瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:漢方薬

三好製薬所 表紙

  まんのう町佐文の法照寺の文書の中に「大正3年度 緒薬原品買入及使用 三好製薬所」があります。中を見てみましょう。
三好製薬所2

                三好製薬所(法照寺)の漢方薬の材料買入一覧
ここに出てくるのは、その薬草などの原材料の買入表になるようです。
  右が6月15日、左が7月20に仕入れた薬草になるようです。1ヶ月毎に薬材を仕入れていたことが分かります。仕入品目には、次のようなものが並びます。
A 露房
B 大黄
C 耳草
D 甘枝(草)
E 丁子
F 玉阿曜
G 山帰来
D 龍黄
私は漢方薬についてはまったくの素人なので、AIに教えられながら調べたことを記しておきます。
A  露房
 露蜂房 | スターの漢方専科

   「露蜂房」は、スズメバチやアシナガバチなどの巣を乾燥させた生薬(蜂房)です。「雨露に当たった巣の方が良い」ということからこの名前で呼ばれています。 効能は、殺菌解毒作用、血液凝固促進作用、利尿作用、鎮痙・鎮静作用、抗炎症作用など、様々な効果がある。
B 大黄( ダイオウ)はタデ科のダイオウ類の根茎を乾燥したもの。

ダイオウ
瀉下、清熱、活血、駆瘀血の作用があり、便秘、熱性疾患、打撲、月経異常などに用いられます。

C 耳草(ユキノシタ)
ユキノシタ(虎耳草)の販売店
ユキノシタを乾燥させたもの
漢名は「虎耳草(コジソウ)」で、毛が生えた肉厚の葉が虎の耳に似ていることから付いた名前といわれます。漢方のバイブル『本草綱目』には急性の中耳炎に対して生のユキノシタをついた汁を耳に垂らすという用法が記されています。中耳炎に対する効果があり、耳と関係が深い薬草のようです。

D 甘枝(甘草:カンゾウ)
カンゾウ属 - Wikipedia
炙甘草(しゃかんぞう)|生薬辞典|漢方薬・生薬大辞典 - 漢方薬のきぐすり.com

  甘草はカンゾウの根や根茎を乾燥させたもので、有効成分はグリチルリチン酸です。この成分は砂糖の50倍もの甘みを持ち、医薬品や食品の甘味料として幅広く利用されています。 多くの漢方処方(約7割)に配合され、「国老」という重要な称号で呼ばれたりもします。主な効能は、鎮咳・去痰: 咳や痰を抑える効果、 炎症やアレルギー反応を抑える作用、鎮痙・鎮痛: 筋肉の痙攣や痛みを和らげる効果、胃の働きを活発にする効果があります。化粧品の成分としても使われ、「芍薬甘草湯(しゃくやくかんぞうとう)」などの漢方薬に用いられます。

E 丁子(ちょうじ)は、
チョウジ - Wikipedia
常緑高木「チョウジノキ」の開花直前の蕾を乾燥させたもので、別名をクローブといい、香辛料や生薬として広く利用されています。丁子は「釘」に似た形をしていて、和名や中国名の「丁」、英名のClove(クローブ)」の語源もこの形状(釘を意味する言葉)に由来しています。甘く濃厚で独特な香りを持っており、その香りの強さから「百里香」という別名もあります。
 用途と効果としては、丁子は香辛料としてだけでなく、漢方薬やアロマテラピー、防虫剤など幅広い用途で使われています。効能は、 消化促進や体を温める作用があり、冷えによる腹痛、消化不良、嘔吐、しゃっくりなどの漢方処方に用いられます。主成分である「オイゲノール」には鎮静・抗炎症作用があり、歯科の痛み止めとしても利用されていました。その他: 強い香りを利用して、ペスト予防のポマンダー(匂い玉)として使われた歴史や、ゴキブリなどの虫除けとしても効果があることが知られています。
 G   山帰来(サンキライ)は、「サルトリイバラ」 
No.73 サルトリイバラ(山帰来) – 株式会社 宮城環境保全研究所
 
名前の由来は、「山へ捨てられた病人が、この根を食べて病気が治り、元気に山から帰ってきた」というエピソードからきているようです。薬効としては、 根茎は「山帰来」や「土茯苓(どぶくりょう)」と呼ばれ、解毒や利尿、関節痛などの生薬として利用されます。 花言葉は、「不屈の精神」「屈強」「元気になる」など、生命力の強さや薬効にちなんだポジティブな意味を持っています。 

