瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:淡路守護家細川尚春

秋山氏

以前に秋山氏のことは上のようにまとめておきました。
今回は、上表で⑥と⑦の間に位置するころの「秋山氏の鷹贈答文化政策」を見ていくことにします。
テキストは「溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要」です。
香西元長による管領細川政元暗殺に端を発する永世の錯乱(1507年)は、「讃岐武士団の墓場」と呼ばれ、多くの讃岐武士団の凋落をもたらします。同時に、中央での細川氏同士の争いは、阿波細川氏の讃岐への侵攻をもたらします。その結果、讃岐は他国に魁けて戦国時代に突入したと研究者は考えています。

1 秋山源太郎 細川氏の抗争
この時期に秋山源太郎は、細川澄元や淡路守護家細川尚春(以久)に接近しています。
その交流を示す資料が、秋山家文書の(29)~(55)の一連の書状群です。阿波守護家は、細川澄元の実家であり、政元の後継者の最右翼と源太郎は考えて、秋山家の命運を託そうとしたのかも知れません。 
 この時期の城山文書からは次のような事がうかがえます。
①高瀬郷内水田跡職をめぐって秋山源太郎と香川山城守が争論となった時に、京兆家御料所として召し上げら、その代官職が細川淡路守尚春(以久)の預かりとなっていたこと。
②この没収地の変換を、秋山源太郎が細川尚春に求めていたこと。
③そのために、源太郎は自分の息子を細川尚春(以久)の淡路の居館に人質として仕えさせていたこと
④淡路守護家に臣下の礼をとり、尚春やその家人たちへの贈答品を贈り続けていたこと。
⑤その淡路守護家からの礼状が秋山文書の中には源太郎宛に数多く残されていること。
⑥ここからは、秋山氏と淡路の細川尚春間の贈答や使者の往来が見えてくること。
この文書については、以前にお話ししました。それを一覧化したものを見ておきましょう。

秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧

秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧2
     秋山源太郎への淡路細川尚春(以久)やその奉行人からの書状一覧
①一番上が日付 
②発給者の名前に「春」の字がついている人物が多いので、細川淡路守尚春(以久)の一字を拝領した側近
③一番下が秋山源太郎からの贈答品です。鷹・小鷹・鷂(ハイタカ)・悦哉(えっさい:ツミ)が多いのが分かります。
鷹狩り

鋭いかぎ爪でハト襲うハイタカ 繰り返された野生の攻防 沖縄・名護市 | 沖縄タイムス+プラス
            鳩を捕らえたハイタカ(牝)

鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサ・ツミ(愛玩用?)が用いられたようですが、秋山源太郎が贈答品に贈っているのはハイタカが多いようです。
ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけだったようです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。源太郎から送られてきたハイタカは「山かえり(山帰り)」で一冬を山で越させて羽根の色が毛更りして見事なものだったようです。
文書の中に贈答品として、鷹がどんな風に登場するかを見ておきましょう。
(年欠)7月5日付 秋山源太郎宛 細川氏奉行人薬師寺長盛書状 
「就中、重寶之給候」
(年欠)10月29日付 細川氏奉行人 春綱書状
「就之儀、石原新左衛門尉其方へ被越候、可然様御調法候者、可為祝着之由例、諸事石原方可被申候間、不能巨細候」
調教済みの鷹を贈られたことへのお礼が述べられています、
同11月9日付 細川氏奉行人 春綱書状
「なくさミのためゑつさい所望之由」
なぐさめ(観賞用)の悦哉(ツミ)を、細川家の奉行人が所望しています。
同12月27日付 細川氏奉行人 春綱書状
「鷂(ハイタカ)二居致披露候處祝着之旨以書札被申候」
秋山氏から鷂が贈られてきたことへの細川氏奉行人の春綱書状お礼です。用件のついでに、鷹の進上への謝辞をさらりと入れています。
 今度は、淡路守護細川尚春から秋山源太郎へ書状です。                    
今度御出張の刻、出陣無く候、子細如何候や、心元無く候、重ねて出陣調に就き、播州え音信せさせ候、鷹廿居尋ねられ給うべく候、子細吉川大蔵丞申すべく候、
恐々謹言          以久(淡路守護細川尚春)花押
九月七日
秋山源太郎殿
意訳すると
今度の出陣依頼にも関わらず、出陣しなかったのは、どういう訳か! 非常に心配である。重ねて出陣依頼があるようなので、播州細川氏に伝えておくように、
鷹20羽を贈るように命じる。子細は吉川大蔵丞が口頭で伝える、恐々謹言
先ほど見たように、当時は「永世の錯乱」後に、細川政元の養子となっていた「澄之・澄元・高国」による家督争いが展開中でした。澄元方の播州赤松氏は、播磨と和泉方面から京都を狙って高国方に対し軍事行動を起こします。しかし、京都の船岡山合戦で破れてしまいます。これが永正8(1511)年8月のことです。この船岡山合戦での敗北直後の9月7日に淡路守護細川尚春が秋山源太郎に宛てて出された書状です。 内容を見ていきましょう。冒頭に、尚春が荷担する澄元側が負けたことに怒って、秋山源太郎が参戦しなかったのを「子細如何候哉」と問い詰めています。その後一転してハイタカ20羽を贈るようにと催促しています。この意味不明の乱脈ぶりが中世文書の面白さであり、難しさかもしれません。
それから3ヶ月後の淡路守護細川尚春からの書状です。
鵠同兄鷹(ハイタカ)給い候、殊に見事候の間、祝着候、
猶田村 弥九郎申すべく候、恐々謹言
           (細川尚春)以久 (花押)
十二月三日
秋山源太郎殿
意訳すると
  特に見事な雌の大型のハイタカを頂き祝着である。
猶田村の軒については、使者の弥九郎が口頭で説明する、恐々謹言
先ほどの書状が9月7日付けでしたから、それから3ヶ月後の尚春からの書状です。 出陣しなかった罰として、ハイタカ20羽を所望されて、急いで手元にいる中で大型サイズと普通サイズのものを秋山氏が贈ったことがうかがえます。重大な戦闘が続いていても、尚春はハイタカの事は別事のように執着しているのが面白い所です。当時の守護の価値観までも透けて見えてくるような気がします。
 ここからは、澄元からの出陣要請にも関わらず船岡山合戦に参陣しなかった源太郎への疑念と怒りがハイタカ20羽で帳消しにされたことがうかがえます。鷹の価値は大きかったようです。細川家の守護たちのご機嫌を取り、怒りをおさめさせるのにハイタカは効果的な贈答品であったようです。三豊周辺の山野で捕らえられたハイタカが、鷹狩り用に訓練されて淡路の細川氏の下へ贈られていたのです。

 ところで秋山氏の所領がある三野郡に、これだけの鷹類がいたのでしょうか?
 私もかつて日本野鳥の会に入っていて、鷹類の渡り観察会に参加していました。阿波の鳴門や伊予の三崎半島の突端には、東から多くの鷹たち(多くはサシバ)がやってきて、西へと渡って行きます。鷹柱になることもあります。それらを見晴らしのいい高台から眺めるのは気持ちのいいものでした。香川県支部タカ渡り調査グループの調査記録によれば、荘内半島近辺は、春に朝鮮半島へ向かう鷂が集まりやすい地形で、秋には差羽(サシバ)、雀鷹(ツミ)・鷂(ハイタカ)なそが岡山県側から備讃瀬戸の島伝いに南下してくることが報告されています。秋山氏の所領の高瀬郷付近は、春と秋に渡り鳥が飛来する適地であったようです。
 鎌倉時代の関東からの西遷御家人によって、西国に東国の鷹狩り文化が持ち込まれたと云われます。元寇後に讃岐にやって来た西遷御家人でもある秋山氏も、東国で行っていた鷹狩りを讃岐でも行うようになった可能性はあります。贈答用のハイタカは庄内半島周辺で捕らえられ、源太郎家で飼育され、狩りの訓練もされていたのでしょう。尚春のもとで仕えていた秋山新六も、鷹の調教には詳しかったようで、他の書簡には「調教方法は詳しく述べなくても新六がいるので大丈夫」などと記されています。ハイタカの飼育・調教を通じて新六が尚春の近くに接近していく姿が見えてきます。

