①密教には、「灌頂」が不可欠であり、面授を必要とすること。②「灌頂」の師となる恵果和尚が長安におられること。③「灌頂」には、それほどの期日を要しないこと。
確かに空海の灌頂受法は、足かけ三ヵ月でした。それを空海が事前に知っていた。そのため最初から空海は20年も長安に留まるつもりはなかった、短期間での帰国を考えていた、というものです。空海を超人化するストーリーとしては、こちらの方が人々に受けいれやすいので、最近の小説などではこの説で空海の入唐求法を描くものが多いようです。たとえば次のような筋書きです。
①四国などの山林修行での神秘的体験から密教への指向を強める若き日の空海②修験と密教の統合のための模索と大日経読破③大日経を読んだだけでは密教を「獲得」できない。潅頂儀式のための入唐求法
つまり、空海は密教の8割方を理解した上で、あとは書物では分からない潅頂関係だけを学ぶために目的を限定して入唐したという説です。しかし、前回お話ししたように、入唐以前の空海は「密教」という言葉を使っていません。「密蔵」という言葉を使っています。ここからは、入唐以前には空海は「密教」という全体概念をしらなかったことがうかがえます。密教の一部を知っていても、密教全体を分かっていたというレベルには達していなかったと研究者は考えているようです。
「空海入唐目的=潅頂受法」説の代表が、平井宥慶「弘法大師入唐の意図」で、ここには次のように記されています。
我々がかんがえる大師の入唐意図、それも「唯一」の意図を述へなければならないときがきた。我々は、大師は灌頂受法のため、それも日本を出発するときからそのことをきちんと意識しておらるものだ。その第一の資料は、〈帰啓〉の文である。
ここで述べられた内容は、長安城にあって、般若三蔵と恵果和尚に遇い、五部・喩伽の灌頂法に沐したという事実で、しかもそれ「唯一」であるということになる。いうなれば、これが入唐の成果である。いま灌頂受法を堂々と宣言しているのは、その事実によほどの自信と自負が存在することを認めなければならない。その自信と自負は長安へ行ってたまたま受法できたから、ということで生まれるものであろうか。これは、出発以前に大師の心内に確平たる目的意識として確立していたればこそ、と思考するものだ。ということは必然的に、恵果和尚に遇うことも計算にはいっていたということになる。大師はそういう大陸の情報をいかにして手に入れていたか、残念ながら我々はまだその直接証拠をみいだしていない。・灌頂受法がきわめて重大事であること 究極の法であることは論を待たない。(中略)密教の授受は師弟の面綬によらなければ不可能だ。
この灌頂という受法行為なら、それほど期日はかからない。少なくとも20年はかからない。大師はもしかしたら、闘期の罪の状態で帰国があり得ることを予測していたことも考えられる。(以下略)
ここからは、平井氏は空海は入唐以前に密教の全体像を知った上で、入唐目的を潅頂受法のためと絞り込んでいたとします。そして、短期間での受法も可能であったと入唐以前に考えていたというのです。その根拠を「帰啓」に求めます。「帰啓」とは何なのでしょうか。〈帰啓〉とは、『与本国使諸共帰啓一首』(本国の使に与えて共に帰らんと請う啓)の略称のようです。「本国の使」とは、遣唐判官・高階真人遠成のことを指すようです。この遠成が帰国する船に便乗して一緒に帰りたい、と願いでたときの文章が、この〈帰啓〉です。
恵果と空海
〈帰啓)が書かれるにいたった経緯を、見ておきましょう。
