瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:熊野信仰


八坂寺一二社権現
八坂寺の鎮守だった熊野十二社権現
前回は八坂寺の歴史を大まかに見ました。その中で私が興味を持ったのは、八坂寺が熊野行者や石鎚先達として指導的な役割を務める修験者(山伏)たちの寺であったということです。今回は、「八坂寺=修験者の寺」という視点から見ていくことにします。テキストは「四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺 愛媛県教育委員会2023年」です。
熊野神社が鎮守として祀られている伊予の霊場を挙げてみましょう。
42番仏木寺(熊野神社が鎮守)
43番明石寺(熊野十二所権現が鎮守)
44番大宝寺・45番岩屋寺(境内に熊野神社)
47番八坂寺(山号は熊野山、境内に熊野十二所権現)
48番西林寺(三所権現が鎮守)
50番繁多寺(熊野神社が鎮守)
51番石手寺(山号が熊野山、境内に鎌含時代の熊野社の建物)
52番大山寺・60番横峰寺、64番前神寺
多くの霊場札所に、熊野信仰の痕跡が残ることが分かります。ここから「四国辺路」の成立には、熊野信仰が大きく影響したと研究者は考えています。霊場札所が熊野行者によって、開かれたという説です。
熊野行者の中には真言密教系の僧侶もいて、弘法大師信仰を広める役割を地域で果たしたのではないかとも考えます。こうして熊野信仰の拠点寺院に、弘法大師信仰が接木され、四国辺路は形成されるという考えです。その典型として注目されるの八坂寺ということになります。
 近世始めに書かれた澄禅の『四国遍路日記』(承応2年(1653)には、八坂寺本堂に安置されていたという阿弥陀如来像に関わる由緒や、寺院自体の創建伝承・沿革などについては何も触れていません。記述の中心は、境内にあったの鎮守の熊野十二所権現で、次のように記されていました。
①八坂村の長者てあった妙見尼が勧請したこと
②鎮守は、熊野三山権現が並ぶ25間の長床であったこと、
③寺院の中心は鎮守(熊野三山)で、右手に小ぶりな本堂が並んでいたこと
ここからは地元の長者によって熊野神社がこの地に勧進されたこと、そして、神社の別当として熊野先達を行う修験者がいたこと。さらに長床があったとすれば、熊野行者達の信仰センターの役割も果たし、この地域の熊野信仰の中心地であったこと、などがうかがえます。つまり中世の八坂寺の信仰の中心は熊野権現社で、多くの熊野行者が活動し、その周りには廻国の高野聖や念仏聖なども「寄宿」していたことが推測できます。
 これを裏付けるのが熊野那智社の御師・潮崎陵威工文書所収の明応5年(1496)旦那売券です。
ここには近隣の「荏原六郷」が含まれています。ここからは、八坂寺周辺には熊野行者がいて、熊野信仰が波及していたことが分かります。さらに、『四国遍路日記』には、八坂寺の住持は、妻帯の山伏であったとも記されています。

  熊野先達の活動が衰退するのが戦国時代です。
16世紀になると応仁の乱に続く戦乱の拡大は、参詣者の減少をもたらします。さらに戦乱による交通路の麻痺によって、熊野先達の業務は廃業に追い込まれるようになったのが全国の史料から分かります。戦乱で熊野詣でどころでなくなったようです。「戦乱の拡大と交通路の不通などにより、檀那の熊野参詣は減少し、熊野先達業務は次第に低調化した」と研究者は考えているようです。さらに、檀那であった国人領主層の没落も加わります。
このような中で熊野先達たちは、活路をどこに求めたのでしょうか。
「熊野先達=熊野行者=修験者=山伏」たちは、熊野への先達業務から、新たな業務を「開発」して行かざる得なくなります。サービス提供相手を武士層から、村の有力者へ変えて、地元村落との結びつきを深め、彼らを檀那としてサービスを提供する道を探ります。その内容は有名な霊山への「代参」から始まって、加持祈祷など様々な分野に及びます。そして地元に受け入れられて、定着し里寺を起こす者も現れます。
 同時に彼らは、修験者としての霊力を保持するために行場での修行も欠かせません。周辺の霊山や霊場での「辺路修行」も引き続いて行われます。具体的には四国巡礼や石鎚参拝の先達業務です。つまり、中世に熊野先達を勤めていた八坂寺の修験者たちは、近世には四国辺路修行や石鎚参拝の先達を務めるようになったのです。
 石鎚参拝の先達を勤める八坂寺の住持たちの姿を史料で見ておきましょう。
「石鉄(石鎚)山先達所惣名帳」(延宝4年(1676)前神寺文書)には、浄瑠璃寺村の「大坊」の「快常法印」が石鉄山先達の一人として挙げられます。浄瑠璃寺の中興に、元禄年間に活躍した快賢がいます。「快」の字が共通するので「大坊」も浄瑠璃寺のことを指すと研究者は考えています。江戸後期までに石鉄山の先達としての地位は、浄瑠璃寺から八坂寺へと移行します。それが八坂寺所蔵の古文書・古記録で次のように確かめられます。

