瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:瀬戸内海

瀬戸内海航路3 16世紀 守龍の航路

16世紀半ばに京都の東福寺の寺領得地保の年貢確保のために周防に派遣された禅僧守龍の記録から瀬戸内海の港や海賊の様子を前回は見ました。守龍は周防では、陶晴賢やその家臣毛利房継、伊香賀房明などのあいだを頻繁に行き来して寺領の安堵を図っています。大内家の要人たち交渉を終えた守龍は、年があけて1551(天文20)年の3月14日、陶晴賢の本拠富田を出発して陸路を「尾方」に向かい、往路と同じように厳島に渡ってから、堺に向かう乗合船に乗船します。北西風が強く吹く冬は、中世の舟は「休業」していたようです。春になって瀬戸内海航路の舟が動き出すのを待っていたのかも知れません。今回は守龍の帰路を見ていくことにします。テキストは 「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年」です
守龍が宮島からの帰路に利用した船の船頭は「室ノ五郎大夫」です。
瀬戸の港 室津

 室は現在の兵庫県の室津で、この湊も古代以来の重要な停泊地でした。1342(康永元)年には、近くの東寺領矢野荘(兵庫県相生市)に派遣された東寺の使者が、矢野荘の年貢米を名主百姓に警固をさせて室津に運び、そこから船に積み込んで運送したことが「東寺百合文書」に記されています。室津が矢野荘の年貢の積出港の役割を果たしていたことがうかがえます。
1室津 俯瞰図
室津

また「兵庫北関入船納帳」(1445年)には、室津舟は82回の入関が記録されています。これは、地下(兵庫)、牛窓、由良(淡路島)、尼崎につぐ回数で、室津が活発な海運活動を展開する船舶基地になっていたことが分かります。室津船の積荷の中で一番多いのは、小鰯、ナマコなどの海産物です。これは室津が海運の基地であると同時に漁業の基地でもあったことがうかがえます。いろいろな海民たちがいたのでしょう。

1室津 絵図
室津
室津にも多くの船頭がいたことが史料からも分かります。
南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が記されています。室津が当時の人々に、兵庫とならぶ「船頭の本場」と認識されていたことがわかります。室の五郎大夫は、こんな船頭の一人だったのでしょう。
 守龍は周防からの帰路に五郎大夫の船を利用します。
宮島から堺までの船賃として支払ったのは、自分300文、従者分200文です。当時の瀬戸内海には、塩飽の源三や室の五郎大夫のように、水運の基地として発展してきた港を拠点にして広範囲に「客船」を運航する船頭たちがいたことが分かります。同時に宮島が塩飽と同じように瀬戸内海客船航路のターミナル港であったことがうかがえます。
 宮島を出た舟は順風を得ることができずに、一旦立ち戻ったりもしています。その後は順調に船旅を続け、
平清盛の開削伝承のある音戸瀬戸
宋希環が海賊と交流した蒲刈島
などをへて、三月晦日には安芸の「田河原」(竹原)に着きます。
瀬戸の港 竹原
竹原 賀茂川河口が竹原湊
ここは賀茂御祖社(下鴨社)領都宇竹原荘のあるところで、荘内を流れる賀茂川の川口に港が開かれていました。竹原の港で一夜を明かした翌日の4月1日、守龍の乗った船は竹原沖で海賊と遭遇します。
守龍の記録には次のように記されています。
未の刻午後2時関の大将ウカ島賊船十五艘あり、互いに端舟を以て問答すること昏鵜(こんあ)に及ぶ、夜雨に逢いて蓬窓に臥す、暁天に及び過分の礼銭を出して無事

意訳変換しておくと
未の刻(午後2時頃) 海賊大将のウカ島賊船十五艘が現れた、互いに端舟下ろして交渉を始めた。それは暗くなって続き、夜雨の中でも行われた。明け方になって過分の礼銭を出すことでやっと交渉が成立し、無事通過できた。

 海賊遭遇から得た情報を研究者は、次のように解析します。
「関の大将」とは、なんなのでしょうか。文字通り関所(通行税徴収)の大将がやってきたと思うのですが別の解釈もあるようです。薩摩の武将島津家久の旅日記『中書家久公御上京日記』にも
「ひゝのとて来たり」「のう島(能島)とて来たり」

