瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:熊野行者

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妖怪街道の子泣き爺

台風通過直後に野鹿野山に原付バイクツーリングをしました。大歩危の遊覧船乗場を過ぎて、藤川谷川に沿って原付を走らせます。台風直後で川にはホワイトウオーター状態で、勢いがあります。本流を流れる川は濁っていますが、支流の藤川谷川に入ると台風直後の増水にもかかわらず透明です。この川沿いの県道272号線は、いまは「妖怪街道」として知名度を上げています。

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ヤマジチ
街道の最初に登場する看板は「歩危の山爺」です。
この物語は、村に危害を加える妖怪を退治したのは「讃岐からきた山伏」とされています。ここからは、讃岐の山伏がこの附近まで入ってきて行場で修行したり、布教活動を行っていたことがうかがえます。

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妖怪街道の山向こうの土佐本山町には、神としてまつられた高野聖の次のような記録が残っています。
ヨモン(衛門)四郎トユウ
山ぶし さかたけ(逆竹)ノ ツヱヲツキ
をくをた(奥大田)ゑこし ツヱヲ立置
きのをつにツキ ヘび石に ツカイノ
すがたを のこし
とをのたにゑ きたり
ひじリト祭ハ 右ノ神ナリ
わきに けさころも うめをく
わかれ 下関にあり
きち三トユウナリ
門脇氏わかミヤハチマント祭
ツルイニ ヽンメヲ引キ
八ダイ流尾 清上二すべし
(土佐本山町の民俗 大谷大学民俗学研究会刊、昭和49年)
    宛字が多いようですが 意訳変換しておきましょう。
衛門四郎という山伏が逆竹の杖をついて、奥大田へやって来た。そこに杖を置いて木能津に着いて、蛇石に誓い鏡(形見)を残して 藤の谷へやって来た。
聖が祀ったのは 右ノ神である。
その脇の袈裟や衣も埋めた。分家は下関にある吉三という家である。子孫たちは門脇氏の若宮八幡を祀り、井戸(釣井)に注連縄を引き、八大龍王を清浄して祀ること
 この聖は奥大田というところに逆竹(さかだけ)の杖を立てたり、木能津(きのうづ)の蛇石というところに鏡(形見)をのこして「聖神」を祀ります。やがてこの地の「藤の谷」に来て袈裟と衣を埋めて、これを「聖神」と祀ったと記されています。
 土佐には聖神が多いとされてきました。その聖神は、比叡山王二十一社の一つである聖真子(ひじりまご)社と研究者は考えています。ここからは、本山にやって来た高野聖が自分の形見をのこして、それを聖神として祀ったことが分かります。

本地垂迹資料便覧
聖真子(ひじりまご)

 この衛門四郎という高野聖は、「藤の谷」を開拓して住んでいたようです。かつては、この辺りには焼畑の跡があとが斜面いっぱいに残っていたと云います。その畑の一番上に、袈裟と衣を埋めたというのです。そこには聖神の塚と、門脇氏の先祖をまつる若宮八幡と、十居宅跡の井戸(釣井)が残っているようです。ちなみに四国遍路の祖とされるは衛門三郎です。衛門四郎は、洒落のようにも思えてきます。

本山町付近では、祖先の始祖を若宮八幡や先祖八幡としてまつることが多いようです。
ここでは、若宮八幡は門脇氏一族だけの守護神であるのに対して、聖神は一般人々の信仰対象にもなっていて、出物・腫れ物や子供の夜晴きなどを祈っていたようです。このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじように、遊行廻国者が誓願をのこして死んだところにまつられます。聖神は庶民の願望をかなえる神として、「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化としてしまう定めでした。この本山町の聖神も、一片の文書がなければ、どうして祀られていたのかも分からずに忘れ去られる運命でした。
 川崎大師平間寺のように、聖の大師堂が一大霊場に成長して行くような霊は、まれです。
全国にある大師堂の多くが、高野聖の遊行の跡だった研究者は考えています。ただ彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られてしまったのです。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡であるのと同じです。妖怪街道沿いにも、そんな修験者や聖たちの痕跡が数多く見られます。彼らの先達として最初に、この地域に入ってきたのは熊野行者のようです。

熊野行者の吉野川沿いの初期布教ルートとして、次のようなルートが考えられる事は以前にお話ししました。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社を勧進し拠点化
②さらに行場を求めて銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③仙龍寺から里下りして、瀬戸内海側の川之江に三角寺を開き、周辺に定着し「めんどり先達」と呼ばれ、熊野詣でを活発に行った。
④一方、土佐へは北川越や吉野川沿いに土佐に入って豊楽寺を拠点に土佐各地へ
 熊野行者たちは、断崖や瀧などの行場を探して吉野川の支流の山に入り、周辺の里に小さな社やお堂を建立します。そこには彼らが笈の中に入れて背負ってきた薬師さまや観音さまが本尊として祀られることになります。同時に彼らは、ソラの集落の芸能をプロデュースしていきます。盆踊りや雨乞い踊りを伝えて行くのも彼らです。また、今に伝わる昔話の原型を語ったのも彼らとされます。各地に現れた「熊野神社」は、熊野詣での際の道中宿舎の役割も果たし、孤立した宗教施設でなく熊野信仰ネットワークの一拠点として機能します。

