瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:滝宮念仏踊り七箇村組

 まんのう町岸の上 寺山
岸上村(まんのう町 金倉川流域)
19世紀中頃の江戸時代後半に那珂郡岸上村(まんのう町)の庄屋だった奈良亮助は、几帳面な性格でいくつもの文書を残しています。 奈良亮助は、伯父の奈良松荘のもとで和漢の学を学んでします。伯父奈良松荘(1786ー1862)は、国学者で詩文を備後の菅茶山に学び、頼山陽と並び称せられと云います。郷里に帰り、金刀比羅の日柳燕石や三井雪航などに感化を与え、晩年は岸上村の奈良家に寄寓していました。その時に、奈良亮助はその教えを受けたようです。残された文書の中に「滝宮念仏踊行事取遺留」と題されたものがあります。
一番上には、「念仏踊の事」という記録が綴り込まれていて、次のような内容が記されています。
①滝宮念仏踊が法然上人によって、念仏布教の方法として採り上げられて発達したこと
②享保年中の滝宮での御神酒樽受取の前後争いに端を発して、念仏踊が中止になったこと
③元文四年六月晦日に雹が降って農作物が大被害を受けたこと
④この被害は滝宮への念仏踊りを行っていないことへの天罰との噂が拡がったこと
⑤そこで、寛保二壬戌年から七か村念仏踊が復活したこと
以上が、簡潔な筆致で記されています。
 この記録に続いて、文政九(1826)年から安政6(1859)年までの約30年間に、13回実施された七箇村組念仏踊のことが岸上村の庄屋記録に綴りこまれています。今回は、奈良亮助の残した文書を見ていくことにします。テキストは「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について ことひら1988年」です。
 
龍燈院・滝宮神社
滝宮牛頭権現(滝宮神社)と別当寺の龍燈院

前回にお話ししたように、初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、参加したのは4郡の4つの踊組でした。踊組の間には異常なほどの対抗心があって、いろいろな事件や騒動を起こしています。
 例えば、正保二(1645)年の時には、演じる場所・順番をめぐって、七箇村組の岸上村の久保の宮・神職が長刀で、北条組の小踊二人を切り殺すという事件があったことは前回お話ししました。このため北条組は、その後は48人の抜刀隊を編成して警固するようにしたとも伝えられます。また、七箇村組とは踊る年を変えて鉢合わせしないようにもしています。踊りはこのようなぴりぴりとした緊張感の中で奉納されていたようです。
滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り
 念仏踊りが復活した当初は、七箇村組は二組編成だったようです
1790年(寛政二)年の編成表を見ると、
①主役を勤める下知 真野村と佐文村からそれぞれ各一人、
②6人1組で子供が踊役を勤める小踊 西七箇村から一人、吉野上下村から三人、小松庄四ヶ村から二人の計六人、それと、佐文村単独で六人
③笛吹が岸上村と佐文村から一人宛、
④太鼓打が西七箇村と佐文村から一人宛、
⑤鼓打が小松庄四ヶ村と佐文村から二人宛、
⑥長刀振が真野村と佐文村から一人宛、
⑦棒振も吉野上下村と佐文村から一人宛、
⑧棒突は西七箇村四人、岸上村三人、小松庄四ヶ村三人の計10人に対して、佐文村は単独で10人
ここからは次のようなことが分かります。
A七箇村組には、次の東組と西組の二組があったこと。
東組 真野・吉野郷(高松藩領) 郷社 真野の諏訪大明神(諏訪神社)
西組 小松郷と西七箇村(池御領と丸亀藩)    郷社 五条村 大井八幡社
B 東組は高松藩の村々、西組は池御領(天領)と丸亀藩の村々から編成され、藩を超えた編成になっていたこと
C その中で、西組は佐文中心に編成されていたこと。ちなみに佐文は、ユネスコ登録になった綾子踊りの里でもあります。
七箇村組の編成からは、もともとはこの踊りが中世の郷社に奉納されていた風流踊りだったことがうかがえます。

まんのう町の郷
滝宮念仏踊り 那珂郡七箇村組(真野・吉野・小松郷)
那珂郡七箇村組をめぐる事件や問題を年表化しておきます。
享保年間(1716~36)龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番をめぐって、東西費が領組が騒動
1736(元文元)年 念仏踊は中止され、七箇村組は解体状態へ。
1739(元文四)年 6月の雹(ひょう)という異常気象で農作物被害甚大。念仏踊り中止のせいだとの声が拡がる
1742(寛保二)年 龍灯院の住職快巌の斡旋で、滝宮念仏踊への参加復活
1790(寛政二)年 東西二組の編成で、奉納が続く。
1808(文化五)年 「下知一人」となり東西2組編成から一組編成へ縮小
次に年表内容を、詳しく見ていくことにします。
享保年間(1716~36)の争いの原因は、滝宮牛頭天皇社(現滝宮神社)への踊奉納の時に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番です。踊りが終わった後に、どちらが先に御神酒樽を受け取るかをめぐる争いです。当時は樽はひとつしか準備されていなかったようです。おやつをもらう順番をめぐる子供の喧嘩のようにも思えます。しかし、背後には、高松藩・丸亀藩・池御料(天領)の三者の対立感情があります。天領の踊り手や役員達はプライドが高く、何かと周辺の住人達を見下すことがあったようです。東組には、高松藩(親藩)の住人ということで、外様の丸亀藩の西組の踊り手たちを見下します。こういう意識構造が、このようなハレの舞台で吹き出します。この結果、元文元年(1736)年以後は、七箇村組の踊りは中止に追い込まれてしまいます。
 3年後の1739(元文四)年の6月晦日に、季節外れの雹(ひょう)が降って東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を蒙ります。
「これは滝宮念仏踊を中止したための神罰である」という声が起こって念仏踊復活の気運が高まります。そして、滝宮牛頭権現(滝宮神社)の別当寺龍灯院の住職快巌の斡旋で、1742(寛保二)年から滝宮念仏踊への参加が復活します。龍灯院は対応策として、踊奉納を終えた七箇村東西組に対して、御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避けていています。事件事故に学んで、新たな対応策が出されています。しかし、二組の編成は対立感情による紛争の起こる危険を常に含んでいました。復活後は、東西二組編成で1790(寛政二)年まで続いたことが史料から確認できます。