H 「龍黄(りゅうおう:牛龍黄):」

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希少な動物性生薬である牛黄(ごおう)、蟾酥(せんそ)、鹿茸(ろくじょう)が配合されています。
効能: 動悸、息切れ、気付けなどに効果があるとされています。
以上は買入リストでしたが、次のような使用リストもあります。

法照寺 製薬使用
出てくる薬剤品名は買入リストと同じです。使用した分を確認し、翌月に補填していたことがうかがえます。どうして、このような漢方の薬剤買入リストが大正時代の法照寺にあるのでしょうか?
その答えは、「法照寺寺史の歴代住職一覧」にあります。

法照寺寺史

法照寺歴代住職後半部
法照寺歴代住職一覧 後半部

14代観浄法師(明治27年没)の欄には、次のように記されています。

「奇妙湯(淋病・しょうかち・寝小便・血の下り等に特効有りあり)医薬を製造販売していた」

ここからは明治から大正3年には、法照寺が「奇妙湯」という漢方薬を製造販売していたことが分かります。お寺が薬品を製造するというのは、現在から見るとミスマッチのような感じがします。しかし、伝統的な民間薬や治療法の由来をたどると、宗教者(修験者)にたどりつくと研究者は考えています。 
 例えば修験者は、自ら狩猟で捕らえた熊の各部分を薬品として使用し、祈祷時に薬として病人に与えていました。ここからは「呪医=狩猟者 + 修験者」という姿が垣間見えてきます。熊の肝臓は高級漢方でした。 修験者と漢方の関わりを見ておきましょう。
修験者の拠点であった埼玉県秩父地方の三峰神社では現在でも次のような漢方が販売されています。

普寛行者と三峰山 | 角笛山空間
A 胃痛・下痢などに効く「三峰山百草」
B 心臓病・腎臓病・疲労回復などに効く「長寿腹心」
C 眼病・痔疾・便秘症などに効く「家伝安流丸」
D 胃カタル・胃酸過多などに効く「神功散」
金毘羅神信仰の修験者たちが数多く集まってきた金毘羅大権現にも、独自の漢方薬が製造販売されていたことは以前にお話ししました。参拝客の多い寺社では、お土産としても人気があったようです。また、山岳修行の山々には、薬草が多いといわれます。

  「越中富山の万金丹」で有名な富山の薬は、もともとは砺波平野の里山伏たちが開発したものでした。彼らは農耕儀礼の祭祀者であるとともに、民間医療の担い手でもありました。符呪やまじないなどマジカルな病気治し以外に、施薬、医療も行なっていて、次のような薬が里山伏系の寺社で販売されていました。
神職越野家(旧山伏清光寺)の貝殻粉末の傷薬、
海乗寺の喘息薬
松林寺の腹薬
利波家の喘息薬
山田家の「カキノタネ」などの下痢止め
  野尻村法厳寺の薬は明治維新の神仏分離後になると真宗等覚寺に伝授されます。こうして、真言修験者系の専売特許的な漢方薬が浄土真宗などの寺院にも伝わっていきます。佐文の法照寺も、このような流れの中で漢方薬の製法を学び、製造販売を始めたことが考えられます。そして報恩講などでは、次のようなやりとりがあったかもしれません。
門徒「うちの孫は、いまだにおねしょが止まらないんですわ。」
住職「それならうちの奇妙湯を飲ませなさい、これは寝小便には良く効く。試しに、これを持って帰りなさい」
とセールスしていたのかもしれません。
 しかし、法照寺で漢方薬で調合されていたのも大正3年までのようです。これ以後の記録がありません。また、前年に住職が交代しています。新しい住職になってからは、調合をやめたようです。
以上をまとめておきます。
①法照寺では明治になって奇妙湯という漢方を調合・販売していた。
②奇妙湯製造のための漢方薬剤の仕入・使用の帳簿が残っている。
③薬剤を仕入れて、調合していたようで当時の住職が漢方薬剤の知識を持っていたことがうかがえる。
④これらは薬剤使用量からしても少量で、信徒など限られた人達だけへの販売で、手広く製薬業をおこなっていたのではない。
⑤しかし、定期的に仕入れているので、薬材行商人的な行者が定期的に法照寺を訪れていたことが考えられる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事


