瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:満濃池と空海

      
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満濃池改修図

生駒藩時代に西嶋八兵衛によって再築された満濃池が、その後どのように維持されていったのかを見ていくことにします。『政要録写』『満濃池史要』からは、江戸時代の満濃池普請記録が下のように定期的に行われていたことが分かります。
満濃池普請表1
満濃池普請表2
○が御用普請 ◎が国普請 三重○自普請 ※( )内の数字は揺の耐用年数を概算したもの
 ○御用普請とは?
 材木や鉄類などの材料費と人夫の扶持米を幕府が負担し、池御料の年貢米によって賄われた普請。
 ◎国普請とは?
高松藩領、丸亀藩領、池御料、金比羅社領の四者が負担した普請
 自普請  
水掛かりの石高割りで農民が負担した普請。
 
この表からは次のようなことがうかがえます。
①平均すると10年に1回は池普請があったこと。
②底樋交換工事は、17世紀は15年毎だったのが、18世紀以後は半世紀に一度になっていて耐用年数が延びている。「技術改良」があったようだ。
③底樋は、工期が長くなるので前半・後半部の2つに分かて実施されている。
④17世紀は御用普請であったのが、18世紀には国普請になり、幕末には自普請で行われるようになっている。
なぜ定期的な「池普請」(改修工事)が必要だたのでしょうか?
ため池には水を抜くための取水施設として「底樋」と「竪樋」があります。
ため池底樋
底樋は箱状のもの、丸太をくり抜いたものや素焼の土管などが使われ、池底から勾配をつけて設置されます。「竪樋」には土手の内側に傾斜にそって設置し、いくつかの揺(ゆる)が設けられており、水位に応じて取水するようになっています 満濃池のように大きなため池は「竪樋」に「揺木」(「筆木」)で栓をして、これを引き抜く足場を設け、数人がかりで「揺る抜き」をしていました。

満濃池底樋と 竪樋
満濃池 文政3年の底樋と 竪樋
 木製樋管は腐りやすいので、その防止策として底樋の最末端に水だまりを設け、底樋を常に水に浸かるようにしていました。木材の代わりに、石材が利用されるようになるのは幕末になってからですが、これも石材化の最初の普請では「不良工事」となって接合部からの漏水し、決壊を招いています。抜本的な解決は鉄筋コンクリート管の登場まで待たなければなりませんでした。木が使われている以上は定期的に交換する必要がありました。そのためには堰堤を堀り、底樋を交換し、再び埋め直すという作業が求められたのです。これを怠ると堰堤は決壊します。
ため池底樋3
現在のため池の底樋
 人海戦術で行われた築堤工事
堰堤工事は、土を運んで突き固めるという繰り返しなので、大人数が必要でした。堤体の突き固めは、次のふたつの作業が行われます。
①棒・杵を用いて堤防を突き固める「千本搗き」「杵搗き」
②シテ振りとよばれる先導が多数の人足を前後左右に追い回し足で踏み固める「踏み締め」
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「杵搗き」と「踏み締め」
大きなため池の最難関は、工事中の洪水処理でした。
今ではダム建設の際には、本体工事に先立ち工事中の洪水を工事現場から逃がすための仮排水路を設けています。が、河川本流を堰き止めるような満濃池のような大きなため池では、仮の排水路を設けることは無理でした。そのため堤の両側から築き上げ、まん中の部分は最後まで水路として残しておいて最後に一気に締め切るという方法がとられていました。満濃池の仁寿3(853)年の工事では最後の締め切りにの際に
「夫役6,000人を発し、10日を限り力をつくして築き、俵ごも68,000余枚に砂土をつめて深処をうずめた」
とあります。堤の中央部は短期間に一気に築き上げるために、一番もろく堤防の弱点で、決壊の原因となったようです。
満濃池  竪樋.寛政jpg

