瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:満濃池池守

 生駒騒動によって、生駒藩が転封になったあとは、讃岐は次の東西2つの藩に分割されます
①寛永18年(1641)9月 山崎家治が西讃5万石余を与えられて丸亀藩主へ
② 翌19年(1642)2月、松平頼重が東讃12万石を与えられて高松藩主へ
そして、満濃池の管理のために天領・池御領が置かれることになります。池御領は、二つの藩の境目と金毘羅神領に接した那珂郡の五條・榎井・苗田の三村領(天領)と、満濃池周囲の幕府領七ケ村領を含みます。
池御両郷帳(榎井・五条・苗田)図
満濃池水掛村々之図(明治)
上図では、以下のように色分けされています
黄色 天領池御領(五条・榎井・苗田の三村)
赤  金毘羅大権現 金光院領
桃色 高松藩領
草色 丸亀藩領
白色 多度津藩領
この絵図からは次のような事が読み取れます
①土器川を越えて、高松藩領が丸亀平野に伸びていること
②高松藩と丸亀藩の藩境は、金倉川であったこと
③丸亀城の南側は高松藩領で、満濃池の最大の受益者は高松藩であったこと
④天領3村が、金毘羅寺領に接する形で配置されていること
⑤同時に、天領3村が高松藩と丸亀藩に挟まれる形になっていること

P1240826
天領池御領(黄色)と金毘羅寺領(赤)

どうして、この3つの村が池御料に指定されたのでしょうか。

それには、次の2つの説があるようです。
一つ目は「東西領検地等の打ち余り(余り領地)によって設けられた」という説です。しかし、これは俗説です。
以前にお話したように、幕府は讃岐を東西に分割する際に、現地に派遣した担当老中に「東西=2:1」で分割せよという指示を出しています。そして、指示を受けた老中は、生駒騒動の前に本国・伊賀の藤堂藩に帰国していた西嶋八兵衛を讃岐に呼び出して、旧知の庄屋たちと綿密な打合せさせた上で「線引き」をしたことは以前にお話ししました。  
「高松藩政要録」には、天領設置について次のように記します。

右池(満濃池)成就の後、歳も経るまま費木も朽懐て、同(寛永)十八年修造を加へんとせしかど、生駒家国除の後なれば、木徳村の里正四郎大夫といえるもの、幕府へ訴え出でけるに台命ありて、五条・榎井・苗田を池修補の料に当てられける故に、今、此の村を池御料といいしなり
  意訳変換しておくと
満濃池が完成してから、年月が経過して底樋やゆる木も痛み、生駒家の転封直後の(寛永)18年(1641)に修築願いを、木徳村の里正四郎大夫という者が幕府へ訴え出た。そこで幕府は、五条・榎井・苗田を池修理基金にあてるようにした。これを今では池御料と呼んでいる。

ここには「五条・榎井・苗田を池の修理基金」とするために天領にしたと記されています。それでは、なぜこの三村が選ばれたのでしょうか。江戸幕府は、大名の改易や領地替えで藩の境界を改める時には、藩境に楔を打ち込む形で、藩境の重要地帯を天領とするのが常套手段でした。満濃池は「戦略的な要地」で、この池からの水で丸亀平野では米作りが行われています。その運用権を幕府が握っている限り、丸亀藩や高松藩は幕府には逆らえません。天領・池御領は、丸亀藩と高松藩の間に打ち込まれた「楔」であり、満濃池管理という戦略的意味も持っていたと、研究者は考えています。

決壊中の満濃池
   讃岐国那珂郡満濃池近郷御領私領図(香川県立ミュージアム)
     (緑が高松藩・黄土色が丸亀藩・白が池御領)
高松藩と丸亀藩との藩境の決定には、細かい政策的配慮が払われていことは以前にお話ししました。
  例えば、丸亀平野の南部(まんのう町旧仲南地区)では、次のように細かい分割が行われています。
①七ケ東分の久保・春日・小池・照井・本目と福良見の東部を高松藩領七ケ村(上図緑色)
②七ケ西分の新目・山脇・追上・大口・後山・生間・宮田・買田を、丸亀藩領七ヶ村
③七ケ東分の帆山と福良見の西部を加えて丸亀藩領七ケ村として、七ケ東分を二分
④さらに福良見村を三分している
福良見と帆山
福良見と帆山(まんのう町)