恵果阿闇梨は、空海への授法で使命を終えたかのように、永貞元年(805)12月15日、青龍寺東塔院で亡くなります。空海は、弟子を代表して、師の生涯を讃嘆する「恵果和尚の碑文」の撰文と揮音宅を行なったとされます。葬送の儀式は、翌年正月17日の埋葬の儀で、一段落したのでしょう。〈帰啓)は、この直後に書かれたようです。
実は、この時に唐にやってきていたのが遣唐副使判官高階真人遠成(たかしなりまひとうとなり)でした。彼は、大同元年(806)正月,皇帝の代替わりの新年朝貢の儀に、参列しています。空海を乗せてきた船が帰国したばかりなのに、どうしてすぐに遣唐使船がやってきたのでしょうか。次の2つの説が出されています。
①皇帝代替わり使節団として新たに派遣された②空海の入唐時に派遣された第4船が難破修理後に、遅れて到着した。
このことについては、別の機会に詳しく見るとして、ここでは空海が密教伝授を終え、恵果が亡くなった直後に、遣唐使船が現れたということを押さえておきます。
空海はこの期をとらえて本国に帰ろうとし,唐朝に啓を上奏します。
これが「与本国使諸共帰啓」のようです。もともと、空海の唐留学は20年の予定でした。それをわずか1年半で切り上げて帰国しようというのです。前代未聞のことです。これも空海にとって織り込み済みであったとする小説もあります。
これが「与本国使諸共帰啓」のようです。もともと、空海の唐留学は20年の予定でした。それをわずか1年半で切り上げて帰国しようというのです。前代未聞のことです。これも空海にとって織り込み済みであったとする小説もあります。
もし、この願いが許されなかったら,江南の貿易者の日本行きの私船で帰ることができたでしょうか。それは国費留学生という身分からして、できない相談だったようです。留学生は,皇帝の認可を受けて長安に滞在している以上,唐を離れるのは皇帝の許可が必要でした。その許可は,日本国を代表する大使の奏上がなければ許可されることはありません。それが律令のルールでした。もし、空海が高階遠成の船で帰国しできていなければ、その帰国は20年先だったかもしれませんし、阿倍仲麻呂のように帰国ができなかった可能性もありました。そうすれば真言密教も,高野山も姿はなかったことになります。
そういう意味では、空海の生涯を大きく支配した一文が『与本国使諸共帰啓一首』ということになるようです。
空海書 与本国使諸共帰啓
空海書 与本国使諸共帰啓
この書は,縦約30㎝,横55㎝の紙本で、現在は御物として保存されているようです。大同元年(806)の正月に唐の都長安で書写されたもので、18行,238字の上書です。
最初に題名として『与本国使諸共帰啓一首』と書かれていますが、下に行くほど左に曲がっています。バランスもよくありません。次に「留学学問僧の空海啓す」とあります。この文章中には欠語や誤謬があることが指摘されています。上奏書とは思えない書体と内容です。
「空海は,これを元にして楷書で浄書し大唐皇帝に奏上した」
と研究者は考えているようです。そして,草稿として書かれたこの書が,空海の書箱に収められ,帰朝にあたって持参されたという筋書きになります。
『与本国使諸共帰啓一首』の本文を見ておきましょう。
ア、留住学問の僧、空海啓す。某(それがし)、器、楚材に乏しく、聡、五行を謝せり。謬(あやま)って求撥(ぐはち)を濫りがはしくして、海を渉って来る。イ、草履を著けて城中を歴るに、幸いに中天竺国の般若三蔵、及び内供奉恵果大阿闇梨に遇いたてまつって、膝歩接足して彼の甘露を仰ぐ。ウ、遂に乃ち、大悲胎蔵・金剛界大部の大曼荼羅に入って、五部の喩伽の灌頂法に沐す。冶(さん)を忘れて読に耽り、仮寝(かりね)して大悲胎蔵・金剛頂等を書写す.己でに指南を蒙って、之の文義を記す。兼ねて胎蔵大曼茶羅一鋪、金剛界九会大曼茶羅一鋪を図す〈並びに七幅丈五尺〉。丼せて新翻訳の経二百巻を写し、繕装畢ヘなんとす。
