瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:海岸寺奥の院

 
「金毘羅名勝図会」(1819)に描かれた多度津港を紹介しました。すると、その後に出された「金毘羅参詣名所図会」で、多度津の名勝が紹介されている部分を見たいというリクエストがありましたので、資料としてアップしておきます。なお、金毘羅参詣名所図会の閲覧方法については、以下の方法があります。
① 香川県立図書館デジタルライブラリーで「金毘羅参詣名所図会」と検索すれば、すべてを閲覧できます。
②書物としては、歴史図書社 昭和55年発行  (古本屋価格5000円~)
多度津で金毘羅参詣名所図会に挿絵が載せられているのは、以下の4枚です。
①海岸寺本坊
②白方屏風ヶ浦と海岸寺奥の院
③多度津湊
④道隆寺
それでは、①の海岸寺から、絵図と意訳変換文のみを紹介していきます。 
多度津 海岸寺
海岸寺(金毘羅参詣名所図会)

海岸寺2 金毘羅参詣名所図会
海岸寺本坊
本  坊 奥ノ院の境内とは離れて別に伽藍がある
方丈客殿 庫一長・大師堂などがある。
   海岸寺奥の院 金毘羅参詣名所図会
海岸寺奥の院
海岸寺奥の院
奥 院 弘法大師の幼児尊像で、長二尺あまりの大師誕生の尊像で、大師35歳の時の自作という。
脇 壇 左右に大師の父母の木像が安置されている。
大師堂 本堂のそばにあって、正面が弘法大師の像、左右に薬師・観音を安置。これは天霧城主であった香川山城守の念持仏と云う。
浴巾掛松 大師堂の前にある松で、大師が幼稚の時に浴巾を掛けたまう松と云う。今は枯れて、雨覆いを作りって若木を植えてある。

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雨乞寺蔵 早魃の時に雨乞いを祈念する。霊験あらたなりと云う。
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産湯水(海岸寺奥の院)
産湯水  大師誕生の時に産湯として使った清水。眼病者が、この清水で洗えばすぐに治癒するという。
子育観音 産水の傍にある。
産盥 大師が誕生の時につかった盥だと云う。近頃、ここに納めて参観が禁止されている。五岳山善通寺は誕生院と号し、大師誕生の旧地だと云う。ところが海岸寺も誕生の古跡と主張する。どちらが本当なのか分からない。一説には大師の御父、佐伯善通は多度郡の郡司を領し、今の善通寺で生活していたが、郡港の白方にも別宅を持っていて、弘法大師はそこで生まれたという説もある。
海岸寺や仏母寺は、近世初頭から「弘法大師生誕の地・屏風ヶ浦」
を名のっていました。そらが幕末に善通寺から訴えられて、「弘法大師生誕の地」を名のることが禁止されたことは以前にお話ししました。海岸寺には、備前や安芸・石見からの修験者の先達に伴われた信者達が集団で参詣にきていたことは以前にお話ししました。どちらにしても、このふたつの寺は、もともとは修験者の寺だったようです。

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熊手八幡宮
屏風が浦の多度津街道沿いにある。多度津から十丁程で、乾方になる。
本社  祭神応神天皇
末社  本社の傍らに数多列す。
神興合・鐘楼・随身門  額に弘法大師産の神社とある。
熊手八幡の別当寺が仏母寺でした。

多度津湛甫 33
多度津湊 
   多度津港は、丸亀に続ぐ繁昌の地である。この港は波浪への備えがきちんとしており、潮待ち湊としても便利がよいので、湊に入港する船が多い。そのため浜辺には、船宿、 旅籠屋建が建ち並び、岸には上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の屋台、甘酒、餅菓子などを商ふ者の往来が絶えない。その他にも商人や、船大工らもいて町は賑わっている。さらに、九州ばどの西国筋の諸船が金毘羅参詣する時には、この港に着船して善通寺に参拝してから、象頭山・金毘羅大権現に登ることが恒例になっている。そのために、都合のいいこの港に、船を待たせて参詣する者が多い。
道隆寺 金毘羅参詣名所図会
       桑田(そうでん)山明王院道降寺                      

(本堂裏の道隆塚)前の標石には「道隆親王の塚」とあるが、道隆は親王ではない。道隆寺は四十三代元明天皇の時代に、和気の道隆という人物が創建したと伝えられる。

道隆寺 道隆廟
開祖道隆公(道隆寺)
道隆は景行天皇十二世の末裔で、父は那珂郡木徳の戸主和気淳茂の次男である。かつて道隆の所有する北加茂の土地に、千株の桑を植えた。これが「讃岐国の桑園」と呼ばれるものである。この桑園の中に一丈五尺の大木あった。種々な怪奇現象が起こるので、この木を伐って薬師如来を彫刻させて、小堂を作りて安置した。道隆は、日夜これを拝んだ。そして、神護二丙午年秋七月十五日午之刻、年齢99歳で亡くなった。
 その孫の朝祐が、延暦十二癸来年なって、霊魂のお告げを聞いて、弘法大師に会った際に先祖のことをかたり、例の桑の大木から作った仏を見せて、小像なので、もっと大きな仏像を造って欲しいと大師に請うた。大師は、その先祖供養の篤信に感じ入り、長二尺五寸の薬師如来を造り、今までの桑仏をその仏の胎中に納れ、永世不失の秘仏とした。
 こうして朝祐は深く仏教に帰依し、髪を剃って戒をうけ出家した。そして、家財・財宝を捨てて、住居をお堂として大師が造った木尊を安置して、大師を供養した。そして、境内四町四方を伽藍として堂塔を建立した。先祖道隆の名前を寺号とし道隆寺とした。弘仁末年朝祐人道、大師を請じて結縁灌頂が執行された。遠近の数多くの僧侶や民衆が道隆寺に集まり、市を為すほどであった。この時に寺を十余宇作って、群参した人々を入れた。

