瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:満濃池水掛村々之図

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田野々の庚申塔
 阿波のソラの集落を廻っていると、お堂と庚申信仰の痕跡によく出会います。

庚申信仰=山伏形成説

山伏たちによって庚申信仰がソラの集落に拡げられ、そこをテリトリーとしていたことがうかがえます。ところが、私の住む金毘羅周辺には、庚申信仰はあまりみられません。どうしてなのか疑問に思っていましたが金光院日帳を見ていると疑問が解けてきました。今回は金光院と庚申信仰の関係を見ていくことにします。テキストは「町史ことひら3 民俗編274P」です。

金毘羅天領と寺領
満濃池水掛村々之図(1870年)の拡大図 黄色が天領 赤が金毘羅寺領 桃色が高松藩領

 金光院住職は、金比羅社領330石の小さいながらも領主で「お山の大将」でした。

そのため領主として禁令やお触れを出しています。禁令が出されると云うことは「禁止すべきようなことが当時は行われていた」ということです。そういう目で見ていきます。
①元禄二年(1689)十一月  髙松藩より境内での殺生禁止、山林竹木切るべからざるの制札下さる。
②元禄七年(1694)十月 宿貸し・遊女博奕停止のこと触す。
③正徳四年(1714)六月二十日 庚申待無用申し渡される。
④享保六年(1721)十一月八日 近在に辻芝居があるので、住民に見物無用申し渡す。
⑤享保十八年(1733)八月二十日 町方裏借屋は法度に仰せ付けられる。
⑥享保二十年(1735)一月十九日 町方で綱引のとき口論があり、以後綱引停止。
⑦寛保三年(1743)六月二十二日 (金倉川)川筋にて殺生禁の札を建てる。
⑧延享四年(1747)五月二日  内町虎屋兵次郎、入口玄関の普請分不相応につき閉門八日、破風玄関式台取り除き閉門御免。
⑨寛延三年(1750)六月二十三日  苗田村の相撲見物無用申渡す。
⑩寛延四年(1751)九月二十四日 年中の月待日待・庚申待は夜食切に仕舞うよう申し渡す。
⑪宝暦二年(1752)二月九日  愛宕町の平兵衛、南の山にて小松を伐採したので追放。
⑫宝暦三年(1753)二月 曜日婚礼の折り、石打ちする者があり組頭とも閉門。
⑬宝暦五年(1755)七月二十九日 昼の葬礼また川より西にて火葬のこと無用申し渡す。
 十一月二十八日 醤油仕込みの節、老女呼び上げること無用。
⑮宝暦九年(1759)七月十三日 笛田村の相撲見無用。
⑯          七月二十四日 桜藤三郎、屋敷の木を切ったので閉門
十二月十七日 町方借者に念を入れるよう申し渡す。
⑱宝暦十一年(1761)十月晦日  榎井村のあやつり芝居見物無用。
⑲明和二年(1765)五月十七日  神前近辺で薪をこしらえること御法度。
  六月十八日 五條村の相撲芝居見物無用。
⑳安永三年(1774)五月十八日 奉公人のうち、貸屋者の請状を出さない者があるので、総体に申し渡される。
㉑ 天明五年(1785)十月   奉公人の宿貸しするのは風儀上良くないので無用申し渡す。
 十一月  会式中に奉公人で宿貸した者があり、閉門申し付ける。
㉓寛政四年(1792)八月  高松様御逝去の忌中のところ、謡をうたった者があり遠慮申し付ける。
㉔天保元年(1830)五月二十一日  社領の者に、一向宗法談聞のこと差し止める。
 九月十六日、   十二日夜に石打徒党の者に閉門申し付ける。
㉖天保五年(1834)五月十四日 五日の夜、鞘橋の下で殺生した内町屋太兵衛の清之助、同嶋屋金蔵伜十太、金山寺町弥三郎作俊吉、取調べのうえ入牢申し付けた。このほど格別を以て御免になり、それぞれの親へ預けるよう仰付られる。
       十一月二十九日  神前の灯籠を盗んだ甚兵衛件磯吉を召し捕え、裸乱髪に橋の下にさらし、五日目に追払い申し付ける。
㉘天保六年(1835)六月十九日 前町にて御守札に寄せの小絵図を売る者があるのを指し止める。
㉙天保七年(1836)五月十一日  出来屋善左衛門外二名、十二景図を土産に紛らわしく仕立てて売り出した咎により戸閉め申し付ける。
㉚弘化三年(1846)三月二十五日  榎井村口の諸殺生・山林竹木のお札新たに出来、古き分は西口峠(牛屋口)へ廻す。
 六月二十三日  石渕の神事場へ殺生禁断の制札を立てる。

まず庚申講について、見ておきましょう。

庚申待2

③の正徳四年(1714)の「庚申待無用申し渡される。」が、最初のお触れです。18世紀初頭に金毘羅周辺でも庚申信仰が広まってきたことがうかがえます。それに対し「庚申待無用」を金光院は通達しています。しかし、人々の信仰熱は押さえられません。約40年後の⑩寛延四年(1751)九月二十四日 年中の月待日待・庚申待は夜食切に仕舞うよう申し渡す。」と再度の通達が出されています。
 補足すると次のようになります。

「夜遅くまで会合しても、決まり通り法中は法衣を着し修法などして、在家も真言を唱えて殊勝に待つのであれば祈疇にもなることであるが、そうではなく深夜まで遊興がましいことばかりするのでは無益であるだけでなく悪業をも増すことになって全く良くないので、法事のあとは夜食切りで解散するように心懸けること」

これは「深夜まで遊興がましいこと」を行う庚申待ちが流行してきたので、それにブレーキをかけるものです。しかし、「禁止」ではありません。一晩中寝ずに庚申待ちをするのは止めよと、後退した内容です。
庚申待ち2
庚申待ちの様子を描いた絵図 床の間に庚申さまが掛けられているが拝んでいるのはひとりだけ。あとはどんちゃん騒ぎの様子。
 以上をまとめておきます。
①金毘羅門前町では18世紀初頭には庚申信仰が流行神として拡がってくるようになった。
②これに対して金光院は「庚申講無用」とするが、広がりを押さえることは出来なかった。
③そこで18世紀半ばには、「庚申待は夜食切に仕舞え」と再度通達している。
④この背景には、庶民の中での庚申講の盛行があり、頭から禁止できないほどになっていたことが考えられる。
⑤しかし、金毘羅周辺には庚申碑は見られないので、庶民は金光院の意を汲んで石碑を建てることは
控えていたのかもしれない。