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 熊野行者たちは諸国巡礼を行ったり、熊野先達を通じて、密教系修験者の幅広いネットワークで結ばれていました。例えば、讃岐の与田寺の増吽などの師匠筋から「大般若経の書写」への協力依頼が来ると引き受けています。このように阿波のソラの集落には、真言系修験者(山伏)の活動痕跡が今でも強く残ります。

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野鹿池の龍神

 話を元に返すと、妖怪街道と呼ばれる藤川谷川流域には、このような妖怪好きの山伏がいたのかも知れません。
彼らは、庚申信仰を広め、庚申講も組織化しています。悪い虫が躰に入らないように、庚申の夜は寝ずに明かします。その時には、いくつも話が語られたはずです。その時に山伏たちは熊野詣でや全国廻国の時に聞いた、面白い話や怖い話も語ったはずです。今に伝えられる昔話に共通の話題があるのは、このような山伏たちの存在があったと研究者は考えているようです。
修験役一覧
近世の村に定住した山伏の業務一覧
今回訪れた妖怪ポイントの中で、一番印象的だった赤子渕を見ておきましょう。
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車道から旧街道に入っていきます。この街道は青石が河床から丁寧に積み重ねられて、丈夫にできています。ソラの集落に続く道を確保するために、昔の人達が時間をかけて作ったものなのでしょう。同じような石組みが、畠や神社の石垣にも見られます。それが青石なのがこの地域の特色のように思います。五分も登ると瀧が見えてきました。
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赤子渕
台風直後なので水量も多く、白く輝き迫力があります。

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滝壺を巻くように道は付けられています。これは難工事だったとおもいます。そこに赤子の像が立ってました。
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なにかシュールで、おかしみも感じました。瀧は爆音で、大泣き状態です。滝上には橋がかかっています。この山道と橋が完成したときには、この上に続くソラの集落の人達は成就感と嬉しさに満ちあふれて、未來への希望が見えて来たことでしょう。いろいろなことを考えながらしばらく瀧を見ていました。

「赤子渕」が登場する昔話は、いくつもあるようです。
愛媛県城川町の三滝渓谷自然公園内にもアカゴ淵があります。ここでは、つぎのような話が伝えられています。
  
むかしむかし、赤子渕は生活に困り生まれた子を養うことができなくなった親が子を流す秘密の場だった。何人もの赤子が流されたという。その恨みがこの淵の底に集まり真っ赤に染め、夕暮れ時になると赤子の淋しそうな泣き声が淵の底やその周囲から聞こえてくるという。

信州飯田城主の落城物語では、赤子渕が次のように伝えられます。
 天正10年2月(1585)織田信長は、宿敵甲斐の武田氏打倒の軍をついに動かした。飯田城主の坂西氏は、木曽谷へ落ち延びて再起をはかろうと、わずかな手勢と夫人と幼児を伴って城を脱出した。しかし逃げる途中で敵の伏兵に襲われ、家臣の久保田・竹村の2人に幼児延千代を預け息絶えた。延千代を預かった2人は、笠松峠を越して黒川を渡り、山路を南下したが青立ちの沢に迷い込んでしまった。若君延千代は空腹と疲れで虫の息となり、ついに息が絶えてしまった。その後、この辺りでいつも赤子の泣き声がすると言われ、誰となくここの淵を赤子ヶ淵と呼ぶようになった。
「赤子なる淵に散り込む紅つつじ昔語れば なみだ流るる」

    赤子渕に共通するのは、最後のオチが「赤子の泣き声がすると言われ、誰となくここの淵を赤子ヶ淵と呼ぶようになった」という点です。その前のストーリーは各地域でアレンジされて、新たなものに変形されていきます。
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  藤川谷川流域のソラの集落・ 旧三名村上名(かみみょう)に上がっていきます。
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  管理されたススキ原が広がります。家の周りに植えられているのは何でしょうか?

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上名の茶畑
  近づいてみると茶畑です。旧三名村はお茶の産地として有名で、緑の茶場が急斜面を覆います。それが緑に輝いています。

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山城町上名の平賀神社

  中世の讃岐の仁尾と土佐や西阿波のソラの集落は「塩とお茶の道」で結ばれていたことは以前にお話ししました。
仁尾商人たちは讃岐山脈や四国山地を越えて、土佐や阿波のソラの集落にやってきて、日常的な交易活動を行っていました。詫間・吉津や仁尾は重要な製塩地帯で、そこで生産された塩は、讃岐山脈を越えて、阿波西部や土佐中央の山間部にまで広く移出されていました。その帰りに運ばれてきたの茶です。仁尾で売られた人気商品の碁石茶は、土佐・阿波の山間部から仕入れたものでした。
 食塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。
古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡昼間に入り、そこから剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。その東の三名では、仁尾商人たちが、塩を行商で土佐の山間部まで入り込み、その引き替えに質の高い茶や碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたのです。
 山城町三名周辺は、仁尾商人の商業圏であったことになります。
そのために「先達」として、讃岐の山伏が入り込んできていたことも考えられます。取引がうまくいく度に、仁尾商人たちは、山伏たちのお堂になにがしのものを寄進したのかもしれません。

それは、天正2年(1574)11月、土佐国長岡郡豊永郷(高知県長岡郡大豊町)の豊楽寺「御堂」修造の奉加帳に、長宗我部元親とともに仁尾商人の名前があることからも裏付けられます。
豊楽寺奉加帳
豊楽寺御堂奉加帳

