瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:清原夏野

 
  満濃池の築造については、
「当時の讃岐国司が朝廷に対し、満濃池修築の別当として空海を派遣することを求め、その求めに応じた空海が短期間に築造した」
というのが、一般的に語られている話です。 
 それでは、どんな資料に基づいているのでしょうか?
貴重資料画像データベース | 龍谷大学図書館

空海の満濃池築造説を伝えているのは、日本紀略(にほんきりゃく)です。平安時代に編纂された私撰歴史書で、その範囲は神代から長元9年(1036年)までで、成立時期は11世紀後半から12世紀頃ですが詳細は不明で編者もわかりませんし、本来の書名もはっきりしないようです。
満濃池築造については「弘仁十二年(821)七月二十五日の条」に次のようにでてきます。 
讃岐国言、始自去年、提万農池、広大民少、成功末期、僧空海、此土人也、山中坐禅、獣馴鳥狗、海外求道、虚往実帰、因茲道俗欽風、民庶望影、居則生徒成市、出則追従如雲、今離常住京師、百姓恋慕如父母、
若聞師来、必倒履相迎、伏請宛別当、令済其事、許之         
讃岐国言(もう)す。去年より始め、万農池を堤る。工(広)大にして民少なく、成功いまだ期せず。僧空海、此の土人なり。山中坐禅せば、獣馴れ、鳥獅る。海外に道を求め、虚往実帰。
これにより道俗風を欽み、民庶影を望む。居ればすなわち生徒市をなし、出ずればすなわち追従雲のごとし。今旧土を離れ、常に京師に住む。百姓恋慕すること父母のごとし。
もし師来たるを間かば、必ずや履を倒して相迎えん。
伏して請うらくは、別当に宛て、その事を済さしむべし。これを許す。
さらに現代語に意訳すると
「讃岐国司が朝廷に対して次のように求めた。昨年より築堤を開始しているが、池が工大(広大)であり、人員不足により築堤工事に困難を極めていたため、讃岐国出身で民から父母の如く恋い慕われた空海を修築の別当として派遣して欲しい。
 讃岐国司の清原夏野が満濃池修築の別当として、空海の讃岐帰国を奏上する有名な文章は、日本紀略に記されているのです。つまり、空海亡き後2百年後に書かれたもので同時代文書ではないのです。しかも書かれている内容はこれだけです。ここには護摩壇岩で護摩祈祷をしたことなど、讃岐に帰国して、満濃池修築にあたった様子は何も記されていません。
満濃池
満濃池後碑文

これに対して、空海=満濃池築造
関与をうかがわせるのが「萬農池後碑文」(まんのうのいけのちのひぶみ)です
これは名古屋市真福寺所蔵「弘法大師伝」の裏書に残されているもので、『香川叢書』に載せられています。碑文の最後には寛仁四年歳時庚申(1020)年の期日が記されています。この時点で、萬農池の歴史を振り返った碑文と考えられています。 碑文の内容は、
1 満濃池の築造の歴史
2 讃岐国主の弘宗王が仁寿年間の(八五一~八五四)に行った築造工事の概要
3 最後に、その際に僧真勝が行った修法について
ちなみに碑文全文字が437字で、その6割強にあたる269字を使って、弘宗王の修造工事の概要を述べていて、最後の103字が僧真勝が行った修法の記述に宛てられています。ここから内容的には弘宗王の顕彰碑文であることが分かります。具体的に碑文を見ていきましょう。