どうして上級武士達は鷹狩りに熱中したのでしょうか?
古代の鷹狩は「遊猟」と書き、「かり」「みかり」と読まれる神事・儀式だったようです。
遊猟(鷹狩) は「君主の猟」といわれ、皇族や貴族に限られ、庶民が鷹を飼うことは厳禁でした。その背景には、鷹が「魂の鳥、魂覓(ま)ぎの鳥」と見なされていたことがあります。中世でも鷹は仏神の化身として、神前に据える「神鷹」の思想へと受け継がれていきます。このように古代から支配者の狩猟活動は、権威のシンボル的意味を持っていたことは、メソポタミアの獅子刈りがそうであったように世界の古代帝国に共通します。その中で鷹狩(放鷹)は、調教した鷹を放って鳥や獣を捕える技で、天皇・皇族が行う遊猟とみなされてきました。そのため鷹狩はレクレーションではなく、国家権力行使の一部と見みられます。こうして鷹の雛採取の権利は、山林支配権とも結びつきます。それは天皇家から武家政権にも継承されます。今でも「鷹の巣山・大鷹山、鷹山(高山)」などの山名を持つ山は、この系譜に連なっていた可能性があるようです。その一大イヴェントが源頼朝が建久4年(1193)に富士の裾野で大規模で行った巻狩です。これは軍事演習であると同時に、統治者としての資格を神に問うものでもありました。

源頼朝の富士裾野の巻狩り
源頼朝の富士の裾野の巻狩図
「一遍上人絵伝」を見ていると、武家屋敷主屋の縁先に鷹が描かれています。中世武士と鷹との関係は日常的なものだったようです。
 室町期には、狩野永徳の「洛中洛外図屏風」等に嵐山渡月橋近くを行く鷹匠一行が描かれています。鷹狩が定着すると、室町幕府は公家の放鷹や諏訪流鷹術を学んで大名・守護の鷹狩を公認するようになります。その一方で、幕府への鷹の進上を大名・守護に求めるようになります。これはドミノ理論のように、将軍家の鷹献上のために、守護は被官たちに鷹の進上を求めるようになります。自分で鷹狩りをするためだけでなく、鷹が贈答品としての大きな価値を持つようになったのです。だから、守護の中には幾種類何十羽の鷹を飼育し、専業者を雇い入れる者も出てきます。
 そのような中で出されたのが6代将軍足利義教の時の鷹・猿楽統制令です。
これは鷹狩と猿楽は室町殿だけに許される芸能として、他のものには許認可制とするものです。鷹狩と猿楽を権力の象徴として、室町殿の管理下に置こうとする動きと研究者は考えています。その後、三管領等の有力大名から、年頭に将軍に「美物」が献上されるようになります。「美物」として挙げられているのが次のものです。(室町幕府政所代蜷川親元の日記『親元日記』文明17年(1485)

「白鳥・雁・鴨・鶇・青鷺・五位鷺・菱食・鴫・初雁・水鳥・鷹」

こうして室町時代には、鷹の献上・下賜儀礼品化が進んでいきます。
後の信長や秀吉も、この先例を引き継ぎます。こうして戦国期には鷹狩が大流行し、織田信長は大名や家臣から鷹を献上させます。それでは満足できずに、鷹師を奥羽に派遣して逸物の鷹を手に入れ、朝廷に「鷹・雁・鶴」を献上します。それだけでなく「鷹」を家臣団をはじめ安土城下の町民にも下賜しています。
 続いて豊臣秀吉は、全国の鷹を居ながらにして獲得できる鷹の確保体制を築き上げます。
そして、朝廷と武家の儀礼を融合した独自の贈答儀礼を創りだします。天正16年(1588)5月には、鷹狩の獲物が献上品となり、朝廷へは白鳥が、大名には鶴・雁が献上されるようになります。こうして家臣や従属下にある領主から献上させる場合には「進上」という言葉が使われるようになります。これは単なる贈与ではなく、従属関係にあることをはっきりとさせたものです。それだけにとどまりません。それは次のような2つの政治的意図がありました。
①鷹の上納を一元化することで、小領主が持っていた山野支配権を否定
②村落内の小領主は、棟別銭免徐と竹林伐採禁止の特権を獲得
秀吉のやり方は、見事です。村落は鷹を進上することで山野の利用権(野山入会権)を設定し、村落内の小領主も鷹を進上することで、彼らの既得権を維持させたのです。