まんのう・琴平町エリア 讃岐国絵図
念仏踊七箇村組の村々

 ところが1808(文化五)年には、1組で出演していることが史資料から分かります。この年の7月24日書かれた真野村・庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」滝宮大明神(神社)の別当寺龍燈院宛の報告には、この年の七箇村組の行列は、次のように記されています。
「下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人」

「下知一人、笛吹一人」ということは、一編成になったことを示すものです。「取遣留」の1808年7月25日の記事にも、龍灯院からの御神酒樽については、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」、口上を述べ終わると、御神酒樽は踊り場である神社から龍灯院が預かって直ちに持ち帰っています。そして、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を龍燈院の書院に招待して御神酒を振る舞っています。ここでも酒樽は1つしか準備されていません。1808年の時点で、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院から待遇されるようになっています。
   ここからは1790(寛政二)年から1808(文化五)年までの間に、七箇村組のなかで大きな問題が起こったことがうかがえます。また、一番踊り手構成メンバーが削減されているのが佐文村です。佐文は西組の中心だったことは、先ほど見たとおりです。それが棒付10名に減らされているのです。七箇村組が二編成から一編成に縮小された背景には、佐文をめぐる問題があったことがうかがえます。19世紀初頭には、それまで東西2組で運営されていた七箇村組は一組となってしまったようです。
以上を整理しておきます。
①中世に小松・真野・吉野郷では、風流踊りが郷社に奉納されていた
②それは地域の村々の有力者による宮座で組織されていたが、戦国時代に中断していた
③それを初代高松藩主松平頼重が地域興しイヴェントとして復活した
④その時に参加したのは、4つの郡の郷社に奉納されいた風流踊りであった
⑤4つの踊組は対抗心が強く、いろいろな事件や騒動を引き起こした
⑥那珂郡七箇村組も、当初は東西2組編成であったが、18世紀初頭には、1組に「縮小」している。これも内部での騒動か事件があったことが考えられる。
こうして、19世紀になると軌道に乗り、3年毎に安定して踊り奉納は行われるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年」
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 ユネスコ無形文化遺産に香川県から滝宮念仏踊りと、綾子踊りが登録されました。滝宮念仏踊には、かつてはまんのう町からも踊組が参加していたようです。今回は、滝宮に風流踊りを奉納していた「那珂郡七箇村踊組」についてみていきます。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
まんのう町七箇村念仏(風流)踊り村別役割分担表

この表は文政12(1829)年に、岸上村の庄屋・奈良亮助が踊組の総触頭を勤めた時に書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。ここには各村の役割と人数が指定されています。この役割は「世襲」で、村の有力者だけが踊りのメンバーになれたようです。この表からは、次のような事が見えてきます。
①まず総勢が2百人を越える大スタッフで構成されたいたことが分かります。
スタッフを出す村々を藩別に示すと、次の通りです。
A 高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
B 丸亀藩 西七ヶ村(買田・宮田・生間・追上・帆山・新目・山脇)佐文村 
C天領  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
まんのう町エリア 讃岐国絵図2
まんのう町周辺の近村々村々
まんのう町の村々(正保国絵図 17世紀前半で満濃池が池内村)

どうして、藩を超えた編成ができたのでしょうか。
それは丸亀藩と高松藩に分けられる以前から、この踊りが那珂郡南部の「真野・吉野・小松」の3つの郷で踊られていたからでしょう。七箇村踊組は、中世から踊り継がれてきた風流踊りだったようです。

那珂郡郷名
那珂郡南部の子松・真野・吉野の郷で、踊られていた
②滝宮に踊り込む前には、各村の神社に踊りが奉納されています。
7月17日の満濃池の池の宮から始まって
  18日七箇春日宮・新目村之宮
  21日五条大井宮・古野上村宮
  22日が最終日で岸上村の久保宮と、真野村の諏訪神社に奉納
  27日に滝宮牛頭大明神(滝宮神社)への躍り込みとなっています。
「諏訪大明神念仏踊図(真野諏訪神社)」に描かれた踊りが綾子踊りにそっくりであることを以前に紹介しました。
諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
諏訪大明神念仏踊図(真野諏訪神社)

そして役割構成も似ています。ここからは佐文の綾子踊りの原型は、「七箇村踊組」の風流踊りにあることがうかがえます。
③実は七箇村踊組は、もともとは東西2組ありました。
その内の西組は佐文を中心に編成されていたのです。ところが18世紀末に滝宮への奉納を廻って、なんらかのトラブルがあったようで、西組は廃止され1組だけになりました。その際に佐文村は下司など中心的な役割を失い、「棒付10人」だけに大幅に縮小されます。ここからは佐文が不祥事の責任をとらされたことがうかがえます。
 今まで踊りの中心を担っていた佐文にとって、これはある意味で屈辱的なことでした。それに対して、佐文がとった対応が新たな踊りを単独で出発させるということではなかったのではないでしょうか。こうして雨乞い踊りとして、登場してくるが綾子踊りだと推測できます。そうだとすれば、綾子踊りは那珂郡南部の三郷で踊られていた風流踊りを受け継いだものといえそうです。
綾子踊り67
佐文 綾子踊り
  参考文献  大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年


滝宮念仏踊 那珂郡南組

この絵図は、まんのう町真野の諏訪神社で踊られた那珂郡南組(七箇村組)の念仏踊の様子が描かれています。 私が最初に、この絵図を見たのは香川県立ミュージアムの「祭礼百態」の展示でした。その時には、次のような短い説明が付けられていました。
2基の笠鉾が拝殿前に据え付けられ、日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知、同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人が描かれる。また花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子踊りもいる。また、下部には頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれる。念仏踊りを描く絵図はほとんどなく、当時の奉納風景をうかがうことができる数少ない絵図である。  