エ、此の法は、仏の心、国の鎮なり。熟(わざわ)いを攘(はら)い、祉(さいわ)いを招くの摩尼、凡を脱(まぬか)れ聖に入るの嵯径なり。是の故に、十年の功、之を四運に兼ね、三密の印、之を一志に貫く。此の明珠を兼ねて、之を天命に答す。オ、たとい、久しく他郷に客たりとも、領(くび)を皇華に引かん。白駒過ぎ易く、黄髪何(い)かんがせん。今、腫願(ろうかん)に任えず。奉啓不宣。謹んで啓す。
意訳変換しておくと
本国の使に与へて共に帰らむと請ふ啓一首ア 留住(留学)学問の僧空海が上奏いたします。私空海の器(器量・才能)は乏しく,聡明さは応奉には及びません。仏法を求めてはるばる海を渉ってやってまいりましたイ 草履をすり減らし師を求めて歩き廻り、城中(唐の長安)を巡るに、幸ひにも中天竺國(インド中部)の般若三蔵の供奉(宮中の内道場に供奉する僧)恵果大阿闍梨にお会いすることができました。膝歩接足(膝であゆみ,師の足に頭をつけて,礼拝すること・師への礼)して彼の甘露(教え)を仰ぎ。
エ この法は仏の心で,仏法の真髄は國の鎮(鎮護国家法)でもあります。禍をはらいのけ、善福を招く摩尼宝珠は凡夫を脱れ、聖に入る峻厘(近路)です。それゆえに二十年の功を一年で兼ね具えることができるました。三密の印(身・口・意の三秘密の印契。密教の教え)を一心によく体得することができました。この明珠(明月のような光を放つ宝珠)を兼ねて、これを之を天命(桓武天皇の勅命)に応えようと思います。密教法具の作成オ もしこのまま大唐帝国の客として,遣唐使を待っていたら白駒(歳月)は過ぎ去ってしまいます。私は老人となって髪が黄色になってしまいます。今,随願(いやしい願い)ではありますが奉啓不宣(述べつくさないの意)謹むでまう啓す。
帰国できるがどうか、空海の生涯のターニングポイントで書かれた奏上文です。内容的には、くどくどと述べることなく簡潔でシンプルです。中国の古典や詩句の一部が各所にちりばめられていて、その素養の高さを示す内容です。しかも、その中に長安での空海の学究,求道の内容が網羅されていて,帰国して果すべきことも暗示され,その言わんとすることも伝わってきます。中国の担当官僚の心を動かす文章と云えるようです。
ここには空海の帰国の意志が表明されていますが、なぜ、帰国を決意したのでしょうか。
その理由としては、次のことが考えられます。
①長安には、恵果和尚に勝る阿閣梨がいなかったこと、②この機会を逃せば、いつ帰国できるかわからなかったこと、
ちなみに、つぎの遣唐使が長安にやってきたのは、32年後の承和五年(838)12月、空海が亡くなってから3年後のことです。
帰国を決意した最大の理由の一つは、恵果阿閣梨が亡くなったこと、その師が臨終に際して残した遺命であったと、研究者は考えているようです。恵果の遺命は、その後の空海の宗教的・社会的活動の指針となった、判断に困ったようなときには、空海の脳裏に、師の生涯とともにこの遺命が思い起こされたと云うのです。
恵果と空海
恵果和尚の遺命とは、『御請来目録』にみられる次の文章です。ア、今、此の上の縁尽きぬ。久しく住すること能はず。宜しくこの両部大曼茶羅、 一百余部の金剛乗の法、及び三蔵転付の物、並びに供養の具等、請う、本郷に帰りて海内に流伝すべし。編かに汝が来れるを見て、命の足らざるを恐れぬ。今、則ち授法の在る有り。経像の功、畢んぬ。
イ、早く郷国に帰り、もって国家に奉り、天下に流布して蒼生の福を増せ。然れば四海泰く、万人楽しまん。是れ則ち、仏恩を報じ、師の徳を報ずるなり。国の為には忠、家に於ては孝なり.
