瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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 海民から海賊へ、そして海の武士へ
  室町期に活発化するのが海民の「海賊」行為です。その中で「海の武士」へ飛躍したのが芸予諸島能島の村上氏です。このような「海賊=海の武士団」のような性格の勢力は讃岐にもいました。それが多度津白方や詫間を拠点とした山地氏のようです。 今回は讃岐の海賊・山地氏を探ってみましょう。テキストは「田中健二 中世讃岐の海賊について 白方の山路氏」 香川県文書館紀要」です 

塩の荘園弓削(ゆげ)庄を押領した海賊たち
 海賊行為は南北朝の動乱の中で活発化します。
芸予諸島の弓削島は、塩の荘園として京都の東寺の荘園でした。しかし、南北朝以後になると小早川氏が芸予諸島に進出しはじめ、荘園領主東寺と対立するようになります。このような在地勢力の「押領」に対して、東寺は、さまざまな手段で対抗します。貞和五(1349)年には、室町幕府に訴えて、二名の使節を島に派遣し、荘園下地を獲得することに成功しています。それに要した費用を計算した算用状の中に、能島村上氏が次のように登場します。

野島(能島)酒肴料、三貫文」

これは、野(能)島氏の警固活動に対する報酬と研究者は考えているようです。 このように能島村上氏の先祖は、荘園を警固する海上勢力の姿で記録に残っています。

3弓削荘1
 ところが約百年後の康正二(1456)年には、村上氏は押領側として、次のように記されています。
東寺百合文書 『日本塩業大系史料編』古代・中世一〔康正三年(1456)村上治部進書状〕
弓削島之事、於此方近所之子細候間、委存知申候、左候ほとに、(あきの国)小早河少泉方、(さぬきの国しらかたといふ所二あり)山路方、(いよの国)能島両村、以上四人してもち候、小早河少泉、山路ハ細河殿さま御奉公の面々にて候、能島の事ハ御そんちのまへにて候、かの面々、たというけ申候共、御さいそく二よつて公物等をもさた申候ハヽ、少分にても候へ、とりつき可申候
 ここには、応仁の乱の直前にの1456(寛正3)年に、島の経営を任されていた東寺の僧が弓削島から塩が納入されない背景を報告しています。その理由として挙げているのが、周辺勢力のからの押領です。押領者として挙げているのが次の3者です
①(あきの国)小早河少泉(小泉)氏
②(さぬきの国しらかたといふ所二あり)山路(山地)氏、
③(いよの国)能島両村(村上氏)
  5年後にも、次のような記録があります
東寺百合文書 『日本塩業大系史料編』古代・中世一 〔弓削島庄押領人交名案〕
一、弓削島押領人事、①小早川小泉方、③能島方、②山路方三人押領也、此三人内小泉専押領也、以永尊口説記之、寛正三年(1462)五十七

①の小早川少泉(小泉)氏は、後の毛利元就の息子隆景が養子として入ってきて、大大名に成長していく小早川氏の一族です。小早川氏が三原を拠点に、東寺の荘園を横領しながら芸予諸島に勢力を伸ばしていく様子がうかがえます。
③は能島ですから能島村上氏のことです。後の海賊大将といわれる村上武吉が登場してくる所です。
京都・東寺献上 弓削塩|弓削の荘

 安芸国の小早川氏の庶家小泉氏、能島村上氏と共に、讃岐国の山地氏は弓削荘を「押領」している「悪党=海賊」と東寺に訴えられています。村上氏は百年前には警固役だったのが、応仁の乱の前には押領(海賊)側になっています。ここからはこの時代の「海賊」には、次の二つの顔があったことがうかがえます。
   ①荘園領主の依頼で警固をおこなう護衛役(海の武士)
 ②荘園押領(侵略)を行う海賊
 香川県の研究者が注目するのが「(さぬきの国しらかたといふ所二あり)山路(山地)方」です。
この「さぬきの国しらかた」とは、現在の多度津町白方のことです。ここからは15世紀後半の讃岐多度津白方に、山地氏という勢力がいたこと、芸予諸島にまで勢力を伸ばして弓削島を横領するような活動を行っていたことが分かります。そのためには海軍力は不可欠です。山地氏も「海賊」であったようです。