萬濃池後碑文[建仁元年(一二〇一)】

満濃池後樋文
   満濃池後樋文

          満濃池後樋文を読み下し文に改めたものを挙げておきます。
この池は大宝年中、国守道守朝臣の築くところなり。
旧記位名を汪(記録)せず。空しく以て嵯歎(さたん=嘆かわしい)す。古人伝えて云く、この堤前世類れ破ると、しかれども文書綸亡して、その実知りがたし。近曽弘仁九年流れ破れ、再び官使を下して、三年の内にすなわち築きなす。
意訳変換しておくと
この池(満濃池)は、大宝年中に讃岐国守の道守朝臣が築いたものである。ところが以後の記録には、それが記録されることもないのは、嵯歎(さたん=嘆かわしい)ことだ。古人伝えて云うには、この池の堤防は何度も決壊しているのに、文書に残っていないので、その実態が伝わっていない。最近では弘仁9年にも決壊し、再び官使を讃岐に下して、三年の内に再築した。
これを要約しておくと
①満濃池は大宝年中(701~704)年に、国守道守朝臣によって築かれた
②その後、
満濃池は何度も決壊したが記録が残っていないので実際のことが伝わっていない
弘仁九年にも決壊し、この時には官吏によって3年以内に再築された。
③の部分が先ほど見た「日本紀略 弘仁十二年五月二十七日条」の空海の登場と一致します。さて、これからが空海の登場かと読み進んでいくと、「萬濃池後碑文」の弘仁九年の記述はこれだけです。わずか漢字一八字のみです。空海の文字は、どこにもでてきません。この史料からは、この時の修復工事を空海が行ったとは云えません。空海=満濃池不関与説を裏付ける史料と云われる由縁です。

そして、讃岐国主の弘宗王が行った築造工事に移ります。
仁寿元年之秋、天下大水超堤上、少剋之間、掃底而流、国中之池大小悉破、一年春有大疫。又荒餓、今茲旱魅八十余日、国虚耗、民無所拠、秋八月権守正五位下弘宗王、含朝之倫旨、在残害之百姓、即巡諸郡、検察損物、兼悠愁苦之民間、
閏八月朔 抒破水 内盤石、始発使失二千余人、平築堤本、五日而上、起自十月上旬 発夫千以下、輪転令築、此苦各築諸郡破堤、三年二月朔、大発約失六千余人、限約十日、戮令築、十一日午剋、大功已畢、爰水(頑)猶高 不可益害、
是以明年春三月、発夫二千余人、更増一丈五尺、通前八丈、
其成事之舷、以俵薦六万八千余枚、嚢口土填深処、由比其功早遂、声満天下、惣公夫単一万九千八百余人、所用物数一 
千几見聞之中、只記大綱、細々之事不題注、
書き下し文にすると
仁寿元年の秋、天下大水、堤上を超え、少剋の間、底を掃いて流る。国中の池大小悉く破る。二年春大疫あり。又荒饑す。今、ここに旱魃八十余日、国既に虚耗して、民拠るところなし。秋八月権守正五位下弘宗王、朝の綸旨を含み、残害の百姓に莅(のぞ)む。すなわち諸郡を巡り、損物を検察し、兼て愁苦の民間を愍む。閏八月朔、始て使夫二千余人を発し、平に堤本を築き、五日にして上る。十月上旬より起こりて、夫千以下を発し、輪転して築かしめ、ならびに水門の盤石を破る。この苦各々諸郡の破堤を築く。三年二月朔、大いに役夫六千余人を発し、限るに十日を約して、戮あわせて築かしむ。十一日午剋、大功已に畢る。爰に水内猶高し。害なかるべからず。、是を以て明年春三月、夫二千余人を発し、更に一丈五尺を増す。前に通じて八丈、その事をなすの体、俵薦六万八千余枚を以て、沙土を嚢んで深き処に填む。これによってその功早く遂ぐ。声天下に満つ。惣公夫単一万九千八百余人、用いるところの物数一千二万余束、およそ見聞の中、ただ大綱を記す。細々の事題を注せず。老僧恭くも国請に応じ、三僧を率い随いて、始より終まで作法練行す。これにおいて仏力を蒙るによって、それ民恙(つつが)なし。国司欣悦して、官に申し上ぐ。聖主衿愍して、満海岳の恩を施したもう。本、所望にあらず。しかるに太守賢君、宵衣公に勤め、肝食疲れを忘れ、口に秘密の真言を唱え、内外、処分の内に、国楽しみ、民富む。海岳と謂うべきは、虚実王祥に頼る。
寛仁四年歳次庚
意訳変換しておくと 
仁寿元年の秋、国中に大洪水が起こって、水は堤の上を超え、しばらくの間に底を掃って流れた。国中の池が大小ことごとく破れた。二年春、悪い病気が大流行して豆がらも成長しなかった。その上、干ばつが八十余日続いて讃岐国内には食べるものも乏しくなり、人々は頼るところもなかった。
 そこで秋八月、権守正口位弘宗王が、讃岐国主となって惨害に苦しんでいる百姓を治めることになった。早速諸郡を巡って災害の程度を調査し、兼ねて愁い苦しんでいる人々を慰撫した。
潤の八月一日、初めて役夫二千岳人を出して、堤を築かせ、五日にして上り起った。十月上旬からは人夫六千人を出し、車の輪がくるくるまわって止まらないように休む暇なく築かせ、大岩石を破って水門を築いた。このような苦しい作業を続けて、破れていた堤を築くことに成功した。
 三年二月一日、大いに役夫六千余人を出して、約十日を限って、力を勁せて築かせたので、十一日午刻、大工事がとうとうできあがった。しかし、水門の高さがなお不足であったので、明年春三月、役夫二千余人を出して、更に一丈五尺を増したので、前通り(内側)を八丈の高さに築きあげた。 このように大工事が早くできあがったのは、俵ごも6万八千余枚に沙土をつめて深い所に沈めたから、これによって早く功をなし遂げることができた。この功績に、驚きの声は天下に満ちた。
 この工事は、一万九千八百余人の人夫を集め、この人々の用いたところの物の数(食料)は、十二万余来の稲である。凡そ見聞の口記大綱は以上のようで、細々の事は、書き上げることができない。
これに続いて、僧真勝の修法と、この修造工事が各階層の人々に喜ばれたことを述べて碑文は終わっています。 もう一度繰り返しますが、この碑文には空海については、何も触れられていません。それよりも仁寿年間の(851~54)に讃岐国守弘宗王が行った築造工事を取り上げ、その成果と功績を讃える内容になっています。これをどう考えればいいのでしょうか。 