①⑦に見られるように社領内では、早くから殺生と竹木伐採が禁止されていました。
⑯では「桜藤三郎、屋敷の木を切ったので閉門」とあり、自分の家の中の木を切ることも許可が無ければできなかったようです。
には「神前近辺で薪をこしらえる(採取)こと御法度」とあり、本社周辺では薪拾いも禁止されています。㉖には、「鞘橋の下で殺生した三人に取調べのうえ入牢申し付けた。」とあります。
㉚の弘化三年(1846)になると、(髙松街道の入口の)「榎井村口に殺生・山林竹木のお札新たに出来、古き分は西口峠(牛屋口)へ廻す。」とあり、㉛には、「石渕の神事場へ殺生禁断の制札を立てる。」とあります。ここからは幕末には、榎井村口、石渕、佐文の牛屋口(西口峠)など、社領と隣村の境には領内での殺生禁止と木竹伐採禁止の立札が建てられていたことが分かります。鞘橋のかかる金倉川には社家による大祓や、僧侶の流れ勧進が行われていました。また参詣者が垢離をとる所でもありました。

鞘橋 金毘羅大祭行列図屏風
鞘橋の下の金倉川は垢離取り場でもあった(金毘羅大祭行列屏風 18世紀初頭)
金倉川は神聖な川であり、そこで殺生を行うことは禁止されていたことを押さえておきます。

金毘羅周辺の村々で行われる行事には、金比羅領民は参加すべからずというのが金光院の基本方針だったようです。
④享保六年(1721)十一月八日  近在に辻芝居があるので、住民に見物無用申し渡す。
⑨寛延三年(1750)六月二十三日  苗田村の相撲見物無用中渡す。
⑱宝暦十一年(1761)十月晦日  榎井村のあやつり芝居見物無用。
  六月十八日 五條村の相撲芝居見物無用。 
以上からは近在の村で芝居・相撲などがあっても、領内の者には「見物無用(行ってはならぬ)」という氏姓です。これは領内の芝居の繁栄を考えたためなのでしょうか? 私にはよく分かりません。

 金毘羅は門前町として繁盛するにつれて、周辺からの人口流入が強まり、都市化が進みます。
そのため流入者が増えて住宅需要が増大します。流入者は借屋を探すのですが、治安にも関係するので勝手に貸すことは禁止されて、借人諸状のこともやかましく言われていたようです。
⑤享保十八年(1733)八月二十日 町方裏借屋は法度に仰せ付けられる。
⑳安永三年(1774)五月十八日 奉公人のうち、貸屋者の請状を出さない者があるので、総体に申し渡される。
㉑ 天明五年(1785)十月 奉公人が参詣人に宿貸しするのは風儀上良くないので無用。
十一月 会式中に奉公人で宿貸した者があり、閉門申し付ける。

逆にいうと18世紀後半頃から参拝客の増加や、周辺農民の流入による住宅不足が深刻化していたことがうかがえます。金毘羅の都市化は、18世紀後半になって拍車がかかったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
]
参考文献 「町史ことひら3 民俗編274P」
関連記

空海満濃池築造説への疑問

前回は、研究者たちが「空海の造った満濃池」と云わずに、「空海が造ったと云われる満濃池」という理由を史料的な面から探りました。今回は考古学的な見地から見ていくことにします。

満濃池用水の供給条件

苗田と公文の境界を流れる満濃池用水の善通寺幹線です。かつては、この用水路が池御坊の天領と高松藩の境界でした。向こうには五岳の我拝師山が見えます。この用水路が善通寺・多度津方面に用水を供給しています。幹線用水路としては、この程度の規模の用水路を整備する必要がありました。池が出来ても灌漑用水路なしでは、田んぼに水を供給することはできません。そして用水路を網の目のように張り巡らすためには、土器川や金倉川の治水コントロールが前提になります。古代における治水灌漑技術は、どうだったのでしょうか? この問題に先駆的見解を示したのが「讃岐のため池」で、次のような説を提示しました。

「讃岐のため池」の「古代ため池灌漑整備説」


以上のように、早い時点で丸亀平野ではため池灌漑が行われ、その延長線上に満濃池も出現したとされたのです。この説の上に立って、讃岐のため池や古代の満濃池も語られてきました。それでは現在の考古学者たちは、どのように考えているのでしょうか。

古代の土器川は幾筋もの暴れ川だった

まんのう町吉野付近の旧河川跡 (左が北)

これはまんのう町周辺の国土地理院の土地利用図です。土器川・金倉川・琴平の位置を確認します。こうして見ると、①等高線を見ると丸亀平野は、金倉川や土器川によって作られた扇状地であることがよくわかります。その扇頂(おうぎの始まり)が、まんのう町の木ノ崎です。木ノ崎が扇状地の始まりです。②傾きの方向は南東から北西です。このエリアでは、土器川も金倉川のその傾きと一致します。かつては扇状地の中に、洪水の度に流れを変える幾筋もの流路があったことが分かります。このような不安定な流路が固定化するのは、中世から近世になってからのこと(西嶋八兵衛の時?)と考古学者たちは考えています。そうだとすると、このような中に満濃池からの水路を通すことができたのでしょうか。近世の場合を見ておきましょう。
この地図は、明治初年に作られた(1870)の「満濃池水掛村々之図」です。(左が北)

近世:治水整備後に整えられた灌漑網


長谷川佐太郎が再築した時のもので、水掛かりの村々と水路を確認するために作られたものです。まず満濃池と土器川と金倉川を確認します。土器川と金倉川は水色で示されていないので、戸惑うかも知れません。当時の人たちにとって土器川や金倉川は水路ではなかったのです。ふたつの川から導水される水路は、ほとんどありません。ふたつの川は治水用の放水路で灌漑には関係しません。

②領土が色分けされています。高松藩がピンク色で、丸亀藩がヨモギ色、多度津藩が白です。天領が黄色、金毘羅大権現の寺領が赤になります。私はかつては高松藩と丸亀藩の境界は土器川だと思っていた時期があります。それは、丸亀城の南に広がる平野は丸亀藩のものという先入観があったからです。しかし、ピンク色に色分けされた領地を見ると、金倉川までが高松藩の領土だったことがわかります。丸亀城は高松藩の飛び地の中にあるように見えます。満濃池の最大の受益者は高松藩であることが分かります。
 用水路の
末端は多度津藩の白方・鴨 丸亀藩の金倉・土器などです。日照りで水不足の時には、ここまでは届きません。丸亀藩・多度津藩は、水掛かり末端部で、不利な立場にあったことを押さえておきます。どちらにしても、このような用水路が網の目のように整備されていたからこそ、満濃池の水は供給されていたのです。

金倉川の旧流路跡と善通寺の河川復元


善通寺市内を流れる金倉川を見ておきましょう。尽誠学園のところで流路変更が行われた痕跡がうかがえます。地下水脈はそのまま北上したり、駅のほうに流れて居ます。この線上に二双出水などもあります。