この線引きを行ったのが、藤堂藩から呼び返されていた西嶋八兵衛であることは、以下でお話ししました。


彼は、満濃池築造と同時に用水路を建設して、その水配分にまで関わっていました。その際に旧知となった庄屋たちから意見を聞いて、今後に問題を残さないように、野山(刈敷)の入山権利に至るまで一札をとっています。このような綿密に計算されて上で藩境は決定されているのです。池の領が「東西領検地等の打ち余りによって設けられた」というは、それらの「遠望思慮」が見えない人達の風評と研究者は評します。

満濃池から塩入2
満濃池西部の高松藩と丸亀藩の藩境・七箇村周辺絵図

 池御料の設置は、灌漑上の重要ポイントある満濃池と、その水掛かりの重点である三村を天領として抑えて置く、という幕府の常套的政策であったことを押さえておきます。

新たに設置された天領・池御領を管理したのは、だれなのでしょうか?
寛永19年(1642)に池御料が置かれてから、元禄三年(1690)まで49年間、守屋家が代官として池御領を支配することになります。
  幕府は、この時期になると新しく天領にした所では、現地のやり方や支配関係を継承して、急速に改めることを避けるようになります。「継続・安定」を重視して、在地の土豪を代官に任命するやり方をとりました。池御領の代官についても、まずは地元の最大の有力者である金光院主に代官就任を請います。しかし、金光院主の答えは「大恩ある生駒家の不幸を考えると受諾することができない」というものでした。そこで那珂郡の大庄屋で、金毘羅大権現の庄官でもあった与三兵衛を代官に任命します。
 与三兵衛は、守屋与三兵衛と名を改め、苗田村に政所を置いて、幕臣として満濃池の管理と池御料の統治に当たることになります。

守屋家代官所跡


代官となった与三兵衛に課せられた職務は、次の通りです
①満濃池の維持管理と配水
②池御料三か村の治安の維持と勧農
③豊凶を確かめて年貢高を決定し、徴収した年貢を勘定奉行に納める
こうして幕臣となった守屋与三兵衛は、従来よりも遙かに多くの責務を担い込むことになります。このため周囲の金光院や他の庄屋たちからは、「代官になってから高慢な態度をとるようになった」と非難を受けるようになります。また、金毘羅大権現の金光院からも氏子としての勤めを十分に果たさないと批判されるようになります。

 正保2年(1645)9月に、高松藩江戸家老彦坂織部から、金光院宥睨(ゆうげん)に宛てた手紙には、次のように記されています。

会式(えしき)の時分、随分よき様に成さるべく候、江戸元へ池守子五右衛門参り候間、御手前へ少しも如在申さず会式の時分も様子もよく親子共に申し付くべき由、急度申し付け候間、其の御心得有るべく候、四条の政所も如在致さず候様にと申し遣わし候、御手前よりも五右衛門万事能く申し付けくれ候様にと仰せらるべく候、拙者方よりも御手前へ申越候と仰せらるべく候、池領弥無(いよいよ)左法仕り候はば、おや子共流罪に申し付くべき由重ねて申し渡し候間、様子もよく候はんと存じ候 
            琴陸家文書「御朱印之記」
 
意訳変換しておくと
(金毘羅大権現の)会式(えしき:法会の儀式の略称で10月12・13日)の頃で、盛大な儀式が行われたことであろう。江戸の私の所へ「池守子」の守屋五右衛門がやってきたので、御手前(金光院)のことについては、何も触れずに、会式についての協力・参加するなど金毘羅大権現の庄官としての勤めを果たすよう要望した。四条の政所についても、金光院に対して従順でない態度を改め指すように申し伝えた。御手前から五右衛門のことについて、「注意指導」を行って欲しいとのことであったので、以上のように申し伝えたことを、知らせておく。
 また池領のことについては、代官としての権威を振り回して、庄官としての勤めを果たさなければ、親子共流罪を申しつけるまで云ってある。   琴陸家文書「御朱印之記」
ここからは、次のようなことがうかがえます。
①金毘羅大権現の荘官としての勤めを果たない池御料代官の守屋与三兵衛に対して、金光院主は日頃から不満を持っていたこと。
②その不満を高松藩江戸家老に、常々伝えて「指導改善」を求めていたこと。
③その意を受けて江戸家老は、訪ねてきた守屋与三兵衛に対して、「代官としての権威を振り回して、庄官としての勤めを果たさなければ、親子共流罪を申しつける」とまで、云ったこと
④江戸家老は「池守子」五右衛門と蔑称した表現を手紙の中で用いていること。
⑤金光院主と江戸家老が懇ろな関係にあり、両者の守屋与三兵衛に対する評価が低いこと
このような「指導」をうけたためでしょうか。