弘宗(ひろむね)王とは何者?

弘宗王は、天武天皇の皇子舎人親王の後裔のようです。各地の国守を歴任したキャリアでもあるようです。853(仁寿二)年2月28日、丹波守から転じて讃岐国守として讃岐にやってきます。「萬農池後碑文」によれば着任後に満濃池の修復工事を行った事になります。その功績が認められたのでしょうか、860(貞観2)年正月16日には右京大夫に、同年8月26日には大和守に任じられています。
 貞観四年、右大臣藤原良相は上書して「地方政治を振興するためには人を得ることが肝要である」と述べ、五人の地方官の名を挙げていますが、その一人に弘宗王が選ばれていて、次のように推薦しています。 
「大和守弘宗王は、すこぶる治名がある。彼は多くの州県を治めた経験があり、地方妁政治について、見識をもった人物である。」
その後弘宗王は、貞観七年正月二十七日、散位従四位下を賜り、弘宗王は越前守に任命され、それから四年間、越前守としてその任にあっています。
讃岐においては、ほとんど知られない人物ですが当時の都ではやり手の地方長官として名前を知られていた人物のようです。讃岐では、空海に光が向けられますので、彼に言及することは少ないようです。また、地元のまんのう町史は、国司在任中に訴えられている事などを挙げて、低い評価を彼にはしているようですから

「萬濃池後碑文」の撰者は? この碑文が作られた背景は?

