神谷神社があるのは、阿野郡松山郷五ヵ村のひとつであった旧神谷村です。白峰山西麓の谷筋にあり、山裾の集落から小川沿いに東に延びる参道を登っていくと境内が現れます。社殿の後には、影向石と呼ばれている巨石が磐座として祀られて、古代の信仰対象だったことがうかがえます。この磐座に対する信仰が、この神社の起源なのでしょう。
今回は、神谷神社について見ていくことにします。テキストは坂出市史 中世編 神谷神社の立地と沿革 206P」です
神谷神社の祭神は伊弊諾尊・伊弊再尊の子で火の神とされる火結命(ほむすびのみこと)で、その孫でやはり火の神とされる奥津彦命・奥津姫命を併せ祀ります。相殿には、春日四神(経津主神、武甕槌神、天児屋根命、姫大神)が祀られています。磐座信仰+火結命(ほむすびのみこと)+春日四神と合祀されるようになって、五社神社と地元では呼ばれてきたようです。
神谷神社の創始は分かりません。社伝によると
「神谷の渓谷にあった深い渕から自然に湧き出るような一人の僧が現われ渕の傍にあった大岩の上に祭壇を設け・・たのが神谷大明神の創始と謂われているという。その後、弘仁3年(812)空海の叔父・阿刀大足が、春日四柱を相殿に勧請して再興したという。・・・・
なんだかよく分からない話です。
阿刀大足は、以前にお話したように、摂津に基盤を持つ阿刀氏で、空海の母の兄弟になります。真魚(空海幼名)からすると叔父で、空海の「英才教育担当者」とされる学識豊かな知識人であり中央官人ですが、讃岐への来歴はありません。「阿刀大足勧進」という伝承自体が「弘法大師空海伝説」とも云えます。あくまで伝説で、すぐには信じられません。
神谷神社が正史で確認できるのは、三代実録の次の叙位記録になるようです。
①貞観七(865)年に従五位上、②貞親十七(875)年に正五位下
また、延喜式にも讃岐式内社24社の中の1社として、阿野郡の3社のひとつとして、城山神社、鴨神社と並んで名前があります。ここからは、9世紀後半までは、有力豪族の保護を受けて国庁の管理下にも置かれた神社があったことがうかがえます。
実は「阿刀大足勧進」を証明する史料があるとされてきました。それを見てみましょう。
神谷神社に残る棟札の中で一番古い年紀を持つ棟札(写)を見てみましょう。表が寛正元(1460)年で、「奉再興神谷大明神御社一宇」とあります。これに問題はありません。問題なのは裏の「弘仁三(812)年 河埜氏勧請」という一行です。 阿刀ではなく「河埜氏」とあることは押さえておきます。阿刀氏も河野氏と同じく物部氏を祖先とする同族なので、このように記されたと近世の史書はしてきました。
この棟札の裏書については「江戸時代になって作成されたもの」と研究者は考えているようです。つまり、「弘仁三年に阿刀大足による勧請」を伝えるために、江戸時代になって書かれた(写された)ものなのです。しかし、「写」であっても表の「奉再興神谷大明神御社一宇」や、寛正元(1460)年の修理棟札は、信じることができるようです。
天文九(1540)年の棟札は二枚あります。
地域の氏子等の奉加によって本殿の屋根葺き替えを行ったときのものです。松元氏が神官の筆頭者になっています。松元氏は神官であると同時に、有力な国人勢力であったようで、幕末の讃岐国名勝図会にも神谷神社のすぐそばに大きな屋敷が描かれています。
永禄11(1568)年の棟札も二枚あります。本殿屋根の葺き替えで、前回から28年経っているので、30年おきに葺き替えが行われていたようです。この時には鍛冶宗次の名が見え、屋根の構造的な部分に手が入れられたことがうかがえます。さらに脇之坊増有とあるので、本坊以外にも社僧が居たことが分かります。
その後の神谷神社の沿革を伝える史料はありません。しかし、鎌倉時代のものとされる遺品が隣接する宝物館に保管されていますので見ておきましょう。
坂出市史は、この随身立像を次のように紹介しています
