瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:海鼠

俵物

前回は海の向こうの中国清朝のグルメブームが小豆島に海鼠猟の産業化をもたらした経過を次のようにまとめました。
①中国清朝の長崎俵物(海鼠の加工品いりこ)の高価大量買い付け
②幕府による全国の浦々に長崎俵物(煎海鼡・干なまこ・鱶鰭)の割当、供出命令
③浦々での俵物生産体制の整備拡充
 しかし、②から③へはなかなかスムーズには進まなかったようです。当初幕府は、各浦々の生産可能量をまったく無現した量を割り当てました。例えば松山藩は総計6500斤のノルマを割当られますが、供出量できたのはその半分程度でした。このため責任者である幕府請負役人や長崎会所役人は、何度も松山藩にやって来て、目標量に達しない浦々に完納するように督促します。尻を叩かれた浦の責任者は「経験もない。技術者もいない、資金もない」で困ってしまいます。
小豆島沖の海鼠取り
小豆島沖の海鼠漁
 俵物供出督促のために、幕府の長崎会所役人や請負商人など全国を廻って督促・指導しています。
小豆島にも巡回してきた記録が旧坂手村の壺井家に残されています。それを見ておきましょう。壺井家は、江戸時代に小豆島草加部郷坂手村の年寄を世襲した旧家です。壺井家の下に組頭が数名いて、坂手村行政の中心的役割を担っていました。壺井家文書には17世紀からの早い時代の庄屋文書が多数含まれていることが調査から分かっています。最も早いのは1623(元和9)の文書で、他村との出入りの際に結ばれた協定の内容が記されており、後の出入りの際の証拠文書として大切に保管されてきたようです。
小豆島へのフェリー航路一覧】マメイチへアクセスする5つの港と8航路を整理した – じてりん

 坂手村は小豆島を牛の形の例えると、「後ろ足の膝」の辺りになり、東の大角鼻、西の田浦半島に囲まれた坂手湾に面する村です。そのため、早くから漁業を主な生業とし、検地帳にも、物網9、魚青網5、鰈網1、手繰網6、船数38(7~石積)と記されています。江戸初期から漁業が発達し、寛永年間(1624~44)には、鰯網11、鯖網7、鯖網3を有しています。そして、近隣の堀越・田浦両村(苗羽村)の網と漁場を支配していました。
 1679(延宝7)年の検地帳には、戸数294軒1300人と記され、当時の草加部郷周辺各村よりも多くの人口を抱えたことが分かります。この背景には、漁業の盛行があったと研究者は考えています。そのため早い時期の文書には、漁業関係のものも残されています。周辺の各村との間の漁場争論の文書も数点あるようです。元禄期頃から漁業が次第に不振となると、出稼ぎによる人口流出が増加し、船乗りになる者が増えます。そして前回見たように江戸時代後期には長崎への俵物(煎海鼠)の有力産地として知られるようになります。

都市縁組【津山市と小豆島の土庄町】 - 津山瓦版
東藩分(左側)が倉敷代官所支配下の小豆島
 江戸時代の小豆島は備讃瀬戸の戦略的な要衝として天領になっていて、備中倉敷代官所の管理下に置かれていました。
年月は分かりませんが、海鼠加工のための督促指導に、長崎から関係者が小豆島にやって来ることになります。それを迎えるための準備指示が倉敷代官所から文書で通知されます。それに対する準備OKの返書になります。
末十月十九日 指上ヶ申御請一札之事【壺井家文書55】
一 先達而度々御吟味被仰付候、小亘嶋猟浦七ケ村生海鼠為試長崎俵物請負人峰谷市左衛門、同所町人村山治郎左衛門共外猟師御差添、此度嶋方猟浦村々江御指越可被成旨石谷備後守様より御印状到来仕候二付、村々庄岸年寄百姓儀猟共被召出、御印状之趣御讀聞被成逸々承知仕候
一 右御試猟請負人并町人猟師到着之上、弥猟業有之事二候ハヽ、以来嶋方漁師共見馴、自仕覚候様可相成旨、且又外猟業之障等者堅不致様、於彼地被仰付御差越候儀被仰聞、本得共意候
一 右猟業中左迄無之義ヲ故障二申立候義決而仕間敷候旨被仰渡、往々二嶋方助成之為にも宣、第一御収納方指寄二も可相成候間、末々小百姓水呑二至迄得と利解申聞、心得違無之様可仕旨被仰渡承知仕候
有此度長崎御奉行様御印状之趣を以、嶋方猟業一件逐一被仰渡、私共罷出承知仕候処相違無御座候、依之御請一札指上ヶ申所、乃面如件
                  小豆島七ケ村
                    庄屋 印                                                   年寄 印
                                                百姓代印
                                                漁師代印
備中倉敷御役所
浅井作右衛門様
意訳変換しておくと
年不明10月19日日 指上ヶ申御請一札之事」
長崎俵物請負人の蜂谷市左衛門と町人村山治郎左衛門による小豆島での生海鼠(なまこ)猟に関する文書写し)

