瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:牛額寺薬師堂

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弥谷寺本堂からの眺め
弥谷寺石造物の時代区分表
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院の墓地で弥谷寺産の天霧石で五輪塔が造立される時期
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所で石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが造立される時期
Ⅳ期(17世紀後半) 外部産の五輪塔・墓標の出現、弥谷寺産石造物の衰退
V期(18世紀初頭から1830年頃) 外部産の地蔵刻出墓標が造立される時期
Ⅵ期(1830年以降)  外部産地蔵刻出墓標の衰退
Ⅳ期は、生駒騒動で生駒氏が讃岐を去った後の17世紀後半になります。
この時期は、弥谷寺で石造物が造られなくなり、外から搬入が始まります。つまり、弥谷寺での採石活動が衰退・終焉する時期になります。

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弥谷寺本堂西側の山崎氏墓所五輪塔群

 外から運び込まれた初期のものは、本堂西の山崎氏墓所五輪塔群と法雲橋西にある墓標です。
これらは17世紀中頃の花崗岩製で、天霧石で造られたものではありません。外から運び込まれたことになります。

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中央が慶安4年(1651)没の山崎藩2代目の志摩守俊家のもの

丸亀藩藩主の山崎家墓所五輪塔群の3基を見ていくことにします。
①右が寛永14年(1637)没の山崎志摩守祖母
②中央が慶安4年(1651)没の山崎志摩守俊家
③左が慶安4年(1651)没の大宮四郎衛門尉
①の山崎志摩守祖母の塔が弥谷寺最古の紀年銘資料で、同時に最初の外部産石造物になるようです。年号は没年で、造られた年ではありません。山崎氏は生駒騒動後に讃岐がふたつに分けられた後の寛永18年(1641)に、丸亀城に入封します。そのためそれ以後に造立されたものになります。

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③の慶安4年(1651)没の大宮四郎衛門尉の五輪塔

ここで研究者が注目するのは、この3つの五輪塔の石材です。
石材は左右の①③塔が兵庫県御影石製で、中央②の山崎志摩守俊家のものだけが非御影石の花崗岩製のようです。ここからは、これらの五輪塔が弥谷寺で造られたものでなく、外部から持ち込まれたことが分かります。前回にⅢ期には、香川氏一族の宝筐印塔や生駒一正の五輪塔など天霧石製で、弥谷寺の石工集団によって造られたことを見ました。
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山崎藩の家紋
 17世紀後半になると花崗岩製墓標が流行するようになります。
そんな中で、山崎藩は凝灰岩製をの天霧石を使う弥谷寺の石工たちに発注せずに、花崗岩製の五輪塔を外部に注文していたことになります。天霧石製の石造物は、時代遅れになりつつあったことがうかがえます。

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         山崎志摩守祖母の五輪塔
 一番早く造られたと考えられる山崎志摩守祖母塔の特徴を、研究者は次のように挙げています。
①は、空輪と風輪間に首部が見られないこと
②空輪の突起下端部に下位との明瞭な屈曲点があること。
③基壇の反花坐が和泉石石造物からの系統を引くモチーフであること
以上から寛永期の特徴を備えているので、入封して間もない寛永年間(1640年代)に造立されたと研究者は考えています。②③の2基は、空輪と風輪の間に首部が形成され、基壇の反花坐は17世紀後半に多いモチーフなので、17世紀中頃~後半の造立とします。
 山崎藩2代藩主の志摩守俊家は1651年10月に35歳で、丸亀で亡くなっています。山崎家の墓所は京都瑞光院で、俊家の本墓もここにあります。弥谷寺や高野山竜泉院にあるものは供養塔と研究者は考えています。そのため弥谷寺の五輪塔建立は、高野聖が活動拠点としてきた弥谷寺が建立を勧め、死後何年か後になって、祖母の五輪塔が建てられた弥谷寺本堂横に建てらたものかもしれません。その際にも、弥谷寺の石工には発注されていません。
次に法雲橋西の墓標(第56図)を見ておきましょう。  

