瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:瀬戸内海商品流通

     安芸の三原と竹原の間に忠海という港町があります
忠海3

港の前には海が広がり、芸予諸島の大三島へのフェリーが発着しています。忠海は、江戸時代になって発展してきた港で、「客船帳」が残っている船問屋があります。客船帳は、自分の店にどこのどういう船頭の船がやってきたかの記録で、一種の得意先名簿みたいなものです。
客船帳1
遠くからでも誰の舟か識別できるように帆印が書き込まれている客船帳
 忠海の江戸屋と胡屋に残る客船帳に記された讃岐廻船の動きを見てみましょう。 
現在の忠海は臨海部を埋め立てて呉線や道路が走り、商店街や工場港も海際に移動していますが、もともとの「本町」はもう少し内側にあったようです。フェリーの出入りする港を奥に行くと、船留りがあって一番突き当たりのところに江戸屋と胡屋が廻船問屋を営んでいました。客船帳の表紙は「御客帳」と記され、厚さが20㎝を超える帳簿のようです。時代的には18世紀の終わりごろから明治の初め頃にかけてのもののようです。
忠海
 2軒の廻船問屋にやってきた舟を国別に分けた表です。
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東北や北海道を初めとして各地から来ているのがわかります。江戸屋の越後から326隻・加賀から182隻という数字が目を引きます。胡麻屋よりも江戸屋の方が北前船は多かったようです。
 近畿・東海では、播磨(兵庫・神戸)や摂津からの舟が多いのに比べて、大阪和泉からの舟が少ないのが分かります。中国地域では岡山県の備前、備中などから胡屋に200隻前後の舟が入ってきていますが江戸屋は0です。お得意先に棲分け的な要素があるのか気になるところです。

船問屋
 そして四国です。
一番多いのは伊予からで両店併せると1500余の舟がやってきています。これは、一番多い数になります。讃岐はと見ると、江戸屋が915隻、胡屋251隻で約1166隻がやってきています。これも上位ベスト3に入る数です。また、九州豊後の数も多いようです。
 瀬戸内海の交易というと「大阪と九州を結ぶ瀬戸内海航路」というイメージが「神武東征」以来、私の頭の中にすり込まれていましたが、この史料からは安芸の忠海が讃岐や伊予、そして豊後と瀬戸内海の南側の地域と活発な交易活動を営んでいる様子がうかがえます。改めて瀬戸内海における東西の動きだけでなく、南北の動きもおろそかにできないことに気付かされます。

胡屋や江戸屋と讃岐の廻船は、どんな商売・取引を行っていたのでしょうか?。
 まずは胡屋と讃岐の廻船の関係を見てみましょう
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 忠海にやって来て胡屋と取引した舟の母港が一番左の地名です。
東の引田から始まり、西の端が姫浜(観音寺市大野原町)で、伊吹、山田尻、塩飽、小豆島は島々の湊です。入船数で並べると坂出27・高松23・宇多津16・丸亀16・小豆島14、塩飽12の順になります。ここからも小豆島や塩飽の島々の舟が内海交易に活躍していたことが分かります。今は「辺境」の地にある湊も、海によって「瀬戸内海ハイウエー」の主要通行メンバーであったのです。そして、人とモノと金が流れ込んでいたのです。
 胡屋の引田からやってきた7艘の舟との取引状況を見てみましょう。
引田舟の積荷は砂糖・太白(砂糖の一種)です。三本松も砂糖を持ってきています。志度・庵治など高松藩の湊からの舟には砂糖関係の商品が積み込まれています。これは東讃の砂糖産業の発展が背景にあったことをうかがわせます。その湊の後背地の特産物を商品として持参しているのです。
しかし、三本松船の素麺は?
これは、途中で内海湾に入り、小豆島特産の素麺を買い込んで積んで行ったということでしょうか。干鰯と同じように途中の湊で買い入れていくということも行われています。ちなみに小豆島舟は素麺8を積み込んできています。
讃岐廻船の中には、江戸屋に積み荷を売った後に、江戸屋から何も買い入れていない湊の舟もあります。それが空白となっているようです。どうしてでしょうか・
仮説① 江戸屋の扱う商品の中には、購入希望商品がなかった
仮説② 価格面で折り合わなかった
その場合は、忠海湊を出て頼みので仕入れることになったのでしょう。廻船は、ひとつの湊だけでなく多くの湊を廻船はめぐっていたようです。

