瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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 満濃池の第3次嵩上げ工事のきっかけになったのは、2つの大干魃だったようです。今回は、その内の1934(昭和9)年の旱魃について見ていくことにします。テキストは、「炭谷恵副 香川縣の旱魃 ・旱害研究 昭和9年の大旱害を中心として  地理學評論」です。

讃岐には、旱魃記録がどのくらいあるのでしょうか・
研究者が各史料に出てくる旱魃に触れた箇所を抜き出して一覧表化したものが次の表です。

讃岐の旱魃年表 古代
讃岐旱魃年表 古代・中世・近世前半

一番古いのが701年の記録で、全部で81件の旱魃記事があるようです。
ちなみに、仁和4(888)の記録は、菅原道真による雨乞祈祷の時のことになります。これ以後、1457年まで旱魃記録がありません。また。江戸時代初期に満濃池が再築されるきっかけとなった旱魃までも、旱魃記録が非常に少ないようです。これは、この時代に旱魃が少なかったというよりも、古代・中世の文書が少なく、旱魃が記録されていないためと理解した方がよさそうです。

讃岐旱魃年表 近世
         讃岐の旱魃記録一覧  近世後半と近代

 文書がきちんと作成保存されるようになる江戸時代後半になるとコンスタントに、50年毎に10回~15回程度の旱魃記録があります。その中でも、幕末から明治維新の経済的バブル期には、旱魃が4回しか記録されていないようです。明治期に入ると測候所などが整備され、記録はきちんと残されるようになります。
讃岐旱魃年表 近代

ちなみに「1876~1925年」の明治・大正の50年間での旱魃は10回となっています。旱魃は、5年に一度は、讃岐を襲っていたとしておきましょう。

50年毎の旱魃発生回数
讃岐の50年毎の旱魃発生回数

90年前の1934(昭和9)年の旱魃について見ていくことにします。
まず、研究者が示すのは次の「1934年の多度津測候所の降水値データー」です。

1934年の旱魃 香川県
1934年の1日ごとの降水量(多度津測候所)

ここには5月~8月の1日ごとの降水量と天気、そして、一番下に各月の降水量の合計量が記されています。
これを見ると次のような事が分かります。
①5月の降水量が例年の2割、6月が2/3と少なく空梅雨であったこと
②7月には例年を上回る降水量があった
③7月26日以來、9月1日まで36日間の晴天が続いたこと。
グラフ化したものも見ておきましょう。
1934年の降水量比較 香川県
昭和9年の降水量比較

これに伝えられていることを重ねてみます。
①5・6月の雨不足で田植えができない所があったこと。
②7月になっての降水でなんとか取戻すことができた所もあったこと。
③しかし、7月の降水は集中豪雨的なもので、地域性もあり、貯水量を大幅に増やすことにはつながらなかったこと。
④7月末からの快晴が36日に渡って続き、ほとんど雨が降らなかったこと。
灼熱化した水田に、南からの熱風が吹きつけ、蒸発量は例年の2割增になります。水田からは水がなくなり、乾ききり亀裂が縦横に走ります。枯死した水稲は1000㌶を越え、各地で水利紛争が起き、警察署が介入したり新聞記事になったものだけでも50件を越えます。す。

讃岐の大干魃新聞記事 昭和9年
大干魃を伝える香川新報(1934年)

当時の県の干ばつ記録には、次のように記されています。

「七月二十三日、西讃満濃池ハ県下第一ノ貯水池タリ。本日既二池底ヲ露出シ配水不能トナリ、午後十一時、閉門スルノヤムナキニ至ル」(『千ばつの概況と対策』(昭和十年二月)

意訳変換しておくと
7月23日、西讃満濃池は県下第一の貯水池である。その池が本日ついに、池底を見せて配水不能となった。午後11時、水門を閉じることになった」(『千ばつの概況と対策』(昭和十年二月)

この日、知事は千上がった満濃池を視察しています。  しかし、7月末の一時的な降雨で、小康状態となります。それ以後は1ヶ月を越えて雨は降らず、炎天が続き、被害田は2万㌶に達します。

こうしたなかで県や町村は、どんな対応をとったのでしょうか?
7月28日に、県の内務部長名で各市町村長あてに通達された「干害対策二関スル件」には、次のように記されています。

「(旱魃対策については)種々考慮致シヲリ候ヘドモ、適当ナ措置コレ無キタメ、窮余策トシテ今回(善通寺)師団二依頼シ大砲ノ実弾射撃ヲ実施致スベク交渉中ニシテ、近ク実現二至ルベキ事卜存ジ候間」
 
意訳変換しておくと
「(千害については)いろいろと対策を考慮したが、適当な措置は見当たらない。窮余の策として、(善通寺)師団に依頼して大砲の実弾を射撃してもらうように交渉中である。近日中に実現するはずである。お知りおきいただきたい。

1934年雨乞い 大砲射撃
11師団による雨乞い実弾射撃

 私は一度、これを読んでも訳が分かりませんでした。旱魃対策として、どうして大砲を撃つのかが分からなかったのです。当時は「戦争の後には大雨が降る」という言い伝えがあり、それに望みをかけたようです。こうして、翌29日、善通寺師団は県の依頼を受けて山砲12門を摺臼山に並べて、大麻山の地獄谷めがけて一斉射撃を開始します。三百発の予定でしたが、着弾地付近の山の下草が燃え出し、あわてて消火に走ったと伝えます。
 かなわぬ時の神頼みならぬ、為政者は庶民に対して、何らかの対策を取っている姿を見せることが求められます。県知事と師団長の民衆の心を知った連係プレーとしておきましょう。ある意味では、知事達にもそこまで追い詰められているという危機感があったことがうかがえます。
 大砲発射の効果があったのは香川県でなく、徳島県だったようです。
砲撃の翌日、阿讃山脈の向こう側の池田町では大夕立が降ります。早速、池田町の代表者がお神酒を提げて、善通寺師団司令部にお礼言上に来たという笑えない話が伝わっているようです。研究者が徳島地方気象台に真偽の程を確かめると「阿波池田では昭和9年7月29日に4・3㎜、翌20日は49,9㎜の降雨有り」という返答が帰ってきたそうです。 
 
県は「各市町村においては三日間、等火を焚いて雨乞い祈祷をするように」という通達も出しています。
そこで神野村では、満濃池池畔で雨乞い祈祷を行っています。このように、県の雨乞い実施勧告に従って、何年ぶりかの雨乞いが、各村々で行われています。明治以来、踊られることがほとんどなくなっていた佐文の綾子踊りが踊られるのも、この旱魃の時です。それが残された文書の日付から分かります。逆に云うと、県の対策は江戸時代と何ら変わりありません。大干魃に対して、県や村が取れる実効ある対策は皆無だったことがうかがえます。
そんな中で頻発するようになるのが水論(用水をめぐる争い)です。
新聞史上に取り上げられた水論記事を、発生順に一覧化したのが次の表です。
昭和9年香川県水論一覧表1
昭和9年香川県水論一覧表2
1934年 香川県の水論(水争い)一覧表

ここに挙がっている水論は、警察署の調停や新聞紙上に載ったものだけです。これ以外にも小さな水論が各地で起こっていたはずです。この中の一部を、研究者は次のように紹介しています。
(NO38は、一覧表の番号:一部意訳)
以下綾歌郡関係)
  No.38  富熊村と法勲寺村との界にある仁池の配水問題がおこった。法勲寺村の安川部落民は池尻の分水標を固守した。これに對し富熊村農民は大いに憤慨し、百餘名が大擧して同池の閘(ゆる)を抜こうとして水爭ひ起きた。これに対して、滝宮(警察)署の鎭撫によつて22日午前3時半頃に一先(ま)づ解散した。依然紛糾を続けたが、村当局等の調停により其の後解決した。
  No.12  川西村八丈池の水利問題に関してして、水上・岸上部落と池下・本村部落との間には(水利権をめぐって)從來から対立的立場にあつた。それが続く旱天 のため尖鋭化した。幸に11日よりの降雨によって、一旦は自然解決した。併し同池の紛爭はその後8月20日午前8時より大旱魃の後を受けて再起したが、坂出(警察)署員の鎭撫により一先づ解決した。
  No.49  岡田村大字東小津森池 の配水問題は、8月上旬より紛糾し続け次第に激化した。27日午後8時頃よりの組合員の協議も譲らずらず、28日午後8時、用水掛上桶が部落民が發動機を使って引水して他部落との間に問題が起った。これも滝宮警察署によって鎭撫さる。

  No.54  坂本村大字西坂本大束川上流にある播磨横井で水爭いが起きた。その原因は川原と三の池部落は元來大束川の水を用水として居た。ところが本年の旱天のため用水に困窮し、井出に發動機を控へ長さ6、70間 のトタン筒を以て飯野山々麓の田地へ灌水を行っていた。これを(川下の)川津村の人々が見つけ、大擧して押し寄せトタン筒を破壊して両村民の対峙するところとなった。坂出署の出動によつて9月5日手打を行つた。
 
以下 仲多度郡
No.45  8月26日 午前 と午後の2囘 善通寺大麻の農民が金倉川より發動機を以て引水した。これに水下の象郷村民が憤起して大宮橋下の井堰を切ろうとして問題となった。署員によつて鎭撫された後、27日朝も亦不穏となりたるも遂に解決せり。

  Nc.34  筆岡村を流れ る弘田川を字富頭部落が臨時に弘田川橋上流100mの所に横関を作って發動機で引水したため下所部落と問題を生じた。善通寺署員等の鎭撫の結果、この富頭は1日間、下所は2日間の割当で引水することで解決した。
 
No.35  吉原村稗殿大池掛り90町歩の農民は協議の上で8月19日に池のゆる抜きを行つたが、それを上部池農民50名が独占しようとしたために池下部落民と一騒動となろうとした。幸に鎭撫され、殘水を下部落へも引水さすこととなつ て解決した。

三豊郡関係
  No.44  桑山村岡本方面の稻田灌水用出水堀が隣接する本山村小橋附近にある。これを本山村で地下水を發動機を用ひて汲上げるため附近の井水が涸渇することとなり、両村の間が不穏となった。結局30日、井水の涸渇せぬ範囲内での使用する條件にて妥協した。
No.37  麻村岩瀬池の配水下にある上高瀬村の農民婦女子多数がが21日午前3時に大挙して勝間村大字大道の高瀬川に押寄せた。大道部落民が川に接近した竹數中の井戸から發動機で稲田9町歩 の用水を汲上げた結果、上高瀬の稻田に亀裂ができたとして、發動機を据付けた川底へ粘土を塗りって、蓆120枚を敷詰めて下流へ水を送ろうとして、勝間村民との対峙となつたのである。
 
揚水用発動機
 発動機付揚水機(ポンプ)
以上を見ると、多くの事例に登場するのは発動機付揚水機(発動ポンプ)です。
この登場によって、それまでの水争い(水利争議)とは様子が違ってきたことが分かります。それまでは足踏みの揚水機が、讃岐でも数多く使用されていました。
灌漑用 灌水車

足踏み揚水機
ところがこの時期になると発動機付の揚水機(揚水ポンプ)が登場します。揚水ポンプを上流の者が下流に黙って、据え付けたことが問題になって、村同士の対立となっています。「便利な機能を持つ新たな機器の登場が、新たな問題を産む種」になる例とも云えます。その紛争現場に警察官が出向き鎮撫して、手打ちや解決という手順になっています。
 この適切な対応ぶりの背景には、特高課、耕地課などが連絡協議会を開いて、対応策を練っていたことがあるようです。
県は国の指示に従って、日華事変(日中15年戦争)の非常時局下という認識の下に、「互譲相助の精神に基づく水利用」をするよう訓令を発しています。そして積極的に警察が水利争議に関与して、今までの慣行に縛られない解釈・対応をします。そのために大規模な流血の惨事などは、この時にはでていません。それがどんな手順・内容で行われたのかが知りたいところですが、残念ながら新聞記事には、そこまでは記されていません。

 水争いは領土争いと違って、いつまでも対立が継続されるものではありません。
水さえ供給されれば、手を引きます。つまり、雨が十分に降れば、それまでの対立が嘘のように洗い流されたようです。
この時の被害対策として、満濃池の3次嵩上げ工事が計画され始めます。また、佐文では綾子踊りが、この時に踊られ、それを継承していくために、いろいろな記録が作られていくことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献         
炭谷恵副 香川縣の旱魃 ・旱害研究 昭和9年の大旱害を中心として  地理學評論
 辻 唯 之  讃岐の池と村 香川大学経済論叢第68巻 第 4号 1996年 3月 25-61                        
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満濃池堰堤の石碑
満濃池の3つの石碑
満濃池堰堤の東側に建っている石碑巡りを行っています。
 ① 長谷川翁功徳之碑(明治29年以降)
 ② 真野池記    (明治 8年)
 ③ 松崎渋右衛門辞世の歌碑碑文
前回は①について、長谷川佐太郎が満濃池再築の功績により、朝廷から藍綬褒章を賜ったのを機に建立されたものであることを見ました。忘れ去られようとしていた長谷川佐太郎は、この石碑によって再評価されるようになったともいえる記念碑的なものでした。
今回は、②の「真野池記」です。この石碑は、神野神社に登っていく階段の側に建っています。昨日見た①の長谷川翁功徳之碑が大きくて、いかにも近代の石碑という印象なのに対して、自然石をそのままつかった石材に、近世的な感じがします。しかし、当時の人達には「大きいなあ」という印象を与えたはずです。
   この石碑は明治3年の満濃池再築を記念して建立されたものです。
 幕末に決壊した満濃池は、14年後の明治3年に、長谷川佐太郎の尽力で再築されます。これを記念して建立された石碑になるようです。そういう経緯からして、この石碑も長谷川佐太郎顕彰碑的なものと、私は思っていました。実際に見ていくことにします。

P1260747

弘仁八年旱自四月抵八月郡懸奏之僧空海暮蹟也平時京寓十二丑三月命於是乃甘臨民乙己成霊汪元暦元五月朔洪淵涌天破堤而謂池内村寛永三夏九十五日不雨生駒高俊臣西嶋之尤廓度之五歳創貴鋪八辛未果編戸歓賞文化十季丈為猪辰豹変水啼之嫌囃恟後指役先寇攘丁械摸五表拾克騏羅霧集上下交征利讃法庫有信直者厭夥粍訴請冑以庵治石畳方欲傅無疆嘉永二秋経始明春半済同五継築頻崩潰至七寅春梢畢菊以石泰之不能釘用嘗庸水候雷流井読潜瓜洞出而樋外漫滑布護豊囲同白七月五日格九日肆陳渫漑ド大残害黎首琥泣荒時信直幄轄反側将再封因九合三藩丸亀多度津失三為垂戻故木移浹辰為赤地笙涌気浚井設梓夙夜橘挽妻夫汲々老稚配分炎熱如燃汗如沸希水臍疲渇望洽祈雨燎矩奉百神偶甘雷堪憐田如鰐口剖然則何益矣慶唐二八月七日蕩々森漫懐山資丘琴平屋橋落雨町暴浦老弱男女暁眺泣血漣如溺回計家財大木乏々詠連典北邨旋陀羅鳩漂流越市郷為空動浩魅浅襲穀深為諸坪允巨妃莫比農商歎憚不逞書契焉明々陣頼總朝臣在屯之初九陽徳兼玄黄元々如父母思服如衆星共之三田深田木崎障溜三新池.欲使萬湖穿岩壁先寒川郡使兼勒沼試可最元吉松崎祐敏慨然以一手欲経営之遭戎東愈労働十七暦明治二九月谷本信誼督発旱工既成者翌稔也壬申大膜源泉混々拝穂之瑞敞閉復蘇踊躍不焉余環匝徴徹塞尾張有人鹿池沈波及八万石云雖然械浸吐繕同州甲費也如十市者天下一懸高五万石育磐石防聊数十間双沃欧昔昔空海不究勲天乎命平君地平悠遠省國等賞鴻恩均乾坤公俊徳尖被六合嗚呼可謂累緒不朽神功者也矣
千秋来暦萬濃池為野為原嘉永時百姓傷心将廿載天成磐賓不窮乖鳳鳥翻東海雛離万里嗚仁人民父母親去子何行真野乃池者池之大王動無石械示早流水能白憧
 明治八年歳次乙亥秋九月 矢原正敬撰兼題額男正照書并建
意訳変換しておくと 
①弘仁八年(817)旱魃は4月から8月まで続いたので、国司は朝廷に大池を築くことを奏上した。よって、池を築いたのは僧空海の業績である。この時に、彼は都に住んでいたが3月に、朝廷からの命を受け讃岐に帰り、人民たちに接した。人々は子が親を慕うように働くこと七か月、弘仁十二年(822)に立派な池が完成した。

②元暦元年(1184)5月1日に大洪水があって天まで水が届き、堤は破壊された。(その後、池跡は開墾され村が出来たので)、この地を池の内と言う。

③寛永三年(1626)夏、95日間に渡って雨が降らない。丸亀城主生駒高俊は、家来の西嶋之尤に、満濃池再築を命じ、五年にして完成させた。りっぱな鍬を創作し、辛未には新しく戸籍を作る。民はその治世を賞賛した。

④文化十年(1813)は旱魅と洪水とがともに襲ってくる恐ろしい災難の年であった。もっこで土を運ぶか運ばない内に、雨で土が削り取られて流されてしまう。池の配水口の所に五基の功績を表わした碑を誇らしげに建てた。しかし、修復に集まった人々は上下こもごも自分たちの利益に目先を奪われ、修復が遅々として進まない。このため改修を官に請願し、庵治石を畳のように敷き詰める工法を採用した。

⑤嘉永二年(1849)、農閑期の秋から工事を始めて来春になると休む。これを繰り返して嘉永五年(1852)まで工事を続けたが、七度崩壊した。そのため、遂に底樋を石で造ることにした。(底樋石造化工法の採用)。ところが石なので釘を用いることができず、配水口に敷き瓦を並べたりすることで石同士を接合し、樋の外側が滑らないように布で護ったりした。しかし、7月5日から9日に、この装置が水で洗われ、ぶっつかり合って堰堤は崩壊した。そのため池の水が大流出し、下流に人きな被害をもたらした。大民たちは泣き叫び、田畑は荒れ、転々と寝返りをうって転げ回り、安んじて生活ができない。

 ⑥(満濃池が再建されず放置されたままなので)、高松・丸亀・多度津など三藩は、旱魃と水害によってしいたげられた。満濃池の水が来ないので、樋を造り、井戸をさらえて朝早くから夜遅くまで夫や妻は、つるべで水を汲む。老人や子供は暑い中で汗を流し、また雨が降るように神々に明々と燈明をあげ雨乞いをしている。神を憐んで大雨が降った。しかし益はなかった。
 慶応二年(1866)8月7日、大雨で濁流となった水は山を包み丘に登り、琴平の鞘橋を越て、各町に流れ込んだ。老若男女は泣き叫び、血を流し溺れる人の数を知らない。また大木も浮かび連なって流れて行く。洪水は村々に拡がって穀物を襲い土橋を越えて流れて行く。
 ⑦この時の高松藩主の源頼総朝臣(高松藩主松平頼総)は、人の行うべき九つの徳を構え、民衆から子の父を慕うように心服されていた。彼は三田と深田と木崎の三箇所に取水堰を新に造った。また池の配水口のため岩盤に穴を開ける案を計画し、寒川郡の弥勒池で試させた。
松崎祐敏は、ひとりで満濃池再築の難事業に挑んだ。苦労は17年間続き、明治2年9月谷本信誼の監督のもとに完成した。混々と流れ出る水は、稲田を蘇生させた。
 ⑧私が池の周囲を見回ってみると水面に高々と水門(ゆる)の装置が見える。尾張の国に入鹿池という八万石を潤す池があるというけれども、この十千池(とおちのいけ)とも呼ばれる万農池は池懸り五万石で配水口は岩盤を穿ち、石が堤防数十間に敷き詰められ肥沃な土地を造る日本一の池である。
 空海が功績を独占せずに天が君の徳に応じて与えたものである。悠然として国の土木工作に従事したことは天地の深い恵みと貴公の高い徳によるものであって、全世界に神の功績として不朽である。千年来の万濃池を野のため原のために、また清き水思う百姓の心になりて二十年の長き間、打盤
を穿ち続けたことよ。おおとりのひなを離れて万里の空を天翔る如く人民の父母と慕いし徳高きあなたは今何処に行かれる。真野池は池の大王なり、岩盤に流れ走る水は白き大のぼりなり。
碑文の内容を整理しておきます。
①前文で、空海の満濃池再築の業績を語り。
②それが平安末期に決壊した後は修復されず、池跡は開墾され「池之内村」ができていたこと
③江戸時代初期に生駒藩主高俊が西嶋八兵衛に命じて満濃池を再築させたこと。
④文化十年(1813)の災難の年に「庵治石敷詰め工法」を行ったこと
⑤嘉永二年(1849)の底樋石造化工法の採用経過と、地震による決壊
⑥満濃池決壊後の旱魃と大水の被害
⑦高松藩主松平頼総の立案と命を受けて、執政松崎渋右衛門祐敏が弥勒池で岩盤に底樋を通したこと
⑧十市池(真野池)への賛美

この内容には、いろいろな誤謬や問題があるように私には思えます。それを挙げておきます。
①②③は、満濃池の由来を記す史料がどれも触れるもので、特に問題はないようです。
④の「庵治石敷詰め工法」については、「満濃池史」などにも何も触れていません。これに触れた史料が見当たらないのです。また、香川県史年表などを見ても、この年が旱魃・大水の「災難の年」とはされていません。2月27日に金毘羅代権現金堂起工式行われたことが「金刀比羅宮史料」に記されているのが、私の目にはとまる程度です。この記事自体が、疑わしいことになります。
⑤の嘉永二年(1849)の底樋の石造化工法の採用経過については、それまでの木造底樋がうまくいかないので、途中から工法を替えて石造化にしたとあります。これも事実認識に誤りがあります。この時の工事責任者である長谷川喜平次は、当初から石造化で工事をすすめていたことは以前にお話ししました。
⑥の満濃池決壊後の状況については、治水的機能を果たしていた満濃池が姿を消すことで、洪水が多発したことは事実のようです。
⑦については、当時の高松藩主の善政を賞賛し、底樋石穴計画も藩主の立案と命であったとします。そして池の復旧に奔走したのは、執政松崎渋右衛門で「ひとりで満濃池再築の難事業に挑んだ」と記します。これは誤謬と云うよりも、長谷川喜平次の業績をかすめ取る悪意ある「偽造」の部類に入ります。
⑧ そして最後は、激情的な「十市池(真野池)賛美」で終わります。
満濃池 長谷川佐太郎
長谷川佐太郎
これを読んで最初に気づくのは、長谷川佐太郎の名前がどこにも出てこないことです。
この時の満濃池再築の立役者は、長谷川佐太郎です。彼が立案・陳情し、私財を投じて進めたことが残された史料からも分かります。ところがこの碑文では、長谷川佐太郎を登場させないのです。この石碑を長谷川佐太郎顕彰碑と思っていた私の予想は、見事に外れです。意図的に無視しているようです。心血を注いで満濃池を再築した後に建立されたこの碑文を見て、長谷川佐太郎はどう思ったでしょうか? 立ち尽くし、肩を落として、唖然としたのではないでしょうか。そして、深い失意に落ち込んだでしょう。
 前回に満濃池再築後の長谷川佐太郎は「忘れ去られた存在だった」と評しました。別の視点から見ると、長谷川佐太郎を過去の人として葬り去ろうとする人達がいたのかもしれません。そのような思惑を持つ人達によって、この「真野池記」の碑文は建立されたことが考えられます。この碑文が満濃池再築の最大功労者の長谷川佐太郎を顕彰していない記念碑であることを押さえておきます。
それでは、これを書いたのはだれなのでしょうか?
石碑の最後には、次のようにあります。
明治八年歳次乙亥秋九月 矢原正敬撰兼題額男正照書并建

ここからは失原正敬の撰文、題額は正敬の染筆、碑文の染筆と碑の建立は、正敬の子息正照と記されています。失原正敬と、その息子正照とは、何者なのでしょうか?
矢原正敬(まさよし 1831~1920)のことが満濃町誌1069Pに、次のように記されています。
矢原家はその家記によると、讃岐の国造神櫛王を祖とし、その35代益甲黒麿が孝謙天皇に芳洒を献じて酒部の姓を賜り、797(延暦十六)年から那珂郡神野郷に住み、神野山にその祖神櫛王を奉斎したと伝えている。
その子正久は矢原姓を称し、808(大同三)年に神野社及び加茂社を再建した。また、弘仁年間に空海が満濃池築池別当としてその修築に当たった際、この地方の豪族としてこれに協力した。
52代正信は、1371(応安四)年に向井丹後守・山川市正と共に神野神社を建て、1393(明徳4)年に神野寺を再建した。
その後裔、矢原又右衛門正直・正勝らを経て、69代正敬となった。正敬は、初めは赤木松之助と称したが、のち矢原家に入籍して矢原理右衛門正敬と改め、西湖又は雲窓と号した。正敬は資性鋭敏で文学を好み、漢学に通じ、詩歌・華道をたしなみ、土佐派の絵を能くするなど多趣多芸の文人であった。
 1902(明治35)年から明治41年まで神野村村会議員を勤め、また仲多度郡郡会議員も勤めた。大正九年八月十七日、八十九歳で没した。
諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
満濃池の下の矢原邸(讃岐国名勝図会)
  ここに書かれているように矢原家は、古い家系を誇る家柄のようです。
満濃町誌や満濃池史などには、矢原家のことが次のようなことが記されています。
①神櫛王の子孫であること
②古代の満濃池築造の際に、空海は矢原家に逗留したこと
③中世には、満濃池跡地にできた池之内村の支配者で、神野神社や神野寺を建立したこと
④近世には、生駒家の西嶋八兵衛による満濃池再築に協力し、その功績として池守に就任したこと
⑤しかし、天領池御料設置で代官職が置かれると、その下に置かれ、17世紀末には池守職を離れたこと。
①の神櫛王伝説自体が中世に造られた物語であることは、以前にお話ししました。つまり、神櫛王の子孫と称する人達は、中世以後の出自の家系になります。矢原家を古代にまで遡らせる史料は何もありません。よって②については、そのままを信じることは出来ません。
 矢原家が史料によって確認できるのは近世になってからです。そこで矢原家は満濃池の密接な関係を主張し、池守であったことを誇りにしていました。その当主が、長谷川佐太郎の業績を全く無視するような内容の碑文を刻んだ理由は、今の私には分かりません。
 ただ以前にお話ししたように、底樋の石造化を進めた長谷川喜平次の評価が分かれていたように、長谷川佐太郎についても、工事終了時点では評価が定まっていなかったことは考えられます。そのような中で、矢原家の当主は長谷川佐太郎の業績を記さず、記録から抹殺しようとしたことは考えられます。しかし、その後朝廷からの叙勲を長谷川佐太郎が得ます。
「勲章を貰った人を、地元では粗末に扱っていると云われていいのか」
「真野池記」には、長谷川佐太郎のことは何も書かれていないぞ、あれでいいのか」
「満濃池再築に、尽力した長谷川佐太郎を顕彰する石碑を建てよう」
という流れが生まれたのではないかと私は考えています。
そういう意味では「① 長谷川翁功徳之碑」は、「② 真野池記」を否定し、書き換える目的のために建立されたものと云えるのかも知れません。