正式な起請文の例
正式な牛王起請文
守屋与三兵衛は、正保4年11月10日に、次の記請文を金毘羅大権現に奉納しています。
敬白起請文の事
一  満濃池修覆料として高二一二九石四斗九升弐合の所、外に酉(とり)の年より百姓共改め出しの高四四石五斗五升、共に私支配仰せ付けられ候条、万事油断なく精出し申すべく候
一 満濃池用水掛りの郡村中、先規の如く分散仕り、贔員偏頗(ひいきへんば)無く通し申すべき事
一  池御料御勘定の儀は、高松御役所、山崎甲斐守殿御奉行御両所へ御手短を以て、五味備前守殿へ毎年入用の勘定仕るべく候
一 右違背せしむるに於ては、梵天帝釈四天を始め奉り、惣じて日本六十余州大小神祗、殊には伊豆箱根両大権現三嶋大明神 天満大神、別しては氏神金毘羅大権現御部類春属の神罰を罷り蒙る可き者也
仍て記請文件の如し(以下牛王誓紙)
正保四年霜月十日 守屋五右衛門書判・印判、血判、
  意訳変換しておくと
一  満濃池修繕費として、天領年貢収納石高2129石ばかりの収入がある外に、酉(とり)年よりの百姓共改出約44石を、私は万事油断なく精出していく立場にある。
一 満濃池の用水掛りの郡村は、ひろく分散しているが、贔員偏頗(ひいきへんば)なく、用水を分水する。
一  池御料の収支決算については、高松藩や山崎(丸亀)にも説明協議を行いながら、五味備前守(幕府の奉行職?)殿へ収支決算を行う。
一 これに違背した場合には、梵天帝釈四天を始め、日本六十余州大小神祗、加えて伊豆箱根両大権現三嶋大明神 天満大神、さらには氏神金毘羅大権現御部類春属の神罰を罷り蒙る可き者也
仍て記請文件の如し(以下牛王誓紙)
正保四年(1647)霜月十日 守屋五右衛門書判・印判、血判、
 この起請文は、日付と署名の箇所は牛王誓紙で、書判・印判血判が据えられています。
牛王法印
牛王法印
先ほど見た江戸家老の彦坂織部の書簡と、この起請文とは互に関連しているようです。つまり、幕府の代官となった守屋与三兵衛の態度が不遜になって来たので、高松藩と金毘羅当局で、それを抑える考えから、起請文を納めさせたようです。この起請文からは、代官守屋家は、金光院院主と高松藩から睨まれていて、基盤も脆弱であったことがうかがえます。
琴平町苗田天領代官所跡
天領代官所跡(守屋家 琴平町苗田)
苗田村の守屋家は、古くから金毘羅祭に奉仕する世話役である庄官の家筋でした。
守屋家一門の与三兵衛も、代官就任前の寛永八(1631)年や同十五年には子供の卯太郎・安太郎を頭人に立てるなど勤めを果しています。しかし池御料代官になってからは頭屋勤めから離れるようになったようです。そのため寛文八(1668)年十月には、榎井・五条・四条・苗田の各村の庄屋仲間から、来年は是非勤めをするようにとすすめられ、翌九年には子どもの権三郎を頭人に立てています。
 しかし、代官守屋家は結局は、次のように「失脚」してしまいます。
寛文11年(1661)与三兵衛義和が二代目を継職
貞享2年(1685)  助之進義紀が三代目を継職
元禄3年(1690)  助之進義紀が代官職を罷免
この「失脚」は、将軍綱吉の「代官に対する綱紀粛正政策」によるもののようです。代官は年貢の決定権を握っており、年貢米の一部を売却して幕府の勘定奉行に納める義務があります。その際に、百姓の年貢の未進分は代官の責任とされていたので、不正が多かったようです。綱吉は、この時に全国の代官の半数に近い三十数人の土豪的代官を罷免して、幕臣を新しい代官に任命しています。
  以後の池御領は、短期間の内に、京都町奉行所・松平讃岐守(高松藩)・大坂町奉行所・倉敷代官所などの「預り所」として移り替わっていきます。これについては、また別の機会に見ていくことにします。
私が気になるのは、生駒藩の下で満濃池池守となっていた矢原家がどうなったのです?

諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
      讃岐国名勝図会に描かれた矢原邸(満濃池の下手)

 寛永八年(1631)に生駒藩時代に再築された満濃池の池守には、西島八兵衛に協力した矢原又右衛門が任命されました。 生駒家の下では、矢原家は満濃池管理の実質的な最高責任者でした。ところが天領が設置され、守屋与三兵衛が代官(幕臣)として、就任することになったのです。守屋家と矢原家の関係は、生駒藩の下では、次のような関係でした。
矢原家 満濃池池守 扶持(50石)
守屋家 造田村庄屋
つまり、矢原家の方が上にあったはずです。
それが、天領・池御領設置で、どう変化したのでしょうか?
その関係が垣間見える史料があります。延宝六年(1678)の春から夏にかけて、満濃池用水の管理について、池御料代官守屋与三兵衛が池守の矢原利右衛門に宛てた、指図書の写しです。
その中の六通には、次のように記されています。(満濃池旧記)
① 四条村の内ふけ・らく原水これ無く、苗代痛み申し候間、うてへの水少しはけ候て遣さる可く候、念を入れらる可く候
以上
四月廿六日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
意訳変換しておくと
① 四条村の内ふけ(福家)・らく原には、水が不足し、苗代の苗が痛んでいるとという申し入れがあった。うめて(余水吐け)への水を少し落として、水を送るように、念を入れること
以上
四月廿六日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
② 手紙にて申し入れ候、昨日揺落し候様に申し遣わし候、又々抜き申す様に申し入れ候、下郡より右の通りにわけ三度申し入れ候、今朝下郡より最早水いらぎる由申し来り候間早々揺差し留め下さる可く候、少しも油断なされ間敷そのためかくの如く候以上
五月廿五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
意訳変換しておくと
② 昨日、手紙にて、ユルを落とし、水を止めるように指示したが、又々、ユルを抜くように申し入れる。今朝になって、下流域の郡から水を送るように三度申し入れがあった。いずれ、下郡よりまた水は不用との連絡が来るであろうが、その時には、早々にユルを落として水を止めて欲しい。少しの油断もできない状態にある。
五月廿五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
③ 手紙にて申し入れ候、然れば上の郷(かみのごう)水これ無く、植田痛み申し候由、断りこれ有り候間ゆる四合斗り抜き落し下さる可く候、念を入れらる可く候以上
六月廿日           守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
④ 吉野桶樋(おけどい)掛りの田、大貝・黒見水これ無く候由、断りこれ有り候間、其の元見合に遣わさる可く候、念を入れらる可く候以上
六月廿一日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
⑤ 上の郷、水これ無く田痛み申す由、断りこれ有り候間、ゆる見合にぬき落し下さる可く候、委細はこの者口上にて申し上ぐ可く候以上
七月十五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
⑥ 公文高篠より水上り参り候間、早々ゆるさし留め下さる可く申し入れ候、そのためかくの如くに候以上
八月八日           守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
ここからは、満濃池の管理については、苗田の守屋家の代官が指示を出して、それに従って池守・矢原家が、ユルの扱いを行っていることが分かります。つまり、守屋家が上、矢原家はその下、という上下関係になります。天領設置で、両者の関係が逆転したのです。
これを矢原家の当主は、どう受け止めたのでしょうか。
守屋家と身分が逆転した矢原家は、貞享三寅年(1686)12月の利右衛門の病死後、池守職を離れています。池守給25石は利右衛門の子、又右衛門の持高となります。また山守給の一部として与えられていた満濃池周辺の山林も、一部が開墾されて元禄11年(1698)の検地で年貢地となり、天領七箇村の石高は50石1升8合となります。(『政要録写』)
 一方、守屋家の代官職は寛文11年(1671)に与三兵衛義和が二代目を継ぎ、貞享2年(1685)に助之進義紀が三代目を継ぎます。しかし、助之進義紀は元禄3年(1690)に代官職を罷免されています。
 以後、池御料は京都町奉行所、大阪町奉行所、高松藩の松平讃岐守などの御預かり地となり、元文4年(1739)から倉敷代官所の支配地となります。こうして満濃池の管理は、倉敷代官所の幕臣によって間接的に行われることになりますが、実質的管理・運営は池御料三か村の代表庄屋が握ります。そうなると御料三か村(天領)が、他の水掛かりの村々よりも優越した立場に立てます。満濃池揺替普請も宝永三年(1706)以後は、国役普請となり天領の庄屋たちが差配指示を行うようになります。その後の文政10年(1827)からは、自普請になりますが、管理運営権は天領3ケ村が握り、明治維新を迎えます。この池の御領という満濃池の維持・管理権をテコに、3ケ村は周辺の村々に対して、自己の力を示威したり、高圧的な姿勢をとるようになります。それが土器川周辺の出水からの水騒動を招くことになります。そして、七箇村念仏踊りの解体へととながることは以前にお話ししました。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
町史ことひら(近世編)20P  池御料の成立と統治    












