瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:満濃池竪樋

琴平と高松の人達を案内して、満濃池を「散策学習」することになりました。そのために説明に使う絵図をアップしておきたいと思います。これらの絵図をスマホで見ながら、説明等を行いたいという目論見です。まず、ため池の基本的な施設を確認しておきます。

ため池の施設
ため池の施設
蓄えた水は、③ユル→② 竪樋→③底樋→④樋門を通じて用水路に流されます。また、満水時のオーバーフローから堤防を守るための「うてめ(余水吐け)」が設けられています。

 底樋1
              仁池の底樋

現在のため池に使われている底樋です。コンクリート製なので水が漏れることもありませんし、耐久性もあります。しかい、江戸時代はこれが木製でした。満濃池の底樋や 竪樋の設計図が残されています。

満濃池底樋と 竪樋

文政3年の満濃池の設計図です。底樋にV字型に 竪樋がつながれて、堰堤沿いに上に伸びています。その 竪樋の上に5つのユルが乗っています。別の図を見てみましょう。

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       讃岐国那珂郡七箇村満濃池 底樋 竪樋図
同じ構造ですが、
底樋には木箱のような樋が使われていたことが分かります。そして堤防の傾斜にそって 竪樋がV字型に伸ばされ、丸い穴が見えます。その穴の上にユルからのびた「スッポン(筆の木)」と呼ばれる大きな詮がぶら下がっています。これで穴を塞ぐというしくみです。底樋や竪樋は、当時の最先端技術でハイテクの塊だったようです。畿内から招いた宮大工達が設計図を書いて、設置に携わりました。


満濃池樋模式図
満濃池の底樋と竪樋・ユルの模式図

この模型がかりん会館にはあります。

満濃池 底樋・ 竪樋模型
満濃池の底樋と竪樋・ユル(かりん会館)
水が少なくなっていくと、上から順番にユルが抜かれていきます。満濃池のユルは、どれくらいの大きさがあったのでしょうか
 大正時代のユル抜きシーンの写真が残されています。

大正時代のユル抜き 池の宮
取水塔が出来る以前のユル抜きシーン 後が池の宮

 この写真でまず押さえておきたいのは、ユルの背後に池の宮(現神野神社)の拝殿があることです。池の宮の前に、ユルがあったことを押さえておきます。ユルに何人もの男達が上がってユルを抜こうとしています。赤や青のふんどし姿の若者達が 竪樋に長い檜の棒を差し込んで、「満濃のユル抜き どっとせーい」の安堵に合わせて、差し込んだ棒をゆっくりと押さえて、てこの原理で「スッポン(筆木:詮)」を抜き上げたようです。それを多くの人たちが見守っています。
 ユルがなくなったのはいつなのでしょうか?

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満濃池の取水塔(1914年)
 取水塔ができるのが大正3年(1914)で、今から約110年前です。それまでは木製ユルが使われていました。

満濃池赤煉瓦取水塔 竣工記念絵はがき1927年
満濃池の赤レンガ取水塔

 次に満濃池の歴史を見ていくことにします。
満濃池は空海が築いたとされます。それを描いた絵図を見てみましょう。

満濃池 古代築造想定復元図2
空海の満濃池改修の想定画(大林組)

 大手ゼネコンの大林組の技術者たちが描がいたものです

A 空海が①岩の上で護摩祈祷していますこの岩は後には、「護摩壇岩」と呼ばれることになります。

B アーチ状に伸ばされてきた堤防が、真ん中でつながれ、③底樋が埋められています工事も最終局面にさしかかっています。

C 池の内側には ④竪樋と5つのユルが出来上がっています。

D 池の中の⑤採土場からは多くの人間が土を運んでいます。E 堤防は3人一組で突き、叩き固められています。

堤防の両側は完成し、その真ん中に底樋が設置されています。 竪樋やユルも完成し、すでに埋められているようです。
 日本略記によると空海が満濃池修復を行ったのは弘仁(こうにん)2年821年の7月とされます。
約1200年前のことです。ところが
、空海が再築した満濃池も、平安末期には決壊して姿を消してしまいます。そして、池のあった跡は「再開発」され、開墾され畑や田んぼが造られ、「池之内村」が出来ていたようです。ここでは、中世の間、約450年間は満濃池は存在しなかったことを押さえておきます。
 17世紀初頭に、その様子を描いたのが次の絵図です。