以上をまとめておきます。
①明治3年に、長谷川佐太郎の尽力で満濃池は再築された。
②しかし、直後に建立され「② 真野池記」には、長谷川佐太郎の名前は出てこない。
③意図的に長谷川佐太郎の業績を無視するような内容である。
④この碑文を起草者は、かつての満濃池の池守の子孫である矢原正敬とその子・正照である。
⑤明治29年に長谷川佐太郎は朝廷から叙勲を受けるが、これを契機に彼に対する評価が変わる。
⑥そのような機運の中で満濃池再築の最大の功労者である長谷川佐太郎を正当に評価するために、新たな石碑が建てられることになった。
⑦それが「① 長谷川翁功徳之碑」である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

満濃池史 満濃池土地改良区五十周年記念誌(ワーク・アイ 編) / りんてん舎 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
参考文献
満濃池史398P 真野池記 
満濃池名勝調査報告書73P 資料近代


満濃池 現状図
 
昨年の12月に、2つの団体を案内して「ミニ満濃池フィルドワーク」を行いました。その時に、たずねられたのが堰堤の石碑に何が書いてあるかです。石碑の内容を一言で、説明するのはなかなか大変です。そこでここでは、敢えてその全文と意訳文を載せておくことにします。
満濃池の堰堤の東の突き当たり附近には、3つの碑文があります。

満濃池堰堤の石碑

右から順番に記すと次の通りです。
 ① 松坡(しょうは)長谷川翁功徳之碑(明治29年以降)
 ② 真野池記(明治3(1870)年以降)
 ③ 松崎渋右衛門辞世の歌碑碑文
まず①の石碑から見ていきます。
この碑は明治29(1896)年11月に長谷川佐太郎の功績を讃え、朝廷より藍綬褒章及び金五十円を賜ります。これを機に、長谷川佐太郎への再評価の機運が高まります。その機運の中で建立されたと碑文の最後尾に記されています。明治の元勲・山縣有朋が題字、子爵品川彌二郎の撰文、衣笠豪谷の書になります。それでは全文を見ておきます。
P1160061
            長谷川翁功徳之碑
  長谷川翁功徳之碑 
          従一位勲一等候爵山鯨有朋篆額

壽珊道禰於徳依於仁遊於蔡蓋長谷川翁之謂也翁名信之字忠卿琥松披称佐太郎讃岐那珂郡榎井村豪皇考練・和似姚為光氏翁為大温良有義気好救人急 夙憂王室式微輿日柳燕石美馬君田等協力廣交天下郎藤本津之助久阪義助等先後来議事文久三年有大和之挙翁奥燕石整軍資将赴援聞事敗奉阜仲小に郎来多度津翁延之姻家密議徹夜高杉晋作転注来投翁血燕石君田等庇護具至既而事覚逮櫨菖急使者作揮去燕石君田下獄翁幸得免替窺扶助両家族 及王政中興翁至京都知友多列顕職勧翁仕會翁固辞面婦素志専在修満濃池池為國中第一巨浸自古施木閉毎年歳改造為例嘉永中変例畳雑石作囃隋漏生蜜水勢蕩蕩決裂堤防漂没直舎人畜亘数十村田時率付荒蕪爾来十四年旱潜瑛萬民不聊生翁恨肺計奎修治屡上書切請明治三年正月得免起工高松藩松崎佐敏倉敷懸大参事島田泰夫等克輔翁志朧閲川告竣単工十四萬四千九百九十六人荒蕪忽化良田黎民励農五稼均登藩侯賞 翁功許称姓帯刀且購米若芭翁撰為区長後為満濃池神野神社神官廿七年叙正七位翁多年去庫國事頗傾儲蓄且修満濃醜蕩粛家産遂為無一物亦隅踊焉洋洋焉縦心所之楽書書好徘句不敗以得襄介意尚聞義則趨聞仁則起可謂偉矣廿八年満濃池水利組合贈有功記念章於翁且為翁開賀宴會者三百五十鈴大寄詩歌連徘頌翁嫡片亦無笑廿九年十一月朝廷賞翁功賜藍綬褒章及金五拾圓云郷大感懐仁慕義青謀建碑請文予乃序繁以斟
 明治廿九年 従二位勲二等子爵品川輛二郎撰 衣笠豪谷書
 P1260752
長谷川翁功徳之碑

意訳変換しておくと
人の志は道により、徳は仁において、遊は芸による。長谷川翁の名は信之、字は忠卿、号は松披佐太郎と称す。讃岐那珂郡榎井村の豪農である。いみ名は和信、母は為光氏。翁の人となりは、温良義気で、よく人の危急を救った。
特に幕末の王室の衰微を憂い、日柳燕石・美馬君田等と協力して広く天下の士と親交を結んだ。松本謙三郎・藤木津之助・久坂義助らが前後して琴平にやって来て、密議をこらした。文久三年の大和の天誅組の義挙に際しては、燕石と共に軍資を整えて、大和に行こうとしたが、時既に遅く果たすことができなかった。桂小五郎が多度津にやって来た際には、親戚の家に迎えて、夜を徹して話し合った。後に、高杉晋作が亡命してくると、燕石や君田らと共に疵護した。これが発覚し、晋作は逃亡させたが、燕石・君田は捕えられ高松で投獄された。翁は幸に逮捕をまぬかたので、ひそかに両家族を扶助した。
 明治維新になると、京都に上って顕職を求める知友もいて、翁に仕官を勧める者もいた。しかし、翁は固辞して故郷に帰った。その志は、満濃池の修築にあった。池は讃岐第一の大池であったが、木製の底樋のために三十年に一回は改修工事が必要であった。さらに嘉永中(1854)底樋の石材化工事が行われた際に、工法未熟で漏水を生じた上に、宝永の大地震のために堤防が決裂した。そのため民家人畜の漂没するものが数十村に及び田畑は荒れるに任かせた状態になっていた。以来14年旱魃になっても水はなく、作物はできず人々は苦労していた。翁は慨然として、再築計画を何度も倉敷代官所に上書請願した。明治3年正月になってようやく政府の免許が下り、起工した。高松藩の松崎佐敏・倉敷懸大参事島田泰夫などが、翁の志を支援して五か月竣工人夫十四万四千九百九十六人荒地は良田と化し、零細農民に至るまで五穀等しく稔った。藩は翁の功績を賞し、姓を与え帯刀を許し、且つ賜米若干包を下賜した。
こうして、翁は撰ばれて区長となり、後には満濃池神野神社の神官となった。そして明治27年に正七位に叙せられた。翁は多年に渡って国事に尽力し、自分の財力を傾けて満濃池を修築し、家産をなくし無一物となるとも一人静に心に従って俳句を好むなど、貧乏を意に介さなかった。また義におもむき仁に立つなど偉大というべき人物である。
 明治28年、満濃池水利組合は有功記念賞を贈り、翁のため祝賀会を開いた所、参加者は350人を越えた。翁の徳を讃えた29年11月、朝廷は翁の功を賞して藍綬褒章(金五十円)を賜う。これを知った地元の人達は、翁の義を慕い石碑建立を相謀り、私に請文を依頼した。
本文の内容を整理しておきます
①段目は、長谷川佐太郎の出自と人なりです
②段目は、勤王の志士としての活動で、特に日柳燕石とともに高杉晋作の支援活動
③段目は、満濃池再築に向けての活動
④段目は、再築後の隠居生活

現在の視点からすれば②段目は不要に思えるかもしれませんが、戦前では「勤王の志士」というのは、非常に価値のある言葉でした。戦前の皇国史観中心の歴史教育の中で、華々しく取り上げられたのは「皇室に忠義を尽くした人々」です。その中で、南北朝の南朝の楠木正成や、幕末の薩摩の西郷隆盛や長州の高杉晋作は、功労者として教科書に取り上げられます。これに倣って、各県の郷土史教育でも「忠信愛国」の郷土の歴史人物が選定されていきます。その中で香川で取り上げられるのが琴平の日柳燕石です。「高杉晋作を救って、そのために下獄していた」というのが評価対象になったようです。また、戊辰戦争中に戦死しているのも好都合でした。その人間が生きている内は、なかなかカリスマ化できません。こうして日柳燕石についての書物は、伝記から詩文にいたるまで数多く戦前には出版されています。彼の裏の顔である「博徒の親分」というのは、無視されます。その燕石と活動をともにし、獄中の燕石を支援したというのは、書かずにはおれない内容だったのでしょう。
③段目の満濃池再築については、記述に誤りはありません。
④段目には「満濃池を修築し、家産をなくし無一物となるとも一人静に心に従って俳句を好むなど、貧乏を意に介さなかった。」とあります。区長とありますが戸長です。しかし、長谷川佐太郎はこれを、すぐに辞退しています。そして、「家産をなくし無一物となるとも、一人静に心に従って俳句を好む」生活を送っていたのです。長谷川佐太郎は忘れ去られていたのです。それが明治27年に正七位に叙せられ、その2年後には藍綬褒章を受賞します。これを契機に周囲からの再評価が始まるのです。その出発点として、姿を見せたのがこの碑文だと私は思っていました。ところが裏側に刻まれた建立年月をみて驚きました。

P1260755
松坡長谷川翁功徳之碑の裏面
   【碑文 裏】
 昭和六年十月吉祥日建之
    滿濃池普通水利組合管理者
     地方事務官齋藤助昇
       建設委員 田中 正義
        仝   谷 政太郎
        仝   塚田 忠光
        仝   三木清一郎
        仝   三原  純
  香川県木田郡牟礼村久通
  和泉喜代次刻

   碑文表の最後には「翁の徳を讃えて明治29年11月、朝廷は翁の功を賞して藍綬褒章(金五十円)を賜う。これを知った地元の人達は、翁の義を慕い石碑建立を相謀り、私に請文を依頼した。」とあります。碑文は、その前後に建立されたはずなのですが、現在の石碑の裏側には、「昭和六年十月吉祥日建之」とあります。そうすると、この碑文は2代目のもので再建されたものなのでしょうか。この辺りのことが今の私には、よく分かりません。ご存じの方がいれば、教えて下さい。
P1260752

最後の詩文の部分です。
 入賓始築萬農池 弘仁奉勅空海治 寛永補修雖梢整
 嘉永畳石累卵危 安政蟻穴千丈破 慶唐旱僚萬家飢
 松波老叟振挟起 壹為國土借家貨 章懐底績農抹野
 承前善後策無遺 曽悼亡友管祠宇 趨義拒肯畏嫌疑
 人富居貧率天性 蓋忠報國心所期 不侯櫨傅遭顕達
 山来天爵大宗師
意訳変換しておくと
 大賞年間に始めて満濃池を築き、
弘仁年間に時の天皇の勅を承って空海が手を入れ直し、
寛永年間に補修を加えて漸く整備されたけれども、
嘉永年間に石を畳んだものの崩れやすく、極めて危険な状態であり、
安政年間には堅固な堤防も蟻のあけた小さな穴がもととなり崩れてしまい、
慶応年間の日照りと長雨による洪水によって多数の人々は食物を得られずひもじくなった。
松披老翁が袂を振るって一大決心をして満濃池の修治に起ち上がったのは、
偏(ひとえ)に国のためであり、どうして家の資産を使用することを惜しむことがあろうか。
深く懐の底に思いをいたして事にあたったので農民達は野で手を叩いて喜び、
前を引き継いで善後策にも遺す所がなく、
かつて亡友を悼んで神社を営み、
義に趣いてそのためには嫌疑を畏れることはなかった。
富を去って貧に居るという天性に従い、
国のために忠義を尽すことは心に期す所であり、
世間の評判や立身出世を待たなかったことは、                   
生まれつきの徳に由来する大宗師といえよう。

長谷川佐太郎顕彰碑
        満濃池と松坡長谷川翁功徳之碑
碑文前の台石には、現代文で次のように記します。

  P1160062
        【台石】 松坡長谷川翁功徳之碑
 長谷川佐太郎は松坡と号し幕末から明治にかけて満濃池の再築に家財を傾けて尽力した人である。榎井村の豪農の家に生まれ勤王の志士日柳燕石と交流し幕吏に追われた高杉晋作を自宅にかくまうなど幕末には勤王運動にも挺身している
 一方、安政元年に決壊した満濃池は、その水掛かりが高松・丸亀・多度津の三藩にまたがり一部に天領も含まれていた。このため復旧には各藩の合意を必要としたが意見の一致を見ないまま十六年のあいだ放置されていた。この間長谷川佐太郎は満濃池の復旧を訴えて、倉敷代官所や各藩の間を奔走するが目的を果たせないままやがて幕府は崩壊する。
 彼は好機到来とばかり勤王の同志を頼って上京し維新政府に百姓たちの苦難を切々と訴え早期復旧の嘆願書を提出した。この陳情が功を奏し、高松藩の執政松崎澁右衛門の強力な支援のもとに明治二年着工にこぎつけ同三年に竣工した。この間彼は一万二千両にも及ぶ私財を投入し晩年には家屋敷も失い清貧に甘んじている。この碑は彼の功績を称え 明治の元勲山形有朋が題字を、品川弥次郎が撰文したものである。扇山
3つの碑文の内の最初に長谷川佐太郎のものを紹介しました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
讃岐人物風景 8 百花繚乱の西讃 四国新聞社 大和学芸図書 昭和57年

後日の補足
後日に、讃岐人物風景8の「長谷川佐太郎」には、次のように記されているのを見つけました。

このように私財をすべて投入し満濃池修築に献身するとともに動皇家としても立派に活動した。二面の顔を持つ佐太郎は、明治五年(1872年)香川県第五十八区戸長に任ぜられた。数カ月後に辞し、同年八月には松崎渋右衛門の祠を建て松崎神社とした。その後、神野神社の神官に任ぜられ、明治二十七年(一八九四年)には正七位が贈られた。
 明治二十八年(1895年)には満濃池水利組合の推薦で有功記念章が贈られて、三百五十人の参加で慰労の宴が催された。毎年五十円ずつを佐太郎に贈りその労をねぎらうことになった。翌二十九年(一八九六年)七十歳のとき、藍綬褒章が授与されたのである。
 大正四年(一九一五年)人々は佐太郎の功績をたたえ松崎神社に合祀し、昭和六年十二月六日佐太郎頌徳碑を池畔に建立し永遠にその徳をたたえている。
 国と郷土に私財をなげうって奔走した佐太郎も晩年は不運のうちに生涯を閉じた。しかしその心意気は末永く人々の心に残り生き続けている。
 子孫と称する人が大阪、奈良、東家から丸尾家を訪れたのも数年前のことであり、佐太郎の妹が多度津へ嫁いだ先は薬局を営んでいたともいわれる。
 佐太郎は、明治三十一年(一八九八年)一月七日、七十二歳で象頭山下のふるさとで没し、いまもこの地で眠り続けている。 
これらを年表化すると次のようになります。
①1894(明治27)年 正七位が贈呈。
②1895(明治28)年 満濃池水利組合の推薦で有功記念章が贈呈
③1895(明治28)年 第1次嵩上げ工事実施
④1896(明治29)年 70歳のとき、藍綬褒章が授与
⑤1898(明治31)年 1月7日、70歳で没。
⑥1915(大正 4)年 佐太郎の功績をたたえ松崎神社に合祀
⑦1930(昭和 5)年 第2次嵩上げ工事
⑧1931(昭和 6)年 12月6日 佐太郎頌徳碑を池畔に建立
⑨1941(昭和16)年 第3次嵩上げ工事
 ここからは次のようなことが分かります。
A ③の第1次工事の直前に、水利組合が褒賞していること。しかし、石碑は建立されていないこと。
B ⑦の第2次工事直後に、石碑は建立されたこと。
ここからは、嵩上げ工事が行われる度に、長谷川佐太郎の業績が再評価されていったことがうかがえます。それが1931年の石碑建立につながったとしておきます。長谷川佐太郎に藍綬褒章が授与されて、すぐに建立されたのではないことを押さえておきます。別の見方をすれば長谷川佐太郎の業績褒賞を、嵩上げ工事推進の機運盛り上げに利用しようとする水利組合の思惑も見え隠れします。
参考文献 
満濃池史391P 松坡長谷川翁功徳之碑 
満濃池名勝調査報告書73P 資料近代

                              
 以前に幕末の満濃池決壊のことについてお話ししました。

P1160035
満濃池の石造底樋(まんのう町かりん会館前)

 木造底樋から石造物に、転換された工事が行われたのは、嘉永五(1852)年のことでした。しかし、石材を組み立てた樋管の継ぎ手に問題があったこと、2年後の嘉永七年に大地震があったことなどから、樋管の継ぎ手から水が漏れはじめて、満濃池は決壊します。高松藩の事件などを記した『増補高松藩記』には、「安政元年六月十四日地震。七月九日満濃池堤決壊。田畝を多く損なう」と、簡潔な記述があるだけです。
P1160033

 そんななかで私が以前から気になっていた記録があります。
決壊から約60年後の大正4(1915)年に書かれた『満濃池由来記』(大正四年・省山狂夫著)です。
ここには、決壊への対応が次のように記されています。
七月五日
午後二時ごろ、樋外の石垣から濁水が出ているのを池守が発見。榎井、真野、吉野村の庄屋たちが現地で対策を協議。漏水が次第に増加したため、各村の庄屋に緊急連絡。
七月六日
三間丸太で筏を組み、古蚊帳に小石を包み、水中に入れて漏水口を探る。
一番ユルと二番ユルの間に漏水穴を発見。午後二時ごろ、フトンに石を包み穴に入れ、土俵六十袋を投入するも漏水止まらず。
七月七日 
夜明けを待って丸亀港で漁船二隻を購入。船頭十人、人夫二百人をやとい、満濃池へ運ぶ。終日作業を続けるも漏水止まらず。
七月八日
夜十時ごろ堤防裏から水が吹き上げ、直径三メートルほど陥没。阿波国から海士二人を雇い入れたが、勢い強く近付けず。陥没が増大。
七月九日 
高松、丸亀両藩から人夫四百人を集め、土俵を作らせる。午後二時ごろ筏に青松をくくり付け、畳を重ねて沈める。二隻の船で土俵三百袋を投入。水勢やや衰えたとき、大音響とともに堤がニメートルほど陥没。全員待避し、下流の村々へ危険を知らせ、緊急避難させる。このとき神野神社の神官。朝倉信濃はただ一人避難せず、ユル上で熱心に祈とう。足元のゆらぎに驚き、地上へ飛び下りると同時に、ユルが横転水没。午後十時ごろ決壊。
この時の破堤の模様について、「堤塘全く破壊して洪水氾濫、耕田に魚鼈(魚やスッポン)住み茂林に艇舟漂ふ。人畜の死傷挙げて云ふべからず。之を安政寅の洪水と云ふ」

  この記述を見ると気がつくのは、対応の記述内容が非常にリアルなことです。
   「土俵六十袋・直径三メートルほど陥没・二隻の船で土俵三百袋を投入」などの具体的な数字が並びます。時代がたつにつれて、記憶は薄れて曖昧な物になっていきます。それなのに、昨日に見てきたような情景が、後世の記録に叙述されるのは「要注意」と師匠からは教えられました。「偽書」と疑えというのです。比較のために、同時代の決壊報告記録を見ておきましょう。
 
【史料1】
 六月十四日夜、地震十五日暁二至小地震数度、十五日より十二日二至、京畿内近江伊勢伊賀等地大二震せしと云
   ( 中  略 )
九日満濃池陽長四十間余決潰、那珂郡大水二て田畑人家損傷多し、木陽六十間余之所、両方二て七八間計ツヽ残り中四十間余切れ申候、金毘羅大水二て さや橋より上回一尺計も水のり橋大二損し、町々人家へ水押入難義致候、
尤四五日前より追々陽損し、水漏候間、郡奉行代官出張指揮致、水下之人家用心致候故、人馬怪我無之、折節池水三合計二て有之候二付、水勢先穏なる方二有之候由
  意訳変換しておくと
 6月14日夜に大地震、15日暁には小地震が数度、京畿や近江・伊勢・伊賀などで大地震が起きたという。
   ( 中略 )
7月9日に、満濃池堰堤が長さ四十間余りに渡って決潰、そのため下流の那珂郡は大水で田畑や人家に大きな被害が出ている。堤は六十間余の所が、両方から七八間だけが残って、真ん中の四十間余りが切れている。金毘羅は大水害で、鞘橋の上に一尺ほども水が流れ、橋は大きな損傷を受けている。町々の人家へも水は流れ込み、被害が出ている。もっとも水漏れ発見後に、郡奉行代官が出張指揮して、下流の人々へ注意を呼びかけていたので、人や馬などに怪我などはない。また、貯水量が満水でなく無之、4割程度であったので水の勢いも小さく被害は少なく終えた。
ここには決壊への対応については、何も出てきません。
決壊中の満濃池
決壊した満濃池跡を流れる金倉川
  【史料2 意訳のみ】
一 四日頃より穴が開いて、だんだんと大穴になって、堰堤は切れた。堰堤で残ったのは四五拾間ほどで、池尻の御領池守の居宅は流された。死人もいるようだ
一 金毘羅の榎井附近の町屋は、腰まで水に浸かった。金毘羅の阿波町も同じである
一 鞘橋はあやうく流されそうになったが、なんとか別条なく留まった。
一 家宅は、被害が多く出ている
一 田んぼなどには被害はないようだが、川沿いの水田の中には地砂が入ったところもある。
一 晴天が続いていた上に、田植え後のことで池の貯水量が4割程度であったことが被害を少なくした。
ここでも記されるのは、危害状況だけで堤防の決壊を防ぐために何らかの手当が行われたことは、何も記されていません。

ほぼ同時代に書かれた讃岐国名勝図会は、決壊経過やその対応について次のように記します。
満濃池 底樋石造化と決壊
讃岐国名勝図会 満濃池決壊部分
7月4日に、樋のそばから水洩が始まった。次第に水漏れの量は次第に増えて、流れ出し始めた。池掛りの者はもちろん、農民たちも力を尽して対応に当たった。池の貯水量は、満水時の四割程度であったが、水勢は次第に強くなり、為す術ない。決壊が避けられないとみて、堤が切れた時には、そばの山の上で火を焚き太鼓を打って、下手の村々に合図をすることにした。見守るしか出来ないでいるうちに、水勢はますます強くなる。多くの人々は池辺の山に登って、堰堤を息をこらして見つめていた。
 九日の夜半になって、貯水量が半分ほどになった水面から白雲が空に立のぼると同時に、白波が立ち起こった。こうして二年の工事によって設置された石の樋は、一瞬にして破壊され、堰堤は足元から崩れ去った。その水は川下の田畑一面に流れ出て、一里(4㎞)ほど下流の金比羅の阿波町・金山寺町などの家屋の床の上まで浸水させた、さらに五条村・榎井村の往来の道にあふれだし、家を丸亀町口(丸亀市中府町)まで流し去ったものもあったという。
 あふれ出た水勢の激しかったことは、底樋として埋めた石がながされて、行方不明となってしまったことからもうかがえる。ここからも満濃池の廣大さと貯水量の多さが知れる。
 P1160039
満濃池決壊で流出した底樋の石材
 ここでも決壊後の具体的な対応については、何も触れられていません。ただ「見守るしか出来ないでいるうちに・・」とあります。当時の人達は、為す術なく見守るしかなかったと考える方が自然なようです。
仲多度郡史 - 歴史、日本史、郷土史、民族・民俗学、和本の専門古書店|慶文堂書店