最後に秋山氏以外の讃岐における国人・土豪層の鷹狩文化を見ておきましょう。
①明応元年(1492) 香川備中守息の香河五郎次郎が鷹野に往っている(蔭凉軒日録)。
②明応6年(1497) 山城国守護代となった香西元長は、翌年に南山城で鷹狩実施。
新しく守護代となって支配者の特権である鷹狩権を山城で行使しています。これは自らの支配権を目に見える形で行使するデモンストレーションでもありました。
③永正元年(1504) 主君細川政元から東讃守護代安富元家に対して「自御屋形鷹二・鳥十・鯛一折、被送下候、祝着畏入候」とあり、鷹・鳥・鯛が下賜。(『細川家書札抄』(高松松平家蔵)
④阿波の三好長治が元亀3年(1572)冬に、山田郡木太郷で讃岐諸将(多度津雅楽助・大林三郎左衛門)を召集して鷹狩実施(南海治乱記)。
これも三好氏による讃岐占領地である山田郡での支配者としての示威行動ともとれます。
⑤『玉藻集』には「阿波の屋形へ羽床伊豆守より白鷺を指上る」とあり、羽床伊豆守政成が「今度於綾川ニ、盡粉骨白鳥一羽生捕畢。進上之如件」(綾川で取れた白鳥(白鷺)を進上)という宛状を調えて、「屋形様 御近習衆中」宛てに送っています。ここからは、白鳥が「美物」であったことが裏付けられます。
⑥「多田刑部は西郡に住す。代々鷹の道をよく知ると云々」とあり、讃岐西部の香川氏家臣多田刑部が「鷹の道」に通じていたこと。ここからは西讃には秋山氏以外にも鷹匠的技能をもつ武士たちがいたことが分かります。彼らが近世になると大名の鷹匠へと招聘されていくのかも知れません。
以上をまとめておきます
①日本には古代の天皇の放鷹にみる「鷹狩する王」(狩る王)の系譜があった。
②中世にはその伝統が在地武士の小領主の間にも広がり、
③鷹はその小領主権を象徴し、鷹の献上は服属の儀礼を意味するようになった
④秀吉は、それを逆手にとって鷹の上納を一元化することで、小領主が持っていた山野支配権を否定
⑤その代償として、村落内の小領主に対しては棟別銭免徐と竹林伐採禁止の特権を与えた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

讃岐秋山氏の隆盛をもたらしたのは、三代目③秋山孫次郎泰忠(晩年は沙弥日高)でした。その後は、泰忠の直系が棟梁を相続していきます。秋山(惣領家)嫡流である鶴法師は、通称孫次郎で後に⑧二代目泰久(⑤初代孫四郎泰久は水田)を名乗っています。
 秋山家文書「文明六(1474)年6月日付秋山鶴法師言上状」からは二代目泰久が、寒川貞光の理不尽な横領を受け、山田郡東本山郷水田名(高松市)の2/3を奪われ、そのうえに本領である高瀬郷内1/3も失なったことが分かります。さらに管領細川家の内紛に巻き込まれ、近畿への出兵が度重なり経済的にも疲弊します。そして何より「勝ち馬」に乗れず新しい恩賞を得ることができません。これが秋山惣領家の衰退につながることは以前にお話ししました。