まんのう町 決壊後の満濃池

 満濃池跡 堰堤はなく、内側には村が出来ている

A ①金倉川には、大小の石がゴロゴロと転がります。

B 金倉川をはさんで左側が④「護摩壇岩」、右側が②「池の宮神社」

C ③が「うてめ(余水吐)」跡で、川のように描かれています。

D 堤防の内側には、家や水田が見える。これが⑤「池之内村」。ここからは、池の跡には村が出来ていたことが分かります。

ここに満濃池を再築したのが西嶋八兵衛です。

西嶋八兵衛

西嶋八兵衛
西嶋八兵衛の主君は、伊賀藩の藤堂高虎です。当時は、西嶋八兵衛は生駒藩に重臣として出向(レンタル)を主君から命じられていました。このような中で、讃岐では日照りが続いて逃散が頻発します。お家存続の危機です。これに対して、藤堂高虎は農民たちの不満や不安をおさめるためにも、積極的な治水灌漑・ため池工事を進めることを西嶋八兵衛に命じます。こうして、西嶋八兵衛のもとで讃岐各地で同時進行的に灌漑工事が進められることになります。彼の満濃池平面図を見ておきましょう。

西嶋八兵衛の平面図2

西嶋八兵衛の築造図

①護摩壇岩(標高143㍍)と西側の池之宮(140㍍)の丘をアーチ型の堰堤で結んでいる。

②底樋が118m、竪樋41m 堤防の長さは約82m

③その西側に余水吐きがある。

こうして西嶋八兵衛によって、満濃池は江戸時代初期に450年ぶりに姿を見せたのです。彼の業績は大きいと私は思っていますが、その評価はもうひとつです。江戸時代は忘れ去れた存在になっていたようで、そのため正当な評価はされていなかったことが背景にあるようです。

満濃池遊鶴(1845年)2
満濃池遊鶴(まんのう町教育委員会)
こうして西嶋八兵衛によって、阿讃山脈の山麓に巨大な池が姿を現します。これは文人達にも好んでとり上げられるようになり、あらたな「観光名所」へと成長して行きます。そして池の俯瞰図が描かれ、その背後に詩文が添えられたものが数多く発行されるようになります。

当時の底樋や竪樋は木製でした。そのため定期的な改修取り替え工事が必要でした。

満濃池改修一覧表
満濃池改修工事一覧表 21回の工事が行われている

底樋を取り替えるためには、堰堤を一番底まで掘り下げる必要があります。そのためには多大の人力が必要になります。満濃池普請には、讃岐全土から人足が動員されました。
その普請作業の様子を見ておきましょう。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化4
満濃池
御普請絵図
この時の嘉永年間(1848~54)の改修工事は、底樋石造化プランを実行に移す画期的なものでした。そのため工事の模様が数多く残されています。
満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(護摩壇岩) - コピー
満濃池
池普請 高松藩と丸亀藩の監視小屋

①護摩壇岩側には、「丸」と「高」の文字が掲げられた高松藩・丸亀藩の監督官の詰所

②軒下に吊されているのが「時太鼓」。朝、この太鼓が鳴り響くと、周辺のお寺などに分宿した農民たちが、蟻のように堤防目指して集まってきて仕事に取りかかった。
③小屋の前で座って談笑しているのが、農民達を引率してきた庄屋たち。藩を超えた話題や情報交換、人脈造りなどががここでは行われていた。
④四国新道を築いた財田の大久保諶之丞も、明治の再築工事に参加し、最新の土木技術などに触れた。同時に、長谷川佐太郎の生き様から学ぶことも多かった。それが、後に彼を四国新道建設に向かわせる力になっていく。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(底樋) - コピー
底樋に使う石材が轆轤でひかれています

下では石を引いたり、整地する人足の姿が見えます。彼らは藩を超えて讃岐各地から動員された農民達で、7日間程度で働いて交替しました。手当なしの無給で、手弁当で周辺のお寺や神社などの野宿したようです。自分の水掛かりでもないのに、なんでここまえやってきた他人さまの池普請をやらないかんのかという不満もありました。そんな気持ちを表したのが「いこか まんしょか まんのう池普請」でというザレ歌です。
現場を見ると、底樋の石材化のために四角く加工された石柱が何本も運び込まれています。牛にひかせたもの、修羅にのせたものをろくろを回して引っ張りあげる人夫達。川のこちら側では、天下の大工事をみるために旦那達がきれいどころを従えて、満濃池の普請見物にやって来ているようです。