3 天霧山4
  香川氏の天霧城

 気になるのが白方の山地氏と多度津の香川氏の関係です。
香川氏は、讃岐守護細川氏の下で西讃の守護代を務めていました。居館を現在の多度津桃陵公園に置き、堅固な山城を天霧山に築いて丸亀平野や三野平野に睨みをきかせていました。山地氏の拠点白方は、そのお膝元になります。

3白方Map

 白方は、弘田川河口にあった古代多度郡の港です。
古代善通寺勢力の外港は白方港でした。盛土山古墳を初めとする古墳群が港周辺の小高い丘に並びます。弘田川の堆積作用を受けて、港としての機能が低下し、ラグーンの入江奥の堀江港にその地位を譲ります。堀江港の管理センターの役割を果たしたのが四国霊場道隆寺だったことは以前にもお話ししました。

3 堀江

 戦国時代の末期に、信長との石山合戦の戦局打開のために毛利軍が讃岐に押し寄せてきます。信長方の阿波三好勢力と元吉(櫛梨)城をめぐって戦った元吉合戦ですが、その際に毛利軍が上陸してきたのは堀江港でした。桃陵公園下の多度津の港が本格的に活動を始めるのは近世以後のようです。多度郡の港は 
①古代 白方港 → ② 中世 堀江港 → ③近世 多度津
と変遷していることは以前にお話ししました。

3 天霧山5

   話を山地氏と香川氏の関係に戻しましょう
 瀬戸内海の海の関所の通行記録である『兵庫北関入船納帳』には、多度津港を母港とする船も記録されています。多度津の船は、香川氏管理下にあって、京都在住の守護細川氏にいろいろなものを送り届けたので免税扱いとなっています。ここで注意したいのは、守護代香川氏の便船を動かしていた船乗りたちは、どんな海民たちだったかということです。第1候補は、白方を拠点とする山地氏ではなかったのかと研究者は考えているようです。
 以上から推察できることをまとめておきます。
①山地氏は詫間城を本拠にしながら、香川氏の配下として天霧城の外港である白方を守っていた
②山地氏は香川氏の水軍の指揮官で、近世の船手に当たる存在だった。
3 天霧山2

研究者は、山地氏について史料的に次のように裏付けます
  『讃陽古城記』香川叢書二
一、同池戸村(三本松)中城跡 安富端城也、後二山地九郎右衛門居之、山地之先祖者、山地右京之進、詫間ノ城ノ城主ニシテ、三野・多度・豊田三郡之旗頭ノ由
一、三野郡詫間村城跡 山地右京之進、三野・多度・豊田三郡之旗頭ナリ、後香川山城守西旗頭卜成、息山地九郎左衛門、三木郡池戸村城主卜成、香川信景右三郡之旗頭卜成、生駒家臣三野四郎左衛門先祖也
意訳すると
三本松の池戸村の中城跡は安富城の枝城で、後に山地九郎右衛門が居城とした。山地氏の先祖は、山地右京之介で詫間城の城主で、三野・多度・豊田三郡の旗頭役であったという。
三野郡詫間村の城跡は、山地右京進の城で三野・多度・豊田三郡の旗頭で、後に西讃守護代の香川氏の配下になった。息子の山地九郎左衛門は三木郡池戸村の城主となり、香川信景の旗頭であった。これが生駒家の重臣三野四郎左衛門の先祖である。
『翁嘔夜話』讃州府志の三野郡の項目
山地右京進城
在詫間、至山地九郎左衛門、徒千三木郡池戸城、天正十三年没、其臣冒姓、子孫於今為庶、秋山、山地泣原甲州人、従細川氏而来
意訳すると
 山地右京進の城は詫間にあり、山地九郎左衛門の時に、三木郡池戸城に移った。天正十三年の戦役で没落し、一族は下野した。秋山・山地氏は、もともとは甲州出身で、守護の細川氏とともに讃岐にやって来た

