瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:満濃池土地改良区

 前回は戦後の満濃池土地改良区が財政危機から抜け出して行く筋道を押さえました。今回は土器川右岸(綾歌側)の土地改良区がどのように、用水確保を図ったのかを見ていくことにします。テキストは「辻 唯之 戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢18」です。

土器川と象頭山1916年香川県写真師組合
土器川と象頭山(1916年 まんのう町長尾)

土器川は流路延長42㎞で、香川県唯一の一級河川ですが、河川勾配が急なため降雨は洪水となって瞬時に海に流れ出てしまいます。そして扇状地地形で水はけもいいので、まんのう町の祓川橋よりも下流では、まるで枯川のようです。
飯野山と土器川
土器川と飯野山(大正時代)
しかし、これはその上流の「札ノ辻井堰(まんのう町長尾)」から丸亀市岡田の打越池に、大量の用水を取水しているためでもあります。近世になって開かれた綾歌郡の岡田地域は、まんのう町炭所の山の中に亀越池を築造し、その水を土器川に落とし、札ノ辻井堰から岡田に導水するという「離れ業的土木工事」を成功させます。これは土器川の水利権を右岸側(綾歌側)が持っていたからこそできたことです。左岸の満濃池側は、土器川には水利権を持っていなかったことは以前にお話ししたとおりです。

土器川右岸の水利計画2
「亀越池→土器川→札の辻井堰→打ち越池」 
土器川は綾歌の用水路の一部だった 
 第3次嵩上げ事業の際に満濃池側は、貯水量確保のために綾歌側に土器川からの導水を認めさせる必要に迫られます。そのための代替え条件として綾川側に提示されたの、戦前の長炭の土器川ダム(塩野貯水池)の築造でした。それが戦後は水没農家の立ち退き問題で頓挫すると、備中地池と仁池の2つの新しい池の築造などの代替え案を提示します。こうして綾歌側は、土器川の天川からの満濃池への導水に合意するのです。今での事業案を土器川左右両岸に分離し、次の2つの事業として実施されることになります。
左岸の満濃池側の事業を「県営満濃池用水改良事業」
右岸の綾歌側の事業を「県営土器川綾歌用水改良事業」
こうして右岸(綾歌側)のために策定されたのが「香川県営土器川右岸用水改良事業計画書」 (1953年)です。この計画によると

満濃池右岸水系
①「札ノ辻井堰」を廃止してそのすぐ上流に「大川頭首工」を新築
②あわせて旧札ノ辻井堰から打越池や小津森池、仁池につながっている幹線水路を整備
③さらには飯野地区までの灌漑のために飯野幹線水路を整備
 しかし、大川頭首工の新設と幹線水路の改修だけでは綾歌地区2200㌶の灌漑は、賄いきれません。必要な用水量確保のために、考えられたのが次の二つです
④亀越池のかさ上げ
⑤備中地池と仁池の2つの新しい池の築造
備中地池竣工記念碑
備中地池竣工記念碑 1962(昭和37)年