道隆寺薬師堂
道隆寺薬師堂(戦前の絵はがき)
 その後、道隆寺は学問寺として仏法繁興の区となり、弘法大師の弟である真雅僧正や、後には聖宝尊師もこの寺の住職を務めた。ところが兵火に罹り、殿堂は悉く焼失し、現在では、昔の繁栄ぶりを想像することもできない。しかし、往古の繁栄ぶりと伝える遺具や什宝は、数多く残されている。それはあまりに多いので、ここでは省略する。

DSC05233多度津賀茂神社
多度津の賀茂神社


祭神  鴨大明神を祭る。
道隆寺寺記には次のように記されている。村上天皇天暦元丁未年春二月、那珂郡真野の池(満濃池)の堤が崩壊することが数度に及んだ。そこで、興憲に詔して、地鎮と鎮守明神の遷宮を執り行わさせた。これが道降寺第七世と云われる。
義経寄附状  義経が屋島島合戦の際に、当社で祈願を受けた。翌年、戦勝祝いとして神納した寄附状である。
大般若経  武蔵坊弁慶が寄進した伝わる。右当社の什宝とし、虫千の砌拝見せしむ。
道隆寺伽藍の図の末尾に)
備中の国より此の寺に来りて、大師の忌に四国遍路の旅人に、飯菜をととのえて施しける供養にあひてはるばると吉備の中山なかなかに 高きめぐみと仰ぐもろ人            未曽志留坊
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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多度津白方

以前に、善通寺以外に「弘法大師誕生所」と名乗る寺院が多度津白方に現れ「多度津白方=空海誕生地説」を流布するようになったことをお話ししました。そこには中世から近世初頭に弥谷寺を中心に活動した高野山系の阿弥陀信仰・念仏行者たちの影が見えました。彼らが白方のお堂を「仏母院」と改称して流布していたようです。その後、弥谷寺が善通寺の末寺になってからは、弥谷寺や仏母院による流布は一時的に停まります。広報拠点がなくなったからでしょう。しかし、庶民信仰として「多度津白方=空海誕生地説」は根強く広がっていたようです。
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 その信仰を参拝者獲得に積極的に活用しようとするお寺が出てきます。それが海岸寺です。18世紀末頃から海岸寺は「多度津白方=空海誕生地説」を再び流布し、奥の院を空海生誕地として売り出そうとするプロジェクトを開始するのです。
 これは善通寺誕生院にとっては、放置することの出来ない事件です。海岸寺の「第2の空海誕生地」設置計画を止めさせようとします。ここに善通寺と海岸寺が「空海生誕地」をめぐる争論がおきます。それを追って見たいと思います。
テキストは次の二冊です
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻       昭和63年
2 乾千太郎 弘法大師誕生地の研究 善通寺 初版発行 昭和11年
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海岸寺奥の院

18世紀後半頃から海岸寺は、次のような由来を主張するようになります。
海岸寺奥院は弘法大師母公の実家があった所で、白方の三角寺仏母院が母公別館である。大師は海岸寺奥院産盥堂で生まれ、その時の産湯に用いたのが石の産盥(うぶたらい)である。

この由来に基づいて、「多度津白方=空海誕生地説」を流布するための信仰・広報センターとして奥の院を新たに建立し、その目玉に空海が生まれた時に使った「産盥」をセールスポイントにした広報作戦を展開し始めます。

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 海岸寺奥の院 産盥堂の産湯井戸
産盥堂再建(実際には新築)の勧進帳の表紙には
讃州白方屏風浦産盥堂再建勧化帳。経納山海岸寺
 
その勘化文には、次のように記します
  夫れ吾海岸寺なる奥院の御影堂は、弘法大師降誕ましませし霊場なり・・・其の洗盥(うぶたらい)なるは、三業諸垢を清めて、現富の益日々新なり・・、
          文化乙歳季夏    現住職  快道誌
 奥院には、産盥堂と染め抜いた幕や雪洞をかかげ、正面に大きな地蔵を建立して、台座石に産盥堂再建と刻します。また産水井(ウブミズノイ)。浴巾掛松(ユテカケノマツ)という立て札を建てます。納組帳には「弘法大師御産生之所也」と書きます。

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海岸寺奥の院の産水井(ウブミズノイ)

 さらに寺への参拝道の要所要所の岐路には「屏風浦道」や「奥院、産盥堂へ何丁」という道しるべを建て、寺の前には「屏風浦」といふ建石を立てます。

このような海岸寺の動きを放置できなくなった善通寺は、次のように丸亀藩に訴えます。
①寛政10(1798)頃、奥州の回国行者金作という者を召抱え、大師御夢想の灸治というのを始めた。しかし、これは不人気で一年ばかりで止んだ。                                  
②「大師御伝記」という書物を、版元は土州一宮(高知一宮神社)ということにして、海岸寺で印刷して売り広めた。この本は空海を「大師ハ讃岐国白方屏風浦猟師とうしん丈夫の子也」として、空海の父を「漁師のとうしん」とする偽書である。しかし、土地の人はよろこんで読み、文句を空で覚えているほどである。
③海岸寺の地名を屏風浦と称し、所々に「屏風浦道」「奥院、産盥堂へ何丁」という建石を立てた。
④白方屏風浦絵図を印刷して「大師降誕之霊地」と書いて売り広めた
⑤二間四方の辻堂のような堂を産盥堂と名付け、箱に入れた石器をかざり、十二銭で旅人に拝ませている。
⑥二間四面の堂を三間四面に立て直し、さらにその前に、二間と六間の礼堂を唐破風付に建てようと計画している。
⑦池を掘って産井と名付け、やはり「勧進帳序」にその功徳を書き立てた。
⑧松を植て浴巾掛(ゆやかけ)之松と称した。
⑨新しく掘った池の近くに子安観音といって菩薩の形にして幼兒を懐いた石像を作り、大師の母君が大師を懐く尊像だと言いふらした。
⑩寛政10(1798)頃に彫刻した大師の童形、御両親の尊像を、礼堂に安置した。
⑪諸国から参拝客が乗り降りする多度津の浜へ建石を立て、大師誕生像に白方屏風浦と記した産盥堂道案内を乗船客に配布するようになった。
  ここからは、海岸寺が「多度津白方=空海誕生地説」を流布し、その信仰拠点センターである奥の院の整備を急速に進めていく様子がうかがえます。
どうして18世紀の後半になって、このような動きを展開するようになったのでしょうか。当時の金比羅さんとの関係で見てみましょう。
①18世紀半ばに大坂からの金比羅船が就航し、金比羅詣客が急激に増加します
②18世紀後半には、それに応えるように金毘羅さんのお堂や施設、石段や玉垣、そして街道も整備されます。
③金毘羅さんの周辺の宗教施設は、金比羅参拝客をどのようにして自分の所へ立ち寄らせるかの算段を考えるようになるのがこの時期です。善通寺や弥谷寺の境内整備計画は、その一環として捉えることができることを以前にお話ししました。そして次のような集遊コースが形成されるようになります。 
丸亀港 → 金毘羅さん → 善通寺 → 弥谷寺 → 海岸寺 → 丸亀港

