瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:牛屋口の狛犬

1 金毘羅 伽藍図2

前回に続いて金毘羅さんの狛犬を見て歩記(あるき) します。
訪れるのは「金毘羅庶民信仰資料集2」に紹介されているように古い順なので、場所が前後しますが悪しからず。よろしけらばおつきあいください。

 大門前の狛犬  河内国全域の村々から享和元年(1801)に奉納
 こんぴらさんへ交通安全のお守りを買いに②金刀比羅宮の表参道 | 土佐 ...
石段を登って行くと両側のお土産店の上に大きな建物が見えてきます。その前には下乗の木札が建ちます。これが大門で、かつての仁王門です。しかし、神仏分離で仁王様は撤去され焼かれてしまい、大門と名前が変わりました。今は参道をはさみ狛犬が向かいあっています。
1 金毘羅 大門狛犬11
 
右側(阿)
〈基壇一段〉
正面 大坂谷町二丁目
   世話人
   亀屋善兵衛
〈基壇二段〉
正面 堂島涜二丁目
   大塚屋宗八
   舟橋村松永氏
   鴻池新田
   箕輪村弥三兵衛
   同村 弥三右工門
   八尾座村塚口源七
   川辺村源右工門
   河湯油方
右面 河州
右面 長田村源三右ヱ門
   同村市兵衛
   稲 田 村
   高井田村
   上若江村善左ヱ門
   下若江村彦兵衛
   小坂合村
   菱屋新田
   三島新田
   萱 振 村
   御 厨 村
   稲葉村善助
左面 享和元辛酉十月吉日
左面 川辺村田中氏
   水本村元右ヱ門
   毛人谷村茂八
   箕南備幸右ヱ門
   南別井村
   北別井村
   山 城 村
   伯 原 村
   市村新田七良兵衛
   二俣新田
   安中新田右ヱ門
   中山村甚右ヱ門
裏面 木戸村徳兵衛
   松原村半左ヱ門
   岩 室 村
   今 熊 村
   円 明 村
   太田村七良左ヱ門
   長田村妻右ヱ門
   近江堂村
この狛犬は、高さ三尺余と大門前におかれる狛犬にしては少し小ぶりな印象です。しかし、形は小さくとも基壇に「河州」と大きく二文字が彫り込まれています。河州とは河内国のことで、河内国全域の広い範囲の村々の名前が基壇には見えます。これらの村々から享和元年(1801)に奉納されたもののようです。
 銘文中に「菱屋新田」「三島新田」「鴻池新田」というのが見えます。これは、元禄17年(1704))に行なわれた大和川つけかえ工事の後の旧大和川筋や、深野池・新開池を埋め立てて出来た新しい村だそうです。中でも宝永四年(1707))に大坂の豪商鴻池善右衛門によって開発された鴻池新田は200町歩(約二平方キロメートル)におよぶ広大なものでした。このような新田開発で開かれた耕地には、稲作が行われるのではなく、綿花が栽培され有名な河内木綿の産地になります。
 北前船が運んでくるニシン粕などの金肥を使えば使うほど、良い綿花が大量に出来たと云います。ニシン粕などの金肥なしでは、綿花栽培はなかったのです。讃岐のサトウキビ栽培と同じように、北前船への依存度が高かったようです。東讃の砂糖産業に関わる農民たちが高灯籠を寄進するように、河内の木綿産業に関わる人たちにも金毘羅信仰が広がっていたことがうかがえます。
2

 正面基壇の一番最後にある「河州油方」とあるのは、灯油用の油を商った人々のことだそうです。
北河内地方は、米の裏作として菜種の栽培もさかんで、菜種から絞りとっだ種油は灯油用として大坂に集められ、多くは江戸への「下り物」となっていたようです。このように河内地方の村々は「天下の台所」の大坂に近く、はやくから大坂と結びついて、農村とはいっても貨幣経済が浸透していました。この狛犬の世話人大坂谷町二丁目の亀屋喜兵衛がどういった人かは分からないようです。しかし、大坂の町場だけでなく河内の村々から寄附を集めているのは、新田開発などで潤う村々の経済的な発展があったことがうかがえます。
 なお、この狛犬には頭に角がなく、獅子です。大門は神仏分離以前は、松尾寺の仁王門で仁王像が立っていました。寺社であったので、その前に狛犬でなく獅子が置かれたのでしょう。
1 金毘羅 真須賀神社1