 弘宗王が讃岐権守に任じられる前年に、彼の子供(男子八人)の王号を改めて、中原真人の姓を賜りたいと申し出て許されています。その後、中原真人の姓をもらった一族のなかからは、朝廷に仕えて文筆の家として活躍する人たちが輩出します。そのため祖先の弘宗王を顕彰するために、その子孫たちが建てた石碑の写しというのが現在考えられている所のようです。
「日本紀略」と「萬濃池後碑文」の記事を年表にして、前後関係を見ておきましょう
大宝年間(701)讃岐国主道守朝臣 満濃池を築く    |
818 弘仁9   万農池が決壊、官使を派遣させ修復させる。
820 弘仁11  讃岐国守清原夏野が、朝廷に築造使の派遣申請・修復着工
821 弘仁12  5月27日、工事難航のため、改めて築池別当として空海の派遣を要請。7月からわずか2か月余りで再築完了。
851 仁寿1 秋 大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊
852 仁寿2   讃岐国守弘宗王が閏8月より万農池の復旧開始
   翌年3月竣工。夫19,800人、稲束12万束、俵菰6万8千枚使用。(萬濃池後碑文)
881 元慶5  萬農池神に従五霞授けられる。(三代実録)
947 天暦1 讃岐国守源正明、多度郡道隆寺の興憲僧都に命じ、満濃池の地鎮祈祷を行わせる。これ以前に決壊があったと推測される。
1020 寛仁4 萬濃池後碑が建立。(萬濃池後碑文)           
       この頃「日本紀略」に空海の満濃池修築が記される

            「今昔物語集」に満濃池が登場する。
1184  元暦1 5月1日、満濃池、堤防決壊。
この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。 池の内に集落が発生し、池内村と呼ばれる
年表から分かることは?
① 「萬濃池後碑文」の弘仁9年(818)の決壊は『日本紀略』の弘仁12年(821)の築堤に一致します。ここからは「萬濃池後碑文」の伝える大宝年間(701-704)までさかのぼることは出来ないかもしれませんが、それ以前に「原」満濃池があったことはうかがえます。築造を否定することはできないようです。
② 空海が係わった弘仁12年(821)の修築後も満濃池は破堤しています。
「萬濃池後碑文」は仁寿元年(851)秋、大雨により満濃池をけじめ讃岐国中の池が決壊し、国司(権守)弘宗王は諸郡の池を修築を進めて、仁寿4年(854)に満濃池の修築を完了したと記されています。 
古代史料における決壊・修築の記事はこの2回です。
時代は下りますが幕末の『讃岐国名勝図会』は、治安年間(1021-24)の改修後の元暦元年(1184)の大洪水により破堤したあとは、修築されず田地となったといいます。  

「萬濃池後碑文」に空海が登場しないのはどうしてか?

 「日本紀略」と「萬濃池後碑文」は11世紀前半に相前後して成立した文書です。前者が大きく空海を取り上げ、後者がまったく触れないのはどうしてでしょうか。
 「萬濃池後碑文」の選者の立場として
① 「空海=満濃池築造説」を知らなかった。
② 讃岐国守弘宗王の顕彰のために「空海」を登場させなかった 
現在の「空海=満濃池築造説」では②が指示され「萬濃池後碑文」は偽書であるとか、内容に大きな問題があり、取扱に注意すべきであるという立場を取る専門家が多いようです。
しかし「満濃池後碑」には修復工事にかかわる具体的な数字や行程が記されています。「日本紀略」の空海修繕に関しての「物語的・演劇的」な内容よりも信頼性があると考える専門家もいます。
少し遅れて11世紀後半に成立する今昔物語には「空海=満濃池築造説」に従う物語が2つ取り上げられています。
この背後には、弘法大師伝説の普及があります。当時の大師信仰を信じる真言密教の僧侶や修験者にとっては、「萬濃池後碑文」の内容は受けいれがたいものだったのかもしれません。その「反撃」の流れの中で日本紀略の満濃池築造の記述は、この時期に記されたという仮説は考えられます。
 以上

参考文献 萬濃池後碑文 満濃町誌(116p)