意訳変換しておくと
ア、今まさに、師と弟子として縁が尽きようとしている。ここに及んで、長安に留まるべきではない。この両部大曼茶羅や一百余部の金剛乗の法、及び三蔵転付の物、並びに供養の具等を、本郷(日本)に持ち帰り、国内に伝えるべし。以前から汝(空海)が長安にやって来ることは分かっていたが、私の余命の及ばないことを怖れていた。今、授法は全て終わった。経像の功も引き継がれた。
イ、しかる上は一日も早く郷国(日本)に帰り、もって国家に奉り、天下に流布して、民人たちの蒼生(善福)のために尽くせ。そうすれば四海は治まり、万人は平穏な生活が送れるようになる。これこそが仏恩を報じ、師の徳に報いる道である。国の為には忠、家におては孝である。
ここには「一日も早く郷国(日本)に帰り、もって国家に奉り、天下に流布」せよと恵果は空海に命じたと書かれています。この恵果和尚の遺命を受けて、空海は帰国を決意するようになったと研究者は考えているようです。つまり、空海は入唐以前から潅頂を含めて密教伝授が短期間で終わるとは思っていなかったとするのです。もっと突っ込んで云うと、空海は入唐以前には、潅頂がどんなものかを分かっていなかったことになります。
空海が入唐するまでに、『大日経』を読んでいたことは間違いないと研究者は考えているようです。とすると、「灌頂」なることばは知っていたでしょう。しかし「灌頂」が具体的にどんなものであるのかについては、正しく理解していたとは云えないようです。
先ほど見たように、空海の入唐求法について書かれた本の中には、空海は唐に出発するまえに、次のことを知っていた記すものがあります。
①密教には、「灌頂」が不可欠であり、面授を必要とすること。②「灌頂」の師となる恵果和尚が長安におられること。③「灌頂」には、それほどの期日を要しないこと。
③については、確かに空海の灌頂受法は、足かけ三ヵ月でした。それを空海が事前に知っていたとすれば、短期間の滞在でよい還学僧(請益僧)でよかったのではないでしょうか。事実、同行した最澄は、こちらを選択しています。どうして空海は、二十年も滞在しなければならない長期の留学僧となったのでしょうか。
別の視点から見てみましょう。本来の潅頂は、3ヵ月で終わるものだったのでしょうか。
別の視点から見てみましょう。本来の潅頂は、3ヵ月で終わるものだったのでしょうか。
天長八年(831)10月24日付の比叡山・円澄らの書状は、持明灌頂(結縁灌頂)を受法した最澄とその師・空海との次のようなやりとりが記されています。
即ち、和上(空海)に問うて云はく、大法の儀軌を受けんこと、幾月にか得せしめんや、と。(空海が)答えて日はく、三年にして、功を畢えん、と。
ここには、ずっと伝法灌頂の受法を願っていた最澄が、実際に空海から受法した灌頂は結縁灌頂であったこと。そこで、最澄は「念願の伝法灌頂を受けるには、いく月ほどの修行・勉学が必要であろうか」と質問します。これに対して、空海は「あなたの能力をもってしても、あと3年修学してください」と答えた、と記されます。
最澄が最初の持明灌頂(結縁灌頂)を受けたのが弘仁三年(812)のことですから、それから数えると19年が経っています。それに加えて、最澄でも「あと3年の修行が必要」と答えているのです。空海が恵果和尚から三ヵ月あまりで受法されたことは基準にはならない、つまり、あの伝授は特別なものであったと空海は考えていたようです。
傳法灌頂 三摩耶戒大阿次第
今日残る史料からも、空海が入唐される以前の史料には、灌頂受法がわが国行われたの記録は見当たらないことを研究者は報告し、次のように記します。
密教儀礼としての灌頂をわが国で最初に行なったのは最澄であり、それは延暦二十四年(805)九月、高雄山寺においてのことであった。この時期は、ちょうど空海が恵果和尚からの三度にわたる灌頂受法を、とどこおりなく終えた時期にあたる。ここからは、空海の入唐以前に、わが国の仏教界で、密教儀礼の灌頂については、十分に理解していた人物がいたとは思えない。
①空海入唐の動機・目的は、最初から密教受法や灌頂受法のためであったのではない。
②それは青年時代の四国での求聞持法修行によって体感した強烈な神秘体験の世界が、どんな世界であるかを探求する道のりの延長線上にあった。
③唐に渡り、はじめて室戸で体験した「神秘的世界」が密教なる世界であったことを知り、その世界を究めることを決意した。
④その導師となったのが恵果で、彼の遺命で短期での帰国を決意するようになった。
⑤皇帝への帰国願いが『与本国使諸共帰啓』で、これが受けいれられ帰国が許された。
⑥空海が「密教」という言葉を使うようになったのは、帰国後のことである。
前回と結論は同じになります。 空海と密教との出逢いは、体験的には20歳のころに求聞持法を修したときに遡ります。その世界が密教なる世界であることをはっきりと悟ったのは、入唐後の長安だったという説です。「はじめに体験ありき」と研究者は考えているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年
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