以上のように近世になって書かれた上の二つの資料からは、次のようなことが読み取れます。
①山地氏は甲斐国出身の武士で、右京進の時に三野郡詫間城が本拠
②山地右京進の時に、西讃守護代の香川氏の配下へ
③その子の九郎左衛門の時に、三木郡池辺城へ移動
④山地氏は、秀吉の四国制圧で没落
⑤生駒氏に重臣として登用された三野四郎左衛門は山地氏の子孫
疑問になるのは、どうして山地氏が詫間から三本松へ移されたかです。それはひとまず置いておいて先に進みます。
山地氏が香川氏の臣下となったとありますが、別の資料で確認します。
「壼簡集竹頭」所収文書 東京大学史 高知県立図書館原蔵
〔香川信景感状写〕
去十一日於入野庄合戦、首一ツ討捕、無比類働神妙候、猶可抽粉骨者也、
天正十一年五月二日           信景
山地九郎左衛門殿
(注記)
高知山地氏蔵、按元親庶子五郎次郎、為讃州香川中書信景養子、後因病帰土佐、居豊岡城西小野村、元親使中内藤左衛門・山地利奄侍之、此九郎左衛門香川家旧臣也、利奄蓋九郎左衛門子手、
  この文書は、注記に見えるように、香川氏と共に高知に亡命した山地家に残されていたものです。内容は天正11年(1583)4月21日に行なわれた大内郡入野庄での合戦で、山地九郎左衛門が挙げた軍功を香川信景が「首一ツ討捕、無比類働神妙候」と賞したものです。ここからは山地氏が香川氏の配下にあったことが分かります。
 この中に見える九郎左衛門は『讃陽古城記』と『翁嘔夜話』から山地右京進の息子で、三木郡池戸城へ移り天正十三年に没したと記されていた九郎左衛門と同一人物のようです。山地家は右京進のあとは、九郎左衛門と左衛門督の二家があり、九郎左衛門の子孫は香川信景の養子に従い土佐へ亡命し、左衛門督の子孫は讃岐に残ったようです。
 讃岐に残った一族が、先ほど資料で見た「生駒家で重臣に登用された三野四郎左衛門」の祖先になります。 
 山地氏も香川氏の家臣団に編入されていたことが分かります。

 山地氏は海賊であると同時に、香川氏の「水軍」部隊として活躍していたことが分かります。
九郎左衛門が詫間から三木郡へ移住したのも、香川氏の命令だったのでしょう。当時の香川氏の課題は、東讃の十川氏や阿波の三好氏と対立をどう有利に運ぶかでした。そのために海軍力を持ち機動性の高い山地氏を東讃に送り込んだと研究者は考えているようです。この文書では九郎左衛門が大内郡で戦い、その論功行賞を香川氏が行っています。戦った相手は、十川氏や三好氏だったのではないでしょうか。

3 天霧山からの庄内半島
天霧城より望む備後福山方面

山地氏が香川氏直属の海軍として、あるいは輸送部隊として活躍したと推察できる資料として、研究者は次の資料を挙げます。
18世紀初頭の『南海通記』の「細川晴元継管領職記」で、今からちょうど500年前のことが次のようにあります。
永正十七年(1520)6月10日細川右京大夫澄元卒シ、其子晴元ヲ以テ嗣トシテ、細川讃岐守之持之ヲ後見ス。三好筑前守之長入道喜雲ヲ以テ補佐トス。(中略)
讃岐国ハ、(中略)細川晴元二帰服セシム。伊予ノ河野ハ細川氏ノ催促二従ハス.阿波、讃岐、備中、土佐、淡路五ケ国ノ兵将ヲ合セテ節制ヲ定メ、糧食ヲ蓄テ諸方ノ身方二通シ兵ヲ挙ルコトヲ議ス。其書二曰ク