最初に「元親」とあり、花押があります。長宗我部元親のことです。
次に元親の家臣の名前が一列続きます。次の列の一番上に小さく「仁尾」とあり、「塩田又市郎」の名前が見えます。

阿讃交流史の拠点となった本山寺を見ておきましょう。
四国霊場で国宝の本堂を持つ本山寺(三豊市)の「古建物調査書」(明治33年(1900)には、本堂の用材は阿波国美馬郡の「西祖父谷」の深淵谷で、弘法大師が自ら伐り出したものであると記します。 空海が自ら切り出したかどうかは別にしても、このようなことが伝えられる背景には、本山寺が財田川の上流域から阿波国へと後背地を広域に伸ばして、阿讃の交易活動を活発に行っていたことをうかがわせるものです。
個人タクシーで行く 四国遍路巡礼の旅 第70番 本山寺 馬頭観世音菩薩 徳島個人中村ジャンボタクシーで行く四国巡礼の遍路巡り 四国36不動 曼荼羅霊場  奥の院
本山寺の本尊は馬頭観音

本山寺は、もともとは牛頭大明神を祀る八坂神社系の修験者が別当を務めるお寺でした。この系統のお寺や神社は、馬借たちのよう牛馬を扱う運輸関係者の信仰を集めていました。本山寺も古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地として、活発な交易活動を展開していたと研究者は考えています。

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山城町上名の茶畑
「塩とお茶の街道」を、整理しておきます。
①天正二(1574)年の豊楽寺「御堂」修造に際し、長宗我部氏とともに奉加帳に仁尾浦商人塩田氏一族の塩田又市郎の名前が残っている。
②塩田又市郎は、仁尾・詫間の塩や魚介類をもたらし、土佐茶を仕入れるために土佐豊永郷や阿波三名などに頻繁に営業活動のためにやってきていた。
③仁尾商人は、土佐・長岡・吾川郡域や阿波三名などの山村に広く活動していた。
④中世仁尾浦商人の営業圈は讃岐西部-阿波西部-土佐中部の山越えの道の沿線地域に拡がっていた。

今は山城町の茶葉が仁尾に、もたらされることはなくなりました。
しかし、明治半ばまでは「塩と茶の道」は、仁尾と三名村など阿波西部を結び、そこには仁尾商人の活動が見られたようです。それとリンクする形で、ソラの修験者たちと仁尾の覚城寺などは修験道によって結びつけられていたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
市村高男    中世港町仁尾の成立と展開   中世讃岐と瀬戸内世界
関連記事


 伊勢御師1
檀那宅を土産を持って訪れる伊勢御師 (江戸時代)
 戦国時代の16世紀になると多くの伊勢御師が全国各地を訪れ、人々を伊勢参詣ヘと誘うようになります。讃岐にも伊勢御師がやってきて、勧誘活動を行っていたようです。

伊勢神宮~人はなぜ伊勢を目指す?~(前編)@ブラタモリ - メランコリア

それが分かるのが、冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」です。
この史料は、永禄8年(1565)に伊勢外宮門前町の山田・岩淵の御師である岡田大夫によって作成され、それから約300年後の安政三年(1856)に書写されたものです。この内容は、伊勢御師・岡田大夫が讃岐の中・東部(県高松市・さぬき市・坂出市・三木町)の旦那(道者)の家々を巡って、伊勢神宮ゆかりの伊勢土産や祈疇札を配り、その代価として初穂料を徴収した記録です。これを今回は見ていくことにします。テキストは「佐藤竜馬   伊勢御師が見た讃岐」です。

高松城下図屏風さぬきの道者一円日記
「さぬきの道者一円日記」
「さぬきの道者一円日記」は、次のような体裁になっています。
①一 さぬき 野原  なかくろ(中黒)里  一円
     数あふき  百五十本入申候
②正藤助五郎殿  やと(宿)③おひ(帯)あふき(扇)米二斗
是 藤 殿      おひ あふき のし(熨)斗本   代三百文
     小刀                同百文
六郎兵衛殿    おひ あふき        米二斗
助左衛門殿       同                    米二斗
ここには次のような項目が記されています。
①地域名         ここでは野原中黒里
②人物(寺社)名     旦那名
③御祓大麻配布の有無と伊勢土産の種類
④代価(初穂料)、
の順で整然と記されていて、日記というよりも帳簿に近い印象を受けます。土産の品目は、帯上崩・小刀などの衣類や器物、焚斗(焚斗飽)・鶏冠(鶏冠莱)などの海産物が中心です。土産は「御師が旦那に配布する、という行為自体が重要であり、それが初穂徴収という枠組みを保証している」と研究者は考えています。

伊勢御師 さぬき檀那と初穂
「さぬきの道者一円日記」 野原周辺の檀那リスト

 上表からは野原中黒里に12名(坊)の旦那がいて、そこに伊勢土産の帯や扇を持って廻ったことが分かります。野原中黒里から記述が始まるので、岡田大夫が最初に上陸したのは、野原中黒里と研究者は考えています。
伊勢御師 野原目黒
華下天満宮(高松市片原町) 中黒里

 中黒里は、華下天満宮(高松市片原町)の古名「中黒天満官」にその名残りがあります。
中世の中黒里は、中世復元図によると旧香東川の河口の中洲で、「八輪島=八幡島(ヤワタジマ)」と呼ばれる聖地でもあったようです。その北側に中世の野原湊はあり、活発な海上交易活動が展開されていたことが発掘調査から分かっています。