  この絵図については以前にも紹介しましたが、満濃町誌をながめていると、この絵図について書かれている文章がありました。それをテキストにしながらもう一度、紹介したいと思います。
テキストは満濃町誌 第三編  満濃町の宗教と文化 「満濃町誌」1100Pです
町誌は、この絵図がいつ書かれたのかを探っていきます。
そのヒントのひとつは、この絵の中に隠されているようです。右側の仮桟敷に「カミマノ(上真野)大政所、三原谷蔵」とあります。三原谷蔵が那珂郡の大政所を勤めたのは、文久二(1862)年のことになるようです。
滝宮念仏踊り 2

 「金刀比羅宮文書御用留文 文久二年七月二十六日」には
「那珂郡の大政所三原谷蔵の使の者有り、来る二十八日に念仏踊が踊り込みたい旨の申込あり云々」

と書かれています。
  1862年の7月26日に、那珂郡の政所(大庄屋)である三原谷蔵の使いが金毘羅大権現にやってきて、7月28日に、念仏踊を金比羅で行いたいという連絡があったと記します。

 この滝宮念仏踊りは、ひとつの村だけで構成されているのでなく、いくつもの村のメンバーが参加します。そのために、滝宮での本番の前に、構成員の村の鎮守を巡って踊ります。そのスケジュールも決まっていました。「吉野村史」には、1742年の念仏踊りの組織や踊り場所日程について、次のように記録しています。
那珂郡南部念仏踊り組
寄合場所 真野村字東免
踊組人員割(合計二〇四人)
真野村 下知一人、長刀一人、鉦打二人、地踊二人、棒突一人 長刀三人
岸上村 笛吹一人、鉦打五人、地踊り一人 旗五人、長刀槍十人
吉野上下村
    棒振上村一人、小踊上村二人、鉦打上村三人、地踊上村五人・下村二人、長柄槍 下村五人、旗上村二人、小踊上一人・下一人、新鉦打下村六人・上村二人
小松庄
   小踊四条一人・五条一人、地踊四条三人・榎井二人・五条二人・苗田二人、
笠飾四村各一人、太鼓打苗口・榎丼各一人、長柄槍一二人、旗九人
東七箇村 鉦打一〇人、法螺貝一人、地踊七人、旗二人、棒突三人、新鉦打一人
西七箇村
  太鼓打一人、鉦打一二人、小踊一人、法螺貝一人、地踊二十三人、旗八人、
長柄槍八人、棒突四人、新鉦打二人
踊場所及庭数
七月十六日 満濃池の宮五庭
七月十八日 七箇春日宮五庭、新目村之官五庭
七月廿一日 五条大井宮五庭、古野上村営七庭
七月廿二日 十郷買田宮七庭
七月二十三日 岸上久保宮七庭、真野宮九庭、吉野下村官三庭、榎井興泉寺三庭
              右寛保二戌年七月廿一日記

文久二(1862)年の時には、榎井の興泉寺と、金毘羅山を終えて、岸上村の久保宮で踊り、最後に真野村の諏訪神社で九庭踊って、その年の踊奉納を終了することになっていたようです。以上の史料から、この絵図は文久二年七月二十八日の夕方に、真野村の諏訪神社で行われた踊奉納を描いたものと研究者は考えているようです。
 もう一度絵図を見てみましょう。
正面が、諏訪神社の拝殿です。手前に屋根だけ描かれているのが神門でしょう。ここからは、境内の拝殿前で踊興行が行われていたことが分かります。陣笠を被って、踊りのまわりを警固しているのが長刀や槍を持った警固衆なのでしょうか。そのまわりに、大勢の人が頭だけ描かれています。
滝宮念仏踊 那珂郡南組

 見慣れないのがその背後の仮小屋です。正面の拝殿前に四棟、左側の内に八棟、その手前外に二棟、右側の内に八棟、総計三二棟の仮小屋が描かれています。その中では、ゆったりと念仏踊りを見守る人たちがいます。下の「一般大衆」とは「格差」があるようです。
これは以前にお話したように、宮座の構成メンバー達だけに認められた権利の桟敷です。
桟敷の使用者名(宮座メンバー)を見てみましょう。
①正面左から右へ「ゲシヨ(下所の永吉」「ヨシイタケヤ富之進」「ヨシイ彦兵衛」「カミマノ(上真野)広右衛門〉と続きます。この正面に桟敷の権利を持っている人たちが宮総代を勤めていた人々と研究者は考えているようです。
②左側には「ミヤ(宮)朝倉」「ヨシイ折平」「ヨシイ庄助」「ミシマ(三島)アイサコ多喜蔵」「ミシマ文蔵」「ニシマノ(西真野)ゴーロ長五郎」「ヨシイ治右衛門」「ハカバ藤作」「ミシマカ蔵」「ヒラバヤシ亦作」と並びます。「ミヤ(宮)朝倉」は、宮司でしょうか。
③右側には「ヨシイ喜二郎」「ヨシイアナダの藤蔵」「光教寺」「カミマノ大政所三原谷蔵」「カミマノ五左衛門」「ミヤウテ喜太郎」「ヒラキタハヤシ二五郎」「宮西伊二郎」と書きこまれています。

滝宮念仏踊 那珂郡南組3

踊りはすでに始まっています。拝殿の正面に、祥姿で床几に座しているが七箇村組の村役人でしょう。日の丸の団扇を持っているのが念仏踊の総触頭の三原谷蔵のようです。豆粒のように、黒く白く描かれているのが踊りの見物人と対照的です。ここからは、この絵を描かせた人物も浮かび上がってきます。
①三原谷蔵が自分の晴れ姿を絵師に描かせた。
②宮司が絵師に依頼し、三原谷蔵に晴れ姿を描かせてプレゼントした
絵に作者名はありませんが、四条派の手法が見られるところから郡家村の大西雪渓か、あるいは雪渓について四条派の技法を修めたと伝えられる、吉野上村五毛出身の東条南渓の作ではないかと研究者は考えているようです。