この右岸地区の用水計画を行うために作られたのが、「亀越池土地改良区 + 飯野土地改良区 + 羽間土地改良区」など8つの土地改良区の連合体で構成された香川県右岸土地改良区連合(以下連合)のようです。
 土器川右岸用水改良事業は、次のように順調に進んでいきます。
1954(昭和29)年度 打越池幹線水路改修、
1956(昭和31)年度 仁池幹線水路改修
1957(昭和32)年度 小津森池幹線水路改修
1959(昭和34)年度 大川頭首工建設
1962(昭和37)年度 備中地池新設
1963(昭和38年)度 飯野幹線水路改修
一方、亀越池の嵩上げ工事は、用地買収が難航して着工できない状況が続きます。そんな中で昭和38年度末に連合の事業は全面ストップしていまいます。
亀越池
亀越池
  順調に進んでいた工事がどうしてストップしたのでしょうか?
土器川右岸用水改良事業の資金は、国・県が75%、地元25%の負担率でした。地元負担金は各土地改良区から徴収する賦課金でまかなわれることになります。定款によれば、賦課金のうち備中地池や大川頭首工など水源地事業は、全事業費を各土地改良区の受益面積で按分し、水路事業は事業費20%を全土地改良区で負担、残りの80%は関係土地改良区が負担するというルールになっています。そのため幹線水路の改修工事の場合、当幹線水路の土地改良区が賦課金を負担できないと、工事は進められなくなります。
 そうした中で、1955(昭和30)年に飯野村が丸亀市に合併されると、飯野土地改良区からの賦課金の徴収が滞るようになります。さらに1960(昭和35)年には羽間土地改良区が連合を脱退することを決め、以降賦課金を納入しなくなります。こうして連合全体の財政が悪化し、ついに事業そのものを続けることが出来なくなります。
 そうした中で農林漁業金融公庫に対する償還金が支払えずに未払い分がふくれ上がっていきます。
対応策として連合は1965(昭和40)年12月、降賦課金を納入しない飯野、羽間の両土地改良区連合と丸亀市に対し訴訟を起こします。これに対して、高松地方裁判所は裁判による決着をさけ、県当局に調整を依頼します。たしかに飯野土地改良区の賦課金滞納、羽間土地改良区の賦課金未納は法律違反です。しかし、羽間土地改良区側には次のような言い分もありました。
①大川頭首工が建設されたために羽間地区の水源である「大出水」が枯渇したこと
②羽間池導水路工事に対する連合の助成が不履行であること
 また、丸亀市も次のように主張します。

「これまで飯野村が助成してきた飯野土地改良区の賦課金は、合併以降は丸亀市が代わって助成する約束になっていると、飯野村はいうけれど、市当局の認識はそのような合意は明文上成立していない。それに事業受益地の末端にある飯野地区では、亀越池のかさ上げが実現していない現状では、幹線水路を改修しても、事業の用水増強効果はほとんど期待できない。」

さまざまな事情を考慮した結果、裁判所は和解による解決の途を奨めます。
和解は1973(昭和48)年8月になってようやく成立します。この間、連合は両土地改良区の受益地に対して用水供給のための措置を講じる一方で、1966(昭和41)年3月には、総会において事業の打切りを決定します。そして亀越池かさ上げに代わる水源に、香川用水を宛てることにします。土地買収が必要な亀越池かさ上げでは1立方メートル当たりの水価 220円に対し香川用水では60円ですむ計算が出されています。香川用水の方が1/3以下も安いのです。こうして香川用水に頼って、自前による用水確保(亀越池嵩上げ)を放棄することになります。これは賢明な決定だったようです。この年には、香川用水建設規成会が設立されます。翌年に早明浦ダムの本体工事に着手して香川用水の実現も間近という背景がありました。
   前回もお話ししたように土地改良区の財政悪化問題は、綾歌や満濃池土地改良区にかぎったことではありませんでした。ある意味では全国的現象でした。その背景には高度経済成長期以降における農民層の階層分化という歴史的変化があったと研究者は指摘します。高度経済成長下の農村からは大量の人口流出が進みます。その反面で、兼農家が増え続けたことはよく知られています。生産意欲が高く土地改良などに積極的な専業農家層に対し、兼業農家は「土地持ち労働者」と呼ばれました。つまり農地に対する資産保有的意識が強いけれども、土地改良投資などには出し惜しみをする農家層だとされます。嵩上げ事業や用水路整備などの土地改良事業は、兼農家層には大きな負担や重圧になります。土地改良区の財政的弱体化の根底には、このような 兼業農家の激増という日本農業の構造的変動があったと研究者は指摘します。
以上をまとめておきます。
①戦前に策定された満濃池第3次嵩上げ事業は、戦時下の食糧生産増強という国策を受けて、土器川両岸の改良計画であった。
②しかし、戦後の計画では目玉となる「土器川ダム」が頓挫し、土器川から満濃池への導水については、右岸(綾歌)側の強い反発を受けるようになった。
③そこで県は新たな貯水量確保手段として「備中地池・仁池の新築 + 亀越池嵩上げ」を提案し、綾歌側の合意を取り付けた。
④こうして土器川右岸(綾歌側)は、独自の計画案で整備計画が進められるようになった。
⑤しかし、一部の土地改良区からの賦課金未納入や脱退が起こり、整備計画は途中中止に追い込まれた。
⑥この背景には、計画中の香川用水を利用する方が経済的に有利だという計算もあった。
⑦こうして綾歌地区は亀越池の嵩上げ工事に着手することなく、香川用水の切り替えを行った。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「辻 唯之 戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢18」