金毘羅さんにやってきた、参拝客の多くがこのルートで動き始めます。19世紀に始めに十返舎一九の弥次喜多コンビもこのルートを巡っています。
 海岸寺としては、弥谷寺から白方へ参拝者を導入するためには強力な「集客力のあるアイテム」が必要だったのでしょう。そこで目を付けたのが1世紀前に、弥谷寺や仏母院が流布し、その後に取りやめられた「多度津白方=空海誕生地説」だったようです。これをリニュアルして流布するようになったのです。その拠点として新たに整備されたのが、海岸寺奥の院のようです。

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1815年5月24日 善通寺は海岸寺のやり方を九亀藩へ訴え出ます。それに対して、6月22日 海岸寺から多度津藩へ返答書が差し出されます。どんな返答書なのか見てみましょう。
  海岸寺返答書
一 誕生院は大師御誕生の霊場であることは綸旨院宣から明らかなことは、承知しております。
二 富寺(海岸寺)は往古からの寺説に次のように記します
 「大師の母公が海岸之景色を、常に愛し、この浦に別館を構え、時々遊覧することがあった。あたかも六月十五日の炎天の日に、この別館で大師を降誕されたので、その聖地に一宇を構え、御母公が愛する所ゆえに海岸寺と名付けた。その後、これを信じる者達が、その徳を慕って石を割て産盥を作り、池を掘って産井と名付け、松を植て浴巾掛松と称して、大師初誕の地と呼んできた」 これが古くからの伝来です。

三 産盥堂の再建については、先達の勧進僧の願いを受けて取りかかり、ほぼ完成しています。この勧進方法などについては先達達が自主的に運営していることで、海岸寺は指図していないのでよく分かりません。
 誕生院が産盥堂と申すこの度の建物については「再建」であって、見分して頂ければ分かる通り古来よりあったものです。新しく建立したものではありません。
四 勧進帳に「御誕生之霊場」と記載されていたのも、大師旧跡再建の方便で古くから用いていました。寺説にも往古から「初誕之地」と称してきました。
五 弥谷寺の境内の建石(丁石)のことは、当寺のまったく関与していないことなので分かりません。
六 屏風浦の称号については、古来よりそのように称してきました。旧記にも屏風浦と記しています。それのみならず白方村でも屏風浦と呼んでいます。古い地理では、筆山の麓までも入海であったと伝えられます。また、天霧山の麓の辺りも屏風浦と呼ばれていたと云います。当寺辺りも屏風浦の分内になるのではないかと愚案します。
七 産盥についての善通寺の批判には納得がいきません。これについては、先述した通り古来より寺説にあることです。
亥六月                                     海岸寺

最初に確認しておきたいのは(一)で分かるとおり、海岸寺も「誕生院は大師御誕生の霊場」であることは認めていて、これについて争うつもりはないということです。そのうえで、海岸寺が主張する「寺説」を、どこまで承認するかということが争われることになります。
そして、目にかかるのは善通寺の提訴について強気の反論を行っていることです。最後の方は、「確信犯」とも見える開き直りぶりです。これだけ強気になれるのは、どうしてか私には疑問に思えてきます。それは、追々見えてくることなので、先を急ぎます。
この海岸寺の返答書は、8月19日には、次のようなルートで善通寺に写しが届けられています。
海岸寺 → 多度津藩 → 丸亀藩 → 善通寺 

写しが届いた日に、万福寺、曼茶羅寺、出釈迦寺が善通寺へ集り、海岸寺への反論(再質問状)を作成しています。この問題に対応したのがこの3つの住職たちであったことが分かります。それでは、彼らが作成した反論書を見てみましょう
海岸寺の答書を受けて
1 綸旨院宣等が善通寺にあるにも関わらず、(海岸寺)が「弘法大師生誕地」や「屏風浦」を古来の寺説にあるからと主張することについて
 これは世間の俗説であります。もし仮に古書にそのように書いてあっても綸旨や宣旨に反することは認められません。誕生地がふたつあるはずがありません。また海岸寺が反論書で挙げた根拠史料も妄説で信用なりません。大師降誕之霊場と主張することは、宣旨を軽視した行為で、とうてい認められるものではありません。強く彼地を御誕生所と主張することは 綸旨院宣並びに数百年前からの古い撰述を無視することで、そんなことをすれば海岸寺は信用できないことになります。海岸寺の考えを、今一度お聞き頂きたいと思います。

2 産盥堂は再建であり、新たに建てるものではないと海岸寺は主張しています。しかし、我々は新設・再建のことを言っているのではありません。この建立についての勧進帳序文の不都合を申し立てているのです。

3 屏風浦の称号については、海岸寺は古くから称してきたし、旧記も書かれていると言います。誕生所の証拠もあるという。それならば、確認のためにその旧記の年代を教えいただきたい。追って詳細は伝えます。
4 海岸寺の返答書の中で、屏風浦の地名は旧記に書かれていると主張します。その寺説と由来について申し上げたい。善通寺には綸旨や院宣の中に屏風浦と明記されています。それに対して、海岸寺は我々善通寺に寺説にあるからと反論しています。これには、天地ほどの隔たりがあります。
海岸寺の寺説というのは、信用がならない史料で、偽造・誤り数多く見られます。そのため近郷を始め他國からもこれを疑う人々が数多くあります。そのため海岸寺は「菖跡之実 否不分明候様成行可申哉」と言い出す始末です。このような様を察して、呉々も賢明な判断を出して頂けるようにお願い申し上げます。以上。