「石鉄山先達名寄井檀那村帳」(文化6年(1809)は、を見ておきましょう。
これは道後地域の石鉄山先達や檀那村の記録です。そこに八坂寺が先達として記されています。

八坂寺 「石鉄山先達名寄井檀那村帳」
八坂寺の石鉄(石鎚)山先達の檀那村一覧
そして八坂寺の檀那村として、次の村々が挙げられます。

窪野村、久谷村、浄瑠璃寺村、恵原町村、西野村、上野村、小村、南高井村、北高井村、東方村、河原分、
大洲領麻生分西高尾田

 ここに出てくる檀那村は、文化5年(1808)に八坂寺に奉納された『大般若経』(聖教1~10)の施主の居住地と重なります。

八坂寺 大般若経
八坂寺 大般若経
石鎚参拝を通じて養われた先達としての師檀関係は強く、『大般若経』の勧進などでも大きな働きをしています。また、石鉄山先達の同僚である不動院(伊予郡松前村)、円通寺(久米郡樋口村)、和気寺(温泉郡衣山村)などは、文化5年の鐘楼堂再建供養にも出仕ていることが木札から分かります。八坂寺は、石鉄山先達のネットワークに支えられていた「山伏寺」だったのです。

八坂寺 天明8年(1788)明細帳 山伏
        天明8年(1788)明細帳 山伏八坂寺とある
 近世の八坂寺は醍醐寺三宝院末の当山方真言修験宗に属していたことが史料からも確認できます。

八坂寺 醍醐寺末寺
「醍醐三宝院御門主末院真言修験宗 八坂寺」とある

醍醐寺三宝院は、空海の弟真雅の弟子理源大師(聖宝)の開祖とされ、真言系修験者の拠点寺院でした。そのため近世の八坂寺縁起の中には、理源大師を開祖とするものもあります。八坂寺住持は、修験者として吉野への峰入りも行い、石鎚先達としても活動していたことになります。

以上をまとめておくと
①中世の八坂寺は熊野神社を勧進し、伊予松山地域における熊野信仰センターとして機能した
②八坂寺の住持は修験者で、熊野先達として檀那達を熊野詣でに誘引した。
③戦国時代に戦乱で熊野信仰が衰えると、里寺として地域に根付く運営方法を模索した
④その一環として、四国辺路や石鎚参拝の先達として活動を始め、信者ネットワークを形成した。
⑤そのため信者は、地元に留まらず土佐や大洲まで傘下に入れるようになった。
⑥こうして近世の八坂寺は「熊野信仰 + 石鎚参拝 + 四国霊場」の信仰センターとして機能した。

三角寺も八坂寺とおなじような動きをしていたことは、以前にお話ししました。三角寺ももともとは熊野先達で、それが四国辺路への先達活動を行うようになります。そして、周辺に多くの修験者や廻国行者を抱え込んでいきます。そして彼らがお札を持って、信者ネットワークの村々を巡るようになります。そのためこれらの寺には、いろいろな札の版木が残っています。同時に、讃岐の与田寺で見たように工房的なものもあり、僧侶の職人がいろいろな信仰工芸品を作成していました。それが八坂寺にも残っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

