瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:清光神社

髙松平野南部の神社分布図を見ていると、熊野神社が多いことに気がつきます。

髙松市十郷町の熊野神社
髙松平野南部の十河町周辺の熊野神社
熊野系の神社は「熊野神社」と呼ばれる以外にも「十二所権現、三所権現、若一王子権現、王子権現」などとも呼ばれます。その祭神の多くは伊邪那岐命、速玉男命、事解男命の三神です。それらを考慮しながら髙松周辺の熊野系神社(『香川県神社誌』)を一覧表化したのが次の表です。

讃岐の熊野神社3
          高松市周辺の熊野神社一覧
ここからも植田町から塩江などに、熊野神社が数多く点在していることが分かります。
どうして、髙松平野の南部には熊野神社が多いのでしょうか?

髙松平野の武士団による熊野神社の勧進

上皇や公家たちの間での流行であった熊野信仰が、地方の地頭クラスの武士たちに拡がっていったのは12世紀初頭の承久の乱以後とされています。そして、讃岐で熊野詣でが活発に行われるようになるのは14世紀以後のことです。こうして熊野から勧進された熊野系神社が讃岐にも姿を見せるようになります。その勧進で大きな役割を果たすのは、次の2者です
A 増吽のような熊野行者たち
B 熊野詣でを行い信仰心を高めた武士団の棟梁たち
以上を予備知識として、髙松市東植田町周辺の熊野系神社は、建立に関してどのような由来を持っているのか、具体的にはどんな人によって建立されたと伝わるのかを見ていくことにします。テキストは「髙松市東植田地区 古道」香川県史14巻450Pです。

熊野参拝システム

髙松市南部の熊野神社の教勢拡大の拠点とされるのが松縄の熊野神社のようです。

髙松市松縄の熊野神社2 
髙松市松縄の熊野神社
その説明版を見ておきましょう。
髙松市松縄の熊野神社 
 髙松市松縄の熊野神社説明版 
ここには次のように記されています。
「祭神:伊弉冊尊・事解男命・速玉男命元久・
承元年間(1204~1210)紀州の熊野清光が三木郡田中村から山田郡の十河村、それより松縄村に移住した。そこで、熊野神社の神霊を勧請して社殿を新宮・本宮・那智三社を三所に造営した。そのため三所権現と称した。大正六年(1917)に合祀して一社とした。文明年中(1469~1487)に宮脇越中守長定が再建し祭田を寄進した。その後、元亀・天正の戦乱によって社殿もこわれたのを、元和元年(1615)生駒家三代正俊が社殿を再興し社領三石を与えた。この熊野神社のある丘の周辺が松縄城跡と推測され、代々宮脇氏が居城した。宮脇氏は紀伊熊野の海賊を率いて活躍した新宮別当湛増の子孫とも伝えられ鬼無の佐料城に居城する香西氏に属していた。戦国時代末期には、宮脇長門守又兵衛が、信長・秀吉に仕え、軍功をたてたという。高松市教育委員会。」
ここからは次のような情報が読み取れます。
①紀州の熊野清光(熊野別当湛増の子)が、移転を重ねながらここに熊野神社を造営したこと
②当初は新宮・本宮・那智三社あったので三所権現と呼ばれた
③香西氏に従っていた宮脇氏(熊野清光の子孫)が、衰退していたものを居城の松縄城周辺に再建した
建立者の熊野清光は、熊野別当の湛増(たんぞう)の子とされます。しかし、①②③からは、清光の子孫を名のる宮脇氏が、湛増・清光の創建伝説に自分たちの再建を「接木」したものに思えます。
 また、清光が松縄にやって来たとしても承久の乱以後で、それは13世紀初頭のこととされます。そうすると熊野神社の勧進もその前後になります。これは、熊野行者による全国展開よりも百年以上早いことになります。これも、この伝承をそのままは信じられない理由のひとつです。
ウキには湛増について次のように記します。
元暦2年(1185年)、源義経によって①平氏追討使に任命された熊野別当湛増は、200余艘の軍船に乗った②熊野水軍勢2000人を率いて平氏と戦い、③源氏方として屋島の壇ノ浦の戦いに参加し、河野水軍・三浦水軍らとともに、平氏方の阿波水軍や松浦水軍などと戦い、源氏の勝利に貢献した。これらの功績により、文治2年(1186年)、熊野別当知行の上総国畔蒜庄地頭職を源頼朝から改めて認められた。
ここからは湛増が「熊野信仰の責任者 + 熊野水軍指導者 + 源氏方に協力」した宗教者であり、水軍などの軍事指導者であったことが分かります。その子・清光が讃岐にやってきて勧進したのが松縄の熊野神社とされます。