 満濃池の底樋と揺替(寛政11年)
底樋や揺に使われた木材は
 初期の承応三年(1653)までの材料は、ほとんどが松材だったようで、耐用年数が短かったことが先の史料からも分かります。
竪樋は尺八樋と言われる構造で、慶長13年(1608)に河内国狭山池で「枝付尺八樋」が初めて使われるようになった新技術でした。そのため充分に使いこなせず最初の頃は、構造的に問題があったようです。
大阪で求めて、運ばれてきた木材
 万治元年(1658)の普請からは、耐用年数の延長と経費節減のために、底樋などの主要部分には草槙や檜のような高価な良材を使うようになります。良材は、周辺の山にはないので、大阪市場で買い求めるようになります。大阪町奉行所の「町中入札」で落札した材料は、落札者が海路丸亀港へ回送。それを普請方が受け取り岸上村の普請所まで運ばれます。樋大工も、備中・備前の先端技術をもった大工を呼び寄せています。ここからは満濃池のユル換え工事は、当時の最先端の技術と材料・職人が関わるトッププロジェクトだったことが分かります。

 しかし、時代を経るにつれて太い良材が手に入らなくなります。
そのため宝暦十二年(1762)からは、槻や栂を主要部分に使うようになります。主要部以外には使う松材は、満濃池に近い鵜足郡長尾村の御林(藩有林)から伐り出されています。次第に運ぶのに便利な近くの御林が選ばれるようになり、嘉永六年(1853)の普請には、中通村から切り出されたものが使われています。

満濃池ユル換え工事宝暦
満濃池 宝暦のユル換え平面図
 底樋の長さは六十五間(182メートル)、それを高さ十二間半(23メートル)の堤防の底の部分に敷設します。この底樋普請は前半と後半の二回の工期に分けて行われています。2回に分ける理由は
①工期が長くなり、その問に暴風雨や洪水に襲われる危険があったことと、
②年内には終わらないと、池に水を溜めることが困難になるため
だったようです。

満濃池普請5
満濃池底樋(文政2年)
普請は八月末から始められ、年内か遅くとも翌年の正月中には終わるように計画されていました。

 普請の際の労力は讃岐各地から集められた百姓達でした。
庄屋に引き連れられてやって来た百姓達は、付近の村々の農家に宿泊し、約五日間決められた規則に従って働きます。御用普請や国普請、自普請の種類は違っても、結局は農民の労力に頼るはかなかったのです。
満濃池池普請文政3年
満濃池普請図(文政3年)

文政十年の揺替普請(自普請)について
 文政十年(1827)の揺替普請の記録が残っています。それによると動員された「のべ人数」は底樋後半と竪樋櫓仕替で約25万人に上ります。夫役は水掛かりの石高に応じて配分されていて、高百石について約700人となっています。

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       満濃池ユル替工事の動員人夫数確認図 
一日にどれくらいの人たちが動員されたのでしょうか
たとえば文政十一年の冬の動員人数をみると、
  文政十一年正月十日 高松領十郡    六百七十人
            西   領   六百七十三人
              合計   千三百四十六人
      正月十二日 高松領十郡   九百九十三人
            西   領   九百九十三人
              合計   千九百八十六人
      正月十三日 高松領    千二百七十五人
            西領     千二百七十五人
              合計   二千五百五十人
      正月十四日 高松領      千四百二人
            西   領    千四百二人
              合計    二千八百四人
 となっていて、一日2000~2500人程度が動員されています。正月を越えての普請作業なので、工期終了間際のことだったのでしょう。これより遅くなると田植えまでに、満水にならなくなる可能性が出てきます。工期日程に間に合わせるための最後の動員だったかもしれません。ここから一日の動員数を2000人とすると、工期期間が9月からの4ヶ月間なので、
2000人×120日=24万人という数字が出てきます。
これを、どのように振り分けて動員したのでしょうか。
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満濃池人数改図(各村からの動員人夫数が確認されている)
桂重喜著『讃岐の池と水』で見てみましょう。
「高百石に付き約700人」の人夫割当を行ったようです。当時の田畑一反歩の平均石高を約一石一斗とすると、一反歩割当人夫数はのべ約8人となり、一戸当たりの耕作面積を五反歩とすると、一戸当たり「のべ人数38人」の割当となるようです。普請に出向いた百姓は、1回について最低十日は普請小屋に滞在し、使役に従事しなければならなかったので、一戸当たりの割当人夫38人ということは、普請の年はこれを三、四回は繰り返さなければならなかったことになります。これを村役人は、各戸に分配負担させていったのでしょう。
 しかし、百姓の方も心得たもので、一家の労働の中心となる担い手は避け、老人や年少者を差し出していたようです。嘉永二年(1849)の底樋仕替普請の際に丸亀藩が出した「定書」には次のように記されています。
「満濃池御普請中、私用の者は申すに及ばす、無益の人足差出し仕りまじく候事」