弥谷寺 法雲橋西の墓標

この墓標は、上半部が欠損した竿石残欠です。竿石下端部にはホゾが見られ、17世紀以前の特徴がうかがえます。正面掘り窪め内に銘文が見られ、上の拓本には次のように記されています。

「宗祐 承応四年(1655)二月廿二日 妙意逆修善根」

忌日過去帳に被供養者の記載が弥谷寺に残っていて、宗祐は「桂月宗祐信士」で施主が笠蔦屋藤右衛門母とあります。一方、妙意は「一月四日」の月日と「自覚妙意信女」の戒名があり、施主が円(丸)亀笠嶋屋清左衛門室とあります。墓標の形式は戒名・年号のある掘り窪めの下部にさらに方形の掘り窪めを設け、中に蓮華坐を表現しています。これは塩飽本島を中心に分布する人名墓の系譜を引く墓標のスタイルだと研究者は指摘します。
 以上から、「円(丸)亀笠嶋屋」の銘を持つこの墓標は、塩飽本島の笠島の人名の墓であることがうかがえます。石材は本島の花崗岩の可能性が高いようです。本島は徳川幕府による大阪城再築の際に、採石場が何カ所かに開かれたことを以前にお話ししました。そこには石工集団が残っていたのかも知れません。海を越えて三野湾に運び込まれた墓標が弥谷寺に運び上げられたことになります。同時に塩飽の人名たちの中にも、弥谷寺信仰を持つ人たちがいたことが分かります。
豊島石 : 男のロマンは女の不満
豊島石花崗岩

17世紀後半になると、豊島石製が搬入されはじめます。
運び込まれた豊島石製の石造物には墓標、ラントウ・櫛形墓標があります。
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櫛形墓標(弥谷寺)
天霧石製はⅢ期に中心であった地蔵坐像、宝筐印塔の生産はストップし、ラントウだけがかろうじて継続生産されている状況です。

弥谷寺 ラントウ
ラントウ(家形墓) 徳島県海部町鞆浦

そして、18世紀になると、弥谷寺での石造物の生産は見られなくなります。石工集団が姿を消したのです。ここでは、17世紀後半になると、中世以来の弥谷寺の石工集団は衰退・解体されたことを押さえておきます。
 しかし、善通寺市側の天霧山周辺では別の石工集団が採石を行なっていたようです。前回に紹介した善通寺市牛額寺薬師堂付近では、この時期にも活動していた痕跡があります。
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牛額寺薬師堂(善通寺市)
17世紀後半は讃岐各地で花崗岩製石造物が広がり、天霧石など中世以来の凝灰岩石造物は急速に衰退していった時期になるようです。その背景として研究者は次の2点があると考えているようです。
①寺檀制度の成立による墓標需要の増大
②新たな石工(豊島)の勃興
①の寺檀制度の成立は、寺院の境内に多量の墓標造立をもたらすようになります。それが大きなうねりとなるのが次のV期です。Ⅳ期はその始まりになるようです。そのようなうねりの中で、弥谷寺の石工集団は時代の流れに飲み込まれていったようです。
以上をまとめておくと
①生駒騒動で生駒藩が取り潰された後の17世紀後半は、花崗岩製の石造物が流行になる
②そのため凝灰岩製の天霧石製石造物は時代遅れとなり、注文が激減するようになる。
③弥谷寺本堂東の丸亀藩主山崎家の五輪塔も播磨から持ち込まれ石材で造られたものある。
④法雲橋西墓標は、塩飽本島の笠島の人名のものと考えられるが、これも本島産の花崗岩の可能性が高い。
⑤17隻後半になって境内に姿を見せる墓標も花崗岩製で外から持ち込まれたものである。
⑥以上のように、弥谷寺で中世以来活動してきた石工集団は時代に取り残され、姿を消して行くことになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年) 香川県教育委員会」
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弥谷寺石造物の時代区分表
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院の墓地で弥谷寺産の天霧石で五輪塔が造立される時期
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所で石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが造立される時期
Ⅳ期(17世紀後半) 外部産の五輪塔・墓標の出現、弥谷寺産石造物の衰退
V期(18世紀初頭から1830年頃) 外部産の地蔵刻出墓標が造立される時期
Ⅵ期(1830年以降)  外部産地蔵刻出墓標の衰退