出張之事、諸国相調候間、為先勢、明日差上諸勢候、急度可相勤事肝要候ハ猶香川可申候也、謹言
七月四日               晴元
西方関亭中

  此書、讃州西方山地右京進、其子左衛門督卜云者ノ家ニアリ。此時澄元卒去ョリ八年二当テ大永七年(1527)二(中略)
細川晴元始テ上洛ノ旗ヲ上ルコト此ノ如ク也。
この史料は、管領細川氏の内紛時に晴元が命じた動員について当時の情勢を説明した内容で3段に分けることが出来ます。
 まず一段は澄元の跡を継いだ晴元が、父の無念を晴らすために上洛を計画し、讃岐をはじめとする5ケ国に動員命令を出し、準備が整ったことを記します。
 第2段に「書二曰ク」と晴元書状を古文書から引用します。その内容は
「京への上洛について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務めることが肝要である。香川氏にも申し付けてある」
 というのですが、これだけでは何のことかよく分かりません。
発給元は細川晴元 宛先は「西方関亭中」とあります。これも謎です。最後に晴元書状については、
「この書、讃州西方山地右京進、その子左衛門督と云う者の家にあり」と注記しています。ここから、この文書が山地氏の手元に保管されていたことが分かります。

 宛先の「西方関亭中」とは誰のことでしょうか。
研究者や次のように解読していきます。
中世の讃岐国で「西方」と呼ばれるのは、室町時代以降は、両守護代安富・香川両氏の管轄地をそれぞれ東方、西方と呼んでいるようです。つまり、西讃地方の「関亭中」となります。
それでは「関亭中」とは何のことでしょうか。
宛先の「○○中」の表記は、たとえば、名主中、年寄中のようにある集団を指すようです。現在の「○○御中」と同じ使い方です。最後に残ったのは「関亭」です。これは、「関立」の誤読だと研究者は指摘します。それでは「関立」とは何でしょうか.
「関立」については、山内譲氏が『海賊と海城』(平凡社選書一九九七)の第六章「海賊と関所」に次のように説明しています。
①中世は「関」「関方」「関立」は海賊の同義語
②海賊は「関」「関方」「関立」と呼ばれ遣明船の警護や荘園の年貢請負などを行っていた。
③彼らは関所で、通行料「切手・免符」や警護料に当たる「上乗り」を徴収していた。
「関立」(海賊)を「山立」(山賊)と比較すると、「山立」は縄張りとしている山を通行する人々から「山手」という通行料を徴収します。それに対して「関立」は「海手」を徴収します。つまり「関立」は海に設けられた「関」で、通行料を徴収することから関立という名前で呼ばれたようです。
 「関立」とは海賊のことのようです。
ちなみに、小豆島の明王寺釈迦堂の瓦銘には「児島中、関立中」と刻まれています。これは、今風に訳すると、児島中は備前児島の海賊、そして関立中は小豆島の海賊ということになります。小豆島にも海賊=海の武士集団がいたようです。

 宛先の「西方関亭中」は「西方関立中」で「西讃の海賊へ」ということになります。
そして、書状が山地家に保管されていました。これは「西方関亭中=山地氏」ということでしょう先ほどの細川晴元の書状を「超意訳」すると
「軍勢の準備が出来たので、明日そちらに向かわせる。輸送船を準備し早急に瀬戸内海を渡り畿内に輸送するように命じる。このことは香川氏の了解も得ている。
ということになります。
 ここからは 
①守護細川氏 → ②守護代香川氏 → ③水軍 山地氏
という封建関係の中で、山地氏が香川氏の水軍や輸送船として活動し、時には守護細川氏の軍事行動の際には、讃岐武士団の輸送船団としても軍事的な役割を果たしていたことが見えてきます。
 讃岐には塩飽の島々以外にも、海賊はいたようです。