修験者はさまざまな呪的な技能、技術を身につけていました。
修験者の持つ修法類は、符呪を始めとして諸尊法、供養法、加持など多岐にわたります。しかし、分類すると治病、除災に関するものが圧倒的に多いようです。ここからは、修験を受け入れる側の人々は、病気や怪我などの健康問題の解決を第一に求めていたことがうかがえます。修験側もそれに答えるように、「験」を積み呪的技能、技術に創意と工夫をこらしてきたのでしょう。修験の行う符呪や呪文・神歌・真言の唱言、加持祈蒔のよううなマジカルな方法だけでなく、施楽=薬物的治療の道も開拓していたようです。そういう意味では、修験者は薬学、医学的知識をもって病気治しに従事していたと云えそうです。今回は修験者と製薬との関係を見ておきたいと思います。テキストは「菅豊  修験による世俗生活への積極的関与 修験が作る民族史所収」です。
研究者は、修験者の病気治しを日本の医療史、薬学史の側面からの位置づけます。
その中で古代の禅師、中世の高野聖など修験道につながる民間宗教者が、製薬・医療知識を持っていたこと、さらにその経済活動として製薬などの医療行為を行っていたことに注目します。例えば「狩猟者と修験との同一性」という視点からは、狩猟者が捕らえた獲物から薬を作る姿が見えてきます。そして、修験道系の宗教者が狩猟で捕らえた熊の各部分を薬品として使用し、祈祷時に病人に与えています。これは「呪医」と狩猟者兼修験者が重なる姿です。

北多摩薬剤師会 おくすり博物館 ジェネリック(GE)篇(その8)
熊の肝臓は高級漢方でした

日本の伝統的な民間薬や治療法の由来をたどると、修験者にたどりつくようです。
それを全国的に北から南へと見ていくことにします。
  東北地方では
①葉山修験の影響下にあった山形県上山市の葉山神社はすべての病気を治すといわれた。永禄年中(16世紀中期)の悪疫流行の際には、修験者がこの山の薬草によって、人々の命を救ったと伝えられます。
②出羽三山奥の院・湯殿山の霊湯の湯垢を天日で乾かして固めたものは、万病の薬になるとされ、山伏たちが霞場に配って歩いていました。
③出羽三山修験、とくに羽黒修験が携帯する霊石「お羽黒石」は、中国古代道教で重宝された神仙薬「㝢餘糧」「太一㝢餘糧」でした。ここからは羽黒修験が製薬などの技術もっていたことがうかがえます。

禹余糧 - TCM Herbs - TCM Wiki
㝢餘糧
  関東地方では、埼玉県秩父地方の三峰山で「神教丹」が販売されていました。現在でも三峰神社では、次のような漢方が販売されているようです。
胃痛・下痢などに効く「三峰山百草」
心臓病・腎臓病・疲労回復などに効く「長寿腹心」
眼病・痔疾・便秘症などに効く「家伝安流丸」
胃カタル・胃酸過多などに効く「神功散」
山岳修行の山々には、薬草が多いといわれます。陀羅尼助には、医薬品でもあるオウバク(黄柏:キハダ)が含まれていいます。エンメイソウ(延命草:シソ科ヒキオコシ)は、行き倒れにあった人を引き起すくらい苦くて、起死回生の妙薬とされます。また、日本三大民間薬と言われるセンブリ(当薬)も陀羅尼助に入れられ薬草です。千回振っても、お湯で振り出しても苦さが取れないことから、この名がつけられたといいます。その他には、ゲンノショウコ(現の証拠:フウロソウ科ゲンノショウコの全草)もあります。これら薬草に共通するのはいずれも「非常に苦い」ようです。「良薬は口に苦し」といわれる由縁かも知れません。そして効能が胃腸薬に関するものであることです。どちらにしても、我が国では消化器疾患に有効な薬草が好んで使われているようです。三峰山は、霊山で行場であると同時に、これらの薬草の宝庫でもあったようです。今でもオウバク(黄柏:キハダ)
が数多くみられるようです。
 
北陸地方では、富山県の製薬・売薬が「富山の薬売り」として有名です。
冨山の製薬も、そのルーツは修験者にあるようです。越中には立山を中心とする修験者の売薬活動があり、「立山権現夢告の薬」が立山詣でのお土産として信仰を介して広がります。現在、数多くみられる富山売薬由緒書は、立山修験を背景とした修験の唱道文の名残と研究者は考えています。
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富山県西部の砺波平野の里山伏は、農耕儀礼の祭祀者であるとともに、民間医療の担い手でもありました。
符呪やまじないなどマジカルな病気治し以外に、施薬、医療も行なっていたようです。次のような薬が里山伏系の寺社で販売されています。
神職越野家(旧山伏清光寺)の貝殻粉末の傷薬、
海乗寺の喘息薬
松林寺の腹薬
利波家の喘息薬
山田家の「カキノタネ」などの下痢止め
富山県/富山県の有形民俗文化財