Ⅱ期までの境内への石造物の造立は、特定の限られたエリアだけでした。それがⅢ期は境内の至る所に石仏など石造物の配置が本格化するようです。Ⅲ期は戦国時代末期から江戸時代で、秀吉の命で生駒氏が讃岐藩主としてやって来る時期と重なります。
Ⅲ期の特徴ついてて、研究者は、次のような点を指摘します。
①Ⅱ期の五輪塔に替わって石仏・宝筐印塔が中心になること
②祠形をしたラントウが17世紀初頭に姿を現すこと
③大師堂前の岩壁にも磨崖五輪塔が彫られるようになること。
 この中で①の石仏は地蔵坐像がほとんどで、抽象的な表現で頭部と腕の目立つ特異な形態です。記銘のある石仏の類例と比較して、弥谷寺境内に地蔵坐像が姿を現すのは16世紀前半~17世紀前半と研究者は考えているようです。
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弥谷寺Ⅲ期の地蔵菩薩

さらに弥谷寺石仏の形態を、研究者は次のように分類しています
弥谷寺 Ⅲ期の地蔵菩薩
弥谷寺Ⅲ期の地蔵菩薩
①背後に円形或いは舟形光背を表現した上図1・2
②像と光背の境界の不明瞭な上図6・7
③両者の中間的なスタイルの上図3~5
①の簡略形が②③と研究者は考えているようです。
 17世紀後半になると花崗岩・砂岩製で船形光背に収まるように立像を表現したものが主流になります。そのため②の上図の6・7は17世紀後半よりの時期に位置づけられますが、その像容は中世以来の抽象化したモチーフを留めていると研究者は指摘します。そのため17世紀後半まで下ることはないようです。これもほぼ生駒期と重なります。
弥谷寺 Ⅲ期の宝筐印塔
弥谷寺Ⅲ期の宝筐印塔
Ⅲ期の宝筐印塔は、阿弥陀如来磨崖仏下の「九品浄土」エリアに、香川氏のものが4基あります
NO9-37 慶長6年(1601)、「順教院/微摂/妙用」「詫間住則包娘俗名一月妻
NO9-38 慶長6年、「大成院/続風/一用」「俗名香川備後景高」
NO9-39は「浄蓮院/証頓/妙咬」「山城大西氏娘」
NO9-40は「寂照院/較潔/成功」「俗名香川山城景澄
9ー40の「香川山城景澄」は、西讃の守護香川氏の筆頭家老で山城守、讃岐国高谷城主であった香川元春のようです。9ー37の慶長6年の「則包娘俗名一月妻」の花崗岩製台石組みの宝筐印塔笠部(上図12)は、8の笠部に比べて軒が厚くなっています。厚くなるのは17世紀初頭の五輪塔に共通する要素で、形態的には慶長6年頃のものとしても違和感はないと研究者は指摘します。以上から宝筐印塔の年代も、石仏と同じ、16世紀後半~17世紀前半のものとされます。

嘉永7年(1854)の「香川氏・生駒氏両家石碑写去御方より御尋二付認者也」には、次のように記されています。
「九品浄土の前二幾多の五輪石塔あり、古伝へて香川氏一族の石塔なりと云、銘文あれここ漫滅して明白ならす、今払苔磨垢閲之、纏二四箇之院号を写得たり」

意訳変換しておくと
九品浄土(阿弥陀三尊磨崖仏の前)には数多くの五輪塔があるが、これは香川一族の石塔と伝承されてきた。この中には、銘文の見られるものがあるがよく分からないので、苔をおとして判読を行い。4つの院号を描き写した」