1918年(大正7)年1月に、仲多度郡が編集した『仲多度郡史』(なかたどぐんし)には、満濃池の崩壊が次のように記されています。
満濃池は寛永年間、西島之尤、之を再築して、往古の形状に復し、郡民共の恵沢に浴せりと雖も、竪樋、底樋等は累々腐朽し、爾後十五回の修営ありしか、嘉永二年に至り、又もや樋管の改造を要せり。此の時榎井村の庄屋、長谷川嘉平次は、郡民と議り、官に請ふて樋替を為すに当り、石材を用ひて埋樋の腐朽を除き、将来の労費を省かむとし、漸くにして共の工事を起し、数年を費して、安政元年四月竣工を告けたり。然るに同年六月地震あり。是より樋管の側壁に滲潤の兆ありしか、間もなく池水噴出するに至り、百方防禦に尽し、未た修理終らさるに、大雨あり。漏水増大して遂に防く能はす、七月九日の夜堤防決潰し、池水底を抑ふて那珂、多度両郡に法り、数村の緑田忽ち河原と変し、家屋人畜の損害亦彩しく、 一夜にして長暦の昔の如き惨状を現はし、巨額の資金と数年間の労苦は、悉く水泡に帰したり。是歳、十一月四日大地震あり。
家屋頻に傾倒するを以て、人皆屋外に避難せり。翌五日綸ヽ震動を減したるも、尚ほ車舎を造りて寝食すること十数日に渉れり。而して此の地震は、翠年の夏に命るまて、時々之を続けたり。当時民屋の破壊せしもの数千月にして、実に讃地に於ける未曾有の震災と云ふべし。
意訳変換しておくと
満濃池は寛永年間に、西嶋八兵衛之尤が再築して往古の姿にもどし、郡民に大きな恵沢をもたらすようになった。しかし、竪樋、底樋等は木造なので年とともに腐朽するので、交換が必要であった。そのため十五回の修営工事が行われてきた。嘉永二年になって、樋管の交換が行われることになった。この時に榎井村の庄屋、長谷川嘉平次は、郡民と協議して、幕府の代官所に底樋に石材を用いて、以後の交換工事をしなくて済むように申し出て許可を得た。こうして工事に取りかかり、数年の工事期間を経て、安政元年四月に竣工にこぎ着けた。ところが同年六月に大地震があり、樋管の側壁に隙間ができたようで、間もなく池水が噴出するようになった。百方防禦に手を尽したが、修理が終らないうちに大雨があり、漏水は増大して止めようがなくなった。ついに7月9日の夜に堤防は決潰し、池水は那珂、多度両郡に流れ込み、数村の水田をあっという間に河原とした。家屋や人畜の損害も著しく、一夜にして惨状を招いた。こうして巨額の資金と数年間の労苦は、水泡に帰した。(後略)
 
水漏れ後の対策については「百方防禦に手を尽したが、修理が終らないうちに大雨があり、漏水は増大して止めようがなくなった。ついに7月9日の夜に堤防は決潰し・・・」とあるだけです。ここにも具体的な対応は何も記されていません。「漏水は増大して止めようがなくなった」のです。ただ「百方防禦に手を尽した」とあるのが気になる所です。これを読むと、何らかの対応があったかのように思えてきます。そうあって欲しいという思いを持つ人間は、これを拡大解釈していろいろな事例を追加していきます。ありもしないことを「希望的観測」で、追加していくのも「歴史的な偽造」で偽書と云えます。

そういう視点からすると『満濃池由来記』の次のような記述は、余りに非現実的です。
「土俵六十袋を投入・
「夜明けを待って丸亀港で漁船二隻を購入。船頭十人、人夫二百人をやとい、満濃池へ運ぶ。」
「阿波国から海士二人を雇い入れたが、勢い強く近付けず。」
「高松、丸亀両藩から人夫四百人を集め、土俵を作らせる。午後二時ごろ筏に青松をくくり付け、畳を重ねて沈める。」
「二隻の船で土俵三百袋を投入。」
同時代史料には、何も書かれていない決壊時のいくつもの対応記事が、非常に具体的にかかれているのです。また『満濃池由来記』と、ほぼ同時代に書かれた仲多度郡史にも、「決壊対策」は何も書かれていません。
以上をまとめると
①満濃池の漏水が始まった後に、決壊対応措置をとったことを記した同時代史料はない
②公的歴史を叙述した大正時代の仲多度郡史にも、何も書かれていない。
③大正時代に書かれた『満濃池由来記』だけが、具体的な対応策を書いている。
④作者もペンネームで、誰が書いたのか分からない。
以上から、私は『満濃池由来記』の記述は「何らかの作為に基づく偽証記事」と考えるようになりました。所謂、後世の「フェイクニュース」という疑いです。
それならば作者は、何のためにこのような記事を書いたのでしょうか?
  そこには、幕末の満濃池決壊の評価をめぐっての「意見対立」があったようです。この決壊に対して、地元の農民達は、工事直前から「欠陥工事」であることを指摘して、倉敷代官所へ訴え出ていたことを以前にお話ししました。そのため決壊後も工事責任者である長谷川喜平次に対する厳しい批判を続けたようです。つまり、水利責任を担う有力者と農民たちが長谷川喜平次の評価を巡って、次のような論争が展開されます。
①評価する側 
農民達のことを慮って、木造底樋から石造化への転換を進めたパイオニア
②評価しない側 
底樋石造化という未熟な技術を採用し、満濃池決壊を招いた愚かな指導者
①の立場の代表的なものが、前回見た讃岐国名勝図会の満濃池の記事の最終部分です。そこには次のように記されていました。(意訳変換済み)
  もともと、満濃池の底樋は木造だったために、31年毎に底樋とユルの付替工事が必要であった。そのために讃岐国中から幾萬の人足を出し、民の辛苦となっていた。それを或人が、嘉永年中に木造から石造へ転換させ、萬代不朽のものとして人々の苦労を減らそうとした。それは、一時的には堤防決壊を招いたが、その厚志の切なる願いを天道はきちんと見ていた。それが今の姿となっている。長谷川喜平次が忘眠・丹誠をもって行った辛労を、天はは御覧であった。彼が計画した石造化案が、今の岩盤に開けた隧道の魁となっている

②の農民の立場からすると、彼らは倉敷代官所に次のような申し入れをしていました
長谷川喜平次は池に「万代不易」の銘文が入った石碑を建立しようとしているが、既に折れ損じが生じ、材木を差し加えている状態であるのに、なにが「万代不易」であるか、建立を中止してほしい。

 それに応ぜずに工事を継続した長谷川喜平次の責任は重い。にも関わらず責任を取って、止めようともしない。話にならない庄屋という評価です。こうした分裂した評価が明治になっても、引き継がれていきます。そして、満濃池の水利組合の指導部と、一般農民の中の対立の因子の一つになっていったようです。それが農民運動が激化する大正時代になると、いろいろな面に及ぶようになったことが考えられます。
  作者の「省山狂夫」が、どんな人物なのかは分かりません。
名前からして本名ではないようです。本名を隠して書いているようです。分かることは、彼が庄屋たち管理側が決壊に際して、できる限りの対応を行ったことを主張したかったことです。それが、このような記事を彼に書かせた背景なのだと私は考えています。
 長谷川喜平次をめぐる評価は、その後の周辺町史類にも微妙な影響を与えています。ちなみに満濃池土地改良区の「満濃池史」や満濃町史は、もちろん①の立場です。それに対して「町史ことひら」は、②の立場のような感じがします。

江戸時代後期になって西讃府史などの地誌や歴史書が公刊されようになると、この編纂の資料集めをおこなった庄屋たちの間には、郷土史や自分の家のルーツ捜し、家系図作りなどの歴史ブームが起きたようです。そんな中で、自分の家の出自や村の鎮守のランクをより良く見せたりするために、偽物の系図屋や古文書屋が活動するようになります。その時に作られた偽文書が現代に多く残されて、私たちを惑わしてくれます。


 以前にもお話ししたように、江戸時代の椿井政隆という人物は、近畿地方全域を営業圏として、古代・中世の偽の家系図や名簿を売り歩いた、偽文書のプロでした。彼の存在が広く知られるようになる前までは、ひとりの手で数多くの偽文書が作られたことすら知られておらず、多くが本物と信じられてきました。
  椿井政隆は、地主でお金には困っていなかったようですが、大量の偽文書を作っています。その手口を見てみると、まずは地元の名士、といっても武士ではない家に頻繁に通い、顔なじみになって滞在し、そこで必要とされているもの、例えば土地争いの証拠資料、家系図などを知ります。滞在中に需要を確認するわけです。それで、数ヶ月後にまたやってきて、こんなものがありますよと示します。注文はされていなくて、この家はこんなもの欲しがっているなと確認したら、一回帰って、作って、数ヶ月後に持っていきます。買うほうもある程度、嘘だと分かっていますが、持っていることによって、何か得しそうだなと思ったら地主層は買ったようです。
 滋賀県の庄屋は、椿井が来て捏造した文書を買ったことを日記に書いています。自分のところの神社をよくするものについては何も文句を言わずに入手しているのです。実際にその神社は、今では椿井文書通りの式内社に位置づけされているようです。こうして、地域の鎮守社を式内社に格上げしていく試みが始まります。このような動きはの中で、満濃池の池の宮の「神野神社」への変身と、式内社化への動きもでてくるようです。歴史叙述には、自らの目的で、追加・書き換えられるものでもあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「満濃池史」110p 幕末の満濃池決壊











満濃池 讃岐国名勝図会
      満濃池と池の宮(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)
 讃岐国名勝図会の満濃池に関する記述と、その意訳変換を資料としてアップしておきます。

真野郷
此地初神野郷と書来りしか、嵯峨天皇御譚神野と申奉りしかハ、字音の同しきか故に、真野郷と改めしならん。其事諸記なしと雖も日本紀略大同四年九月二日乙巳、改伊橡国神野郡、為新居郡。以触上譚也と見えたり。其後弘仁十二年、富国より奏請して、弘法大師に萬濃池を築しめたまふ時の上書にも、神野郷と記さん事を憚て、真野と改めし物ならんか。後人の考を待。
意訳変換しておくと
真野郷
この地はもともとは、神野郷とされていたが、嵯峨天皇御譚神野と、字音が同じなのでお恐れ多いとして、真野郷と改められたのであろう。その記録はないが、「日本紀略」の大同四年九月二日乙巳に「改伊橡国神野郡、為新居郡。以触上譚也」とある。
 その後、弘仁十二年に弘法大師に萬濃池を修築させた時の上書にも、神野郷と記すことを憚って、真野と改めたものではないか。後人の考を待。
諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
    矢原邸と諏訪神社(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)

ここでは、真野郷はもともとは神野郷であったという説が出されています。その理由が「嵯峨天皇御譚神野忌避説」です。しかし、これについては史料的な裏付けがありません。その他の古代・中世の史書に
は、「神野」という地名は出てきません。出てくるのは「真野郷」です。また、神野神社も近世前半までは、「池の宮」と記されています。敢えて「神野神社」と記すのは、一部の文書だけです。
 ここには、真野郷を神野と呼ばせたい意図があったことが見え隠れします。それは、神野神社を式内神社の論社とすることだったと、私は考えています。式内社の神野神社は、郡家の神野神社があります。これに対して、池の宮を神野神社として、論社化しようとする動きが近世後半から出てきます。それが満濃池築造と併せて語られ、「池の宮=神野神社」とされて行きます。
  
  讃岐国名勝図会 満濃池1
     矢原邸と諏訪明神(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)
続いて満濃池本文を見ていきます。  
萬濃池 
同所にあり。十市池とも云。池の周廻八千五百間、水たまり二て二里三丁、池の長さ南北九百間、東西四百五十間、富国第一の池なるに依て、萬濃太郎と云。中比廃して山田と成、堤長四拾五間、土廣さ六間、高サ拾弐間半、堤根六拾五間、三面八山也。漑田三万五千八百十石斗。貧呆長十八間、廣さ四尺弐寸、高さ弐尺八寸、穴壱尺六寸、櫓五ケ所二て、賓水穴十ケ所なり。営時水たまり深さ十一間。
意訳変換しておくと
萬濃池 
満濃池は真野郷ににあって、十市池とも呼ばれる。池の周囲は八千五百間、水が溜まると二里三丁(約9㎞)、池の長さ南北九百間、東西四百五十間、讃岐国第一の池なので、満濃太郎とも呼ばれる。中世には、堤が崩壊してその姿を消して、池の中は山田となっていた。
 堰堤の四拾五間、堰堤幅六間、高さ拾弐間半、堤の根元幅六拾五間、三面は山に囲まれている。灌漑面積は三万五千八百十石斗。底樋長さは十八間、廣さは四尺弐寸、高さは弐尺八寸、穴は壱尺六寸、櫓(ゆる)は五つあり、満水時の水深は十一間。

讃岐国名勝図会 満濃池1
      満濃池 その2(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)

ここから空海による満濃池築造が次のように記されます
 弘仁十年四月より七月迪、諸国雨ふらさりしかハ、公より諸国に令して池を掘らしむ。富国も溝渠をさらへ、池を築きける。同十一年より此池を築初しかと、目に除る大池なれハ、十二年にいたれともならす。諸人大に倦労れぬ。何ともすへからす。爰に人あり。沙門空海今都にあり、世人ミな其徳を慕ふ事、枯草の雨を待か如し。若爰二来ら八不日にならん、是に於て時の刺史其言を朝廷に奏す。同六月空海詔を奉して爰に至る。民大に歓ひ、堤にもまた日ならすしてなれり。同十三年勅して空海に新銭弐万を給ふ事日本紀略にみえた。

 寛仁四年時の国司碑銘を建さし給ふ。
其文次二出せり。治安年中、堤塘を更改す。爰に雖眼竜あり。此池に住む。傅云、寒川郡志度村の宿願と云者化する所也とそ。後此地を去て海に移る。其時堤防大に壊ると志度寺の縁起にみえたり(注1)。
 又元暦元辰年、大洪水二て 堤基破壊して跡方なくなりて、其後五百石斗の山田となり。人家なとも往々基置して、池の内村といふ。(弘仁十二丑年(む)、開発なして三百六十四年、池中満水なせし也、)
 爾後数多の星霜を経て、寛永三寅年閏四月七日大風雨二て、其後七月に至る法七十五日雨なく、大旱して、秋穀旱罹。一諸民餓死に及ひける。京都も井水涸て、草葉萎て糸になれるか如くなりける。
此年先封生駒の老臣西嶋八兵衛尤之といへる人、此池を再ひ築きにける。 普請奉行八福家七郎右衛門・下津平左衛門也。 今永世の助益となりて、下民其恩沢に 浴せり。生駒家国除の後、同十八年(ゆる)木朽腐しかと、国の大守なきによりて富郡木徳村の農民里正四郎大夫と云者をして、重修の事を幕府へ訴へ出ける。台命によりて富郡五条・榎井・苗田三村を池修補料と定給ふ。
意訳変換しておくと
弘仁十(819)年4月から7月にかけて、諸国では雨が降らず旱魃になったので、朝廷は諸国に命じて池を掘らした。讃岐でも溝渠をさらへ、池を築造した。翌年には、満濃池の築造に取りかかったが、それまでにない大きな池なので、12年になっても完成はしなかった。讃岐の人々は、すっかり疲れ果ててしまったが、どうしようもない。
 ここに人あり。沙門空海が今、都にいる。世人の空海の徳を慕ふことは、枯草が雨を待つかのようである。もし、空海が讃岐に帰国してくれたら・・・。これを讃岐の役人は朝廷に願いでた。こうして821年6月、空海は詔を奉じて讃岐に帰国することになった。民は大に歓び、堰堤は、あっという間に出来上がった。翌年13(822)年には、空海に新銭弐万貫が与えられたと、日本紀略には記されている。

満濃池 古代築造想定復元図2

   寛仁四(993)年 讃岐の国司が碑銘を建立した。
そこには次のように記されていた。治安年中に堰堤を修築したところ、独眼の竜が住んでいた。その竜は、寒川郡志度村の勧進者が龍となったものだと云う。その後、この池を出て海に去った。この時に、堰堤が大破したと志度寺縁起には記されている。
元暦元(1184)年、大洪水で堰堤が破壊して跡方なくなった。池跡は開墾されて、その後五百石ほどの山田となり、人家なども姿を見せて、池の内村と呼ばれるようになった。弘仁十二年に築造されて、364年の間、満濃池は存在していた。
 その後、長い年月を経て、寛永三(1626)年4月7日に大雨があった後、7月まで75日間も雨がなく、大旱魃となった。穀物は育たず、収穫がなく餓死者も出た。京都も井戸が涸れて、草葉は萎えて糸のようになってしまった。

西嶋八兵衛

 このような状況の中で、生駒藩の家臣西嶋八兵衛と云う人が満濃池を再築することになった。
普請奉行は、福家七郎右衛門・下津平左衛門であった。こうして完成した満濃池は、永世の助益となって、下々の者までその恩沢を与えている。  
 お家騒動で生駒家が転封に騒動後も、寛永十八(1640)年に、池のユルの木材が腐っていまった。そこで、藩主不在の折に、那珂郡木徳村の農民・里正四郎大夫が、ユル替え工事を幕府へ訴へ出た。これを受けて幕府は那珂郡の五条・榎井・苗田の三村を池修補料と定めた。そのためこの三村を池御料と呼ぶようになった。

決壊中の満濃池
池御料の榎井・四条・苗田(白い部分:草色が高松藩)

讃岐国名勝図会 満濃池2
満濃池 その3(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)
上のページを意訳変換しておくと
満濃池の底樋とユルの付け替え工事
 その後、高松藩祖松平頼重の時に、池御料所の代官である岡田豊前守殿・執政稲葉美濃侯に、満濃池修理費用は、高松藩と京極藩で負担することを申し出た。しかし、池修補料は巨額ではないが、三村はそのために、幕命によって設置された天領である、それに背くことは本位ではないという意向が伝えられ、沙汰止みとなった。その後、いくたびもの改修普請工事があったが、先例通りに、底樋やユルの材木費などは、池御料三村の租税で賄われてきた。
  
     ところがどういうことか宝永三(1706)年の改修工事の際に、代官遠藤新兵衛殿より、「以後は(幕府は)関与しない」と通達があり、現在のように高松・京極藩で取り扱うことになった。
 寛永8年の再興以来183年の星霜を経た文化十(1813)年に、苗田村の里正・守屋吉左衛門を中心に、池の底の土砂ざらえを行った。その際に、土砂を堤に土を置いて、六尺高くした。そのことを刻んだ碑銘を不動堂に建てた。
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満濃池の底樋とユル 底樋は四角い箱形
底樋の木造から石造への転換

 柚水木(ゆるき)は嘉永年中(1848)年ころまでは、周囲が3mあまりの巨木に穴を開けて、土中に埋めて、三十三年毎に交換を行う普請を行っていた。この時には、讃岐中の村々より人足数万人出て堤を切開き、土砂を荷ひ、底樋を掘出し、新木を埋めた。工期は、前年の8月より始めて、翌年春までには終えた。その費用は、多額に及び、筆紙に尽し難きい一大工事で、大イベントでもあった。

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満濃池堰堤の土固め

そこで村吏数人と協議して、巨木に換えて石材を使えば萬世不朽になり、費用削減につながり国益になると、衆議一決して、代官所に願い出た。それが許可されると嘉永五(1852)年4月より石材化の工事は始まり、巨木を除いて、石を使用した。
 満濃池樋模式図

底樋について「周囲が3mあまりの巨木に穴を開け・・」とありますが、これは事実誤認です
畿内の宮大工が見積書として一緒に提出した底樋の設計図が何種類も残っています。それは選ばれた最高の松材を使って、最先端技術で造られたものだったことが分かります。決して丸太を掘り抜いたものではありません。明治維新前後に、この辺りの記述は書かれたようですが、30年もすると過去のことが伝わって居ないことがうかがえます。

満濃池 底樋石造化と決壊
    満濃池 その4(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)

底樋の石造化失敗と満濃池決壊
工事行程では、底樋の土と石がうまく接合せず、所々から水もれが起きた。それに対して、色々と工夫改良をこらして対処して、(1856)年夏には、堤塘はもとのように落成した。この成功で、代官所より関係者に、お褒めの言葉やその功に報いて格式が上げられる者も出た。また、着物や白銀を賜わる者もあり、諸民は安堵の思いをして歓んだ。

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1854年の満濃池の石造樋管(底樋)

 ところが、同年7月4日より樋のそばから水洩が始まった。
次第に水漏れの量は次第に増えて、流れ出し始めた。池掛りの者はもちろん、農民たちも力を尽して対応に当たった。池の貯水量は、満水時の四割程度であったが、水勢は次第に強くなり、為す術ない。決壊が避けられないとみて、堤が切れた時には、そばの山の上で火を焚き太鼓を打って、下手の村々に合図をすることにした。見守るしか出来ないでいるうちに、水勢はますます強くなる。多くの人々は池辺の山に登って、堰堤を息をこらして見つめていた。
 九日の夜半になって、貯水量が半分ほどになった水面から白雲が空に立のぼると同時に、白波が立ち起こった。こうして二年の工事によって設置された石の樋は、一瞬にして破壊され、堰堤は足元から崩れ去った。その水は川下の田畑一面に流れ出て、一里(4㎞)ほど下流の金比羅の阿波町・金山寺町などの家屋の床の上まで浸水させた、さらに五条村・榎井村の往来の道にあふれだし、家を丸亀町口(丸亀市中府町)まで流し去ったものもあったという。
 あふれ出た水勢の激しかったことは、底樋として埋めた石がながされて、行方不明となってしまったことからもうかがえる。ここからも満濃池の廣大さと貯水量の多さが知れる。
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金倉川改修工事で出てきた底樋石材


讃岐国名勝図会 満濃池5

 堤防決壊の被害と教訓
 貯水量が満水でなく、4割程度だったことは不幸中の幸いであった。天は、萬民を加護し、救ったとも云える。流れ出た水が金毘羅の鞘橋を越えて流れたことを考れば、もし満水の時に堰堤が切れていたならば、阿波町屋・金山寺町のあたりまで壱丈六尺高の水が流れ込んできたかも知れないと住民達は噂している。
 川下の村々も同じである。満濃池よりも四里(16㎞)下流の丸亀城下にまで流れ込んで海に落ちることもあると。これを教訓にして、川下の村々の人達も、油断することなく心の備えをすべきである。恐ろしいのは水の勢いである。正直第一にして信心して、仏神の擁護を願ふことである。あなかしこ。是を忘れ給ふな。
 
石造化計画の責任者を責めることなかれ
  底樋を木造から石造に転換したことが、堰堤決壊の原因で、責任はその計画者にあると非難する人もいる。そうではない。この計画は国益を慮り、多くの人々の労苦を思いやり、行った善事である。悪意で行ったものではないので、その人を罪してはならない。
 今昔物語に出てくるる魚が欲しくて満濃池の堤を壊した国司とは、雲泥の相違なのだ。天は、その善心を見て判断を下される。昔の如く堰堤が再び姿を見せる日も近いことだろう。

満濃池決壊拡大図
堰堤の切れた満濃池跡を流れる金倉川
讃岐国名勝図会の前編は安政4(1857)年に公刊されましたが、後編は公刊されることなく草稿本として明治まで保管されていました。その間にも、草稿を受け継いだ長男の手でいろいろな書き込み追加が行われていきます。以下の文章は、明治になってからの追加分になるようです。 

明治維新の長谷川佐太郎による満濃池再築
明治元辰年二至りて、王政復古旧政を御一新あり。
幕府権政を返上なせしかハ、天下一統旧政を改革なし、府藩懸の御政務決りしかハ香川料より主として今の池宮拝殿下二巨萬の大盤石のありしを、同二已年九月八日より、竪四尺除、横三尺五寸除、長弐拾八間除の水道を穿堀て、屈強成天然自然の賓水穴を開口始、同三年五月二至り穿拵て水道成就し、堤根八旧の如く六十間診堤を築重、桜・楓・桐嶋・さつき等を植置て池もとの如く造営成就なせし八、萬代不朽、天萬民を救助なし給ふ。時節到来のなせるなるべし。
 始め木を以て賓水道を通し、弐百年除、三十一年毎賓水木更とて、国中より幾萬の人足を出し、造替なせる民の辛苦をいとび、或人、嘉永年中其木を除きて石となしなバ、萬代不朽の栄なりとて人力を費せらしと。其後一とせも持たす流失なせしかハ斯なし。厚志の切なるを天道照給ひて今の如くなし候共、長谷川喜平次が忘眠丹誠成て数十年の辛労を天照覧なし、死後二至て則なれるも石の水道を思ひ付し八、今の如く自然の水道なれる魁なるべし。爰二於て遠近の諸人、池遊覧せんとて、日毎二弁当・割寵を携へ、爰二至る者の絶間
無りしかバ、堤の上二桟敷・机木を設て遊客を憩しめ、酒肴菓を商ふ者もあり。四時村民の潤となせる八、是も萬民を救ひ給ふ一助なるべし。)
意訳変換しておくと
明治元年になって、王政復古が行われ旧政御一新となった。
幕府が政権を返上したので、天下一統し旧政の改革が行われた。府藩懸の政務が固まると、今の池の宮拝殿の下に巨大な大盤石があることを見つた。そこで、同二年九月八日から、竪四尺除、横三尺五寸、長さ弐拾八間足らずの水道を穿堀することになった。こうして天然自然の底樋水穴の開口工事が始まった。同三年五月二に、隧道は開通した。また60間の堰堤も復活した。
 そこに、桜・楓・桐嶋・さつき等を植えて造営は完成した。こうして萬代不朽、天萬民を救助する満濃池が復活した。時節到来のなせるなるべし。

満濃池底樋石穴図(想像)
明治の底樋隧道化計画

③ もともとは木造底樋で水を通していたために、200年あまりに渡って、31年毎に底樋とユルの付替工事が必要であった。そのために讃岐国中から幾萬の人足を出し、民の辛苦となっていた。
④ それを或人が、嘉永年中に木造から石造へ転換させ、萬代不朽のものとして人々の苦労を減らそうとした。それは、一時的には堤防決壊を招いたが、その厚志の切なる願いを天道はきちんと見ていた。それが今の姿となっている。
⑤ 長谷川喜平次が忘眠・丹誠をもって行った辛労を、天は御覧であった。彼が計画した石造化案が、今の岩盤に開けた隧道の魁となっている。
⑥ こうして多くの人々が、弁当・割寵を携えて満濃池遊覧にやって来る。堤の上に桟敷・机木を設置して遊客に休憩所を提供し、酒肴菓を商う者もある。村民の潤の場として、萬民を救う一助ともなっている。
明治になって加筆された部分を要約しておきます。
①明治になって地下岩盤を開削し、底樋を通すことが計画された
②堰堤も再築され、そこに花木類が植えられた。
③底樋が木造の時代には、その改修のために多くの農民が動員され苦労した。
④それを長谷川喜平次は底樋を石造化することで解消しようとした。
⑤それは失敗したが、その上に現在の底樋隧道化の魁(さきが)けになった。
⑥完成した満濃池堰堤は、人々の遊覧の場となっている。
以上です。
ここで気がつくことは④⑤で、長谷川喜平次の底樋石造化を高く評価していることです。
これについては、長谷川喜平次については、当時の地元では評価が割れていたこと、特に農民層からは彼に対してや石造化計画を進めた庄屋たちに強い批判が挙がっていたことを以前にお話ししました。その中で、讃岐国名勝図会の作者は、長谷川喜平次を強く擁護していることを押さえておきます。
 長谷川喜平次とともに、底樋石造化を進めたのが三原谷蔵でした。
三原家は、真野村で代々政所を勤める家でした。満濃町誌には次のように記します。