 香川(かがわ)県 ため池の父・西嶋八兵衛(にしじまはちべえ) | NHK for School
西嶋八兵衛
1631年に満濃池が西嶋八兵衛によって完成したときには、讃岐は生駒氏の単独統治体制でした。
ところが生駒騒動で生駒藩が改易された後は、高松藩と丸亀藩に2:1の石高比率で東西に分割されることになります。そうすると両藩の境界線が丸亀平野の真ん中に引かれることになります。これは満濃池の水掛かりが、ふたつの藩に引き裂かれることです。水利権の問題は複雑です。後世に問題を残さないように処理することが担当者には求められることになります。讃岐に派遣された幕府要人は、この課題処理のために白羽の矢を立てたのが、生駒藩奉行として満濃池築造するだけでなく、多くの民政に関わった西嶋八兵衛でした。今回は、讃岐東西分割に対して、西嶋八兵衛がどんな役割を果たしたのかを見ていくことにします。テキストは、「廃池450余年と西嶋八兵衛の再興 満濃池史76P 満濃池土地改良区50周年記念誌」です。

藤堂高虎の騎馬像(津城跡お城公園内) - No: 4719087|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK
藤堂高虎

 天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。
それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
 大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、西嶋八兵衛もそのなかの一人だったようです。藤堂高虎の側近で『民政臣僚』のひとりだった彼が、讃岐生駒家にレンタルされることになった背景については、以前に次のようにお話ししました。
①生駒家三代目正俊が36歳で亡くなり、その子小法師(高俊)が11歳で藩主についた。
②高俊の母は藤堂高虎の養女で、祖父が高虎にり、生駒家と藤堂家は深く結ばれていた
③幼年藩主の登場で、幕府から不利益な措置がとられないように、家康の信頼が厚かった藤堂高虎が後見人となり生駒藩を保護しようとした。
④こうして藤堂高虎は若き『民政臣僚』の西嶋八兵衛を讃岐に「客臣」として送り込んだ。
 西嶋八兵衛は、元和7年(1621)から寛永17年(1640)までの間に、讃岐に4回派遣され、19年間を過ごしたようです。その期間は次の通りです。
①1回目(1621年)生駒正俊から高俊への領主交替という事務引継ぎの実務担当者(25歳)
②2回目(1625年)目付役として来讃し、生駒藩奉行に就任。
③3回目(1630年)藤堂高虎没で一時帰国するも、再度派遣。
 3回目の時には、高虎の死を契機に、八兵衛は帰りたがっていたようですが、後を継いだ高次は「生駒家の様子を見ると、当分は西島が目を光らせていたほうがよさそうである」と考えたようです。高次は八兵衛に対して、改めて「讃岐生駒藩の用向き」を申しつけて、生駒藩に帰します。これが西嶋八兵衛の3度目に来讃となります。その際に、生駒藩は五百石を加増し、併せて千石待遇としています。これは、生駒藩の重臣のベスト5に入る高給取りで、家老待遇でした。実際、この時期は生駒藩で中心的な役割を果たしていたことは以前にお話ししました。