満濃池決壊拡大図 - コピー
満濃池の中を一筋に流れる金倉川と「切堤防」
ところがこの時の底樋石材化プランには、工法ミスと大地震が加わり、翌年夏に堰堤が決壊してしまいます。そして、その後明治になるまで、決壊したまま放置されるのです。上の絵図は、空池となった満濃池跡を金倉川流れている姿です。
IMG_0010満濃池決壊と管製図
満濃池堰堤決壊部分、下が修理後の姿
満濃池が再築されるのは、幕末の混乱を終えて明治になってからです。
再建の中心として活躍したのは榎井の庄屋・長谷川佐太郎でした。
彼は「底樋石材化」に代わって、「底樋隧道石穴化」プランで挑みます。それは、うてめ(余水吐け)部分が固い岩盤であることを確認して、ここに隧道を通して底樋とするというものです。成功すれば、底樋のメンテナンスから解放されます。

軒原庄蔵の底樋隧道
明治の満濃池底樋隧道化案
この経緯については、以前にお話ししたので省略します。完成した長谷川佐太郎の平面図を見ておきましょう。

長谷川佐太郎 平面図
満濃池 明治の長谷川佐太郎の満濃池平面図

①旧余水吐き附近の岩盤に穴を開けて底樋を通した

②そして竪樋やユルも堤防真ん中から、この位置に移した。

③そのため一番ユルは、池の宮前に姿を見せるようになった。

④余水吐きは、現在と同じ東側に開かれた

大正時代になると、先ほど見た取水塔が池の中に姿を見せます。

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満濃池
取水塔(1914年)

約90年前に姿を見せた取水塔です。この取水塔によって、 竪樋やユルも底樋に続いて姿を消すことになります。引退した後のユルの一部がかりん会館にありますから御覧下さい。


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ユルの先に付けられていたスッポン(筆木)
実際に見てみると、その大きさに驚かされます。また下の 竪樋は厚い一枚板が使用されています。ここからごうごうと、水が底樋を通じて流れ出ていました。
 江戸時代と現在の満濃池の堰堤を断面図で比べて見ます。

満濃池堤防断面図一覧
満濃池堰堤の断面図比較

戦後1959年になると、貯水量の大幅増が求まれるようになります。そのために行われたのが堰堤を6m高くし、横幅も拡げ貯水量を増やす工事でした。断面図で比較しておきましょう

①が西嶋八兵衛 ②が昭和の大改修 が1959年の改修です。現在の堰堤が北(右)に移動して、高くなっています。この結果、池之宮(標高140m)は水の中に、沈むことになります。それよりも高い護摩壇岩(標高143m)は、今も頭だけ残しています。これも空海信仰からくるリスペクトだったのかもしれません。

満濃池 1959年版.jpg2
959年改修の満濃池平面図

①護摩壇岩は小さな島として、頭だけは残した。

池の宮は水没(標高140m)し、現在地に移転し、神野神社と呼ばれるようになった。

③堰堤の位置は、護摩壇岩の後に移され、堤防の長さも81㍍から155㍍へ約倍になった。

そして堰堤のアーチの方向が南東向きから南西向きに変わりました。この結果、堰堤に立つって讃岐山脈方面を見ると正面に大川山が見えるようになった。
最後に、明治初年に満濃池が再建される際に書かれた分水図を見ておきます。

満濃池分水網 明治

満濃池水掛村々之図(1830年)

これを見ると満濃池の分水システムが見えて来ます。
満濃池と土器川と金倉川を確認します。土器川と金倉川は水色で示されていないので、戸惑うかも知れません。当時の人たちにとって土器川や金倉川は「水路」ではなかったようです。
②領土が色分けされています。高松藩がピンク色で、丸亀藩がヨモギ色、多度津藩が白です。そして、水掛かりの天領が黄色、金毘羅大権現の寺領が赤になります。

③私はかつては高松藩と丸亀藩の境界は土器川だと思っていた時代が長くありました。それは、丸亀城の南に広がる平野は丸亀藩のものという先入観があったからです。しかし、ピンク色に色分けされたピンク領土を見ると、金倉川までが高松藩の領土だったことがわかります。丸亀城は高松藩の飛び地の中にあるように見えます。満濃池の最大の受益者は高松藩であることが分かります。