三原谷蔵は、榎井村庄屋の長谷川喜平次と共に、満濃池の樋門を永世不朽のものとするため底樋の石造改修する等、水利開発や農民の救済に尽力した。嘉永元年より真野村庄屋を勤め、その間、安政年中には那珂郡大庄屋に登用され、慶応二年まで一九年の長期にわたって地方自治に貢献した。

つまり、長谷川喜平次を批判することは、大庄屋の三原谷蔵を批判することにつながったのです。そのために周りのとりまきの人たちは、類を及ばさないように長谷川喜平次を擁護したことが考えられます。
長谷川佐太郎

もうひとつ気になるのは長谷川佐太郎の名前が、どこにも出てこないことです。
この時の満濃池再築の立役者は、長谷川佐太郎です。彼が立案・陳情し、私財を投じて進めたことがいまでは定説となっています。ところが、讃岐国名勝図会の明治後に加筆された部分には、長谷川佐太郎を登場させないのです。この時点で長谷川佐太郎の評価はいまと違っていたのでしょうか。あるいは意図的に無視しているのでしょうか。今の私には分かりません。

満濃池 金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名所図会の満濃池 鶴が舞う姿が描かれてる
最後の「⑥完成した満濃池堰堤は、人々の遊覧の場となっている。」という記述です
ここからは、満濃池が人々の行楽地となっていたことが分かります。堰堤からの四季折々のながめを眺望を、用意された休息所に座って愛でる文化が根付いていたようです。『金毘羅山名勝図会』には、人々が「朱の箭を敷」き「池見」を行ったと記します。

満濃池 象頭山八景鶴舞図(1845)
金毘羅参詣名所図会の元絵とされる「象頭山八景 満濃池遊鶴」

以上、讃岐国名勝図会に記された満濃池をみてきまた。私は、以前には、ここには絵図しかないものと思っていました。しかし、実際に全文を見てみると非常に充実した内容です。これ以外にも省略しましたが、今昔物語の記事もあります。昔の人が満濃池の歴史を知ろうとすれば、まず、この図会を見たはずだと思いました。それだけ後の時代に影響を与えた図会であると改め思いました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
歴史資料から見る満濃池の景観変化 満濃池名勝調査報告書111P まんのう町教育委員会 2019年
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 生駒騒動によって、生駒藩が転封になったあとは、讃岐は次の東西2つの藩に分割されます
①寛永18年(1641)9月 山崎家治が西讃5万石余を与えられて丸亀藩主へ
② 翌19年(1642)2月、松平頼重が東讃12万石を与えられて高松藩主へ
そして、満濃池の管理のために天領・池御領が置かれることになります。池御領は、二つの藩の境目と金毘羅神領に接した那珂郡の五條・榎井・苗田の三村領(天領)と、満濃池周囲の幕府領七ケ村領を含みます。
池御両郷帳(榎井・五条・苗田)図
満濃池水掛村々之図(明治)
上図では、以下のように色分けされています
黄色 天領池御領(五条・榎井・苗田の三村)
赤  金毘羅大権現 金光院領
桃色 高松藩領
草色 丸亀藩領
白色 多度津藩領
この絵図からは次のような事が読み取れます
①土器川を越えて、高松藩領が丸亀平野に伸びていること
②高松藩と丸亀藩の藩境は、金倉川であったこと
③丸亀城の南側は高松藩領で、満濃池の最大の受益者は高松藩であったこと
④天領3村が、金毘羅寺領に接する形で配置されていること
⑤同時に、天領3村が高松藩と丸亀藩に挟まれる形になっていること

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天領池御領(黄色)と金毘羅寺領(赤)

どうして、この3つの村が池御料に指定されたのでしょうか。

それには、次の2つの説があるようです。
一つ目は「東西領検地等の打ち余り(余り領地)によって設けられた」という説です。しかし、これは俗説です。
以前にお話したように、幕府は讃岐を東西に分割する際に、現地に派遣した担当老中に「東西=2:1」で分割せよという指示を出しています。そして、指示を受けた老中は、生駒騒動の前に本国・伊賀の藤堂藩に帰国していた西嶋八兵衛を讃岐に呼び出して、旧知の庄屋たちと綿密な打合せさせた上で「線引き」をしたことは以前にお話ししました。  
「高松藩政要録」には、天領設置について次のように記します。

右池(満濃池)成就の後、歳も経るまま費木も朽懐て、同(寛永)十八年修造を加へんとせしかど、生駒家国除の後なれば、木徳村の里正四郎大夫といえるもの、幕府へ訴え出でけるに台命ありて、五条・榎井・苗田を池修補の料に当てられける故に、今、此の村を池御料といいしなり
  意訳変換しておくと
満濃池が完成してから、年月が経過して底樋やゆる木も痛み、生駒家の転封直後の(寛永)18年(1641)に修築願いを、木徳村の里正四郎大夫という者が幕府へ訴え出た。そこで幕府は、五条・榎井・苗田を池修理基金にあてるようにした。これを今では池御料と呼んでいる。

ここには「五条・榎井・苗田を池の修理基金」とするために天領にしたと記されています。それでは、なぜこの三村が選ばれたのでしょうか。江戸幕府は、大名の改易や領地替えで藩の境界を改める時には、藩境に楔を打ち込む形で、藩境の重要地帯を天領とするのが常套手段でした。満濃池は「戦略的な要地」で、この池からの水で丸亀平野では米作りが行われています。その運用権を幕府が握っている限り、丸亀藩や高松藩は幕府には逆らえません。天領・池御領は、丸亀藩と高松藩の間に打ち込まれた「楔」であり、満濃池管理という戦略的意味も持っていたと、研究者は考えています。

決壊中の満濃池
   讃岐国那珂郡満濃池近郷御領私領図(香川県立ミュージアム)
     (緑が高松藩・黄土色が丸亀藩・白が池御領)
高松藩と丸亀藩との藩境の決定には、細かい政策的配慮が払われていことは以前にお話ししました。
  例えば、丸亀平野の南部(まんのう町旧仲南地区)では、次のように細かい分割が行われています。
①七ケ東分の久保・春日・小池・照井・本目と福良見の東部を高松藩領七ケ村(上図緑色)
②七ケ西分の新目・山脇・追上・大口・後山・生間・宮田・買田を、丸亀藩領七ヶ村
③七ケ東分の帆山と福良見の西部を加えて丸亀藩領七ケ村として、七ケ東分を二分
④さらに福良見村を三分している
福良見と帆山
福良見と帆山(まんのう町)

この線引きを行ったのが、藤堂藩から呼び返されていた西嶋八兵衛であることは、以下でお話ししました。


彼は、満濃池築造と同時に用水路を建設して、その水配分にまで関わっていました。その際に旧知となった庄屋たちから意見を聞いて、今後に問題を残さないように、野山(刈敷)の入山権利に至るまで一札をとっています。このような綿密に計算されて上で藩境は決定されているのです。池の領が「東西領検地等の打ち余りによって設けられた」というは、それらの「遠望思慮」が見えない人達の風評と研究者は評します。

満濃池から塩入2
満濃池西部の高松藩と丸亀藩の藩境・七箇村周辺絵図

 池御料の設置は、灌漑上の重要ポイントある満濃池と、その水掛かりの重点である三村を天領として抑えて置く、という幕府の常套的政策であったことを押さえておきます。

新たに設置された天領・池御領を管理したのは、だれなのでしょうか?
寛永19年(1642)に池御料が置かれてから、元禄三年(1690)まで49年間、守屋家が代官として池御領を支配することになります。
  幕府は、この時期になると新しく天領にした所では、現地のやり方や支配関係を継承して、急速に改めることを避けるようになります。「継続・安定」を重視して、在地の土豪を代官に任命するやり方をとりました。池御領の代官についても、まずは地元の最大の有力者である金光院主に代官就任を請います。しかし、金光院主の答えは「大恩ある生駒家の不幸を考えると受諾することができない」というものでした。そこで那珂郡の大庄屋で、金毘羅大権現の庄官でもあった与三兵衛を代官に任命します。
 与三兵衛は、守屋与三兵衛と名を改め、苗田村に政所を置いて、幕臣として満濃池の管理と池御料の統治に当たることになります。

守屋家代官所跡


代官となった与三兵衛に課せられた職務は、次の通りです
①満濃池の維持管理と配水
②池御料三か村の治安の維持と勧農
③豊凶を確かめて年貢高を決定し、徴収した年貢を勘定奉行に納める
こうして幕臣となった守屋与三兵衛は、従来よりも遙かに多くの責務を担い込むことになります。このため周囲の金光院や他の庄屋たちからは、「代官になってから高慢な態度をとるようになった」と非難を受けるようになります。また、金毘羅大権現の金光院からも氏子としての勤めを十分に果たさないと批判されるようになります。

 正保2年(1645)9月に、高松藩江戸家老彦坂織部から、金光院宥睨(ゆうげん)に宛てた手紙には、次のように記されています。

会式(えしき)の時分、随分よき様に成さるべく候、江戸元へ池守子五右衛門参り候間、御手前へ少しも如在申さず会式の時分も様子もよく親子共に申し付くべき由、急度申し付け候間、其の御心得有るべく候、四条の政所も如在致さず候様にと申し遣わし候、御手前よりも五右衛門万事能く申し付けくれ候様にと仰せらるべく候、拙者方よりも御手前へ申越候と仰せらるべく候、池領弥無(いよいよ)左法仕り候はば、おや子共流罪に申し付くべき由重ねて申し渡し候間、様子もよく候はんと存じ候 
            琴陸家文書「御朱印之記」
 
意訳変換しておくと
(金毘羅大権現の)会式(えしき:法会の儀式の略称で10月12・13日)の頃で、盛大な儀式が行われたことであろう。江戸の私の所へ「池守子」の守屋五右衛門がやってきたので、御手前(金光院)のことについては、何も触れずに、会式についての協力・参加するなど金毘羅大権現の庄官としての勤めを果たすよう要望した。四条の政所についても、金光院に対して従順でない態度を改め指すように申し伝えた。御手前から五右衛門のことについて、「注意指導」を行って欲しいとのことであったので、以上のように申し伝えたことを、知らせておく。
 また池領のことについては、代官としての権威を振り回して、庄官としての勤めを果たさなければ、親子共流罪を申しつけるまで云ってある。   琴陸家文書「御朱印之記」

ここからは、次のようなことがうかがえます。
①金毘羅大権現の荘官としての勤めを果たない池御料代官の守屋与三兵衛に対して、金光院主は日頃から不満を持っていたこと。
②その不満を高松藩江戸家老に、常々伝えて「指導改善」を求めていたこと。
③その意を受けて江戸家老は、訪ねてきた守屋与三兵衛に対して、「代官としての権威を振り回して、庄官としての勤めを果たさなければ、親子共流罪を申しつける」とまで、云ったこと
④江戸家老は「池守子」五右衛門と蔑称した表現を手紙の中で用いていること。
⑤金光院主と江戸家老が懇ろな関係にあり、両者の守屋与三兵衛に対する評価が低いこと
このような「指導」をうけたためでしょうか。

正式な起請文の例
正式な牛王起請文
守屋与三兵衛は、正保4年11月10日に、次の記請文を金毘羅大権現に奉納しています。
敬白起請文の事
一  満濃池修覆料として高二一二九石四斗九升弐合の所、外に酉(とり)の年より百姓共改め出しの高四四石五斗五升、共に私支配仰せ付けられ候条、万事油断なく精出し申すべく候
一 満濃池用水掛りの郡村中、先規の如く分散仕り、贔員偏頗(ひいきへんば)無く通し申すべき事
一  池御料御勘定の儀は、高松御役所、山崎甲斐守殿御奉行御両所へ御手短を以て、五味備前守殿へ毎年入用の勘定仕るべく候
一 右違背せしむるに於ては、梵天帝釈四天を始め奉り、惣じて日本六十余州大小神祗、殊には伊豆箱根両大権現三嶋大明神 天満大神、別しては氏神金毘羅大権現御部類春属の神罰を罷り蒙る可き者也
仍て記請文件の如し(以下牛王誓紙)
正保四年霜月十日 守屋五右衛門書判・印判、血判、
  意訳変換しておくと
一  満濃池修繕費として、天領年貢収納石高2129石ばかりの収入がある外に、酉(とり)年よりの百姓共改出約44石を、私は万事油断なく精出していく立場にある。
一 満濃池の用水掛りの郡村は、ひろく分散しているが、贔員偏頗(ひいきへんば)なく、用水を分水する。
一  池御料の収支決算については、高松藩や山崎(丸亀)にも説明協議を行いながら、五味備前守(幕府の奉行職?)殿へ収支決算を行う。
一 これに違背した場合には、梵天帝釈四天を始め、日本六十余州大小神祗、加えて伊豆箱根両大権現三嶋大明神 天満大神、さらには氏神金毘羅大権現御部類春属の神罰を罷り蒙る可き者也
仍て記請文件の如し(以下牛王誓紙)
正保四年(1647)霜月十日 守屋五右衛門書判・印判、血判、
 この起請文は、日付と署名の箇所は牛王誓紙で、書判・印判血判が据えられています。
牛王法印
牛王法印
先ほど見た江戸家老の彦坂織部の書簡と、この起請文とは互に関連しているようです。つまり、幕府の代官となった守屋与三兵衛の態度が不遜になって来たので、高松藩と金毘羅当局で、それを抑える考えから、起請文を納めさせたようです。この起請文からは、代官守屋家は、金光院院主と高松藩から睨まれていて、基盤も脆弱であったことがうかがえます。
琴平町苗田天領代官所跡
天領代官所跡(守屋家 琴平町苗田)
苗田村の守屋家は、古くから金毘羅祭に奉仕する世話役である庄官の家筋でした。
守屋家一門の与三兵衛も、代官就任前の寛永八(1631)年や同十五年には子供の卯太郎・安太郎を頭人に立てるなど勤めを果しています。しかし池御料代官になってからは頭屋勤めから離れるようになったようです。そのため寛文八(1668)年十月には、榎井・五条・四条・苗田の各村の庄屋仲間から、来年は是非勤めをするようにとすすめられ、翌九年には子どもの権三郎を頭人に立てています。
 しかし、代官守屋家は結局は、次のように「失脚」してしまいます。
寛文11年(1661)与三兵衛義和が二代目を継職
貞享2年(1685)  助之進義紀が三代目を継職
元禄3年(1690)  助之進義紀が代官職を罷免
この「失脚」は、将軍綱吉の「代官に対する綱紀粛正政策」によるもののようです。代官は年貢の決定権を握っており、年貢米の一部を売却して幕府の勘定奉行に納める義務があります。その際に、百姓の年貢の未進分は代官の責任とされていたので、不正が多かったようです。綱吉は、この時に全国の代官の半数に近い三十数人の土豪的代官を罷免して、幕臣を新しい代官に任命しています。
  以後の池御領は、短期間の内に、京都町奉行所・松平讃岐守(高松藩)・大坂町奉行所・倉敷代官所などの「預り所」として移り替わっていきます。これについては、また別の機会に見ていくことにします。
私が気になるのは、生駒藩の下で満濃池池守となっていた矢原家がどうなったのです?
諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
      讃岐国名勝図会に描かれた矢原邸(満濃池の下手)

 寛永八年(1631)に生駒藩時代に再築された満濃池の池守には、西島八兵衛に協力した豪族矢原又右衛門が任命されました。 生駒家の下では、矢原家は満濃池管理の実質的な最高責任者でした。ところが天領が設置され、守屋与三兵衛が代官(幕臣)として、就任することになったのです。守屋家と矢原家の関係は、生駒藩の下では、次のような関係でした。
矢原家 満濃池池守 扶持(50石)
守屋家 造田村庄屋
つまり、矢原家の方が上にあったはずです。
それが、天領・池御領設置で、どう変化したのでしょうか?
その関係が垣間見える史料があります。延宝六年(1678)の春から夏にかけて、満濃池用水の管理について、池御料代官守屋与三兵衛が池守の矢原利右衛門に宛てた、指図書の写しです。
その中の六通には、次のように記されています。(満濃池旧記)
① 四条村の内ふけ・らく原水これ無く、苗代痛み申し候間、うてへの水少しはけ候て遣さる可く候、念を入れらる可く候
以上
四月廿六日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
意訳変換しておくと
① 四条村の内ふけ(福家)・らく原には、水が不足し、苗代の苗が痛んでいるとという申し入れがあった。うめて(余水吐け)への水を少し落として、水を送るように、念を入れること
以上
四月廿六日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
② 手紙にて申し入れ候、昨日揺落し候様に申し遣わし候、又々抜き申す様に申し入れ候、下郡より右の通りにわけ三度申し入れ候、今朝下郡より最早水いらぎる由申し来り候間早々揺差し留め下さる可く候、少しも油断なされ間敷そのためかくの如く候以上
五月廿五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
意訳変換しておくと
② 昨日、手紙にて、ユルを落とし、水を止めるように指示したが、又々、ユルを抜くように申し入れる。今朝になって、下流域の郡から水を送るように三度申し入れがあった。いずれ、下郡よりまた水は不用との連絡が来るであろうが、その時には、早々にユルを落として水を止めて欲しい。少しの油断もできない状態にある。
五月廿五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
③ 手紙にて申し入れ候、然れば上の郷(かみのごう)水これ無く、植田痛み申し候由、断りこれ有り候間ゆる四合斗り抜き落し下さる可く候、念を入れらる可く候以上
六月廿日           守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
④ 吉野桶樋(おけどい)掛りの田、大貝・黒見水これ無く候由、断りこれ有り候間、其の元見合に遣わさる可く候、念を入れらる可く候以上
六月廿一日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
⑤ 上の郷、水これ無く田痛み申す由、断りこれ有り候間、ゆる見合にぬき落し下さる可く候、委細はこの者口上にて申し上ぐ可く候以上
七月十五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
⑥ 公文高篠より水上り参り候間、早々ゆるさし留め下さる可く申し入れ候、そのためかくの如くに候以上
八月八日           守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
ここからは、満濃池の管理については、苗田の守屋家の代官が指示を出して、それに従って池守・矢原家が、ユルの扱いを行っていることが分かります。つまり、守屋家が上、矢原家はその下、という上下関係になります。天領設置で、両者の関係が逆転したのです。

  矢原又右衛門の子利右衛門が貞享三寅年(1686)12月に病死して後、矢原家は池守職を離れます。
こうして、矢原家は満濃池との関係を失って行くことになります。代官・守屋家の失脚は、この4年後になります。それまでの代官と池守が去ったあと、満濃池と池御領は、どうなっていくのでしょうか。それはまたの機会に・・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
町史ことひら(近世編)20P  池御料の成立と統治    













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神野神社 満濃池堰堤の背後の岡に鎮座
満濃池の堰堤の背後の岡に、神野神社が鎮座します。この神社の古い小さな鳥居からは眼下に広がる満濃池と、その向こうに大川山が仰ぎ見えます。私の大好きな場所のひとつです。

DSC02983
神野神社からの満濃池と大川山
 この神野神社は延喜式の式内神社の論社(候補が複数あり、争論があること)でもあるようです。

満濃池遊鶴(1845年)2
満濃池遊鶴 象頭山八景(1845年)

この神社は、上の絵図のように戦後までは満濃池の堰堤の西側にありました。江戸時代には「池の宮」、明治当初は「満濃池神」と呼ばれてきたことが残された資料からは分かります。神野神社と呼ばれるようになったのは、明治になってからのようです。どうして、神野神社と呼ばれるようになったのでしょうか。そこには、式内社をめぐる争論が関わっていたようです。

P1160049 神野神社と鳥居
神野神社の説明版
 神野神社について満濃町誌964Pには、次のように記されています。
①伊予の御村別の子孫が讃岐に移り、この地方を開拓して地名を伊予の神野郡に因んで神野と呼び、神野神社を創祀したという。②これに対して神櫛王又はその子孫である道麻呂が、天穂日命を祀ったのが神野神社であるともいわれている。二つの説は共にこの神社が、この土地の開拓に関係のある古社であることを物語っている。③更に神野神社は、満濃池地の湧泉である天真名井に祀られていた水の神(岡象女命)を池の神として祀った神社であるという説がある。
 ④808(大同三)年に矢原正久が、別雷神を現在地の東の山上に加茂神社として祀ったのは、満濃池地を流れていた金倉川の源流を鎮め治めるためであったと思われる。821(弘仁十二)年に空海によって満濃池の修築が完了したので、嵯峨天皇の恩寵に感謝した村人が、嵯峨天皇を別雷神と共に神野神社の神として祀ったと伝えられる。
 ⑤その後「讃岐国那珂郡小神野神社」として、式内社讃岐国二十四社の一つに数えられるようになった。『三代実録』によると、正六位上の位階を授けられていた萬農池神が、881(元慶五)年に位階を進められて従五位下になっている。満濃池築造後は、祭神はすべて池の神として朝廷の尊信を受けたのである。
⑥1184(元暦元)年に満濃池が決壊して後も、この地の豪族であった矢原氏の歴代の人々が、山川氏の人々と共に神野神社を崇敬して社殿の造営を行ってきた。現在、神野神社の社宝として伝えられている金銅灯寵の笠(第二編扉写真参照・室町時代に作られた)にその期間の歴史が刻み込まれている。
⑦1625(寛永二)年、生駒氏の命によって満濃池の再建工事に着手した西嶋八兵衛は、まず「池の宮」の神野神社を造営し、寛永八年に満濃池の工事が完成して後は、神野神社もまた「池の宮」としての威容を回復したのである。
⑧その後、1659(万治二)年、1754(宝暦四)年、1804(文化元)年、1820(文政三)年と池普請の度毎に社殿の造営が行われ、
⑨1953(昭和28)年の満濃池の大拡張工事で、池の堤に近い山の上の現在地に移転したのである。
⑩その間に、1869(明治二)年からの満濃池再築工事に功績のあった高松藩執政松崎渋右衛門と、榎井村庄屋長谷川佐太郎の二人を祀った松崎神社を、神野神社の境内に建立した。
⑪現在の神野神社は満濃池を見下ろす景勝の地にあって、弘法大師像と相対している。
社前には、1470(文明二)年に奉献された鳥居(扉写真参照)が立っている。
神宝として伝えられている宗近作の短剣は、宝暦十一年の幕府巡見使安藤藤三郎・北留半四郎・服部伝四郎の寄贈した大和錦の鞘袋に納められている。
以上から読み取れることを要約しておくと次の通りです。
神野神社の創建については、次の3説が紹介されています。
①伊予からの移住者が伊予の神野郡にちなんで神野と呼び、神野神社を建立した
②神櫛王の子孫である道麻呂が、天穂日命を祀ったのが神野神社
③満濃池の湧泉である天真名井仁祀られていた水の神(岡象女命)を池の神として祀った神社

①の「神野」という地名については、古代の郷名には登場しないこと
②神櫛王伝説は、綾氏顕彰のために中世になって創作されたもので古代にまで遡らないこと。
以上から③の民俗学的な説がもっとも相応しいものように私には思えます。

④空海の満濃池改築以前に、矢原氏が賀茂神社や神野神社を建立していた
⑤「神野神社」が古代の式内社であった
⑥中世の「神野神社」は。矢原氏によって守られてきた。
⑦江戸時代になって生駒藩の西嶋八兵衛による満濃池再築にも矢原氏が協力し、池の宮が再築された。
⑧堰堤改修に合わせて池の宮も改修が行われてきた。
⑨1953年の昭和の大改修で、現在地に移された
⑩明治の再築工事に功績のあった高松藩執政松崎渋右衛門や榎井村庄屋長谷川佐太郎などが合祀された

以上をみると、満濃町史に書かれた神野神社の由来は、別の見方をすれば矢原家の顕彰記でもあることが分かります。
④⑤⑥では、満濃池築造以前から矢原氏がいたこと、古代から矢原氏などの信仰を受けて神野神社が姿を現し、式内社となっていたとされます。
ダムの書誌あれこれ(17)~香川県のダム(満濃池・豊稔池・田万・門入・吉田)~ 2ページ - ダム便覧
満濃池史22Pは、空海と矢原氏の関係を次のように記します。

空海派遣の知らせを受けた矢原氏は空海の下向を待った。『矢原家々記』によると、空海は弘仁十一年四月二十日に矢原邸に到着している。空海到着の知らせを受けた矢原正久が屋敷のはずれまで空海をお迎えに出たところ、空海は早速笠をとり、「お世話になります。池が壊れてはさぞお困りでしょう。工事を早く進めるつもりです。よろしくお願いします」そう丁寧に挨拶をされたという。正門も笠をとってから入られたということで、それ以来、矢原家の間をくぐるときは、どんなに身分の高い方でも笠をとってから入ることになったという話が伝えられている。空海が到着したとき、築池工事は既に最後の段階に近づいており、川を塞き止めて浸食谷の全域を池とする堤防の締切工事だけが残っていたと考えられている.
 