これに対して、11月に海岸寺から、屏風浦の名称は、世俗一統住古より称し来たことで、生駒家寄附状にも屏風ヶ浦と書かれているなどの返答書が出されます。また、海岸寺の本寺明王院(道隆寺)が上京し、本山である大覚寺との対応協議と、支援の取り付けを行ったようです。海岸寺に「悪うございました」と謝る姿勢は見えません。臨戦態勢を整えていくようです。

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  こうした中で12月8日 多度津藩家老畑六郎・林勝五郎から、九亀藩岡織部宛に、書状が届きます。そこには
「藩としてはこの度の件について掛合(調停)を離れ、善通寺と海岸寺の本寺明王院(道隆寺)とで話合をさせるのがよいと思う」

という内容が書かれていました。
多度津藩には海岸寺の行為を強く罰するという姿勢は見えません。
海岸寺の「「多度津白方=空海誕生地説」流布プロジェクトを、見て見ぬ振りをしながら影では支援していた節もあります。
 多度津藩は丸亀藩から分離独立した1万石足らずの小藩で、お城や陣屋を持たずに本家の丸亀城内に「寄宿」してきました。ところが寛政八年(1796)に21歳の四代高賢が家督を継ぐと藩の空気が変わっていきます。若い林求馬時重を家老に登用し、藩政の改善・丸亀藩からの自立化を進めようとします。その手始めが藩主の居館と政庁を多度津に移すことでした。
 林は、お城ではなく伊予西条藩のような陣屋を多度津に新たに建設する案を、丸亀藩の重役方藩や同僚の反対を押して決定します。こうして陣屋建設が始まりますが、工事途中の文化五年(1808)家老の林が突然に亡くなってしまいます。建設工事は、林という推進力を失って一時的に中断します。善通寺と海岸寺の争論が起きているのは、ちょうどこの時期になります。
 多度津藩は小藩のため家臣団と地主・有力商人、僧侶が密接に交流し、その身分の垣根が低いのも多度津藩の特徴であることは以前にお話ししました。ここからは小説風になります。海岸寺の進めるプロジェクトを、家臣団や重臣達が知らないはずがありません。特に家老の林家は白方の奥に別邸をもっています。その行き帰りに、海岸寺の前を通ったはずです。海岸寺の住職と懇意であったことも考えられます。海岸寺のプロジェクトに対して、了解し密かな支援を送っていたかもしれません。このような状況証拠からすると、多度津藩に海岸寺の行為を罰したり、停止させたりすることはさせたくないという意向があったような気がします。もっと云えば金比羅詣での参拝客が「弘法大師生誕地=多度津白方海岸寺」にも立ち寄ることは、多度津港の発展につながり、ひいては藩の経済力向上にもなる。そのためには海岸寺を守ってやらねばならぬという気持ちの方が強かったのではないでしょうか。

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海岸寺奥の院
 善通寺は九亀藩内にあり、海岸寺とその本寺明王院道隆寺は多度津藩に属していました。
もし、海岸寺が九亀藩内にあれば
「僧侶之身分二有間敷次第、言語道断沙汰之限」
と判断した藩主の考えで、すぐも罰せられたかもしれません。しかし多度津藩の寺であるために、九亀藩の意向もそのままには通用しません。どちらにしても多度津藩は、これ以上は調停・解決へ介入するのは避けたいと丸亀藩に伝えてきたのでのです。
12月12日、このような多度津藩の意向を丸亀藩寺社方から伝えられた善通寺は、関係者会議を開きます。
 招集されたのは末寺の甲山寺満願、観智院兼万福寺光顕、曼茶羅寺光海、出釈迦寺百光、宝城院戒珠、歓喜院光馬、九品院仁全、吉祥寺兼持宝院快心、法楽寺寅了、万恒寺大智等です。善通寺の重要な決定については、末寺院に諮問されていたようです。
 その会で明王院と海岸寺が何の返事もしないことに対して、今後の対策が話し合われます。そしてこれ以上、丸亀藩に厄介をかけるのは申し訳ないので、本山随心院へお願いして、早く決着をつけるように善通寺へ進言します。
 一方、多度津藩の意向を受けた九亀藩からは、この問題解決のために海岸寺の本山明王院と直接掛け合うようにと通達されます。これを受けて善通寺は、使僧を明王院へやりますが
「住職は、播州竜野法帷院へ出かけており、いつ帰院するかは分らない」

という返事でした。明王院道隆寺は、善通寺との直接の協議を避けていたようです。

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海岸寺奥の院
 もう一度事件の経過を振り返って起きましょう
海岸寺を訴えることになった契機は、九条家の家人の次のような申し出でした。
  海岸寺の行為をこのままにしておいてよいのか。このような行為を聞けば京都の本寺嵯峨大覚寺でも、これをそのままに捨ておくことはあるまい。九条家へ申し上げ、九条家から丸亀藩へ頼んでやめさせたらどうか。

 ここに九条家が登場します。九条家は金毘羅の金光院の山下家と名義上の姻戚関係を持つようになり、なにかと金毘羅さんの運営にも口出し、経済的な見返りを要求するようになっていました。金毘羅さんの富くじ開催などはその典型です。問題が発生すると、調停を買って出て礼金をいただくという家人たちがいたようです。
 その助言に従って、丸亀藩に訴え出て、丸亀藩から多度津藩に依頼して、海岸寺の行為を止めさせようとしたのでした。ところが海岸寺は素直に謝罪せず、反論してきます。多度津藩もそれを罰せようとはしません。丸亀藩も、多度津藩は子藩ですが、他藩のことなのでそれ以上の介入は控えたいので、この時点では強権発動には至らず、善通寺と海岸寺の直接の話し合いで解決せよと投げ出した形になります。しかし、善通寺が海岸寺に話し合いのテーブルに着くように求めても、海岸寺は応じないのです。
  当初は九条家の云うように、九亀藩の命令ですぐ解決するものと善通寺は考えていた節があります。しかし、予想しなかった方向に事態は進み、地元では解決できず、舞台を京都へ移し、交渉は2年の歳月がかかることになります。しかもその解決は、善通寺にとっては納得のゆくものではなかったようです。