五流修験、発祥の地 「熊野権現の春」 | 岡山の風

 修験者たちの四国辺路の行場巡りの修行が、近世の四国霊場札所めぐりの原型であったといわれるようになっています。そのために、四国における修験者たちの活動に、焦点が当てられて研究成果がいくつも出されるようになりました。それらを読んでいて、気になるのが五流修験です。五流修験は倉敷市の児島半島に本拠を置いた修験集団でした。彼らの教団の形成と讃岐や四国との関係に焦点を当てて見ていこうと思います。
 五流修験の拠点である児島半島の「地理的な復元」をいつものように、最初に行っておきましょう。
五流修験 児島地図

 児島半島は、かつては島で北側には「吉備の中海」が拡がっていました。この海域は、近世に至るまで近畿と九州を結ぶ最重要のルートでした。古代吉備王国は、この備讃瀬戸の要衝を押さえて近畿勢力の有力な同盟者に成長して行きます。
最初に簡単に児島修験の概略を確認します。 
平安時代中期頃に、熊野本宮長床の一族と名乗る修験者たちが児島にやってきてます
 彼らは、熊野本宮の神領の中で最大の児島庄に熊野権現を勧請し、これに奉仕する修験集団を形成します。この集団は、自分たちの開祖を役小角の高弟、義玄・義学・義真・寿元・芳元として、尊滝院、太法院、建徳院、伝法院、報恩院の五ヶ寺を開きます。この5つの寺院から彼らは「五流」と呼ばれるようになります。

その後、平安時代末頃には児島の五流は、一時衰退したと云います。
しかし、承久の乱が起こり、後醍醐天皇の息子達が児島に流刑となっり、その子孫が院主となり五流の五ヶ寺は再興されます。
以後中世期を通して、五流修験は醍醐天皇の流れをくむ公卿からなる長床衆、社僧などを中心とする一山として繁栄します。五流山伏は、児島だけでなく熊野にも拠点をもつようになります。また、皇族の流れをひくことから皇孫五流、あるいは公卿山伏と呼ばれ、院や貴族の熊野詣にあたっては先達として活躍することになります。
五流修験は熊野権現を勧進していますから本山派に所属していました。
しかし、その組織の中に中国・四国から九州の一部に霞を持ち、霞内の先達に哺任を出すなど、本山派内でも別格的な位置を与えられていたようです。
  備讃瀬戸の制海権掌握のための拠点としての児島
五流 吉備の穴海
 
先ほど見たように児島の地は、現在では半島になっていますが、中世初期までは、その名の示すように島でした。熊野権現が勧請された林村は、水鳥灘の人江で、瀬戸内海の東の要所である備讃瀬戸の制海権を掌握するための拠点として重要戦略拠点でもあったようです。
 古代には吉備王国がこの水路を押さえて、瀬戸内海航路の管理権を握っていたことは先述したとおりです。源平の戦いでも争奪戦が展開されます。室町時代には、細川家が吉備と讃岐の守護職を得て備讃瀬戸の管理権を握っていました。戦略地点は戦いの時には、攻防戦の対象となります。このために児島五流も源平、南北朝、戦国時代などの戦乱にまきこまれていきます。
 近世期の五流修験
京都の聖護院内では、九州の宝満・求菩提などの座主と共に、院室につぐ位置を与えられ、公卿も各国の大先達につぐ位置を与えられていたようです。そして歴代の聖護院門跡の峰入の時には開伽、小木の指南役をつとめています。それだけでなく、本山派の春の葛城入峰、秋の大峯入峰でも重要な役割をはたしていました。
 中央でも重要な役割を担っていた五流修験に対して、地元の岡山藩は保護と管理の両面の宗教政策を巧みに使い分けて、管理下に置いていこうとします。まず、五流一山にそれまでの修験と、修理寺院大願寺のほかに新たに祠官を加えて、これらに百九十石の社領をあたえて保護します。特に山伏にはこのうち百石を与えると共に、門跡の峰入や葛城・大峯の峰入にあたっては、その都度銀子を与えています。
五流修験は、中四国の霊山である大山・石鎚の修験者を掌握していました
 五流の山内には、大仙智明権現がまつられ、石鎚山に擬せられた行場もあります。
赤い鐘楼門がとても目立っている - 大仙院の口コミ - じゃらんnet

大山や石鎚へは五流修験者たちの修行ゲレンデでした。同時に、彼らは先達として、多くの信者をこれらの霊山に参拝に連れて行きます。以前にお話ししたように、大山への岡山からの参拝を組織したのは、五流修験者たちでした。彼らは信者の里に庵を結び、それが発展して寺になった所も数多くあるようです。