野原・高松・屋島復元地形図jpg

旧香東川河口の中洲にあった野原中黒里

そういう意味では、中黒里は髙松平野で最も活発な活動を行っていた港の背後にあった集落になります。畿内と行き来する廻船も数多く出入りし、梶取りや海上交易業者なども数多く生活する「港湾都市」的な性格をもっていたようです。
野原の港 イラスト
中世野原湊の景観復元図

伊勢御師の岡田太夫は、畿内から船でやって来て、野原湊に上陸し、ここを起点に讃岐の旦那衆を巡ったのでしょう。「正藤助五郎殿  やと(宿) おひ(帯)あふき(扇)米二斗」とあるので、正藤助五郎の家を宿としたことが分かります。

伊勢御師 野原復元図2
中世野原周辺の復元図 無量寿院(談義所)があった

 中黒里の旦那の中には「談義所」と記されています。これは讃岐七談義所として有力寺院であった無量寿院のことです。周辺にもいくつもの坊があり、そこに住む僧侶(修験者?)たちは、伊勢信者でもあったようです。当時は神仏混淆で、僧侶というよりも修験者たちで神仏両刀使いだったのです。
   野原・高松復元図カラー
中世野原の景観復元図
岡田太夫は、次のようなルートで旦那の家を廻っています。
①野原郷内を巡り、坂出上居里・円座里・岡本里・井原里と高松平野を南下
②阿讃山脈に近い鮎滝・安原山・岩部里・塩江・杵野・内場といった山間部を巡回
③そこで反転して下谷・川内原・植田里などの丘陵地帯を抜け、
④高松平野中央部の下林里・山良里・由良池の内・下林里・大田里・松縄里を北上
⑤現在よりも内陸側へ大きく湾入していた古・高松湾沿いの今里・木太西村里に出る。
⑥内湾する海岸沿いに東行し、高松里周辺を巡回
⑦その後、狭い海峡を渡り屋島の方本里・西方本を訪れ
⑧再び高松里に戻り牟礼里・庵治里・馬治・鎌野里。原里と庵治半島を時計回りに巡り、志度ノ里に至る。
⑨さらに門前の志度ノ里寺中から南下して西沢里・造円里・宮西里・井戸里に至り
⑩そこから西行して池戸里・亀田里・十河里。前田里・山崎里。六条里・大熊里に出た後、港町香西里に至る。
⑪香西里から南下し、新居里・国分里・福家里を巡った後、備讃海峡に突き出した乃生嶋里に出て、讃岐を離れる。

伊勢御師 檀那廻りルート
伊勢御師岡田太夫の巡回ルート

 全行程は約190km(約47里半)、巡った郡は5郡、村落の数は61、旦那の数は304名(寺社含)になります。こうしてみると伊勢御師の活動は、一つの村だけではなく、広い範囲をカバーしたものだったことが分かります。当時の社会で荘郷や領主を超えて、これだけの村をめぐり歩いてたのは、彼らのような御師(修験者)をおいて他にはなかったと研究者は指摘します。熊野・伊勢御師の活動は、もともとは信者獲得のために必要な知識として貯えられたものです。しかし、それを村の側から見れば、修験者は、村内の家格や身分秩序について把握し、またそうした情報を行く先々で広く伝達して廻る者としての役割を呆たしていたとも云えます。
無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社選書) | 網野 善彦 |本 | 通販 | Amazon

  網野善彦氏は『無縁・公界・楽』の中で、修験者や聖の勧進行為が鎌倉末期から、幕府や朝廷の権威を背景に棟別銭の徴収という形をとるようになったことを指摘しています。例えば応永19年(1412)、幕府が備前や越中などに懸けた東寺修造料棟別銭が、備前では児島熊野山の五流山伏、越中では二上山の山伏が徴収担当者に指名されています。
なぜ修験者が棟別銭を徴収することができたのでしょうか。
「菅浦文書」は、中世村落に対する棟別銭賦課の事例として有名です。その中の棟別掟では、村内の家が「本家」「かせや」「つのや」に分けて格付けされています。ここからは、棟別銭を徴収するためには、家数の把握や、家の格付け、財産についての知識(戸籍や土地台帳)が必要だったことが分かります。熊野修験者などは、先ほど見たように讃岐でも御師として檀那の間を廻り、護符を配ったり、初穂料や祈疇料を得たりしていました。こうした活動を通して修験者は、家の大小、貧富、身分といった情報を集めていたと研究者は考えているようです。
伊勢御師 檀那を迎える伊勢御師2
伊勢詣でにやってきた檀那を迎える御師(江戸時代)
  熊野・伊勢の修験者の場合を見ておきましょう。
修験者(山伏)が御師として、全国に散らばる先達として、信者との間に師檀契約を結んでいたことは以前にお話ししました。御師や先達は、檀那が本山に参詣する際には宿泊をはじめとする便宜を図ってやりました。また檀那の間を廻って巻数・護符・祓などを配り、代償として初穂料や祈疇料を得ています。伊勢御師の檀那衆は、室町時代になると在地領主層だけでなく、農村の中にも広く存在していたことは、先ほど見たとおりです。
伊勢御師 伊勢講
伊勢御師講社
大量の檀那売券には「一族・地下」「地下・一族」という語句が現れてくるようになります。有力百姓の間にも伊勢信仰は広がっていたのです。伊勢御師の修験者たちは、これらの檀那衆を毎年廻って初穂料を集めていたのです。これは村全体から徴収するものではありませんが、恒常的に棟別銭を徴収する体制を熊野・伊勢の御師たちは持っていたことになります。それは、熊野・伊勢のシステムを真似て初穂料を徴収していた地方の神社の修験者たちにについても云えることです。修験者(山伏)たちは、「廻檀」という旦那廻りを通じて、村々の中に入り込み、村内部の情況に精通していたと研究者は考えています。