④丸亀平野全体へ用水路網が整備されていますが、丸亀藩・多度津藩は、水掛かり末端部に位置し、水不足が深刻であったことがうかがえます。

まんのう町・琴平町周辺を拡大して見ましょう。

満濃池分水網 明治拡大図


①満濃池から流れ出た水は、③の地点で分水されてます流れを変えられました。ここに設けられたのが水戸大横井です。現在の吉野橋の西側です。パン屋さんのカレンの裏になります。

②ここでは、コントロールできるだけの水量を取り込んで④四条公文方面に南流させます。一方、必要量以上の水量は金倉川に放水します。そのため夏場は、ほとんどの水が④方向に流され、金倉川は涸川状態となります。④方面に流された水は、五条や榎井・苗田の天領方面に、いくつもの小さな水路で分水されます。この絵図から分かるのは、この辺りの小さな水路は満濃池幹線から西に水がながされていることです。

③さらに④の高篠のコンビニの前で分水地点でされます。④南流するルートは公文を経て垂水・郡家・田村・津森・丸亀方面へ水を供給していきます。

⑤一方、④で北西に伸びる用水路は天領の苗田を経て、⑤で再び金倉川に落とされます。そして、⑥でふたたび善通寺方面に導水されます。
 当たり前のことですが用水路が整備されないと、水はきません。西嶋八兵衛の活動は、満濃池築造だけに目がいきがちですが、同時に用水路整備も併行して行われていたはずです。

西嶋八兵衛の満濃池と用水路

西嶋八兵衛の取り組んだ課題は?

 中世までの土器川や金倉川・四条川は幾筋もの流れを持つ暴れ川でした。これは、下の地図からもうかがえます。それをコントロールして、一本化しないと用水路は引けないのです。

満濃池用水路 水戸
国土地理院地形図 土地利用図に描かれた水戸周辺の河川跡
そのための方法が、それまで土器川と併流していた四条川を③の水戸大横井で西側へ流すための放水路としての「金倉川」の整備です。そして、それまでの四条川をコントロールして、「満濃池用水路化」したと私は考えています。「消えた四条川、造られた金倉川」については、新編丸亀市史の中でも取り上げられています。
さらに推測するなら、空海もこれと同じ課題に直面したはずです。
つまり、用水路の問題です。空海の時代には、大型用水路は以前にお話ししたように丸亀平野からは出てきていません。出てきてくるのは、幾筋もに分かれて流れる土器川、金倉川です。また、条里制も川の周囲は放置されたままで空白地帯です。土器川をコントロールして、満濃池からの水を何キロにもわたって流すという水利技術はなかったと研究者は考えるようになっています。そうすると空海が満濃池をつくっても丸亀平野全体には、供給できなかったことになります。空海が改修した満濃池は、近世に西嶋八兵衛が再築したものに比べると、はるかに小さかったのではないかと私は考えるようになりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

満濃池史 満濃池土地改良区五十周年記念誌(ワーク・アイ 編) / りんてん舎 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献 満濃池史 満濃池土地改良区50周年記念誌
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満濃池改修図

生駒藩時代に西嶋八兵衛によって再築された満濃池が、その後どのように維持されていったのかを見ていくことにします。『政要録写』『満濃池史要』からは、江戸時代の満濃池普請記録が下のように定期的に行われていたことが分かります。
満濃池普請表1
満濃池普請表2
○が御用普請 ◎が国普請 三重○自普請 ※( )内の数字は揺の耐用年数を概算したもの
 ○御用普請とは?
 材木や鉄類などの材料費と人夫の扶持米を幕府が負担し、池御料の年貢米によって賄われた普請。
 ◎国普請とは?
高松藩領、丸亀藩領、池御料、金比羅社領の四者が負担した普請
 自普請  
水掛かりの石高割りで農民が負担した普請。
 