 明治の神仏分離により、熊野権現は郷社熊野神社となり、大願寺は退転します。

五流 尊瀧院

 修験者は、五流筆頭の尊滝院を中心として結束し、聖護院末の修験集団を形成します。そして第二次大戦後は、尊滝院を総本山とする宗教法人「修験道」を結成し、中国・四国を中心に全国各地に教師・信者をもつ修験集団として活動するようになります。

  これが五流修験の概略です。これでは、よく分からないのでもう少し詳しく各時代毎に見ていくことにします。

五流修験の縁起では、児島への熊野権現の勧進をどのように記しているのでしょうか。「長床縁由」などの諸縁起を見てみましょう。
は次のような伝承をのせています。
 修験道の開祖役小角は韓国連広足の彿言によってとらえられようとした時、朝廷の追捕の手をさけて熊野本宮にかくれていた。しかし自分のために母親が捕えられたと聞いて自ら縛につき伊豆の大島に配流された。
 その時義学らの五大弟子を中心とする門弟三百余人は、王難が及ぶことをおそれて熊野本宮の御神体を奉持して、権現を無事に安置しうる霊地を求めて船出した。
 そして淡路の六嶋、阿波の勝浦、讃岐の多度、伊予の御崎(佐田岬)、九州各地などを三年間にわたってさまよい、これらの場所にそれぞれ権現を分祀した。ただし御神体そのものを安置しうる霊地はまだ発見しえなかった。
ここで伝えようとしていることは
①自分たちは、修験道の開祖役小角の五大弟子につながる法脈であること
②法難に際して、聖地熊野本宮の神体をもって瀬戸内海方面に亡命したこと
③瀬戸内海沿岸の淡路・阿波・讃岐・伊予、九州をさまよい権現を分祠したこと。
など、自分たちの集団のよるべき法脈と、瀬戸内海のテリトリーが主張されます。
 ここで私が注目しておきたいのは権現分祠先として「讃岐の多度」があることです。

五流 備讃瀬戸

多度郡は、空海を産んだ佐伯氏の本貫で善通寺がある郡になります。その郡港として古代に機能していたのが弘田川の河口にある白方(多度津町)です。ここには近世になって「空海=白方誕生説」を流布した父母院・熊手八幡・海岸寺・弥谷寺があります。
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多度津町白方の熊手八幡 その向こうに広がる備讃瀬戸

これらの寺院に残された寄進物を見ると信者達には、備讃瀬戸を挟んだ備後や備中の人たちが名前が見えます。さらに絞り込んでいくと、彼らは五流修験の下に組織された人たちではなかったのかと思えてくる状況証拠があります。
 つまり、大山や石鎚への蔵王権現信仰と同じく、白方にも熊野権現が分祠され、それを五流の修験者たちが祀り、彼らが先達として備後・備中の信者達を連れてきたのではという仮説です。実は、これは小豆島の島遍路巡りをして思った事でした。吉備から見て南に開ける海の向こうにある補陀落や観音信仰の霊地としての小豆島や白方は見られていたのではないかという筋書きです。
 後に、その霊地に弘法大師大師伝説が接ぎ木されていくパターンです。これは、観音寺が八幡信仰と観音信仰の上に、弘法大師伝説が接木されるのと同じような手法です。

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白方=空海誕生地説の拠点だった海岸寺奥の院からの備讃瀬戸

 この動きを進めたのが五流修験であったとすれば、「空海=善通寺生誕説」にこだわる必要はありません。彼らは善通寺とは別の系譜の修験者たちです。新たに「空海=白方生誕説」を流布し、白方の宗教施設のさらなる「集客力アップ」を目指したのではないかというのが私の仮説です。
 中世に多度郡白方に置かれた宗教施設は、児島五流の影響をうけていたとしておきます。