                      真須賀神社の狛犬 
 真須賀神社は、賢木門をくぐってまっすぐに進んだ突き当たりにある摂社です。もともとは神仏分離以前には、ここには不動明王を本尊とする本地堂が建っていました。したがって、この狛犬もどこかからここへ移動してきたようです。

1 金毘羅 真須賀神社狛犬12

右側(吽)          
 正面 紀州   壽永講   若山(和歌山)   
右面 願主
    日高屋平左衛門
   元掛世話人
    有田屋文右衛門
   世話人
    粟村屋禰兵衛
    駿河屋荘兵衛
    船所村新九郎
    桶屋助五郎
    有本村徳三郎
    田中屋楠右ヱ門
    山東屋傅蔵
    雑賀屋清蔵
裏面 南紀和歌山住
    石工 辻 林蔵
〈基壇二段〉
裏面 富所取次 備前屋幸八
この狛犬は右が口を開いた阿、左が口を閉じた吽で頭上に角があります。獅子と狛犬で一対をなす一般によく見られる狛犬のペアです。奉納は「紀州若山(和歌山)」の「壽永講」で、文化七年(1810)に奉納されています。
 石質は大門前の狛犬と同じ砂岩です。大阪府と和歌山県の境には、和泉山脈が東西に横たわり、中世以来、ここから和泉砂岩の良質の石材が切り出されてきたようです。そのため和泉地方には、石工も多くいました。この狛犬の作者、石工辻林蔵のいた和歌山市の石工については、よく分かりません。しかし、和泉地方の石工と交流があったようで、先ほど見た大門前の狛犬と真須賀社の狛犬は全体のプロポーションや前後の肢の表現がよく似ていると研究者は考えているようです。
1 金毘羅 賢木門狛犬1
  賢木門前の狛犬 
   この狛犬は、賢木門前の石段の左右に向かいあっています。
1 金毘羅 賢木門狛犬21

 基壇2段目の正面に発起人の名古屋の藤屋松兵衛・同瀬戸物方と飛騨高山の井筒屋源左工門があります。そして3、4段目には、「尾州名古屋」を中心に、「大坂」「信州飯田」(長野県飯田市)「濃州高山」「江州」「東部」「東都」と非常に広い範囲の人々からの奉納です。どうやってこれらの人々からの寄進を集めたのか、その人的なネットワークに興味がわきますが資料はありません。
 「明治三年十月吉日」とありますから、神仏分離直後の十月十日の大祭にあわせて奉納されたようです。この狛犬は、この賢木門くぐった先にある前回紹介した遥拝所の狛犬と非常によく似ていると研究者は指摘します。遙拝所の狛犬は、天明元年(1781)に松江惣講中から奉納されています。こちらは明治3年ですから約110年後のものになります。狛犬の高さは、この狛犬のほうが五寸程大きいようです。しかし、全体のプロポーション、なかでも特徴あるたてがみや尾の毛束の手法、狛犬をのせる円形の台座や牡丹の彫り物などは共通します。さらに石質も共に凝灰岩製ですが、賢木門前の狛犬のほうが若干簡略化されているようです。110年前に奉納された狛犬をモデルに、江州で作られたのかもしれません。
  この賢木門前の狛犬の基壇には「石工久太良」とあります。
久太良(久太郎)は地元琴平の石工で、幕末から明治にかけて金毘羅さんに奉納された石造物を数多く手がけた名工です。しかし、ここでも久太郎が関わったのは台石だけで、狛犬は完成品が持ち込まれています。硬質の花崗岩と軟質の凝灰岩では、彫る技術も、道具も異なるようです。久太郎のつくった石造の奉納物はみな花崗岩製です。独特の様式および石質の類似性から考え、賢木門前の狛犬も、雲州地方から完成品を運んできたと研究者は考えているようです。
 この狛犬のように基壇だけを地元の石工がつくる例は、青銅製の燈龍や狛犬、あるいは一部の石造の狛犬に見られます。その方が運送の手間を省くことが出来ます。
1 金毘羅 三穂津姫社の青銅製狛犬g

                        三穂津姫社の青銅製狛犬
 三穂津姫社の社前にの青銅製の狛犬です。
1 金毘羅 三穂津姫社の青銅製狛犬21g

 右が口を開いた阿、左が口を閉じた吽であるが頭上に角は見えません。全体に細身で、それがかえって精悍な印象をあたえています。製作は青銅器具の製造で全国に知られる富山県高岡市の竹中製作所です。青銅製の台座の銘文には、愛知金明講が昭和四十八年十月に参拝百年を記念して奉納したことが刻まれています。
1 金毘羅 三穂津姫社の青銅製狛犬1g