高松城西嶋八兵衛
生駒藩高松城下での西嶋八兵衛邸の位置と広さ(家老級待遇)
 西嶋八兵衛については、讃岐では満濃池築造面ばかりが伝えられていますが、満濃池を造るために讃岐にやって来たのではありません。生駒藩四代の幼君高俊の政務を補佐するため、伊勢藩の藤堂高虎が親戚の生駒藩に送り込んだ客臣です。今で言えば本省から派遣された総務部長兼、農林部長兼、土木部長の要職で、最終的には千石を支給された家老級人物です。彼は自然災害で危機的な状況にあった生駒藩を、藤堂高虎の指示を受けて立て直します。そのひとつが決壊したまま放置され、忘れ去られていた満濃池の再築でした。

西嶋八兵衛による満濃池築造に関する年表を見ておきましょう。
1626 矢原正直が、旧満濃池内に所持の田地を差し出す。(満濃池営築図)
1628 藩主生駒高俊の命により、西嶋人兵衛が満濃池再築に着手。(満濃池営築図)
1631 (寛永8年) 満濃池築造完成(那珂郡満濃池諸色御普請覚帳)
1633 「讃岐国絵図」が作成される。
1635 矢原家、生駒家より50石を与えられ満濃池の池守となる。(矢原家文書)
1640 東西分治に際し那珂郡池御料は幕府の直轄地となる。
1641 分割の執政官として、老中・青山大蔵、勘定奉行・伊丹播磨など来讃、西嶋八兵衛は「案内人」に指名
1641 満濃池配水に関する特別慣行を幕府の執政官に提出、証文揺。幕府が池御料を吟味して水掛石高を定める。
 丸亀藩藩主に肥後天草から山崎氏が決定。
1642 池御料の代官所を苗田村に置き、守屋与三兵衛が初代代官となる。
          高松藩藩主に松平頼重が決定

 寛永十七年(1640) 生駒高俊は、お家騒動を理由に讃岐を追われ、堪忍料一万石で出羽国由利郡矢島に左遷されます。
幕府はそのあとに、讃岐を高松藩と丸亀藩に二分割して統治することにします。翌年に、分割の執政官として讃岐に派遣されたのが、老中・青山大蔵幸成(尼崎藩主)、勘定奉行・伊丹播磨でした。土地にはそれぞれ漁業権や山林の入会権、水利権などが複雑にからんいます。石高だけのソロバン勘定だけで処理すると、あとあと厄介な問題が起きかねず、責任問題にもなりかねません。そのために老中の青山大蔵は、讃岐の事情に詳しい西嶋八兵衛を、伊勢国から高松城に召し出して、「案内役」として事務処理をやらせることになります。これが西嶋八兵衛の4度目の来讃となります。
 西嶋八兵衛が丸亀平野でとりくんだ課題は、次のようなものでした。
①丸亀平野南部の村々の里山の入会権
②満濃池水掛について、
①については、以前にお話したので省略します。②の満濃池の水利慣行については、この時に作成されたA「満濃池水懸申候村高之覚」とB「先規」が以後の管理基準となり運用されます。この記録は寛永18年(1641)10月8日の日付で、満濃池関係の記録としては一番古いものになるようです。Aの「覚」は水掛かりの村々の石高を次のように記します。
満濃池水懸中候村高之覚
仲郡高合 一万九千八百六十九石余         二十一か村   
多度郡高合 一万三千七百八十五石二斗余   十七か村     
鵜足郡高合 三千百六十石                         八か村       
総高   三万五千八百十四石二斗余       四十六か村        一万四千三百六十五石二斗余
右は分木西股へ懸り申候分 一万五千五百十九石余
右は分木東股へ懸り申候分 五千九百三十石余
右は分木より上分、此分は水干にて御座候故、割符の外地水遣され候定に御座候
以上
水利や池の補修については、それまでの慣行を「先規」として次のように記します。
  一、多度郡大麻村と仲郡櫛梨村の両村と毎年替し水の事
大麻村へ懸り申候満濃池の番水を与北櫛梨村へ遣し、与北櫛梨の出水、苗田三田の井の水を池水程分木を据て大麻村へ取替し申候。満濃池水溜まり候へば、苗田三田の井を開き、与北櫛梨へ取り、大麻村へは水遣し申さず候事
  意訳変換しておくと
大麻村に広がっている番水(順番に使用する灌漑用水)を与北・櫛梨村へ送り、与北・櫛梨の出水や苗田・三田の井の水を、池の水程度の分木を据て大麻村へ取り替えること。満濃池の水が止まった際には、苗田・三田の井の分を開いて、与北・櫛梨へ取り送り、大麻村へは水を送らないこと。