 また、多度津以外の「淡路の六嶋、阿波の勝浦、讃岐の多度、伊予の御崎(佐田岬)」にも、熊野権現を分祠したと云います。これは、古代のことではなく、後世における五流修験の活動範囲と私は考えています。さらに縁起をみていくことにします。
 瀬戸内海をさまよううちに、義学は船を東に向けるよう神託を受けた。これに従って東に舵を向け備中と備前の境まできた時、山上から呼声が聞えてきた。この場所が現在の倉敷市呼松である。この声にひかれて更に梶を南にとり柘榴の浜(現在の児島下の町)に到着した。
 すると海浜の石の上に白髪の老人が左手に経巻、右手に賊斧を持って立っていた。老人は、ここから北に進むと如意宝満の峰という霊地がある、そこに権現を鎮座すると良い。自分は地主神の福岡明神であるが、今後は熊野権現を護持しようと語った。義学らは喜んで上陸し柘榴の浜に寺を作った。これがのちの惣願寺である。
 一行は教えられた通りに北に道をとり、福南山の山麓をへて峠(のちに熊坂峠と呼ばれた)を越えて福岡邑に到着した。なおこの途中、福南山の麓で休憩して堂を作り地蔵をまつった。これが現在の熊野地蔵である。
 さて福岡の地に着いた一行は、熊野十二社権現の御神体を安置してまつりを行なった。大宝元年(701)三月三日のことであったという。
またあわせて境内に地主神の福岡明神を勧請した。その御神体は柘榴の浜で老人が立っていた石である。熊野権現の到来を喜び迎えた村人は同年の三月十五日に仮の御社にまつり、什物をはこび込んだ。やがて六月十五日には十二社権現すべての御社が完成した。爾来熊野権現が福岡の邑に鎮座された三月三日は同社の大祭とされている。また仮宮を造られ什物がととのえられた三月十五日には負事の賀、十二社権現の御社が完成した六月十五日には祭典が行なわれるようになったという。
 以上が「長床縁由」などに見られる児島への熊野権現の勧請物語です。近世の写本「五流伝記略」には、天平宝字五年に木見に宮殿を建てて新宮諸興寺とし、同じく児島の山村に那智山を移して新熊野山由伽寺を開いたと記します。これらがはたして史実かどうかは分かりません。
五流 岡山熊野三山

つまり、自分たちは熊野長床の子孫であり、新たに児島の地に熊野権現を開いたという「新熊野」伝説を主張しています。これをそのまま信じることはできませんが、この縁起類が書かれた時代の背景をうかがえることはできそうです。
 さらに、聖武天皇が神領を寄進し、孝謙天皇の御代に堂宇が整ったこと、そして児島の地に新宮及び那智の権現も勧請されたという縁起が、後世に作られたと研究者は考えているようです。

 「尊滝院世系譜」では尊滝院の開基を義学とします。
以下二世義玄、三世義真、四世寿元、五世芳元と役小角の五大弟子を並べ、六世神鏡、七世義天、八世雲照、九世元具を記します。9世の元具が死亡した永観(983)年間以降、承久2年(1220)の覚仁法親王による再興までの間、同院は中絶して寺院は荒廃したとします。
 寺院の縁起は「①古代の建立 → ②中世の荒廃 → ③近世の復興」というパターンで書かれたものが多いようです。③の場合は「復興=創建」と、読み直した方がいい場合もあります。六世から九世迄の四人のうち神鏡以外の三人については、具体的な活動が伝承されているようです。しかし、史料を検討した研究者は
「実在の人物であるとはいいがたく、後世に付会して作られた伝承」
という疑いの目で見てます。   

縁起の中で主張する「五流修験=熊野本宮長床衆亡命集団」説も検討しておきましょう
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本家の熊野本宮長床衆は、大治三年(1128)の記録に
長床三十人是天下山伏之司也、自古定寺三十ケ寺 此外山伏中は余多委口伝」

とあり、百五拾町歩の社領が与えられています。
熊野長床衆の行事には延久元年(一〇六九)の「社役儀式之事」によると、
元旦の衆会への出仕
一月七日から七日間の祈念
夏百日間の寵山修行
院や貴族たちの峰入の先達
などの重要な役割を果たしています。この長床衆の中心をなしていたのが五流といわれる五つの院坊です。そしてその代表が執行でした。
 室町時代に成立した「両峰問答秘紗」によると、平安時代末から鎌倉時代初期の熊野長床五流は、「尊・行宗・僧南房、報・定慶・千宝房、太・玄印・龍院房、建・覚南・覚如房、覚・定仁・真龍房」で、いずれも晦日山伏です。
 この「尊」は尊滝院、報は報恩院、太は太法院、建は建徳院、覚は覚城院の略号のようです。例えば、尊滝院の行宗は、嘉応二年(1170)44歳で長床(直任)執行となり、文治三年(1187)四月、後白河法皇の病気を治した功により少僧都になっています。また西行が大峯入りをした際の先達としても知られています。
 このように本家の熊野五流山伏達は、平安時代末期から鎌倉時代初期に熊野を拠点とした先達として活動していることが史料から分かります。また、熊野において特に院や貴族などの峰入に際して重要な役割をはたします。
後鳥羽天皇、皇子ゆかり 「熊野権現」 | 岡山の風