この表からは次のようなことがうかがえます。
①平均すると10年に1回は池普請があったこと。
②底樋交換工事は、17世紀は15年毎だったのが、18世紀以後は半世紀に一度になっていて耐用年数が延びている。「技術改良」があったようだ。
③底樋は、工期が長くなるので前半・後半部の2つに分かて実施されている。
④17世紀は御用普請であったのが、18世紀には国普請になり、幕末には自普請で行われるようになっている。
なぜ定期的な「池普請」(改修工事)が必要だたのでしょうか?
ため池には水を抜くための取水施設として「底樋」と「竪樋」があります。
ため池底樋
底樋は箱状のもの、丸太をくり抜いたものや素焼の土管などが使われ、池底から勾配をつけて設置されます。「竪樋」には土手の内側に傾斜にそって設置し、いくつかの揺(ゆる)が設けられており、水位に応じて取水するようになっています 満濃池のように大きなため池は「竪樋」に「揺木」(「筆木」)で栓をして、これを引き抜く足場を設け、数人がかりで「揺る抜き」をしていました。

満濃池底樋と 竪樋
満濃池 文政3年の底樋と 竪樋
 木製樋管は腐りやすいので、その防止策として底樋の最末端に水だまりを設け、底樋を常に水に浸かるようにしていました。木材の代わりに、石材が利用されるようになるのは幕末になってからですが、これも石材化の最初の普請では「不良工事」となって接合部からの漏水し、決壊を招いています。抜本的な解決は鉄筋コンクリート管の登場まで待たなければなりませんでした。木が使われている以上は定期的に交換する必要がありました。そのためには堰堤を堀り、底樋を交換し、再び埋め直すという作業が求められたのです。これを怠ると堰堤は決壊します。
ため池底樋3
現在のため池の底樋
 人海戦術で行われた築堤工事
堰堤工事は、土を運んで突き固めるという繰り返しなので、大人数が必要でした。堤体の突き固めは、次のふたつの作業が行われます。
①棒・杵を用いて堤防を突き固める「千本搗き」「杵搗き」
②シテ振りとよばれる先導が多数の人足を前後左右に追い回し足で踏み固める「踏み締め」
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「杵搗き」と「踏み締め」
大きなため池の最難関は、工事中の洪水処理でした。
今ではダム建設の際には、本体工事に先立ち工事中の洪水を工事現場から逃がすための仮排水路を設けています。が、河川本流を堰き止めるような満濃池のような大きなため池では、仮の排水路を設けることは無理でした。そのため堤の両側から築き上げ、まん中の部分は最後まで水路として残しておいて最後に一気に締め切るという方法がとられていました。満濃池の仁寿3(853)年の工事では最後の締め切りにの際に
「夫役6,000人を発し、10日を限り力をつくして築き、俵ごも68,000余枚に砂土をつめて深処をうずめた」
とあります。堤の中央部は短期間に一気に築き上げるために、一番もろく堤防の弱点で、決壊の原因となったようです。
満濃池  竪樋.寛政jpg

 満濃池の底樋と揺替(寛政11年)
底樋や揺に使われた木材は
 初期の承応三年(1653)までの材料は、ほとんどが松材だったようで、耐用年数が短かったことが先の史料からも分かります。
竪樋は尺八樋と言われる構造で、慶長13年(1608)に河内国狭山池で「枝付尺八樋」が初めて使われるようになった新技術でした。そのため充分に使いこなせず最初の頃は、構造的に問題があったようです。
大阪で求めて、運ばれてきた木材
 万治元年(1658)の普請からは、耐用年数の延長と経費節減のために、底樋などの主要部分には草槙や檜のような高価な良材を使うようになります。良材は、周辺の山にはないので、大阪市場で買い求めるようになります。大阪町奉行所の「町中入札」で落札した材料は、落札者が海路丸亀港へ回送。それを普請方が受け取り岸上村の普請所まで運ばれます。樋大工も、備中・備前の先端技術をもった大工を呼び寄せています。ここからは満濃池のユル換え工事は、当時の最先端の技術と材料・職人が関わるトッププロジェクトだったことが分かります。

 しかし、時代を経るにつれて太い良材が手に入らなくなります。
そのため宝暦十二年(1762)からは、槻や栂を主要部分に使うようになります。主要部以外には使う松材は、満濃池に近い鵜足郡長尾村の御林(藩有林)から伐り出されています。次第に運ぶのに便利な近くの御林が選ばれるようになり、嘉永六年(1853)の普請には、中通村から切り出されたものが使われています。