1秋山氏の系図4

惣領家嫡流孫二郎泰久に代わって、台頭してくるのがA秋山源太郎元泰です。
源太郎の家筋は、泰忠の子等の時代に分かれた庶家筋と研究者は考えているようです。永正三(1506)年8月29日付秋山泰久下地売券では、惣領家の居館周辺「土井」の土地二反を、源太郎が買い取った記録です。居館周辺の土地までも、手放さざるえなくなった惣領家の窮状を見えてきます。
 その後の秋山家文書は、この源太郎宛てものが殆どになっていきます。源太郎が秋山一族の惣領に収まった事がうかがえます。
秋山源太郎が、勢力を増大した契機は、永正八(1511)年7月21日の櫛梨山合戦の功績です。

1 秋山源太郎 細川氏の抗争
この合戦は、永正四(1507)年の細川政元死後の混乱による細川高国派と同澄元派の抗争の一環として、讃岐で起きたものと研究者は考えているようです。この時期、源太郎は 一貫して澄元派に属して活動していたようです。櫛梨山合戦の功名によって澄元から由緒深い秋山水田(初代泰久の号)分を新恩として宛行われています。この土地は高瀬郷内の主要部分のようで、秋山氏嫡流の⑤備前守(二代目)泰久の跡職に就いたことになります。そして、この水田分は源太郎の死後も嫡子幸久(丸)、後の兵庫助良泰に細川高国によって安堵されています。

この時期に秋山源太郎は、細川澄元に軸足を置いて、阿波守護家や淡路守護家細川尚春にも接近しています。
その交流を示す資料が、秋山家文書の(29)~(55)の一連の書状群です。阿波守護家は、細川澄元の実家であり、政元継嗣の最右翼と源太郎は考えていたのでしょう。応仁の乱前後(1467~87)には、讃岐武将の多くが阿波守護細川成之に属して、近畿での軍事行動に従軍していました。そのころからの縁で、細川宗家の京兆家よりも阿波の細川氏に親近感があったとのかもしれません。
 淡路守護家との関係は、永正七(1510)年6月17日付香川五郎次郎遵行状(25)から推察できます。
この書状は高瀬郷内水田跡職をめぐって源太郎と香川山城守とが争論となった時に、京兆家御料所として召し上げられ、その代官職が細川淡路守尚春(以久)の預かりとなります。この没収地の変換を、源太郎は細川尚春に求めていくのです。そのために、源太郎は自分の息子を細川尚春(以久)の淡路の居館に人質として仕えさせ、臣下の礼をとり尚春やその家人たちへの贈答品を贈り続けます。その礼状が秋山文書の中には源太郎宛に数多く残されているのです。これを見ると、秋山氏と淡路の細川尚春間の贈答や使者の往来などが見えてきます
 どんな贈答品のやりとりがされていたのかを見ていくことにします。
   細川氏奉行人薬師寺長盛書状     (すべて読下文に変換)
尚々、委細の儀、定めて新六殿に申さるべく候
御懇の御状畏入り存じ候、依って新六殿御油断無く御奉公候間、千秋万歳目出存じ候、
柳か如在無きの儀申し談じ候、御心安ずべく候、其方に於いて何事も頼み奉り存じ候、ふとまかり越し候也、御在所へ参るべく候、次いであみ給い候、一段畏れ入り存じ候、暮の仰せ承りの儀、最戸(斉藤)方談合申し候て、
披露致すべく候、恐々謹言
(永正十二)                     (薬師寺)
閏二月十九日                長盛(花押)
秋山源太郎殿
御返報
意訳すると
書状受け取りました。詳しいことは新六殿に口頭で伝えておきますのでお聞きください。申出のあった件について確かに承りました。新六殿は油断なく奉公に励んでおり、周囲の評判も良いようです。人柄も良く機転も利くのでご安心ください。諸事について頼りになる存在です。
  あみを頂きましたこと、誠に恐れ入ります。暮れにお話のあった斉藤方との談合について、報告しておきたいと思います。
冒頭の「委細の儀、定めて新六殿に申さるべく候」の「新六殿」とあるは、源太郎の子息と研究者は考えているようです。源太郎は息子を、細川淡路守護家に奉公させていたようです。人質の意味もあります。源太郎は息子新六を通じて、淡路や上方の情勢を手に入れていたことがうかがえます。源太郎からの書状には、どんなことが書いてあったのかは分かりません。推察すると「水田」の所領返還についてのお願いだったのかもしれません
  この書状がいつのものかは、「閏二月十九日」から閏年の永正12(1515)年のことだと研究者は考えているようです。
「あミ」は、食用の「醤蝦」で、現代風に訳すると「えびの塩辛」になるようです。発給者の長盛については、よく分かりません。しかし、淡路守護家に出仕する細川尚春の近習と考えられます
 これらの書状は、どのようにして淡路の守護館から高瀬郷の源太郎のもとに届けられたのでしょうか。
江戸時代のように飛脚はありません。書状の中には、「詳しくは使者が口頭で申す」と記され、
石原新左衛門尉、柳沢将監、田村弥九郎、小早川某、吉川大蔵丞