広峯神社 <ひょうご歴史の道 ~江戸時代の旅と名所~>
播磨広峯神社(姫路市)

地方の修験集団の例として、牛頭天王を祀る播磨広峯神社(姫路市)を見ておきましょう。
その社家の一つ肥塚氏は、鎌倉末期より御師として播磨・丹後・但馬・因幡・美作・備中などの諸国で檀那を獲得していました。肥塚氏が残した檀那村付帳には、諸国の諸荘郷やその中の村々の名称だけでなく、住人の名前、居住地、さらに詳しい場合には彼らが殿原衆であるか中間衆であるかといつた情報まで記されています。例えば天文14年(1545)の美作・備中の檀那村付帳の美作西部の古呂々尾郷・井原郷の部分を見てみると、現在の小字集落にはぼ相当する.村が丹念に調べられて記録に残されています。広峯の御師たちは、村や村内の身分秩序をしっかりと掴んでいたのです。

七五三初穂料読み方 ふたり一緒の時・中袋書き方や中袋がない時・新札? - Clear life クリアライフ
熊野・伊勢御師や修験者たちは、檀那からの初穂料徴収を行っていました。そのためには、旦那廻りのための情報を蓄積する必要があり、村々に家がどのくらいあるのかなども情報として得ていました。修験者たちが持っている情報を活かして、棟別銭を賦課しようとする支配者が現れても不思議ではありません。
五流 絵図
児島五流修験

応永十九年(1413)9月11日、幕府は東寺修造料として、出雲に段銭、丹後・越中・備前・備後・尾張に棟別十文の棟別銭(家毎への課税)を命じています。備前での棟別銭徴収を請け負ったのが「児島山臥方」です。「児島山臥(伏)方」は、児島五流修験のことです。山伏集団が一国の棟別銭集金機構として機能しているのです。それについては、また別の機会に

以上をまとめておくと
①16世紀半ばの戦国時代に、伊勢御師が野原(髙松)にやってきて、周辺の伊勢信者の檀那衆へ伊勢土産を配り、初穂料を集めて廻っていこと。
②その際に残された記録からは、御師のたどったルートや村々・お土産の種類・初穂料の種類などが分かる。
③そのエリアは現在の高松市周辺にも及び、小領主層や海運関係者・商人・有力農民などが信者となっていたこと。彼らを結ぶのが御師であったこと
④御師は旦那廻りを通じて、村々の中に入り込み、村内部の情況に精通すると同時に、村々をつなぐ存在でもあった。
⑤村々の鎮守やお堂にいた在地の修験者たちも、このネットワークを支える存在であった。
⑥こうして修験者のネットワークを通じて村々の寺社もは結びつけられていったこと。
⑦備前では児島五流の修験者ネットワークを利用して棟別銭が徴収されたこと。
⑧修験者ネットワークをうまく利用し、政治に利用しようとする戦国大名がでてくること
⑨それが土佐の長宗我部元親であり、金毘羅神保護も修験者による流行神創出を支援するという意図があったこと

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「佐藤竜馬   伊勢御師が見た讃岐」
榎原雅治 山伏が棟別銭を集めた話 日本中世社会の構造
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勧善寺 遠景
勧善寺(神山町)
 
徳島県神山町の四国霊場焼山寺の近くに、勧善寺という寺院があります。
ここには、南北朝時代末期に書写された大般若経が伝えられていて、今でも転読儀礼に用いられているようです。今回は、勧善寺の大般若経を見ていくことにします。テキスト長谷川賢二 熊野信仰における三宝院流熊野長床衆の痕跡とその意義」です。

大般若経は全部揃うと600巻にもなる大巻のお経です。これが疫病封じなどにも効き目があるとされ、これを読経することで様々な禍を封じ込めることができるとされました。そこで、地方の有力社寺の中には、大般若経を備えようとするところがでてきます。その際の方法としてとられたのが、多くの僧侶が参加する勧進書写方式です。元締めとなる僧侶が、周辺地域の寺院に協力を求めます。さらに熊野詣でなどの折りに知り合った僧侶にも協力依頼を行います。こうして、何十人という僧侶の参加協力を得て、大般若経は完成していったようです。

「大般若経 転読」の画像検索結果

 600巻を全部読経すると大変なので「転読」というスタイルがとられます。お経を上から下に扇子のように開いて、閉じることを繰り返し、読経したことにします。この時に、お経から起きる風が「般若の風」と云われて霊験あらたかなものとされたようです。こうして、般若心経を揃えて「般若の風」を地域に吹かせることが、その寺社のステイタスシンボルになりますし、書経に参加したり、主催することで僧侶の名声にもつながります。この時代に讃岐で活躍した善通寺復興の祖宥範や、東讃の増吽も勧進僧であり、書写ネットワークの中心にいた人物だったことは以前にお話ししました。


