災害記録から色々なことを学び防災に役立てようという動きが広まっています。歴史に学ぶという視点で幕末の満濃池の決壊を見てみましょう。ペリー来航の翌年1854年7月に満濃池は決壊します。これについては「大地震の影響説」と「工法ミス説」があります。通説は「地震影響説」で各町史やパンフレットはこの立場です。しかし、近年見つかった史料は、工法上の問題があったことを示しています。
長谷川喜平次の提案で木樋から石樋へ
満濃池の底樋は、かつては木製で提の下に埋められました。そのため数十年ごとに交換する必要がありました。この普請は大規模なもので、讃岐国全土から人々が駆り出されました。そのために「行こうか、まんしょうか、満濃池普請、百姓泣かせの池普請」というような里謡が残っています。
このような樋管替えの負担を減らしたいと考えていた榎井村庄屋の長谷川喜平は、木製樋管から石材を組み合わせ瓦石製の樋管を採用することにしました。その時に決壊時に流された石材が金倉川から改修工事で見つかっています。
満濃池の石造底樋官(まんのう町かりん会館)
工事は嘉永二(1849)年の前半と、嘉永6(1853)年の後半の二期に分けて行われます。この画期的な普請事業の完成に喜平次は
「伏替御普請、奉願上書面之通、丈夫二皆出来候」
と誇らかに役所へ報告しています。これで樋管替の普請から解放されるという思いが伝わってきます。
しかし、近年に榎井村の百姓総代が倉敷代官所へ提出した文書が直島の庄屋から見つかりました。そこには次のように書かれています。
「石樋の接合のために、前回の普請箇所を掘った所、土圧等により石樋の蓋の部分が十三本、敷石が三本破損していた。(中略)そのため、上下に補強用の桟本を敷き、その上に数千貫の大石を置いたが、桟本が腐って折れると、上に置かれた大石の重さで蓋石が折れ、石樋内に流れ込み、上が詰まってしまい堰堤は崩れるであろう。」
これ以外にも関係者からは、次のようなという風評があったようです。
「破損部分が見つかっており、それに対して適切な処置ができておらず、一・二年以内に池が破損するだろう」
つまり、木樋から石樋に変えた画期的な普請は、関係者の間では「欠陥工事」という認識があったのです。
三 嘉永7年7月9日 満濃池決壊
嘉永六(1853)年11月普請がようやく終ります。翌年のゆる抜きも無事終え、田植えが行われました。その後、6月14日に強い地震が起こり、7月5日に池守りが底樋の周辺から濁り水が噴出しているのを発見します。そして4日後には、堤防は決壊するのです。
参考文献 芳渾直起 嘉永七年七月満濃池決壊 香川県立文書館紀要
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