などの名前が記されています。彼らは、淡路守護細川尚春(以久)の家人や馬廻り衆と研究者は考えているようです。彼らが、以久の直状や以久の内意を受けての書状を、讃岐や出陣先へ運び口上を伝えたようです。淡路から南海道を経て陸路やってきたのでしょうか。熊野と西国を結ぶ熊野水軍の「定期船」で塩飽本島までやってきたのかもしれません。

淡路守護細川尚春周辺から源太郎へ宛の書状一覧表を見てみましょう
1 秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧1
1 秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧2

まず発給者の名前を見ると大半が、「春」の字がついています。
ここから細川淡路守尚春(以久)の一字を、拝領した側近たちと推測できます。これらの発給者は、細川尚春(以久)とその奉行人クラスの者と研究者は考えているようです。
一番下の記載品目を見てください。これが源太郎の贈答品です。鷹類が多いのに驚かされます。特に鷹狩り用のハイタカが多いようです。
 中世には武家の間でも鷹代わりが行われるようになります。
信長、秀吉、家康はみんな鷹狩が大好きでした。信長が東山はじめ各地で鷹狩を行ったこと、諸国の武将がこぞって信長に鷹を献上したことは『信長公記』にも書かれています。
 この表だけでは、当時の武士の棟梁たちの鷹に対する執着ぶりは伝わらないと思います。どんな鷹が秋山家から淡路の細川家に贈られたのでしょうか。実際に文書を読んでみましょう。

細川氏奉行人春房書状                 

猶々御同名細々(再再)越され候、本望の由候仰せの如く、先度御態と御状預かり候、殊に御樽代三百疋、題目に謂わず候、次山かえり祝着の至り候、委細田村弥九郎、小早川申さるべく候、恐々
謹言          春房(花押)
十一月十日
秋山源太郎殿  御返報

意訳しておくと
秋山家からの使者が再再に渡ってお越し頂けるので大変、助かっています。おっしゃる通り、贈答品と書状を受け取りました。また別に樽代として300疋は題目を付けずに書状を添えて献上した旨承知しました。
山かえりのハイタカを頂きましたが祝着の至りです。
詳しいことは使者の田村弥九郎、小早川が、口頭でお伝えします。

後半に使者として名前の出てくる田村弥九朗および小早川については分かりません。小早川は淡路守家にもいたようで、秋山氏との連絡を担当していた奉行人のようです。秋山氏の者が細々(再再)・頻繁に連絡を保っていると最初に記されています。人質として預けられていた源太郎の息子・新六のことだ研究者は考えているようです。
  「題目に謂わず」とは、外題を付けずに書状に添えて献上したということでしょうか。源太郎の経済力がうかがえます。二百疋も、為替によって運ばれたようです。当時は以前にお話ししたように為替制度が整備されていました。
要件を述べた後は、贈答品として送られてきた鷹に話題が移っていきます。