武蔵坊弁慶と熊野別当湛増と闘鶏の像 - Picture of Tokei Shrine, Tanabe - Tripadvisor
弁慶の父ともされる湛増
 さらに伝説では、湛増は義経に仕えた弁慶の父とされていました。そうだとすると清光と弁慶は兄弟関係だったことになります。かつては「弁慶の兄弟清光が建立した松縄の熊野神社」として人々には伝えられていたのです。由来に登場させる人物としては申し分ありません。

熊野信仰の讃岐への浸透

湛増と松縄の熊野神社の関係を、香川県史14巻462Pには、聞き取り調査報告として次のように記します。

(湛増の子清光は)野原荘、太田荘などの領地を得て住みついた。そして、松縄に熊野三所大権現を勧請し、紀州熊野から本宮・那智・新宮の三社神をお迎えした。かつては宮西の二つの丘にそれぞれ別々にお祀りされ、祭りの日も新宮が八月十三日、本宮九月十五日、那智九月十七日であり、たかばたけの宮、いかきの宮と呼ばれていた。大正の初めに寄せ宮となり、現在の地に祀られるようになった。鳥居の神額は「熊埜三所「宮」となっている。御手洗の井戸水は現在も飲料水となっているとか。長い年月の間にさまざまの浮き沈みがあったが、この松縄に熊野神社を勧請したのは熊野清光なのである。松縄道と呼ばれる松並木の道は、改修によりかっての面影は半減したが、今なお昔の繁栄がしのばれる。
この地にしっかりと根をおろした①熊野湛増、清光の子孫は、宮脇、大熊両家へ引継がれてゆく。②湛増の子孫は、松縄城に住み、越中守長定、兵庫頭と続く。兵庫頭の娘は、勝賀城主香西伊賀守清の片腕と言われた植松備後守に嫁いだ。香西伊賀守は讃岐の中世の武将のなかで悲運をかった盲目の城主なのだが、この香西氏は先見の明があり、瀬戸内海という航路に早くから目をつけ、国内は言うに及ばず、遠く南方にまで貿易の手をのばしていたと伝えられる。
系譜の偽作方法は、史料や記憶で遡れるとことまで遡ったら、あとはかつて実在した名家の家譜に「接ぎ木」することであることは以前にお話ししました。ここでも①②の熊野別当の湛増や、その子清光に、宮脇家や大熊家の家譜が接ぎ木されていることがうかがえます。それを近世の戦記物が取り上げ、広まっていきます。
  松縄の熊野権現(神社)の創建は、先ほど見た説明版の「文明年中(1469~1487)に宮脇越中守長定が再建し祭田を寄進した。」の「再建」を「創建」とした方が妥当だと私は考えています。つまり、15世紀後半に宮脇氏によって建立されたという説です。そうだとすると宮脇氏の熊野信仰の先達(熊野行者)はどこにいたのでしょうか? 周囲を見回してみると、眼に入るのは屋島寺です。