像高 阿形像125、2㎝ 吽形像 125、6㎝
建保七(1219)年建立の国宝指定の本殿と同じ頃、鎌倉時代中期の13世紀に制作されたとされる。両手の肘を張つて手を前に出す姿勢はきわめてめずらしい。制作紀年銘のある随身立像では最古の、岡山県津山市高野神社の一対(応保一年銘)に次いで古い。後世の床几に坐る形式の随身像にくらべると古制を示している。両像とも、かたいケヤキ材を用い、頭部を頸のあたりで輪切りにし、襟にみられる棚状の矧ぎ面にのせて寄本造りの形をとっている。これが高家神社のものと同じ技法である。技巧的には阿形像の方が複雑に仕上げられている
「白峯寺古図」に見えるとおり、神谷神社は、神谷明神として多くの付属建造物が描かれています。 本殿とおもえる妻入り社殿の後には、立派な三重塔が見えます。その前方には、平入りの社僧の坊舎と随身門が描かれています。この随身立像は、ここに描かれている随身門に納められていたのかもしれません。

②舞楽面二面(市指定有形文化財)
③大般若波羅密多経(市指定有形文化財)
数多くあった宝物も、元禄十一(1698)年に著された「神谷五社縁起」(『綾・松山』所載)には中世の兵乱により多くが散逸していた様子が記されています。神谷神社の境内には、江戸時代後半の年号が刻まれた次のような石造物があります
①天保9(1838)年 手水石②弘化三(1846)年 石階耳石上に立つ親柱に③嘉永2(1849)年 二の鳥居④元治元(1864)年 狛犬と燈籠⑤慶応4(1868)年 百度石⑥明治28(1895) 玉垣設置
③嘉永2(1849)年 二の鳥居
④元治元(1864)年 狛犬と燈籠
これらの石造物が設置されたのは19世紀のことです。江戸時代の後半になって境内は整備され、現在の原型ができたことが分かります。このような整備が進む中で、明治37(1904)年8月に本殿が特別保護建造物に指定されます。
この時期に整備された神谷明神と別当寺の清瀧寺の様子を描いた絵図が讃岐国名勝図会に載せられています。
神谷川沿の突き当たりの谷に鎮座する神谷神社の姿が右手に見えます。一番奥が国宝の本殿です。社人を務める松本氏の屋敷も描かれています。神谷神社と同時に、神宮寺である青竜寺も大きな構えを見せています。青竜寺の以前には、清瀧寺という大きな神宮寺があったようです。これは後で見ることにして、国宝に指定されている本殿を見ておくことにします。
神谷神社本殿
大正の大改修の際に発見された棟本の墨書銘に、次のように記されています。正一位神谷大明神御費殿建保七年歳次己如二月十日丁未月始之惣官散位刑部宿祢正長
ここからは、承久元(1219・建保七)年に、本殿が建立されたことが分かります。
また先ほどの棟札からは、本殿の葺替えが以下のように行われたことが分かります。
①寛正元(1460)年の棟札(写)②天文9(1540)年③永禄11(1556)年④万治3(1660)年⑤宝暦9(1759)年
棟札の年紀からは、約20年ごとに葺替が行われていたことがうかがえます。そして、日露戦争が始まった明治37(1904)年8月には、古社寺保存法に定める特別保護建造物に指定されています。その時の指定理由には、次のように記されています。
「再建年代明カナラサレトモ、其形式ヨリ判スレハ鎌倉初期二属スル者ノ如シ、即我国現存神社中最古キ者ノ一ナリ」
この指定を受けて約百年前の大正6(1917)年から翌年にかけて、総事業費491、5万円で解体修理が行われます。この大正修理の際に、今まで見てきた棟木銘と棟札が発見されて建立年代やその後の修理の沿革が明らかとなりました。
この大正の大修理では、できりだけ建築当初の姿にもどす方針が打ち出されて、次のような現状変更が行われています。
この大正の大修理では、できりだけ建築当初の姿にもどす方針が打ち出されて、次のような現状変更が行われています。