 ここでは後世に書かれた『矢原家々記』の内容を、そのまま事実としています。ここから読み取れることは、矢原家が空海との結びつきを印象付けることで、自分たちの出自を古代にまでたどらせようとしている「作為」です。古代に矢原氏がこの地にいたことを示す根本史料は何もありません。後世の口伝を記した『矢原家々記』を、そのまま事実とするには無理があります。

諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
満濃池下の矢原家住宅と諏訪明神(讃岐国名勝図会)
矢原氏は、近世の満濃池池守の地位を追われた立場でもあります。そのため満濃池の管理権を歴代の祖先が握っていたことを正当化しようとする動きがいろいろな所に見え隠れします。そのことについて話していると今日の主題から離れて行きますので、また別の機会にして本題に帰ります。
まんのう町 満濃池営築図jpg
満濃池営築図 寛永年間(1624~45年)
池の宮が最初に登場するのは、上の絵図です。
これは1625年に西嶋八兵衛が満濃池再築の際に、描かれたとされるものです。ここには、堤防がなく、④護摩壇岩と②池の宮の間を①金倉川が急流となって流れています。そして、堰堤の中には「再開発」によって、⑤池之内村が見えます。②の池の宮を拡大して見ます。
池の宮3
            満濃池営築図の池の宮
よく見ると②の所に、入母屋の本殿か拝殿らしき物が描かれています。鳥居は見えません。ここからは由緒には「西嶋八兵衛による満濃池再築にも矢原氏が協力し、池の宮が再築された」とありますが、池の再築以前から池の宮はあったことになります。
 ③には由来の一つに「満濃池の湧泉である天真名井仁祀られていた水の神(岡象女命)を池の神として祀った神社」とありました。中世に再開発によって生まれた「池之内村」の村社として、池の宮は「水の神を祀る神社として、中世に登場したのではないかと私は考えています。それが満濃池再築とともに「満濃池神」ともされます。こうして、満濃池の守護神として認知され、満濃池の改修に合わせて、神社の改修も進められるようになります。それを由緒は、「1659(万治二)年、1754(宝暦四)年、1804(文化元)年、1820(文政三)年と池普請の度毎に社殿の造営が行われた。」と記します。しかし、近世前半に満濃池が描かれた絵図は、ほとんどありません。絵図に描かれるようになるのは、19世紀になってからのことです。満濃池が描かれた絵図を「池の宮」に焦点を当てながら見ていくことにします。

金毘羅山名勝図会2[文化年間(1804 - 1818)
満濃池 (金毘羅山名所図会 文化年間1804~19)
この書は、大坂の国文学者石津亮澄、挿絵は琴平苗田に住んでいた奈良出身の画家大原東野によるものです。『日本紀略』や『今昔物語集』を引用し、歴史的由緒付けをした上で広大な水面に映る周囲の木々や山並み、堰堤での春の行楽の様子を「山水勝地風色の名池」と記します。上図はその挿絵です。東の護摩壇岩と西側の池の宮の間に堰堤が築かれ、その真ん中にユルが姿を見せています。その背後には、池面と背後の山容が一体的に描かれます。添えられた藤井高尚の和歌には、次のように詠われています。

 「まのいけ(満濃)池の池とはいはじ うなはらの八十嶋かけてみるこゝちする」
 金毘羅名所図会 池の宮
満濃池池の宮拡大 (金毘羅山名所図会)
池の宮の部分を拡大して見ると、堤防から伸びた階段の沿いに燈籠や鳥居があります。その後に拝殿と本殿が見えます。こうして見ると、
本殿や拝殿の正面は、池ではなく、堰堤に向かって建っていたことが分かります。ここでは、滝宮念仏踊りの七箇村組の踊りも、滝宮に行く前に奉納されていたことは、以前にお話ししました。


満濃池遊鶴(1845年)2
象頭山八景 満濃池遊鶴(1845年)
この時期の金毘羅大権現は、金堂(現旭社)が完成に近づき、周辺の石畳や玉垣などが急速に整備され、面目を一新する時期でした。それにあわせて金光院は、新たな新名所をプロデュースしていきます。この木版画も金堂入仏記念の8セットの1枚として描かれたものです。 これを請け負っているのは、前年に奥書院の襖絵を描いた京都の画家岸岱とその弟子たちです。ここには、堤の右側に池の宮、その右側には余水吐から勢いよく流れ落ちる水流が描かれています。満濃池の周りの山並みを写実的に描く一方、池の対岸もきちんと描き、池の大きさが表現されています。後の満濃池描写のお手本となります。ちなみに、次の弘化4年(1847)年、大坂の暁鐘成の金毘羅参詣名所図会は、挿絵作家を連れてきていますが、挿絵については上の「象頭山八景 満濃池遊鶴」の写しです。本物の出来が良かったことの証明かも知れません。 
img000027満農池 金毘羅参詣名所図会
 金毘羅参詣名所図会 弘化4年(1847)
この絵からは、やはり鳥居や本堂は堰堤に向いているように見えます。そして地元の出版人によって出されるのが「讃岐国名勝図会」嘉永7年(1854)です。

満濃池(讃岐国名勝図会)
満濃池「讃岐国名勝図会」嘉永7年(1854)
梶原藍渠とその子藍水による地誌で、1854年に前編5巻7冊が刊行されますが、後は刊行されることなく草稿本だけが伝わることは以前にお話ししました。俯瞰視点がより高くなり、満濃池の広さが強調された構図となっています。これを書いたのは、若き日の松岡調です。彼は明治には讃岐の神仏分離の中心人物として活躍し、その後は金刀比羅宮の禰宜となる人物です。
 次の絵図は嘉永年間の池普請の様子を描いたものです。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化4
満濃池普請図(嘉永年間 1848~54)
この時の普請は、底樋を石材化して半永久化しようとするものでした。しかし、工法ミスと地震から翌年に決壊して、以後明治になるまで満濃池は姿を消すことになります。右の池の宮の部分を拡大して見ます。
満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(池の宮) - コピー
満濃池普請図 池の宮拡大部分 嘉永年間
ここにも燈籠や鳥居、そして拝殿などが見えます。同じ高さに池御領の小屋が建てられています。この後、堤防は決壊しますが
  次に池の宮が絵図に登場するのは、明治の底樋トンネル化計画の図面です。
軒原庄蔵の底樋隧道
満濃池 明治の底樋トンネル化図案
底樋石造化計画が失敗に帰した後を受けて、明治に満濃池再築を試みた長谷川佐太郎が採用したのが「底樋トンネル化案」でした。それまでの余水吐の下が一枚岩の岩盤であることに気づいて、ここにトンネルを掘って底樋とすることにします。その絵に描かれている池の宮です。
長谷川佐太郎 平面図
明治の満濃池 長谷川佐太郎によって底樋が西に移動した
ここでは、それまで堰堤中央にあった底樋やユルが、池の宮の西側に移動してきたことを押さえておきます。
大正時代のユル抜きの際の3枚の写真を見ておきましょう。

ユル抜きと池の宮3 堰堤方面から
大正時代の満濃池ユル抜き
堰堤の西側に拝殿と本殿がつながれた建物があります。あれが池の宮ようです。堰堤には、ユル抜きのために集まった人達がたくさんいて、大賑わいです。

池の宮2
大正時代の満濃池のユル抜き風景
角度を変えて、池の宮の上の岡から移した写真のようです。左側が堰堤で、その右側に池の宮の建物と森が見えるようです。拝殿が堤防に併行方向に建っているように見えます。手前下で見物している人達は笠を指しているので雨が降っているのでしょうか。そのしたに流れがあるようにも見えますが、余水吐は移動して、ここにはないはずなのです。最後の一枚です。

大正時代のユル抜き 池の宮
大正時代の満濃池のユル抜き風景と池の宮
手前の一番ユルに若衆がふんどし姿で上がっています。長い檜の棒で、ユルを開けようとしています。それを白い官兵達が取り囲んで、その周りに多くの人達が見守っています。背後の入母屋の建物が池の宮の拝殿だったようです。明治以後、1914年に赤レンガの取水塔が出来るまでは、こうして池の宮前でユル抜きが行われていたようです。取水塔ができてユルは姿を消しますが、池の宮は堰堤の上にあったのです。それが現在地に移されるのは、戦後のことです。そして、池の宮の後は、削り取られ更地化されて、湖面の下に沈んでいったのです。以上をまとめておきます。
①中世の満濃池は決壊し、池跡には池之内村が現れていた。
②堤防跡に、その水神として祀られていたのが「池の宮」である。
③西嶋八兵衛による再築後は、満濃池の祭神として人々の信仰をあつめた
④池の宮は、堤防改築期に定期的に改修されるようになった。
⑤池の宮では滝宮念仏踊り七箇村組の踊りが、滝宮への踊り込みの前に奉納されていた。
⑥明治になると「神野神社」とされ、式内社の論社となった。
⑦大正時代にレンガ製の取水塔ができるまでは、満濃池のユル抜きは池の宮前の一番ユルで行われていた。
⑧戦後の堤防嵩上げ工事で、池の宮の鎮座していた丘は削り取られ更地化されて湖面に沈んだ。
⑨池の宮は神野神社として現在地に移転し、本殿などが新築された。

今日はこのあたりにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 満濃池名勝調査報告書 2019年3月まんのう町教育委員会
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琴平と高松の人達を案内して、満濃池を「散策学習」することになりました。そのために説明に使う絵図をアップしておきたいと思います。これらの絵図をスマホで見ながら、説明等を行いたいという目論見です。まず、ため池の基本的な施設を確認しておきます。

ため池の施設
ため池の施設
蓄えた水は、③ユル→② 竪樋→③底樋→④樋門を通じて用水路に流されます。また、満水時のオーバーフローから堤防を守るための「うてめ(余水吐け)」が設けられています。

 底樋1
              仁池の底樋

現在のため池に使われている底樋です。コンクリート製なので水が漏れることもありませんし、耐久性もあります。しかい、江戸時代はこれが木製でした。満濃池の底樋や 竪樋の設計図が残されています。

満濃池底樋と 竪樋

文政3年の満濃池の設計図です。底樋にV字型に 竪樋がつながれて、堰堤沿いに上に伸びています。その 竪樋の上に5つのユルが乗っています。別の図を見てみましょう。

P1240778

       讃岐国那珂郡七箇村満濃池 底樋 竪樋図
同じ構造ですが、
底樋には木箱のような樋が使われていたことが分かります。そして堤防の傾斜にそって 竪樋がV字型に伸ばされ、丸い穴が見えます。その穴の上にユルからのびた「スッポン(筆の木)」と呼ばれる大きな詮がぶら下がっています。これで穴を塞ぐというしくみです。底樋や竪樋は、当時の最先端技術でハイテクの塊だったようです。畿内から招いた宮大工達が設計図を書いて、設置に携わりました。


満濃池樋模式図
満濃池の底樋と竪樋・ユルの模式図

この模型がかりん会館にはあります。

満濃池 底樋・ 竪樋模型
満濃池の底樋と竪樋・ユル(かりん会館)
水が少なくなっていくと、上から順番にユルが抜かれていきます。満濃池のユルは、どれくらいの大きさがあったのでしょうか
 大正時代のユル抜きシーンの写真が残されています。

大正時代のユル抜き 池の宮
取水塔が出来る以前のユル抜きシーン 後が池の宮

 この写真でまず押さえておきたいのは、ユルの背後に池の宮(現神野神社)の拝殿があることです。池の宮の前に、ユルがあったことを押さえておきます。ユルに何人もの男達が上がってユルを抜こうとしています。赤や青のふんどし姿の若者達が 竪樋に長い檜の棒を差し込んで、「満濃のユル抜き どっとせーい」の安堵に合わせて、差し込んだ棒をゆっくりと押さえて、てこの原理で「スッポン(筆木:詮)」を抜き上げたようです。それを多くの人たちが見守っています。
 ユルがなくなったのはいつなのでしょうか?

P1240742
満濃池の取水塔(1914年)
 取水塔ができるのが大正3年(1914)で、今から約110年前です。それまでは木製ユルが使われていました。

満濃池赤煉瓦取水塔 竣工記念絵はがき1927年
満濃池の赤レンガ取水塔

 次に満濃池の歴史を見ていくことにします。
満濃池は空海が築いたとされます。それを描いた絵図を見てみましょう。

満濃池 古代築造想定復元図2
空海の満濃池改修の想定画(大林組)

 大手ゼネコンの大林組の技術者たちが描がいたものです

A 空海が①岩の上で護摩祈祷していますこの岩は後には、「護摩壇岩」と呼ばれることになります。

B アーチ状に伸ばされてきた堤防が、真ん中でつながれ、③底樋が埋められています工事も最終局面にさしかかっています。

C 池の内側には ④竪樋と5つのユルが出来上がっています。

D 池の中の⑤採土場からは多くの人間が土を運んでいます。E 堤防は3人一組で突き、叩き固められています。

堤防の両側は完成し、その真ん中に底樋が設置されています。 竪樋やユルも完成し、すでに埋められているようです。
 日本略記によると空海が満濃池修復を行ったのは弘仁(こうにん)2年821年の7月とされます。
約1200年前のことです。ところが
、空海が再築した満濃池も、平安末期には決壊して姿を消してしまいます。そして、池のあった跡は「再開発」され、開墾され畑や田んぼが造られ、「池之内村」が出来ていたようです。ここでは、中世の間、約450年間は満濃池は存在しなかったことを押さえておきます。
 17世紀初頭に、その様子を描いたのが次の絵図です。

まんのう町 決壊後の満濃池

 満濃池跡 堰堤はなく、内側には村が出来ている

A ①金倉川には、大小の石がゴロゴロと転がります。

B 金倉川をはさんで左側が④「護摩壇岩」、右側が②「池の宮神社」

C ③が「うてめ(余水吐)」跡で、川のように描かれています。

D 堤防の内側には、家や水田が見える。これが⑤「池之内村」。ここからは、池の跡には村が出来ていたことが分かります。

ここに満濃池を再築したのが西嶋八兵衛です。

西嶋八兵衛

西嶋八兵衛
西嶋八兵衛の主君は、伊賀藩の藤堂高虎です。当時は、西嶋八兵衛は生駒藩に重臣として出向(レンタル)を主君から命じられていました。このような中で、讃岐では日照りが続いて逃散が頻発します。お家存続の危機です。これに対して、藤堂高虎は農民たちの不満や不安をおさめるためにも、積極的な治水灌漑・ため池工事を進めることを西嶋八兵衛に命じます。こうして、西嶋八兵衛のもとで讃岐各地で同時進行的に灌漑工事が進められることになります。彼の満濃池平面図を見ておきましょう。

西嶋八兵衛の平面図2

西嶋八兵衛の築造図

①護摩壇岩(標高143㍍)と西側の池之宮(140㍍)の丘をアーチ型の堰堤で結んでいる。

②底樋が118m、竪樋41m 堤防の長さは約82m

③その西側に余水吐きがある。

こうして西嶋八兵衛によって、満濃池は江戸時代初期に450年ぶりに姿を見せたのです。彼の業績は大きいと私は思っていますが、その評価はもうひとつです。江戸時代は忘れ去れた存在になっていたようで、そのため正当な評価はされていなかったことが背景にあるようです。

満濃池遊鶴(1845年)2
満濃池遊鶴(まんのう町教育委員会)
こうして西嶋八兵衛によって、阿讃山脈の山麓に巨大な池が姿を現します。これは文人達にも好んでとり上げられるようになり、あらたな「観光名所」へと成長して行きます。そして池の俯瞰図が描かれ、その背後に詩文が添えられたものが数多く発行されるようになります。

当時の底樋や竪樋は木製でした。そのため定期的な改修取り替え工事が必要でした。

満濃池改修一覧表
満濃池改修工事一覧表 21回の工事が行われている

底樋を取り替えるためには、堰堤を一番底まで掘り下げる必要があります。そのためには多大の人力が必要になります。満濃池普請には、讃岐全土から人足が動員されました。
その普請作業の様子を見ておきましょう。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化4
満濃池
御普請絵図
この時の嘉永年間(1848~54)の改修工事は、底樋石造化プランを実行に移す画期的なものでした。そのため工事の模様が数多く残されています。
満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(護摩壇岩) - コピー
満濃池
池普請 高松藩と丸亀藩の監視小屋

①護摩壇岩側には、「丸」と「高」の文字が掲げられた高松藩・丸亀藩の監督官の詰所

②軒下に吊されているのが「時太鼓」。朝、この太鼓が鳴り響くと、周辺のお寺などに分宿した農民たちが、蟻のように堤防目指して集まってきて仕事に取りかかった。
③小屋の前で座って談笑しているのが、農民達を引率してきた庄屋たち。藩を超えた話題や情報交換、人脈造りなどががここでは行われていた。
④四国新道を築いた財田の大久保諶之丞も、明治の再築工事に参加し、最新の土木技術などに触れた。同時に、長谷川佐太郎の生き様から学ぶことも多かった。それが、後に彼を四国新道建設に向かわせる力になっていく。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(底樋) - コピー
底樋に使う石材が轆轤でひかれています

下では石を引いたり、整地する人足の姿が見えます。彼らは藩を超えて讃岐各地から動員された農民達で、7日間程度で働いて交替しました。手当なしの無給で、手弁当で周辺のお寺や神社などの野宿したようです。自分の水掛かりでもないのに、なんでここまえやってきた他人さまの池普請をやらないかんのかという不満もありました。そんな気持ちを表したのが「いこか まんしょか まんのう池普請」でというザレ歌です。
現場を見ると、底樋の石材化のために四角く加工された石柱が何本も運び込まれています。牛にひかせたもの、修羅にのせたものをろくろを回して引っ張りあげる人夫達。川のこちら側では、天下の大工事をみるために旦那達がきれいどころを従えて、満濃池の普請見物にやって来ているようです。

満濃池決壊拡大図 - コピー
満濃池の中を一筋に流れる金倉川と「切堤防」
ところがこの時の底樋石材化プランには、工法ミスと大地震が加わり、翌年夏に堰堤が決壊してしまいます。そして、その後明治になるまで、決壊したまま放置されるのです。上の絵図は、空池となった満濃池跡を金倉川流れている姿です。
IMG_0010満濃池決壊と管製図
満濃池堰堤決壊部分、下が修理後の姿
満濃池が再築されるのは、幕末の混乱を終えて明治になってからです。
再建の中心として活躍したのは榎井の庄屋・長谷川佐太郎でした。
彼は「底樋石材化」に代わって、「底樋隧道石穴化」プランで挑みます。それは、うてめ(余水吐け)部分が固い岩盤であることを確認して、ここに隧道を通して底樋とするというものです。成功すれば、底樋のメンテナンスから解放されます。

軒原庄蔵の底樋隧道
明治の満濃池底樋隧道化案
この経緯については、以前にお話ししたので省略します。完成した長谷川佐太郎の平面図を見ておきましょう。

長谷川佐太郎 平面図
満濃池 明治の長谷川佐太郎の満濃池平面図

①旧余水吐き附近の岩盤に穴を開けて底樋を通した

②そして竪樋やユルも堤防真ん中から、この位置に移した。

③そのため一番ユルは、池の宮前に姿を見せるようになった。

④余水吐きは、現在と同じ東側に開かれた

大正時代になると、先ほど見た取水塔が池の中に姿を見せます。

P1240743
満濃池
取水塔(1914年)

約90年前に姿を見せた取水塔です。この取水塔によって、 竪樋やユルも底樋に続いて姿を消すことになります。引退した後のユルの一部がかりん会館にありますから御覧下さい。


P1260786
ユルの先に付けられていたスッポン(筆木)
実際に見てみると、その大きさに驚かされます。また下の 竪樋は厚い一枚板が使用されています。ここからごうごうと、水が底樋を通じて流れ出ていました。
 江戸時代と現在の満濃池の堰堤を断面図で比べて見ます。

満濃池堤防断面図一覧
満濃池堰堤の断面図比較

戦後1959年になると、貯水量の大幅増が求まれるようになります。そのために行われたのが堰堤を6m高くし、横幅も拡げ貯水量を増やす工事でした。断面図で比較しておきましょう

①が西嶋八兵衛 ②が昭和の大改修 が1959年の改修です。現在の堰堤が北(右)に移動して、高くなっています。この結果、池之宮(標高140m)は水の中に、沈むことになります。それよりも高い護摩壇岩(標高143m)は、今も頭だけ残しています。これも空海信仰からくるリスペクトだったのかもしれません。

満濃池 1959年版.jpg2
959年改修の満濃池平面図

①護摩壇岩は小さな島として、頭だけは残した。

池の宮は水没(標高140m)し、現在地に移転し、神野神社と呼ばれるようになった。

③堰堤の位置は、護摩壇岩の後に移され、堤防の長さも81㍍から155㍍へ約倍になった。

そして堰堤のアーチの方向が南東向きから南西向きに変わりました。この結果、堰堤に立つって讃岐山脈方面を見ると正面に大川山が見えるようになった。
最後に、明治初年に満濃池が再建される際に書かれた分水図を見ておきます。

満濃池分水網 明治

満濃池水掛村々之図(1830年)

これを見ると満濃池の分水システムが見えて来ます。
満濃池と土器川と金倉川を確認します。土器川と金倉川は水色で示されていないので、戸惑うかも知れません。当時の人たちにとって土器川や金倉川は「水路」ではなかったようです。
②領土が色分けされています。高松藩がピンク色で、丸亀藩がヨモギ色、多度津藩が白です。そして、水掛かりの天領が黄色、金毘羅大権現の寺領が赤になります。

③私はかつては高松藩と丸亀藩の境界は土器川だと思っていた時代が長くありました。それは、丸亀城の南に広がる平野は丸亀藩のものという先入観があったからです。しかし、ピンク色に色分けされたピンク領土を見ると、金倉川までが高松藩の領土だったことがわかります。丸亀城は高松藩の飛び地の中にあるように見えます。満濃池の最大の受益者は高松藩であることが分かります。

④丸亀平野全体へ用水路網が整備されていますが、丸亀藩・多度津藩は、水掛かり末端部に位置し、水不足が深刻であったことがうかがえます。

まんのう町・琴平町周辺を拡大して見ましょう。

満濃池分水網 明治拡大図


①満濃池から流れ出た水は、③の地点で分水されてます流れを変えられました。ここに設けられたのが水戸大横井です。現在の吉野橋の西側です。パン屋さんのカレンの裏になります。

②ここでは、コントロールできるだけの水量を取り込んで④四条公文方面に南流させます。一方、必要量以上の水量は金倉川に放水します。そのため夏場は、ほとんどの水が④方向に流され、金倉川は涸川状態となります。④方面に流された水は、五条や榎井・苗田の天領方面に、いくつもの小さな水路で分水されます。この絵図から分かるのは、この辺りの小さな水路は満濃池幹線から西に水がながされていることです。

③さらに④の高篠のコンビニの前で分水地点でされます。④南流するルートは公文を経て垂水・郡家・田村・津森・丸亀方面へ水を供給していきます。

⑤一方、④で北西に伸びる用水路は天領の苗田を経て、⑤で再び金倉川に落とされます。そして、⑥でふたたび善通寺方面に導水されます。
 当たり前のことですが用水路が整備されないと、水はきません。西嶋八兵衛の活動は、満濃池築造だけに目がいきがちですが、同時に用水路整備も併行して行われていたはずです。

西嶋八兵衛の満濃池と用水路

西嶋八兵衛の取り組んだ課題は?