満濃池ユル換え工事宝暦
満濃池 宝暦のユル換え平面図
 底樋の長さは六十五間(182メートル)、それを高さ十二間半(23メートル)の堤防の底の部分に敷設します。この底樋普請は前半と後半の二回の工期に分けて行われています。2回に分ける理由は
①工期が長くなり、その問に暴風雨や洪水に襲われる危険があったことと、
②年内には終わらないと、池に水を溜めることが困難になるため
だったようです。

満濃池普請5
満濃池底樋(文政2年)
普請は八月末から始められ、年内か遅くとも翌年の正月中には終わるように計画されていました。

 普請の際の労力は讃岐各地から集められた百姓達でした。
庄屋に引き連れられてやって来た百姓達は、付近の村々の農家に宿泊し、約五日間決められた規則に従って働きます。御用普請や国普請、自普請の種類は違っても、結局は農民の労力に頼るはかなかったのです。
満濃池池普請文政3年
満濃池普請図(文政3年)

文政十年の揺替普請(自普請)について
 文政十年(1827)の揺替普請の記録が残っています。それによると動員された「のべ人数」は底樋後半と竪樋櫓仕替で約25万人に上ります。夫役は水掛かりの石高に応じて配分されていて、高百石について約700人となっています。

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       満濃池ユル替工事の動員人夫数確認図 
一日にどれくらいの人たちが動員されたのでしょうか
たとえば文政十一年の冬の動員人数をみると、
  文政十一年正月十日 高松領十郡    六百七十人
            西   領   六百七十三人
              合計   千三百四十六人
      正月十二日 高松領十郡   九百九十三人
            西   領   九百九十三人
              合計   千九百八十六人
      正月十三日 高松領    千二百七十五人
            西領     千二百七十五人
              合計   二千五百五十人
      正月十四日 高松領      千四百二人
            西   領    千四百二人
              合計    二千八百四人
 となっていて、一日2000~2500人程度が動員されています。正月を越えての普請作業なので、工期終了間際のことだったのでしょう。これより遅くなると田植えまでに、満水にならなくなる可能性が出てきます。工期日程に間に合わせるための最後の動員だったかもしれません。ここから一日の動員数を2000人とすると、工期期間が9月からの4ヶ月間なので、
2000人×120日=24万人という数字が出てきます。
これを、どのように振り分けて動員したのでしょうか。
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満濃池人数改図(各村からの動員人夫数が確認されている)
桂重喜著『讃岐の池と水』で見てみましょう。
「高百石に付き約700人」の人夫割当を行ったようです。当時の田畑一反歩の平均石高を約一石一斗とすると、一反歩割当人夫数はのべ約8人となり、一戸当たりの耕作面積を五反歩とすると、一戸当たり「のべ人数38人」の割当となるようです。普請に出向いた百姓は、1回について最低十日は普請小屋に滞在し、使役に従事しなければならなかったので、一戸当たりの割当人夫38人ということは、普請の年はこれを三、四回は繰り返さなければならなかったことになります。これを村役人は、各戸に分配負担させていったのでしょう。
 しかし、百姓の方も心得たもので、一家の労働の中心となる担い手は避け、老人や年少者を差し出していたようです。嘉永二年(1849)の底樋仕替普請の際に丸亀藩が出した「定書」には次のように記されています。
「満濃池御普請中、私用の者は申すに及ばす、無益の人足差出し仕りまじく候事」

逆読みすると老人や年少者などの「無益の人足」が差し出されていたことがうかがえます。
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 行こうか、まんしょうか、満濃の普請、百姓泣かせの池普請

 と謡われた里謡が残っています。その実態を探って見ましょう。
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 私は最初は、満濃池普請は水掛かりの地域だけ、つまり丸亀平野の百姓達だけに割り当てられていたのかと昔は思っていました。ところが今見てきたように、そうではないのです。東讃の農民も、三豊の農民も割り当てられていたのです。つまり、讃岐国中の百姓達による普請工事だったのです。自分たちの田んぼに引かれてくる水のことならやる気も出るでしょうが、他人の田んぼのための池のために動員されたのです。これが驚きの一つでした。