勧善寺 地図

  神山町の「勧善寺大般若経」の成立背景を要約すると次の通りです。
①もともとは柚宮(ゆうのみや)八幡宮の二之宮八幡神社に奉納されたもの
②それが神仏分離で明治初年に勧善寺に移された
③分散的書写されていて、写経所となった寺社等は19か所、写経者や願主などの関係者も43名になる。
④写経所の分布は、柚宮八幡宮の近辺を中心に、鮎食川流域の大粟山周辺が多い
⑤徳島市や佐那河内村、石井町や鴨島町でも書写されている
⑥さらには讃岐(さぬき市)の遍照坊や岡坊でも写経され、国境を越えた広がり見られる
⑦写経期間は至徳四(1387~89)足かけ三年でおこなわれた
 書写は大粟山の鎮守とされる上一宮と神宮寺のような地域の有力な寺社もありますが、「坊」と記された小規模寺院(村堂?)も含まれています。ここからはいろいろな寺社等が、写経事業と通じて結びつけられていたことが分かります。また具体的な個人名としては宴隆のように、全国の行場を修行して四国辺路修行を行ったような修験者(山伏)も参加しています。これらの地域を結びつけ「地域間交流の接着剤」の役割を果たしていたのが遍歴の辺路修行者や山伏であったようです。

研究者が注目するのは巻208の奥書で、次のようなに記されています

勧善寺大般若経」208巻
勧善寺大般若経 巻208の奥書
(尾題前)
宴氏房宴隆(書写名)
(尾題後)
嘉慶二年初月十六日般若並十六善神
三宝末流、瀧山千日、大峰・葛木両峯斗藪、観音三十三所、海岸大辺路、所々巡礼水木石、天壇伝法、長日供養法、護摩八千枚修行者、為法界四恩令加善云々、
後日将続之人々(梵字ア)(梵字ビ)(梵字ラ)(梵字ウン)(梵字ケン)」金剛資某云々、熊野山長床末衆
ここからは次のようなことが分かります。
①嘉慶二年(1388)の年紀がある
②この巻の筆者は宴氏房宴隆
③宴隆は「三宝院末流」の「熊野山長床末衆」(山伏)
④自分の修行遍歴を、次のように記しています。
①瀧山千日
②大峯(大峰山)・葛木(葛城山)両峯斗藪
③西国観音三十三所
④海岸大辺路(四国大辺路?)
⑤所々巡礼水木石(?)
 宴隆は以上のような修行遍歴を積んだ上で、この地にやって来て大般若経の書写に参加したことが分かります。この中で研究者が注目するのは④の「海岸大辺路」です。平安時代末期の『今古物語集』巻三十一「通四国辺地僧行不知所被打成馬第十四」には次のように記します。

 今昔、仏の道を行ける僧三人伴なひて四国の辺地と云は 伊予讃岐阿波土佐の海辺の廻也。

ここからは、仏教修行者3人が、四国の海辺の道を廻っていたことが分かります。それが「四国の辺地」といわれていたようです。同じく平安時代末期の『梁塵秘抄」巻2の三百一には、次のように記します。

われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしはたれて、
四国の辺地をぞ常に踏む.
 
意訳変換しておくと

われらの四国修行の様は、忍辱袈裟(にんにくのけさ=あらゆる侮辱や迫害に耐え忍び、恨みを持たない精神性を、身を守る法衣)を肩に掛け、笈を背負い、衣はいつとなく破れ、四国の辺地を常に歩くことだ

ここからは修行者が笈を背負い、衣に塩が垂れるほど潮水をかぶるような四国の辺地を巡っていたと記します。平安時代後期には、海辺を廻る修行者が四国にやってきて、修行を行っていたようです。具体的な辺地修行の行場は、次のような所です。
①辺地修行の地として海辺や海を望める山、
②修行のできる巨巌や岬経塚があり、さらに窟籠りのできる洞窟
このような四国の辺地での修行が「四国辺地 → 四国辺路 → 四国遍路」という風につながって行くと研究者は考えているようです。
こうして見ると宴隆が修行地履歴に記す「海岸大辺路」は、「海岸=四国」で、後の四国遍路の原型となる「四国大辺路」を指しているようです。熊野行者の修行場リストには、「両山・四国辺路十斗藪」「滝山千日籠」や「両山斗藪、瀧山千日、笙巌屈冬籠、四国辺路、三十三ケ所諸国巡礼」と記されることが多いようです。大峰・葛城山系での山林修行と「四国辺路」はセットとなっていたこと、さらに、「観音三十三ケ所諸国巡礼」も、彼らの必須修行ノルマであったことが、ここからはうかがえます。どちらにしても、宴隆は各地の行場を訪れて、修行を重ねていたプロの修験者だったことを押さえておきます。

