①伊予の御村別の子孫が讃岐に移り、この地方を開拓して地名を伊予の神野郡に因んで神野と呼び、神野神社を創祀したという。②これに対して神櫛王又はその子孫である道麻呂が、天穂日命を祀ったのが神野神社であるともいわれている。二つの説は共にこの神社が、この土地の開拓に関係のある古社であることを物語っている。③更に神野神社は、満濃池地の湧泉である天真名井に祀られていた水の神(岡象女命)を池の神として祀った神社であるという説がある。④808(大同三)年に矢原正久が、別雷神を現在地の東の山上に加茂神社として祀ったのは、満濃池地を流れていた金倉川の源流を鎮め治めるためであったと思われる。821(弘仁十二)年に空海によって満濃池の修築が完了したので、嵯峨天皇の恩寵に感謝した村人が、嵯峨天皇を別雷神と共に神野神社の神として祀ったと伝えられる。
⑤その後「讃岐国那珂郡小神野神社」として、式内社讃岐国二十四社の一つに数えられるようになった。『三代実録』によると、正六位上の位階を授けられていた萬農池神が、881(元慶五)年に位階を進められて従五位下になっている。満濃池築造後は、祭神はすべて池の神として朝廷の尊信を受けたのである。⑥1184(元暦元)年に満濃池が決壊して後も、この地の豪族であった矢原氏の歴代の人々が、山川氏の人々と共に神野神社を崇敬して社殿の造営を行ってきた。現在、神野神社の社宝として伝えられている金銅灯寵の笠(第二編扉写真参照・室町時代に作られた)にその期間の歴史が刻み込まれている。⑦1625(寛永二)年、生駒氏の命によって満濃池の再建工事に着手した西嶋八兵衛は、まず「池の宮」の神野神社を造営し、寛永八年に満濃池の工事が完成して後は、神野神社もまた「池の宮」としての威容を回復したのである。⑧その後、1659(万治二)年、1754(宝暦四)年、1804(文化元)年、1820(文政三)年と池普請の度毎に社殿の造営が行われ、⑨1953(昭和28)年の満濃池の大拡張工事で、池の堤に近い山の上の現在地に移転したのである。⑩その間に、1869(明治二)年からの満濃池再築工事に功績のあった高松藩執政松崎渋右衛門と、榎井村庄屋長谷川佐太郎の二人を祀った松崎神社を、神野神社の境内に建立した。⑪現在の神野神社は満濃池を見下ろす景勝の地にあって、弘法大師像と相対している。社前には、1470(文明二)年に奉献された鳥居(扉写真参照)が立っている。神宝として伝えられている宗近作の短剣は、宝暦十一年の幕府巡見使安藤藤三郎・北留半四郎・服部伝四郎の寄贈した大和錦の鞘袋に納められている。
④空海の満濃池改築以前に、矢原氏が賀茂神社や神野神社を建立していた
空海派遣の知らせを受けた矢原氏は空海の下向を待った。『矢原家々記』によると、空海は弘仁十一年四月二十日に矢原邸に到着している。空海到着の知らせを受けた矢原正久が屋敷のはずれまで空海をお迎えに出たところ、空海は早速笠をとり、「お世話になります。池が壊れてはさぞお困りでしょう。工事を早く進めるつもりです。よろしくお願いします」そう丁寧に挨拶をされたという。正門も笠をとってから入られたということで、それ以来、矢原家の間をくぐるときは、どんなに身分の高い方でも笠をとってから入ることになったという話が伝えられている。空海が到着したとき、築池工事は既に最後の段階に近づいており、川を塞き止めて浸食谷の全域を池とする堤防の締切工事だけが残っていたと考えられている.
ここでは後世に書かれた『矢原家々記』の内容を、そのまま事実としています。ここから読み取れることは、矢原家が空海との結びつきを印象付けることで、自分たちの出自を古代にまでたどらせようとしている「作為」です。古代に矢原氏がこの地にいたことを示す根本史料は何もありません。後世の口伝を記した『矢原家々記』を、そのまま事実とするには無理があります。
これは1625年に西嶋八兵衛が満濃池再築の際に、描かれたとされるものです。ここには、堤防がなく、④護摩壇岩と②池の宮の間を①金倉川が急流となって流れています。そして、堰堤の中には「再開発」によって、⑤池之内村が見えます。②の池の宮を拡大して見ます。
満濃池営築図の池の宮
よく見ると②の所に、入母屋の本殿か拝殿らしき物が描かれています。鳥居は見えません。ここからは由緒には「西嶋八兵衛による満濃池再築にも矢原氏が協力し、池の宮が再築された」とありますが、池の再築以前から池の宮はあったことになります。
③には由来の一つに「満濃池の湧泉である天真名井仁祀られていた水の神(岡象女命)を池の神として祀った神社」とありました。中世に再開発によって生まれた「池之内村」の村社として、池の宮は「水の神を祀る神社として、中世に登場したのではないかと私は考えています。それが満濃池再築とともに「満濃池神」ともされます。こうして、満濃池の守護神として認知され、満濃池の改修に合わせて、神社の改修も進められるようになります。それを由緒は、「1659(万治二)年、1754(宝暦四)年、1804(文化元)年、1820(文政三)年と池普請の度毎に社殿の造営が行われた。」と記します。しかし、近世前半に満濃池が描かれた絵図は、ほとんどありません。絵図に描かれるようになるのは、19世紀になってからのことです。満濃池が描かれた絵図を「池の宮」に焦点を当てながら見ていくことにします。
「まのいけ(満濃)池の池とはいはじ うなはらの八十嶋かけてみるこゝちする」
本殿や拝殿の正面は、池ではなく、堰堤に向かって建っていたことが分かります。ここでは、滝宮念仏踊りの七箇村組の踊りも、滝宮に行く前に奉納されていたことは、以前にお話ししました。
次の絵図は嘉永年間の池普請の様子を描いたものです。
次に池の宮が絵図に登場するのは、明治の底樋トンネル化計画の図面です。
大正時代のユル抜きの際の3枚の写真を見ておきましょう。
①中世の満濃池は決壊し、池跡には池之内村が現れていた。
②堤防跡に、その水神として祀られていたのが「池の宮」である。
③西嶋八兵衛による再築後は、満濃池の祭神として人々の信仰をあつめた
④池の宮は、堤防改築期に定期的に改修されるようになった。
⑤池の宮では滝宮念仏踊り七箇村組の踊りが、滝宮への踊り込みの前に奉納されていた。
⑥明治になると「神野神社」とされ、式内社の論社となった。
⑦大正時代にレンガ製の取水塔ができるまでは、満濃池のユル抜きは池の宮前の一番ユルで行われていた。
⑧戦後の堤防嵩上げ工事で、池の宮の鎮座していた丘は削り取られ更地化されて湖面に沈んだ。
⑨池の宮は神野神社として現在地に移転し、本殿などが新築された。
今日はこのあたりにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 満濃池名勝調査報告書 2019年3月まんのう町教育委員会
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