一、仲郡上分は水千にて御座候に付、苗代水詰り申候節御断申上候へば先年より苗代水被遣候、仲郡下分は出水三つにて御座候に付、外の郡よりは例年先に水遣わされ候、満濃池二番一番の矢倉は仲郡上之郷に留め申し候事
  意訳変換しておくと
仲郡の上分は水が少ない状況に付き、苗代の水が詰まった際には、断りを言った上で先年以来苗代の水を送っていた。仲郡の下分は出水が三つなので、外の郡よりは例年先に水を送っている。満濃池二番一番の矢倉は、仲郡上之郷に留め置くこと」。

一、満濃池浪たたき損候へば、五毛・春日両村の藪にて篠を切り、浪たたき仕置申候。同立木ねた木切り申す山は七箇村西分東分の両山にて切来りいずれも人足は水掛かリヘ仰付けられ候事
意訳変換しておくと
満濃池の浪たたきが損傷した際には、五毛・春日両村の藪竹を切り取って、浪たたきを作ること。同じく立ち木・ねた本を切り取る山は七箇村の西分・東分の一つの山から切って持って来るが、いずれも人足は水掛かりに申し付けること。

一、右の池矢倉はちのこ損候えば、鵜足郡長尾村にて伐木仰せ付けられ候、先代より仕置来申候、人足の義は右同断に御座候
意訳変換しておくと
右の池矢倉のはちのこが損傷した際には、鵜足郡長尾村に伐木を中し付けることは、先代からの仕来りであり、人側については右と同様である。

一、右の池より西の方の村、先代より浪差切に御座候、上は岡と申す山の尾切に御座候、池より東方の村は嶺の道切、上は五毛の川切に仰付けられ候事

意訳変換しておくと
右の池よりも西方の村は、先代から浪差切であり、上は岡という山の尾切である。池よりも東方の村は嶺の道切で、上は五毛の川切に仰せ付けられる。

  右の通少しも相違御座なく候、若し以来此内より新規成義申出候者これあるに於ては、金昆羅の神前にて火罪を取り誤り候へば急度曲事可被仰付候、其時少しも申分御座有る間敷候、井びに堤修復樋揺木損候はば、御知行所御地頭様より、高積りを以て入用被仰付可被下候、後日の為此書上申候 如件
意訳変換しておくと
右の通り少しも相違はありません。もしこの後この内から新たに申し出る者がある場合には、金昆羅様の神前において火罪をとり(烈火の中に手を入れさせて正邪を裁く神明裁判を行い)、誤りがあれば急度曲事(速やかなる処罰)を申し付けるが、その際には少しも申し分(言い分)はあってはならない。井びに堤の修復の樋の本が損傷した際には、知行所の地頭から、石高の状況を計って必要経費を仰せ付けること。後日のために、右に記した通りである。