勧善寺 巻210
              勧善寺大般若経 巻210の奥書

 巻210巻です。この奥書にも「金剛資宴氏房」とあります。同じ大般若経の巻201に「宴氏房宴隆金剛資」とあり、巻206には「金剛資某」とありますが、これらは宴氏房宴隆のことで同一人物と研究者は判断します。
 宴隆は自分の所属寺院を「三宝院末流」の「熊野山長床衆」と記します。
三宝院とは聖宝が開いた醍醐寺三宝院のことで、近世には修験道当山派の拠点となる寺院です。また熊野山長床衆の「長床」とは、護摩壇の別称で、いつしか熊野修験者たちの拠点とする堂舎を指すようになります。ここからは宴隆が「醍醐寺三宝院の末寺 + 熊野山長床衆」の一員であると名乗っていることになります。彼は熊野行者で、醍醐寺の真言僧侶でもあったことが分かります。推測すると彼に中には「熊野信仰 + 弘法大師信仰 + 聖宝信仰」があったと思われます。
宴隆がかかわった巻について見ていきましょう。
宴隆の名前が記されているのは巻201~206、208、210の8巻のようです。その中で巻201・204の2巻は、経文と奥書が同筆なので、宴隆自身が写経したようです。しかし他の6巻は、経文と奥書の筆跡が異なると研究者は指摘します。そこで研究者が注目するのが、巻202・210の奥書です。そこには次のように記されています。
(巻202)
宴氏房宴降
宇嘉慶元年霜月一日  後見仁(人)光明真言 澄弘三十八
(巻210)
金剛資宴氏房
於阿州板西郡吉祥寺書写畢 右筆侍従房禅齊
ここでは巻202には「後見仁(人)」として澄弘が、巻210には「右筆」として侍従房禅斉がそれぞれ名を連ねています。ここからは宴降の呼びかけ(勧進)に澄弘や禅斉が賛同(結縁)し、経巻を書写・本納したことがうかがえます。ここで注意しておきたいのは、巻210は「板西郡吉祥寺(現在の板野町西部」で、大粟山(神山町)の外で書写されていることです。ここからは宴隆が大栗山に留まっているのでなく、阿波国内を移動して活動していたことが分かります。巻208以外にも、経文と宴隆による奥書の筆跡が違う巻があります。これらは二巻と同じような写経形態がとられたようです。
 以上からは、宴隆は自分で写経を行うとともに、書写勧進も行うなど、大般若経書写事業に深くかかわっていたことがうかがえます。そんな人物がどうして、勧善寺にいたのでしょうか?

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焼山寺
  大粟山と焼山寺
 宴隆が大栗山(神山町)の住人だったかどうかは分かりません。しかし、熊野長床衆であることから、熊野行者として熊野と阿波の間を往来していたことは確かです。先達活動を行う熊野行者だったかも知れません。そのため熊野詣でを通じて、地域を越えた行者(真言僧侶)の知人も多く、人的なネットワークを持っていたことが考えられます。そのネットワークが書写活動に活かされていたのです。これは、与田寺の増吽の場合と同じです。増吽から約百年後のことになります。
 もうひとつの謎は、宴隆の出自です。
彼はこの地の出身ではなく、外から入り込んだ可能性があるようです。そうだとすると、どうして大栗山にやってきたのでしょうか? そこで周辺を見回すと、近くに四国霊場十二番札所の焼山寺があります。この寺は大栗山の山ひとつ東にあります。

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焼山寺の大師像
 「阿波国大龍寺縁起」(13世紀後半成立)には、「悉地成就之霊所」を求めた空海が、「遂阿波国到焼山麓」で修行を行ったとされる聖地で、そのため弘法大師伝説の聖地として、修験者には憧れの地になっていたことは以前にお話ししました。
また、『義経記」(14世紀成立)の「弁慶山門(を)出る事」に、弁慶が阿波の「焼山、つるが峰」を拝んだとあります。ここからもこの山が阿波国でも有数の霊山としても知られていたことがうかがえます。
焼山寺の性格を考える上で参考になるのが、同寺所蔵「某袖判下文」(正中二年(1325)です。
(袖判)
下 焼山寺免事
 合 田式段内 一段 一段 (蔵王)権現新免 虚空蔵免
 蔵王権現上山内寄来山畠内古房□東、任先例、
蔵王権現為敷地指堺打渡之畢、但於四至堺者使者等先度補任状有之、右、令停止万雑公事、可致御祈蒔之忠勤之状如件、
正中二年二月 日                                     宗秀
ここには焼山寺に対し、田一反に賦課される万雑公事の免除と祈祷の命令が行われています。田の内訳は「権現新免」「虚空蔵新免」の各一反です。この文書に蔵王権現堂のことが記されていることから、新たに免田が設定された「権現」は蔵王権現だと分かります。このように14世紀の焼山寺では、 信仰の核は蔵王権現と虚空蔵菩薩であったようです。現在もこの寺の本尊は虚空蔵菩薩で、焼山寺山にある奥の院に祀られているのは蔵王権現です。

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焼山寺奥の院 蔵王権現を祀る

役行者・蔵王権現像の登場と修験道の成立

蔵王権現が、役小角とセットで修験者の信仰を集めるようになるのは、古代のことではなく中世になってからのことです。それは役行者が中世以降に修験道の開祖に仮託された後のことです。同時に蔵王権現の信仰は、山岳修行僧と深くかかわっています。
 
焼山寺 虚空蔵菩薩
         焼山寺の本尊 虚空蔵菩薩 (修験者の手造り感が強い)