①向拝柱を旧位貰に戻すこと、②向拝打越垂本を復原すること③発見された断片から垂本は全て反り付きとすること④縁回り諸材の寸法と位置を復原すること、⑤箱棟鋼板被覆を取り去り渋墨塗りに復原すること(大正八年二月「現状変更説明」による)
それ以後の沿革は以下の通りです。
昭和22(1947)戦後の文化財保護法(昭和22年制定)で重要文化財指定昭和27(1952)屋根葺替昭和30(1955)2月「現存の三間社流造の最古に属する例」として国宝指定
神谷神社本殿は、「流造神社本殿の最古に属する例」として早くから知られてきたようです。
流造は、伊勢神宮正殿に代表される桁行一間・梁間二間の身舎(もや)に切妻造の屋根を架けた平入の本殿から発展した古い形式と考えられるようです。機能的には正面の本階や拝所を覆うので、どこが正面か分からなくなるおそれがある建物です。そのために建物の正面性を主張するための工夫が凝らされることになります。その工夫が身舎の前に庇を設けて切妻屋根の前流れを前方に延長させる方法です。
京都府宇治市の宇治上神社本殿(平安後期)
神谷神社の流造本殿は、京都府宇治市の宇治上神社本殿(平安後期)に次いで古いものだとされています。宇治上神社本殿は、一間社流造の内殿3棟を一連の覆屋に納め、左右の一棟は片側面と背面及び屋根を覆屋と共用しています。これは変則的な形式です。これに対して、流造の規範的な形式は正面の柱間を三間とする三間社で、神谷神社本殿は流造本殿の本流の姿を良く留めているようです。
神谷神社本殿
①縁を正側三面とし脇障子を備えた正面性の強い構えとして流造の規範的な形式ができあがってていること、
②全体として古代建築に比べて木柄が細いものとなっているものの装飾的要素はまだ少ないこと
③反りの強い破風や庇各部材の面の大きさなどに鎌倉時代初期の趣を伝えていること
③反りの強い破風や庇各部材の面の大きさなどに鎌倉時代初期の趣を伝えていること
④正面は中央間のみを扉口とし脇間を板壁とする閉鎖性の強い構えであること
⑤内部は一室で、頭貫を用いずに柱上に直接舟肘木と桁を載せる古いスタイルをとっている
⑥基壇に礎石建て、庇に組物を使って、妻梁に虹梁型を用いるという仏教的な影響を受けている
以上から「古いスタイルをとりながらも仏教の影響を受けた中世的な新たな展開」の建物と評しています。

讃岐国名勝図会に描かれた神谷神社本殿
最後に、神谷神社の性格について考えておきましょう
神谷神社を考える際に避けては通れないのが、この谷の上にある白峯寺の存在です。白峯寺は、国分寺背後の山岳仏教の修験道(山伏)の行場として開かれ、五色山全体が修行の山でした。その行場に開かれたのが白峰寺や根来寺です。これらの行場は、小辺路ルートとして結ばれ、それが後の四国遍路の「へんろ道」として残ります。
中世の白峯寺は以前にお話したように「山岳信仰 + 熊野信仰 + 崇徳上皇信仰 + 天狗信仰 + 念仏行者 + 弘法大師信仰熊野」などの修験者や行者・高野聖・六十六部などの聖地で、多くの行者がやってきて住み着いていました。そのような白峰寺の中にひとつのサテライトが神谷神社であったと私は考えています。
ちなみに神谷神社も明治の神仏分離までは、「神谷大明神」で、神仏混淆の宗教施設で管理は別当寺の清瀧寺の社僧がおこなっていました。

ちなみに神谷神社も明治の神仏分離までは、「神谷大明神」で、神仏混淆の宗教施設で管理は別当寺の清瀧寺の社僧がおこなっていました。

白峯寺古図拡大 神谷神社の背後の三重塔
『白峯山古図』には神谷神社の背後に三重塔が垣間見えます。これは清瀧寺のもので、この塔からも相当大きな寺院だったことがうかがえます。中世の神谷神社が神仏混淆で清瀧寺の社僧の管理下にあったことを押さえておきます。右下が神谷神社、左下が高屋神社 上が白峯寺大門
神谷集落には額(楽)屋敷という地名が残ります。 ここには、白峯寺の楽人が住居していたという伝承があります。