逆読みすると老人や年少者などの「無益の人足」が差し出されていたことがうかがえます。
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 行こうか、まんしょうか、満濃の普請、百姓泣かせの池普請

 と謡われた里謡が残っています。その実態を探って見ましょう。
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 私は最初は、満濃池普請は水掛かりの地域だけ、つまり丸亀平野の百姓達だけに割り当てられていたのかと昔は思っていました。ところが今見てきたように、そうではないのです。東讃の農民も、三豊の農民も割り当てられていたのです。つまり、讃岐国中の百姓達による普請工事だったのです。自分たちの田んぼに引かれてくる水のことならやる気も出るでしょうが、他人の田んぼのための池のために動員されたのです。これが驚きの一つでした。

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満濃池普請図右側(嘉永年間 始めて石底樋が使われている)
 各地からの村々の農民の動員や引率・管理など普請人足の統率を担ったのは庄屋たち村役人でした。人足の確認、扶持米などの受け取りと支給などにあたっています。
 たとえば、ペリーがやって来る4年前の嘉永二年(1849)の普請時には、高松領分で池普請に当たったのは那珂郡、鵜足郡の庄屋の中から一名、他の八郡の庄屋の中から一名が交替で普請場に詰め、指揮にあたっています。その際の庄屋の服装と満濃池までの行列についても藩から厳しく規定する次のような文書が残っています。
一、行列は馬または駕龍は勝手次第。
二、両掛、雨具を備え、若徒、槍持ち、草履取りを従えること。
三、衣類は越後平地の帷子、絹の羽織、川越正徳平の袴または葛の野袴、または紋付綿服、帯刀のこと。
   普請が始まると、普請場には役人の出張小屋や普請小屋、大工小屋などが建てられます。

満濃池普請小屋図1
満濃池小屋掛図
満濃池の場合は高松藩、丸亀藩、多度津藩の他に池御料、金毘羅社領など複雑に分かれていました。そのため現場には、各藩が別々に小屋掛けをしていました。
大野原からやってきた池普請組
 大野原(観音寺市)の井関村庄屋・佐伯家には、文政三年(1820)の池普請に参加した当主・民右衛門が残した「満濃池御普請二付庄屋出勤覚書」があります。

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 満濃池普請図左側(嘉永年間 始めて石底樋が使われている)

この記録から池普請に動員された農民達について見てみましょう。
この時の普請は、堤の外側を掘り下げ、木製底樋の半分を交換するものでした。現在の観音寺市大野原町を含む豊田郡和田組の村々からは、約三百名の人々が駆り出されています。その監督役として、民右衛門は箕浦の庄屋小黒茂兵衛と満濃池に出向きます。九月十二日の早朝出立した民右衛門は、財田川沿いの街道をやって来て昼下がりに宿泊地に指定された骨山(旧仲南町帆山)に到着します。そして、丸亀藩役人衆への挨拶に行っています。

決壊中の満濃池
幕末の満濃池決壊時の地図
(池の中を金倉川が流れている 朱色部分が丸亀京極藩)

 なぜ、満濃池に近い福良見に丸亀藩は、現地事務所を置かないのかと思いました。
調べてみると帆山までが丸亀領で、その向こうの福良見は高松領でした。ここが高松藩と丸亀藩の国境だったのです。そのため丸亀藩の東端の帆山(ほのやま)に現地事務所は置かれたようです。
 三豊からやてきた百姓は、帆山など周辺の寺院などに分宿し、食事は自炊です。ある意味、手弁当による無償動員なのです。
 翌日、工事現場への集合は太鼓の合図で行われます。
周囲に分宿していた人々が集まり、蟻が這うように見えたと記します。
十三日は、雨天で工事は休み
十四日もぬかるみがひどく休日
十五、十六両日は工事を実施。
和田組村々の人足は、三班に分かれて工事を行っています。
ところが和田組の人夫が立入禁止区域に入って、用を足したことを見咎められ、拘束されるという事件が発生します。これを内済にしようと、民右衛門は奔走。池御料側、櫛梨村庄屋庄左衛門らの協力により、ようやく内済にこぎつけるのです。そのためか、十六日は、櫛梨村と和田組村々の人足が、同じ班に入って作業を行っています。同日昼下がり、民右衛門は五日間の役目を終え、夜更けに帰宅しています。庄屋として責任を果たし、安堵したことでしょう。