 愛知金明講は、幕末、今の愛知県西春日井郡西枇杷島町に住む佐藤定蔵が、目の病いに罹り金毘羅さんに祈願したところ、お蔭があって全快します。それで金毘羅さんへの信仰を深めると同時に、周囲の人々にも勧めて金明講をつくったのがはじまりで、六代定蔵さんまで金明講の講元は代々佐藤家がつとめたようです。
 西枇杷島町は濃尾平野のほぼ中ほどで、名古屋市に隣接するという地の利もあって金毘羅講は急速に発展し、大正のはじめ頃の三代目定蔵が講元のとき「愛知金明講」「名古屋金明講」「乙金明講」に発展分化したようです。金明講は団体参拝をするので、講員が多くなりすぎると参拝が難しくなるようです。適度の人数というのがあるようです。
 講元として名前が彫られている定蔵は、初代定蔵から六代目、講元としては五代目になるようです。
彼が講元を勤めた戦前は300人、昭和30年には専用列車で500人の参拝者を出したといいます。しかも、昭和39年までは現在のように十月十日の大祭だけでなく、三月十一日の春祭にも参拝していたようです。もっとも参拝者は全員が講員というわけでなく、希望者があれば自由に参加することができるシステムだったようです。そのため毎年参拝をくりかえす講員よりも、何年かに一度、講の参拝に加わる人が多かったと云います。こうした参拝者の構成は、狛犬奉納者についても同じことがいえるようです。
 銘文には、発起人9人、世話人22人、功労者21人と、会社名などを含め451人の奉納者名があります。発起人は世話人と同じく、狛犬奉納に関して寄附を集めるなど実務的な世話をした人々で、高額寄附し奉納推進に大きな功績をはたした人々です。また、功労者はかつての世話人たちで高齢者が多いようです。彼らの師弟が発起人となっている人もいます。
 私は寄附したのは、ここに名前の刻まれている人たちだけだと思っていました。ところがそうではないようです。銘文を彫る場所の都合で彫られなかった人々が、数多くいるのです。そのために、狛犬の台座のなかには寄附者全員の名を書いたものが納められているそうです。その数は約800人といいます。こうしたなかには、奉納の呼びかけで講員ではないけれども、参拝に参加した人などが寄附をしたようです。 愛知金明講は、代々の講元、および世話人といった人々の努力によって維持されてきたようです。
 愛知金明講からの奉納は、この狛犬に限らないようです。琴電琴平駅前の大宮橋詰の高さ15㍍のの大鳥居は、参拝50年の記念に建てられたもので金刀比羅宮に奉納された鳥居としては最大のものです。こうした奉納が行われたのは、遠い愛知県に金毘羅信仰が根付いていたからこそでしょう。

1 金毘羅 高灯籠1
              高灯籠の丸亀街道の狛犬                       
 高燈龍のすぐ東側、丸亀街道の旧金毘羅領入口にいる狛犬です。
もともと、ここは丸亀から4里の位置で、一里塚の大松が参拝客を迎えた場所です。丸亀街道をやって来た人たちにとっては金毘羅の町の入口でもありました。そのためここには、天明八年(1788)に奉納された青銅製の「金鳥居」が建てられました。この金鳥居は名物となり、金毘羅の町を描いた一枚刷りの絵図にも、良く描かれています。幕末には、ここに高灯籠が姿を見せ、一里塚の大松や金灯籠とともに描かれるようになります。
1 金毘羅 高灯籠1

 「泉州堺」(大阪府堺市)の富貴講による奉納で、篭屋伊兵衛と池宮九兵衛が講元です。篭屋内中・米荷廻船中・南薪中買仲・柳力世話中など、名前を見ているだけでもさまざまなな職種の人々が参加していることが分かります。総数は122名だそうです。
 この狛犬は寛政七年(1795)の奉納ですから黒い金鳥居ができて7年後に、寄進されたようです。以後、この狛犬を起点にして街道沿いには富士見町にいたるまで灯籠が並んでいくことになります。その灯籠建立のスタートを告げる狛犬です。しかし、この付近の灯籠は、砂岩が使われているので欠損がめだちます。