讃岐廻船は、胡屋からどんなものを買って帰ったのでしょうか?
讃岐廻船の買入商品名には「油粕、油玉、糠」が多いようですが、これらは鰯を加工した肥料です。肥料類が多いのは、砂糖をつくるのに砂糖きびを栽培しますが、この砂糖きびを育てるのには大量の肥料が必用だったからです。いい肥料をたくさん投入すればするほど、良質の白砂糖ができます。そのためサトウキビ農家は、高いお金を出しても金肥を購入するようになります。商品作物栽培は山から下草を刈ってきて、堆肥を作るというのでは間に合わなくなったです。そのような需要に応えるために、讃岐廻船は肥料をたくさん積んで帰ってきています。

北前船3
砂糖と同じようなことがいえるものに、山田尻船が売った篠巻(しのまき)があります。これは、木綿糸になる前の段階の綿です。丸亀藩では三豊が綿花栽培が盛んで、綿生産も行っていました。綿花栽培にも金肥が求められました。こうして、東讃ではサトウキビのために、西讃では綿花のために金肥が必用になってきた様子がうかがえます。
次に讃岐廻船の一番の得意先であった江戸屋を見てみましょう
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江戸屋の讃岐のお得意湊は観音寺です。観音寺が335艘と、圧倒的に多いようです。室本も観音寺の周辺ですし、その下の伊吹島も観音寺の沖合に浮かぶ島です。和田浜・姫浜も現在は観音寺市に含まれる地域です。
 その舟の積荷を見ると「干鰯・鰯・油糟」が多いようです。
観音寺は有明浜に代表されるように、遠浅の海岸線が長く続き、鰯網には最適な場所でした。そのため燧灘で育った大漁の鰯が獲れ、干鰯などの肥料に加工されました。これが、背後の水田を綿花畑に変えて行くひとつの要因になります。
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 この表から観音寺周辺の舟の積み荷に「干鰯・鰯・油糟」が多い理由は、
仮説① 観音寺地域で消費できない余分な干鰯などの肥料を、忠海に持ち込んで売っている
仮説② 宇和平子・長崎干鰯・佐伯干鰯など地名入りのブランド肥料は、途中の港で買い込んだ
仮説③ 観音寺周辺は木綿生産地なのに、木綿は室本船にしか見えないのはどうしてか? 母港を出航するときには、綿製品を積み込んでいたが途中の港で売って、干鰯類を仕入れて忠海に持ち込んでいるのではないか。
そうだとすれば、観音寺船の活動エリアは相当広範囲だったことが考えられます。前回に小豆島の大神丸が九州有明海周辺のエリアと交易活動を行っていたことを見ました。積み荷の中に「宇和平子・長崎干鰯・筑前干鰯」などがあるので、同じように九州方面にまで出かけていたのかも知れません。
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東讃の引田・三本松・津田の舟が江戸屋から買い込んだものを見てみましょう。
ここには、胡屋にはなかったものが数多く多く含まれます。
例えば「対馬・関東・越後・佐伯」と地名が冠せられた干鰯です。今で云うブランド干鰯です。先ほど述べたようにいい肥料をたくさん投入すればするほど、良質の白砂糖ができます。そのためサトウキビ農家は、高いお金を出してもブランド干鰯を欲しがったのです。ここには、讃岐で取れた干鰯を積み込んで、帰り便には高級ブランド干鰯を持ち帰り利益をあげるという商売方法が見えてきます。