満濃池底樋石造化工事
満濃池底樋石造化工事 
 三豊の百姓にとって、自分たちの水掛かりでもない満濃池の普請で、しかも寝泊まりも不便な土地でただ働きをさせられるのですから不満や不平が起きるのは当たり前だったのかも知れません。しかし、一方で民右衛門のように「事件」を通じての他領他村の人々との交流が生まれ、人的なネットワークが形成されるきっかけにもなりました。また満濃池普請という当時の最先端技術についての情報交換の場になり、地元でのため池工事や土木工事に生かされるという面もあったようです。  
   一方、自ら進んで池普請に参加する人たちもいました。
  塩飽の与島の島民たちです。
満濃池とは関係のない塩飽諸島の島民たちがなぜわざわざ普請にやってきたのでしょうか。しかも自発的に。与島には、
「満濃池の普請に出向かないと、島の井戸が干しあがる」
という言い伝えがあったようです。島民のほとんどが真言宗であり、信徒として空海と満濃池、島民との繋がりが生まれたのかもしれません。しかし、本当のところは分かりません
参考文献   満濃池史所収 江戸時代の満濃池普請 

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  満濃池の築造については、
「当時の讃岐国司が朝廷に対し、満濃池修築の別当として空海を派遣することを求め、その求めに応じた空海が短期間に築造した」
というのが、一般的に語られている話です。 
 それでは、どんな資料に基づいているのでしょうか?
貴重資料画像データベース | 龍谷大学図書館

空海の満濃池築造説を伝えているのは、日本紀略(にほんきりゃく)です。平安時代に編纂された私撰歴史書で、その範囲は神代から長元9年(1036年)までで、成立時期は11世紀後半から12世紀頃ですが詳細は不明で編者もわかりませんし、本来の書名もはっきりしないようです。
満濃池築造については「弘仁十二年(821)七月二十五日の条」に次のようにでてきます。 
讃岐国言、始自去年、提万農池、広大民少、成功末期、僧空海、此土人也、山中坐禅、獣馴鳥狗、海外求道、虚往実帰、因茲道俗欽風、民庶望影、居則生徒成市、出則追従如雲、今離常住京師、百姓恋慕如父母、
若聞師来、必倒履相迎、伏請宛別当、令済其事、許之         
讃岐国言(もう)す。去年より始め、万農池を堤る。工(広)大にして民少なく、成功いまだ期せず。僧空海、此の土人なり。山中坐禅せば、獣馴れ、鳥獅る。海外に道を求め、虚往実帰。
これにより道俗風を欽み、民庶影を望む。居ればすなわち生徒市をなし、出ずればすなわち追従雲のごとし。今旧土を離れ、常に京師に住む。百姓恋慕すること父母のごとし。
もし師来たるを間かば、必ずや履を倒して相迎えん。
伏して請うらくは、別当に宛て、その事を済さしむべし。これを許す。
さらに現代語に意訳すると
「讃岐国司が朝廷に対して次のように求めた。昨年より築堤を開始しているが、池が工大(広大)であり、人員不足により築堤工事に困難を極めていたため、讃岐国出身で民から父母の如く恋い慕われた空海を修築の別当として派遣して欲しい。
 讃岐国司の清原夏野が満濃池修築の別当として、空海の讃岐帰国を奏上する有名な文章は、日本紀略に記されているのです。つまり、空海亡き後2百年後に書かれたもので同時代文書ではないのです。しかも書かれている内容はこれだけです。ここには護摩壇岩で護摩祈祷をしたことなど、讃岐に帰国して、満濃池修築にあたった様子は何も記されていません。
満濃池
満濃池後碑文