以上をまとめておくと
①山地氏は、塩の荘園弓削庄を押領する海賊であった
②一方で詫間城主として、西讃守護代香川氏に仕える「海の武士団」でもあった
③山地氏は香川氏の海軍・輸送船団として、管領細川氏の軍事行動を支えた。
④山地氏の拠点港としては、天霧城の麓の白方港が考えられる。
⑤山地氏は香川氏の対三好・十川戦略のために三本松に拠点を構え戦った
⑥長宗我部の讃岐侵攻の際には、香川氏と共にその先兵を務めた
⑦秀吉の四国制圧で、山地氏の本家は香川氏について高知に亡命した
⑦山地氏の分家は、讃岐に留まり生駒藩では重臣として登用されるものもいた。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
橋詰茂 「室町後期讃岐国における港津支配」    四国中世史研究1992年
田中健二「中世讃岐の海賊について 白方の山路氏」 香川県文書館紀要
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  「海民」は、どんな活動をしていたのか?
室町時代になると、瀬戸内海を生活の場として生きる「海民」の姿が史料の中に見えるようになります。彼らは、漁業・塩業・水運業・商業から略奪にいたるまで、いろいろな生業で活動します。しかし、荘園公領制の下の鎌倉時代には、彼らの姿はありません。荘園公領制の下では農民との兼業状態だったので、見えにくかったのかもしれません。それが南北朝の内乱を経て荘園公領制が緩んでくると、海民たちは荘園領主からの自立し、専門化し活発な活動を始めるようになります。瀬戸内海の「海民の専業化」過程を見てみることにしましょう。
まずは、海運業者です。海運業者といえば「兵庫北関入船納帳」
3兵庫北関入船納帳

 「兵庫北関入船納帳」には、文安二(1445)年の一年間に東大寺領兵庫北関(神戸市)に入船した船舶一般ごとに、船籍地、関銭額、積荷、船頭、問丸などが記されています。この史料の発見によって、船頭がどこを本拠にしたのか、何を積んでどのような海運活動を行っていたのかなどが分かるようになりました。 例えば讃岐船籍の舟を一覧表にすると次のようになります。
兵庫北関1
ここからは中世讃岐で、どんな港活動していたのか、また、その活動状況が推察できます。ここに地名がある場所には、瀬戸内海交易を行っていた商船があり、船乗りや商人達がいた港があったと考えることができます。
  芸予諸島の伊予国弓削島(愛媛県弓削町)を拠点に活動した船頭を見てみましょう。
3弓削荘1
弓削島は「塩の荘園」として、多くの塩を生産して荘園領主東寺のもとへ送りつづけていました。鎌倉時代になると、弓削島荘からの年貢輸送は、梶取(かんどり)とよばれる荘園の名主級農民のなかから選ばれた、操船に長けた人たちが「兼業」として行っていたようです。
 彼らは、中下層農民のなかから選ばれた数人の水夫とともに100~150石積の船に乗りこみ、芸予諸島から大坂をめざします。輸送ルートは、備讃瀬戸・播磨灘・大坂湾をへて淀川をさかのぼり、淀(京都市伏見区)で陸揚げするのが一般的だったようで、所要日数は約1ヵ月です。
siragi

  それが室町時代には、どのように変化したのでしょうか。 
貨客船の船頭太郎衛門の航海
 弓削島船籍の船は、「兵庫北関入船納帳」には、一年間に26回の入関が記録されています。
2兵庫北関入船納帳2
同帳記載の船籍地は約100が記されていますが、そのうちで二〇位以内に入る数値です。ここからも弓削島は、室町中期のおいては、ランクが上位の港であったことが分かります。
 「兵庫北関入船納帳」には船頭の名前もあります。そこで弓削籍船の船頭を見ると九名います。そのなかでもっとも活発に航海しているのは太郎衛門です。「兵庫北関入船納帳」から彼の兵庫湊への入港記録を拾い出してみると、次のようになります。