 『今昔物語』の舞台となった満濃池

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まずは今昔物語を見ておきましょう。
今昔物語集[平安時代後期] 巻二十本朝附仏法第十一
「龍王、天狗のために取られたる語」 の冒頭部です
 今昔、讃岐国、□□郡ニ、万能ノ池ト云フ極テ大キナル池有リ。其池ハ、弘法大師ノ、其国ノ衆生ヲ哀ツレカ為ニ築給ヘル池也。池ノ廻リ遥ニ広シテ、堤ヲ高築キ廻シタリ。池ナドヽハ不見ズシテ、海トゾ見エケリ。池ノ内底ヰ無ク深ケレバ、大小ノ魚共量無シ。亦竜ノ栖トシテゾ有ケル。
意訳変換しておくと
今は昔、讃岐国□□郡に万能の池という非常に大きな池があった。その池は、弘法大師がこの国の民衆を哀れんでお造りになった池である。池の周囲ははるかに広々としており、堤を高く築き巡らしてある。とても池には見えず、海のように見えた。池は底知れぬほど深いので、大小の魚は数知れず、また竜の住処となっていた。
全文を意訳変換したものを載せておきます
昔むかし、いまから千百年あまり前の弘仁(八二〇年)の頃のお話です。
 讃岐の国のお役人、国司清原夏野は弘仁九年の大洪水とそれにつづく、翌年の大干ばつ、またその翌年も干ばつと、大雨や日照りで農民を苦しめる災いにどうしたものか”と強く心をいためておりました。
 大雨はともかく、夏の日照りの水不足を防ぐ手はないものかと、ずっとずっと考えこんでいました。そこではたと思いついたのが金倉川です。
 「そうだ、あの川をせき止めよう。そうすれば池にはたくさんの水がためられる」
 われながら名案だと思ったのですが、洪水で決壊して干上がった池の内にはすでに人々が大勢住そんなわけで清原夏野は考えたことを実行に移します。
 まず手始めは、ときの天皇、嵯峨上皇ににその計画を願い出ることです。幸いなことに天皇はそのお話をお聞きいれになり、池の修築工事のために築池使の路眞良人浜継(みちのまびとはまつぐ)を讃岐の地に遣わされました。
 やれやれこれでひとまず安心とばかり胸をなでおろした清原夏野でしたが、それもつかのま、今度は工事の人夫が思うように集まりません。
「満濃池 」の画像検索結果
募るいらいらが頂点に達したとき、またまた妙案が清原夏野の頭を掠めました。
 「そうだ、あのお方なら……」
 自分の新たな思いつきに飛び上がって喜びました。
 あのお方とは……。満濃池の歴史の一時代を飾る「空海の修築」の主役、空海こと弘法大師です。

 そこでいよいよ主役の登場です。
 人の心を掴んで離さない高僧の誉れ高い空海が讃岐に下ったのはそれからまもなくのことでした。 その後の工事はいうまでもなくとんとん拍子。清原夏野の思わくどおり、池普請の現場は空海を慕う人々であふれ、人手に困ることはありませんでした。

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 それから数か月後の弘仁十二年(821)、堤防の工事が無事終わり、広々とした池には澄んだ水があふれるほどにたたえられました。
 こうして甦った満濃池の堤では、あたたかくなると、昼寝ざんまいの小蛇を一匹見かけることがときおりあったそうです。
 のんべんだらりと、小さな身体のわりには態度の人きさがちょっと気になるこの小蛇、それもそのはず、身元をたどれば池に住む人きな人きな身体の龍神だったのです。 冬、ひなたはっこで池の堤に寝ころぶときは、くるりと身体をひとひねりして小さな蛇に変身。これなら誰にも邪魔されません。
 「なんとまあ、ここちいいことかい」
 龍神はお目さまに日を細めるといつものように草むらにごろん。あったかい陽ざしを布団がわりに、木々の梢を揺らして過ぎるそよ風を子守歌にうとうととまどろむ日もあったようです。
ところが今日はいつもとはちょっと様子が違っていました。
  ”ぴーひょろろ、ぴーひょろ‐”
広げた両の翼に上昇気流をいっぱいに受けて、高く高く大空を舞うとんびが一羽。その小さな目に、池の堤でひっくりかえっているまるで小指ほどの蛇が一匹飛び込んできました。
 なんだい、蛇のくせに昼寝かい
 いたずらとんびは昼寝の小蛇めがけて急降下。
さあー 土手の草がいっせいになびきます。
同時にとんびのくちばしが小蛇をがちっ。
目をさますまもなく小蛇の身体は宙に浮き、空へ空へ。
小蛇をくわえたとんびは、緑の田畑を越えて青い海へ。
海を過ぎるとふたたび陸へ。
とんびはどこまでもどこまでも飛びつづけます。
いったいどこへ行くのでしょう。
実はこのとんび、近江の国の比良山をねぐらにする天狗だったのです。
とんびは山のなかの洞穴に、小蛇をぽいと放り込むと
木々の間を縫うように舞い上がり、再び青空のかなたへ姿を消してしまいました。
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”まいったな。ほんにうかつじやった”
 龍神は悔やみましたが後のまつり。
水さえあれば大きな龍の身体にもどれるのですが、あいにく洞穴には一滴の水もありません。