それでは、児島の五流長床衆は、どうなのでしょうか。
 児島の長床五流の活動は、史料からは見いだせません。つまり、児島の五流修験が由来で主張する「熊野長床五流の亡命者」は、史料的には説明できないようです。
しかし、中世初期の「熊野本宮御神領諧国有之覚事」には
『八千貫、従内裏御寄進 大祀殿修理領、備前児島

とあります。ここからは、熊野本宮の大祀殿修理八千貫を児島五流が寄進していることが分かります。この寄進額は、熊野の神領中では最大の貫数になります。児島の地が熊野本宮の重要な神領であったことは分かります。
経済的だけでなく、この児島の地は瀬戸内海における水軍の重要な拠点であったことは先述しました。
そのため純友の乱、源平の争いなどの時にも児島の地は、争奪戦が展開されます。

五流 源平の戦い

とくに佐々木盛綱の渡海が謡曲にもうたわれた元暦元年(1184)の源範頼と平行盛の藤戸の戦は、児島が舞台です。
五流 藤土の戦い

この児島を掌握することが、源氏にとっても平氏にとっても重要なことであったことがうかがえます。

 藤戸の戦を勝利に導く敵前渡海をした佐々木盛綱は、その功により源頼朝から、児島の波佐川の庄を与えられます。
これに対して、五流修験は、次のように幕府に対して激しく抗議します
児島の地は天平二十年、聖武天皇から神領として賜ったもの故、その一部の波佐川の庄を盛綱に割譲することは出来ぬ

一山の代表真滝坊は鎌倉におもむき、そこで27年間にわたって訴願を続けています。これに対して承元四年(1210)になって、五流の訴えが認められ、波佐川の庄が五流一山に返されています。五流一山ではこの決定をてこに、熊野長床衆や熊野水軍をうしろだてにして、児島一円を拠点とする強力な修験集団を作りあげていったようです。
こうして、13世紀になって熊野五流は、熊野水軍の舟に児島五流の僧侶(修験者)たちが乗り込み、瀬戸内海交易を活発に展開するようになります。熊野詣での信者を、五流の先達が導引して、熊野水軍の定期船が運ぶという姿が見られるようになります。この時期には、芸予諸島の大三島や塩飽の本島などには、熊野水軍の「定期船」が就航していたと考える研究者もいるようです。瀬戸内沿岸における熊野信仰は、児島五流の修験者が強く関わっていたことがうかがえます。
 また、縁起に記さた瀬戸内海沿いの多度郡などに熊野権現が分祠されたのも、この時期のことだったのではないかと私は考えています。

 こうしてみると五流修験の起源を、古代にまで遡って考えるのは難しいようです。
熊野本宮の神領・児島荘に勧進された熊野権現を中心に、中世になって形成されたのが修験集団が児島五流と言えそうです。そして、活発な活動を展開するようになるのは13世紀になってからのようです。その際に彼らは「自分たちの祖先は熊野長床衆の亡命者」たちであるという「幻想共同体」を生み出したとしておきましょう。

以上をまとめておくと、
①児島は熊野神社の社領となり、熊野権現が勧進された
②備讃瀬戸の要所である児島は、熊野水軍の瀬戸内海における重要拠点となり、熊野権現信仰の布教拠点にも成長して行った。
③義天が福南山で虚空蔵求聞を行い妙見をまつったり、雲照が清田八幡宮を熊野権現の御旅所にするなどして、吉備の熊野三山が整えられて行った。
④しかし、この時期の五流修験の本拠は熊野であり、児島は熊野長床五流の拠点にすぎなかった
 五流修験が次のステップを迎えるのは、承久の乱の際に後鳥羽上皇の息子達を迎え入れたことが契機になります。それは、また次回に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