戦前の1939(昭和14)年に始まった満濃池第3次嵩上げ事業が完成したのは、1959(昭和34)年3月のことでした。天川頭首工の完成によって、満濃池用水改良事業はすべての工事を完了します。しかし、これを歓んでばかりはいられない状況に、満濃池土地改良区にはありました。それは忍び寄る財政破綻の危惧です。今回は戦後の満濃池土地改良区の財政問題について見ていくことにします。テキストは「満濃池史220P 財政不振とその再建」です。
1893(明治26)年 満濃池普通水利組合を設立
1951(昭和26)年 土地改良法公布・施行により、水利組合から衣替えして、満濃池土地改良区が発足。
 戦後になって土地改良区に組織は変わりますが、その運営には次のような問題があったと満濃池史は指摘します。

満濃池史 満濃池土地改良区五十周年記念誌(ワーク・アイ 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
①農地改革で生まれた自作農が無責任な言動を繰り返したこと。例えば水を貰う権利は主張するが、水利費の負担には応じようとしない。「水利費は従来どおり元の地主が払ったらよい」と言い放つ声がまかり通った。
②満濃池嵩上げ事業の負担についても「この工事は昔の地主が相談して始めたものだから新しい所有者や耕作者には責任はない。しかもまだ嵩上げ工事は終わらず貯水が増えた訳でもないのに、負担金を取るとは何事だ」
こうした意見が総会などで主流を占め、満濃池土地改良区の財政の悪化を招く要因のひとつになったと指摘します。
  それでは県は満濃池土地改良区の財政問題をどのように見ていたのでしょうか?
  1963(昭和38)年2月26日に、財政再建のために香川県知事が農林漁業金融公庫総裁宛に提出した「満濃池土地改良区財政再建についての県の意見」を見ていくことにします。
農林漁業金融公庫総裁 清井 正殿
香川県知事 金子 正則
「満濃池土地改良区の賦課金の増徴が困難である理由」の説明
1 満濃池が置かれている特殊な事情
  (1) 改良区内部の利害は必ずしも一致しない。
満濃池改良区は、形式的には単一の土地改良区であるが、内部構成を見た場合そう簡単ではない。たとえば他府県で見られるように、大河川に設けられた一つの頭首上によって取水された用水が、幹線→支線→分水路を通じて灌漑されるというような単純な用水系統ではない。即ち満濃池改良区の場合、その実態は多数の土地改良区の連合といっても差し支えない。そして現実には内部組合ごとに必ずしも利害が一致せず、勢い最小公約的な運営を行うほかない状況である。したがって、改良区運営の難易は、改良区の規模の大小にそのまま比例することとなり、この点からも満濃池改良区の運営の困難性が示されている。   
満濃池土地改良区の実態は「多数の土地改良区の連合」で「運営の困難性」が指摘され、「改良区内部の利害は必ずしも一致しない。」とされテーマがうたれています。それを以下のように細かく説明しています。
  (2) 多数の内部組合が存在し、その利害が一致しない。
満濃池土地改良区の地区内には、105団体(うち土地改良区30、その他の申合水利団体75)があること。これらの団体は、それぞれ時前の用水源をもち、複雑な水利慣行の下に活動していこと。そのため例えば、第3次嵩上げ事業に対しても、上流地域と下流地域では次のような対立点があった。
上流地域の主張
立地的にも、用水慣行上も現在の貯水量で十分であるから、増築の必要はない。
下流地域が、増築を要望するのであれば同意はするが、負担金は負担しない。
増築工事は、危険である。その危険負担は当然下流地域で考えるべきである。
下流地域の主張
上流地域は下流地域の犠牲において用水を賄っていたものであり、用水は不足している。
上流地域は過去数百年来下流地域の犠牲の上に、用水を使用してきたものであり、むしろ上流地域こそ負担すべきである。
・むしろ防災となる。
こうした利害の対立は、すべてについていえることで、全地区を通じて納得を得るような賦課基準を決めることはできなかった。そこで上流地域に対しては、今日まで受けた利益の代償として、下流地域に対しては、将来における配水量の確保、配水施設(特に用水路)の完備、用水管理の適正を条件として、なんとか均一賦課に踏みきった。この変更を提案すれば、収拾困難となる。
(4)嵩上げ工事計画における計画受益面積と、実際負担面積に食い違いについて。
満濃池嵩上げ工事は、戦前の1940(昭和15)年に着手して、約20年の歳月を経て、1959(昭和34)年に完成します。当初計画では、その受益面積4600㌶(従来3300㌶)で、新規加入面積(1300㌶ール)と想定していました。ところが思っていた以上に、新規加入地区が増えません。その背景には
①大戦による中断などがあり工事が長期化したこと
②用水路の不備を理由に加入をためらつていた区域も、戦後の嵩上げ工事完了後は用水が潤沢になり(上流側の余水の流入、地下水の増加など)、加入の必要がなくなった
③農地改革の結果、新たに水利費の負担を担うことになった自作農に、水利費支払いの概念がなかった。
④満濃池土地改良区の賦課金が、農民達にとっては割高で、その上今後どのように増額されるかわからない。
 この結果、新規加入したのは300㌶だけと結果に終わります。新規加入地区の負担金収入の伸び悩みは、財政収入の悪化をもたらします。
当時の土地改良区は、組合員から徴収する賦課金で運営されていました。しかし、賦課金の滞納が多く、徴収率は50%を割ります。そのため借金をするより手がなく、各農協からの借入れで何とか凌ぐというありさまです。さらに借金の利息の支払いのために再び借金をするという悪循環が続き、負債は雪だるま式に増えていきます。