  JR琴平駅前の狛犬     多度津街道の入口にあったもの
文化・文政の頃河内楠葉栄講の奉納した狛犬(阿)
1 金毘羅 JR駅前狛犬1

 右側(阿)
 〈基壇一段〉 右面 河州楠葉さかへ講
 〈基壇二段〉
  右面 中村屋半左ヱ門
  左面 取次新町  大工荘右ヱ門
     大坂取次  多田屋新右ヱ門
     丸亀船宿  大和屋傅次郎
     石工    丸亀  中村屋半左ヱ門
 この狛犬は、もともとは多度津街道の金毘羅入口にいましたが、今はJR琴平駅前広場に移されています。狛犬は砂岩、基壇は花崗岩です。 
1 JR琴平駅前狛犬

「河州楠葉」の「さかえ(栄)講」からの奉納です。楠葉は京都との県境に近い淀川沿いの村で、今は大阪府枚方市になるようです。石工は丸亀の中村屋半左ヱ門ですが、紀年銘がありません。取次の大坂船宿多田屋新右工門と丸亀船宿大和屋傅次郎の二人は、金毘羅山内に奉納された石燈に取次として共に名前を連ねていますので、だいたい19世紀前半の文化年間の奉納と考えられます。

1 金毘羅 備前焼狛犬1
  備前焼の一ノ坂口の狛犬               
 一ノ坂の登り口(札ノ前)のもと鉄製の鳥居が建っていたすぐ後脇に据えられている狛犬です。 右が阿、左が吽で頭上に角をはやした通例の狛犬です。高さが約五尺の大きなものですが、通常と違うのは備前焼で作られていることです。奉納は備前岡山の「長柴講」で、紺屋町講中・久山町講中他、69名の名前が見られます、天保十五年(1844)に奉納されたものですが、基壇には天保十三年(1842)の紀年銘があるので、基壇が先に出来ていたようです。
 備前焼は、岡山県備前市伊部を中心に古くからつづいた焼物で、壷を中心にさまざまなものがつくられてきました。備前焼の狛犬もその一つで近世、岡山を中心に数多く残されているようです。この狛犬は、伊部の木村長十郎他六人の細工人によってつくられたようです。彼らは木村一族の人々で、長十郎は金毘羅の他、岡山市の高松稲荷の狛犬にも細工人として名前が残っているようです。
1 金毘羅 備前焼狛犬1
   右側(阿) 
    〈狛犬の左腹部刻名〉    正面
     備前國
      伊部村御細工人
       木村長十郎友直
       同新七郎貞泰
       同儀三郎貞幹
     天保十五年
       辰三月吉旦   作
 
  牛屋口に建つ寛政六年(一七九四)の石鳥居の前の砂岩の狛犬
1 金毘羅 牛屋口狛犬1

「西條新居郡多喜潰」(愛媛県新居浜市多喜浜)の岡本政治郎が個人で、弘化二年(1845)に奉納しています。基壇部に石工銘があり、愛媛県川之江市の泉屋清兵衛と分かります。猫足を形どった二脚の基壇は、ユーモラスで独特な感じがします。
1 金毘羅 牛屋口狛犬12
以上、金毘羅さんの狛犬めぐりでした。おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 参考文献 印南 敏秀  狛犬 
              「金毘羅大権現信仰資料集NO2」

牛屋口の並び燈籠は、誰が奉納したのか

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伊予土佐街道は,金毘羅さんの石段中腹の坂町から別れ、谷川町筋を旧墓に沿って谷道を登る。この道はカゴノキやカシの巨木に鬱蒼とおおわれ昼でも暗く、時代劇にすぐにも使えそうな雰囲気を残していた。しかし、資生堂のレストラン「椿」の営業と共に道路が舗装され、通行には便利になったが時代劇に使われる雰囲気ではなくなった。残念だ。

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 登り詰めたところが,象頭山と愛宕山との鞍部,172mの牛屋口峠。(別名 御使者口・西口)
 バブルの時代に金比羅方面に急ぐ坂本竜馬の銅像が建てられ、今ではGooglマップには「牛屋口 坂本龍馬像」記されている。その道をレストラン「椿」に向かう車が走り抜けるようになった。時代が流れて行く。

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 ここは江戸時代には土佐・伊予方面から来た参拝者がはじめて金毘羅領に入る所で、茶店なども軒を並べていたという。今も鳥居、狛犬が建ち、並燈が並び、その景観をとどめている所だという。
 これだけの景観からその賑わいを想像するには、相当の想像力が必要だ。まあ、鳥居をくぐって並ぶ燈籠を眺めながら想像力が羽ばたき始めるのを待とう。

