一番古いのが701年の記録で、全部で81件の旱魃記事があるようです。
文書がきちんと作成保存されるようになる江戸時代後半になるとコンスタントに、50年毎に10回~15回程度の旱魃記録があります。その中でも、幕末から明治維新の経済的バブル期には、旱魃が4回しか記録されていないようです。明治期に入ると測候所などが整備され、記録はきちんと残されるようになります。
ちなみに「1876~1925年」の明治・大正の50年間での旱魃は10回となっています。旱魃は、5年に一度は、讃岐を襲っていたとしておきましょう。
90年前の1934(昭和9)年の旱魃について見ていくことにします。
まず、研究者が示すのは次の「1934年の多度津測候所の降水値データー」です。
ここには5月~8月の1日ごとの降水量と天気、そして、一番下に各月の降水量の合計量が記されています。
①5月の降水量が例年の2割、6月が2/3と少なく空梅雨であったこと②7月には例年を上回る降水量があった
③7月26日以來、9月1日まで36日間の晴天が続いたこと。
当時の県の干ばつ記録には、次のように記されています。
「七月二十三日、西讃満濃池ハ県下第一ノ貯水池タリ。本日既二池底ヲ露出シ配水不能トナリ、午後十一時、閉門スルノヤムナキニ至ル」(『千ばつの概況と対策』(昭和十年二月)
意訳変換しておくと
7月23日、西讃満濃池は県下第一の貯水池である。その池が本日ついに、池底を見せて配水不能となった。午後11時、水門を閉じることになった」(『千ばつの概況と対策』(昭和十年二月)
この日、知事は千上がった満濃池を視察しています。 しかし、7月末の一時的な降雨で、小康状態となります。それ以後は1ヶ月を越えて雨は降らず、炎天が続き、被害田は2万㌶に達します。
「(旱魃対策については)種々考慮致シヲリ候ヘドモ、適当ナ措置コレ無キタメ、窮余策トシテ今回(善通寺)師団二依頼シ大砲ノ実弾射撃ヲ実施致スベク交渉中ニシテ、近ク実現二至ルベキ事卜存ジ候間」
意訳変換しておくと
「(千害については)いろいろと対策を考慮したが、適当な措置は見当たらない。窮余の策として、(善通寺)師団に依頼して大砲の実弾を射撃してもらうように交渉中である。近日中に実現するはずである。お知りおきいただきたい。
私は一度、これを読んでも訳が分かりませんでした。旱魃対策として、どうして大砲を撃つのかが分からなかったのです。当時は「戦争の後には大雨が降る」という言い伝えがあり、それに望みをかけたようです。こうして、翌29日、善通寺師団は県の依頼を受けて山砲12門を摺臼山に並べて、大麻山の地獄谷めがけて一斉射撃を開始します。三百発の予定でしたが、着弾地付近の山の下草が燃え出し、あわてて消火に走ったと伝えます。
かなわぬ時の神頼みならぬ、為政者は庶民に対して、何らかの対策を取っている姿を見せることが求められます。県知事と師団長の民衆の心を知った連係プレーとしておきましょう。ある意味では、知事達にもそこまで追い詰められているという危機感があったことがうかがえます。
大砲発射の効果があったのは香川県でなく、徳島県だったようです。
砲撃の翌日、阿讃山脈の向こう側の池田町では大夕立が降ります。早速、池田町の代表者がお神酒を提げて、善通寺師団司令部にお礼言上に来たという笑えない話が伝わっているようです。研究者が徳島地方気象台に真偽の程を確かめると「阿波池田では昭和9年7月29日に4・3㎜、翌20日は49,9㎜の降雨有り」という返答が帰ってきたそうです。
県は「各市町村においては三日間、等火を焚いて雨乞い祈祷をするように」という通達も出しています。
そこで神野村では、満濃池池畔で雨乞い祈祷を行っています。このように、県の雨乞い実施勧告に従って、何年ぶりかの雨乞いが、各村々で行われています。明治以来、踊られることがほとんどなくなっていた佐文の綾子踊りが踊られるのも、この旱魃の時です。それが残された文書の日付から分かります。逆に云うと、県の対策は江戸時代と何ら変わりありません。大干魃に対して、県や村が取れる実効ある対策は皆無だったことがうかがえます。
そんな中で頻発するようになるのが水論(用水をめぐる争い)です。
(NO38は、一覧表の番号:一部意訳)