以前に
屋島寺に残る熊野権現の痕跡を次のようにまとめました。 
屋島寺に残る熊野信仰痕跡
特に応永14(1407)年の「行政坊有慶吐那売券」には「八島(屋島)高松寺の引 高松の一族」とあり、屋島寺周辺に熊野先達が「髙松の一族」を熊野詣でに先達したことが分かります。屋島寺は、京都の律宗西大寺の影響下にもありましたが、坊主の中には熊野信仰を持つものもいたはずです。ひょうとしたらここに出てくる「行政坊有慶」が、宮脇氏の一族の者を率いて熊野詣で行っていたかもしれません。ここでは松縄周辺の熊野神社は、屋島寺を拠点として活動する熊野行者たちによって建立されたものではないかという説を出しておきます。それは時期的には大内郡の与田寺で増吽が活躍していた頃です。
 屋島寺の髙松平野南部への影響力を示す伝承がありますので見ておきましょう。
香川県史14巻民俗編479Pは、次のように記します。
(東植田町の)杣尾は、屋島寺を建てる木材を供給したところなので、杣尾・寺峰の名がついた。もともと屋島寺はこの地へ建てる予定であった。堂池へは本堂を建て、寺峰へは鐘撞堂を建立するつもりでキズクリを始めた。高柿にあった大柿の木を切り倒して材としていた。昼も夜もとんかんとキズクリをする音がやかましいと言う人が、樵夫たちを追っぱらってしまった。すると、音がぴたりと止み、夜のうちに屋島寺建立の木材は消えうせてしまった。一夜のうちに、木を運んで行ったものがあるのだ。しかし、あまりにもあわてていたのか縁の板を一枚途中で落としてしまう。 だれが運んで行ったかと問えば、天狗だとも狸だとも言う。狸は山王さんに棲んでおりなかなかの知恵者であった。屋島山へ木材を運んで行った山王さんのは、そのまま屋島寺へ棲みついてしまう。これが、現在の屋島狸太三郎狸はげ狸の先祖だと言う。 なお、キヅクリの音がやかましいと追い立てた男は、金槌を盗み出していたとも言い、一夜のうちに木を運び出したものに「七代出生ささんぞ」と言い渡されてしまった。 鐘撞堂を建てる手はずになっていた寺峰へは、田の中に塚が一つ残されている。屋島寺の緑の板は途中で落としてしまったので現在も不足のままだと伝えられている。本堂を建てる予定地の堂池は、葦などが生い茂ったままになっていたが、から池なので埋め立てられてしまった。
だれが運んで行ったかと問えば、天狗だとも狸だとも言う。狸は山王さんに棲んでおりなかなかの知恵者であった。屋島山へ木材を運んで行った山王さんのは、そのまま屋島寺へ棲みついてしまう。これが、現在の屋島狸太三郎狸はげ狸の先祖だと言う。
なお、キヅクリの音がやかましいと追い立てた男は、金槌を盗み出していたとも言い、一夜のうちに木を運び出したものに「七代出生ささんぞ」と言い渡されてしまった。
鐘撞堂を建てる手はずになっていた寺峰へは、田の中に塚が一つ残されている。屋島寺の緑の板は途中で落としてしまったので現在も不足のままだと伝えられている。本堂を建てる予定地の堂池は、葦などが生い茂ったままになっていたが、から池なので埋め立てられてしまった。

ここには、杣尾は屋島寺への木材供給地だったとします。とすると杣尾周辺は、屋島寺の寺領か管理地で、木材の切り出しができた所ということになります。杣尾周辺に屋島寺の影響力が伸びてきていたことがうかがえます。それに対して、妨害・対立する勢力があったようです。そのため天狗が一晩で、切り倒した木材を屋島寺に運んでしまったというのです。これも屋島寺の飛鉢伝説と同じで、修験者たちの「創作話」によく出てくる話です。修験者たちの拠点であった屋島寺の当時の性格を表しているとも云えます。
さて、杣尾のすぐ南には松縄の熊野権現を勧進した清光を祀る祠があります。

髙松市植田町清光神社2

髙松市東植田町下司には、古代の下司(げし)廃寺塔跡があります。発掘調査はされていませんが、この塔跡は、比較的よく残しています。高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』は、次のように記します。
塔跡基壇は高さ約2メートル、大きな楠の樹間に祠(ほこら)が置かれ、礎石数個が露出し、古瓦破片が散乱している。境内地並びに堂宇の全容は不詳であるが、周辺の地名(東の丁・中の丁・西の丁など)があり、相当広い寺域にわたっていたことが推定され、この地が宗教的に開けていたことを物語っている。

髙松市東植田町 下司廃寺の白鳳時代の軒丸瓦

昭和38年道路工事の際に出土した軒丸瓦(復葉蓮華紋)には、蓮9個、八葉複弁蓮華紋で周囲に波紋があります。他に布目瓦も出土しているので奈良期白鳳時代の古い寺とわかります。古代から開けたエリアで、有力豪族がいたことがうかがえます。
 また下司という用語は、中世の荘園の荘官のことで、後には「役所のこと」として使用されました。この附近には、中の丁、東の丁、西の丁という地名が残っていて、条里制の条と考えられ、四方に水利を引いていたようで、その取水点に荘園の下司(役所)が置かれていたことが考えられます。古代寺院跡から中世荘園の荘官跡へのつながりがたどれます。下司廃寺の境内に含まれる中の街道沿いに清光神社という小祠があります。
髙松市東植田町下司 清光神社
熊野清光を祀る清光神社(髙松市東植田町下司)
これが松縄の熊野神社を勧進した清光を祀る祠です。