などと、「関」がやってきたと記しています。この「関」は関所を意味する言葉ではないようで、ここでは「関」を海賊そのものとして使っているようです。海賊が関所を設けて金銭を徴収することは、小説「海賊の娘」でよく知られるようになりました。当時は、関所と海賊が一体のものとして認識されていて、「関」という言葉が海賊そのものを意味するようになったようです。

7 御手洗 航路ti北

 明代の中国人の日本研究書である『日本風土記』には「海寇」のことを「せき(設机)」と記します。ポルトガル語の辞書『日葡辞書』には、「セキ(関)」の項に「道路を占拠したり遮断したりすること」「通行税(関銭)などを収りたてて自由に通行させない関所、また通行税を取る人々」という語義の他に「海賊」意味があると記されています。関とは、海賊が一般社会に向けていた表向きの顔と研究者は考えているようです。
竹原近海で守龍たちの舟に接近してきた「関の大将」は、海賊でした。
海賊の大将「ウカ島」とは、尾道水道にある宇賀島(現在は岡島、JR尾道駅の対岸)を本拠とする海賊衆です。
瀬戸の港 尾道対岸の岡島
尾道水道の向こう側にある岡島(旧宇賀島)小さな子山
彼らは宇賀島を中心に周辺海域で航行船舶から礼銭、関料を徴収していたようです。応永27年(1420)7月、朝鮮の日本回礼使・宋希璟は尾道で海賊船十八隻の待ち伏せを受けて食料を求められたと記します。 宇賀島衆は向島の領主的地位も持っていたようです。しかし、このあとすぐの天文23年(1554)ごろに、因島村上氏と小早川氏によって滅ぼされています。
ここから分かることは、因島村上氏は16世紀半ばまでは尾道水道周辺を自分のナワバリに出来ていなかったということです。つまり、村上水軍は芸予諸島の一円的な制海権を、この時点では握っていなかったことになります。村上水軍の制海権は小早川隆景と結ぶことによって、急速に形成されたことがうかがえます。

 向島とつながる前の岡島(小歌島)
「ウカ島」の海賊大将は、15艘もの船を率いて、船頭五郎大夫の舟を取り囲む有力海賊だったようです。
船頭五郎大夫は、さっそく通行料について「問答」(交渉)を始めます。両者は互いに端舟を出して交渉します。往路の日比では交渉が決裂し、交戦に至りましたが、今度は15艘の艦隊で取り囲まれています。逃げ出すわけにもいきません。船頭の五郎大夫はねばりにねばります。
 未の刻(午後二時)に始まった交渉は、「昏鵜」(日ぐれ)になってもまとまりません。さらに夜を徹して続けられ、翌日の「暁天」になってやっと交渉はまとまります。それは、船頭側が「過分の礼銭」を出すことに応じたからでした。
船頭が海賊に支払った銭貨がなぜ「礼銭」と呼ばれるのでしょうか?
 海賊に対して航行する船の側が「礼」をしていることになります。これは通行の自由が認められている私たちからすれば、分かりにくいことです。ある意味、中世人独特の世界観が表わされているのかもしれません。
 「礼銭」という言葉の背後にあるのは、守龍らの船が本来航行してはいけない領域、なんらかのあいさつ抜きでは航行できない領域を航行したという意識だと研究者は考えているようです。それでは、公の海をなぜ勝手に航行してはいけないのか。それは、おそらく、そこが海賊と呼ばれるその海域の領主たちの生活の場、いわばナワバリだったからでしょう。海賊のナワバリの中を通過する以上は、通行料を支払うのが当然という意識が当時の人々にはありました。それが、「礼銭」という言葉になっているようです。海賊(海民や水軍)からみれば、ナワバリの中を通過する船から通行料を取るのは当然の権利ということになります。

 目に見えないナワバリを理解することができない通行者には、通行料を求める海賊の行為が次第に不当なものと思われるようになります。守龍の旅の往路でも、塩飽の源三が「鉄胞」で海賊を撃退し、復路において室の五郎大夫が礼銭を出し渋ってねばりにねばったのは、そのことを示しているのかもしれません。
 風雲の革命児信長は、それまでのナワバリを取っ払う「楽市楽座」を経済政策の柱として推し進めます。それを継いだ秀吉は、海の刀狩りとも云うべき「海賊禁止令」をだして、海上交通の自由を保障するのです。それに背いた村上武吉は能島から追放され、城は焼かれることになります。自由な海上交通ができる時代がやってきたのです。それを武器に成長して行くのが塩飽衆だったようです。
 守龍はその後、鞆、塩飽、縄島(直島か)、牛窓、室津、兵庫などと停泊を重ね、17日には堺津に上陸して、翌日18日には東福寺に帰り着いています。