 中世までの土器川や金倉川・四条川は幾筋もの流れを持つ暴れ川でした。これは、下の地図からもうかがえます。それをコントロールして、一本化しないと用水路は引けないのです。

満濃池用水路 水戸
国土地理院地形図 土地利用図に描かれた水戸周辺の河川跡
そのための方法が、それまで土器川と併流していた四条川を③の水戸大横井で西側へ流すための放水路としての「金倉川」の整備です。そして、それまでの四条川をコントロールして、「満濃池用水路化」したと私は考えています。「消えた四条川、造られた金倉川」については、新編丸亀市史の中でも取り上げられています。
さらに推測するなら、空海もこれと同じ課題に直面したはずです。
つまり、用水路の問題です。空海の時代には、大型用水路は以前にお話ししたように丸亀平野からは出てきていません。出てきてくるのは、幾筋もに分かれて流れる土器川、金倉川です。また、条里制も川の周囲は放置されたままで空白地帯です。土器川をコントロールして、満濃池からの水を何キロにもわたって流すという水利技術はなかったと研究者は考えるようになっています。そうすると空海が満濃池をつくっても丸亀平野全体には、供給できなかったことになります。空海が改修した満濃池は、近世に西嶋八兵衛が再築したものに比べると、はるかに小さかったのではないかと私は考えるようになりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

満濃池史 満濃池土地改良区五十周年記念誌(ワーク・アイ 編) / りんてん舎 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献 満濃池史 満濃池土地改良区50周年記念誌
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満濃池堰堤図2
満濃池堰堤周辺図
 前回は、説明だけで歩かないまま終わってしまいました。昨日・今日と実際に、琴平や高松の人達と歩いてきたので、その報告記を載せておきます。スタートは堰堤の東端の①余水吐け(うてめ)です。

満濃池余水吐け
満濃池余水吐け 満水時にオーバフローする
満濃池に御案内すると、「今はどのくらい水が溜まっている状態なのですか?」とよく聞かれます。この余水吐けを水が越えていれば満水状態と云うことになります。それでは、ここから流れ出た水は、どこにいくのでしょうか?それをたどって見ることにします。

 満濃池 高松藩執政松崎渋右衛門の辞世の歌
明治の満濃池再築の功労者・松崎渋右衛門の辞世の歌 
余水吐けの後に神野神社への階段があります。その東側に、松崎渋右衛門の歌碑があり、その横に散策路の入口があります。この散策路に入っていきます。      

P1260712
堤防から下に続く散策路

標高差30mほどで堰堤から金倉川まで下りてきました。
P1260714
満濃池堤防下の遊歩道
堤防の下まで下りてきました。正面に満濃池の堰堤が見えます。


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        下から見る満濃池の堰堤
正面が堰堤です。現在の堰堤は、1959年の嵩上げ工事で、6m高くなり、32mの高さがあります。見上げるような感じです。

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満濃池余水吐の排水口
ここで左手を見上げると、岩盤があり、その上に穴が空いています。これが先ほど見た余水吐きの出口になります。満水で余水吐きを越えた時には、次のような光景が見られるようです。
満濃池余水吐きからの落水
余水吐け出口からの落水(満濃池のまぼろしの瀧?)
この光景は、満濃池が満水になって大雨が降った後でないと見れません。そのため年間で十数回程度で「幻の瀧」とも云われています。興味のある方は、チャンスをみて見に来て下さい。

P1270153
      満濃池余水吐からの落水(2024年6月28日)
梅雨の大雨続きで、迫力ある「満濃池のまぼろしの滝」でした。


満濃池 現状図
満濃池堰堤周辺の構造物位置
位置を確認しておくと、③の余水吐きから神野神社の下に掘られたトンネルと経て、この岩場を金倉川に向かって流れ落ちていることになります。さて、正面の堰堤に視線をもどしてみます。


P1260722

 石垣が積み上げられ、穴が空いている部分があります。これが満濃池の⑤樋門です。用水塔から取り込まれた水は、ここから流れ出てくることになります。

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6月13日の満濃池のゆる抜き
IMG_2773
満濃池の樋門
ここで質問 江戸時代の樋門は、堰堤のど真ん中にありました。それが、どうして右端に移されたのでしょうか?
満濃池普請絵図 嘉永年間石材化4
江戸時代最後となった嘉永年間の工事も、底樋は堰堤の真ん中に据えられています。しかし、現在の満濃池の樋門は西側にあります。

満濃池 1959年版.jpg2
1959年の嵩上げ工事後の満濃池
 それは明治の再建工事の際に、岩盤にトンネルを掘って底樋とする「底樋トンネル化」が採用されたからです。そのため固い岩盤がある現在のルートが選ばれます。上図のように、取水塔と樋門はトンネルで一直線に結ばれるようになります。樋門が西側にやってきたのは、明治の「底樋トンネル化」プランの結果のようです。

P1260730
満濃池樋門(ひもん)と登録有形文化財プレート
樋門の説明文を拡大してみます。
満濃池樋門2
満濃池底樋の登録文化財認定の説明文
ここからは、次のようなことが分かります。
①満濃池の底樋管は、軒原庄蔵によって掘られた。
②全長197mで、取水塔と樋門が底樋隧道で結ばれている
③抗口には列柱レリーフなどの装飾が施されている
①の軒原庄蔵の掘った「底樋隧道」とは、どんなものだったのでしょうか?
軒原庄蔵の底樋隧道
       満濃池 軒原(のきはら)庄蔵の掘った「底樋石穴」
岩盤に底樋用の石穴を開ける工事は、寒川郡富田村の庄屋、軒原庄蔵が起用されます。彼は寒川の弥勒池の石穴を貫穿工事に成功した実績を持っていました。上図を見ると木製底樋に竪樋がV字型に伸ばされ、その上にユルが5つ組まれています。一番上のユルが一番ユルです。それは、「池の宮」の前に位置しています。また底樋トンネルも「池の宮」の地下を通っていることが分かります。
 取水塔が出来る前のユル抜きの写真を見てみましょう。
池の宮の前の一番ユル
       満濃池のユル抜き 取水塔ができる前
①ユルの上に多くの人足が上がって、ユルを抜こうとしている。それを見守る見物人
②背後の建物が池の宮、白い制服姿が官兵・軍人(?) 池の宮の前にユルがあったことが分かる。
③この後、大正14年に取水塔ができて、木製のユルは姿を消した。
満濃池堤防断面図一覧
現在の堰堤(1959年)は、6m嵩上げされている
前回に戦後の改修でも、堤防が嵩上げされたことをお話ししました。その嵩上げ中の写真を見ておきましょう。

満濃池1951年本堤
昭和26(1951)年の満濃池堤防

1952年満濃池
昭和27(1952)年の満濃池堤防
1953年満濃池堤防
昭和28(1953)年の満濃池堤防
堤防が年々嵩上げされていたことが分かります。同時に、堰堤工事のために周辺の山から土が切り出されていたようです。

DSC03848
昭和
26(1951)年 満濃池の工事現場

P1260736
蛍の里公園からの満濃池堰堤
今回は満濃池堰堤の下側を散策してみました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 満濃池史

  前回は文献的問題から研究者が「空海が満濃池を築造した」と断定しないことをお話ししました。今回は、考古学的な立場から当時の治水・灌漑技術が丸亀平野全域に用水を送ることが出来る状態ではなかったことを見ていくことにします。                           

古代に空海が満濃池を築造したとすれば、越えなければならない土木工学上の問題が次の3つです。
①築堤技術
②治水技術
③灌漑用水網の整備
①については、大林組が近世に西嶋八兵衛が満濃池を再築した規模での試算がネット上に公表されています。これについては技術的には可能とプロジェクトチームは考えているようです。

満濃池 古代築造想定復元図2

②の治水工事のことを考える前に、その前提として当時の丸亀平野の復元地形を見ておきましょう。20世紀末の丸亀平野では、国道11号バイパス工事や、高速道路建設によって、「線」状に発掘調査が進み、弥生時代から古代の遺跡が数多く発掘されました。その結果、丸亀平野の形成史が明らかになり、その復元図が示されるようになります。例えば、善通寺王国の拠点とされる旧練兵場跡(農事試験場 + おとなと子供の病院)周辺の河川図を見てみましょう。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
善通寺旧練兵隊遺跡周辺の河川
 これを見ると次のようなことが分かります。
①善通寺市内には、東から金倉川・中谷川・弘田川の支流が幾筋にも分かれて、網の目のように流れていた。
②その微高地に、集落は形成されていた。
③台風などの洪水が起きると、金倉川や土器川は東西に大きく流れを振って、まさに「暴れ龍」のような存在であった。
このような状況が変化するのは中世になってからのことで、堤防を作って治水工事が行われるようになるのは近世になってからです。放置された川は、龍のように丸亀平野を暴れ回っていたのです。  これが古代から中世にかけての丸亀平野の姿だったことは以前にお話ししました。

飯山町 秋常遺跡 土地利用図
 土器川の大束川への流れ込みがうかがえる(飯野山南部の丸亀市飯山町の土地利用図)

古代から中世にかけての丸亀平野では、いくつもの川筋が網の目のようにのたうち回りながら流れ下っていたこと、それに対して堤防を築いて、流れをコントロールするなどの積極的な対応は、余り見られなかったようです。そうだとすれば、このような丸亀平野の上に満濃池からの大規模灌漑用水路を通すことは困難です。近世には、満濃池再築と同時に、金倉川を放水路として、四条川(真野川)の流れをコントロールした上で、そのうえに灌漑用水路が通されたことは以前にお話ししました。古代では、そのような対応がとれる段階ではなかったようです。
 丸亀平野の条里制については、次のような事が分かっています
①7世紀末の条里地割は条里ラインが引かれただけで、それがすぐに工事につながったわけではない。
②丸亀平野の中世の水田化率は30~40%である。
丸亀平野の条里制.2
 かつては「古代の条里制工事が一斉にスタートし、耕地が急速に増えた」とされていました。しかし、今ではゆっくりと条里制整備はおこなわれ、極端な例だと中世になってから条里制に沿う形で開発が行われた所もあることが発掘調査からは分かっています。つまり場所によって時間差があるのです。ここでは、条里制施工が行われた7世紀末から8世紀に、急激な耕地面積の拡大や人口増加が起きたとは考えられないことを押さえておきます。
 現在私たちが目にするような「一面の水田が広がる丸亀平野」という光景は、近代になって見られるようになった光景です。例えば、善通寺の生野町などは明治後半まで大きな森が残っていたことは以前にお話ししました。古代においては、条里制で開発された荒地は縞状で、照葉樹林の中にポツンぽつんと水田や畠があったというイメージを語る研究者もいます。丸亀平野の中世地層からは稲の花粉が出てこない地域も多々あるようです。そのエリアは「稲作はされていなかった=水田化未実施」ということになります。

弥生時代 川津遺跡灌漑用水路
川津遺跡の灌漑水路網
最後に灌漑技術について、丸亀平野の古代遺跡から出てくる溝(灌漑水路)を見ておきましょう。
どの遺跡でも、7世紀末の条里制施行期に灌漑技術が飛躍的に発展し、大型の用水路が現れたという事例は見つかっていません。潅漑施設は、小さな川や出水などの小規模水源を利用した弥生期以来の潅漑技術を応用したものです。この時期に灌漑技術が飛躍的に向上したということはないようです。
 大規模な溝(用水路)が出てくるのは、平安末頃以降です。
丸亀平野の川西地区、郡家地区、龍川地区では地割に沿って、大きな溝(用水路)が出てきました。大規模な溝が掘られるようになったことからは、灌漑技術の革新がうかがえます。しかし、この規模の用水路では、近世の満濃池規模の水量を流すにはとても耐えれるものではありません。丸亀平野からは、満濃池規模の大規模ため池の水を流す古代の用水路跡は出てきていません。
ちなみに、この時期の水路は条里制の坪界に位置しないものも多くあります。この理由を研究者は次のように考えています。
 小河川の付替工事の場合を考えると、より広い潅漑エリアに配水するためには、それまでは、小規模な溝を小刻みに繋いでいく方法が取られていました。それが大規模用水路を作る場合には、横方向の微妙な位置調整が必要となります。田地割がすでに完成している地域では、それまでの地割との大きなずれは避け、地割に沿って横方向に導水する水路が必要が出てきます。これが平安期以後に横軸の溝が多く作られるようになった理由と研究者は考えています。
ここでは次の点を押さえておきます。

「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」

 以上から以下のように云えます。
①古代は暴れ川をコントロールする治水能力がなかったこと
②大規模な灌漑用水整備は古代末以後のこと
つまり8世紀の空海の時代には、満濃池本体は作ることができるとしても、それを流すための治水・灌漑能力がなかったということになります。大きな池が造られても灌漑用水路網を整備・管理する能力がないと、水はやってきません。「奈良時代に作られ、空海が修復したという満濃池が丸亀平野全体を潤した」というのは「古代の溝」を見る限りは、現実とかけ離れた話になるようです。

満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
近世の満濃池の灌漑用水網

 しかし、今昔物語などには満濃池は大きな池として紹介されています。実在しなければ、説話化されることはないので、今昔物語成立期には満濃池もあったことになります。これをどう考えればいいのでしょうか。もし、満濃池が存在したとしても、それは私たちが考える規模よりも遙かに小さかったのかもしれません。満濃池については、私は分からないことだらけです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 琴平町に三水会という昔から活発な活動を続ける郷土史探究会があります。そこで満濃池についてお話しする機会がありました。しかし、資料も準備できず、ご迷惑をおかけしたと反省しています。そこで伝えきれなかったことの補足説明も込めて、文章にしておきます。

  満濃池の築造については、一般的に次のように記されるのが普通です。
「当時の讃岐国司が朝廷に対し、満濃池修築の別当として空海を派遣することを求め、その求めに応じた空海が短期間に築造した」

そして地元では「空海が造った満濃池」と断定的に語られることが多いようです。
 しかし、研究者たちは「空海が造ったと言われる満濃池」とぼかして、「空海が造った」と断定的には言わない人が多いようです。どうして「空海が造った満濃池」と云ってくれないのか。まんのう町の住民としては、気になるところです。知り合いの研究者に、聞いてみると次のような話が聞けましたので、紹介しておきます。
 空海=満濃池築造説は、どんな史料に基づいているのでしょうか?

新訂増補 国史大系10・11 日本紀略 前編/日本紀略 後編・百錬抄(黒板勝美編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

それは日本紀略(にほんきりゃく)です。「弘仁十二年(821)七月二十五日の条」に、次のように記されています。
 讃岐国言、始自去年、提万農池、工大民少、成功末期、僧空海、此土人也、山中坐禅、獣馴鳥狗、海外求道、虚往実帰、因茲道俗欽風、民庶望影、居則生徒成市、出則追従如雲、今離常住京師、百姓恋慕如父母、若聞師来、必倒履相迎、伏請宛別当、令済其事、許之 (以下略)
意訳変換しておくと        
 讃岐国司から次のような申請書が届いた。去年より万農池を堤防工事を開始したが、長さは広大であるが、動員できる民は少なく、成功は覚束ない。空海は、讃岐の土人であり、山中に坐禅せば、獣が馴れ、鳥が集まってくる。唐に留学し、多くのものを持ち替えた。空海は、讃岐で徳の高い僧として名高く、帰郷を待ち望んでいる。もし、空海が帰って満濃池工事に関わるならば、民衆はその姿を見るために雲が湧くように多数が満濃池の工事現場にあつまるだろう。空海は今は讃岐を離れ、京師に住むという。百姓は父母のように恋慕している。もし空海がやってくるなら、必ず人々は喜び迎え、工事にも望んで参加するであろう。願わくば、このような事情を考え見て、空海の讃岐帰郷が実現するように計らって欲しいと。この讃岐からの申請書に、許可を与えた。

ここに書かれていることを、そのまま信じると「空海=満濃池築造説」は揺るぎないように思えます。しかし、日本紀略の「素性」に研究者は疑問を持っているようです。この書は、正史のような文体で書かれていますが、そうではないようです。平安時代に編纂された私撰歴史書で、成立時期は11世紀後半から12世紀頃とされますが、その変遷目的や過程が分かりません。また編者もわかりませんし、本来の書名もはっきりしないのです。つまり、同時代史料でもない2百年以後に編纂されたもので、編者も分からない文書ということになります。
 お宝探偵団では、「壺や茶碗は由緒が書かれた箱に入っていてこそ価値がある」ということがよく言われますが、文書も一緒です。それを書いた人や由来があってこそ信頼できるかどうかが判断できます。そういう意味からすると研究者にとっては「日本紀略」は同時代史料でもなければ、正史でもない取扱に注意しなけらばならない文書と捉えられているようです。「信頼性の高い歴史書」とは、研究者達はみなしていないようです。

弘法大師行化記
藤原敦光の「弘法大師行化記」
 研究者がなにかを断定するときには、それを裏付ける史料を用意します。
日本紀略と同時代の11世紀に書かれた弘法大師の説話伝承としては次のようなものがあります。
①藤原敦光の「弘法大師行化記」
②「金剛峯寺建立修行縁起」
③経範の「弘法大師行状集記」(1089)
④大江匡房の「本朝神仙伝」
この中で、空海の満濃池築造については触れているのは、①の「弘法大師行化記」だけです。他の書には、満濃池は出てきません。また満濃池に触れている分量は、日本紀略よりも「弘法大師行化記」の方がはるかに多いのです。その内容も、日本紀略に書かれたことをベースにして、いろいろなことを付け加えた内容です。限りなく「弘法大師伝説」に近いもので「日本紀略」を裏付ける文書とは云えないと研究者は考えているようです。つまり「裏がとれない」のです。

これに対して「空海=満濃池非関与」をうかがわせる史料があります。
萬農池後碑文

それが「萬農池後碑文」(まんのうのいけのちのひぶみ)で、名古屋市真福寺所蔵「弘法大師伝」の裏書に残されていて、『香川叢書』に載せられています。碑文の最後には寛仁四年歳時庚申(1020)年の期日が記されてるので、日本紀略と同時代の史料になります。碑文の内容は、次の通りです。
① 満濃池の築造の歴史
② 讃岐国主の弘宗王が仁寿年間の(851~854)に行った築造工事の概要
③ その際に僧真勝が行った修法について
内容的には弘宗王の満濃池修復の顕彰碑文であることが分かります。
内容については以前にお話したので、詳しくはこちらを御覧下さい。


この碑文には、弘仁年間の改修に空海のことは一言も出てきません。讃岐国守弘宗王が築造工事をおこなった事のみが記されています。
つまり同時代史料は、空海の「空海=満濃池築造説」を疑わせる内容です。
以上を整理しておくと
①「空海=満濃池築造説」を記す日本紀略は、正史でも同時代史料でもない。
②日本紀略の内容を裏付ける史料がない
③それに対して同時代の「讃岐国萬濃池後碑文」は、「空海=満濃池築造説」を否定する内容である。
これでは、研究者としては「空海が築造した満濃池」とは云えないというのです。次回は考古学検地から見ていきたいと思います。
  満濃池年表 満濃池名勝調査報告書178Pより
大宝年間(701-704)、讃岐国守道守朝臣、万農池を築く。(高濃池後碑文)
818(弘仁9)万農池が決壊、官使を派遣し、修築させる。(高濃池後碑文)
820 讃岐国守清原夏野、朝廷に万農池復旧を伺い、築池使路真人浜継が派遣され復旧に着手。
821 5月27日、万農池復旧工事が難航していることから、築池使路真人浜継らの申請により、 改めて築池別当として空海派遣を要請。ついで、7月22日、費用銭2万を与える。(弘法大師行化記。日本紀略)その後、7月からわずか2か月余りで再築されたと伝わる。
851 秋、大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊する。(高濃池後碑文)
852 讃岐国守弘宗王が8月より万農池の復旧を開始。翌年3月竣工。人夫19,800人、稲束12万束、俵菰6万8千枚を使用(高濃池後碑文)
881 万農池神に従五位を授けられる。(三代実録)
927  神野神社が式内社となる。
947 讃岐国守源正明、多度郡道隆寺の興憲僧都に命じ、万濃池の地鎮祈祷を行わせる。これ以前に決壊があったと推測される。
平安時代成立の「日本紀略」に空海の満濃池修築が記される。
1020 萬濃池後碑が建立。
1021「三代物語」「讃岐国大日記」に「讃岐那珂郡真野池始めて之を築く」とある。これ以前に廃池となり、この時に、復旧を始めたと推測される。
1022 再築(三代物語。讃岐国大日記)
 平安時代後期成立の「今昔物語集」に満濃池が登場
1184 5月1日、満濃池、堤防決壊。この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。池の内に集落が発生し、「池内村」と呼ばれる。
1201 「高濃池後碑文」成立。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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満濃池「讃岐国名勝図会」池の宮

 災害記録から色々なことを学び防災に役立てようという動きが広まっています。歴史に学ぶという視点で幕末の満濃池の決壊を見てみましょう。ペリー来航の翌年1854年7月に満濃池は決壊します。これについては「大地震の影響説」と「工法ミス説」があります。通説は「地震影響説」で各町史やパンフレットはこの立場です。しかし、近年見つかった史料は、工法上の問題があったことを示しています。

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満濃池の底樋と竪樋とゆる
長谷川喜平次の提案で木樋から石樋へ 
 満濃池の底樋は、かつては木製で提の下に埋められました。そのため数十年ごとに交換する必要がありました。この普請は大規模なもので、讃岐国全土から人々が駆り出されました。そのために「行こうか、まんしょうか、満濃池普請、百姓泣かせの池普請」というような里謡が残っています。
満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(補足)

 このような樋管替えの負担を減らしたいと考えていた榎井村庄屋の長谷川喜平は、木製樋管から石材を組み合わせ瓦石製の樋管を採用することにしました。その時に決壊時に流された石材が金倉川から改修工事で見つかっています。
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満濃池の石造底樋官(まんのう町かりん会館)
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工事は嘉永二(1849)年の前半と、嘉永6(1853)年の後半の二期に分けて行われます。この画期的な普請事業の完成に喜平次は
「伏替御普請、奉願上書面之通、丈夫二皆出来候」
と誇らかに役所へ報告しています。これで樋管替の普請から解放されるという思いが伝わってきます。

 しかし、近年に榎井村の百姓総代が倉敷代官所へ提出した文書が直島の庄屋から見つかりました。そこには次のように書かれています。
「石樋の接合のために、前回の普請箇所を掘った所、土圧等により石樋の蓋の部分が十三本、敷石が三本破損していた。(中略)そのため、上下に補強用の桟本を敷き、その上に数千貫の大石を置いたが、桟本が腐って折れると、上に置かれた大石の重さで蓋石が折れ、石樋内に流れ込み、上が詰まってしまい堰堤は崩れるであろう。」

 これ以外にも関係者からは、次のようなという風評があったようです。
「破損部分が見つかっており、それに対して適切な処置ができておらず、一・二年以内に池が破損するだろう」

つまり、木樋から石樋に変えた画期的な普請は、関係者の間では「欠陥工事」という認識があったのです。
 三 嘉永7年7月9日 満濃池決壊
 嘉永六(1853)年11月普請がようやく終ります。翌年のゆる抜きも無事終え、田植えが行われました。その後、6月14日に強い地震が起こり、7月5日に池守りが底樋の周辺から濁り水が噴出しているのを発見します。そして4日後には、堤防は決壊するのです。
この後、満濃池は16年間、明治維新を迎えるまで決壊したまま放置されるのです。どうして修復されなかったのでしょうか?  それはまた次回に・・。

満濃池結果以後1869
決壊したまま放置された満濃池 池の中を金倉川が流れる
 
参考文献 芳渾直起 嘉永七年七月満濃池決壊 香川県立文書館紀要
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満濃池 底樋

満濃池の樋(ユル)は木製でしたので、定期的に交換しないと朽ちて堤が崩壊してしまいます。そのために堤を何カ所に分けて、数年ごとに樋替え普請(工事)が行われました。これには、水掛かりに関係なく讃岐全域から人々が動員されました。つまり、三豊や高松の農民も動員されたのです。大きな出費や労力を負わされた人々は
「行こか まんしょか(やめようか) 満濃普請 百姓泣かせの池普請」
と歌ったといいます。

ため池普請2

 大野原(観音寺市)の井関村庄屋・佐伯家には、文政三(1820)年の池普請に参加した佐伯民右衛門が残した「満濃池御普請二付庄屋出勤覚書」があります。この記録から池普請に動員された人たちを見てみましょう。
 この時の普請は、堤の外側を掘り下げ、木製底樋の半分を交換するものでした。現在の観音寺市大野原町の和田組の村々からは、約三百名の人足が動員されています。その監督役として、民右衛門は箕浦の庄屋小黒茂兵衛と満濃池にやってきます。九月十二日の早朝に出立した人足集団は、財田川沿いの街道をやって来て昼下がりに宿泊地に指定された帆山(旧仲南町帆山)に到着します。そして、丸亀藩役人衆への挨拶に行っています。ちなみに帆山までが丸亀藩、福良見は高松藩でした。ここに当時の「国境」があったのです。そのため丸亀領の帆山の寺院などに分宿したようです。食料持参の自炊で、手弁当による無償動員なのです。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(補足)

 翌日、太鼓の合図で周囲に分宿していた人たちが集まってきます。それが「蟻が這うように見えた」と記します。十三日は雨天で工事は休み、十四日もぬかるみがひどく休日。十五、十六両日は工事を実施。和田組村々の人足は、三班に分かれて工事を行っています。
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 ところが事件が発生します。和田組の人夫が立入禁止区域に入って、用を足したことを見咎められ、拘束されたのです。これを内済にしようと、民右衛門は奔走。その結果、池御料側の櫛梨村庄屋庄左衛門らの協力により、ようやく内々に処理することにこぎつけます。そのためか十六日は、事件を通じて顔見知りになった櫛梨村と和田組村々の人足が、同じ班に入って作業を行っています。

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 同日昼下がりに、民右衛門は五日間の役目を終え、夜更けに帰宅しています。庄屋として責任を果たし、安堵したことでしょう。
 三豊の百姓にとって自分たちの水掛かりでもない満濃池の普請に、寝泊まりも不便な土地でただ働きをさせられるのですから不満や不平が起きるのは当たり前だったのかも知れません。しかし、一方で民右衛門のように「事件」を通じて他領他村の人々との交流が生まれ、人的なネットワークが形成されるきっかけにもなりました。また満濃池普請という当時の最先端技術についての情報交換の場になり、地元での土木工事に生かされるという面もあったようです。財田の大久保諶之丞も若い頃に、この普請に参加して土木工事技術を学んだようです。それが後の四国新道工事に活かされていきます。
満濃池遊鶴(1845年)
満濃池遊鶴図(1845年) 
当時は鶴が池のまわりを舞っていたようです

  参考文献 大野原町史

  満濃池 西嶋八兵衛復興前1DSC00813
  
 幕末の「讃岐国名勝図会」には、源平の戦いの最中の元暦元年(1184)の大洪水で決壊してから、満濃池跡は
「五百石ばかりの山田となって人家なども建ち、池の内村と呼ばれた」
と記しています。それでは、満濃池はどのようにして再築されたのでしょうか。「満濃池営築図」を見ながら再築の様子を追ってみましょう。
まんのう町 満濃池営築図jpg
 この図絵に描かれているのは、崩壊から450年間放置された江戸時代初めの堤付近の姿です。
①の上から下に伸びる道路のように見えるのが金倉川で、川の中には石がゴロゴロと転がっています。
②の中央の島のように見えるのが池の宮があった丘で
③の右側の流れは「うてめ」(余水吐)の跡ですが、川のように描かれています。
③金倉川を挟んで、左右に丘があります。古代の満濃池は、この丘を堰堤で結んでいました。
④左(東)側が「護摩団岩」で、空海がこの岩の上に護摩団を築いて祈祷を行ったとされる所です。今は、この岩は満濃池に浮かぶ島となってほとんどが水面下です。
⑤右上の池の内側に当たる所に注目してください。ここに数軒の民家と道、農地を区切るあぜ道が描かれています。これが、池跡にあった「池内村」のようです。
満濃池DSC00881
「うてめ(余水吐け)」の奥には、家屋や田んぼが描かれている