髙松市植田町清光神社3
清光神社の釈迦如来と薬師如来
祠には、石造りの釈迦如来と薬師如来が祀られてあり、椋の巨木の根の下には布目瓦が幾枚もくみ敷かれています。どうして、清光を祀ったかについては、次のような話が香川県史14巻462Pに載せられています。
 平野部を行く南海道に対して山間部を行く脇街道としてにぎわった下司から、とんぼを峰越え三木町三つ子池へののぼり坂となる。三つ子池を望む地点が村境である。池の中に小祠のある大岩があり、この大岩を清光が背負って来たという。

髙松市三つ子池の大岩
三つ子池の大岩 行場で聖地となっていた
ここでの話は、熊野権現のお告げにより三つ子山から清光が大岩をかかえ下ろしたと言う。これが光護石とも言われる。清光は最初は三木郡田中に住み、後に山田郡十河を経て、高松市松縄町に移り住んだ。彼は源平屋島合戦に功績のあっ熊野別当湛増の子孫であると伝えられている。
 もともとは、松縄の熊野権現の建立者として登場した熊野清光が、ここでは大岩を抱えて運んできた強力として伝えられています。これも庶民の語り継ぐ「村の歴史」かもしれません。それにしても、この周辺には熊野神社が多いことに改めて築かされます。その背景を次回は考えたいと思います。
以上を整理しておきます。

水主神社による熊野信仰の髙松平野へ伸張

①14世紀になると髙松平野にも熊野信仰が浸透してくるようになった
②それを伝えたのは、屋島寺や東讃の水主神社の熊野行者たちであった。
③彼らは周辺の行場で活動を行いながら髙松平野の武士団に熊野詣でを進め、熊野に誘引した。
④武士団の中には熊野詣でに参加し、高まった熊野信仰を背景に、熊野三社を氏神として勧進するものも現れた。
⑤こうして15世紀なると、松縄などに武士たちによって勧進された熊野神社が姿をあらわすようになった。
⑥後世になると、その建立由来は熊野別当の湛増や清光の系譜に接ぎ木されるようになった。
⑦ここからは屋島寺や水主神社の髙松平野への勢力伸長と、それを受けいれた武士団の熊野信仰の受容や熊野権現建立が見えてくる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「髙松市東植田地区 古道」香川県史14巻462P
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仏教経典100巻の写経プロジェクト行った讃岐出身の豪族

舎人国足(とねりのくにたり)のプロフィール

8世紀半ばに、聖武天皇が国分寺・国分尼寺造営を諸国に命じた頃に、仏教経典「喩伽師地論100巻」の写経プロジェクトをやり遂げた讃岐出身の豪族がいました。山田郡殖田郷(現在の高松市東植田~西植田町)出身の舎入国足です。当時100巻もの写経は、写経するスタッフ、写経用紙、テキストなどを取りそろえなければならない一大事業でした。それを、地方の一豪族が行おうとしたのはなぜでしょうか?
経典「喩伽師地論(ゆがしじろん)」は、全100巻からなる経典で、35巻が石山寺と奈良国立博物館に保管されています。国立文書館のHPには次のように記します。
喩伽師地論 舎人
                 奥書に「讃岐国山田郡舎人国足」

「石山寺一切経の内にあり、奈良時代の知識経のひとつとして知られる『瑜伽師地論』の僚巻。①巻尾に本文とは別筆の小文字による「天平十六年歳次甲申三月十五日/讃岐国山田郡舎人国足」の奥書がある。石山寺一切経は、念西が久安4年(1148)に発願したもので、書写と共に、奈良・平安時代の古経の蒐集もおこなわれた。現在、石山寺には一切経として4644帖が80合の経函に納められており、重要文化財に指定されている。このうち第三十九函が『瑜伽師地論』の函で、100帖のうち43帖が現存し、②このうち21帖が本帖と同じく舎人国足願経である。舎人国足願経は念西の蒐集によって石山寺に入った古経と考えて大過ない。③舎人国足については未詳。④本帖の経文の文字は写経生の手になるものかとも思われるが、文字の訂正方法が写経所とは異なっており、民間で書写されたと推測される。⑤全巻にわたり施された白点と白書は、9世紀末に東大寺辺で加えられた可能性が高く、国語資料としても大変貴重である。保存状態はすこぶる良好で、裏打ちもなく、江戸時代(天明~寛政年間)に石山寺で折本に改装された際に天地が2センチ程切断されたが、書写当時の料紙の状態をよく今に伝えている。なお僚巻は、石山寺のほか京都国立博物館、唐招提寺、天理図書館などに所蔵されており、天理図書館所藏の巻第四十二の紙背には「元興寺印」が捺されている。」