これに対して、空海=満濃池築造
関与をうかがわせるのが「萬農池後碑文」(まんのうのいけのちのひぶみ)です
これは名古屋市真福寺所蔵「弘法大師伝」の裏書に残されているもので、『香川叢書』に載せられています。碑文の最後には寛仁四年歳時庚申(1020)年の期日が記されています。この時点で、萬農池の歴史を振り返った碑文と考えられています。 碑文の内容は、
1 満濃池の築造の歴史
2 讃岐国主の弘宗王が仁寿年間の(八五一~八五四)に行った築造工事の概要
3 最後に、その際に僧真勝が行った修法について
ちなみに碑文全文字が437字で、その6割強にあたる269字を使って、弘宗王の修造工事の概要を述べていて、最後の103字が僧真勝が行った修法の記述に宛てられています。ここから内容的には弘宗王の顕彰碑文であることが分かります。具体的に碑文を見ていきましょう。

萬濃池後碑文[建仁元年(一二〇一)】

満濃池後樋文
   満濃池後樋文

          満濃池後樋文を読み下し文に改めたものを挙げておきます。
この池は大宝年中、国守道守朝臣の築くところなり。
旧記位名を汪(記録)せず。空しく以て嵯歎(さたん=嘆かわしい)す。古人伝えて云く、この堤前世類れ破ると、しかれども文書綸亡して、その実知りがたし。近曽弘仁九年流れ破れ、再び官使を下して、三年の内にすなわち築きなす。
意訳変換しておくと
この池(満濃池)は、大宝年中に讃岐国守の道守朝臣が築いたものである。ところが以後の記録には、それが記録されることもないのは、嵯歎(さたん=嘆かわしい)ことだ。古人伝えて云うには、この池の堤防は何度も決壊しているのに、文書に残っていないので、その実態が伝わっていない。最近では弘仁9年にも決壊し、再び官使を讃岐に下して、三年の内に再築した。
これを要約しておくと
①満濃池は大宝年中(701~704)年に、国守道守朝臣によって築かれた
②その後、
満濃池は何度も決壊したが記録が残っていないので実際のことが伝わっていない
弘仁九年にも決壊し、この時には官吏によって3年以内に再築された。
③の部分が先ほど見た「日本紀略 弘仁十二年五月二十七日条」の空海の登場と一致します。さて、これからが空海の登場かと読み進んでいくと、「萬濃池後碑文」の弘仁九年の記述はこれだけです。わずか漢字一八字のみです。空海の文字は、どこにもでてきません。この史料からは、この時の修復工事を空海が行ったとは云えません。空海=満濃池不関与説を裏付ける史料と云われる由縁です。