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海岸寺の不動明王

 これだけ海岸寺が徹底抗戦できたのは、当時の金毘羅参拝客の誘致という多度津藩の政策目標の一環として、海岸寺の進める「多度津白方=空海誕生地説」が位置づけられていたからという気がします。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
1 松原秀明 徳川時代の善通寺 善通寺市第2巻        昭和63年

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

 

「空海=多度津白方生誕説」をめぐる寺社めぐり   

近世初頭の四国辺路には、空海の生誕地であることを主張するお寺が善通寺以外にもあったようです。それが多度津白方の仏母院や海岸寺です。空海が生まれたのは善通寺屏風ヶ浦というのが、いまでは当たり前です。四国辺路の形成過程で、どうしてそのような主張がでてきたのでしょう。その背景を見ていくことにします。
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白方の丘から望む備讃瀬戸 高見島遠景

仏母院の歴史を資料でみてみましょう。
最も古い四国霊場巡礼記とされる澄禅『四国辺路日記』(1653)には仏母院が次のように記されています。 
夫ヨリ五町斗往テ 藤新太夫ノ住シ三角屋敷在、是大師誕生ノ所。御影堂在、御童形也、十歳ノ姿卜也。寺ヲハ幡山三角寺仏院卜云。
此住持御影堂ヲ開帳シテ拝モラル。堂東向三間四面。
此堂再興七シ謂但馬国銀山ノ米原源斎卜云者、讃岐国多度郡屏風が浦ノ三角寺ノ御影堂ヲ再興セヨト霊夢ヲ承テ、則発足シテ当国工来テ、先四国辺路ヲシテ其後御影堂ヲ三間四面二瓦フキニ結構ゾンデ、又辺路ヲシテ阪国セラレシト也。
又仏壇ノ左右二焼物ノ花瓶在、是モ備前ノ国伊部ノ宗二郎卜云者、霊夢二依テ寄付タル由銘ニミェタリ。猶今霊験アラタ也。
意訳すると
海岸寺から約五〇〇メートル東に藤新太夫(空海の父)が住んだ仏母院があり、弘法大師の誕生所とされ、御影堂が建立されていた。そこに十歳の弘法大師が祀られている。寺を三角寺という。この寺の住職が御影堂を開き、その像を開帳してくれた。堂は東に向かって三間四面の造である。この堂を再興したのは但馬銀山米原源斎で、夢の中でお告げを聞いて、直ち四国巡礼を行い、このお堂を建立し、帰路にも四国巡礼をおこない帰国した。仏壇の左右の焼きものの花瓶は、備前の部ノ宗二郎の寄進である。霊験あらたな寺である
 藤新太夫は空海の父。三角屋敷が空海の生まれた館のことです。
ここからは備前や但馬の国で「空海=多度津白方生誕説」が拡大定着していたことがうかがえます

 仏母院に関しては『多度津公御領分寺社縁起」(明和6年1769)に、次のように記されています。
多度郡亨西白方浦 真言宗八幡山三角寺仏母院
一、本尊 大日如来 弘法大師作、
一、三角屋敷大師堂 一宇本尊弘法大師・御童形御影右三角屋敷は弘法大師、御母公阿刀氏草創之霊地と申伝へ候、故に三角寺仏母院と号し候、
 『生駒記』(天明3年1783)には
白方村の内の三隅屋敷は大師誕生の地なりとて、小堂に児の御影を安置す、
とあり、弘法大師誕生地として認められています。しかし、その50年後の天保十年(1839)の『西讃府志』では  
仏母院 八幡山三角寺卜琥ク云々。西方に三角の地アリ、大師並二母阿刀氏、及不動地蔵等ノ諸仏ヲ安置ス。
とあり、弘法大師の誕生地とは記されていません。しかも母はあこや御前ではなく、阿刀氏になっています。この間に誕生地をめぐる善通寺との争論があり、敗れているのです。これ以後、生誕地であることを称する事が禁止されたことは、以前にお話ししました。

「仏母院 多度æ´\ ブログ」の画像検索結果
仏母院に残されている過去帳には、大善坊秀遍について次のように記されています。
 不知遷化之年月十二口滅ス、当院古代大善坊卜号ス、仏母院之院号 寛永十五年戊寅十月晦日、蒙免許ヲ是レヨリ四年以前、寛永十二乙亥八月三日、此秀遍写スコト白方八幡ノ服忌會ヲ之奥書ノ處二大善坊秀遍トアルヲ見雷タル様二覚ヘダル故二、今書加へ置也能々可有吟味。

 意訳変換しておくと
当院は古くは大善坊と号していた、寛永十五年(1638)十月晦日に、仏母院の院号を名乗ることが許された。その4年前の寛永十二(1635)八月三日、秀遍が白方(熊手)八幡神社の古文書を書写していたときに、その奥書に大善坊秀遍とあるのを見つけたので、ここに書き加えておくことにする。よく検討して欲しい。

ここからは寛永十五年(1638)に寺名が
善坊から仏母院に変更されたことがわかります。「仏母」とは、空海の母のことを指しているのでしょう。つまり、高野系の念仏聖が住んでいた寺が、「空海の母の実家跡に建てられた寺院=空海出生地」として名乗りを挙げているのです。
古代善通寺の外港として栄えた多度津町白方の仏母院にも、次のような念仏講の石碑があります
寛丈―三年
(ア)為念仏講中逆修菩提也
七月―六日
寛丈十三(1673)の建立です。四国霊場を真念や澄禅が訪れていた時代になります。先ほど見た弥谷寺のものと型式や石質がよく似ていて、何らかの関係があると研究者は考えているようです。
仏母院は霊場札所ではありませんが、『四国辺路日記』の澄禅は、弥谷寺参拝後に天霧山を越えて白方屏風ケ浦に下りて来て、海岸寺や熊手八幡神社とともに神宮寺のこの寺に参拝しています。