No.38 富熊村と法勲寺村との界にある仁池の配水問題がおこった。法勲寺村の安川部落民は池尻の分水標を固守した。これに對し富熊村農民は大いに憤慨し、百餘名が大擧して同池の閘(ゆる)を抜こうとして水爭ひ起きた。これに対して、滝宮(警察)署の鎭撫によつて22日午前3時半頃に一先(ま)づ解散した。依然紛糾を続けたが、村当局等の調停により其の後解決した。
No.12 川西村八丈池の水利問題に関してして、水上・岸上部落と池下・本村部落との間には(水利権をめぐって)從來から対立的立場にあつた。それが続く旱天 のため尖鋭化した。幸に11日よりの降雨によって、一旦は自然解決した。併し同池の紛爭はその後8月20日午前8時より大旱魃の後を受けて再起したが、坂出(警察)署員の鎭撫により一先づ解決した。
No.49 岡田村大字東小津森池 の配水問題は、8月上旬より紛糾し続け次第に激化した。27日午後8時頃よりの組合員の協議も譲らずらず、28日午後8時、用水掛上桶が部落民が發動機を使って引水して他部落との間に問題が起った。これも滝宮警察署によって鎭撫さる。
No.54 坂本村大字西坂本大束川上流にある播磨横井で水爭いが起きた。その原因は川原と三の池部落は元來大束川の水を用水として居た。ところが本年の旱天のため用水に困窮し、井出に發動機を控へ長さ6、70間 のトタン筒を以て飯野山々麓の田地へ灌水を行っていた。これを(川下の)川津村の人々が見つけ、大擧して押し寄せトタン筒を破壊して両村民の対峙するところとなった。坂出署の出動によつて9月5日手打を行つた。
以下 仲多度郡
No.45 8月26日 午前 と午後の2囘 善通寺大麻の農民が金倉川より發動機を以て引水した。これに水下の象郷村民が憤起して大宮橋下の井堰を切ろうとして問題となった。署員によつて鎭撫された後、27日朝も亦不穏となりたるも遂に解決せり。
Nc.34 筆岡村を流れ る弘田川を字富頭部落が臨時に弘田川橋上流100mの所に横関を作って發動機で引水したため下所部落と問題を生じた。善通寺署員等の鎭撫の結果、この富頭は1日間、下所は2日間の割当で引水することで解決した。
No.35 吉原村稗殿大池掛り90町歩の農民は協議の上で8月19日に池のゆる抜きを行つたが、それを上部池農民50名が独占しようとしたために池下部落民と一騒動となろうとした。幸に鎭撫され、殘水を下部落へも引水さすこととなつ て解決した。
三豊郡関係
No.44 桑山村岡本方面の稻田灌水用出水堀が隣接する本山村小橋附近にある。これを本山村で地下水を發動機を用ひて汲上げるため附近の井水が涸渇することとなり、両村の間が不穏となった。結局30日、井水の涸渇せぬ範囲内での使用する條件にて妥協した。
No.37 麻村岩瀬池の配水下にある上高瀬村の農民婦女子多数がが21日午前3時に大挙して勝間村大字大道の高瀬川に押寄せた。大道部落民が川に接近した竹數中の井戸から發動機で稲田9町歩 の用水を汲上げた結果、上高瀬の稻田に亀裂ができたとして、發動機を据付けた川底へ粘土を塗りって、蓆120枚を敷詰めて下流へ水を送ろうとして、勝間村民との対峙となつたのである。
この登場によって、それまでの水争い(水利争議)とは様子が違ってきたことが分かります。それまでは足踏みの揚水機が、讃岐でも数多く使用されていました。
この適切な対応ぶりの背景には、特高課、耕地課などが連絡協議会を開いて、対応策を練っていたことがあるようです。
県は国の指示に従って、日華事変(日中15年戦争)の非常時局下という認識の下に、「互譲相助の精神に基づく水利用」をするよう訓令を発しています。そして積極的に警察が水利争議に関与して、今までの慣行に縛られない解釈・対応をします。そのために大規模な流血の惨事などは、この時にはでていません。それがどんな手順・内容で行われたのかが知りたいところですが、残念ながら新聞記事には、そこまでは記されていません。
水さえ供給されれば、手を引きます。つまり、雨が十分に降れば、それまでの対立が嘘のように洗い流されたようです。
この時の被害対策として、満濃池の3次嵩上げ工事が計画され始めます。また、佐文では綾子踊りが、この時に踊られ、それを継承していくために、いろいろな記録が作られていくことになります。
炭谷恵副 香川縣の旱魃 ・旱害研究 昭和9年の大旱害を中心として 地理學評論