 絵図の上部には、文字がぎっしりと書かれています。ここには寛永5年(1628)10月19日の鍬始め(着工)から、同8年(1631)2月の上棟式(完工)までの日付ごとの工程、奉行・普請奉行の氏名、那珂・宇多・多度3郡の水掛高、そして最後に、西嶋八兵衛による矢原正直との交渉が記されています。
満濃池の再築に向けて、二人の間で何が話し合われたかを推測してみましょう。
再築工事開始の二年前、寛永3年(1626)8月に、生駒藩奉行の西嶋八兵衛が池ノ内村の矢原正直方へやって来た。毎年の日照りについて相談がなされた。そこで、正直は池の内に所持している田地を池の復興のために残らず差し出すことを申し出た。
 つまり、この図に描かれている田畑や家屋が池の内村で、その領主が矢原家であったようです。満濃池を再築するにあたっては、土地の持ち主であり、有力者である矢原家の協力を欠くことができなかったのでしょう。  
 この功績に対して生駒藩は矢原家を満濃池を管理する池守に任じ、同時に池上下において五〇石を与えます。
 「讃岐国名勝図会」の「神野神社の釣燈篭銘文」からは、矢原家の歴代当主が氏神である神野神社の社殿の再建を願主として行っていたことが分かります。つまり、矢原家は池内村の領主であったようです。
 こうして、堰堤が出来上がり水がためられると池の内村は、池の中に姿を消すことになったのです。
満濃池史
大宝年間(701-704)、讃岐国守道守朝臣、万農池を築く。(高濃池後碑文)
820年讃岐国守清原夏野、朝廷に万農池修築を伺い、築池使路真人浜継が派遣され修築に着手。
821年5月、復旧難航により、築池別当として空海が派遣される。その後、7月からわずか2か月余りで再築。
852年秋、大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊
852年8月、讃岐国守弘宗王が万農池の復旧を開始し、翌年3月竣工。
1022年 満濃池再築。
1184年5月、満濃池、堤防決壊。この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。池の内に集落が発生し、「池内村」と呼ばれる。
1628年 生駒藩西嶋八兵衛が満濃池再築に着手。
1531年 満濃池、再築
1649年 長谷川喜平次が満濃池の木製底樋前半部を石製底樋に改修。
1653年 長谷川喜平次が満濃池の木製底樋後半部を石製底樋に改修,
1654年 6月の伊賀上野地震の影響で、7月5~8日、満濃池の樋外の石垣から漏水。8日には櫓堅樋が崩れ、9日九つ時に決壊。満濃池は以降16年間廃池。
1866年 洪水のため満濃池の堤防が決壊して金倉川沿岸の家屋が多く流失し青田赤土となる。長谷川佐太郎、和泉虎太郎らが満濃池復旧に奔走。
1869年 高松藩執政松崎渋右衛門、長谷川佐太郎と満濃池視察。
    8月、満濃池、岩盤の掘削によって底樋とする工事に、軒原庄蔵を起用`満濃池の復旧工事に着手。
    9月、岩盤の掘削工事に着手。
1870年3月、石穴底樋貫通。6月、満濃池堤防復旧。7月、満濃池修築完了

  参考文献
 香川大学名誉教授 田中健二 歴史的史料からみた満濃池の景観変遷 満濃池名勝調査報告書

満濃池が丸亀平野に、どのように灌漑用水を送っていたのかを見てみましょう。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り

明治3年(1870)の「満濃池水掛村々之図」です。この絵図は、幕末に決壊し放置されたままになっていた満濃池を再築するに当たって、水掛かりの村々とそこに至る水路を確認し、課役を取り決めるために作られたものです。これを見ると、灌漑受益の村単位の分布は、現在のものとほぼ同じのようです。そして、これは近世初頭に西嶋八兵衛が満濃池を築造して以来、大きくは変化していないようです。この地図を、じっくりと眺めることからはじめましょう。
 この絵図からは、満濃池からの水路がどのように伸びていたかが分かります。また、満濃池の水掛かり範囲、つまり給水エリアを知ることも出来ます。
まず幹線水路を見ておくことにします。
満濃池①は、金倉川をせき止めて作られたものなので、池から流れ出した水は、金倉川②を下ります。しかし、それもつかもまです。③の地点で、金倉川から分水されます。③は、水戸大横井堰(まんのう町吉野下)で、「水戸」と地元では呼ばれているところです。美味しいパン屋さんのカレンズの近くの橋のすぐ上流に、堰はいまもあり、民家の間を抜けて北流します。

満濃池 水戸大横井

 以前にお話したように、丸亀市史には次のように記されています。
「この北流する水路は、もとは旧四条川の流路であって、ここに堰を設けると同時に、本流を西に流して金倉川を新しく人工的に作った」(要約)

と記します。確かに金倉川は西へ西へと丸亀平野の西の奥まで追いやられ、象頭山の麓の「石淵」にぶつかって流れを北にとり、琴平の町中を通過して行きます。平野中央部に自由自在に流れていた暴れ川を、コントロールするために使われる土木技法の一つです。平野の角の山手に追いやり、中央には人工的な水路を通し、水害から水田を守るという狙いです。

DSC04908
現在の③水戸大横井関 金倉川に堰が設けられ水門方向に流される

 ③から以西の金倉川は「水路」とは、当時は認識されていなかったようで色分けも白色になります。また③からの以西の河床は、それまでと比べると非常に浅くなり、天井川になります。これも、近世になって新しく人工的に作られた川という説を補強します。金倉川は⑥の生野町の堰まで分水口はありません。金倉川は、「方流路」で水路ではなかったことがうかがえます。
満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大1
赤が金毘羅領 黄色が池の御領(天領) 桃色が高松藩領
それでは、今度は満濃池の真の水路を追いかけてみましょう。
それは、③の吉野下の「水戸」で分岐した用水路です。

 グーグル地図でも、丸亀幹線水路は追うことができます。水路は、満濃中学 → まんのう町役場を経て西高篠④で2つに分かれます。ローソン西高篠のすぐ西になります。
DSC04865
西高篠の分水地点 右が丸亀幹線 左が櫛梨を経て善通寺・多度津へと伸びる。ここには分水点には阿弥陀堂が建っている

ここから櫛梨に向けて西(左)に延びる水路は、天領の苗田村と高松藩の公文村の村境となっていることが色分けから分かります。この水路以前には、ここに旧四条川が流れていたことの裏付け資料にもなります。四条川は、近世初頭には「自然村境ライン」でもあったようです。
 地図で見ると④で西に分岐した水路は、⑤で金倉川に落水しています。
満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大2

現在は、どうなっているのでしょうか。
DSC04823旧四条川合流点
右が金倉川、左が旧四条川 ふたつの川の合流点

そして、そのすぐ下流の生野の堰で善通寺多度津方面に取水されます。
これが善通寺・多度津幹線です。この水路は、現在の善通寺市役所を北流し、農事試験場(旧練兵場遺跡)をまわりこむようにして、子どもと大人の病院の北で大束川に落水し、西白方まで伸びていきます。その手間で東西方向に流れを変えますが、その区間でいくつかの分水地点を設け、丸亀平野北部への水路を派生させます。その最終地点の村名をを金倉川から西へ並べると 下金倉村・鴨村・多度津・青木村・東白方・西白方となります。これらの村が、善通寺・多度津幹線の末端の村々になるようです。ここで、今挙げた村々のエリアが、地図上で、どんな色で色分けされている注目すると茶色(白?)です。
①茶色   多度津藩
②草木色    丸亀藩
③桃色   高松藩
④赤色   金毘羅大権現寺領
⑤黄色   池の御領(陵満濃池管理のための天領)
こうしてみると多度津藩の満濃池水掛かりは、最末端にあることがよく分かります。旱魃時には、なかなかここまでは水がやってこなかったはずです。負担は同じなのに、日照りの時に水はもらえないという不満を多度津藩の農民達が抱いたのも分かるような気がします。彼らは自己防衛のために、独自でため池を増やし、幕末には池掛りからの離脱の道を歩んだことは以前にお話ししました。
 丸亀平野における各藩領地の割合を見ると圧倒的に多いのは桃色の高松藩です
⑥で分岐され用水が供給されるのは高松藩の領地になります。私はうかつにも、かつては土器川が高松藩と丸亀藩の国境と考えていたことがありました。また、那珂郡と鵜足郡の境が国境と思っていた時もありました。もう一度「満濃池水掛村々之図」の各藩領地の色分け図を見ると大間違いなことに気づきます。大ざっぱにいうと、高松藩と丸亀藩の国境は金倉川なのです。丸亀城は、丸亀平野の高松藩領土の上にちょこんと首だけ乗っているようにも見えます。丸亀城の天守閣から殿様が南を見たときに、そこに開ける水田は自分の領地ではなかったのです。丸亀の殿様は、どんなおもいだったのでしょうか。
 この絵図を見ると、高松藩が満濃池に一番強い利害関係を持っていたことが理解できます。土器川以西の灌漑用水供給という点で、②の「水戸」の堰の分水地点は、高松藩にとっても非常に重要な地点であったことを押さえておきます。ここに堰を構えることによって、満濃池の水は高松藩の水田にやってくるのです。これがなければ、そのまま金倉川方面に下っていってしまいます。
 もうひとつ、満濃池の用水路を見ていて感じるのは、直線的なことです。これは、条里制以来の水路が活用されたためと、私は思っていました。しかし、それだけでは説明できないようです。それは、これらの用水が整備される前には、このエリアには四条川という川が流れていたからと丸亀市史は云います。

 絵図に書かれた幹線水路の多くは、近代以降の改修工事を経ながらも現在まで大きくは変化していないようです。
そこで、現在の幹線水路と丸亀平野の条里地割に重ねてみましょう。それが次の地図になるようです。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
A赤色が「讃州那珂郡分間画図」や「満濃池水掛村々之図」に描かれた近世の水路
B緑色が近・現代に新しく作られた水路
C水色が土器川と金倉川
①吉野下の大横井堰
②西高篠分水
③生野堰
こうしてみるとAの近世に作られた水路は、そのルートが今もあまり変化することなく踏襲されていることが分かります。また、基本的に条理地割の上を通っています。それが直線的になったことの一つの要因のようです。この地図上でも水路を辿っておくことにします
A先ず金倉川の大横井堰①で取水され、土器川に平行するように那珂郡を北流する(現丸亀幹線)。
B②西高篠分水で西流する「多度水路」は、金倉川に落水した後、善通寺市の生野堰で再び取水され、左岸側の多度郡域へ流下する。
つまり「金倉川の治水を前提として灌漑システムが構想された」と研究者は考えているようです。これらの路網の途中の微高地上に「皿池」と呼ばれる貯留用のため池の築造が進み、安定的な灌漑網が形成されていくことになるようです。
満濃池掛かり 那珂郡分間画図
以上を仮説も含めてまとめておくと、
①古代の満濃池決壊後には、那珂郡と多度郡には金倉川と四条川が網の目のように流れていた。
②満濃池再築にあたって、西嶋八兵衛は満濃池用水路の確保のために四条川の付け替え工事をおこなった。
③それを四条川を西流させ「金倉川」とし、象頭山の麓を北流させることであった。
④丸亀平野中央部に、水路を条里制ラインに沿って掘削し、北流させた。
⑤同時に、四条川跡の櫛梨方面へも水路整備を行った。
⑤金倉川から取水された善通寺・多度津幹線は、西は西白方、東は下金倉村までをカバーする役割を担ったが、旱魃の際には水路末端まで用水を提供することが出来ず多度津藩農民の不満は高まった。これが幕末の満濃池池掛かりからの離脱を生むことになった。
⑥満濃池水掛かりの最大の受益者は高松藩であった。そのため高松藩は、倉敷代官所へも必要な意見具申をおこなっている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸亀市史 金倉川と旧四条川
まんのう町教育委員会 満濃池名勝調査報告書
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満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(補足)

満濃池の池普請の様子を描いた絵図です。

DSC00822
護摩壇岩と高松藩と丸亀藩の詰所
①が護摩壇岩と呼ばれ、ここで空海が護摩を焚きながら工事の安全祈行ったとされます。その前には小屋が並んで奥から「丸」と「高」の文字が見えます。高松藩・丸亀藩の小屋で、それぞれの監督官の詰所であったようです。
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②は堰堤上の高台上に鎮座していた神野神社です。その社前には、池御料の小屋が建てられています。ここに工事責任者の榎井村庄屋の長谷川喜平次も毎日、詰めていたのでしょう。
 それぞれの小屋の横には、刻限を知らせるための太鼓が吊されています。例えば、早朝にはこの太鼓が打たれ、周辺の村々の寺院などに寝泊まりする普請百姓が動き出したようです。
③普請現場の堰堤の上には、幕府の倉敷代官所の役人や藩側の代表者、庄屋と思しき人々が立ち並んで、工事の進捗状況を話し合っているようです。堰堤中央が掘り下げられて、底樋が見えています。その向こうには、池の中に一番底の揺(ユル)も見えています。
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④の普請に関わる人足たちの役割は様々で、にぎやかな工事現場の様子が生き生きと伝わってきます。彼らは、讃岐中から無償動員されて、一週間ほど普請に参加することを強制されていました。讃岐中のいろいろな村々からやってきた混成部隊です。

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この中で注目して欲しいのが⑤です。大勢の人がひっぱつっているのは、庵治から運ばれてきた石材です。それまで、底樋には松など木材が使われていました。それが今回から石材化されることになりました。それが現場に届き、設置されていく場面を描いた絵図です。ある意味、これを描かせたかったために作られた絵図なのかも知れません。
満濃池普請は、動員された百姓にとっては「大きな迷惑」で「いこか まんしょか 満濃池普請」と云われたことが以前にお話ししました。しかし、ある意味では讃岐の恒例行事でもあり、風物詩でもあったようです。⑥の川沿いには、家族連れらしい見物人たちの姿が何人もいます。
最後に見ておきたいのが⑦の「うて目」です。
古代の工事の際に、余水吐きとして岩盤を削って作られたといいます。その仕上がり具合が鉋をかけたほどなめらかだったので、この名前で呼ばれるようになったと古文書は記します。現在の余水捌けは東側にありますが、近代までは西側にあったこと。それが現在の神野寺の下辺りに当たることを押さえておきたいと思います。
 こうして修築された満濃池が翌年の大地震を契機に、決壊してしまうことはすでにお話しした通りです。今回は、満濃池の堰堤の変遷に焦点を当てて見ていこうと思います。
その前に木樋から石樋へ転換について、もう一度簡単に説明しておきます 
満濃池 底樋
 満濃池の樋管である揺(ゆる)は、かつては木製で提の底に埋められました。そのため数十年ごとに交換する必要がありました。この普請は大規模なもので、讃岐国全土から人々が駆り出されました。そのために
「行こうか、まんしょうか(どなんしょか)、満濃池普請、百姓泣かせの池普請」

というような里謡が残っています。
 このような樋管替えの負担を減らしたいと考えた榎井村庄屋の長谷川喜平次は、木製樋管から石材を組み合わせ瓦石製の樋管を採用することにしました。工事は嘉永二(1849)年の前半と、嘉永6(1853)年の後半の二期に分けて行われます。この画期的な普請事業の完成に、喜平次は「図面通りに普請は終わりました。丈夫に出来ました」と誇らかに倉敷の代官所に報告しています。
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 この絵は、多色刷り木版画です。「文山」の落款と朱印がありますので、琴平に足跡を残した合葉文山によるものであることがわかります。絵図の上の空白部には和歌や漢詩が記されています。奈良松荘の歌に「嘉永六年(1853)といふとしの春」とあり、絵図中央下の底樋が石造となっていることから、底樋を木製から石造に改めた後半の伏替普請の様子が描かれたものと特定できるようです。
  それでは、この当時の満濃池の普段の姿を、どうだったのでしょうか?
 満濃池遊鶴(1845年)
                                       
 象頭山八景 満濃池遊鶴[弘化2年(1845)]    
この絵は「象頭山八景」の中の一つとして弘化2年(1845)3月に描かれたものです。この年は、金毘羅大権現の一大モニュメントとして金光院金堂(現旭社)が姿を現し、入仏が行われた年でした。その記念に8枚1組の絵図として制作された木版画のようです。この前年に奥書院の襖絵を描いた京都の両家岸岱とその弟子岸孔、有芳と大阪の公圭らによって描かれています。

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「満濃池遊鶴」には、満濃池に渡ってきた鶴の群れ描かれています。二百年前の讃岐の空には、鶴が舞っていたことが分かります。
 左右の高台を結ぶように堰堤が築かれています。西側(向かって右側)の高台には、鳥居と社が描かれています。これが先ほど見た神野神社のようです。その右側には余水吐(うて目)から水が勢いよく流れ落ちる様子が描かれています。水をなみなみとたたえた満水の満濃池池の姿です。周囲には松が生え、水際には葦(?)が茂っています。そこに鶴たちが舞い降りて群れとなっています。そうすると東側(左)の高台が護摩壇岩になるようです。
 この絵の中で私が気になるのは遠景です。池の中央に大きな島が描かれているように見えます。
この当時の堰堤の高さだと、池の中にはこんな島がまだ姿を見せていたのでしょうか。もうひとつは、阿讃山脈との関係です。今、堰堤に立ち南を望むと目に飛び込んでくるのは、大川山を盟主とする讃岐山脈です。そこには視線は向けられていないようです。和歌や漢詩を入れるスペースを作り出すために省かれたのでしょうか?
 その他の絵図と比較してみましょう。
DSC00847

 金毘羅参詣名所図会[弘化4年(1847)]です。
この図絵に挿絵として使われているのが上絵です。一番西側(右)に瀧のように流れ落ちる余水吐き(うてめ)があり、その左に鳥居と社があります。これが池の宮(神野神社)なのでしょう。そして東に堰堤がのびています。池の内側を見ると、鶴がいます。どこかで見たなあと思ったはずです。ここで使われている挿絵は、先ほど紹介した「象頭山八景 満濃池遊鶴」を流用したもののようです。コピーなのです。この場合に、使用料は支払われていたのでしょうか。著作権のない時代ですから笑って済ますほかなかったのかもしれません。

この絵図が出された前年の弘化2年(1846)というのは、金毘羅大権現にとっては特別な年でした。それは長年の普請を経て金堂(旭社)の落慶供養が行われた年だったからです。これを記念して、松尾寺金光院は、いろいろなイベントや文化活動を行っています。その中に上方の芸術家を招いて、ふすま絵を描かせたり、新たな名所図会出版の企画なども行っています。
  ビッグイベントの翌年、暁鐘成と絵師・浦川公佐を招きます。
彼らは浪華の湊を出帆してから丸亀の湊に着き、金毘羅山に詣で、2ヶ月ほど逗留して、西は観音寺まで、東は屋島源平古戦場までの名所を綴りました。それが弘化4年(1848)に出される「金毘羅参詣名所図会」です。しかし、これでは比較ができません。もう一枚別の絵図を見てみましょう。
満濃池「讃岐国名勝図会」池の宮
 讃岐国名勝図会 萬濃池池宮 嘉永7年(1854)

手前の「護摩壇岩→堰堤→神野神社→余水吐け(うてめ)は、今まで通りの描き方です。パターン化してきたことがうかがえます。しかし、遠景は今までとは大きく異なります。大川山から山頭山までの讃岐山脈がしっかりと描き込まれています。でも、なにかおかしい・・
実際に見える遠景と比べて見ましょう。
DSC04978

パノラマ写真で見ると池尻にあたる五毛集落の向こうに、大川山は見えます。拡大すると、
DSC04975

低く連なる讃岐山脈の中でピラミダカルな山容が盟主の大川山です。
 大川山が「讃岐国名勝図会 萬濃池池宮」の中に正しい位置に書かれるとすれば折り目あたりになります。堰堤からは三頭山は、見えません。しかし、「讃岐国名勝図会」では正面に一番大きく描かれています。そこには大川山があるべき位置です。

DSC04977
特徴的な笠取山
実際に、大川山の東(左)に見えるのは、笠取山です。しかし、この山はあまり見栄えがしない姿で描かれます。どうも「三頭山」を大きく描きたい動機(下心)があるようです。三頭山には、阿讃越の峠としては最も有名な三頭峠がありました。これを描かない手はありません。営業的な効果も考えながら描かれた気配がしてきます。

 池全体の形も分かります。ここには「鶴舞図」に描かれた池の中の島はありません。この絵の方が「写実的」で事実に近いと私は思っています。この点を押さえて次の絵図を見てみましょう。
  江戸初期に西嶋八兵衛が再築に取りかかる前の満濃池の様子を描いた「満濃池営築図」です。
満濃池 西嶋八兵衛復興前1DSC00813

何が描かれているか分かりますか?
相当にらめっこしましたが私は、何が書いてるか分かりませんでした。そして、降参。次の模写図を見ました。
満濃池 決壊後の満濃池


    源平合戦の最中に決壊して以来、約450年間にわたって放棄された満濃池の姿です。
①左下から中央を通って上に伸びていくのが金倉川です。川の中には、大小の石がゴロゴロと転がっている様子が見えます。鎌倉時代の崩壊時の時に崩れ落ちた石なのでしょうか。
②金倉川を挟んで中央に2つの高台があります。左(東)側が④「護摩壇岩」で、右(西)が②池の宮(神野神社)のようです。
③丘の右側の小川は「うてめ」(余水吐)の跡で、川のように描かれています。ここに描かれているのは、「古代満濃池の堰堤跡」のようです。
⑤旧池内には数軒の民家と道、農地を区切るあぜ道が描かれています。これが、中世以後旧満濃池を開発して成立していた「池内村」の一部のようです。
満濃池堰堤図 

  護摩壇石や神野神社の高台は、今はどうなっているのでしょうか?
古代と近世に再興された満濃池の堰堤は、ほぼ同じ高さ(約22~24m)ったと研究者は考えているようです。大林建設も弘仁12年(821)の満濃池を推定する際には、西嶋八兵衛の築造図を参考にしています。それが下の平面図です。今まで堰堤を見てきたことを確認しておきましょう。
満濃池空海復元図1

この姿が変わるのは、明治になって行われた長谷川佐太郎による復興です。佐太郎は、うてめの岩に穴を開けて底樋とすることを発案し、それを実行しました。それが下の平面図になります。

満濃池 長谷川佐太郎平面図版

そのためそれまでの余水吐きは、東側に移され現在の地点になりました。さらに、戦後の第三次嵩上げ工事で堰堤の位置は大きく変更されます。
満濃池 第3次嵩上げ(1959年)

今までの堰堤は、護摩壇岩と池の宮(神野神社)の高台の前にアーチ状に作られていました。しかし、堰堤を高くするために、背後に築造
満濃池護摩壇岩1
         わずかに頭を見せる護摩壇岩

そして、水没してしまうことになった池の宮は現在の高台に移築されることになります。数m高かった護摩壇岩は水没は避けられましたが、わずかに頭を残すだけになりました。
満濃池 堰堤断面図(大林建設復元プロジェクト)
一番左側が西嶋八兵衛 真ん中が長谷川佐太郎 右が戦後の堰堤の位置と断面図

満濃池 現状図
満濃池現状図
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
 田中健二 歴史資料から見た満濃池の景観変遷
 大林建設復元プロジェクト 空海の満濃池復元
満濃池名勝調査報告 まんのう町教育委員会 2019年3月刊
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  満濃池の築造については、
「当時の讃岐国司が朝廷に対し、満濃池修築の別当として空海を派遣することを求め、その求めに応じた空海が短期間に築造した」
というのが、一般的に語られている話です。 
 それでは、どんな資料に基づいているのでしょうか?
貴重資料画像データベース | 龍谷大学図書館

空海の満濃池築造説を伝えているのは、日本紀略(にほんきりゃく)です。平安時代に編纂された私撰歴史書で、その範囲は神代から長元9年(1036年)までで、成立時期は11世紀後半から12世紀頃ですが詳細は不明で編者もわかりませんし、本来の書名もはっきりしないようです。
満濃池築造については「弘仁十二年(821)七月二十五日の条」に次のようにでてきます。 
讃岐国言、始自去年、提万農池、広大民少、成功末期、僧空海、此土人也、山中坐禅、獣馴鳥狗、海外求道、虚往実帰、因茲道俗欽風、民庶望影、居則生徒成市、出則追従如雲、今離常住京師、百姓恋慕如父母、
若聞師来、必倒履相迎、伏請宛別当、令済其事、許之         
讃岐国言(もう)す。去年より始め、万農池を堤る。工(広)大にして民少なく、成功いまだ期せず。僧空海、此の土人なり。山中坐禅せば、獣馴れ、鳥獅る。海外に道を求め、虚往実帰。
これにより道俗風を欽み、民庶影を望む。居ればすなわち生徒市をなし、出ずればすなわち追従雲のごとし。今旧土を離れ、常に京師に住む。百姓恋慕すること父母のごとし。
もし師来たるを間かば、必ずや履を倒して相迎えん。
伏して請うらくは、別当に宛て、その事を済さしむべし。これを許す。
さらに現代語に意訳すると
「讃岐国司が朝廷に対して次のように求めた。昨年より築堤を開始しているが、池が工大(広大)であり、人員不足により築堤工事に困難を極めていたため、讃岐国出身で民から父母の如く恋い慕われた空海を修築の別当として派遣して欲しい。
 讃岐国司の清原夏野が満濃池修築の別当として、空海の讃岐帰国を奏上する有名な文章は、日本紀略に記されているのです。つまり、空海亡き後2百年後に書かれたもので同時代文書ではないのです。しかも書かれている内容はこれだけです。ここには護摩壇岩で護摩祈祷をしたことなど、讃岐に帰国して、満濃池修築にあたった様子は何も記されていません。
満濃池
満濃池後碑文

これに対して、空海=満濃池築造
関与をうかがわせるのが「萬農池後碑文」(まんのうのいけのちのひぶみ)です
これは名古屋市真福寺所蔵「弘法大師伝」の裏書に残されているもので、『香川叢書』に載せられています。碑文の最後には寛仁四年歳時庚申(1020)年の期日が記されています。この時点で、萬農池の歴史を振り返った碑文と考えられています。 碑文の内容は、
1 満濃池の築造の歴史
2 讃岐国主の弘宗王が仁寿年間の(八五一~八五四)に行った築造工事の概要
3 最後に、その際に僧真勝が行った修法について
ちなみに碑文全文字が437字で、その6割強にあたる269字を使って、弘宗王の修造工事の概要を述べていて、最後の103字が僧真勝が行った修法の記述に宛てられています。ここから内容的には弘宗王の顕彰碑文であることが分かります。具体的に碑文を見ていきましょう。