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仏母院の墓地には、次のような二基の墓石が見つかっています。
右  文化九(1812)壬申天
   六月二十一   行年七十五歳
正面 (ア) 権大僧都大越家法印甲願
   法華経一百二十部
左  向左奉謡光明真言五十二万
   仁王経一千部
(裏面には刻字無し)
(向右)天保(1833)四巳年二月十七日
正面(ア) 権大僧都大越家法雲
(左・裏面には刻字無し)
研究者が注目するのは「権大僧都」です。これは「当山派」修験道の位階のことで、醍醐寺が認定したものです。この位階を下から記すと
①坊号 ②院号 ③錦地 ④権律師 ⑤一僧祗、⑥二僧祗、⑦三僧祗、⑧権少僧都 ⑨権大僧都、⑩阿閣梨、⑪大越家 ⑫法印の12階からなるようです。そうすると⑪大越家は、大峰入峰36回を経験した者に贈られる高位者であったことが分かります。ここからは、19世紀前半の仏母院の住持は、吉野への峰入りを何度も重ねていた醍醐寺系当山派修験者の指導者であったことがうかがえます。

 また、享保二年(1717)「当山派修験宗門階級之次第」によると、仏母院は江戸時代初期以前には、念仏聖が住居する寺院であることが確認できるようです。そして、仏母院住職は、熊手八幡神社の別当も勤めていました。



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仏母院遠景

 この寺は先ほど見たように、澄禅が参拝した時代には、但馬の銀山で財を成した米原源斎が御影堂を再興したり、備前の伊部宗二郎が花瓶を寄進するなど、すでに讃岐以外の地でも、霊験あらたかな寺として知られていたようです。仏母院の発展には、それを喧伝し、参拝に誘引する先達聖たちがいたようです。弘法大師の母の寺であることの宣伝広報活動の一環として、仏母寺という寺名の改称にまで及んだと研究者は考えているようです。

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弘田川河口からの天霧山

 しかし、「空海=多度津白方生誕説」を記す3つの縁起には仏母院の名は登場しません。これをどう理解すればいいのでしょうか。
考えられることは、縁起成立の方が仏母院などの広報活動よりも早かったということです。縁起により白方屏風が浦が注目されるようになり、それに乗じて、大善坊が「空海=白方誕生説」を主張するようになり、仏母院と寺名を変えたと研究者は考えているようです。
 そうだとすると「空海=白方誕生説」を最初に説いたのは、白方の仏母寺や海岸寺ではないことになります。これらの寺は、「空海=白方誕生説」の縁起拡大の流れに乗っただけで、それを最初に言い出したのではないことになります。 

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 最後に現在の仏母院をみてみましょう。

 善通寺から流れ込む弘田川の河口近くの多度津白方に仏母院はあります。境内は大きく二つに分けられていて、東側に本堂・庫裏と経営する保育所があり、道路を挟み、西側には大師の母が住居していたという三角形の土地があります。
三角地は御住屋敷(みすみやしき)と呼ばれていましたが、これは空海の母の実家であることに由来します。空海の臍の緒を納めたという御胞衣塚(えなづか)などがあります。澄禅が日記に残している御影堂は、この三角地に建てられていたものと思われます。現在の御堂には新しく作られた玉依御前・不動明王・弘法大師の三体の像が安置されていますが、かつては童形の大師像(十歳)があり、三角寺と呼ばれていたようです。
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戦国時代の永禄年間(1558年 - 1570年)に戦乱により荒廃します。その後、修験者の大善坊が再興したことから、寺院名も三角寺から大善坊と称するようになります。そして「空海=多度津白方生誕説」が広がると、寛永15年(1638年)寺院名が大善坊から仏母院に改められました。
 御胞衣塚には石造(凝灰岩)の五輪塔がありますが制作年代は、水輪・火輪の形状からみて桃山時代から江戸時代初期ころ、つまり16世紀末から17世紀前半ころとされています。ちょうど「空海=多度津白方生誕説」の広がりと一致します。このことは大善
坊から仏母院への改名との関連、さらに本縁起の制作時期などと考え合わせれば、重要なポイントです。
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 また御住屋敷の南端に寛文13年(1673)7月16日建立の「念仏講衆逆修菩提也」の石碑があります。ここから江戸時代前期に仏母院に、念仏講があったことが分かります。つまり高野山系の時宗念仏系の信仰集団がいたようです。この石碑と同様のものが弥谷寺にもあります。
 
 この寺は明治初年の神仏分離以前は、熊手八幡神社の神宮寺でした。そのため神仏分離・廃仏毀釈の際に、八幡大菩薩と彫られた扁額や熊手がこの寺に移され本堂に安置されています。

 次に海岸寺を史料で見てみましょう

「多度æ´\ 海岸寺」の画像検索結果 
弘田川河口の西側の海に面した海水浴場に隣接した広大な地に本堂・庫裏・客殿などがあります。さらにそこから南西口約1,1㎞の所に空海を祀った奥の院があります。この寺の古い資料はあまり多くありません。そのため江戸時代以前のことはよく分かりません。 
最初に記録に見えるのは四国霊場の道隆寺の文書の中です。
天正二十年(1592)六月十五日 白方海岸寺 大師堂供養導師、良田、執行畢。
その後も、これと同じように道隆寺の住職が導師を勤める供養の記録が何点かあるので、その当時から道隆寺の末寺であったことが分かります。ついで澄禅『四国辺路日記』に、次のように記されています。
谷底ヨリ少キ山ヲ越テ白方屏風力浦二出。此浦白砂汗々ダルニー群ノ松原在リ、其中二御影堂在リ、寺は海岸寺卜云。
門ノ外二産ノ宮トテ石ノ社在。州崎二産湯ヲ引セ申タル盟トテ外方二内丸切タル石ノ毀在。波打キワニ幼少テヲサナ遊ビシ玉シ所在。寺ノ向二小山有リ、是一切経七干余巻ヲ龍サセ玉フ経塚也。
意訳変換しておくと
(弥谷寺)から峠を越えて白方屏風力浦に下りていく。ここは白砂が連なる浜に松原がある。その中に御影堂があり、寺は海岸寺という
門の外「産の宮」という石社がある。空海誕生の時に産湯としたという井戸があり、外側は四角、内側は丸く切った石造物が置かれている。波打際には、空海が幼少の時に遊んだ所だという。寺の向うには小山があり、ここには一切経七干余巻が埋められた経塚だという。
ここからは、次のような事が分かります。
①澄禅が弥谷寺から天霧山を越えて白方屏風ガ浦に出て、海岸寺に参詣したこと
②海岸寺には、御影堂(大師堂)があり、門外に石の産だらいが置かれていたこと。
澄禅が、ここを空海生誕地と信じていたように思えてきます。