ここからは次のようなことが分かります。
①石山寺の「喩伽師地論」には、本文とは筆跡の違う天平十六年歳次甲申三月十五日/讃岐国山田郡舎人国足」の奥書(署名)があること
②伝わる43巻の内の21巻が舎人国足の願経であること
③写経は、東大寺の「国立写経所」で行われたものでなく、舎人国足が集めた民間の写経生によって行われていること
④その後、9世紀末に東大寺周辺で白点と白書が加えられたこと
⑤舎人国足については、よく分からないこと

奥書には[天平十六(744)年歳次甲申三月十五日 讃岐国山田郡舎人国足]とあります。
巻によって筆跡がちがうので、舎人国足が発願し、何人かに書写させたことが分かります。字句の修正方法などから当時の東大寺にあった官立写経所ではなく、地方(讃岐?)で写経されたものと研究者は考えています。東大寺周辺で9世紀に訓点が付けられ、12世紀の石山寺一切経事業のなかで石山寺に収蔵されと伝わります。
「舎人国足」についてのもうひとつの手がかりは、長岡京から出土した次の木簡です。

「讃岐国山田郡□田郷舎人□
   延暦十一(792)年八月七日」 

読み取れない部分を補うと、「山田郡殖田郷の舎人」が長岡京に納めた貢納品に附けられていた木簡と考えられます。「喩伽師地論」の写経から約半世紀を経ていますので、同一人物でないかもしれませんが、その継承者にあたることが考えられます。「舎人」という姓は、天皇や皇族・貴族の近くに仕えた集団のことで、国足の先祖はかつて大王の宮に出仕していたようです。
  それでは舎人国足は、殖田郷のどこを拠点にしていたのでしょうか?



髙松平野の古代郡郷
            香川郡と山田郡の郷名 殖田郷は髙松平野の南端

東植田町 下司廃寺2
                  髙松市東植田町 下司周辺
殖田郷は高松平野最奥部の春日川とその支流の周囲に開け、三方を山で囲まれた盆地状の地形が広がります。条里型地割が見られますので、狭いながらも安定した耕地経営が古代以来行われてきたようです。阿讃山脈から北に流れる朝倉川と高様川の扇状地になります。そのため田畑の経営を発展させるためにはふたつの川や出水の水源開発と、用水路の維持管理が不可欠になってきます。舎人国足の一族も、こうした条件をクリアするための水の管理が求められたでしょう。
山田郡殖田郷(高松市東植田~西植田町)周辺で、古代寺院の跡があるのは東植田町の下司です。

東植田町 下司廃寺
こには舎人氏の氏寺と考えられる下司廃寺(げしはいじ)が、朝倉川南岸の扇状地の先端にあります。

髙松市植田町清光神社2

今は清光神社があり、その東側の基壇の上に祠とともに五つの礎石があり、塔跡と考えられています。

下司廃寺跡2
下司廃寺塔跡
出土瓦から7世紀後半頃に創建され、平安時代に屋根のメンテナンスが行われたことも分かっています。瓦以外には、三尊仏の埓仏片が讃岐で唯一出土しています。この活仏は仏堂の荘厳具として使われたようですが、川原寺との強いつながりが指摘されます。ここからは、下司廃寺建立にあたり、瓦製作や堂宇建設の様々な情報が川原寺からもたらされたことが推察されます。中央の河原寺との強い結びつきを、讃岐の地でアピールするために「讃岐の川原寺」としての演出がなされたと推測できます。どちらにしろ8世紀半ばには、ここには五重塔を持つ古代寺院があったのです。 
舎人国足の先祖の動きを年表化して確認しておきます
① 6世紀  国造として子弟をヤマト政権に送り込み舎人の姓を得る 
② 7世紀後半 壬申の乱の勝組・天武側について寺院建立を許され下司廃寺建立
③ 744年 仏教経典「喩伽師地論100巻」の写経プロジェクトをやりとげる
④ 792年 岡京に貢納物をおさめる。
ここからは舎人国足の家が、国造から成長し、白村江の敗北や壬申の乱を乗り切って、山田郡の郡司的な存在にあったことがうかがえます。

どうしてこの時期に、舎人国足は写経事業を始めたのでしょうか?