中央で笠を被って帯刀して、手に日月の団扇を持っているのが、踊りで中心的な役割を勤める下知役です。これも真野村の者が勤めることになっていて、その家筋も決まっていたようです。ここからは、地侍や名主たちを中心とする中世の宮座の形がうかがえます。宮座については、岸上の久保神社の桟敷についての所で、以前にお話ししましたので省略します。
滝宮念仏踊り 2

  中央の下知役が、日月の団扇を打ちふって、「ナンマイ、ドウヤ。ナンマイ、ドウヤ。」と唱えると、警固役がこれに唱和して、鉦、太鼓、笛、鼓、法螺貝が鳴り響き、踊り子が美しく踊り舞う、という姿が描き込まれています。周囲には「南無阿弥陀仏」と、染めぬいた職が十数本立てられています。また、赤い笠鉾が二本立っていて目を引きます。
滝宮念仏踊 那珂郡南組5

 手前に描かれているのは棒突きです。棒を振って踊場を清め、地固めをし、踊場を確保しています。これは、踊りの最初の所作を現したものです。
滝宮念仏踊七箇村組の総触頭は真野村の政所が勤め、念仏踊の寄合は必ず不動堂で行われたようです。そして、順年毎の念仏踊の最後の踊りは必ず諏訪神社で九庭踊って納めとなっていたようです。

DSC07244
佐文綾子踊り(まんのう町佐文賀茂神社)
この絵図を最初に見て私が感じたのは、佐文の綾子踊りに似ていることです。類似点を挙げると
①  神社の境内で演じられているスタイル
② 日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知
③ 同じく花笠を被った中踊り
④ 花笠を被った6人の子踊り
⑤ 棒を振って踊場を清め、地固めをし、踊場を確保する棒突。
イメージ 11

幟に書かれている「南無阿弥陀仏」を「善女龍王」に替えて、これが江戸時代に踊られていた綾子踊りですと云われて見せられれば、そうですかと見てしまいそうです。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳(那珂郡南組)
 この表は、文政十二(1829)年に、岸上村の庄屋・奈良亮助が念仏踊七箇村組の総触頭を勤めた時に書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。 総勢が2百人を越える大スッタフで構成されたいたことが分かります。そして、スタッフを出す村々も藩を超えています。
高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
丸亀藩 西七ヶ村・塩入村・佐文村
天 領  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
ここからは、滝宮念仏踊りが讃岐一国時代から踊られていたことがうかがえます。
 この表で注目したいのは佐文村です。
佐文には、国無形民俗文化財に指定されている綾子踊りが伝わっています。私は、佐文は綾子踊りがあるので、滝宮の念仏踊り組には参加していないものと思っていました。しかし、ここには、構成村の一つとして佐文村の名前があります。

IMG_1379

 しかも、寛政二(1790)年の念仏踊の構成(福家惣衛著・讃岐の史話民話164P)を見てみると、佐文のスタッフ配分は次のようになっています。
下知一人、小踊六人、螺吹二人と笛吹一人、太鼓打一人と鼓打二人、長刀振一人、棒振一人、棒突一〇人の計25人。

ところが約40年後の文政12年には棒突10人だけになっています。このことは、佐文村に配分されていたスタッフ数が大きく削られたことを示します。
 問題はそれだけではありません。これによって七箇村組の構成そのものが変化しています。編成表を比較してみると、寛政二年には踊組は東と西の二組の編成でした。一人で踊りの主役を勤める下知が真野村と佐文村から各1人ずつ出ていました。また、6人一組になって踊役を勤める小踊は、西七箇村から1人、吉野上下村から3人、小松庄四ヶ村から2人の計6人で構成されていました。ところが、佐文村は単独で6人を分担しています。さらに、
お囃子役や警固役を勤める螺吹が東七箇、西七箇と佐文から各二人、
笛吹が岸上村と佐文村から一人、
太鼓打が西七箇村と佐文村から一人、
鼓打が小松庄四ヶ村と佐文村から二人、
長刀振が真野村と佐文村から一人、
棒振も吉野上下村と佐文村から一人、
棒突は西七箇村四人。岸上村三人、小松庄四ヶ村3人の計10人に対して、ここでも佐文村は、10人を単独で出しています。
ここからは滝宮念仏踊の那珂郡南組は、佐文村が西組の中心的な存在であったことが分かります。それが何らかの理由で佐文は、中心的な位置から10人の棒付きを出すだけの脇役に追いやられた事になります。どんな事件があったのでしょうか?
 想像を膨らませて、次のような仮説を出しておきましょう。
 南組と佐文村の間に、何らかの対立が生じ、その結果佐文は「スタッフの規模縮小」を余儀なくされた。その対応として、佐文は独自に新たな「綾子踊り」をはじめた。その際に、踊りを念仏踊りから風流踊りに取り替えて、リニューアルさせた。
IMG_1375

 七箇村組は東西二組の編成だったために、二組がお互いに技を競い、地域感情も加わって争いが起こることが多かったようです。
享保年間(1716~36)には、滝宮神社への踊奉納の際に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順位のことで、先後争いが起こっています。この争いの背後には、高松藩・丸亀藩・池御料の三者の日頃の対立感情があったようです。
 そのために元文元年(1736)年に念仏踊は一旦中止され、七箇村組は解体状態になります。それから3年後の元文4年の6月晦日に、夏に大降雹(ひょう)があって、東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を受けます。これは滝宮念仏踊を中止したための神罰であるという声が高まり、関係者の間から念仏踊再興の気運が起こります。龍灯院の住職快巌の斡旋もあって、寛保二(1742)年から滝宮念仏踊は復活したようです。復活後は、那珂郡南組は東西二組の編成が、寛政二年まで続きます。