石手寺―衛門三郎の伝説

 
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石手寺は、衛門三郎の伝説があるところです。
本尊は行基の作と伝えられる薬師如来です。八十八か所の本尊でいちばん多いのは、病気を治してくださる薬師如来です。
 出雲の一畑薬師の例で言いますと、額堂にいて祈願する人が、明け方になると磯に下りて海藻を拾って薬師さんに上げるのです。それがいちばんの供養だといわれています。海のかなたから寄ってくるのが薬師だということを、これは示しています。 

石手寺は、もとは安養院というお寺でした。

そのため「西方をよそとは見まじ安養の十に詣りて受くる十楽」という御詠歌があります。
極楽に行くと十の楽しみがあるそうだが、安養寺に参れば極楽の十楽を受けることができる、という意味です。
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 四十七番の八坂寺にも衛門三郎の伝説があります。

 食べ物を求めた托鉢僧に乱暴をふるまったため、衛門三郎の八人の子どもが頓死したというものです。石手寺の縁起では、衛門二郎が石手寺の開創の伊予の国司の河野氏の子どもとして生まれ変わってきたことになっています。
当国浮穴郡花原の邑に右衛門三郎といふ人あり。四国にをいて富貴の声聞あり。
貪欲無道にして、神仏に背けり。男子八入ありしに、八日に八人ながら頓死す。
異説あり。是より発心し仏神に帰し、家を捨、霊区霊像を遍礼せり。
阿州焼山寺の麓にて恙を抱て死に臨めり。時に我大師ここに至り玉ひて、
発心修行の事を歎じ、汝当来の願ひいかがととはせ玉へば、
この国にて河野氏に勝れる人なし。われ彼が子に生れん事を欲すとぞいひげる。
大師小石に右衛門三郎と名を書付に賢らしめ玉ふ。既に命をはりて其所に葬る。
いまに其塚あり。扨月日をへて国司河野氏の男子に生る。彼石を左の手に握れり。
右衛門三郎の後身なる事、人みなしれり。其名を息方と号す。
羊砧円沢のためしよりも正し。此息方当社権現を崇敬し、神殿拝殿再興し、
手に握る所の石を宝殿に納めて、後世に伝ふ。
 罰が当たって八人の男の子が一日に一人ずつ死んでいったので、衛門三郎は発心して四国八十八か所を回りました。ここから八十八か所の始まりは弘法大師だという説と並んで、衛門三郎だという説が出てきます。「恙」は病気のことです。恙なしというのは病気がないということです。
「歎じ」は嘆くのではなくて賛嘆するという意味です。
弘法大師は、衛門三郎が悪逆無道であったけれども、発心して諸国をめぐって修行したことを賛嘆したわけです。来世はどうしたいかと聞くと、河野氏の子に生まれ変わりたいといいました。

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  伊予の名門となる河野氏が、伊予の北半分の国司の地位を鎌倉幕府から与えられるのは壇ノ浦の戦いのときに、源氏方に付いた恩賞です。ところが、承久の変のときに後鳥羽上皇に付いてしまったので、河野氏は没落します。その結果、名前だけは残りました。
 その時の通信は、奥州江刺に流されますが、長男の通広が伊予に留まって坊さんになりました。その子ども、すなわち通信の孫が一遍上人です。これも出家して太宰府の聖達上人に弟子入りします。
 この経緯から「衛門三郎の伝説」が生まれたのは河野氏が没落する以前の承久の変より前の話として、この縁起を受け取らないと「河野氏に勝れる人なし」というわけにはいきません。
 
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鎌倉時代に安養寺から石手寺に変わります

 当時は熊野十二所権現を勧請し、寺坊六十六を数える大寺でした。
 記録をたどると、村上天皇の天徳二年(九五八)に伝法濯頂が行われ、源頼義、北条親経に命じて伽藍を建立し、永保二年(一〇八二)には天下の雨乞いを行ったということになっています。平安時代から鎌倉時代にかけて、かなり栄えた寺であったと想像できます。
寛治三年(1089)に弘法大師御影を賜って御影堂を建てました。これが大師堂です。永久二年に頼義の末子親清か諸堂を修復します。源氏の勢力が伊予に及んでいたので、安芸の宮島と同じように源氏の勢力で諸宗が修復されました。
治承元年(1177)には高倉院から大般若経が施入されています。
元久元年(1204)に十二社権現の祭礼を行ったという記録があるので、このころ熊野権現が勧請されたのではないかとかもいます。それ以前の勧請ではありません。
熊野権現を別当として守るお寺が石手寺ですから、熊野権現が主体で、別当寺はそれに付随したものでした。今治の南光坊も同じような成立のしかたをしています。
弘安二年に十六王子ができたというのも、熊野の王子十六社をここに招いたからとおもわれます。
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熊野の王子はたいへん難しい問題です。