讃岐の古代の地方楽所としては、善通寺が「国楽所」を担ってきたようです。その後、観音寺などの有力寺社でも、舞楽はじめ舞曲芸能が盛行するに従い設置されます。白峯寺でも「楽所」が、寺領の松山荘内にある神谷周辺に置かれていた可能性があるようです。そうだとすればここからも、神谷明神と白峯寺との関係の深さがうかがえます。
神谷神社の凝灰岩製層塔
神谷神社の斎庭北東隅には鎌倉時代後期の一対の凝灰岩製層塔があります。
この塔は、もともとは神宮寺であった清瀧寺のものと伝えられます。清瀧寺がいつの頃に姿を消したのかは分かりません。さきほど見たように白峯寺古図には、神谷神社の奥に三重塔が描かれています。これが清瀧寺だったようです。清瀧寺の退転後に現在地に清龍(立)寺が創建されます。
青竜(立)寺(讃岐国名勝図会)
青竜寺には阿弥陀如来立像(県指定有形文化財)が安置されています。この胸部内面に文永七(1270)年の墨書銘を記されています。『綾北問尋抄』(宝暦五(1755)年刊)に「五社(=神谷神社)の本地仏(中略)安阿弥(=快慶)の作とも云」と記します。ここからは、この仏がもとは神谷明神の本地仏で、清瀧寺の本尊であったと研究者は考えているようです。青立寺の阿弥陀如来立像(県有形文化財)像高 101㎝
胸部内側に造像墨書銘「奉造立志者、為慈父悲母往生極楽也、文永七年巳九月七日僧長円敬白」とあるので、鎌倉時代中期文永七(1270))年の制作であることが分かります。
坂出市史は、この阿弥陀さまを、次のように紹介します。
ヒノキ材の寄木造りである。香川県下ではこの期の阿弥陀像は多数あるが、造像年の明確なのは数体である。なお、梶原景紹著『讃岐国名勝図会』に「阿弥陀堂、本尊(古仏、五社明神の本地なり)当庵は、往古五社明神の別当清滝寺といえる寺跡なり、退転の年月末詳、今清立寺はこの寺を再興せしならん」とあり、本像が、神谷神社の本地仏であったという。先述の『白峯山古図』には、直接、阿弥陀堂は確認できないものの、神谷明神の鳥居の左側に神谷村の集落が描かれており、その中に清滝寺阿弥陀堂と思しき立派な堂合らしき建物が見える。
かつての清瀧寺については、よく分からないようです。
しかし、清瀧寺の後に出来た清立(滝)寺については、天霧城の香川氏の家臣の亡命先だったという次のような話が伝えられます。天正年間(1573~)、天霧城主香川信景が豊臣秀吉の四国攻めにより敗れ、長宗我部元親の養子親和と共に土佐に亡命します。その落城時に、家臣何某(香川山城守?)が剃髪し、この地に逃げてきて、清瀧寺を再興し堂宇を建てたのが青立寺、後の清立(滝)寺だと云うのです。
尻切れトンボになりますが、以上をまとめておきます
①神谷神社は磐座信仰に始まり、国分寺ー白峰寺ー根来寺の山岳信仰の行場として、「小辺路」修行の行場ネットワークのひとつであった。
②中世の神谷神社は、神仏混淆下にあり清瀧寺の社僧が別当として管理運営に当たっていた。
③清瀧寺は、白峯寺とは「楽所」や「連歌」、人事交流などで密接な関係にあり、三重塔を有する規模の寺社でもあった。
④鎌倉時代の棟木から神谷神社本堂は鎌倉時代の流れ作りのもっとも古い形式を残す本堂であることが分かり国宝に指定されている。
⑤本堂は中止後半以後、氏子達によって屋根の葺き替えが行われ、管理されてきたことが残された棟札からは分かる。
⑥清瀧寺の退転後は、青竜寺が代わって別当寺となったが社人松元氏の力も台頭し、以前のような支配力を発揮することはなかった。
⑦幕末から明治に境内整備が進み、現在のレイアウトがほぼ完成した。
神谷神社における神仏分離については、文献や史料がなく今の私には分かりません。あしからず。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編 神谷神社の立地と沿革 206P」
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