写経は、当時は個人の精神修養のためではなく、最新の知の体系を広めるための社会事業でした。国足はその事業を自前で組織し、プロデュースしたのです。そのような事業を彼が始めたのは、仏教文化の讃岐への定着が進んだ、という背景があったようです。年表で見ると
660年頃 讃岐で最初の古代寺院 妙音寺が三豊の地で着工。施主は丸部臣
680年頃 多度郡司佐伯直氏が三野郡の丸部氏より技術援助を受け氏寺造営
      善通寺の瓦を吹いた工人はその後、田村廃寺→川之江→ 土佐と仕事場を移動
善通寺瓦ZN101型式の土佐への移動
瓦工人たちの移動
700年  この頃までに、讃岐に各豪族の氏寺が29寺建立された。
741年  国分寺・国分尼寺造営を諸国に命じる
744年  舎入国足が「喩伽師地論100巻」の写経プロジェクト開始
747年  国分寺造営に関して、郡司の子孫までその職に就くことを条件に郡司層を積極的に取り込むことで、ようやく国分寺の本格的造営が動き出した
755年頃 讃岐国分寺の、金堂に瓦が葺かれた。
770年  堂塔全体が完成
774年、空海誕生
 8世紀までに白鳳期に讃岐国内では、29の寺院が建立されています。これは、畿内(大和・河内・摂津・和泉・山城)より西の諸国では最も多い数です。わずか半世紀ほどの間に、驚異的なペースで寺院建設が行われたことになります。東大寺、国分寺の造営がはじまるこの時期は、白鳳時代の祖父母の世代が氏寺が建立されてから3世代、約半世紀近くが経っています。地方豪族の仏教への対応がワンランク上がる時期だったとも言えます。地方豪族の仏教へ関わりを年表から拾い上げると
747年   伊予国分寺建立に対して、宇和郡の凡直鎌足が仏像造立などのために資材を献上し、その功によって破格の外従五位下に叙されています。(続日本紀)。このことは、国分寺の造営が遅れており、郡司層の有力者と思われる鎌足の協力が必要だったことを示しています。
765年 「 続日本紀」には「讃岐国の人外大初位下日置(叱)登乙虫、銭百万を献る。外従五位下を授く」とあり、銭を献上することで、官位を得ています。
776年には、前回紹介した「讃岐のがいな女」の一族が、東大寺に土地等を寄進しています。これには、自ら開発した土地の管理権を守るという目的もあったようです。
 つまりこの時期には寺への寄進を通じて、律令制下における地位を高めるという動きが地方豪族の側にでてきていたことがうかがえます。舎人国足の「写経プロジェクト」も、このような時流に乗った行為という面があったのかもしれません。
  舎人国足の讃岐での地域経営は?
舎人国足一族が下司廃寺を建立し、写経事業を行えた背景

 舎人国足が写経事業を進めるためには、当時は貴重であった上質の紙を調達し、筆や墨をそろえ、写経のプロ(写経生)を集める必要があります。そのためには、何よりも財力です。彼の財力の源は、どのあたりにあったのでしょう。

古代髙松平野の物流図
讃岐髙松平野の古代の人とモノの動き
 国足の本拠地と考えられる高松市植田町は、阿讃山脈から炭、檀など紙の原料、山菜などの救荒食といった山の資産が得られたでしょう。これらの物資は、春日川を下って海まで運び出すことができたでしょう。また、朝倉川を遡れば阿讃国境の七割越えに至ることができ、山すそ沿いに東西に進み香川郡井原郷や三木郡田中郷に出ることもできます。このように殖田・池田郷は、水上と陸上の交通路が交じわりあう場所です。この地の生産基盤とネットワークが国足の事業を可能にしたと研究者は考えています。                          改訂 2025/12/20
山田郡植田郷下司の舎人国足一族の動き

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」
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