1 秋山源太郎 haitaka
尚春が鷹狩りに使っていたのはハイタカのようです。鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサが用いられたようですが、源太郎が贈答品に贈っているのはハイタカです。ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけだったようです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。源太郎から送られてきたハイタカは「山かえり(山帰り)」で一冬を山で越させて羽根の色が毛更りして見事なものだったようです。
 贈答用のハイタカは三豊周辺で捕らえられ、源太郎家で飼育され、狩りの訓練もされていたのでしょう。尚春に仕えていた新六も、鷹の調教には詳しかったようで、他の書簡には「調教方法は詳しく述べなくても新六がいるので大丈夫」などと記されています。ハイタカの飼育・調教を通じて新六が尚春の近くに接近していく姿が見えてきます。

16 淡路守護細川尚春書状                    
今度御出張の刻、出陣無く候、子細如何候や、
心元無く候、重ねて出陣調に就き、播州え音信せさせ候、
鷹廿居尋ねられ給うべく候、巨細吉川大蔵丞申すべく候、
恐々謹言 
         以久(細川尚春)花押
九月七日 
秋山源太郎殿
意訳すると
今度の出陣依頼にも関わらず、出陣しなかったのは、どういう訳か!非常に心配である。重ねて出陣依頼があるようなので、播州細川氏に伝えておくように、
鷹20羽を贈るように命じる
子細は吉川大蔵丞が口頭で伝える、恐々謹言
先ほど見たように、当時は管領細川政元の3人の養子・澄之・澄元・高国による家督争いが展開中でした。
船岡山
澄元方の播州赤松氏は、播磨と和泉方面から京都を狙って高国方に対し軍事行動を起こします。しかし、京都の船岡山合戦で破れてしまいます。これが永正8(1511)年8月のことです。この船岡山合戦での敗北直後の9月7日に秋山源太郎に宛てて出された書状です。
 内容を見ていきましょう。冒頭に、尚春が荷担する澄元側が負けたことから怒って、秋山源太郎が参戦しなかったのを「子細如何候哉」と問い詰めています。その後でハイタカ20羽を贈るようにと催促しています。この意味不明の乱脈ぶりが中世文書の面白さであり、難しさかもしれません。
秋山源太郎が出陣しなかった理由としては、前回に見た細川澄元感状に
「櫛無山に於いて太刀打を致し、殊に疵を被る」

とありました。前年にあった櫛梨山合戦で、太刀傷を受け療養中だったことが考えられます。

淡路守護細川尚春書状
鵠同兄鷹給い候、殊に見事候の間、祝着候、
猶田村 弥九郎申すべく候、恐々謹言
           (細川尚春)
             以久(花押)
十二月三日
秋山源太郎殿
意訳すると
  特に見事な雌の大型のハイタカを頂き祝着である。
猶田村の軒については、使者の弥九郎が口頭で説明する、恐々謹言
先ほどの書状が9月7日付けでしたから、それから3ヶ月後の尚春からの書状です。 出陣しなかった罰として、ハイタカ二十羽を所望されて、急いで手元にいる中で大型サイズと普通サイズの2羽を贈ったことがうかがえます。重大な戦闘が続いていても、尚春はハイタカの事は別事のように執着しているのが面白い所です。当時の守護の価値観までも透けて見えてくるような気がします。

その半年後の翌年9月には、申し付けられた20羽のハイタカを源太郎が贈ったこととに対する尚春の礼状が残っています。そこには、澄元からの出陣要請にも関わらず船岡山合戦に参陣しなかった源太郎への疑念と怒りが解けたことを伝えています。ハイタカ20羽が帳消しにしたのです。鷹の戦略的な価値は大きかったようです。このような鷹狩りへの入れ込みぶりが当時の武士団の棟梁たちにはあったのです。それが信長や家康の鷹狩り好きの下地になっていることが分かります。
 細川家の守護たちのご機嫌を取り、怒りをおさめさせるのにハイタカは効果的な贈答品であったようです。三豊周辺の山野で捕らえられたハイタカが、鷹狩り用に訓練されて淡路の細川氏の下へ贈られていたようです。

  参考文献
高瀬文化史Ⅳ 中世の高瀬を読む 秋山家文書②

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