B25-030干鰯作りの様子
その他の特産品について
また引田船には、丸太杉を売って砂糖樽を買い込む動きも見えます。地元の砂糖業者の依頼があったのかもしれません。特産品で面白いのは丸亀の団扇です。この時代から廻船で積み出されていたのが分かります。しかし、全体を通じて見ると、干鰯が圧倒的に多いのがわかります。
 土佐の碁石茶の積出港 
 
碁石茶1

伊吹島・姫浜の茶については、今は高瀬茶が有名ですが、この時代は栽培されていません。
この茶は四国山脈を南に越えた土佐側の大豊で栽培されていた碁石茶です。碁石茶は、日本では珍しく完全発酵させたお茶で、甘ずっぱい香り、独特の風味でタンニンが少ないことが特徴です。かつては、塩と交換する貴重な特産として生産され、土佐街道を経て伊吹島や姫浜から廻船に積み込まれていました。今でも瀬戸の島々では、このお茶で作るお茶漬けを愛する人たちがたくさんいます。
碁石茶2

徳島県の阿波煙草の積出港について 
徳島の「池田町史」には、池田周辺で栽培製造された煙草は、阿讃山脈を牛屋馬の背に載せられ観音寺周辺に運ばれ、そこから千両船に載せて北陸や東北まで運ばれたとあります。しかし、この讃岐廻船の積荷には、阿波煙草はありません。火付きがいいので寒い地域でよく売れたそうなので瀬戸内海周辺は販売エリアではなかったのかも知れません。
 
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讃岐舟の売品目と買品目を見ていると奇妙なことに気付きます。
引田・室本・姫浜船は、干鰯を売って、また干鰯を買っています。どうしてでしょうか?
これは、忠海の周辺でも綿花栽培が行われていますから、それに必要な肥料を積んで売り来ます。そしてまた干鰯と糠を買って帰る。こういう売ったり買ったりした差で利益を上げるのが廻船の営業スタイルのようです。
 必ずしもその地域の船が、その地域の特産品を積んで行くとは限らなかったようです。例えば観音寺の舟が母港を出る時には木綿を積んで、それを途中の鞆で売って、干鰯を買い込み、忠海に持って行って売って利益を得るという商売方法です。そういう転売を繰り返しながら利益を上げていったようです。
 帰路には、儲けたお金で母港を出るときよりもたくさんの干鰯を買って帰り、讃岐で売るというようにして利益を上げていきました。私が単純に考えていた出発地点と目的地点を往復するような「輸送活動」ではないのです。
 しかし、そうはいいながらも傾向としては砂糖とか塩、綿などの「讃岐3白」と呼ばれる特産品がその中心にあるようです。

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 どちらにしろこの時代の讃岐廻船の商品取引が、各地域における生産のありかたや、あるいは日常消費の商品を手に入れることと複雑に絡み合ったネットワークを形成していたようです。 別の言い方をすると、安芸と讃岐が、瀬戸内海の東西でなくて南北の関係の中で、お互いにないものを補い合う取引関係があったということでしょう。
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 観音寺の琴弾公園の展望台に登ると眼下に、寛永通宝の砂絵が広がります。
その向こうには燧灘が広がります。その中に、ポツンと伊吹島が浮かびます。そして、思いの外近くに福山や芸予諸島が見えることがありあます。風向きによっては観音寺の廻船にとって、忠海は距離的にも心理的にも近かったのかも知れません。江戸時代後期に、燧灘を越えて忠海との間には活発な交易が行われていたようです。
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参考文献 木原薄幸 近世瀬戸内海の商品流通と航路 「近世讃岐地域の歴史点描」所収

小豆島慶長古地図


小豆島の苗羽を母港とした廻船大神丸の航海日誌があります。
江戸時代末から明治20年頃にかけてのもので10冊ほどになるようです。
「米1030俵を一度に積み込んだ」

