり、祭り期間中は、注連縄を貼った青笹からは神様の領域ということになります。
また、祭り終了時の御神酒をいただく順番をめぐっても争われていたようです。それが新たに決められたようです。社務をめぐる係争の中で、検校(宝寿院)はリーダーシップを強化して、新ルールを制定しています。そして以後は、「別当」と自称するようになります。ちなみに、中世の文書には宝寿院が別当であったことを示すものはないようです。別当呼称の初見は、この元禄四年八月御断申上覚写からで、これ以降に、宝寿院検校は別当または別当検校と呼ばれるようになります。
史料Iで研究者は注目するのは、浪打八幡宮名主座の頭役の表記です。吉津村頭人、中村頭人、比地村頭人、仁尾村頭人、詫間村頭人というように、村ごとの頭役として勤仕されています。今までは、史料Bで見たように、「名」の名前が記されて固定されたものでした。それが各村ごとにそれぞれ頭人を選出して、その村の頭人が頭役として奉仕する祭祀形態に変化したことになります。このような形態の宮座を、研究者は「郷村頭役宮座」と呼んでいます。


駕輿丁(かよちょう)
1645(正保二)年には、駕輿丁を名ごとに昇ぐ方式を確認しています。これも係争があったのでしょう。

浪打八幡宮でも近世になってから百手神事が行われるようになります。
その百手頭人もやはり郷村頭役としておこなわれています。17世紀後期には、各村の名主家継承者が頭役を勤めていたようです。それが、次第に頭役勤仕者はより広い階層に拡がっていくようになります。各村落で、「郷村頭役宮座」の頭役を勤める身分階層が「郷村頭役身分」です。浪打八幡宮の名主頭役身分は、17世紀後期に家格制に基づく近世郷村頭役身分に変質したと研究者は考えています。
詫間荘における村落内身分についてまとめておきます。
①詫間荘の惣荘鎮守社である浪打八幡宮の名主座は、14世紀後期までには成立していた。
②中世の浪打八幡宮名主座の運営は、社務(惣官)と検校が指導的な役割を果たしていた。
③詫間荘準惣荘鎮守社である仁尾賀茂神社宮座は、京都の鴨社との関係から、鬮次成功制宮座であった。
④畿内近国の鬮次成功制宮座は、京都の鴨神社との関係を通じて仁尾に伝播した。
⑤詫間荘という一つの荘園に二つのタイプの宮座の併存するのは、「周辺部」の特徴である。。
⑥浪打八幡宮の名主頭役身分は、17世紀後期に家格制に基づく近世郷村頭役身分に変質した。
⑦浪打八幡社の郷村頭役宮座は、単なるトウヤ祭祀ではなく、宮座である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「薗部寿樹 村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘 山形県立米沢女子短期大学紀要 第43号」