指上ヶ申御請一札之事
一 先だって仰せつけのあった小豆島浦七ケ村での生海鼠の長崎俵物請負人・峰谷市左衛門、同所町人の村山治郎左衛門と漁師の受入準備について、この度小豆島の浦村々に指導のためにやって来てくることについて石谷備後守様から書状で知らせがありました。そこで村々の庄屋や年寄・百姓・漁師を召出して、書状に書かれていた内容について手周知連絡し、各自が承知しました。
一 請負人と町人・指導漁師が小豆島に到着した時には、島の漁師は指導を受けて、自分たちにも出来るように技術修得を行うこと、また他の漁期都合で不参加者がでることのないように、申しつけました。
一 海鼠漁に差し障りのないように、他の漁業については操業しないように申し渡しました。嶋方の助成のためにも、割り当てられた数量を確保するためにも、小百姓・水呑から全員が一致して海鼠漁に取組むように、心得違いのないように申し聞かせました。
 長崎御奉行の御印状の趣旨を、小豆島浦々の漁師に申し渡し、私共全員が承知していることをお伝えします。如件
                  小豆島七ケ村
                    庄屋 印
                                                年寄 印
                                                百姓代印
                                                漁師代印
備中倉敷御役所
浅井作右衛門様
ここからは次のようなことが分かります。
①当時の小豆島は天領だったので、倉敷代官所を通じての長俵物請負人三名と指導漁師の視察訪問通達を小豆島の庄屋が受け取ったこと
②通達を受けた小豆島の庄屋は、受入準備を進めて、準備完了報告を倉敷代官に送ったこと
③小豆島の大庄屋与一左衛門は、村民への諸注意書をだしていること。
先ほど見たように、全国の浦々に海鼠加工を強制し、割当数量を供出していたこと、そのために技術指導の漁民も一緒にやってきていたことが分かります。しかし、地元漁民にとっては迷惑な話であったようです。彼らの本音は、次のようなものでしょう。
なんでわしらが、海鼠をとらないかんのか わしらはぴちぴちの魚をとる漁師や
海鼠猟の間は、その他の魚がとれんのか 営業妨害や
海鼠をとった上に加工もせないかんのか 手間なこっちゃ 
しかも安い値で買いたたかれる こんなんはやっとれんわ
普段は魚を獲っている漁民に海鼠を獲って、しかもそれを加工して、俵物として出荷せよというのは無理な話だったようです。海鼠は捕れない、加工も出来ない、しかし割当量は、きつく求められる。漁師達にはそっぽを向かれる。困難な立場に追い込まれたのは、庄屋たち村役人です。

打開策として、浜の庄屋たちが考え出したのが海鼠加工の技能集団を集団で移住させることです。
3 家船4
家船漁民の故郷・能地・二窓

 安芸忠海の近くの能地・二窓は、家船漁民の故郷ですが、煎海鼠(いりこ)加工の先進地域でもあったようです。
製造業者は堀井直二郎
生海鼠の買い集めは二窓東役所
輸出品の集荷先である長崎奉行への運搬は東役所
と分業が行われ、割当量以上の量を納めています。つまりここには、技術者とノウハウがそろって高い生産体制があったのです。
この状況は家船漁民にとっては、移住の好機到来になります。
小豆島周辺の各浦は、家船漁民集団を煎海鼠(いりこ)加工ユニットとして迎え入れるようになります。それまでは人目に付かない離れた岬の先などに無断で住み着いていたのが、大手を振って大勢の人間が「入植」できるようになったのです。迎え入れる浦の責任者(抱主)となったのは、村役人などの有力者です。抱主が、住む場所を準備します。抱主は自分の宅地の一部や耕地(畑)を貸して生活させることになります。そのため、抱主には海岸に近い裕福な地元人が選ばれたようです。その代償に陸上がりした漁民達は、がぜ網(藻打瀬)で引き上げられた海藻・魚介類のくず、それに下肥などを肥料として抱主に提供します。こうして、今まで浦のなかった海岸に長崎貿易の輸出用俵物を作るための漁村が18世紀後半に突如として各地に現れるようになったのです。
ぶらり歴史旅一期一会 |大三宅住宅(香川県直島町)
直島の庄屋三宅家
直島の庄屋三宅家には、家船漁師の故郷である安芸・二窓の庄屋とのやりとり文書が残されています。二窓の庄屋から次のような依頼文書が三宅家に送付されてきます。