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 この間、滝宮の龍灯院は踊奉納をした七箇村組に対して、問題の御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避けていたといいます。しかし、二組編成は再度の紛争が起こる危険をはらんでいました。
 文化五(1808)年7月に書かれた真野村の庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」の7月24日の龍燈院宛の報告には、次のように記されています。
 七箇村組の行列は、下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人の一編成になっている。取遣留の七月廿五日の龍灯院からの御神酒樽の件は、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」と口上を述べ終わると、御神酒樽は龍灯院へ預かって直ちに持ち帰り、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を書院に招待して御神酒を振る舞った。

 ここからは、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院から待遇されるようになっていたことが分かります。この時点で、佐文のスタッフが大幅に減らされたようです。それは、寛政二年から文化五年までの32年間の間に起こったと推察できます。
 あるいは、佐文村の内部に何かの変化があったのかもしれません。それが新たに佐文独自で「綾子踊り」を行うと云う事だったのかもしれません。どちらにしても南組が二編成から一編成になった時点で、佐文は棒振り10人だけのスタッフとして出す立場になったのです。
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 以上から推察すると、新たに始めた「綾子踊り」が諏訪神社で踊られていた念仏踊りと非常に似ているのも納得がいきます。そういう目で見ると、下知や子踊りの姿は、念仏踊りに描かれている姿とよく似ています。
  以上をまとめておきます
①初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、那珂郡南組(七箇村組)は東西2編成で出場していた。
②その西組は佐文村を中心に編成されていた。
③しかし、藩を超えた南組は対抗心が強く、トラブルメーカーでもあり出場が停止されたこともあった。その責任を佐文村は問われることになる。
④その対策として那珂郡南組は、1編成に規模を縮小し、佐文村のスタッフを大幅に縮小した。
⑤これに対して佐文村では、独自の新たな雨乞い踊りを始めることになった。
⑥それが現在の「綾子踊り」で、念仏踊りに対して風流踊りを中心に据えたものとなった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  満濃町誌 第三編  満濃町の宗教と文化 「諏訪神社 念仏踊の絵」1100P
  大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら 昭和63年
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DSC01880
諏訪大明神念仏踊之の図(まんのう町)

まずは絵図をご覧ください。神社の境内で団扇を持って、踊りが踊られているようです。手前(下部)では薙刀振りが、薙刀を振り上げて警護をしているようです。そして、それを取り巻く境内いっぱいの人たち。最初にこの絵図を香川県立ミュージアムの「祭礼百態」展で見た時には、「綾子踊り」だと思いました。綾子踊りは、国の無形文化財に指定されている風流踊りで佐文の賀茂神社で、2年に一度奉納されています。その雰囲気とよく似てるのです。

DSC01881
桟敷席から念仏踊りを見る長百姓たち 
桟敷席にはそれぞれの家の名前が記されている

しかし、よく見ると少し違うことに気付いてきました。見物客の後側に並んで建つ小屋群です。これは各村の支援テントかなと現代風に考えたのですが、よく見ると人の名前が入れられています。小屋の所有者の名前のようです。さらによく見ると2階から踊りを見ている人たちが描かれています。これはどうやら見物小屋(桟敷小屋)のようです。この絵図に付けられた説明文には、次のように記されています。
諏訪大明神念仏踊之の図
本図はまんのう町真野の諏訪神社に奉納される念仏踊りの様子を描く。2基の笠鉾が拝殿前に据え付けられ、日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知、同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人が描かれる。
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 また花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子どもがいる。下部には頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれる。念仏踊りを描く絵図はほとんどなく、当時の奉納風景をうかがうことができる数少ない絵図である。
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これは綾子踊りではなく念仏踊りなのです。場所も、加茂神社ではなくまんのう町真野の諏訪神社だというのです。しかし、綾子踊りとの共通点が非常に多いのです。また、見物小屋については何も触れていません。この念仏踊りは諏訪神社以外の周辺の神社でも奉納されています。佐文の賀茂神社でも踊られていたようです。そして、最後に滝宮神社に奉納されていました。
images (6)綾子踊り

佐文の綾子踊り

滝宮念仏踊りについて確認しておきましょう。
讃岐の飯山町の旧東坂本村の喜田家には、高松藩からの由来の問い合わせに応じて答えた滝宮念仏踊りに関する資料が残っています。そこには起源を次のように記します。(意訳)
   喜田家文書の坂本村念仏踊  (飯山町東坂元)
 光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日①菅原道真が讃岐守となって讃岐に赴任し、翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、②道真公は城山に七日七夜断食して祈願したところ七月二十五日から二十七日まで三日雨が降った。③国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。

要点を挙げておくと
①菅原道真が讃岐国司として赴任中に、大干ばつが起きた
②菅原道真は、城山で雨乞祈祷を行い雨を降らせた
③国中の百姓が喜びお礼のために「滝宮の牛頭天皇社」に、雨い成就のお礼踊りを奉納した。

  綾川中流の滝宮にある滝宮神社は、もともとは牛頭天皇社として中世から農耕作業で重要な働きをしていた牛の神様として、地域の農民から信仰を集めてきました。そして、中讃での牛頭信仰の拠点センターとして、周辺にいくつものサテライト(牛頭天皇社)を持つようになります。こうして滝宮牛頭天皇社は、毎年牛舎や苗代などに祭る護符を配布する一方、煙草・棉・砂糖などの御初穂を各村々から徴集します。滝宮牛頭神社は、農民の生活の中に根を下ろした神社として多くの信者を得ます。この神社の別当寺が龍燈院でした。龍燈院は現在の滝宮神社と天満宮の間に、広大な伽藍を持つ有力寺院で、この寺の社僧(真言系修験者)が滝宮神社を管理運営していました。
滝宮神社・龍燈院
滝宮神社(牛頭天皇社)とその別当寺龍燈院
 ここで注意しておきたいのは、滝宮念仏踊りは、菅原道真の雨乞いに成就に対して百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った」のです。感謝の踊りであって、もともとは雨乞い踊りではないのです。