 右が古代の旧練兵場遺跡群周辺の流路です。東から金倉川・中谷川・弘田川の旧支流が幾筋にも分かれて、網の目のように流れています。その微高地に、集落は形成されていました。台風などの洪水が起きると、金倉川や土器川は東西に大きく流れを変えて、まさに「暴れ龍」のような存在でした。今の弘田川や金倉川とまったくちがう川筋がいくつも見えます。まるでいくつもの首を持つ「山田のおろち」のようです。当時は堤防などはありませんから、台風などの時には龍のように大暴れしたはずです。河川のコントロールなくして、用水路は引けません。このような所に、満濃池からの用水路を通すことはできないと考古学の研究者は考えています。

次に中世の善通寺一円保(寺領)絵図に書き込まれた用水路を見ておきましょう。
 

中世の善通寺一円保に描かれた灌漑用水網

善通寺一円保絵図(下が北)
ここには中世の善通寺の寺領と用水路が書かれています。東院(4つの区画を占領)・誕生院・五岳の位置をまず確認します。 黄土色の部分が現在の善通寺病院(練兵場遺跡=善通寺王国)です。黒いのが水路で、西側は、有岡大池を水源にして弘田川と分岐して東院の西側を通過して、国立病院の北側まで伸びています。一方に東側は、壱岐・柿股・二双の3つの湧水を水源にして条里制に沿って四国学院の西側を北に伸びています。しかし、現在の農事試験場や国立病院あたりまでは用水路は伸びていません。寺領の全エリアに水を供給するシステムは未整備であったようです。国立病院北東の仙遊寺あたりには、出水がいくつもあり、そこから北には別の荘園が成立していました。以上、中世期の善通寺寺領をめぐる灌漑について整理しておきます。

①有岡大池が築造されるなど、灌漑施設は整えられた。

②しかし、水源は東は3つの出水で、金倉川からの導水は行われていない。

③そのため寺領全体に用水路は引くことは出来ず、耕地の半分以上が畑として耕作されていた

丸亀平野の高速道路やバイパス建設に伴う発掘調査から分かったことは以下の通りです。

丸亀平野の条里制は一気に進められたのではない


現在、私たちが目にするような「一面の水田が広がる丸亀平野」という光景は、近代になって見られるようになったものです。例えば、善通寺の生野町などは明治後半まで大きな森が残っていたことは以前にお話ししました。古代においては、条里制で開発された荒地は縞状で、照葉樹林の中にポツンぽつんと水田や畠があったというイメージを語る研究者もいます。丸亀平野の中世地層からは稲の花粉が出てこない地域も多々あるようです。そのエリアは「稲作はされていなかった=水田化未実施」ということになります。そして、満濃池の水を流すことが出来るような大規模な用水路も出てきていません。また、古代に遡るため池もほとんど出てきません。つまり、空海の時代には広域的な灌漑システムは生まれていなかったと研究者は考えています。以上をまとめると最初に示した表になります。

空海満濃池築造説への疑問

 

このようなことを考えると確定的に「空海が造った満濃池」とは云えない、云えるのは「空海が造ったと伝えられる」までと研究者はします。考証学的・考古学的な検証は、ここまでにして最後に「満濃池の歴史」をどう捉えるかを考えておきます。私はユネスコの無形文化財に指定された佐文綾子踊に関わっていますが、その重視する方向は次の通りです。

ユネスコ無形文化遺産の考え方

世界文化遺産が真正性や独自性にこだわるのに対して、無形文化遺産の方は多様性を重視します。そして、継承していくために変化していことも文化遺産としての財産とします。
満濃池の歴史の捉え方g

この考え方を満濃池にも適応するなら、
核の部分には史料などからから確認できる実像があります。同時に、長い歴史の中で人々によって語り継がれるようになった伝承や物語もあります。これらを含めて満濃池の歴史と私は思っています。だからそれらも含めて大切にしていく必要があると考えるようになりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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松平頼重像
初代髙松藩主 松平頼重
生駒騒動の後、1640年に初代高松藩主として松平頼重がやってきます。21歳の若殿でした。頼重は光圀の兄で、将軍家光の従兄弟に当たります。しかし、事情があって父からは水子とせよと云われたのを側近達が隠して、京都天龍寺の塔頭慈済院に預けます。そこで出家する筈でしたが、将軍家光の従兄弟と云うことで大名に取り立てられ、讃岐高松12万石の城主となります。このような生い立ちを持つ松平頼重は、京都の寺社事情をよく分かっていた上に、優秀な宗教ブレーンも抱えていました。そんな中でとられたのが次のような寺社政策です。

松平頼重の宗教政策

有力な宗教勢力がある地域には、それに対する対抗勢力を保護して育てようとしています。ここでは、金比羅が松平頼重にとっては粛正対象とはならなかったこと。善通寺牽制のために新興勢力の金毘羅を積極的に保護育成していこうとする意図が一貫してあったことを押さえておきます。

生駒騒動で生駒藩が藩が改易された後は、幕府は高松藩と丸亀藩に2:1の石高比率で東西に分割されることを命じます。
そうすると両藩の境界線が丸亀平野の真ん中に引かれることになります。これは満濃池の水掛かりが、ふたつの藩に引き裂かれることです。放置しておくと後世に水利権問題を引き起こす原因になります。そこで幕府は用水分線図を作っています。この絵図は明治維新になって再確認のために書き直された絵図です。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
満濃池水掛村々之図(1870年) 朱が髙松藩 草色が丸亀藩 白が多度津藩
領地が色分けされているので確認しておきます。
①土器川と金倉川は白で示されています。この2つの川は「放水路」の役割で用水路ではありませんでした。②水色が主要な用水路です。③桃色が髙松藩 ④草色が丸亀藩 ⑤白が多度津藩です。丸亀城の南は髙松藩領であったことが改めて分かります。ここで注目してほしいのが赤い部分です。これが金比羅寺領です。その金倉川東岸に置かれたのが満濃池池の領と呼ばれた天領です。満濃池築造から10年足らずで、堤防からの水盛りがひどくなり、修理依頼が幕府に求められます。そこで幕府は満濃池の修理代捻出のための天領をここに起きます。拡大して見ます。

金毘羅天領と寺領
満濃池水掛村々之図(1870年)の拡大図 黄色が天領 赤が金毘羅寺領
天領は、北から五条・榎井・苗田の三ヶ村です。そして、満濃池普請は代々、榎井村の庄屋が取り仕切ることになります。天領の庄屋は一段格が高いとされるようになります。このような中で、松平頼重が行ったのが金毘羅領の朱印地化です。

1648年 幕府の金光院への朱印状

松平頼重の働きかけで、1648年に幕府から下された朱印状です。ここからは金毘羅寺領の合計は330石であったことが改めて確認できます。その内の260石近くは、五条・榎井・苗田など天領に分散していたことが分かります。朱印地化が認められると次に松平頼重は、ばらばらにあった寄進地をひとつにまとめる土地交換作業を行います。これも権益が髙松藩・丸亀藩・天領に関わってくるので誰もがやりたがらない作業ですが、これを若殿様はやりきります。