「二窓から出向いた漁師たちを、人別帳作成のために生国に指定日に帰して欲しい」

当時は家船漁民は移住しても、年に一度は二窓に帰ってこなければならないのがきまりでした。それは「人別帳はずれの無宿」と見なされないためです。人別帳に記載されていないと「隠れキリシタン」と見なされたり、本貫地不明の「野非人」に類する者として役人に捕らえられたりすることもありました。人別帳に載せてもらうには、本人確認と踏み絵の儀式を、地元の指定されたお寺で指定日に済ませなければなりません。もうひとつは、檀家の数を減らさないという檀那寺の方針もあったようです。こうして「正月と盆に帰ってこなければならぬ」というきまりを、守るように厳命されていました。
 しかし、出ていた漁民からすれば、二窓に「帰省」しても家があるわけではありません。本村を出て世代交代している漁民もいます。人別帳作成のためだけには、帰りたくないというのがホンネでしょう。
 このような家船漁民の声を代弁するように直島の庄屋三宅氏は、次のような返事を二窓に送っています。
①『数代当地にて御公儀江御運上差し上げ、御鑑札頂戴之者共に有り之』
②『御公儀半御支配之者共』
③『(二窓漁民たちは)年々御用煎海鼠請負方申し付有之者共』
④『只今罷り下し候而、御用方差し支えに 相成る』
①には「能地からの出稼ぎ者は、長年にわたり直島で長崎俵物を幕府へ納めている者たちであり、鑑札も頂いている。幕府、代官には彼らを支配する道理があり、直島には彼らを差配する道理がある」
②③には、「二窓出身の漁民達は、幕府御用の煎海鼠(イリコ)生産を請け負うものたちで、公儀のために働く者達である。」
④には、2月から7月までは海鼠猟の繁忙期であり、この期間中に人別改のために帰郷せよというのは、当方の御用業務に支障が出る。

以上のような理由を挙げて、人別帳作成のための生地への「帰国」を断っています。直島にとっては、二窓漁民の存在は『御用煎海鼠請負方』のためになくてはならない存在となっていたことが分かります。
 二窓からやってきている漁民にすれば、真面目に海鼠を捕っていれば収入もあり、直島の庄屋にすれば、幕府から「ノルマ達成」のためには出稼ぎ漁民の力が必要なのです。両者の利害はかみ合いました。そして家船漁民は生国の元村二窓には、帰えらなくなります。同時に、海鼠猟とその加工が家船漁民集団によって担われていたことがうかがえます。
おおみやけ(大三宅)庭園 ― 国登録有形文化財…香川県直島町の庭園。 | 庭園情報メディア【おにわさん】
三宅家(直島庄屋)

直島庄屋は次のような内容を、二窓浦役所に通告しています。
①今後は寄留漁民に直島の往来手形を発行する
②直島の寺院の檀家になることを許す
これは直島庄屋の寄留漁民を『帰らせない、定着させる』 という意志表示です。家船漁民は、次のような利点がありました。
①年貢を二重に納めなくても済むこと。それまでは、漁場を利用する場合には、運上を納めた上に、本籍地の二窓にも年貢を納めていました。
②入漁地の住人として認められる事になれば、二窓とは何の関係も持つ必要がなくなります。
結局直島260人の他、小豆島、塩飽、備前、田井内の寄留漁民が二窓浦役所に納税しなくなり、人別帳からも外れていきます。
以上をまとめておくと
①戦国時代の忠海周辺は、小早川配下の水軍大将であった浦氏の拠点であった。
②「小早川ー浦氏ー忠海周辺の水夫」は、宗教的には臨済宗・善行寺の門徒であった
③関ヶ原の戦い敗北後に、毛利方についた浦氏水軍も離散し、多くが海に生きる家船漁民となった。
④家船漁民は優れた技術を活かして、新たな漁場を求めて瀬戸内海各地に出漁し新浦を形成するようになった。
⑤長崎俵物の加工技術を持っていた家船漁船は、その技術を見込まれて集団でリクルートされるようになった。
⑥彼らは生国の善行寺の管理から離れ、移住地に根ざす方向を目指すようになった。
⑦その契機になったのが幕府の俵物生産増産政策であった。
このような流れを背景に、二窓の漁民の移住・出漁(寄留)地の讃岐分一覧表を見ておきましょう。