 かつては神様の御子だ、熊野の新宮と那智の神様は伊井諾・伊井再命だから、王子は天照大御神をまつったものだという説が通説でした。しかし、そういうものではなくて、海の向こうから来る神様を王子とではないか、天照大御神というのはむしろ不自然で、常世に去った神悌が夷というかたちで残ったのではないか。子孫を保護するという意味で、食べ物を豊かにする神として戻ってくる。例えば、恵比須様は豊漁の神ですから、そのほうが自然です。 
境内の水天堂には干満水があります。
土間だけの粗末なお堂に、甕が一つ置いてあって、半分ぐらい砂利が入ってします。そこに入っている水は干潮のときはひたひたで、満潮のときはいっぱいになる、といわれていますが、お寺が海とつながっている海洋宗教の寺であることを示しています。
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石手寺の境内は雑然としています。

 雑然としたお寺は庶民が近づきやすい。浅草みたいに、石手寺にも仲見世があって、昭和のころにしか見たことがないようなものが売られています。
 正面に本堂があります。本堂の中には最近作った仏像をたくさん並べています。
円空仏とまぎらわしいようなものが、いっぱい並べてあります。
 本堂の右のほうに大師堂があります。大師堂の左手の裏に兜率天洞という地獄めぐりが造られていて、まっ暗闇の中をめぐって歩くのです。阿弥陀堂は、安養寺の残ったものです。三重塔は鎌倉時代の復興です。それに経蔵、護摩堂、弥勒堂、水大京と並んで、建物はいちおう七堂伽藍がそろっております。
 このお寺は松山市内にあるので、ずいぶん人々に親しまれています。
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  四十七番の八坂寺と番外寺院徳盛寺は、衛門三郎の出身地争いをしています。
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衛門三郎は、はじめ悪人でしたが、のちに改心して四国遍路をした、四国遍路の開創だといわれている人です。衛門三郎は弘法大師にめぐり合って、弘法大師に看取られて死にました。焼山寺の麓にある銀杏の生えた庵で死んだということになっています。
 もちろん彼は架空の人物ですが、この伝承は弘法大師の辺路修行にお供をした者があるということを暗示しています。修行者はひとりでは何もできません。食べ物を用意してくれたり、行の準備をしてくれたりする人達が必要です。サポートする者としては、修行者に帰依してお供をする道心、修行者がかわいがっていた童子と呼ばれる(あるいは行場にいちばん近い村の人々などです。衛門三郎は道心に当たります。)
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 『弘法大師伝』の中に、室戸で弘法大師をサポートした者として愛慢愛語菩薩が出てきます。愛慢愛語菩薩は夫婦であるともいかれています。こういう者がもとになって、衛門三郎の伝承ができたのでぱないかとおもいます。 
八坂寺と徳盛寺が、衛門三郎をたがいに争っているのは、ちょっと頬笑ましいものがあります。八坂寺は、地獄極楽堂という信仰と教訓を兼ねたような施設を造っています。
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   八坂寺の本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代のものだということで、重要文化財に指定されていま すので、なかなか拝観できません。ここをまつったのは八坂氏という山伏と伝わります。

熊野十二所権現をまつったということですから、やはり熊野信仰がここに及んでいたことがわかります。松山に南から入ると、浄瑠璃寺、八坂寺、西林寺、浄土寺があり、一つ山を越えると繁多寺、町に入ると石手寺と六か寺が固まっています。西林寺もよくわかりませんが、浄土寺と並べて考えますと、浄土寺は西林山三蔵院浄土寺と西林を名乗っているので、あるいは両方がダブつているのかもしれません。どちらも周囲がすっかり開発されてしまいました。
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