萬濃池後碑文[建仁元年(一二〇一)】

満濃池後樋文
   満濃池後樋文

          満濃池後樋文を読み下し文に改めたものを挙げておきます。
この池は大宝年中、国守道守朝臣の築くところなり。
旧記位名を汪(記録)せず。空しく以て嵯歎(さたん=嘆かわしい)す。古人伝えて云く、この堤前世類れ破ると、しかれども文書綸亡して、その実知りがたし。近曽弘仁九年流れ破れ、再び官使を下して、三年の内にすなわち築きなす。
意訳変換しておくと
この池(満濃池)は、大宝年中に讃岐国守の道守朝臣が築いたものである。ところが以後の記録には、それが記録されることもないのは、嵯歎(さたん=嘆かわしい)ことだ。古人伝えて云うには、この池の堤防は何度も決壊しているのに、文書に残っていないので、その実態が伝わっていない。最近では弘仁9年にも決壊し、再び官使を讃岐に下して、三年の内に再築した。
これを要約しておくと
①満濃池は大宝年中(701~704)年に、国守道守朝臣によって築かれた
②その後、
満濃池は何度も決壊したが記録が残っていないので実際のことが伝わっていない
弘仁九年にも決壊し、この時には官吏によって3年以内に再築された。
③の部分が先ほど見た「日本紀略 弘仁十二年五月二十七日条」の空海の登場と一致します。さて、これからが空海の登場かと読み進んでいくと、「萬濃池後碑文」の弘仁九年の記述はこれだけです。わずか漢字一八字のみです。空海の文字は、どこにもでてきません。この史料からは、この時の修復工事を空海が行ったとは云えません。空海=満濃池不関与説を裏付ける史料と云われる由縁です。

そして、讃岐国主の弘宗王が行った築造工事に移ります。
仁寿元年之秋、天下大水超堤上、少剋之間、掃底而流、国中之池大小悉破、一年春有大疫。又荒餓、今茲旱魅八十余日、国虚耗、民無所拠、秋八月権守正五位下弘宗王、含朝之倫旨、在残害之百姓、即巡諸郡、検察損物、兼悠愁苦之民間、
閏八月朔 抒破水 内盤石、始発使失二千余人、平築堤本、五日而上、起自十月上旬 発夫千以下、輪転令築、此苦各築諸郡破堤、三年二月朔、大発約失六千余人、限約十日、戮令築、十一日午剋、大功已畢、爰水(頑)猶高 不可益害、
是以明年春三月、発夫二千余人、更増一丈五尺、通前八丈、
其成事之舷、以俵薦六万八千余枚、嚢口土填深処、由比其功早遂、声満天下、惣公夫単一万九千八百余人、所用物数一 
千几見聞之中、只記大綱、細々之事不題注、
書き下し文にすると
仁寿元年の秋、天下大水、堤上を超え、少剋の間、底を掃いて流る。国中の池大小悉く破る。二年春大疫あり。又荒饑す。今、ここに旱魃八十余日、国既に虚耗して、民拠るところなし。秋八月権守正五位下弘宗王、朝の綸旨を含み、残害の百姓に莅(のぞ)む。すなわち諸郡を巡り、損物を検察し、兼て愁苦の民間を愍む。閏八月朔、始て使夫二千余人を発し、平に堤本を築き、五日にして上る。十月上旬より起こりて、夫千以下を発し、輪転して築かしめ、ならびに水門の盤石を破る。この苦各々諸郡の破堤を築く。三年二月朔、大いに役夫六千余人を発し、限るに十日を約して、戮あわせて築かしむ。十一日午剋、大功已に畢る。爰に水内猶高し。害なかるべからず。、是を以て明年春三月、夫二千余人を発し、更に一丈五尺を増す。前に通じて八丈、その事をなすの体、俵薦六万八千余枚を以て、沙土を嚢んで深き処に填む。これによってその功早く遂ぐ。声天下に満つ。惣公夫単一万九千八百余人、用いるところの物数一千二万余束、およそ見聞の中、ただ大綱を記す。細々の事題を注せず。老僧恭くも国請に応じ、三僧を率い随いて、始より終まで作法練行す。これにおいて仏力を蒙るによって、それ民恙(つつが)なし。国司欣悦して、官に申し上ぐ。聖主衿愍して、満海岳の恩を施したもう。本、所望にあらず。しかるに太守賢君、宵衣公に勤め、肝食疲れを忘れ、口に秘密の真言を唱え、内外、処分の内に、国楽しみ、民富む。海岳と謂うべきは、虚実王祥に頼る。
寛仁四年歳次庚
意訳変換しておくと 
仁寿元年の秋、国中に大洪水が起こって、水は堤の上を超え、しばらくの間に底を掃って流れた。国中の池が大小ことごとく破れた。二年春、悪い病気が大流行して豆がらも成長しなかった。その上、干ばつが八十余日続いて讃岐国内には食べるものも乏しくなり、人々は頼るところもなかった。
 そこで秋八月、権守正口位弘宗王が、讃岐国主となって惨害に苦しんでいる百姓を治めることになった。早速諸郡を巡って災害の程度を調査し、兼ねて愁い苦しんでいる人々を慰撫した。
潤の八月一日、初めて役夫二千岳人を出して、堤を築かせ、五日にして上り起った。十月上旬からは人夫六千人を出し、車の輪がくるくるまわって止まらないように休む暇なく築かせ、大岩石を破って水門を築いた。このような苦しい作業を続けて、破れていた堤を築くことに成功した。
 三年二月一日、大いに役夫六千余人を出して、約十日を限って、力を勁せて築かせたので、十一日午刻、大工事がとうとうできあがった。しかし、水門の高さがなお不足であったので、明年春三月、役夫二千余人を出して、更に一丈五尺を増したので、前通り(内側)を八丈の高さに築きあげた。 このように大工事が早くできあがったのは、俵ごも6万八千余枚に沙土をつめて深い所に沈めたから、これによって早く功をなし遂げることができた。この功績に、驚きの声は天下に満ちた。
 この工事は、一万九千八百余人の人夫を集め、この人々の用いたところの物の数(食料)は、十二万余来の稲である。凡そ見聞の口記大綱は以上のようで、細々の事は、書き上げることができない。
これに続いて、僧真勝の修法と、この修造工事が各階層の人々に喜ばれたことを述べて碑文は終わっています。 もう一度繰り返しますが、この碑文には空海については、何も触れられていません。それよりも仁寿年間の(851~54)に讃岐国守弘宗王が行った築造工事を取り上げ、その成果と功績を讃える内容になっています。これをどう考えればいいのでしょうか。 

弘宗(ひろむね)王とは何者?

弘宗王は、天武天皇の皇子舎人親王の後裔のようです。各地の国守を歴任したキャリアでもあるようです。853(仁寿二)年2月28日、丹波守から転じて讃岐国守として讃岐にやってきます。「萬農池後碑文」によれば着任後に満濃池の修復工事を行った事になります。その功績が認められたのでしょうか、860(貞観2)年正月16日には右京大夫に、同年8月26日には大和守に任じられています。
 貞観四年、右大臣藤原良相は上書して「地方政治を振興するためには人を得ることが肝要である」と述べ、五人の地方官の名を挙げていますが、その一人に弘宗王が選ばれていて、次のように推薦しています。 
「大和守弘宗王は、すこぶる治名がある。彼は多くの州県を治めた経験があり、地方妁政治について、見識をもった人物である。」
その後弘宗王は、貞観七年正月二十七日、散位従四位下を賜り、弘宗王は越前守に任命され、それから四年間、越前守としてその任にあっています。
讃岐においては、ほとんど知られない人物ですが当時の都ではやり手の地方長官として名前を知られていた人物のようです。讃岐では、空海に光が向けられますので、彼に言及することは少ないようです。また、地元のまんのう町史は、国司在任中に訴えられている事などを挙げて、低い評価を彼にはしているようですから

「萬濃池後碑文」の撰者は? この碑文が作られた背景は?

 弘宗王が讃岐権守に任じられる前年に、彼の子供(男子八人)の王号を改めて、中原真人の姓を賜りたいと申し出て許されています。その後、中原真人の姓をもらった一族のなかからは、朝廷に仕えて文筆の家として活躍する人たちが輩出します。そのため祖先の弘宗王を顕彰するために、その子孫たちが建てた石碑の写しというのが現在考えられている所のようです。
「日本紀略」と「萬濃池後碑文」の記事を年表にして、前後関係を見ておきましょう
大宝年間(701)讃岐国主道守朝臣 満濃池を築く    |
818 弘仁9   万農池が決壊、官使を派遣させ修復させる。
820 弘仁11  讃岐国守清原夏野が、朝廷に築造使の派遣申請・修復着工
821 弘仁12  5月27日、工事難航のため、改めて築池別当として空海の派遣を要請。7月からわずか2か月余りで再築完了。
851 仁寿1 秋 大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊
852 仁寿2   讃岐国守弘宗王が閏8月より万農池の復旧開始
   翌年3月竣工。夫19,800人、稲束12万束、俵菰6万8千枚使用。(萬濃池後碑文)
881 元慶5  萬農池神に従五霞授けられる。(三代実録)
947 天暦1 讃岐国守源正明、多度郡道隆寺の興憲僧都に命じ、満濃池の地鎮祈祷を行わせる。これ以前に決壊があったと推測される。
1020 寛仁4 萬濃池後碑が建立。(萬濃池後碑文)           
       この頃「日本紀略」に空海の満濃池修築が記される

            「今昔物語集」に満濃池が登場する。
1184  元暦1 5月1日、満濃池、堤防決壊。
この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。 池の内に集落が発生し、池内村と呼ばれる
年表から分かることは?
① 「萬濃池後碑文」の弘仁9年(818)の決壊は『日本紀略』の弘仁12年(821)の築堤に一致します。ここからは「萬濃池後碑文」の伝える大宝年間(701-704)までさかのぼることは出来ないかもしれませんが、それ以前に「原」満濃池があったことはうかがえます。築造を否定することはできないようです。
② 空海が係わった弘仁12年(821)の修築後も満濃池は破堤しています。
「萬濃池後碑文」は仁寿元年(851)秋、大雨により満濃池をけじめ讃岐国中の池が決壊し、国司(権守)弘宗王は諸郡の池を修築を進めて、仁寿4年(854)に満濃池の修築を完了したと記されています。 
古代史料における決壊・修築の記事はこの2回です。
時代は下りますが幕末の『讃岐国名勝図会』は、治安年間(1021-24)の改修後の元暦元年(1184)の大洪水により破堤したあとは、修築されず田地となったといいます。  

「萬濃池後碑文」に空海が登場しないのはどうしてか?

 「日本紀略」と「萬濃池後碑文」は11世紀前半に相前後して成立した文書です。前者が大きく空海を取り上げ、後者がまったく触れないのはどうしてでしょうか。
 「萬濃池後碑文」の選者の立場として
① 「空海=満濃池築造説」を知らなかった。
② 讃岐国守弘宗王の顕彰のために「空海」を登場させなかった 
現在の「空海=満濃池築造説」では②が指示され「萬濃池後碑文」は偽書であるとか、内容に大きな問題があり、取扱に注意すべきであるという立場を取る専門家が多いようです。
しかし「満濃池後碑」には修復工事にかかわる具体的な数字や行程が記されています。「日本紀略」の空海修繕に関しての「物語的・演劇的」な内容よりも信頼性があると考える専門家もいます。
少し遅れて11世紀後半に成立する今昔物語には「空海=満濃池築造説」に従う物語が2つ取り上げられています。
この背後には、弘法大師伝説の普及があります。当時の大師信仰を信じる真言密教の僧侶や修験者にとっては、「萬濃池後碑文」の内容は受けいれがたいものだったのかもしれません。その「反撃」の流れの中で日本紀略の満濃池築造の記述は、この時期に記されたという仮説は考えられます。
 以上

参考文献 萬濃池後碑文 満濃町誌(116p)


岸の上遺跡 那珂郡条里制

丸亀平野を南北に流れる金倉川については「近世に作られた人工河川」説が出されています。何を根拠として人工的に付け替えられたというのでしょうか。
また何を目的に、いつ、だれによって工事が行われたのでしょうか。いろいろな角度から検討してみましょう。

丸亀平野北部 条里制

金倉川=人工河川説の「状況証拠」として、丸亀市史1(383P~)は次のような点を挙げています。

①全体に河床が高く、天井川であるから、東西からほとんど支流が流れ込まない。
②竜川橋・五条橋付近では、川床から粘土が出ている。
発掘調査の時、金倉川左岸堤防の近くまで発掘したが上層は厚い粘土層であった。このことは少なくとも往古からの自然河川ではないという証明である。
③中津町の金倉川左岸堤防工事の時に、川底より砂岩の五輪塔二基と楠三本が出土した。川底がかつては平地であったということを物語っている
④金倉川沿いの各所で村が東西に分断されている。後から作られた金倉川が地域を別けた。自然河川では、境界となることが多い。
⑤河口に形成された州が、旧金倉川のそれに比べて極端に小さい。万象園付近一帯だけである。川の歴史の浅いことを示している。
⑥金倉川沿いには、遺跡らしいものが存在しない。近世になって新しく作られた河川であるため、周辺部に遺跡がない
⑦川床幅が小さい。
以上のような状況証拠の積み重ねで「人工河川」説を補強します。

それでは、金倉川はどの位置で付け替えられたのでしょうか?

満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り

  その位置を丸亀市史はまんのう町吉野の①吉井橋(パン屋さんのカレンズ周辺)とします。満濃池の谷から流れ出し、北上していた流れを、ここで西流させ現在の金倉川の流れに改変したとします。ここは現在でも「水戸(みと)」と呼ばれています。

DSC04906
まんのう町吉野の「水戸」の現在の姿
満濃池水戸(みと)

改変される前の流れは、どう流れていたのでしょうか?
「丸亀市史」は改変前の北上する流れは、満濃町役場前から四条・天皇を経て高篠大分木に至り、ここから左に向きを変えて西高篠と苗田の境界に沿って西北流し、象郷小学校から上櫛梨の木の井橋の南へと流れていたと記します。そして、この川を「四条川」と呼びます。
金倉川 国土地理院

   本当に四条川はあったのでしょうか?
『全讃史』に、四条川のことが次のように記されています。
四条川、那珂郡に在り、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して、上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す、
金倉川、源を満濃池に発し、西北流して五条に至り、横に四条川を絶ち、金毘羅山下を過ぎ北流して、西山・櫛無・金蔵寺を経て、四条川を貫ぎ下金倉に至り海に入る」
と記述されています。四条川は確かに実在したようです。しかし、流路はなかなか想像しずらいものがあります。
さらに四条川実在の論拠として、以下のような点を挙げます。
①この付近の「四条川跡」には多くの湧井が存在すること。
②善通寺大麻町の香川西部ヤクルト販売株式会社の東北に、琴平町内を北流してきた川と合流して西北流する四条川の左岸の一部が残っていること。

金倉川1 分岐点

③四条川の水量は多く、治水が容易でなく常に氾濫を繰り返していた。伝承として「明治中期起工の四国新道や讃岐鉄道の軌道敷も、四条川の廃川跡地が利用された。両者とも、用地取得が短期日で終わって工事に着手できたことは、田畑でなかった、当時はまだほとんど荒廃地だったからだ」と伝わっている。
 以上から、四条川の中流域は現JR線路と国道319号になっているようです。

金倉川3 大麻郵便局 

⑤四国横断自動車道建設にともなう発掘調査でも、JR土讃線と国道三一九号線の間では表土直下に河川堆積物の礫混じりの砂層が出てきて、四条川が氾濫を繰り返していたようです。そのため、稲木遺跡以東の、現金倉川に至るまでは、条里制跡が認めらません。これは大麻町以北の四条川右岸から、現金倉川に至るすべての地域も同じです。坂出市の鎌田博物館蔵の近世の絵図でも、磨臼山の北東を「イカノ川原」と表記しています。つまり、四条川の氾濫原で条里制施行外だっと考えられます。

金倉川1 分岐点

四条川の下流域ルートは?

多度津には、金陵多度津工場があります。
ここはかつて、ここを流れていた四条川の豊富な伏流水を使った酒造りが行われています。四条川はここで、流れを大きく東へ向けます。丸亀市民体育館の西方の金倉町上下所の高丸や、新田町の高丸、津森町高丸は、四条川の氾濫による砂傑の堆積地のようです。
 さらに四条川は市民体育館の西で北に流れを変えて先代池を斜め縦断して市道中津・田村線に出ます。先代池や平池は四条川が廃棄された跡の流路を利用して、築造されます。

丸亀の海岸線 旧流域図3
「新田橋本遺跡周辺旧流域想定図(S=1/20,000)」

四条川は田村町番神に向かって流れ、ここから北に流れを変えます。丸亀城西高校の正門前に堀が残りますが、四条川の川跡とされます。そして、津森町内を北流して津森天神社の北東200mの津森町宮浦で海に注いでいました。ここが四条川の河口でした。ここが『万葉集巻二』の柿本人麻呂の詠んだ有名な「玉藻よし讃岐国は国柄か」の枕詞ではじまる長歌の中に出てくる中乃水門とされます。現在の津森町の地名も、ここに設けられた津守に由来します。

田村廃寺周辺地質津

金陵多度津工場から河口まで四条川は、多くの支流を生みだし、旧六郷村域では氾濫常習地帯だったようです。そのため氾濫地帯の大部分は荒廃地として開拓の鍬が入りませんでした。ここが開拓されるのは、四条川が金倉川に一本化された17世紀初冬以後です。

丸亀平野北部 条里制

ちなみに中世に満濃池は、姿を消していました。
大規模な労働力を組織化できた律令時代は、大規模土木工事が可能でした。しかし、権力の分立した中世は多くの労働力を集めることができません。そのため満濃池は、堤防が壊れ放置され、「池の内」村が「開拓」されていました。このため「満濃池の治水」能力がなくなり、下流域では洪水が常習化し、河口の堆積作用も大きかったようです。こうして四条川河口には潟湖が形成され、多度郡の湊として機能するようになります。その海運センターの役割をしたのが道隆寺だったようです。
道隆寺の果たした役割については、以前に紹介しました。https://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/48396077.html

丸亀平野の扇状地

大麻町以北の四条川の廃川後の開拓地を列記すると、
 
右岸(東側)では、
善通寺市大麻町本村の東北部・中土居・砂古東・生野町南原・原・遊塚の東部・上吉田町上原・寝馬・稲木町川原・下川原・金蔵寺町下所・六条
左岸(西側)では、
丸亀市原田町三分一下川・金倉町上新田・池の下・下新田・朧朧新田・新田町橋本・長池・今津町皿池・中原・津森町上拾丁分・下拾丁分・位
などです。
 また、先ほど見た先代池のように四条川に水が流れなくなった跡に、その流路を利用して、ため池が数多く築造されていきます。
金倉町に辺池・新池・平池・先代池・瓢池・天満池などです。
多度津町では、千代池・買田池・上池が、これにあたります。

平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

四条川の付け替え工事は、いつ、だれによって行われたのか
丸亀市史は「西島八兵衛由緒書控」中の次の記述に注目します。
精を出し国を被立候へと被仰付寛永二丑ノ春讃岐へ被遣候、(中略)中年三年罷有仕置仕候国も能成候とて、高虎様御機嫌二被為思召、寛永六年二江戸へ御呼かへし被成(以下略)
西島八兵衛の寛永二年の二度目の来讃は、干ばつで疲弊した讃岐国を立て直すためであったようす。領内を巡視して実情をつぶさに調査して、具体策を練っています。その上で翌年に8月に、まんのう町の有力者である矢原正直を訪ねます。

満濃池 決壊後の満濃池
西嶋八兵衛の築造前の満濃池堰堤周辺の状況図

 これは丸亀平野の治水事業を実行に移すため相談に訪れたものと思われます。そして、満濃池の再築に着手したのが寛永五年十月、二年半を費やして完成したとされます。
満濃池再築に着する前に、事前工事として四条川の流れを廃して、金倉川の流れ一本にする付け替え・改修を行ったと丸亀市史は推定します。
最後に、この工事は何のために行われたのでしょうか。

満濃池水掛村ノ図(1870年)

これについては丸亀市史は、何も語りません。
あえて推察するなら満濃池築造後の水路網の建設と関連するのではないでしょうか。現在の満濃池の水掛かりは、上の絵図のように人間の血管網のように細部まで整備されています。しかし、四条川の複雑な流路や支流があったのでは、満濃池からの水を送るための水路を張り巡らせることは困難だったと思われます。満濃池灌漑ネットワーク整備のために、四条川は金倉川に一本化・直線化され、最短ルートで海に抜けるようにされたのではないでしょうか。

丸亀平野 等高線地図
 地図で、多度津の千代池を見ているとその不思議な形から、川の流路に作られた池だろうなとは思っていました。しかし、それが、いつごろまで流れていた池かは分かりませんでした。丸亀市史を読み直していて改めて、気がついたのです。
丸亀市史に感謝

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満濃池をこわした国司の物語(『今昔物語集』巻三十一より)

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昔むかし、讃岐の国のいなかに、満濃の池という、それは大きな池がありました。土地には水が少なく、満足に米もとれずに、みんなつらい暮らしをしておったとか。
 そのころ、高野山に、弘法人師さまというえらいお坊さまがおってのう、みんなのなんぎを聞いて、たいそう心をいためられたそうな。「かわいそうになあ。これでは、みんな、ごはんを食べられなくなってしまう」
 そこで弘法人師さまは、何かしてやれることはないかと知恵をしばったそうな。
「おお、そうじゃ! ひとつ、この上地に人きな池をつくってやろうか!」 思いたつと、方々から人を集めなさったと!・
 弘法人師さまのおやさしい人柄をしたって、それはもう、たくさんの人が集まってきたそうじゃ。

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こうしてできた池の大きいこと。堤も、それはそれは高く作られました。
  とても池とは思えんのう
   こりゃあ、海ではないかい
  土地の人々はみんなうわさしあったそうな。
あまりに大きくて向こう岸がぼーっとかすんではっきり見えません。みんな大喜びで大事に使うことにしました。
 それまでは、日照りが多く、田柚えどきには水不足に泣かされていましたが、この池のおかけで、どこのたんぼも、水を引くことができ、ぶじにうるおうことができたとか。
 朝廷からも、たくさんの川をつなぐ力をいただき、絶えることがなかったそうな。

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池の中には、大きいのやら、小さいのやら、いろんな魚が住んでいて、みんなどんどん魚をとっていました。でも、魚はいくらでもおったので、どれだけとってもいなくなることはありません。
あるとき、領主様が、この国の人々やら、館の人々やらをおおぜい集めて、お話をなさったとか。
 そのおりにも、満濃の池の話でもちきりだったそうな。
「なんと! 満濃の池には、いろんな魚がいっぱいおるそうじゃと!三尺の鯉でもおるじやろう」
 だれがいうたか、そのことが領主様の耳にはいってしまいました。
 「それは、ぜひとも欲しいものよ」
 領主様は思いたって、おいいつけなさった。
 「この池の魚をとる! 用意いたせ!」
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ところが、池の深いこと、深いこと。       
 下りていって網をしかけることもできぬほど。
そんならどうしたらよかろうかと、みんなで頭をひねっていたら、
 「この池の堤に大きな穴をあけよ’・
 そこから出る水の落ちるところにしかけをせよ
流れでる魚をとるのじや」
 家来衆がいうとおりにするとぱーつと勢いよく水が吹き出し、出るわ、出るわ、次々とたくさんの魚が出てきました。
 「やったあ! 大漁じゃあ」
   ところがその後、穴をふさごうとしましたがものすごい勢いで水が吹き出し、どうしてもふさぐことができません。
 そこに堤をつくり、木の樋を打ちつけ、少しずつ水を流すようにしたところ、池はそのおかげでなんとかもたせることができました。
「しかしまあ、この穴は、堤をぶちぬいてできた穴だもんな。
しかもこんなに大きい穴、大丈夫かいな」
  みんな、ほんに考えこんだそうな。
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  はたして梅雨がきて、どしゃぶりの雨がつづき、たくさんの川に水があふれ、それが全部、この池に流れこみはじめました。
さあ、たいへんです。
ゆき場のない水が、出口をもとめていっきに穴をめがけて押し寄せたのでもうたまりません。あれよあれよというまに、堤はこわれてしまい、池の水は残らず流れ出てしまいました。    
  「助けてくれ! 流される」
   おらんとこの、家も田んぼも畑も、めちゃめちゃじゃあ
  泣いても、叫んでも、もうどうにもなりません。
  みんな、何もかもなくしてしまいました。

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国の人たちは、これにすっかりこりて、池は小さく造ろうと考えました。
 そんなわけで、小さな池をなんぼでもつくったものの、池はすぐにひからびてしまい水は残りません。池のあった跡さえ、判らないようになってしまいました。
 悪いのは、なにがなんでも三尺の鯉が欲しいというたご領主様じゃ。ご領主様のせいで、あの生き仏様が、弘法大師さまが、土地の衆をかわいそうに思うて、せっか く造ってくたさった池をなくしてしもうた。ばちあたりなことはかりしれんわ。この池の崩れたことでたくさんの人が家を壊され、たんぼや畑をなくしてしまいました。
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 それもこれも、みんな、ご領主様のせいじゃ」
 だれもがそういうたとか。
 「池のなかの魚を、ちょっととりたいばっかりに、池をこわしてしまうとは、なんたるこっちや」
 [大きなむだじゃ。しょうのないご領主様じゃ]
 そう言って、みんな怒り、嘆きました。

 まあそういうことで、人間は欲張ってはいけません。
 他国の人々までも、今にいたるまで、ご領主様の悪口を言っているとか。
 その池の跡は今もまだ残っているそうな。

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