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河岡武春著『海の民』平凡社より
二窓漁民の移住・出漁(寄留)地
 国 郡 地名    移住年 (寄留数)初出年代 筆数  
讃岐国小豆郡小豆島 安政6(1859)  3 享保18(1733)  32
  〃   小部            天保2(1831)  
  〃  小入部?           天保元(1830)  
  〃   大部            嘉永5(1852)  
  〃   北浦  安政3(1856)  6 文政2(1819)  
  〃   新開  嘉永4(1851)  5 天保12(1841)  
  〃   見目            天保6(1835)  
  〃   滝宮            文政5(1822)  
  〃   伊喜末 嘉永2(1849)  1 天保7(1836)  
  〃   大谷  文政2(1819)  7 延享2(1745)  15
  〃   入部  天保13(1842)  7 文政11(1828)  31
  〃   蒲生  安政6(1859)  2 安政5(1858)  
  〃   内海            文政9(1826)  

家船漁民定住地

讃岐国香川郡直島  弘化3(1846)  3 延享2(1745)  25
讃岐国綾歌郡御供所 嘉永3(1850)  6 天保4(1833)  11
  〃   江 尻 安政5(1858)  1 文久2(1862)  
  〃   宇多津           文化3(1806) 
讃岐国仲多度郡塩飽           文久2(1862)   55
     塩飽広島 嘉永4(1851)  2 天保6(1835)  
     塩飽手島 嘉永2(1849)  3 享保18(1833)  34
  塩飽手島カロト           文政11(1828)  
  塩飽手島江ノ浦           天保5(1834)  
      鮹 崎           文政6(1823)  11
      後々セ           文政6(1823)  
      讃 岐 嘉永4(1851)  3 享保6(1721)  34
 讃岐国 合 計    13例  49  25例  236

これを見て分かることは
①初出年代は、1745年の直島と小豆島大谷で、多くは19世紀以後であること
②地域的には天領の直島(25)・小豆島(32)と人名支配の塩飽(55)の島嶼部が多い。
③島嶼部以外では坂出・宇多津地域のみで、その他には史料的には見られない。
④高松・丸亀・多度津藩については、家船漁民を移住させての海鼠加工政策は採らなかった。
以上からは、家島漁民集団の讃岐への定住が本格化したのは19世紀になってからで、そのエリアは天領の小豆島・直島や人名支配の塩飽が中心であったといえるようです。そこには長崎貿易の俵物生産の割当量を確保しようとする倉敷代官所の意向を受けた現地の浦々の有力者の積極的な活動が垣間見えてきます。そのために家船漁民の移住政策が取られるようになり、19世紀後半には多くの新浦が開かれたことが考えられます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 「日本山海名産図会 第四巻 生海鼠」には、次のように記されています。
○生海鼡(なまこ) 𤎅海鼡(いりこ) 海鼡膓(このわた)
是れ、珍賞すべき物なり。江東にては、尾張和田・三河柵の島・相摸三浦・武藏金澤。西海にては、讃刕小豆島、最も多く、尚、北國の所々にも採れり。
 中華は、甚だ稀なるをもつて、驢馬(そば)の皮、又、陰莖を以つて作り、贋物とするが故に、彼の國の聘使、商客の、此に求め歸ること、夥し。是れは、小児の症に人參として用ゆる故に、時珍、「食物本草」には『海參』と号く。又、奧刕金花山に採る物は、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含む。故に是れを「金海鼡(きんこ)」と云ふ。
        意訳変換しておくと
 海鼠は珍賞すべき品で、東国では、尾張和田・三河柵の島・相摸三浦・武藏金澤に多く、西海では讃岐小豆島が最も多い。また、北國でも獲れる。中国では海鼠を、非常に貴重な物として、驢馬(そば)の陰莖で贋物が出回るほどである。そのため中国からやってきた使節団や商客は海鼠を買って歸ること夥い。これは子供の虚弱症の薬として用いるためで、李時珍の「本草草木(食物本草)」には『海參』として紹介されている。また東北の金華山沖で獲れる物は、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含  むので「海鼡(きんこ)」と呼ばれている。