という記事があります。一俵は三斗四升(一石=10斗)というのが基準なので、それから計算すると、この舟は約350石から400石積みぐらいの中型船だったようです。形や大きさは、下図の金毘羅丸と同型だったことが考えられます。
5 小豆島草壁の弁財船

 小豆島草壁田浦の金毘羅丸 380石
慶応元年に金毘羅さんに奉納された模型

 実は、この船はマルキン醤油の創業家である木下家の持ち舟でした。
木下家は屋号が塩屋という名からもわかるように、もともとは苗羽で塩をつくっていましたが、いつごろかに塩から醤油へと「転業」していったようです。この航海日誌からは、この舟が「何を どこで積んで、どこへ運んで売ったのか また、何を買ったのか」が分かります。
文政3(1820)年の交易活動の様子を追ってみましょう。
 まず、船主は小豆島のを買い入れています。小豆島は赤穂からの移住者が製塩技術を持込んでいて、早くから塩の生産地です。自前の特産品を持っていたというのが小豆島の強みとなります。
塩を積み込んだ大進丸が向かうのは、どこでしょうか? 
 すぐに考えつくのは「天下の台所」である大坂を思い浮かべます。ところが航路は、西の九州へ向かうのです。下関と唐津で積荷の塩を売ります。そして、唐津で干鰯を買い入れ、唐津の近くにある呼子へ移動して取粕と小麦を買っています。

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干鰯
 干鰯は、文字の通り鰯を干したもので綿やサトウキビなどの商品作物栽培には欠かせないものでした。蝦夷地から運ばれてくる鯡油と同じく金肥と呼ばれる肥料で、使えば使うほど収穫は増すと云われていました。取粕というのは、油をとったかすですがこれも肥料になります。それを唐津周辺で買い入れます。干鰯は小豆島の草壁村で、取粕は尾道と小豆島で売り払っています。

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それから、呼子で小麦を買っていますが、これはどうするの?
小豆島の特産と云えば「島の光」、つまり素麺です。素麺造りに必用なのは小麦ということで、小豆島の藤若屋という素麺の製造業者に売り払っています。単純化すると大神丸は塩を積んで、北九州に行き、干鰯と素麺の原料の小麦を積んで帰ってきたことになります。

 次に約四二年後の文久二年の航海日誌を見てみましょう。
文久二年(1862)と云えば、ペリー来航から10年近くなり、尊皇の志士たちの動きが不運急を告げる時期です。大神丸という船名は代わりませんが、何代後の舟になっていたでしょう。その取引状況を次の表から見てみましょう。

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大神丸の取引状況表
表の見方は、左から「売買品目・買入港・売払港」で、数字は品目の数量です。たとえば塩については、潟元・下村・土庄で買い入れ、筑後・島原・宇土・筑前で売り払ったということになります。塩買い入れ先の潟元は、屋島の潟元です。中世には、ここから塩専用の大型船が畿内に通っていたことが、兵庫北関入船納帳からは分かることとは以前にお話ししました。ここには塩田がありました。小豆島の対岸で、目の前に見える屋島で塩を買い入れています。下村・土庄は、小豆島ですが小豆島産だけでは不足だったのか、値段が高松藩の屋島の方が安かったからなのかわかりません。
 屋島と小豆島で塩を買い入れて舟に積み込んで、向かうのはやはり九州です。
40年前と違うのは、唐津よりもさらに南下して、筑後と島原、そして熊本の北の宇土まで販路を伸ばしています。
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島原地方は、天草の乱後に多くのキリシタン達が処刑され、人口減になった所に小豆島からの移住者を入植させた所です。それ以後、小豆島と島原周辺とのつながりが深まったと云われます。ちなみに、この地域は小豆島の素麺「島の光」の有力な販路でもあります。小豆島と九州は瀬戸内海を通じて、舟で直接的に結びついていたようです。
 次の品目の繰綿、これは綿から綿の実をとった白い綿で半原料です。
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これを買い入れたのは、高梁川河口の玉島と福岡(岡山の福岡)でしょう。この地域は、後に倉敷紡績が設立されるように早くから綿花栽培が盛んで、半加工製品も作られていました。