 とんびに化けたいたずら天狗は琵琶湖の近くの比叡山までひとっ飛び。
今度は比叡山のお坊さんを狙います。
そんなこととはつゆ知らぬお坊さん、
 「ほんにすっきりしたわい」
 手洗いの水が入った瓶をかかえて厠からぬっと姿を見せました。
とんびの天狗はーい、一丁あがり!とばかり、
両足でお坊さんの襟首をつかむとすいすい、比良山の洞穴へ。
いきなり暗いところへ放り込まれたお坊さん、
「はて、わしやいったいどうなったんじやい」
首を傾げるばかり。
そんなことには頓着なしのいたずらとんび、
「もうひとっ飛び、行ってくるか」
と、またもや空高く舞いあがりました。  
どうしたものかと思案にくれていた小蛇の龍神は、お坊さんの水瓶に元気百倍。
「もしもーし、どなたか存じませんが、その瓶の水を
わたしの身体にふりかけてはくださいませぬか」
 小蛇の言葉に気のいいお坊さん、
 「あいよ、あいよ」
 ふたつ返事で、瓶の水を小蛇の身体にじゃばじゃば。
すると小さな蛇がむくむく、むくむく。伸びて伸びて、
天を突くような巨大な龍に変身しました。
「満濃池」の画像検索結果
おかけで助かった。さあ、はようわしの背中へ 寺までお送りしましょうぞ龍神はお坊さ
んを寺まで送り届けると比叡山から京の都を越えてふるさとの満濃池へ向かおうとしました。
ところがどっこい、今度は荒法師に姿を変えたいたずら とんびが、鴨川にかかる大橋を堂々と歩いているではありませんか。
 ”なにかまた、よからぬことを考えておるな” 龍神は、そうと荒法師の後ろに近づくと、 「こらー!・」
 大声とともに背中をどおーん。力いっぱい押しました。
いきなりの雷声と嵐のような力にさすがの天狗も、
 「まいったあー」                   
 目を白黒させながらその場にばたん。
 「もう二度といたずらなんぞするんじゃないぞ」
 龍神の言葉が聞こえたかどうか定かではないものの、よほどに懲りたものか、それからは天狗の悪さを耳にすることはありませんでした。
 そんなわけで、龍神は京の都から山や野を越え、海を渡り、満濃池に戻ることができました。
 ところで龍神、いたずらとんびの天狗に懲りてもう小蛇に化けるのはやめにしたとか、そんな噂もありますが、とんでもない。やっぱりひなたぼっこはやめられないと、ほら今日も鼻ちょうちん。それが証拠に堤の草むらで夢みごこちの小蛇を村人たちはときおり見かけるそうです。
 満濃池で昼寝の小蛇に出会ったら、それはきっと龍神ですから、決して水などかけぬよう。
小蛇がいきなり大きな龍になったらおおごとです。そっとそっと見て見ぬふりで……。