 土地改良区も徴収率の向上に向けて1960(昭和30)年度からは、強制徴収に踏み切り、徴収率を80%まで上げます。
徴収率向上の成功の鍵は、満濃池第三次嵩上げの竣工にあったようです。嵩上げ工事の前と後では、農家の意識が変わったと云います。それまでは「水は来ないのに負担金だけは取られる」という怒りと反発がありましたが、嵩上げ工事と金倉川沿岸用水改良事業で、実際に水が自分たちの田に入り始めたことが、賦課金に対する認識を変化させ、徴収率は向上します。
 しかし、これも遅過ぎたようです。
1961(昭和36)年度末の農林漁業金融公庫からの借入金は、2,17億円に達していました。この借入金の内訳は
①県営事業の毎年度の地元負担金(25%)
②その内の約80%が長期低利(五年据置、20年元利均等年払、利率6,5%)の国の制度金融による借入金
③不良債務である一時借入金が1,16億円。これも一時借人金とは名ばかりで、実質上は借り替えを続け、長期借入金化したもの。
④以上の借入金合計額は、2,33億円で、利息だけでも年間2700万円余
 こうして満濃池土地改良区は、金融機関からも見放され財政破綻の危機に瀕します。
 日常業務はもとより、金倉川沿岸用水改良事業もこれ以上は継続できない情況に追い込まれてしまいます。そのため1960(昭和35)頃の満濃池土地改良区の職員8名の給与も未払いが続き、事務所に電話もなく、事務連絡などにも自転車で走り回っていたと職員は回顧しています。
満濃池土地改良区報1963年 宮武理事長
満濃池土地改良区報 宮武理事長挨拶 1963年