金毘羅領 延宝の土地交換(1675)
1675年 松平頼重によって行われた金毘羅寺領の土地交換図

その結果、姿を現したのが先ほど見た赤い部分のひとまとまりになった金毘羅寺領330石なのです。金毘羅から見れば、松平頼重さまさまです。金毘羅領の朱印化には、これ以外に政治的な意味がありました。それは金毘羅における金光院の絶対的な地位が確立したことです。言い換えると、金光院主が小領主として、この朱印地を納めることを幕府から認められることになったのです。金光院の横暴を訴えた三十番社の神職は、「君主を訴えた逆賊」として幕府から獄門さらし首の評定を受け、土器川の河川敷で一族が処刑されています。金光院院主に逆らうことは出来なくなったことを世間に知らしめる事件でした。

松平頼重の建物類の寄進を歴史順に並べてみました。
  
松平頼重の寄進

元禄年間の前に、これだけの伽藍が整った宗教施設は讃岐にはなかったと思います。例えば善通寺は、戦国期に金堂も五重塔も焼け落ちて、東院は更地状態で、金堂再建は1700年のことです。金毘羅の隆盛とは対照的です。この中の大門と阿弥陀堂と宝塔(多宝塔)の幕末の姿を讃岐国名勝図会で見ておきましょう。
大門前・普門院・清塚・鼓楼 讃岐国名勝図会

讃岐国名勝図会(1854)の幕末の大門周辺です。大門の前まで民家が並んでいます。門前町に時を告げる鼓楼があり、清少納言の記念碑も建っています。正面が松平頼重寄進の大門になります。
金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会2
金堂(1845年竣工)と、この時に移転された二天門
金堂(現旭社)下にあった松平頼重が寄進した多宝塔です。高野山の大塔のコピーだとされます。これは神仏分離で姿を消します。金堂は1845年に30年近くを経て完成しました。ここには本尊として金光院の本地仏である薬師如来が安置されていました。そのため薬師堂とも呼ばれていました。神仏分離後は、仏教的なものは取り払われ、旭社と呼ばれ集会施設などにつかわれてきました。
 これが先ほど見た長宗我部元親寄進の二天門です。もともとは金堂の前にあったのですが、金堂建設の時にここに移築されたようです。参道が石段・石畳化され、玉垣・燈籠がならんで描かれています。金毘羅さんの参道石造物化は金堂建設の周辺整備事業として進められます。そして、御影石に囲まれた「白い空間」が19世紀半ばに現れます。それまで玉垣などは主に塗られた木像物だったようです。白い石造物に囲まれた空間は人々には目新しく、新たな参拝客を生む原動力になります。そのような伽藍群の先駆けとして、大門や大塔は登場したのです。

  松平頼重の建築物以外の寄進物一覧を見ておきましょう。
松平頼重寄進物一覧表
松平頼重の金光院への寄進物一覧
一番下の石灯籠は、毎年のように一対が寄進していた時期があります。次のような太刀や兜も寄進されています。
4344104-57松平頼重
         松平頼重寄進太刀(讃岐国名勝図会)
4344104-47松平頼重甲冑 讃岐国名勝図会
松平頼重寄進兜
以上を整理すると次のようになります。

松平頼重の保護が金毘羅信仰の広がりへ

つまり、庶民信仰の広がりが金毘羅信仰を支えたのではなく、松平頼重の保護で整備された伽藍が、物見高い庶民の参拝をもたらしたと考えた方がよさそうです。

金毘羅発展の原動力は庶民ではなく殿様

さらに遡れば金毘羅信仰の成長は、先ほど見てきたとおり長宗我部元親や、生駒藩の保護が大きな意味を持っていました。その上に松平頼重の保護があり、17世紀後半に基礎が確立したとも云えます。
こうして殿様達の継続的な保護を受けて、金毘羅は成長していきます。
松平頼重の時代に姿を見せた金毘羅門前町を描いたのが「金毘羅大祭図屏風」です。
金毘羅大祭屏風図5
         金毘羅大祭行列屏風図(18世紀初頭)

ここに区切りがあって6隻2曲の屏風図です。
①右から髙松街道がやってきて新町・ 金倉川にかかる鞘橋・内町・札場を経て、大門へと続きます。
②その間に、次のような街道が合流してきます。新町で丸亀街道・鞘橋手前で阿波街道、鞘橋を渡って多度津街道、坂下で伊予街道です。
③街道沿いに家が並んで門前町が形成されていたことが分かります。
④ちなみに新町は、先ほど見たように松平頼重の土地交換であらたに金光院が手に入れたところに開けた町なので新町です。
⑤新町の背後はまだ田んぼが拡がっています。
⑥新町の天領の榎井との境界には木戸があります。
⑦金毘羅門前町の基礎を築いたのは、生駒藩時代に移住した人々でした。その中には全国からやってきて修行し、その後金光院に仕えた人々もいました。その多くは旅館や商店や酒造業を経営して「重立(おもだち)」と呼ばれました。重立が互選し、金光院の承認によって町年寄が決定し、町政を行うシステムが出来上がります。一番右側の部分を拡大して見ましょう。

金毘羅大祭屏風図とうどん屋

①大祭(おとうか)の馬に乗った頭人が木戸をくぐろうとしています。
②ここが金毘羅寺領と榎井村の境です。現在の土讃線の踏切の少し西側になります。
③この木戸のすぐそばに、後に移ってくるのが興泉寺さんです。
④木戸を抜けた所にうどん屋が見えます。当時のうどん屋さんはこのような招牌(しょうはい)を軒下に吊していました。よく見ると招牌が見えます。これが讃岐で確認できる最初のうどん屋さんです。うどんは空海が持ち帰って広めたというのは俗説です。醤油が発明されて今のような食べ方になります。17世紀初頭の元禄時代には、うどん屋さんがあったことを示す「根本史料」です。
⑤ここに石造りの鳥居があります。合流しているのが丸亀街道です。
⑥新町の街並みを見ると屋根は板葺で瓦葺きの屋根はありません。早くから開けた内町は瓦葺きが多いのとは対照的です。構造も入口から入るとすぐ裏に抜けてしまいます。そしてその背後は田んぼが続くのどかな景色です。
 この絵図からは、金毘羅神が登場して百年あまりの元禄時代になると、何もなかった金毘羅は四国一の門前町に成長していたことが分かります。そしてここは、どこの藩にも属さない、天領でもない「朱印地」だったのです。「都市の空気は農奴を自由にする」ということばがありますが、周辺農村からの逃散や、全国からの廻国者・流れ者を受けいれる「自由都市」的な門前町でした。その基礎がこの時代には出来上がっていたことを押さえておきます。