滝宮念仏踊り
滝宮神社の念仏踊り
滝宮神社の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」

かつては、念仏踊りは讃岐国内の13群すべての郡が踊りを滝宮に奉納に来ていたというのです。続けて

「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」

とあり、高松藩の松平頼重が初代藩主として水戸からやってきて「中断」していた念仏踊りを西四郡のみで再興させたといいます。念仏踊りは風流踊りで、雨乞いだけでなく当時の人にとってはレクレーションでもあったので大勢の人が集まります。そのため喧嘩などを禁ずる高札を掲げることで騒ぎを防止したようです。4つの組の踊りの順番が固定し、安定した状態で念仏踊りが毎年行われるようになったのは、享保三年(1718)からのようです。

滝宮に奉納することを許された4つの組の内、七箇村組は、満濃御料(天領)、丸亀藩領、高松藩領の、三つの領の13ヶ村にまたがる大編成の踊組でした。
その村名を挙げると、真野・東七箇・西七箇・岸の上・塩入・吉野上下・小松庄四ケ村・佐文の13の村です。そのため、踊組の内部でも、天領民の優越感や丸亀・高松両藩の対抗意識が底流となって、内紛の絶えることがなかったようです。そのため中断も何回もありました。これを舵取る当番の各村の庄屋は、大変だったようです。
 さて七箇村踊組は7月7日から盛夏の一ヶ月間に、各村の神社などを周り、60回近い踊興行を行い、最後が滝宮牛頭神社での踊りとなるわけです。先ほどの諏訪神社の絵図も、その途上の「巡業」の時の様子が描かれたもののようです。 
 さて、諏訪神社の見物桟敷小屋の謎にもどりましょう。
その謎を解く鍵は、隣の村の久保神社に残されていました。

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 岸上村の庄屋・奈良亮助が残したもので「天保9年再取極 滝宮念仏踊 久保宮(久保神社)桟敷図 
七箇村組記録 奈良亮介書」と真ん中に大きく記されています。これは久保神社で念仏踊りが行われる時の桟敷の配置図です。よく見ると、境内の周りに桟敷小屋を建てる位置が記入してあります。
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そして、次のように記されています。
 戌八月十日、於久保宮において念仏踊見物床場の之義について、去る七日に長百姓・社人・朝倉石見が出会い相談の上、床場所持の人は残らず相揃い、一同相談の上、昔のことなども確認した結果、以下のような配置に改めることになった。
 御殿占壱間後江引込東手二而
     真南向弐間  神余一統(神職 朝倉氏)
       同弐間  奈良氏(岸の上の庄屋)
 同所東占西江向壱間半 同性分
 右一間半之分へ先年権内権七と申者一統之床場二而御座候所、文政三辰年彼是故障申出候二付、其節朝倉加門・優益・庄次郎・太郎兵衛四人之衆中占、右権七占法外之申出候義ハ、困窮二相成居申候二付彼是申義二付、少々為飯料 指遣候様申出候二付、四人之取扱二而米五斗銀拾五匁指遣、
壱間半之場所買取、都合本殿前三間半ハ奈良家之床場二相究せ候事。(中略)
意訳変換しておくと
御殿(拝殿?)前の一間後へ引込んだ東手の二面については
  真南向の二間  神余一統(神職 朝倉氏)
  同弐間     奈良氏(岸の上の庄屋)
  同所東の西向壱間半 同性分
 この一間半之分は、もともとは権内権七の一族床場(桟敷席権利)であった。しかし、文政三(1813)辰年に、一族から、経済的な困窮で維持が困難となったたので、適当な飯料で売却したいという申し出があった。そこで相談役の四人衆で協議した上で、庄屋の奈良家が米五斗銀拾五匁で、権内権七から壱間半の床場を買取ることになった。こうして、本殿前の奈良家の床場は、従来のものと合わせて三間半の広さとなった。(下略)
この史料からは、桟敷床場の権利をもつ構成員が、経済的な困窮のためにその権利を手放したこと、それを庄屋奈良家が買い取ったことが分かります。つまり、久保神社の床場配置の「再取極」(再確認書)のようです。本殿真南の一番いい場所は、神職朝倉氏と庄屋の奈良氏が2間の広さで占めます。問題は、その隣の一間半の部分です。ここはかつては、権内権七一族のものでしたが、経済的な困窮からこれを庄屋の神職の朝倉家が買い取り、朝倉氏が持つ本殿前の床場(桟敷占有面)は、「本殿前三間半は奈良家之床場二相究せ候」と記します。ここからは久保神社では「床場」が売買されていたことが分かります。
南 面申内川問
御殿方西脇壱間後へ引込
       長弐間  藤左衛門一統分
       同弐間  丹左衛門分
 西方束向二而同壱間半 彦右衛門
       長壱間半 横関氏一同
       同弐間半山下嘉十郎
 右嘉十郎之ハ、明和年中二大坂表向稼ニ罷(まかり)越候ニ付き、床場ヲ舎人朝倉氏に預け置き之あり。同所へ太郎兵衛床場之由申出、口論ニ及び候ニ付き、奈良亮助方双方へ理解申聞せ、右弐間半之内壱間半朝倉氏二、残ル壱間ハ太郎兵衛床場二相究遣シ、万一嘉十郎子孫之者村方へ罷帰り相応相暮候様相成候得バ、両人之分を山下家江表口弐間半分指戻候様申聞せ、相談之上相済候事。
意訳変換しておくと
南 面申内川問
御殿(拝殿)西脇の壱間後へ引込んだ場所
       長弐間  藤左衛門一統分
       同弐間  丹左衛門分
 西方東向二而同壱間半 彦右衛門
       長壱間半 横関氏一同
       同弐間半山下嘉十郎
 この嘉十郎については、明和年中(1761~)に大坂に稼ぎに行って、床場を社人朝倉氏に預け置いていた。ところがここの権利は自分にあると太郎兵衛が申出で、朝倉氏と口論になった。そこで庄屋の奈良亮助が双方の仲裁に立って、次のように納めた。二間半の内の一間半は朝倉氏、残りの一間は太郎兵衛の床場とする。もし嘉十郎の子孫が村へもどってきて、相応の暮らしぶりであれば、両人分二間半を山下家に返却することに同意させた上で、相済とした。