3弓削荘2
 積荷の「備後」というのは、塩のことです。塩は特産地の地名で呼ばれることが多く、讃岐の塩も方本(潟元)とか島(小豆島)と記されています。備後・安芸・伊予三国にまたがる芸予諸島も、古くから製塩の盛んな地域で、その周辺で生産された塩は「備後」という地名表示でよばれていたようです。
  太郎衛門の航海活動から見えてくることを挙げていきます。
定期的に兵庫北関に入関しています。
1~2ヶ月毎にはやってきています。弓削から淀までの航海日数が約1ヶ月でしたので、ほぼフル回転で舟はピストン輸送状態だったことが分かります。これを鎌倉時代と比べると、かつては梶取(船頭)が百姓仕事の合間をぬって年一回の年貢輸送に従事していました。しかし、室町時代の太郎衛門の舟は、定期的に弓削と京・大坂の間を行き来するようになっています。
北西風が吹き航海が困難とされていた冬の3ヶ月は動いていませんが、それ以外は約2ヶ月サイクルで舟を動かしています。専門の水運業者が定期航路を経営しているようなイメージです。
②太郎衛門の積荷はすべて備後=塩で統一されています
 専門の水運業者とはいっても、現在の宅急便のように何でも運んでいるのではないようです。弓削島周辺の塩を専門に運ぶ専用船のようです。塩の生産地という背景がなければ、太郎衛門のような専業船乗りは登場してこなかったかもしれません。専業船と生産地は切り離せない関係にあるようです。
③積載量が150~170石と一定しています。
 これは、太郎衛門の船の積載能力を示しているのでしょう。彼の舟が200石船であったことがうかがえます。この時代の200石舟というのは、どんなランクなのでしょうか。讃岐の舟と比べてみるましょう。
兵庫北関2
ここからは200石船は、当時としては大型船に分類できることが分かります。太郎衛門は大型の塩専用船の船長で経済力もあったようです。
   客船の船長と運航 
「兵庫北関入船納帳」とは別に、畿内方面からの下り船に対して税を課した記録も東大寺には残っています。「兵庫北関雑船納帳」で、ここには「人船」と記された舟が出てきます。これは客船のようです。船籍地は、堺(大阪府堺市)、牛窓(岡山県牛窓町)、引田(香川県引田町)、岩屋(兵庫県淡路町)なが記されています。ここからは室町時代になると客船が瀬戸内海を行き交っていたことがうかがえます。
   戦国時代天文十九(1550)年に瀬戸内海を旅した僧侶の記録を見てみましょう。京都東福寺の僧梅霖守龍の「梅霖守龍周防下向記」で、ザビエルが鹿児島にやって来た翌年の九月二日に、京都を発ち、十四日に堺津から舟に乗っています。乗船したのは「塩飽の源三」の十一端帆の船です。その舟には
「三〇〇人余の乗客が乗りこみ、船中は寸土なき」
状態であったと記します。短い記述ですが、このころの瀬戸内の船旅についての貴重な情報です。ここから得られる情報は
一つは、船頭源三の本拠、塩飽(香川県)についてです。
塩飽は備讃瀬戸海域の重要な港ですが、同時に水運の拠点でもありました。上の「兵庫北関入船納帳」には、塩・大麦・米・豆などを積みこんだ塩飽船が37回も入関しています。上の表を見ると200石積み以上の大型船が17隻、400石以上の超大型船も3隻いたようです。この大型船の存在は、塩飽の名を瀬戸の船乗り達に知らしめたのではないでしょうか。
 2つめは、源三の船は300人を乗せることができる十一端帆の船だったことです。 十一端帆の船とは、どの程度の大きさなのでしょうか。積石数と趨帆の関係表(『図説和船史話』至誠堂1983年)によると
①九端帆が100石積、
②十三端帆が200石積
程度のようです。源三船は積載量に換算すると100~200石積の船だったようです。
   室町から戦国にかけては、日本造船史上の大きな画期と研究者は考えているようです。
商品流通の飛躍的な進展や遣明船の派遣数の増加などにで船舶が急激に大型化します。そして構造船化された千石積前後の船が登場するのもこの時期のようです。その点では、源三船は従来型の中規模船ということになるのでしょう。それに300人を詰め込み「船中は寸土なき」状態で航海したのでから、今から見ると定員オーバーで乗せ過ぎのように思えたりもします。しかし、それだけの「需要」があったということになります。塩飽の船頭源三のような客船は、このころには各地にみられるようになっていたようです。
   守龍が帰路に利用した船の船頭は「室の五郎大夫」でした。
3室津