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 整然と同じ凝灰岩から同規格で大量生産品のように並んでいる燈籠。金毘羅さんの境内にある大型で手の込んだものとは趣を異にする。
これらはいつ、どんな人たちがたてたのだろうか。

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燈籠のひとつひとつを見ていくといろいろな情報が見えてくる。
ここには、団灯籠 の職域名・地域名 ・講名 ・年代・世話人などが刻まれている。また、献灯者の職業をうかがうこ とができる場合もある。どんなことが分かるのか。見ていくことにしよう。
1 まず奉納者は、どこの人たちか? 
ほとんどが高知県の人たちで、高知市を中心に県中央部にひろがっている。燈籠の竿正面には、
高知講中、材木町講中、梅田橋講中、後免講中、朝倉町講中、押岡講中、鄙野西講中、鄙野村講中、神田・土崎講中、本山多野郷講中、田井講中、中嶋講中、汗見川講中、西和食浦・西分村講中
などの講地名が刻まれている。

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それでは最も多く建立している地域は?
ここには柏栄連と刻まれた燈籠が並ぶ。柏栄連とは伊野で組まれた講名で、12基の燈能を奉納しており、これが最も多い。和紙生産と流通を背景とした当時の伊野の経済力を物語っている。伊野という地域のなかで金毘羅講が高い密度で組織されていたようだ。

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次に多いのは、高知通町。一・二・三・四丁目のそれぞれから一基ずつ奉納している。この講名は長栄講である。金比羅講とはなに?
                                      
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先ほど紹介した伊野の商人たちが組織したのが「柏栄連」である。
例えば江戸千人は、丸亀京極藩が新堀掘鑿のために、江戸商人の金毘羅信仰を利用し、献灯を呼び掛け、その寄金募集のために組織された。世話人は江戸の有力出入商人5名で、わずかの間に講員が3800人にもなり、預金が3000両を越えたという。 これにより天保6年には、丸亀新堀の築造が完成し、さらに海上安全に供する青銅製灯籠の献納も行われたという。
土佐の奉納者の個人的な性格が分かるものは? 
 高知市の下稲荷新地の花山講中には皆登楼、松亀楼などの楼名が記されている。「稲荷新地」は、「玉水新地」とともに高知の二大歓楽街であったところで、遊郭の主人が集まって奉納したようである。

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 荊野村中奉納の燈寵には、世話人6名と、講員20名人の名前が見える。その講員のなかに士族四人が混っている。この村では金毘羅講が維新前からあり、士族と百姓が同じ講中に属していたのかもしれない。土佐藩は、郷士を村に住まわせ土着性が強かったから、郷士と農民で講をくむことがあっだのかもしれない。奉納にいたる事情がいろいろと想像できて楽しくなってくる。
燈籠はいつ頃、奉納されたものなのか?
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 燈籠に刻まれた年代は、一番早いものが明治6年、最後のものが明治9年。わずか4年の間に69基の燈籠が作られた事になる。
年に20基弱のハイペースだ。なぜ、明治初年に土佐の人たちによって短期に集中して作成されたのか?
 
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それは幕末から維新への土佐藩の土・民の各界での躍進を背景にしているのではないか。明治2年から3年にかけて四国内の13藩が琴平に集まり、維新後の対応について話し合う四国会議が開かれた。そこで主導的立場をとっだのは土佐藩であり、徳川幕府の親藩であった伊予の松山藩や、讃岐の高松藩とは政治的立場が逆転した。こうした政治・社会的情況が石燈龍奉納に反映されているのではないか。

それまで伊予土佐街道の燈籠・道標は、松山からの奉納が大部分であった。維新を境に、土佐の燈籠が短期間に並び立つようになる。
明治維新における土佐人の「俺たちの時代が来た。俺たちが四国を動かす」という意気込みが伝わって来そうだ。
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しかし、金毘羅街道に燈籠が寄進され、夜道を明るくし人々を琴平へ導いたのもわずかの期間であった。新しい主役が登場する。
まずは、四国新道。そして鉄道。
この二つにより旧琴平街道は歴史の裏に、立たされていく。
時代が廻ったのだ。
庶民の金毘羅さんに対する信仰のあかしを石燈龍として私たちに伝えてくれる。
参考文献 金比羅庶民信仰資料集第3巻 



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