 山下嘉十郎については、一家で大坂に出向く際に、床場の権利を朝倉氏に預けたようです。その分について、朝倉氏と太郎兵衛が分割して使用することになったようです。面白いのは、もし嘉十郎の子孫が村に帰ってきた場合は
「相応の暮らし」をするようになれば、床場を返還するという条件です。貧困状態で還ってきたのでは、床場権利は健脚出来ないというのです。ここからは、床場は長百姓階層や高持百姓などの、富裕な人々だけに与えられた権利であったことが分かります。
 諏訪神社の絵図には見物桟敷の前に、頭だけを目玉のように描かれた見物人がぎっしりと描かれていたことを思い出して下さい。あれが、一般の民衆の姿なのです。そして有力者がその背後の見物桟敷の高みから念仏踊りを風流踊りとして楽しんでいました。絵図には、見物桟敷の持ち主の名前が全て記入されていました。このことから考えると、この絵図の発注者は、諏訪神社の「宮座」を構成する有力者が絵師に書かせて奉納したものとも考えられます。

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以上から分かることは次の通りです
①祭礼の桟敷席が、村の有力者の権利として所有され、売買の対象だったこと
②桟敷席には、間口の広さに違いがあり、その位置とともに家の家格と関係していたこと。
③困窮し手放した場合は、その子孫が無条件で返還されるものではなく「相応の暮らしを維持できる」という条件がつけられていたこと。
「桟敷席」の権利が、村での社会的地位とリンクしていたこと押さえておきます。
この特権は、中世の「宮座」に由来すると研究者は考えています。このように桟敷席に囲まれた空間で踊られたのが風流踊り(=念仏踊り)なのです。そして、それが描かれているのが最初に見た諏訪神社の祭礼図ということになるようです。
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風流踊りが奉納された久保神社(久保の宮)の境内
どんなひとたちが、この踊りを踊っていたのでしょうか?
 岸上村の庄屋・奈良亮助が残した記録の中に「諸道具諸役人割」があります。これによって天保十五年の七箇村組の踊役の構成を知ることができます。
   踊子当村役割
 一、笛吹        朝倉石見(久保の宮神職)
 一、関鉦打        善四郎
 一、平鉦打       長左衛門
 一、同         徳左衛門
 一、同         与左衛門
 一、同          権 助
   同 古来?仁左衛門 助左衛門
  、同 古来?全左衛門 宇兵衛
       宇兵衛右譲受 五左衛門
 一、同 古来右九左衛門 十五郎
   当辰年廻り鐘当村へ相当り候事 是ハ公事人足二而指出候事
 一、地踊         彦三郎
 一、同 宇兵衛株同人譲渡 熊蔵出ル
 一、同 利左衛門    孫七出ル
            清左衛門出ル
 一、同 又左衛門   五左衛門
 一、同 善次郎    伴次郎出ル
 一、旗    弐木 内壱木 社面
            壱本 白籐
 一、長柄鑓  五本
 一、棒突   三本 内壱本新棒と申 分二而御座候。
 右之通相究在い之候事
 右の役割表を見ると一番最初の笛吹きは、久保の宮住職です。
そして「株」「譲渡」の文字が目立ちます。元々は、中世の宮座と同じように各村で踊子の役割はそれぞれの家の特権(株)として伝承されてきたようです。
 「同 古来?仁左衛門 助左衛門」とあるのは、元々は仁左衛門が持っていた株を、助左衛門が持っていて出演する権利を持つということでしょうか。「同 宇兵衛同人譲渡 熊蔵出ル」というのは宇兵衛株が譲渡した株で熊蔵が出演するということでしょう。先ほどの床場の権利と同じように、「出演権」も譲渡や売買の対象になっていたようです。株が固定していない廻り鐘は、公事人足が勤めていたようです。そのため旗持、長柄鑓、棒突は、人名が記されていません。
  ちなみに「公事人足」とは、村の共同の仕事に当たる人足のことです。高松藩では村から年貢米を徴収する時に、百姓の持高の一割を公事米として徴集しました。これを村の道普請などの公事役に出た人々の扶持米(サラリー)としました。念仏踊の食料なども、この公事米から支出されていたようです
 念仏踊の起源は中世末まで遡れれますが、その発生から名主や長百姓の特権的な結びつきで編成されたようです。祭祠的、仏教的な風流であったと同時に、その村の有力者がその地位と勢力を村の人々に誇示する芸能活動として伝承されてきたという面もあります。念仏踊りの踊り手の出演権や見物桟敷(床屋)にも、その痕跡が残されているのです。
ここからは、鎮守は村のメンバーの身分秩序の確認の場であったことが分かります。中世以来、鎮守の宮座は名主層によって独占されていて、百姓層はそこから排除されていました。新興の勢力が宮座に加入する場合には、右座・左座というように旧来からの座株所有者とは区別されていました。また寺社の棟札や梵鐘の銘文には、地頭・荘官以下、名主や百姓の名前がそれぞれの奉加額とともに記され、荘内の身分秩序が一目で分かるように示されています。家の格まで視覚的に表現されていました。荘郷鎮守で毎年、繰り返される祭礼行事では、荘官以下の百姓たちは荘郷内での身分秩序の形成や確認の場でもあったのです。それが、この念仏踊りにも、しっかりと現れています。