「室」は室津(兵庫県室津)のことで、古代からの瀬戸内を航行する船舶の停泊地として有名です。南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が並んでいます。室津が当時の人びとに兵庫とならぶ船頭の所在地として知られていたことが分かります。このとき守龍は、宮島から堺までの船賃として自身の分三〇〇文、従者の分二〇〇文を室の五郎大夫に支払っています。
1文=75円レートで計算すると 300文×75円=22500円
現在の金銭感覚で修正すると、この3倍~5倍の運賃だったようです。当時の船賃は、現在からすると何倍も高かったのです。自分と従者では船賃が違うのは、この時代から一等・二等のようにランクがあったことがうかがえます。瀬戸内海には、塩飽の源三や室の五郎大夫のように、水運の基地として発展してきた港を拠点にして「客船」を運航する船頭たちが現れていたのです。

3兵庫北関入船納帳4
  客船のお得意さんは、どんな人たちが、何のために利用していたのでしょうか。
もっともよく利用していたのは京都や堺の商人たちであったようです。彼らは南九州の日向・薩摩にやってくる中国船から下ろされた「唐荷」を堺まで運んで莫大な利益を得ていました。その際に、利用したのが室や塩飽の客船だったのです。
 梅霖守龍が「室の五郎大夫」で京に戻った翌年の天文二十年九月、陶晴賢が主君大内義隆を攻め滅ぼします。西瀬戸内海の実権を握った晴賢は翌年に、厳島で海賊衆村上氏が京・堺の商人から駄別料を徴収するのを停止させます。その見返りとして京・堺の商人たちに安堵料一万疋(100貫文)を負担することを要求します。
 この交渉にあたった厳島大願寺の僧円海です。彼は陶晴賢の家臣に対して海賊衆の駄別料徴収を禁止したため逆に海賊船が多くなり、室・塩飽の船にたびたび「不慮の儀」が起きて、京・堺の商人が迷惑していると訴えています。ここからも京・堺の商人が室・塩飽の船を利用していることが分かります。このように、室・塩飽の船頭たちは、
大内氏(陶晴賢)ー 海賊衆村上氏 ー 京・堺の商人
の三者の複雑な三角関係を巧みにくぐりながら瀬戸内海で活動していたようです。
  室・塩飽の船頭の活動は、戦国末期から織豊期にかけてさらに広範囲で活発化します。
信長は石山本願寺との石山合戦を通じて、瀬戸内海の輸送路の重要性を認識し、村上水軍への対抗勢力として塩飽を影響下に置き、保護していきます。秀吉の時代になってもそれは変わらず「四国征伐」の際に豊臣方の軍隊や食料などの後方物資の輸送に活躍します。それは「九州征伐」でもおなじです。
 天正14(1586)年 讃岐領主仙石秀久は、豊後の戸次川の戦いで薩摩の島津氏に大敗します。この時に土佐の長宗我部などの四国連合部隊を輸送したのは、塩飽の舟だとされています。これは「朝鮮征伐」まで続きます。このように、信長・秀吉にとって毛利下の村上水軍に対抗するために塩飽の海上輸送能力が評価され、それが江戸時代の「人名」制度へとつながります。
3村上水軍2

  海民から海賊 、そして海の武士へ飛躍した村上氏
  室町期に活発に活動をはじめたのが海民の「海賊」行為です。
海賊行為は最初は、瀬戸内各地の浦々や島々ではじめられたようです。弓削島荘などもその一つです。南北朝の動乱の中、安芸国の国人小早川氏が芸予諸島に進出しはじめ、荘園領主東寺と対立するようになります。このような在地勢力の「押領」に対して、東寺は、さまざまな手段で対抗します。貞和五(1349)年には、室町幕府に訴えて、二名の使節を島に入部させています。そして下地を東寺の役人に打ち渡すことに成功していますが、それに要した費用を計算した算用状の中に、「野島(能島)酒肴料、三貫文」とあります。これを野(能)島氏の警固活動に対する報酬と研究者は考えているようです。
  このように海賊能島村上氏の先祖は、荘園を警固する海上勢力として姿をあらわします。
 しかし、それだけではありません。この警護活動から約百年後の康正二(1456)年には、安芸国の小早川氏の庶家小泉氏、讃岐国の海賊山路氏とともに、村上氏は弓削荘を「押領」している「悪党」と東寺に訴えられているのです。ここからは能島村上氏には、次の二つの顔があったことがうかがえます。
①荘園領主の依頼で警固活動をおこなう護衛役(海の武士)
②荘園侵略に精を出す海賊
 同じ弓削島荘には、海賊来島村上氏の先祖らしき人物たちの姿も見えます。
①応永二十七(1420)年に、伊予守護家の河野通元から弓削島荘の所務職(年貢納入を請け負った職)を命じられた村上右衛門尉、
②康正二(1456)年に東寺から所務職を請け負った右衛門尉の子の村上治部進
この二人は、「押領」を訴えられた能島村上氏とは対照的に、荘園の年貢納入を請け負うことによって、より積極的に荘園経営にかかわろうとしています。
  荘園の「押領」や年貢請負とは別に、水運に積極的にかかわろうとする海賊もいました。
弓削島の隣の備後国因島(広島県因島市)に拠点をおく因島村上氏です。15世紀前半に、高野山領備後国太田荘(広島県世羅町・甲山町付近)の年貢を尾道から高野山にむけて積み出した記録(高野山金剛峯寺文書)があります。因島村上市の一族が大豆や米を積んで、尾道から堺にむけて何回も航海しています。
 