 また『玉藻集』延宝五年(1677)は
「弘法大師多度郡白潟屏風が浦に生まれ給う。産湯まいらせし所、石を以て其しるしとす云々」
とあり、弘法大師の誕生地と信じられていたようです。
そして、空海が四十二歳にして自分の像を安置して本尊とした。四十余の寺院があったが天正年中に灰塵に帰した。それでも大師の像を安置して、未だ亡せずと記しています。
 なお『多度津公御領分寺社縁起』(明和六年-1769)には
「本堂一宇、本尊弘法大師御影、不動明王、愛染明王 産盟堂一宇」
などが記されています。このような海岸寺の「空海=白方誕生説」を前面に出した布教活動は、文化年中に善通寺から訴えられ、大師誕生地をめぐる争論を引き起こすことになります。これに海岸寺は敗れ、その後は海岸寺は「空海=白方誕生説」を主張することを封印されます。その結果、いまでは奥の院はひっそりとしています。
「多度æ´\ 海岸寺」の画像検索結果

 以上のとうに海岸寺の創建期は不明ですが、戦国時代末期には大師堂(御影堂)があり、やがて江戸時代初期にはその存在が知られるようになっています。
 
ただ澄禅『四国遍路日記』には、大師誕生地として仏母院の方を明記して、海岸寺は石盥があったことを記すだけです。ここが誕生地だとは主張されていません。
 なお善通寺蔵版本『弘法大師御伝記』は、その末尾に「土州一ノ宮」とあり、土佐一ノ宮の刊行のようにみられます。しかし、この版元は実は海岸寺であったとされています。そうだとすれば、この寺は「空海=多度津白方生誕説」の縁起本を流布していたことになります。
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以上からは次のようなことが言えるのではないでしょうか。
①17世紀の段階では、四国霊場は固定しておらず流動的だった。
②空海伝説もまだ、各札所に定着はしていなかった
③そのため独自の空海生誕説を主張するグループもあり、争論になることもあった。
④白方にあった海岸寺や父母院は、先達により中国地方に独自の布教活動を展開し、信者を獲得していた。
以上「空海=多度津白方生誕説」に係わるお寺を史料でめぐってみました。

「空海=多度津白方誕生説」は誰によって語られ始めたのか?

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多度津白方の海岸寺奥の院
 
空海は、善通寺の誕生院で生まれたと信じられています。
誕生院は佐伯氏の旧邸宅とされ、誕生時に産湯を使ったという池も境内にあります。(なお、父が善通であったというのは俗説で、資料的には確認されていません)
 ところが、この正統的なる弘法大師伝に対して、空海が多度津白方の屏風が浦で生まれ、父をとうしん太夫、母をあこや御前とするなど、まったく異なる伝記があります。「空海=多度津白方生誕説」を説く伝記は、以下のようなものがあります。
 『説経かるかや』「高野の巻」
 『弘法大師御伝記』善通寺所蔵版
  『南無弘法大師縁起』
  
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「空海=多度津白方生誕説」縁起は、いつころ制作されたのでしょうか。

 一つは、はじめに縁起の成立があり、その後に白方屏風が浦の各社寺が縁起に沿って、弘法大師誕生地説を作りあげたという縁起先行説が考えられます。
もう一つは白方屏風ガ浦の各社寺にあった誕生説を集めて縁起が成立した縁起後行説です。
しかし、本縁起には白方屏風ガ浦の海岸寺等の寺院名がまったく見えません。このことから「空海=多度津白方生誕説」の縁起本が産まれた後、白方の各寺社が既成事実を作り出していった縁起先行説の方が有力です。

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 この縁起がいつ成立したかについては、その中に讃岐守護代で天霧城主の香川氏が秀吉軍の侵入で天霧城が落城した後に、元結いを切って辺路に出たという記事がありますので、永禄二年(一五五九)以降であることは間違いありません。
 次に下限をみます。澄禅の『四国逞路日記』の中に、空海の父母とされる「とうしん大夫夫婦」の石像が弥谷寺にあったと記されてます。つまり澄禅が辺路した時には、すでに「空海=多度津白方生誕説」が札所間(弥谷寺周辺か)に定着していたのです。そして、彼は「空海=善通寺誕生説」には何も触れていません。このことから本縁起の成立は、澄禅『四国逞路日記』の承応2年(1653)よりも、かなり古いと考えられます。
「空海=多度津白方生誕説」が世に広がり、白方の大善坊が仏母院へと寺名変更するのが寛永十五年(1638)であることが目安となります。白方の仏母院の御胞衣塚の五輪塔は、大師誕生地を積極的にアッピールするために建立されたとみられますが、その形状から判断して江戸初期ころのものとされています。近世における創作なのです。
以上から縁起先行説に立って、本縁起の成立を永禄11年
(1559)から寛永年間(1614~1644)と考えます。
 この時期、古くから大師誕生地として広く認められていた善通寺は、永禄元年(1558)の兵火で金堂も五重塔も燃え落ちます。江戸時代になって生駒氏が援助の手を差しのべるまで、約80年間は衰退を余儀なくされていたようです。本縁起は、ちょうどこれを狙うようにして「空海=多度津白方生誕説」が生まれ、広げられていくのです。逆に見ると当時の善通寺は、これらの動きを止めることも出来ないほど活動力を失い、荒廃していたのかもしれません。
 なお、先日アップした記事で示したとおり寛永十一年(一六三四)の「善通寺西院内之図」には、生駒親正が寄進した御影堂と三代藩主正俊の正室・円智院が建立した御影堂が描かれており、このころから善通寺の復興が始まります。
この縁起はどこで作られたのでしょうか。
本縁起の舞台は讃岐白方屏風が浦近辺です。しかし、縁起の中に具体的な寺社の名称は善通寺以外、まったく出てきません。ただ状況証拠から、いくつかの候補となる寺社が浮かび上がってきます。
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 まず、天霧山の向こう側の弥谷寺です。