さて、それではなぜ幕末から明治にかけて念仏踊りは奉納されなくなるのでしょうか?
この疑問に答えるキーワードを並べて見ます。
①「氏神」から「産土社」への転換
②庄屋などの村の有力者層に対する百姓達の発言権の高まり
獅子舞と太鼓台(ちょうさ)の登場
この3つの要素を、まんのう町川東中熊の山熊神社の「祭礼変革」で見てみましょう。
中熊地区は「落人の里」と呼ばれるように山深い地にあります。その中にある造田家の文書によると、この神社は造田一族の氏神と伝えられています。それを裏付けるかのように社殿の棟札には造田氏一族の名前が大檀那として書き連ねられています。祭礼の時には、造田氏一族のみに桟敷が認められ、祭礼の儀式も造田氏の本家筋の当主が主祭者となっていました。まさに造田氏の氏神だったのです。

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まんのう町中熊の山熊神社
ところが江戸時代の中ごろから、高持百姓が山熊神社の造田氏の特権を縮少させる動きを見せ始め、たびたび軋轢が起きるようになります。これに対して天保二(1832)年に、阿野郡南の大庄屋が調停に乗り出し裁定を下します。
 結論からいえば、この裁定で造田氏の棟札特権は認められなくなります。棟札には「総氏子一同」と書かれるようになります。そして祭礼の時の桟敷も全廃されるのです。造田氏に認められたのは祭礼の儀式の上で一部分が認められるだけになります。「宗教施設や信仰を独占する有力貴族に対する平民の勝利」ということになるのでしょうか。結果的には、この裁定によって山熊神社は「造田氏の氏神」から中熊集落の「産土神」に「変身」を遂げたと言えるのかもしれません。
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どうして久保神社では、宮座的な特権が再確認されたのか?
 同じころ讃岐山脈の阿讃境に近い勝浦の落合神社でも、祭礼の時の桟敷が全廃されています。藩政時代の記録には、山間僻地の代名詞として、中熊集落の名がよく登場します。その中熊集落で、幕末の天保二年に祭礼の桟敷が全廃されているのに、岸上村久保神社では長百姓階層の間で、先例と古格を堅く守って伝えられてきた念仏踊の桟敷が同じ時期に、再協定されて維持されています。どうしてでしょうか?時代の流れに棹さす動きのようにも思えます。
 幕末天保年間になると、岸上村でも長百姓層の盛衰交替によって、踊役の株が譲渡されることが多くなります。引受手のない踊役の株は、公事役によって演じられる状態になっています。小間者層の間から念仏踊の桟敷撤廃の動きがあったことも考えられます。
  そこには岸上村の置かれた特殊事情があったのではないかと研究者は考えているようです。
   岸野上村・吉野村・七箇村は、池御料(天領)や金毘羅領に隣接しています。そのため条件のいい金比羅領や天領に逃散する小百姓が絶えなかったようです。その結果、末耕作地が多くなる傾向が続きました。そこで、高松藩としては他領や他郡村からこの地域へ百姓が移住することを歓迎した様子がうかがえます。建家料銀三百目(二一万円)と食料一人大麦五升を与える条件で、広く百姓を募集しています。現在の「○○町で家を建てれば○○万円の補助がもらえます」という人口流出を食い止める政策と似たものがあって微笑ましくなってきたりもします。
 この結果、岸上村周辺には相当数の百姓が移住したきたようです。
そういう意味では、ここは人口流動が他の地域に比べると大きかったようです。そのような中で、旧来からの有力者層と新しく入ってきた小間者層の間に秩序付けを行うための空間として神社の祭礼空間は最適なハレの場だったでしょう。移住者に権威を示し、長百姓層の優越した立場を目に見える形で住民に知らせるという、一つの宗教・社会政策の一環と考えられていたのかもしれません。それが、久保神社の桟敷床場の再協定だったのではないかと研究者は指摘します。
この祭礼時の桟敷席の変化バージョンが小豆島にあります。
sDSCN4999小豆島 池田の桟敷

初めてこれを見たときには「一体これはなあーに?」と考え込んでしまいました。
瀬戸内海の島に現れた野外劇場? ここで演劇が行われた? 
しかし「当たらずとも遠からず」。
芝居ではなくちょうさ(太鼓台)のかきくらべを見物する桟敷席なのです。
DSC_0486亀山八幡宮祭礼
小豆島池田のちょうさ桟敷
今でもここに薦掛け(現在はビニールシート)して、豪華なお弁当持参で一日中見物するのです。
youkame-semi (6-1)1811年に三木算柳によって描かれた亀山八幡宮祭礼
今から約200年前の小豆島池田の亀山八幡の祭礼 ちょうさが姿を見せています
ちょうさが大阪から瀬戸内海を通じてこの島に姿を現すのは18世紀後半です。そしてすぐに祭礼行列の主役になっていきます。ここには中世の宮座的な特権的な要素があまりありまっせん。氏子がみんなでお金を出し合い、みんなの力でちょうさを担ぐというスタイルは平等志向が強い祭礼行事です。これは当時の社会的な機運にマッチするものでした。新しい祭礼の主役であるちょうさの勇壮な姿を見るために氏子達は、その舞台を作りあげたのです。そして、それは建設資金を出した氏子達に平等に分割されました。その所有権は、後には売買の対象にもなります。
小豆島 池田の桟敷 3

もうひとつ、祭礼の主役として登場してくるのが獅子舞です。
獅子も近世の半ば以降に讃岐の祭礼に姿を現します。そして村の中の家格に関係なく参加することができました。念仏踊りの役割が宮座の系譜に連なる権利で、有力者の家柄でないと参加できなかったのとは対照的です。
  
時代の流れに棹さした組織・システムで運営された中世的な色合いが強かった念仏踊りは人々の支持を失い村々の神社で踊られることは少なくなっていきます。代わって讃岐の祭礼の主役となって現れるのがちょうさと獅子舞です。
現在時点での大まかな私の推論です。

参考文献
大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら 昭和63年



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