最後に、最初に見た従来の金毘羅大権現の見方について、県史や町史ことひらの見方を対比させておきます。


金毘羅=海の神様・庶民信仰説への疑義

新しい「金毘羅信仰」観

左が20世紀までの金毘羅とすれば、右が21世紀の金毘羅観になっていくのでしょう。その上に、今後の金毘羅の成長・発展はあるのだと私は思っています。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 生駒騒動によって、生駒藩が転封になったあとは、讃岐は次の東西2つの藩に分割されます
①寛永18年(1641)9月 山崎家治が西讃5万石余を与えられて丸亀藩主へ
② 翌19年(1642)2月、松平頼重が東讃12万石を与えられて高松藩主へ
そして、満濃池の管理のために天領・池御領が置かれることになります。池御領は、二つの藩の境目と金毘羅神領に接した那珂郡の五條・榎井・苗田の三村領(天領)と、満濃池周囲の幕府領七ケ村領を含みます。
池御両郷帳(榎井・五条・苗田)図
満濃池水掛村々之図(明治)
上図では、以下のように色分けされています
黄色 天領池御領(五条・榎井・苗田の三村)
赤  金毘羅大権現 金光院領
桃色 高松藩領
草色 丸亀藩領
白色 多度津藩領
この絵図からは次のような事が読み取れます
①土器川を越えて、高松藩領が丸亀平野に伸びていること
②高松藩と丸亀藩の藩境は、金倉川であったこと
③丸亀城の南側は高松藩領で、満濃池の最大の受益者は高松藩であったこと
④天領3村が、金毘羅寺領に接する形で配置されていること
⑤同時に、天領3村が高松藩と丸亀藩に挟まれる形になっていること

P1240826
天領池御領(黄色)と金毘羅寺領(赤)

どうして、この3つの村が池御料に指定されたのでしょうか。

それには、次の2つの説があるようです。
一つ目は「東西領検地等の打ち余り(余り領地)によって設けられた」という説です。しかし、これは俗説です。
以前にお話したように、幕府は讃岐を東西に分割する際に、現地に派遣した担当老中に「東西=2:1」で分割せよという指示を出しています。そして、指示を受けた老中は、生駒騒動の前に本国・伊賀の藤堂藩に帰国していた西嶋八兵衛を讃岐に呼び出して、旧知の庄屋たちと綿密な打合せさせた上で「線引き」をしたことは以前にお話ししました。  
「高松藩政要録」には、天領設置について次のように記します。

右池(満濃池)成就の後、歳も経るまま費木も朽懐て、同(寛永)十八年修造を加へんとせしかど、生駒家国除の後なれば、木徳村の里正四郎大夫といえるもの、幕府へ訴え出でけるに台命ありて、五条・榎井・苗田を池修補の料に当てられける故に、今、此の村を池御料といいしなり
  意訳変換しておくと
満濃池が完成してから、年月が経過して底樋やゆる木も痛み、生駒家の転封直後の(寛永)18年(1641)に修築願いを、木徳村の里正四郎大夫という者が幕府へ訴え出た。そこで幕府は、五条・榎井・苗田を池修理基金にあてるようにした。これを今では池御料と呼んでいる。

ここには「五条・榎井・苗田を池の修理基金」とするために天領にしたと記されています。それでは、なぜこの三村が選ばれたのでしょうか。江戸幕府は、大名の改易や領地替えで藩の境界を改める時には、藩境に楔を打ち込む形で、藩境の重要地帯を天領とするのが常套手段でした。満濃池は「戦略的な要地」で、この池からの水で丸亀平野では米作りが行われています。その運用権を幕府が握っている限り、丸亀藩や高松藩は幕府には逆らえません。天領・池御領は、丸亀藩と高松藩の間に打ち込まれた「楔」であり、満濃池管理という戦略的意味も持っていたと、研究者は考えています。

決壊中の満濃池
   讃岐国那珂郡満濃池近郷御領私領図(香川県立ミュージアム)
     (緑が高松藩・黄土色が丸亀藩・白が池御領)
高松藩と丸亀藩との藩境の決定には、細かい政策的配慮が払われていことは以前にお話ししました。
  例えば、丸亀平野の南部(まんのう町旧仲南地区)では、次のように細かい分割が行われています。
①七ケ東分の久保・春日・小池・照井・本目と福良見の東部を高松藩領七ケ村(上図緑色)
②七ケ西分の新目・山脇・追上・大口・後山・生間・宮田・買田を、丸亀藩領七ヶ村
③七ケ東分の帆山と福良見の西部を加えて丸亀藩領七ケ村として、七ケ東分を二分
④さらに福良見村を三分している
福良見と帆山
福良見と帆山(まんのう町)

この線引きを行ったのが、藤堂藩から呼び返されていた西嶋八兵衛であることは、以下でお話ししました。


彼は、満濃池築造と同時に用水路を建設して、その水配分にまで関わっていました。その際に旧知となった庄屋たちから意見を聞いて、今後に問題を残さないように、野山(刈敷)の入山権利に至るまで一札をとっています。このような綿密に計算されて上で藩境は決定されているのです。池の領が「東西領検地等の打ち余りによって設けられた」というは、それらの「遠望思慮」が見えない人達の風評と研究者は評します。

満濃池から塩入2
満濃池西部の高松藩と丸亀藩の藩境・七箇村周辺絵図

 池御料の設置は、灌漑上の重要ポイントある満濃池と、その水掛かりの重点である三村を天領として抑えて置く、という幕府の常套的政策であったことを押さえておきます。

新たに設置された天領・池御領を管理したのは、だれなのでしょうか?
寛永19年(1642)に池御料が置かれてから、元禄三年(1690)まで49年間、守屋家が代官として池御領を支配することになります。
  幕府は、この時期になると新しく天領にした所では、現地のやり方や支配関係を継承して、急速に改めることを避けるようになります。「継続・安定」を重視して、在地の土豪を代官に任命するやり方をとりました。池御領の代官についても、まずは地元の最大の有力者である金光院主に代官就任を請います。しかし、金光院主の答えは「大恩ある生駒家の不幸を考えると受諾することができない」というものでした。そこで那珂郡の大庄屋で、金毘羅大権現の庄官でもあった与三兵衛を代官に任命します。
 与三兵衛は、守屋与三兵衛と名を改め、苗田村に政所を置いて、幕臣として満濃池の管理と池御料の統治に当たることになります。

守屋家代官所跡


代官となった与三兵衛に課せられた職務は、次の通りです
①満濃池の維持管理と配水
②池御料三か村の治安の維持と勧農
③豊凶を確かめて年貢高を決定し、徴収した年貢を勘定奉行に納める
こうして幕臣となった守屋与三兵衛は、従来よりも遙かに多くの責務を担い込むことになります。このため周囲の金光院や他の庄屋たちからは、「代官になってから高慢な態度をとるようになった」と非難を受けるようになります。また、金毘羅大権現の金光院からも氏子としての勤めを十分に果たさないと批判されるようになります。