以上をまとめておきます。
①16世紀半ばには、堺港と宮島を200石船が300人の常客を載せて往復していた。
②旅客船の船頭(母港)は、塩飽や室津などの有力港出身者が務めていた。
③旅客船は自由に航海が出来たわけではなく、海賊たちから通行量を要求されることもあった。
④海賊たちのナワバリには大小があった。村上氏や塩飽衆によって制海権が確保させれ安心安全な航海が保証されていたわけではなかった。
⑤は旅客船も有事に備えて、鉄砲などで武装していた。
⑥宮島や塩飽は、瀬戸内海航路のターミナル港の機能を果たしていた。そのため周辺からの小舟が
やってきたことがうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年」

 大槌島は鰆の好漁場 讃岐と備前の漁民の漁場争い  

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備讃瀬戸航路からの大槌島

鰆の好漁場大槌島をめぐる紛争

瀬戸大橋の東方、五色台の沖に海の中からおむすび型の頂を覗かせる2つの島があります。この北側の島が大槌島です。この島から東に延びている細長い砂地の浅瀬は、大曽の瀬と呼ばれました。連絡船がこの上を通っていた時には、船の上から海の底が見えたというくらい浅いんです。浅い砂地にはイカナゴがたくさんいて、それを食べに春には鰆がやってきて産卵しました。だから鰆を捕る絶好の漁場でした。

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鰆は痛みが早いので、この時代に流通ルートに載せることができたのだろうか
と思いました。調べてみると、肉を食べるのではなく鰆の卵巣からカラスミを作っているのです。からすみは、もともとはボラの卵を原料にして江戸時代初期に長崎で作られて将軍家に献上するようになります。
 「本朝食鑑」という本によると、元禄ごろから備前や讃岐・阿波・土佐でも作られるようになって、いずれも将軍への献上品になっています。ただ、備前・讃岐のものは原料が鰆なんです。味はボラで作ったものより少し落ちるようです。しかし値段はとても高いし、珍味です。決しておかずにするようなものではありません。
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備讃瀬戸航路からの瀬戸大橋の日の出
 ところが元禄時代は「大江戸バブルの時代」で、京・大坂・江戸などの都市を中心に大商人が大勢現れたころです。こういう富裕な人たちが、お祝い事や贈答品・茶の湯の料理・魚の肴として「将軍への献上品カラスミ」を、お金にかまわずに求めたのです。高級品志向・グルメ志向の仲間入りをカラスミが遂げたわけです。今までは商品価値のなかったものが高級品として売れ出します。それが、鰆を求めて周辺の漁民達が大槌島周辺に押しかけ騒ぎを起こさせた原因だったようです。今の時代にも、よく似た話は対象を買えて「再生産」されています。

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この大曽の瀬をめぐって江戸時代に備前の日比・利生・渋川三力村と讃岐の香西が争います。備前側の言い分は次の通りです
「去年(享保一六年)以来香西浦の者共みだりに入り込み漁猟せしめ、あまつさえ大槌島をも浦内とあいかすむる段」
香西の漁民がみだりに入り込み、大槌島は讃岐香西のものだとかすめると訴えています。しかし、双方の訴状を見てみると、備前側の方が出漁している船は多いのですが・・。
 
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 裁定は、どう進んだんでしょうか。

「右論所あい決せざるにつき木村藤九郎・斉藤喜六郎さし遣はし検分を遂げるところ」
 評定所の役人が江戸から実地検分に来たようです。そして判決は、次の通りでした
「大槌島の中央を境と定め、双方へ半分ずつあい付け候」
つまり、大槌島が讃岐と備前の「境」となったのです。
からすみをめぐる漁場争いが大槌島を二つに分けたと言えるのでしょうか。
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大槌島

参考文献 千葉幸伸 讃岐の漁業史について 香川県立文書館紀要創刊号 
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