寛永十八年巳十月八日
      仲郡原田村         大庄屋  又作 印
同郡苗田村         大庄屋  与三兵衛 印
多度郡弘田村       大庄屋  与惣右衛門 印
同郡山階村         大庄屋  善左衛門 印
字多郡岡田村       大庄屋  久次郎 印
同郡小川村         大庄屋  加兵衛 印
御奉行様
以上の「先規」を受けて、幕府執政官は次のように記します。(意訳)
 右の通り村々の灌漑用水の配分については、新たな状況にを穿愁(ほじくり返す)すことが終わり、各村々の同意文書へ印鑑を押したものを満濃池の池守に預けておく。もしも用水配分などで新たな申分(言い分)が出てきた場合には、大庄屋に預けてある書付(証拠書類)の内容に従い、ひいきすることなく判断すること。もし双方で争うようなときには、地頭に検使を申し出て、書付にあるように火罪(烈火の中に手を入れさせて正邪を裁く神明裁判)に処すこと。
 以前からの掟によって池守に支給した給ってきた石高は二十五石であるが、これをそのまま出し与える。しかし、(池の管理について油断や落ち度があれば曲事(処罰)を与えることとする。
  寛永十八年巳十月九日 
     能勢四郎右衛門
                伊 丹 播 磨
                青 山 大 蔵
  右の一札を池守に渡しておく             (「満濃池水懸申候村高之覚」「先規」鎌田共済会郷土博物館所蔵)
満濃池築造やその用水路建設、水掛かりなどを通じて、西嶋八兵衛と丸亀平野の庄屋たちは旧知の間柄で、互いに信頼感もあったのでしょう。「(東西分割という)新たな状況(への対応のため)に(先例慣例)を穿愁(ほじくり返す)」したことが記されています。これは満濃池や灌漑用水路を整備した西嶋八兵衛ならこそスムーズにできたことです。彼は満濃池の水掛かりである鵜足、那珂、多度の三郡四十六か村(35804石)の大庄屋たちに命じて、満濃池掛かりの郡村別石高を記入した「満濃池水懸申候村高之覚」を提出させます。
 そして分割したあと丸亀藩と高松藩との水利紛争を避けるため、末尾に満濃池の用水配分の慣行や、池修繕のときの木材や竹を切り出す山林まで細かく明記します。上申書の末尾には老中青山ほか二名の幕府執政官が署名捺印し、「右の一札を池守に渡しておく」とあるので、一部が満濃池守に預け置かれたことが分かります。対応ぶりに卒がありません。老中青山は、西嶋八兵衛の仕事ぶりを見て、褒賞として太刀一振を与えています。ここで押さえておきたいのは、池守が矢原氏だったとはここでも記されていないことです。

こうして1641年秋、山崎氏が丸亀藩(5,3万石)、翌年松平氏が高松藩(十二万石)に封ぜられます。満濃池の維持管理や配水運営については、両藩の境に残された天領を管轄する倉敷代官所が主導権を握り、水利の一体性がうまく保持されることになります。これらの案を作ったのは、西嶋八兵衛だと私は考えています。
西嶋八兵衛は1631年に、満濃池を完成させるのと同時に、丸亀平野の治水工事を行い、灌漑用水路の整備を行いました。これによって丸亀平野一円への灌漑用水の供給が可能となったのです。それを運用したのは、満濃池掛かりの各村々の庄屋たちです。
 それが大きく変化するのが生駒騒動でした。
生駒藩転封によって「讃岐=生駒一国体制」から「讃岐=東西分治」となます。それは丸亀平野に高松藩と丸亀編の境界線が引かれることを意味しました。これは満濃池の水掛かりも分断することになります。この課題解決のために、再登場するのが満濃池の産みの親である西嶋八兵衛でした。これが八兵衛の4度目の来讃でした。こうして見てくると、現在の満濃池や用水路の原型は西嶋八兵衛が作り出した物であることがよく分かります。空海の満濃池築造がおぼろげで、よく分からないことが多く、現在の満濃池に直接は関係しないことが多いのとは対照的です。「空海が築いたと言われる満濃池」とぼかされるのに対して、「西嶋八兵衛が築いた満濃池」は確かです。満濃池の湖畔の神野寺には、弘法大師1150周年を記念して大きな弘法大師像が建てられています。しかし、西嶋八兵衛の像はありません。西嶋八兵衛によって築造されてから400年後の2032年に、西嶋八兵衛の像が建立されるという話は聞いたことがありません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「廃池450余年と西嶋八兵衛の再興 満濃池史76P 満濃池土地改良区50周年記念誌」
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