  ここからは次のようなことが分かります。
①中国では海鼠が本草草木で『海參』とされ、小児病の妙薬で朝鮮人参に匹敵するほど貴重なものであった。
②そこで長崎にやって来る中国使節団や商人たちは、海鼠を争って買って帰った。
③西日本最大の海鼠供給地が小豆島であった。
 
金華山の海鼠
                金華山沖の海鼠「海鼡(きんこ)」(栗氏千虫譜第8冊)
  海鼠はどんな風にして捕っていたのでしょうか?
 日本山海名産図会には、「讃州海鼠捕」と題された絵図も載せられています。
小豆島沖の海鼠取り
小豆島沖の海鼠取り
  海岸近くの岩礁の沖で船から玉網ですくっているようです。気になるのは右手の船の船主の漁民が筒にいれたものを海に流し込んでいる姿です。何を流しているのでしょうか? 

海鼠猟
  小豆島沖の海鼠取り(拡大図 筒から何かを海に流している)

註には次のように記されています。
○漁捕(ぎよほ)は、沖に取るには、䋄を舩の舳(とも)に附けて走れば、おのづから、入(い)るなり。又、海底の石に着きたるを取るには、即ち、「𤎅海鼡(いりこ)」の汁、又は、鯨の油を以、水面に㸃滴(てんてき)すれば、塵埃(ちり)を開きて、水中、透き明(とほ)り、底を見る事、鏡に向かふがごとし。然して、攩䋄(たまあみ)を以つて、是れを、すくふ。浅い海底の石に着いたなまこを捕るには、鯨の油を水面に落す。そうすると水中が透明となり、底が鏡のように見えるので、投網ですくう、
 
  意訳変換しておくと
○海鼠漁は、沖での漁法は、網を船の舳(とも)に附けて走れば、自然に入ってくる。また、海岸近くの岩に着いている海鼠を獲るときには、「海鼡(いりこ)」の汁か、鯨の油をを水面に㸃滴(てんてき)すると、海面の塵埃が開いて、水中が透き通って、海底が鏡のように見えるようになる。そこを玉網ですくふ。

ここからは海鼠漁には、引き網漁と玉網ですくう二つの漁法があったことが分かります。鯨油を垂らすと、海面が鏡のように開くというのは始めて知りました。引き網猟も見ておきましょう。
海鼠引き網
沖でなまこを獲るには、網を船につけて引く、これはすくい網の方法であるが、なまこを取るには他に重い石をつけて海底を引くこぎ網の方法もあった。 
海鼠引き網2
海鼠引き網

どんな海鼠を、獲っていたのでしょうか? 「和名抄」には、次のように記されています。

『老海鼡(ほや)』と云ふ物は、海参 則ち、「海鼡(いりこ)」に制する物、是れなりといへり。又、「生鮮海鼡(なまこ)」は俗に「虎海鼡(とらこ)」と云ひて、斑紋(まだらのふ)あるものにて、是れ又、別種の物もありといへり。「東雅」に云、『「適齋(てきさい)訓蒙圖會」には、「沙噀(しやそん)」を「ナマコ」とし、「海參(かいじん)」を「イリコ」とす。若水は「沙噀」・「沙蒜(しさん)」・「塗筍(としゆん)」を「ナマコ」とし、「海男子(かいだんし)」・「海蛆(かいそ)」を「イリコ」とす』云々。いずれ、是(ぜ)なることを知らず。されど、「海男子」は「五雜俎」に見へて、男根に似たるをもつて号(なづ)けたり。

意訳変換しておくと
○『老海鼡(ほや)』は、「海鼡(いりこ)」のことである。また「生鮮海鼡(なまこ)」は俗に「虎海鼡(とらこ)」と云って、斑紋様のあるもので、別種のものとも云える。「東雅」には次のように記す。『「適齋(てきさい)訓蒙圖會」には、(しやそん)」を「ナマコ」とし、「海參(かいじん)」を「イリコ」とす。若水は「沙噀」・「沙蒜(しさん)」・「塗筍(としゆん)」を「ナマコ」とし、「海男子(かいだんし)」・「海蛆(かいそ)」を「イリコ」とす』云々。どれが正しいかよく分からない。しかし、「海男子」は「五雜俎」に載せられていて、男根に似ているのでそう呼ばれるようになったようだ。