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ここで仕入れた繰綿は、塩と同じく有明湾の奥の肥前や筑後まで運ばれます。瀬戸内海の港で積み込まれた塩・繰綿・綿などの商品が、有明湾に面する港町に運ばれ、筑後や島原で売り払われたことが分かります。
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さて帰路の積んで帰る品物は何でしょうか? どこの港で積み込まれたのでしょうか?
まず小麦です。小麦は素麺の原料と先ほどいいましたが、仕入れ先は肥前、それから高瀬(熊本近郊)、さらに島原で買い入れています。その半分が多度津で売られています。当時の多度津港は、幕末に整備され西からの金比羅舟の上陸港として、讃岐一の港として繁栄していました。しかし、なぜ多度津にそれだけの小麦の需要があったのか? 
仮説① 金比羅詣客へのうどん提供?? そんなことはないでしょう。今の私にはこんなことくらしか考えられません。悪しからず。
 
DSC04064絵馬・千石船

 残りの小麦の行方は? 兵庫が大口です。
仮説② 揖保川中流のたつの市で作られる素麺「揖保の糸」の原料になった。
 この可能性は、多度津よりはあるかも知れません。残りの小麦は土庄、下村などの小豆島で売られています。「内上け」という記載は、船主の塩屋に荷揚げしたということです。塩屋が周辺の素麺業者に販売する分でしょう。

20111118_094422093牛窓の湊
牛窓湊
次に大豆を見てみましょう。

小豆島では醤油をつくっていますので、その原料になります。大豆と小麦は、仕入れ先も販売先も似ているようです。仕入れ先が川尻、島原、それから肥後、唐津などで、販売先が大坂近くの堺で売られていますが、土庄、下村あるいは、ここにも「内上け」とありますので、地元に荷揚げしています。

干鰯作業4

 干鰯の場合は、綿花やサトウキビ、藍などの商品作物栽培が広がるにつれて、需要はうなぎ登りになります。瀬戸内海では秋になるとどこの港にも鰯が押し寄せてきましたので、干鰯はどこでも生産されていました。だから、九州に向かう途中の港で、情報を仕入れながら安価に入手できる港を探しながら航海して、ここぞという港で積み込んで、高く売れる港で売り払ったと考えられます。

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 このように小豆島の苗羽を母港にする大神丸は、小豆島やその近辺の商品を積み込んで、それを九州西北部から有明海の奥の筑後や肥前・島原に持って行って売っています。そして、売り払った代金で小麦、大豆、干鰯などを買い入れて、小豆島で生産される素麺、醤油の原料としていてことが分かります。幕末から明治にかけて、こういう流通網が形成されていたのです。

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  こんなことを背景にすると、小豆島霊場のお寺さんの境内にある大きなソテツの由緒に「九州から帰りの廻船が積んで帰った」ということが語られるのが納得できます。
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 さらに私が大好きだった角屋のごま運搬船。
神戸に輸入されたゴマを土庄港の工場まで運ぶ胡麻専用の運搬船です。

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母港は島原の港。なぜ、島原の舟が小豆島で働いているのかは、大きな疑問でした。しかし、大神丸が小豆島と島原を結びつけていたように、かつては島原の舟も小豆島や瀬戸内海の港を往復する船が数多くあったのでしょう。そして、この舟は九州からのごま運搬に関わるようになり、胡麻が国産品から輸入品に代わると、神戸から土庄へその「営業ルート」を変更せざるえないことになったのかもしれません。これが今回の私の仮説③です


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参考文献 木原薄幸 近世瀬戸内海の商品流通と航路 「近世讃岐地域の歴史点描」所収

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