 財政再建策のために1961(昭和36)年に、宮武理事長が上京して、事情を当時の大平外務大臣に窮状を訴えます。
大平氏は伊藤農林次官に内容調査を依頼し、農務省の検査官が調査に訪れ、専門委員会が設置されます。そして次のような再建策が出されます。
① 再建の最大の障害である一時借入金を利率の低い一括長期債(農林漁業金融公庫資金)に借り替えする。
② 既借入れの長期債の約定償還について、六年間の中間据置し、その間に借り替えた資金を償還する。
③ 満濃池土地改良区の賦課金を増徴すると共に、徴収体制を強化してその完全徴収を図る。
④ 県の指導体制を強化し、非補助土地改良事業等の実施は極力圧縮指導する。必要不可欠の事業については単独県費補助事業として優先採択し、土地改良区財政を援助する。
この案が農林公庫や農林中央金庫等の地元金融機関の特別措置によって受け入れられることによって、財政再建は動き始めます。また当時は高度経済成長期のまっただ中で、兼業農家の農外収入が増えて、組合員の経済状態が向上していたという背景もあります。そのため賦課金も完全徴収ができるようになり、財務計画案通りの運営ができるようになります。
満濃池土地改良区報
満濃池土地改良区報 1964年 
以後、満濃池土地改良区は大平代議士の集票マシンとして機能していくようになる。

 こうして1967(昭和42)年度には短期債借り替え分の償還を完済し、その後には長期債も償還を終わらせ、財政健全化を達成します。そして1975(昭和50)年2月23日には、全国土地改良事業団体連合会会長より優秀土地改良区として金賞を授与されるまでになります。満濃池土地改良区は危機を乗り切ったのです。

満濃池土地改良区新事務所
2017年完成の満濃池土地改良区の新事務所

 土地改良区の財政悪化問題は、満濃池土地改良区にかぎったことではありませんでした。
ある意味では全国的現象でした。その背景には高度経済成長期以降における農民層の階層分化という歴史的変化があったと研究者は指摘します。高度経済成長下の農村からは大量の人口流出が進みます。その反面で、兼農家が増え続けたことはよく知られています。生産意欲が高く土地改良などに積極的な専業農家層に対し、兼業農家は「土地持ち労働者」と呼ばれました。つまり農地に対する資産保有的意識が強いけれども、土地改良投資などには出し惜しみをする農家層だとされます。嵩上げ事業や用水路整備などの土地改良事業は、兼農家層には大きな負担や重圧になります。土地改良区の財政的弱体化の根底には、このような 兼業農家の激増という日本農業の構造的変動があったと研究者は指摘します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「満濃池史220P 財政不振とその再建」

戦後の満濃池第3次嵩上げ事業の「かなめ」となったのは、大川頭首工と天川頭首工でした。
前回まで見てきた堤防嵩上げや取水塔工事は、あくまで土木工事次元の問題で、技術的には大きな問題があった訳ではありません。最大の障害は、水利権のない土器川からどのようにして、満濃池に水を引くかということでした。これは、土器川の水利権をもつ右岸(綾歌側)と、交渉を通じて打開の道を探るしかない極めて政治的な課題でもありました。満濃池側が、どのようにしてこの課題に対応したのかを今回は見ていくことにします。テキストは「辻 唯之 戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢18」です。