そして、讃岐国主の弘宗王が行った築造工事に移ります。
仁寿元年之秋、天下大水超堤上、少剋之間、掃底而流、国中之池大小悉破、一年春有大疫。又荒餓、今茲旱魅八十余日、国虚耗、民無所拠、秋八月権守正五位下弘宗王、含朝之倫旨、在残害之百姓、即巡諸郡、検察損物、兼悠愁苦之民間、
閏八月朔 抒破水 内盤石、始発使失二千余人、平築堤本、五日而上、起自十月上旬 発夫千以下、輪転令築、此苦各築諸郡破堤、三年二月朔、大発約失六千余人、限約十日、戮令築、十一日午剋、大功已畢、爰水(頑)猶高 不可益害、
是以明年春三月、発夫二千余人、更増一丈五尺、通前八丈、
其成事之舷、以俵薦六万八千余枚、嚢口土填深処、由比其功早遂、声満天下、惣公夫単一万九千八百余人、所用物数一 
千几見聞之中、只記大綱、細々之事不題注、
書き下し文にすると
仁寿元年の秋、天下大水、堤上を超え、少剋の間、底を掃いて流る。国中の池大小悉く破る。二年春大疫あり。又荒饑す。今、ここに旱魃八十余日、国既に虚耗して、民拠るところなし。秋八月権守正五位下弘宗王、朝の綸旨を含み、残害の百姓に莅(のぞ)む。すなわち諸郡を巡り、損物を検察し、兼て愁苦の民間を愍む。閏八月朔、始て使夫二千余人を発し、平に堤本を築き、五日にして上る。十月上旬より起こりて、夫千以下を発し、輪転して築かしめ、ならびに水門の盤石を破る。この苦各々諸郡の破堤を築く。三年二月朔、大いに役夫六千余人を発し、限るに十日を約して、戮あわせて築かしむ。十一日午剋、大功已に畢る。爰に水内猶高し。害なかるべからず。、是を以て明年春三月、夫二千余人を発し、更に一丈五尺を増す。前に通じて八丈、その事をなすの体、俵薦六万八千余枚を以て、沙土を嚢んで深き処に填む。これによってその功早く遂ぐ。声天下に満つ。惣公夫単一万九千八百余人、用いるところの物数一千二万余束、およそ見聞の中、ただ大綱を記す。細々の事題を注せず。老僧恭くも国請に応じ、三僧を率い随いて、始より終まで作法練行す。これにおいて仏力を蒙るによって、それ民恙(つつが)なし。国司欣悦して、官に申し上ぐ。聖主衿愍して、満海岳の恩を施したもう。本、所望にあらず。しかるに太守賢君、宵衣公に勤め、肝食疲れを忘れ、口に秘密の真言を唱え、内外、処分の内に、国楽しみ、民富む。海岳と謂うべきは、虚実王祥に頼る。
寛仁四年歳次庚
意訳変換しておくと 
仁寿元年の秋、国中に大洪水が起こって、水は堤の上を超え、しばらくの間に底を掃って流れた。国中の池が大小ことごとく破れた。二年春、悪い病気が大流行して豆がらも成長しなかった。その上、干ばつが八十余日続いて讃岐国内には食べるものも乏しくなり、人々は頼るところもなかった。
 そこで秋八月、権守正口位弘宗王が、讃岐国主となって惨害に苦しんでいる百姓を治めることになった。早速諸郡を巡って災害の程度を調査し、兼ねて愁い苦しんでいる人々を慰撫した。
潤の八月一日、初めて役夫二千岳人を出して、堤を築かせ、五日にして上り起った。十月上旬からは人夫六千人を出し、車の輪がくるくるまわって止まらないように休む暇なく築かせ、大岩石を破って水門を築いた。このような苦しい作業を続けて、破れていた堤を築くことに成功した。
 三年二月一日、大いに役夫六千余人を出して、約十日を限って、力を勁せて築かせたので、十一日午刻、大工事がとうとうできあがった。しかし、水門の高さがなお不足であったので、明年春三月、役夫二千余人を出して、更に一丈五尺を増したので、前通り(内側)を八丈の高さに築きあげた。 このように大工事が早くできあがったのは、俵ごも6万八千余枚に沙土をつめて深い所に沈めたから、これによって早く功をなし遂げることができた。この功績に、驚きの声は天下に満ちた。
 この工事は、一万九千八百余人の人夫を集め、この人々の用いたところの物の数(食料)は、十二万余来の稲である。凡そ見聞の口記大綱は以上のようで、細々の事は、書き上げることができない。
これに続いて、僧真勝の修法と、この修造工事が各階層の人々に喜ばれたことを述べて碑文は終わっています。 もう一度繰り返しますが、この碑文には空海については、何も触れられていません。それよりも仁寿年間の(851~54)に讃岐国守弘宗王が行った築造工事を取り上げ、その成果と功績を讃える内容になっています。これをどう考えればいいのでしょうか。 

弘宗(ひろむね)王とは何者?

弘宗王は、天武天皇の皇子舎人親王の後裔のようです。各地の国守を歴任したキャリアでもあるようです。853(仁寿二)年2月28日、丹波守から転じて讃岐国守として讃岐にやってきます。「萬農池後碑文」によれば着任後に満濃池の修復工事を行った事になります。その功績が認められたのでしょうか、860(貞観2)年正月16日には右京大夫に、同年8月26日には大和守に任じられています。
 貞観四年、右大臣藤原良相は上書して「地方政治を振興するためには人を得ることが肝要である」と述べ、五人の地方官の名を挙げていますが、その一人に弘宗王が選ばれていて、次のように推薦しています。 
「大和守弘宗王は、すこぶる治名がある。彼は多くの州県を治めた経験があり、地方妁政治について、見識をもった人物である。」
その後弘宗王は、貞観七年正月二十七日、散位従四位下を賜り、弘宗王は越前守に任命され、それから四年間、越前守としてその任にあっています。
讃岐においては、ほとんど知られない人物ですが当時の都ではやり手の地方長官として名前を知られていた人物のようです。讃岐では、空海に光が向けられますので、彼に言及することは少ないようです。また、地元のまんのう町史は、国司在任中に訴えられている事などを挙げて、低い評価を彼にはしているようですから

「萬濃池後碑文」の撰者は? この碑文が作られた背景は?