野尻村法厳寺の薬は神仏分離後に真宗等覚寺に伝授されます。また同村の五香屋の「野尻五香内補散」のルーツも修験に求められるようです。このような製薬・売薬ばかりでなく、修験は医業にも携わっていたようです。例えば川合家(旧円長寺)は医者となり、また上野村養福寺上田家は19世紀初頭、第六代勝竜院順教の頃から開業医となっています。

1855年(安政2)の「石動山諸事録」には、石動山修験の売薬について次のように記されています。
一、旦那廻り与云相廻中寺有之、壱軒米壱升宛貰、三月等祭礼ニハ寺江行賄二預ル、宿料不出、又薬二而も売候得ハ、壱ケ寺拾両も入、越中杯ハ弐拾両斗も受納之寺有之事
一、石動山より売出候薬ハ、五香湯壱服四十文・万金丹壱粒弐文・反魂丹壱粒壱文・五霊散眼薬二而(後略)
(多田正史家文書、鹿島町史編纂専門委員会 1986年)
意訳変換しておくと
一、得意先の旦那廻に出かける修験は、定まった寺に宿泊した。一軒から米一升をもらい受け、三月の祭礼の時には寺で賄いを受けるが、宿料は無料であった。また薬も販売し、ひとつの寺で十両も売れた。越中では二十両も売れた寺もあった。
一、石動山修験者が売出している薬は、五香湯一服40文・万金丹一粒2文・反魂丹一粒一文・五霊散眼薬である(後略)
ここからは、「旦那回り」に出る修験は、 一軒一升のコメを貫い受け、祭礼時には無料で宿泊歓待を受けています。それだけでなく、旦那廻りのついでに売薬活動を行っています。その稼ぎも、10両から20両というのですから高額です。この現金収入は、定着化した里修験にとっては重要な収入源になったでしょう。製薬・売薬が、修験の生活を支えていたことがうかがえます。

明治の神仏分離以降も、製薬・売薬の技法は受け継がれ、石動山修験宝池院の末裔である宝池家では「加減四除湯」「和中散」「退仙散」などの秘伝薬が伝えられていたようです。二蔵坊の後裔である広田家には、1882年(明治15)「紫胡枯橘湯」「清肺湯」「加味三柳湯」など多くの薬の製法、成分、効能書「医要方一覧記」が残されています。越中反魂丹 150粒 第3類医薬品 食欲不振 消化不良 食べ過ぎ 飲み過ぎ 消化促進 富山のくすり 池田屋安兵衛商店 延寿堂 : ワーム薬品ヤフー店  - 通販 - Yahoo!ショッピング
「反魂丹」は、石動山修験の売薬の中でも「富山の薬売り」を代表する薬でした。「富山の薬売り」に立山修験のほか、石動山修験が何らかの関わりをもっていたことがうかがえます。北陸の修験といえば白山修験ですが、冨山の売薬との関係は、よく分からないようです。ただ白山修験の山伏である越前馬場平泉寺の杉本坊も、丸薬を売り歩いていたようです。その他の白山の修験者たちも製薬、売薬に携わっていた可能性が高いと研究者は考えているようです。
次に近畿地方をみてみましょう。
伊勢野間家の「野間の万金丹」は、朝熊麻護摩堂明王院に起源するため「明間院万金丹」とも呼ばれていました。やはり修験系統の製薬、売薬です。この「万金丹」の名は、「石動山諸事録」にもでてきます。修験の間で、さまざまな技術、知識の交流があったことがうかがえます。
楽天市場】【指定医薬部外品】伊勢くすり本舗 伊勢ノ国 萬金丹 450丸入 1個(1瓶) まんきんたん 万金丹 和漢 バンキョードラッグ 万協製薬 :  バンキョードラッグ 楽天市場店

 「万金丹」は、滋賀県甲賀郡甲南町下磯尾の小山家でも伝来されています。これはこの地の飯道山修験が朝熊岳護摩堂明王院の勧進請負をやっていることから、修験間で製法の伝授があったと研究者は推測します。
 近世の甲賀地方は製薬、売葉の盛んな地域で、近江商人の売薬は富山の売薬とともに、全国に広がっていました。
「神教はら薬」や「赤玉神教九」「筒井根源丹」という家伝薬は、いずれも神威に関わっていました。その中の「神教はる葉」は、多賀不動院の坊人が多賀大社の布教で諸国巡札した時に持参した土産物とされます。それを後に坊人が甲賀(甲南町周辺)に移り住んで甲賀山伏となって宣伝したものだと伝わります。小山家には、「万金丹」とともにこの「神教はら薬」が伝えられています。
第3類医薬品】陀羅尼助丸 分包 27包袋入り | 吉野勝造商店 | 胃腸薬