これまでの土器川から満濃池への導水計画の経緯を振り返っておきます。
①戦前の第3次嵩上げ事業は、満濃池の導水や嵩上げだけでなく、土器川右岸(綾歌側)への用水補給を目的とした「農業総合計画」的なものであった。
②内容の柱は「土器川ダム(塩尾の貯水池)」を築造して、土器川右岸への用水供給をすると同時に、その代償に満濃池の導水を綾歌側が認める内容であった。
③つまり、綾川側の水源確保の代償として、土器川への導水を認めるという政治的な妥協の上に成立した内容だった。
③しかし、戦後の計画では、多くの水没家屋を出すことになる「土器川ダム」計画は頓挫し、天川神社付近から満濃池に導水する「天川導水路計画」に変更された。
④これは綾歌側からすれば、上流で土器川のを満濃池にとられて、その見返りは何もないということを意味した。
⑤そのため綾歌側は「天川導水路計画」に反対の声を挙げたが、満濃池側では、1950年2月に綾歌側の合意をえないまま天川導水路工事を「見切り発車」させた。
⑥これに対して綾歌側の「土器川綾歌地区水利用者会」は、農林省に対し天川導水路工事の即時中止を陳情した。
⑦中央にまで飛び火した情勢の収拾のために県は、綾歌側の要求に応える形で、「備中地池、仁池新池の二つのため池の新設 +  亀越池嵩上げ」土器川ダム中止に替わる必要水量225万屯を確保を綾歌側に提案。
⑧この案は綾川側が求めていたものに添ったものだったので、1951(昭和26)年になって綾歌側は了承します。そして翌年には、今での事業案を土器川左右両岸に分離し、次の2つの事業として実施されることになります。
左岸の満濃池側の事業を「県営満濃池用水改良事業」
右岸の綾歌側の事業を「県営土器川綾歌用水改良事業」
満濃池右岸水系
土器川右岸(綾歌側)の水系
つまり、県は備中地池や新池などの新池築造で綾歌側の水源確保に答えようとしたのです。こうして、満濃池側と綾歌側は歩み寄りのテーブルにつくことができる条件が整ったかのように思えました。

札の辻井堰.辻3JPG

そのような中で発生したのが長尾の札ノ辻井堰で起こった水争いでした。
その経過を見ていくことにします。満濃池第3次嵩上の堰堤工事が完成に近づく中、1955(昭和30)年は大旱魃に襲われます。水不足になると頻発するのが「水争い(水論)」です。

札の辻5
札の辻バス停(まんのう町長尾)  左が土器川、石碑は「大川神社」
長尾の札の辻井堰でも水争が起きます。長尾はかつては鵜足郡に属していて、ここには高松藩の札場がありました。今でも、バス停名は「札の辻」で、すぐそばに「大川神社」の大きな石碑が建っています。この地が雨乞い祈祷の場でもあったことがうかがえます。また、ここには土器川から岡田・綾歌方面への最大の取水口が開かれていました。それが札の辻井堰です。ここから取り入れられた土器川の水は、長尾を経て打越池へ送られ、綾歌各方面のため池に配分されます。つまり、綾川用水網の取り入れ口として最重要ポイントであった所です。
  ちなみに「岡田」は、その名の通り台地状地形で近世まで開発が遅れた地域でした。そこに水田開発が進められるようになるのは近世になってからのようです。谷間の一番上に、「谷頭池」を築くことで水田化が進められます。そして水田化が進むと水不足になり、ため池を築くと云うことを繰り返して、「岡田」は開発されていきます。そして「ため池飽和状態」になると、満濃の山の中に亀越池を築きます。そこから土器川に用水を流し、札ノ辻井堰で長尾側に取り入れ打越池に入れることが行われるようになります。つまり江戸時代から土器川自体が亀越池の用水路として利用されてきたのです。
8月15日付けの四国新聞は、辻の札での水争いの様子を「土器川を挟んで水げんか 約百名が座込み」という見だして次のように報じています。
「(8月)13日午後一時頃、綾歌郡長炭村長尾部落(耕地面積四十五町歩)が、土器川の取入れ口、札の辻井堰を同川全体に作り、川の水を同部落に引き入れようとした。このため対岸の吉野地区野津郷、宮東、宮西部落(耕地面積四十五町歩)では、従来二分されていた土器川の水を全然こちらへ流さないようにするのはもってのほかだと長尾側が作った井堰を直ちに切って落としたため、川をはさんで両部落の農民が対立、それぞれ約五十名ずつが同日午後七時ごろからクワ、ツノレハシを持って川をはさんで座り込み、不穏な形勢を示した」