 弘宗王が讃岐権守に任じられる前年に、彼の子供(男子八人)の王号を改めて、中原真人の姓を賜りたいと申し出て許されています。その後、中原真人の姓をもらった一族のなかからは、朝廷に仕えて文筆の家として活躍する人たちが輩出します。そのため祖先の弘宗王を顕彰するために、その子孫たちが建てた石碑の写しというのが現在考えられている所のようです。
「日本紀略」と「萬濃池後碑文」の記事を年表にして、前後関係を見ておきましょう
大宝年間(701)讃岐国主道守朝臣 満濃池を築く    |
818 弘仁9   万農池が決壊、官使を派遣させ修復させる。
820 弘仁11  讃岐国守清原夏野が、朝廷に築造使の派遣申請・修復着工
821 弘仁12  5月27日、工事難航のため、改めて築池別当として空海の派遣を要請。7月からわずか2か月余りで再築完了。
851 仁寿1 秋 大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊
852 仁寿2   讃岐国守弘宗王が閏8月より万農池の復旧開始
   翌年3月竣工。夫19,800人、稲束12万束、俵菰6万8千枚使用。(萬濃池後碑文)
881 元慶5  萬農池神に従五霞授けられる。(三代実録)
947 天暦1 讃岐国守源正明、多度郡道隆寺の興憲僧都に命じ、満濃池の地鎮祈祷を行わせる。これ以前に決壊があったと推測される。
1020 寛仁4 萬濃池後碑が建立。(萬濃池後碑文)           
       この頃「日本紀略」に空海の満濃池修築が記される

            「今昔物語集」に満濃池が登場する。
1184  元暦1 5月1日、満濃池、堤防決壊。
この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。 池の内に集落が発生し、池内村と呼ばれる
年表から分かることは?
① 「萬濃池後碑文」の弘仁9年(818)の決壊は『日本紀略』の弘仁12年(821)の築堤に一致します。ここからは「萬濃池後碑文」の伝える大宝年間(701-704)までさかのぼることは出来ないかもしれませんが、それ以前に「原」満濃池があったことはうかがえます。築造を否定することはできないようです。
② 空海が係わった弘仁12年(821)の修築後も満濃池は破堤しています。
「萬濃池後碑文」は仁寿元年(851)秋、大雨により満濃池をけじめ讃岐国中の池が決壊し、国司(権守)弘宗王は諸郡の池を修築を進めて、仁寿4年(854)に満濃池の修築を完了したと記されています。 
古代史料における決壊・修築の記事はこの2回です。
時代は下りますが幕末の『讃岐国名勝図会』は、治安年間(1021-24)の改修後の元暦元年(1184)の大洪水により破堤したあとは、修築されず田地となったといいます。  

「萬濃池後碑文」に空海が登場しないのはどうしてか?

 「日本紀略」と「萬濃池後碑文」は11世紀前半に相前後して成立した文書です。前者が大きく空海を取り上げ、後者がまったく触れないのはどうしてでしょうか。
 「萬濃池後碑文」の選者の立場として
① 「空海=満濃池築造説」を知らなかった。
② 讃岐国守弘宗王の顕彰のために「空海」を登場させなかった 
現在の「空海=満濃池築造説」では②が指示され「萬濃池後碑文」は偽書であるとか、内容に大きな問題があり、取扱に注意すべきであるという立場を取る専門家が多いようです。
しかし「満濃池後碑」には修復工事にかかわる具体的な数字や行程が記されています。「日本紀略」の空海修繕に関しての「物語的・演劇的」な内容よりも信頼性があると考える専門家もいます。
少し遅れて11世紀後半に成立する今昔物語には「空海=満濃池築造説」に従う物語が2つ取り上げられています。
この背後には、弘法大師伝説の普及があります。当時の大師信仰を信じる真言密教の僧侶や修験者にとっては、「萬濃池後碑文」の内容は受けいれがたいものだったのかもしれません。その「反撃」の流れの中で日本紀略の満濃池築造の記述は、この時期に記されたという仮説は考えられます。
 以上

参考文献 萬濃池後碑文 満濃町誌(116p)


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