 また前回に紹介した朝鮮国使として瀬戸内海を旅した宋希環の記録に、帰路に蒲刈(広島県上・下蒲刈島)に停泊した時のことが詳しく書かれていました。
 そこには同行した博多商人・宋金の話として次のようなことを聞いたといいます。瀬戸内海には東西に海賊の勢力分布があり
「東より来る船は東賊一人を載せ来たれば則ち西賊害せず、西より来る船は西賊一人を載せ来たれば則ち東賊害せず」
という海賊の不文律があるというのです。ここには、瀬戸内海を東西に二分した海賊のナワバリの存在、そのナワバリを前提とした海賊の上乗りシステムが示されています。
 同行していた博多の豪商宋金は、銭七貫文を払って東賊一人を雇っていましたが。その東賊が蒲刈島までやってくると西賊の海賊のもとに出向いて話をつけたので、宋希環は蒲刈の海賊とさまざまな交流を持つことになったのは前回紹介しました。
   この蒲刈の海賊は、下蒲刈島の丸屋城を本拠とする多賀谷氏とされます。
多賀谷氏は、もとは武蔵国を本貫とする鎌倉御家人でした。一族が鎌倉時代に伊予国北条郷(愛媛県東予市)に西遷し、さらに南北朝期に瀬戸内海へ進出して海賊化したようです。東国武士が西国で舟に乗り海に進出し、海賊化したのです
 宋希璋の記述からは、航行する船舶から通行料を徴収していたことが分かります。このように海賊の活動する浦々は、兵庫北関のような公的に認められた関とは異なる「私的な海の関所」があったようです。瀬戸内海では、海賊のことを「関」と呼ぶこともあったようです。
 以上のように、瀬戸内海では「海民」が、荘園の警固や「押領」、年貢の請け負い、さらには水運活動、黙綴(通行料)の徴収などさまざまな活動を展開していたことが見えてきます。
   強力な水軍力を有する村上水軍の登場 
戦国時代になると、浦々、島々の海賊が離合集散を繰り返しながら、さらに広範囲な海域を支配し、強力な水軍力をもつ勢力が台頭してきます。それが芸予諸島から生まれてきた、能島、来島、因島などの三村上氏です。

3村上水軍
 戦国期の能島村上氏は、単に本拠をおく芸予諸島ばかりでなく、周防国上関、備中国笠岡(岡山県笠岡市)、備前国本太(岡山県倉敷市)、讃岐国塩飽(香川県)などにも何らかのかたちで影響力を持っていたことがうかがえます。この範囲は、中部瀬戸内海をほぼ包みこんでしまいます。瀬戸内海が西日本の経済の生命線なら、それを握ったのが村上水軍と云うことになります。彼らは平時には、上乗りとよばれる警固活動をおこない、戦時には、水軍として軍事行動を展開することになります。つまり、彼らは「海の武士」でもあったのです。
やっと村上水軍の登場までたどりつくことが出来たようです。
今日はこのあたりで、
おつきあいいただき、ありがとうございました。

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