札の辻井堰
現在の大川頭首工と札の辻井堰
 札の辻井堰直下の左岸(吉野側)には興免、荒川の出水があって、これらの出水の水は吉野地区に入ります。札の辻井堰は、これまで土器川の右岸堤防から川の中央部まで築き、そして長尾地区は右岸寄りの水を、吉野地区はその下流で左岸寄りの水を取るならわしでした。しかし、1954(昭和29)年の台風で河床の状況が変わり、翌年の夏の土器川は川水が左岸寄りにしか流れなくなったので、長尾地区は札の辻井堰を川幅一杯に築く措置をとったようです。これでは下流の吉野側の興免・荒川の出水に水が落ちなくなります。そこで、吉野村の農民達が井堰を切り落としたようです。こうして両地区がにらみ合う中で、昼間は警官が井堰の堤上に座り込み、夜間はパトカーの照明灯が明々と現場を照らすというものものしい警戒が続きます。
 ところが19日になって事態はさらに悪化します。
この日の午前中に、亀越池のユルが抜かれ、この池水を確保しようと長尾側がふたたび堰を川幅一杯に築いたのです。亀越池の水は、一度土器川に落としてから札の辻井堰まで導き、ここから綾歌側に取り込むシステムになっていることは以前にお話ししました。「亀越池の水の取り込み」を名目に、長尾側はふたたび川幅一杯に堰を築いたようです。しかし、吉野側の農民たちからすれば、堰を築く口実をつくるために亀越池のユルを抜いたと受取り、敵対感情に油を注ぐことになります。
8月20日の「四国新聞」は、その模様を次のように伝えています。

「香川県仲多度郡満濃町吉野と綾歌郡長炭村長尾との土器川をはさんでの水争いは十九日正午に至り長炭村農民百五十名が吉野川の水取り入口をせき止めたので、吉野川|は直ちに五十余名をかり集め、同三時半ごろこれを切断、険悪な空気をかもし出している。事態を重視した琴平署では県本部、綾南所の応援を求め武装警官一個小隊三十余名を現地に派遣、警戒に当たっているが、さらに同五時ごろ長炭側農民約百名が吉野川の水をせき止めたためますます険悪となている。…土器川をはさんで対立している農民の数は刻々増えており、一触即発の危機をはらんで夜に入った」
 
両者は川を挟んで十日間も向かい合い、21日の降雨によって「水入り」となって解かれます。しかし、問題はそのまま持ち越されます。
 亀越池は長尾地区だけでなく綾歌全体の水源でもありました。右岸の土地改良区連合の合意なしに岡田村は亀越池のユルを抜くことはできません。19日のユル抜きは、右岸全体の了承のもとに行われたはずです。
 一方、左岸の吉野地区は、満濃池掛かりです。札の辻井堰をめぐる吉野村の用水問題は、満濃池土地改良区の問題でもありました。これは当然、吉野地区と長尾地区の水利紛争にとどまず、左岸・満濃池と右岸・綾歌全体にかかわることで、裁判にまで発展します。
綾歌側は高松地裁丸亀支部に農事調停を申し立てますが、調停は難航し進みません。
この間に県では、1956(昭和31)年6月に県営土器川綾歌用水改良事業の一環として「札の辻井堰」の上流側に新たに「大川(だいせん)頭首工」を建設する案で両者の合意を取り付けます。
大川頭首工
大川(だいせん)頭首工
そして1958(昭和33)年3月4日に、水利紛争の農事調停がととのって協定が締結されます。
どのような協定内容だったのかを見ておきましょう。正式の名称は「香川県土器川右岸用水改良事業中『札の辻(大川)頭首工』に関する協定書」です。
①第3項「札の辻(大川頭首工)によって取水した水は、左右両岸の直接掛り面積に按分し、右岸側 75%、左岸側 25%の割合により分水するものとする」

ここには分水割合は、「右岸(綾歌側):左岸(満濃池側)=3:1」と記されています。協定書の「覚書」に「大川頭首工改修前の分水の比は左右両岸対等であった」とあります。これまでの分水慣行からすれば、これは満濃側の大きな譲歩です。

大川頭首工2
大川(だいせん)頭首工を従流からのぞむ(ライブカメラ)