 正保2年(1645)9月に、高松藩江戸家老彦坂織部から、金光院宥睨(ゆうげん)に宛てた手紙には、次のように記されています。

会式(えしき)の時分、随分よき様に成さるべく候、江戸元へ池守子五右衛門参り候間、御手前へ少しも如在申さず会式の時分も様子もよく親子共に申し付くべき由、急度申し付け候間、其の御心得有るべく候、四条の政所も如在致さず候様にと申し遣わし候、御手前よりも五右衛門万事能く申し付けくれ候様にと仰せらるべく候、拙者方よりも御手前へ申越候と仰せらるべく候、池領弥無(いよいよ)左法仕り候はば、おや子共流罪に申し付くべき由重ねて申し渡し候間、様子もよく候はんと存じ候 
            琴陸家文書「御朱印之記」
 
意訳変換しておくと
(金毘羅大権現の)会式(えしき:法会の儀式の略称で10月12・13日)の頃で、盛大な儀式が行われたことであろう。江戸の私の所へ「池守子」の守屋五右衛門がやってきたので、御手前(金光院)のことについては、何も触れずに、会式についての協力・参加するなど金毘羅大権現の庄官としての勤めを果たすよう要望した。四条の政所についても、金光院に対して従順でない態度を改め指すように申し伝えた。御手前から五右衛門のことについて、「注意指導」を行って欲しいとのことであったので、以上のように申し伝えたことを、知らせておく。
 また池領のことについては、代官としての権威を振り回して、庄官としての勤めを果たさなければ、親子共流罪を申しつけるまで云ってある。   琴陸家文書「御朱印之記」
ここからは、次のようなことがうかがえます。
①金毘羅大権現の荘官としての勤めを果たない池御料代官の守屋与三兵衛に対して、金光院主は日頃から不満を持っていたこと。
②その不満を高松藩江戸家老に、常々伝えて「指導改善」を求めていたこと。
③その意を受けて江戸家老は、訪ねてきた守屋与三兵衛に対して、「代官としての権威を振り回して、庄官としての勤めを果たさなければ、親子共流罪を申しつける」とまで、云ったこと
④江戸家老は「池守子」五右衛門と蔑称した表現を手紙の中で用いていること。
⑤金光院主と江戸家老が懇ろな関係にあり、両者の守屋与三兵衛に対する評価が低いこと
このような「指導」をうけたためでしょうか。

正式な起請文の例
正式な牛王起請文
守屋与三兵衛は、正保4年11月10日に、次の記請文を金毘羅大権現に奉納しています。
敬白起請文の事
一  満濃池修覆料として高二一二九石四斗九升弐合の所、外に酉(とり)の年より百姓共改め出しの高四四石五斗五升、共に私支配仰せ付けられ候条、万事油断なく精出し申すべく候
一 満濃池用水掛りの郡村中、先規の如く分散仕り、贔員偏頗(ひいきへんば)無く通し申すべき事
一  池御料御勘定の儀は、高松御役所、山崎甲斐守殿御奉行御両所へ御手短を以て、五味備前守殿へ毎年入用の勘定仕るべく候
一 右違背せしむるに於ては、梵天帝釈四天を始め奉り、惣じて日本六十余州大小神祗、殊には伊豆箱根両大権現三嶋大明神 天満大神、別しては氏神金毘羅大権現御部類春属の神罰を罷り蒙る可き者也
仍て記請文件の如し(以下牛王誓紙)
正保四年霜月十日 守屋五右衛門書判・印判、血判、
  意訳変換しておくと
一  満濃池修繕費として、天領年貢収納石高2129石ばかりの収入がある外に、酉(とり)年よりの百姓共改出約44石を、私は万事油断なく精出していく立場にある。
一 満濃池の用水掛りの郡村は、ひろく分散しているが、贔員偏頗(ひいきへんば)なく、用水を分水する。
一  池御料の収支決算については、高松藩や山崎(丸亀)にも説明協議を行いながら、五味備前守(幕府の奉行職?)殿へ収支決算を行う。
一 これに違背した場合には、梵天帝釈四天を始め、日本六十余州大小神祗、加えて伊豆箱根両大権現三嶋大明神 天満大神、さらには氏神金毘羅大権現御部類春属の神罰を罷り蒙る可き者也
仍て記請文件の如し(以下牛王誓紙)
正保四年(1647)霜月十日 守屋五右衛門書判・印判、血判、
 この起請文は、日付と署名の箇所は牛王誓紙で、書判・印判血判が据えられています。
牛王法印
牛王法印
先ほど見た江戸家老の彦坂織部の書簡と、この起請文とは互に関連しているようです。つまり、幕府の代官となった守屋与三兵衛の態度が不遜になって来たので、高松藩と金毘羅当局で、それを抑える考えから、起請文を納めさせたようです。この起請文からは、代官守屋家は、金光院院主と高松藩から睨まれていて、基盤も脆弱であったことがうかがえます。
琴平町苗田天領代官所跡
天領代官所跡(守屋家 琴平町苗田)
苗田村の守屋家は、古くから金毘羅祭に奉仕する世話役である庄官の家筋でした。
守屋家一門の与三兵衛も、代官就任前の寛永八(1631)年や同十五年には子供の卯太郎・安太郎を頭人に立てるなど勤めを果しています。しかし池御料代官になってからは頭屋勤めから離れるようになったようです。そのため寛文八(1668)年十月には、榎井・五条・四条・苗田の各村の庄屋仲間から、来年は是非勤めをするようにとすすめられ、翌九年には子どもの権三郎を頭人に立てています。
 しかし、代官守屋家は結局は、次のように「失脚」してしまいます。
寛文11年(1661)与三兵衛義和が二代目を継職
貞享2年(1685)  助之進義紀が三代目を継職
元禄3年(1690)  助之進義紀が代官職を罷免
この「失脚」は、将軍綱吉の「代官に対する綱紀粛正政策」によるもののようです。代官は年貢の決定権を握っており、年貢米の一部を売却して幕府の勘定奉行に納める義務があります。その際に、百姓の年貢の未進分は代官の責任とされていたので、不正が多かったようです。綱吉は、この時に全国の代官の半数に近い三十数人の土豪的代官を罷免して、幕臣を新しい代官に任命しています。
  以後の池御領は、短期間の内に、京都町奉行所・松平讃岐守(高松藩)・大坂町奉行所・倉敷代官所などの「預り所」として移り替わっていきます。これについては、また別の機会に見ていくことにします。
私が気になるのは、生駒藩の下で満濃池池守となっていた矢原家がどうなったのです?

諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
      讃岐国名勝図会に描かれた矢原邸(満濃池の下手)

 寛永八年(1631)に生駒藩時代に再築された満濃池の池守には、西島八兵衛に協力した矢原又右衛門が任命されました。 生駒家の下では、矢原家は満濃池管理の実質的な最高責任者でした。ところが天領が設置され、守屋与三兵衛が代官(幕臣)として、就任することになったのです。守屋家と矢原家の関係は、生駒藩の下では、次のような関係でした。
矢原家 満濃池池守 扶持(50石)
守屋家 造田村庄屋
つまり、矢原家の方が上にあったはずです。
それが、天領・池御領設置で、どう変化したのでしょうか?
その関係が垣間見える史料があります。延宝六年(1678)の春から夏にかけて、満濃池用水の管理について、池御料代官守屋与三兵衛が池守の矢原利右衛門に宛てた、指図書の写しです。
その中の六通には、次のように記されています。(満濃池旧記)
① 四条村の内ふけ・らく原水これ無く、苗代痛み申し候間、うてへの水少しはけ候て遣さる可く候、念を入れらる可く候
以上
四月廿六日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
意訳変換しておくと
① 四条村の内ふけ(福家)・らく原には、水が不足し、苗代の苗が痛んでいるとという申し入れがあった。うめて(余水吐け)への水を少し落として、水を送るように、念を入れること
以上
四月廿六日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
② 手紙にて申し入れ候、昨日揺落し候様に申し遣わし候、又々抜き申す様に申し入れ候、下郡より右の通りにわけ三度申し入れ候、今朝下郡より最早水いらぎる由申し来り候間早々揺差し留め下さる可く候、少しも油断なされ間敷そのためかくの如く候以上
五月廿五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
意訳変換しておくと
② 昨日、手紙にて、ユルを落とし、水を止めるように指示したが、又々、ユルを抜くように申し入れる。今朝になって、下流域の郡から水を送るように三度申し入れがあった。いずれ、下郡よりまた水は不用との連絡が来るであろうが、その時には、早々にユルを落として水を止めて欲しい。少しの油断もできない状態にある。
五月廿五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
③ 手紙にて申し入れ候、然れば上の郷(かみのごう)水これ無く、植田痛み申し候由、断りこれ有り候間ゆる四合斗り抜き落し下さる可く候、念を入れらる可く候以上
六月廿日           守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
④ 吉野桶樋(おけどい)掛りの田、大貝・黒見水これ無く候由、断りこれ有り候間、其の元見合に遣わさる可く候、念を入れらる可く候以上
六月廿一日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
⑤ 上の郷、水これ無く田痛み申す由、断りこれ有り候間、ゆる見合にぬき落し下さる可く候、委細はこの者口上にて申し上ぐ可く候以上
七月十五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
⑥ 公文高篠より水上り参り候間、早々ゆるさし留め下さる可く申し入れ候、そのためかくの如くに候以上
八月八日           守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
ここからは、満濃池の管理については、苗田の守屋家の代官が指示を出して、それに従って池守・矢原家が、ユルの扱いを行っていることが分かります。つまり、守屋家が上、矢原家はその下、という上下関係になります。天領設置で、両者の関係が逆転したのです。
これを矢原家の当主は、どう受け止めたのでしょうか。
守屋家と身分が逆転した矢原家は、貞享三寅年(1686)12月の利右衛門の病死後、池守職を離れています。池守給25石は利右衛門の子、又右衛門の持高となります。また山守給の一部として与えられていた満濃池周辺の山林も、一部が開墾されて元禄11年(1698)の検地で年貢地となり、天領七箇村の石高は50石1升8合となります。(『政要録写』)
 一方、守屋家の代官職は寛文11年(1671)に与三兵衛義和が二代目を継ぎ、貞享2年(1685)に助之進義紀が三代目を継ぎます。しかし、助之進義紀は元禄3年(1690)に代官職を罷免されています。
 以後、池御料は京都町奉行所、大阪町奉行所、高松藩の松平讃岐守などの御預かり地となり、元文4年(1739)から倉敷代官所の支配地となります。こうして満濃池の管理は、倉敷代官所の幕臣によって間接的に行われることになりますが、実質的管理・運営は池御料三か村の代表庄屋が握ります。そうなると御料三か村(天領)が、他の水掛かりの村々よりも優越した立場に立てます。満濃池揺替普請も宝永三年(1706)以後は、国役普請となり天領の庄屋たちが差配指示を行うようになります。その後の文政10年(1827)からは、自普請になりますが、管理運営権は天領3ケ村が握り、明治維新を迎えます。この池の御領という満濃池の維持・管理権をテコに、3ケ村は周辺の村々に対して、自己の力を示威したり、高圧的な姿勢をとるようになります。それが土器川周辺の出水からの水騒動を招くことになります。そして、七箇村念仏踊りの解体へととながることは以前にお話ししました。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
町史ことひら(近世編)20P  池御料の成立と統治    












満濃池が丸亀平野に、どのように灌漑用水を送っていたのかを見てみましょう。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り

明治3年(1870)の「満濃池水掛村々之図」です。この絵図は、幕末に決壊し放置されたままになっていた満濃池を再築するに当たって、水掛かりの村々とそこに至る水路を確認し、課役を取り決めるために作られたものです。これを見ると、灌漑受益の村単位の分布は、現在のものとほぼ同じのようです。そして、これは近世初頭に西嶋八兵衛が満濃池を築造して以来、大きくは変化していないようです。この地図を、じっくりと眺めることからはじめましょう。
 この絵図からは、満濃池からの水路がどのように伸びていたかが分かります。また、満濃池の水掛かり範囲、つまり給水エリアを知ることも出来ます。
まず幹線水路を見ておくことにします。
満濃池①は、金倉川をせき止めて作られたものなので、池から流れ出した水は、金倉川②を下ります。しかし、それもつかもまです。③の地点で、金倉川から分水されます。③は、水戸大横井堰(まんのう町吉野下)で、「水戸」と地元では呼ばれているところです。美味しいパン屋さんのカレンズの近くの橋のすぐ上流に、堰はいまもあり、民家の間を抜けて北流します。

満濃池 水戸大横井

 以前にお話したように、丸亀市史には次のように記されています。
「この北流する水路は、もとは旧四条川の流路であって、ここに堰を設けると同時に、本流を西に流して金倉川を新しく人工的に作った」(要約)

と記します。確かに金倉川は西へ西へと丸亀平野の西の奥まで追いやられ、象頭山の麓の「石淵」にぶつかって流れを北にとり、琴平の町中を通過して行きます。平野中央部に自由自在に流れていた暴れ川を、コントロールするために使われる土木技法の一つです。平野の角の山手に追いやり、中央には人工的な水路を通し、水害から水田を守るという狙いです。