 昔むかしのお話です。
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今昔物語 満濃池と龍神の全文         

讃岐国那珂郡に万乃池と云、極て大きなる池あり。
其池は弘法大師の其國の衆生を哀しかり、為に築たまへる池なり。
池の廻り遙かに廣くして堤を高く築きまはしたり。
池なととは見えすして、海とそ見えける
池の内底ひなく深ければ大小の魚とも量なし。
龍の棲としてありける。
然る間其池に住ける龍 日に当らんとおもひけるにや。
池より出て人離たる堤の遷に小蛇の形にて蜻て居たりけり。
其時に近江国比良山に住ける天狗鎬の形として其池の上を飛まわるに堤に此小蛇の幡て有を見て掴反下て、俄に掻き探て逢に空に昇ぬ。
龍ちから強き者なりといへ共、思ひかけぬ程に俄に拝れぬれ八、更に術尽て只猟れて行に、天狗小蛇を扨砕て食せんといへとも龍の用力強に依て心にまかせて探み砕て散ん事あたはずして遥に本の栖の比良の山に持行ぬ。
 狭き洞の動へくもあらぬ所に打寵置つれ八、龍狭口口口破元くして居たり。
一滴の水も元八空を翔る事もなし。亦死ん事を待て四五日あり。然る間此天狗比叡山に行て俗を伺て貴き僧を取らんと思ひて夜、東塔の北谷にありける高き木に居て伺ふほとに其向に造り懸たる房あり。其房に有僧、外に出て小便をして手をあらはんふため水瓶を以て手を洗ふて居るを、此天狗本より飛来て僧を掻採て、逼に比良山の栖の洞に将き行て龍の有處に打置つ。
僧水瓶を持なから我にもあらて居り。いま八限とおもふほとに天狗八僧を置ままに去ぬ。
其時に暗き所に苔有て僧に向て云く、汝八此誰人そ。何より来そそと。
僧答て目、我比叡山の僧なり。手を洗はん為に坊の橡に出たりつるを天狗の俄に掴み取て将来れはなり。然八水瓶を持なから来れるなり。抑かくいふ八また誰そ。
龍答て云、我は讃岐国万能池に住龍なり。堤に這出たりしを、此天狗空より飛来て俄に猟て此洞に将来こり。狭く口口て為む方無といへとも、一滴水も元けれ八空をも翔らすと。
僧のいはく、此二持たる水滴に若一滴の水や残りたらんと。
龍是を聞て喜て云、我此所にして日来経て既に迦終なんと為るに幸に来り會ひ給ひて互に命を助る事得へし。一滴の水有ら八、必汝本の栖、二将至へしと。
僧又喜て水瓶を傾て龍に授るに一滴斗の水を受て、龍喜て僧に教て云、努々怖る事なくして、目塞て我に負れ給ふへし。此御更に世々にも忘かたしといふて、龍忽に小童の形と現し、僧負て洞を蹴破りて出る間、雷電屏震して陰り雨降事甚怪し。
僧身振肝迷て怖しと思ふといへとも、龍を睦ひ思ふかゆゑに念して負れて行し程に、須実に比叡山の本の坊に至る。僧を橡に置て龍八去。彼房の人常の屏震して房に落懸と思ふほとに俄に坊の澄暗夜の如く成ぬ。しはらく斗有たる時に見れは、一夜俄に失ひにし人の橡にあり。坊の人々奇異に思て問に、事有様を委しく語る。人々ミな聞て驚き奇異りける。
其後龍彼天狗の怨を報せ為に天狗を求るに天狗京に智識を催す荒法師の形と成て行けるを龍降て蹴殺てけり。
 然ば翼折れたる屎鵠にてなん。大路踏れける。彼比叡山の僧八彼龍の恩を報せんかため、常に経を誦し善を修しけり。実に此龍八僧の徳に依て命をなし。僧八龍の力依て山に返る。是もミな前世の機縁なるへし。此事は彼僧の語り傅へを聞継て語り傅へたるとかや。

   

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