澄禅『四国逞路日記』を見てみましょう。
澄禅は、ここで本縁起の登場人物の「とうしん太夫とあこや御前」つまり、空海の父母の石像を拝んでいるのです。つまり、その時には、
空海の両親として「とうしん太夫とあこや御前」説がここでは流布されていたようです。澄禅は、讃岐守護代の香川氏の居城・天霧城の傍らを通って海岸寺に降り、そこでは空海が幼少のころに遊んだという浜を過ぎて仏母院に至っています。
 この時期は仏母院は大師誕生地として備前・但馬あたりでも、すでに広く信じられていました。ここで御影堂を開帳してもらい、空海十歳の像を拝し、寺僧から霊験あらたかなる説法を聞いたのです。さらに空海の氏神と伝える熊手八幡も参拝しています。
澄禅の時代には、空海の誕生の地はまさに多度津白方だったのです。

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そして善通寺の存在もあなどれません。

灰塵に帰した善通寺とはいえ、いくつかの小堂は火災を免れていたはずです。そして、そこには本縁起に係わってもよさそうな人物(念仏聖など)が寄居していたことが考えられます。しかし、資料はありません。あくまで憶測です。
 本縁起の「白方屏風ガ浦」という地名から、この地域の社寺を見てみましたが、これらの社寺は本縁起に洽った寺伝を持っており、この辺りとの関連が濃厚に感じられます。ただ本縁起には、これらの社寺は善通寺以外まったく記されていないことは何度も触れた通りです。それは、本縁起成立後に、各社寺で大師伝説を作り上げたと考えられるからです。言い換えれば、本縁起が高野山で創作されたとしても不思議ではないわけです。制作地を特定するのは難しいようです。
誰が「空海=多度津白方生誕説」の縁起を書いたのでしょうか。
 さてもう一度本縁起をみてみます。
前半部の中山寺や徳道上人からは、西国三十三所と関係が見えてきます。後半部には阿弥陀信仰、極楽往生思想が濃厚にみられ、念仏に関係するものです。そして高野山に参詣することや都率(弥勒)来迎のことも記されるなど高野山に関する記述がみられます。そこには高野山に係る念仏聖の存在が浮かび上がってきます。

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では高野山との関係が見いだせるのは、先に見た寺社の中でどこでしょうか。
高野山から移ってきた住職の存在や水祭りの行事が行われるという弥谷寺が、まず浮かびます。また海岸寺所蔵の棟札をみれば、弥谷寺と海岸寺は密接な関係を有していたようです。海岸寺の大師堂は天正二十年(1592)には建立されていて、新たな大師信仰を創り出していく充分な要素が当時の海岸寺にはあったと思います。また仏母院には寛文十三年(1673)の念仏講の石碑があり、それ以前の念仏行者の存在がうかがえます。
 以上の「状況証拠」から、本縁起に係わったのは白方周辺に関りを持ち、しかも高野山との関係を有する念仏系の僧が浮かび上がってきます。つまり高野聖ということです。
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さらにこの縁起を書写したのは高野山千手院谷西方院の真教です。

彼が聖方に属した僧侶であったことも匂います。真教も中世的な高野聖と言えるのではないでしょうか。書写の人物が高野山・西方院であることは、本縁起が高野山にいた人物が制作したことも考えられます。
 
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 では何の目的で作られたのか。
 この縁起は、讃岐白方屏風ガ浦で弘法大師が誕生したと記します。
しかし、それを強く主張するものではありません。それよりも主眼は、後半部に説かれる四国八十ハケ所を辺路の勧めです。辺路によって諸仏諸神が来迎して、極楽往生できる功徳が強調されます。四国辺路を進めるのが、この縁起の目指すところであったように思えます。

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 この縁起は弘法大師一代記の語り物語なのです。

これを語り、四国八十ハケ所の辺(遍)路を進めたのは誰だったのでしょうか。時衆系高野聖であったのか、また熊野比丘尼のような唱導者であったのか、今となっては、歴史の奥に隠れて見えなくなっています。
 しかし真念・寂本が
「四国には、その伝記板にちりばめ、流行すときゆ」

とあるように、これが版本とされ、多くの人に読まれることによって、庶民が参加する四国八十八ヶ所辺(遍)路が一層盛んになったことは間違いでしょう。
 つまりこの縁起の成立は、四国辺路から四国八十ハケ所辺(遍)路への移行、いわばプロの修行辺路から庶民が参加する辺路を促す動きの一部と捉えることもできるようです。
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 ちなみに四国遍路の功労者とも寂本は、真念『四国遍礼功徳記』付録の後書きなかで「空海=多度津白方生誕説」縁起本を次のように厳しく批判しています。
然るに世にし礼者ありて、大師の父は藤新太夫といひ、母はあこや御前といふなど、つくりごとをもて人を侑、四国にはその伝記板に鏝流行すときこゆ、これは諸伝記をも見ざる愚俗のわざならん、若愚にしてしるもの、昔よりいへるごとく、ふかくにくむべきにあらず、ただあはれむべし

参考史料 武田 和昭 『弘法大師空海根本縁起』について

讃岐の古代寺院 

   

讃岐の古代寺院 

 

 

                        

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