DSC04908
現在の③水戸大横井関 金倉川に堰が設けられ水門方向に流される

 ③から以西の金倉川は「水路」とは、当時は認識されていなかったようで色分けも白色になります。また③からの以西の河床は、それまでと比べると非常に浅くなり、天井川になります。これも、近世になって新しく人工的に作られた川という説を補強します。金倉川は⑥の生野町の堰まで分水口はありません。金倉川は、「方流路」で水路ではなかったことがうかがえます。
満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大1
赤が金毘羅領 黄色が池の御領(天領) 桃色が高松藩領
それでは、今度は満濃池の真の水路を追いかけてみましょう。
それは、③の吉野下の「水戸」で分岐した用水路です。

 グーグル地図でも、丸亀幹線水路は追うことができます。水路は、満濃中学 → まんのう町役場を経て西高篠④で2つに分かれます。ローソン西高篠のすぐ西になります。
DSC04865
西高篠の分水地点 右が丸亀幹線 左が櫛梨を経て善通寺・多度津へと伸びる。ここには分水点には阿弥陀堂が建っている

ここから櫛梨に向けて西(左)に延びる水路は、天領の苗田村と高松藩の公文村の村境となっていることが色分けから分かります。この水路以前には、ここに旧四条川が流れていたことの裏付け資料にもなります。四条川は、近世初頭には「自然村境ライン」でもあったようです。
 地図で見ると④で西に分岐した水路は、⑤で金倉川に落水しています。
満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大2

現在は、どうなっているのでしょうか。
DSC04823旧四条川合流点
右が金倉川、左が旧四条川 ふたつの川の合流点

そして、そのすぐ下流の生野の堰で善通寺多度津方面に取水されます。
これが善通寺・多度津幹線です。この水路は、現在の善通寺市役所を北流し、農事試験場(旧練兵場遺跡)をまわりこむようにして、子どもと大人の病院の北で大束川に落水し、西白方まで伸びていきます。その手間で東西方向に流れを変えますが、その区間でいくつかの分水地点を設け、丸亀平野北部への水路を派生させます。その最終地点の村名をを金倉川から西へ並べると 下金倉村・鴨村・多度津・青木村・東白方・西白方となります。これらの村が、善通寺・多度津幹線の末端の村々になるようです。ここで、今挙げた村々のエリアが、地図上で、どんな色で色分けされている注目すると茶色(白?)です。
①茶色   多度津藩
②草木色    丸亀藩
③桃色   高松藩
④赤色   金毘羅大権現寺領
⑤黄色   池の御領(陵満濃池管理のための天領)
こうしてみると多度津藩の満濃池水掛かりは、最末端にあることがよく分かります。旱魃時には、なかなかここまでは水がやってこなかったはずです。負担は同じなのに、日照りの時に水はもらえないという不満を多度津藩の農民達が抱いたのも分かるような気がします。彼らは自己防衛のために、独自でため池を増やし、幕末には池掛りからの離脱の道を歩んだことは以前にお話ししました。
 丸亀平野における各藩領地の割合を見ると圧倒的に多いのは桃色の高松藩です
⑥で分岐され用水が供給されるのは高松藩の領地になります。私はうかつにも、かつては土器川が高松藩と丸亀藩の国境と考えていたことがありました。また、那珂郡と鵜足郡の境が国境と思っていた時もありました。もう一度「満濃池水掛村々之図」の各藩領地の色分け図を見ると大間違いなことに気づきます。大ざっぱにいうと、高松藩と丸亀藩の国境は金倉川なのです。丸亀城は、丸亀平野の高松藩領土の上にちょこんと首だけ乗っているようにも見えます。丸亀城の天守閣から殿様が南を見たときに、そこに開ける水田は自分の領地ではなかったのです。丸亀の殿様は、どんなおもいだったのでしょうか。
 この絵図を見ると、高松藩が満濃池に一番強い利害関係を持っていたことが理解できます。土器川以西の灌漑用水供給という点で、②の「水戸」の堰の分水地点は、高松藩にとっても非常に重要な地点であったことを押さえておきます。ここに堰を構えることによって、満濃池の水は高松藩の水田にやってくるのです。これがなければ、そのまま金倉川方面に下っていってしまいます。
 もうひとつ、満濃池の用水路を見ていて感じるのは、直線的なことです。これは、条里制以来の水路が活用されたためと、私は思っていました。しかし、それだけでは説明できないようです。それは、これらの用水が整備される前には、このエリアには四条川という川が流れていたからと丸亀市史は云います。

 絵図に書かれた幹線水路の多くは、近代以降の改修工事を経ながらも現在まで大きくは変化していないようです。
そこで、現在の幹線水路と丸亀平野の条里地割に重ねてみましょう。それが次の地図になるようです。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
A赤色が「讃州那珂郡分間画図」や「満濃池水掛村々之図」に描かれた近世の水路
B緑色が近・現代に新しく作られた水路
C水色が土器川と金倉川
①吉野下の大横井堰
②西高篠分水
③生野堰
こうしてみるとAの近世に作られた水路は、そのルートが今もあまり変化することなく踏襲されていることが分かります。また、基本的に条理地割の上を通っています。それが直線的になったことの一つの要因のようです。この地図上でも水路を辿っておくことにします
A先ず金倉川の大横井堰①で取水され、土器川に平行するように那珂郡を北流する(現丸亀幹線)。
B②西高篠分水で西流する「多度水路」は、金倉川に落水した後、善通寺市の生野堰で再び取水され、左岸側の多度郡域へ流下する。
つまり「金倉川の治水を前提として灌漑システムが構想された」と研究者は考えているようです。これらの路網の途中の微高地上に「皿池」と呼ばれる貯留用のため池の築造が進み、安定的な灌漑網が形成されていくことになるようです。
満濃池掛かり 那珂郡分間画図
以上を仮説も含めてまとめておくと、
①古代の満濃池決壊後には、那珂郡と多度郡には金倉川と四条川が網の目のように流れていた。
②満濃池再築にあたって、西嶋八兵衛は満濃池用水路の確保のために四条川の付け替え工事をおこなった。
③それを四条川を西流させ「金倉川」とし、象頭山の麓を北流させることであった。
④丸亀平野中央部に、水路を条里制ラインに沿って掘削し、北流させた。
⑤同時に、四条川跡の櫛梨方面へも水路整備を行った。
⑤金倉川から取水された善通寺・多度津幹線は、西は西白方、東は下金倉村までをカバーする役割を担ったが、旱魃の際には水路末端まで用水を提供することが出来ず多度津藩農民の不満は高まった。これが幕末の満濃池池掛かりからの離脱を生むことになった。
⑥満濃池水掛かりの最大の受益者は高松藩であった。そのため高松藩は、倉敷代官所へも必要な意見具申をおこなっている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸亀市史 金倉川と旧四条川
まんのう町教育委員会 満濃池名勝調査報告書
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