 また、虚空蔵菩薩については、空海がその著『三教指帰』において、若い頃に焼山寺で虚空蔵求聞持法を修したと記しています。それを弘法大師行状絵詞は次のように記します。

空海の山林修行

こうして真言系修験者たちからは「焼山寺=若き空海の行場=聖地」として捉えられるようになります。これは善通寺の我拝師山が「空海の捨身行の行場として人気があったのと同じでしょう。歌人で有名な西行も我拝師山にやってきて、庵を結んで修行しています。同じような行動パターンととしておきます。真言宗では弘法大師にならって虚空蔵求聞持法を行う山岳修行者が多かったようです。こうして虚空蔵菩薩信仰と修験道の関係も深くなっていきます。
以上から鎌倉時代後期頃の焼山寺は、「弘法大師 + 蔵王権現 + 虚空蔵菩薩」という信仰対象が並立する霊山で、真言系修験者からは人気の行場であったとしておきます。このような修行聖地は醍醐寺三宝院流の山伏である宴隆を惹きつける力があったのでしょう。そのため多くの修験者たちが宴隆のように、周囲の堂や庵に生活していたことが想像できます。同時に、彼らは熊野行者として先達業務を生業としていたことが考えられます。

勧善寺 と焼山寺地図

  さらに、焼山寺には次のような熊野信仰の痕跡も残ります
①は鎌倉末期から室町時代にかけての熊野系懸仏
②澄禅の「四国辺路日記」には、焼山寺は「鎮守は熊野権現」と記される
このように焼山寺に残る熊野信仰の痕跡は、宴隆のような熊野行者の活動の反映かも知れません。そういう目で見れば先ほど見た巻208奥書の記述は、熊野行者としての宴隆の活動を記したものとして自然なものと納得が出来ます。
 熊野行者としての宴隆は、どんなルートで熊野へ詣でていたのでしょうか?

中島田遺跡は、この「倉本下市」の集落

 中世阿波の熊野信仰は、吉野川水運と深く関係していると研究者は指摘します。大栗山は吉野川の支流である鮎喰川の上流になります。この川を下ると阿波国府に出れます。鮎喰川が大栗山と外部の世界をつなぐ道でした。勧善寺大般若経の巻321奥書には「嘉慶 2年(1389) (中 略)阿州名東庄倉本下市」と記されています。ここからは南北朝末期の頃に、現在の徳島市蔵本町付近に市が立っていたことが分かります。このことは中島田遺跡に近接する「倉本」の地が、荘園市場 として機能 していたと同時に、この地が交通上の要地にあり、物資の集散が活発に行われていたことを示しています。それを裏付けるのが、国産・大陸産の陶磁器をはじめ、豊富な出土遺物が出てきて、鎌倉時代後期から南北朝時代における阿波の流通の様相が知られる中島田遺跡です。この遺跡が「倉本下市」と研究者は考えています。ここでは、鮎喰川が人や物資の往来の道としても機能していたことを押さえておきます。宴隆も先達として熊野へ詣でるときには、檀那衆をつれて鮎喰川を下って、吉野川河口に出て行ったとしておきます。
勧善寺の大般若経が完成して約50年を経た天文21年(1552)の「阿波国念行者修験道法度」を見てみましょう
この史料は、阿波国北部の十九か寺(坊)に所属した「念行者」といわれる有力山伏の結合組織があったことを示すものです。これらの山伏は熊野先達でもあり、それぞれの所属する寺院(坊)は熊野信仰にかかわったものが少なくないとされます。従来は、寺院(坊)の分布が古野川下流域を中心にあることが強調されてきました。

勧善寺 地図
 しかし、視点を変えて大栗山との関連という視点でみていくと、鮎喰川流域の密度が高いことに気付きます。下流から挙げると、田宮妙福寺、蔵本川谷寺、矢野千秋房、 一之宮岡之房、大栗阿弥陀寺の五か寺(坊)があります。これは、鮎喰川やその沿岸が熊野信仰の道でもあったことを反映しているようです。当然、そこは熊野系山伏らの活動エリアでもあったのでしょう。
以上からも、大栗山への熊野信仰の浸透に、鮎喰川の果たした役割は大きいといえます。そうすると

大栗山―鮎喰川―吉野川―紀伊水道―紀伊半島

というコースが、宴隆が熊野への道としてたどったルートになります。

神山町に残る勧善寺所蔵大般若経巻208奥書は、当時の熊野行者の活動と熊野信仰の浸透、それが四国霊場焼山寺に与えた影響を考える上での根本資料であることが分かります。
以上をまとめておきます。
①勧善寺の大般若経は、嘉慶二年(1388)に、熊野行者の宴隆につながる行者ネットワークの手で作られた。
②宴隆は「弘法大師信仰 + 虚空蔵信仰 +熊野信仰 + 聖宝信仰」を持ち、各地の行場で修行を重ねた真言系修行者であった。
③宴隆は、熊野詣でなどで培った行者ネットワークを利用して、宍喰川流域の行者たちに書写を呼びかけた。
④宍喰川流域は、四国霊場で若き空海が虚空蔵求聞持法を修したとされる焼山寺があり、多くの行者たちが集まってくる行場の聖地でもあった。
⑤また宍喰川と吉野川を通じて、阿波の国府や海瑞城などともつながり人とモノが行き来していた。
⑥戦国時代に入って社会混乱が深まり熊野詣でが衰退すると、宍喰川流域の修験者たちは、誘引先として石鎚や剣山へと転換し、庚申信仰などを通じて里への定住をはかるようになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 長谷川賢二 熊野信仰における三宝院流熊野長床衆の痕跡とその意義
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