海鼠2
「栗氏千虫譜第8冊」「黒ナマコ」又は「クロコ」

当時の海鼠は、どのようにして食されていたのでしょうか?
今の私たちは海鼠と云えば、そのまま切って生身で酒の肴にして食べます。しかし、生鮮魚介類の冷凍などが出来なかった時代には、海鼠はまったく別の方法で食べられていたようです。その加工方法を見ていくことにします。
『日本山海名産図会』は、なまこの加工については次のように記します。
煎海鼠(いりこ)に加工するには、 𤎅(い)り乾(ほ)すの法は、腹中(ふくちう)、三條の膓(わた)を去り、數百(すひやく)を空鍋(からなべ)に入れて、活(つよ)き火をもつて、煮ること、一日、則ち、鹹汁(しほしる)、自(おのづ)から出(い)で、焦黑(くろくこげ)、燥(かは)きて硬く、形、微少(ちいさ)くなるを、又、煮ること、一夜(や)にして、再び、稍(やゝ)大きくなるを、取り出だし、冷(さ)むるを候(うがゝ)ひ、糸につなぎて、乾し、或ひは、竹にさして、乾(かわか)したるを、「串海鼡(くしこ)」と云ふ。また、大(おほ)いなる物は藤蔓(ふじつる)に繋ぎ、懸ける。是れ、江東及び越後の產、かくのごとし。小豆島の產は、大(おほい)にして、味、よし。薩摩・筑刕・豊前・豊後より出づるものは、極めて小なり。

意訳変換しておくと
  海鼠を乾す手順は、①腹の中の三條の腹膓(はらわた)を取って、②數百を空鍋に入れて、強火で煮ること一日。すると鹹汁(しほしる)が出て、黒く焦げ、乾いて硬くなり、縮んで小さくなる。それをまた煮ること一夜、今度は少し大きくなったものを取り出だし、③冷えてから糸につないだり、竹にさして乾かす。これを「串海鼡(くしこ)」と云う。
 また、大きいもの藤蔓(ふじつでつないで懸ける。これは東国や越後でも同じ手法である。小豆島のものは大型で、味がいい。薩摩・筑紫・豊前・豊後産のものはこれに比べるとはるかに小さい。
ここには小豆島近海の海鼠は大型で、味もいいと評価されています。小豆島産海鼠は、品質がよかったようです。
  ここには煎海鼠(いりこ)加工の手順が次のように記されています。

海鼠加工


海鼠加工1
①腹の中の三條の腹膓(はらわた)を取って、

海鼠加工2
②空鍋に入れて、強火で煮ること一時間。
鹹汁が出て、縮んで小さくなったものをまた煮ること一夜、
海鼠加工3

海鼠加工4

④冷えてから糸につないだり、竹にさして乾かす。これを「串海鼡(くしこ)」と云う。
⑤小豆島のものは他国のものと比べると大型で、味がいい。
つまり小豆島の海鼠加工品は、評判がよく競争力があって市場では高く売買されたようです。
海鼠の加工品である煎海鼠(いりこ)は、どのように流通したのでしょうか?
 実は、これらが国内で流通することはなかったのです。
俵物
俵物
高校日本史では、俵物として長崎貿易での重要品として煎海鼠(いりこ)・干鮑・鱶鰭の三品を挙げます。1697(元禄10)年から金銀銅の決済に代えて、清国向けの重要輸出品になります。そのために俵物は幕府の統制品となり、抜げ売りや食用までも禁じられました。中国への輸出用のために生産されたのです。その集荷には長崎の俵物元役所があたりました。そして全国の各浦に生産量が割り当てられ、公定価格で取引されます。しかも割当量も過大であり、漁師のいない村や原料の海鼠を産しない村まで割り当てられました。他領から購入したり、家島漁師を雇って製造しても目標は達成できません。例えば松山藩の割当ては約5000斤でした。しかし、天保~弘化期10年間の出荷率は、幕府割当量の約6割に留まっています。
第40回日本史講座のまとめ② (田沼意次の政治) : 山武の世界史
 
長崎俵物方では督促と密売防止のため全国に役人を派遣して、各浦の調査・督促を行っています。そして各藩の集荷責任者の煎海鼠買集人や庄屋が集められ、割当量の調整等が行われています。まさに「外貨」を稼ぐために特化した海鼠の加工だったことが分かります。こうして、各浦の責任者にとっては、割当てられた海鼠イリコの生産確保が大きな負担となってきます。これに小豆島の庄屋たちは、どのように対応したのでしょうか? それはまた次回に・・・
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