近畿地方の修験と薬を考えるなかで、「陀羅尼助」は大きな意味を持つようです。
「陀羅尼助」は、吉野大峰山に伝わるもので、大峰開祖の役小角が吉祥卓寺で作り始めたとされます。これは、修験道の祖が製薬に関わっていたことになります。この薬は、胃腸薬でのみ薬ですが、打撲傷や眼病などの外用にも使われ、まさに万能薬としての名声を得ていたようです。後には、大峰山以外の高野山や当麻寺などでも製造されるようになります。
最後に九州です。
福岡県の英彦山修験が万病の薬として「不老円」を処方して、檀家詣りの際には持ち歩いていたようです。
豊刕求菩提山修験文化攷(重松敏美編) / 氷川書房 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

また福岡県の求菩提山修験が製薬、および治療に関わり、「神仙不老丹」や「木香丸」などの薬を販売していたことは有名です。
求菩提山修験の修法については『豊務求菩提山修験文化政』に詳しく報告されています。そのなかには「医薬秘事、秘伝」として次の薬の調合書、医学書が収載されています
①「求菩提出秘伝」
②「望月三英、丹羽正伯伝」
③「求菩提山薬秘伝之施」
④「灸」
ここからは、求菩提山修験が製薬に関わっていたことが分かります。
②「望月三英、丹羽正伯伝」の中には、幕府の触書をそのまま書写されています。ここからは修験者たちが様々な知識を吸収し、それを活かそうとしていたことが次のように記されています。

もっと知りたい福岡修験道と薬 ~求菩提山の事例を中心に~ - アクロス福岡

例えば3種の医学書には、それぞれ32例(求書提出秘伝)、20例(「望月三英、丹羽正伯伝」、21例(「求菩提山薬秘伝之施」)、合計73例の薬の調合、治療法が記載されています。そのなかに、薬の加工過程で行われる「黒焼き」と呼ばれる方法が記されています。
 例えば「求菩提山秘伝」では、「雷火のやけどに奇薬」として次のように記されています。
「鮒を、まるながら火にくべ黒焼にして、飯のソクイにおし交てやけどの処につけ ふたに紙を張りおくべし」

ここからは、フナを黒焼きにしてやけど薬として用いていたことが分かります。
「求菩提山秘伝」には、31例中8例、「望月三英、丹羽正伯伝」には20例中2例、「求菩提出薬秘伝之施」には31例中3例の黒焼きの加工法がでてきます。この黒焼きという技法は、皇漢医学や庶民が行なっていた民間医療にもみられるので、修験独自の加工法とはいえませんが、修験製薬の重要な技法の一つであったことは間違いないようです。
  とらや製薬(株):和歌山県製薬協会
  修験と製薬活動のかかわりについて見てきました。
修験者たちは農耕、狩猟、漁拐・製薬など人々の生産活動に、深く関わっていました。その関わりを深める中で、里修験として村社会への定着化がが行われたようです。そのプロセスを示すと次のようになります。
①スタートは宗教的な権威を背景にして、自分たちの得意とする儀礼や信仰といった観念世界から村社会に接近。
②修験者が持っていた実用、実利的な技能、技術を提供することで「役に立つ人間」と村人から認識されるようになる
③農耕、狩猟、漁拐・製薬など人々の生産活動のリーダーとなり、指導的な地位を確立
宗教的な指導者であるばかりでなく、現実生活に役に立つ知識・技能を持っていたことが大きな力となったと研究者は考えているようです。
役に立つ技術の一つが製薬、売薬の技術でした。
医者、薬剤師としての姿は、修験者が人々の生活のなかに浸透していく上で有効に働きます。その他にも修験者には、次のような側面を持つことが明らかとされています。
①芸能や口承文芸の形成、伝播に関わった遊芸者としての姿
②市に結びつく商人としての姿
③鉱山を開く山師としての姿
 中世から修験者は、このような経済活動と関わっていて、さまざまな技術や知識を持っていたようです。それが里修験化の過程で、在地の技術、知識、本草学、皇漢医学など、その時代の先端の知識、情報を吸収することで、その技術を再編成し、適応の幅を広げていったと研究者は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 菅豊  修験による世俗生活への積極的関与 修験が作る民族史所収」

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