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満濃池普請図右側(嘉永年間 始めて石底樋が使われている)
 各地からの村々の農民の動員や引率・管理など普請人足の統率を担ったのは庄屋たち村役人でした。人足の確認、扶持米などの受け取りと支給などにあたっています。
 たとえば、ペリーがやって来る4年前の嘉永二年(1849)の普請時には、高松領分で池普請に当たったのは那珂郡、鵜足郡の庄屋の中から一名、他の八郡の庄屋の中から一名が交替で普請場に詰め、指揮にあたっています。その際の庄屋の服装と満濃池までの行列についても藩から厳しく規定する次のような文書が残っています。
一、行列は馬または駕龍は勝手次第。
二、両掛、雨具を備え、若徒、槍持ち、草履取りを従えること。
三、衣類は越後平地の帷子、絹の羽織、川越正徳平の袴または葛の野袴、または紋付綿服、帯刀のこと。
   普請が始まると、普請場には役人の出張小屋や普請小屋、大工小屋などが建てられます。

満濃池普請小屋図1
満濃池小屋掛図
満濃池の場合は高松藩、丸亀藩、多度津藩の他に池御料、金毘羅社領など複雑に分かれていました。そのため現場には、各藩が別々に小屋掛けをしていました。
大野原からやってきた池普請組
 大野原(観音寺市)の井関村庄屋・佐伯家には、文政三年(1820)の池普請に参加した当主・民右衛門が残した「満濃池御普請二付庄屋出勤覚書」があります。

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 満濃池普請図左側(嘉永年間 始めて石底樋が使われている)

この記録から池普請に動員された農民達について見てみましょう。
この時の普請は、堤の外側を掘り下げ、木製底樋の半分を交換するものでした。現在の観音寺市大野原町を含む豊田郡和田組の村々からは、約三百名の人々が駆り出されています。その監督役として、民右衛門は箕浦の庄屋小黒茂兵衛と満濃池に出向きます。九月十二日の早朝出立した民右衛門は、財田川沿いの街道をやって来て昼下がりに宿泊地に指定された骨山(旧仲南町帆山)に到着します。そして、丸亀藩役人衆への挨拶に行っています。

決壊中の満濃池
幕末の満濃池決壊時の地図
(池の中を金倉川が流れている 朱色部分が丸亀京極藩)

 なぜ、満濃池に近い福良見に丸亀藩は、現地事務所を置かないのかと思いました。
調べてみると帆山までが丸亀領で、その向こうの福良見は高松領でした。ここが高松藩と丸亀藩の国境だったのです。そのため丸亀藩の東端の帆山(ほのやま)に現地事務所は置かれたようです。
 三豊からやてきた百姓は、帆山など周辺の寺院などに分宿し、食事は自炊です。ある意味、手弁当による無償動員なのです。
 翌日、工事現場への集合は太鼓の合図で行われます。
周囲に分宿していた人々が集まり、蟻が這うように見えたと記します。
十三日は、雨天で工事は休み
十四日もぬかるみがひどく休日
十五、十六両日は工事を実施。
和田組村々の人足は、三班に分かれて工事を行っています。
ところが和田組の人夫が立入禁止区域に入って、用を足したことを見咎められ、拘束されるという事件が発生します。これを内済にしようと、民右衛門は奔走。池御料側、櫛梨村庄屋庄左衛門らの協力により、ようやく内済にこぎつけるのです。そのためか、十六日は、櫛梨村と和田組村々の人足が、同じ班に入って作業を行っています。同日昼下がり、民右衛門は五日間の役目を終え、夜更けに帰宅しています。庄屋として責任を果たし、安堵したことでしょう。

満濃池底樋石造化工事
満濃池底樋石造化工事 
 三豊の百姓にとって、自分たちの水掛かりでもない満濃池の普請で、しかも寝泊まりも不便な土地でただ働きをさせられるのですから不満や不平が起きるのは当たり前だったのかも知れません。しかし、一方で民右衛門のように「事件」を通じての他領他村の人々との交流が生まれ、人的なネットワークが形成されるきっかけにもなりました。また満濃池普請という当時の最先端技術についての情報交換の場になり、地元でのため池工事や土木工事に生かされるという面もあったようです。  
   一方、自ら進んで池普請に参加する人たちもいました。
  塩飽の与島の島民たちです。
満濃池とは関係のない塩飽諸島の島民たちがなぜわざわざ普請にやってきたのでしょうか。しかも自発的に。与島には、
「満濃池の普請に出向かないと、島の井戸が干しあがる」
という言い伝えがあったようです。島民のほとんどが真言宗であり、信徒として空海と満濃池、島民との繋がりが生まれたのかもしれません。しかし、本当のところは分かりません
参考文献   満濃池史所収 江戸時代の満濃池普請 

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