②第5項 「連合から要請があれば、満濃池土地改良区は救援水として満濃池の水5万立方メートルを右岸に送らなければならない。」

札の辻井堰

この協定に従って、満濃池の水路のうち土器川寄りの水路に連結させて土器川を経て右岸に出る分水路が新たに建設されます。満濃池からの救援水はこの分水路をとおして右岸に送られることになります。実際に、綾歌側に対して満濃池側が「救援」する体制が整えられたことになります。これも満濃池側の大きな譲歩です。
どうして満濃側は分水割合で譲歩し、さらに救援水を右岸に送ることに同意したのでしょうか?
その理由は、満濃池の水利権を土器川に新規に設定することを綾歌側に認めさせるための譲歩であったと研究者は指摘します。その見返りとして、天川頭首工の着工同意を得るというシナリオです。満濃池側は当初は「合意なき天川取水路の建設開始」など、綾歌側を刺激するような既成事実の積み重ねを行ってきました。しかし、最終段階になって綾川側の利害をくみ取った上で、大幅な譲歩をしたということになります。これに綾歌側も妥協したという結果となります。これを「巧妙な交渉術」と云うのかもしれません。
1959(昭和34)年8月30日に、大川頭首工が竣工します。
大川頭首工の分水装置には亀越池や新しく1960(昭和35)年に完成した備中地池の水が放流されたときは、これを綾歌側だけに分水するようにいように「右岸(綾歌側):左岸(満濃池側)=3:1」の分水比率をかえる特殊な仕組みが組み込まれているそうです。 土器川でもっとも近代的な取水施設として建設された大川頭首エには、その構造に古い用水慣行が刻印されていると研究者は指摘します。
 また、大川頭首工をめぐる協定の当事者は、長尾村と吉野村ではありません。一方が満濃池土地改良区、もう一方が土器川右岸土地改良区連合になっています。この大川頭首工の建設をめぐって両者は、大きく歩み寄りテーブルについて協議を行うようになったのです。これが天川頭首工の協定書の成立に向けて大きなはずみとなります。
天川頭首工周辺の水利状況
天川頭首工
天川頭首工について、土器川土地改良区連合と満濃池土地改良区の聞で協定が結ばれたのも、1958(昭和33)年3月です。
 先ほど見た大川頭首工と天川頭首工は、ほぼ同時に協定書が結ばれいます。ここからは両協定が天秤にかけられながら同時進行で協議されていたことが分かります。この協定では満濃側は天川からは土器川の余剰水だけの取水を認められています。協定書第2条には次のように記されています。
「乙(満濃池土地改良区)は「天川頭首工地点」に於ける土器川流量が毎秒2,5立方m以上に達したときに取水する」

これに従って天川頭首工の構造も、土器川の流量が毎秒2,5立方mを超えたとき、その超えた分だけが導水するようになっています。

天川導水口 格子部分を通過した水が満濃池へ
 天川頭首工口 格子部分を越えた部分が満濃池へ導水される

 この「毎秒2、5立方メートル」という基準は、何に基づいているのでしょうか?
それはこれだけの水量が確保できれば、綾川側の水田はすべて灌漑できる水量であり、これ以上の水は瀬戸内海に流れ出てしまう水だという認識に基づく数字のようです。満濃池側が獲得したのは、このような右岸側には必要のない「無用の水」ということになります。しかし、表現上はそうであっても、既得水利でがんじがらめに縛られていた土器川から、導水できたという成果は大きな意味があります。満濃池側が、土器川へあらたに参入するとなれば、こういう形でしか参入するほかに途はなかったのかもしれません。「落とし所」をよく分かっていた交渉術と云えるのかも知れません。右岸、左岸の直接交渉なら、おそらく満濃池の新規参入はなかったと研究者は考えています。そこには県営事業として満濃池用水改良事業を推進させなければならない立場の県当局が、何度も綾歌側と交渉を重ねた結果、成立した協定書とも云えます。県の仲介なしでは、綾歌側が妥協することもなかったはずです。

天川導水口 2
 土器川の横一文字にた幅25mの天川頭首工が完成は、1959(昭和34)年3月のことでした。
天川頭首工の完成によって、満濃池用水改良事業はすべての工事を完了します。戦前の土器川沿岸用水改良事業開始からかぞえれば、18の歳月を要した大事業でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
辻 唯之  戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢 18
満濃池史189P 天川導水路計画 

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