文書に記載された銘文と花崗岩製台石の銘文は、ほぼ一致するようです。しかし、花崗岩製台石に月日は刻まれていないなどの相違点もありますが、これらが香川氏のものであることは確かなようです。ただ、香川氏は1585年に同盟関係にあった長宗我部元親が秀吉に屈服し、土佐に引き上げた際に行動を共にして、天霧山を退いています。家老職級の一族の中には、1601年になっても、讃岐に留まり、それまで通り、死者を菩提寺の弥谷寺に埋葬していたことが分かります。しかし、その墓標の形は、それまでの五輪塔ではなく宝筐印塔に姿を変えています。ちなみに、これ以後は、香川氏のものらしき五輪塔や宝筐印塔はないようです。香川氏の一族は、その消息が辿れなくなっていきます。
 同時期に阿弥陀如来三尊磨崖仏の下に姿を現すのが讃岐最大の五輪塔です。
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生駒一正の墓(弥谷寺)
これは、組合せ五輪塔は、高さ352cmで生駒一正の墓とされます。この五輪塔は直線的な立ち上がりの空風輪、軒が強く傾斜し軒厚の火輪、筒形の水輪等などの特徴があります。この特徴は、生駒家の石造物として県内に点在する天霧石製五輪塔に共通します。


弥谷寺 Ⅲ期の五輪塔
 上図1・2は弥谷寺にある組合せの五輪塔です。1は大師堂前の108段の階段の下にあるものです。筒型化した水輪や直線的な立ち上がりの風輪など香川氏代々の墓にみる五輪塔よりも、一段階新しスタイルと研究者は考えています。2の火輪は、さらに形態変化の進んだ事例で四隅が突起状になっています。

  高松市役所の裏にある法泉寺は、生駒家三代目の正俊の戒名に由来するようです。
弥谷寺 宝泉寺の生駒一正五輪塔
生駒一正・正俊の五輪塔(法泉寺)

この寺の釈迦像の北側の奥まった場所に小さな半間四方の堂があります。この堂が生駒廟で、生駒家二代・生駒一正(1555~1610)と三代・生駒正俊(1586~1621)の五輪塔の墓が並んで安置されいます。これは弥谷寺の五輪塔に比べると小さなもので、それぞれ戒名が墨書されています。天霧石製なので、弥谷寺の採石場から切り出されたものを加工して、三野湾から船で髙松に運ばれたのでしょう。一正は1610年に亡くなっているので、これらの五輪塔は、それ以後に造られたことになります。
  私は、弥谷寺は1585年に香川氏が天霧城を退城し、土佐に移った後には保護者を失い、一時的な衰退期を迎えたのではないかと思っていました。しかし、石造物の生産活動を見る限りは、その復活は思ったよりも早い感じがします。弥谷寺は香川氏に代わって、新たに讃岐の主としてやって来た生駒氏の保護を受けるようになっていたようです。
 香川氏の重臣であった三野氏の一族の中には、生駒氏に登用され家老級にまで出世し、西嶋八兵衛と生駒藩の経営を担当する者も現れます。三野氏も弥谷寺と何らかの関係があったことは考えられます。三野氏を通じて生駒氏は、弥谷寺に2代目の墓碑として巨大な五輪塔を造らせたのかも知れません。それは、いままでの香川氏が造らせていたものよりもはるかに大きなもです。時代が変わったことを、印象づける効果もあったでしょう。

讃岐の武将 生駒氏の家老を勤め、生駒騒動の原因を作り出した三野氏 : 瀬戸の島から
生駒一正の五輪塔(弥谷寺)

次にラントウを見ておきましょう
讃岐のラントウは17世紀前半では全て天霧石製で、17世紀後半になると豊島石製が見られるようになります。名称の由来は伽藍(がらん)の塔とする説、墓地を示すラントウバにあるとする説がるようですがよくわからないようです。漢字では蘭塔、藍塔、卵塔、乱塔と様々な時が当てられます。墓石の一種でとして、17世紀に流行しますが、18世紀以降になって墓標が現れると姿を消して行きます。龕部は観音扉で、正面の両軸部に被供養者の没年月日が刻まれます。龕部の奥は五輪塔や墓標が彫刻されることが多いようです。
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弥谷寺のラントウ
天霧石製と豊島石製のラントウの違いを、研究者は次のように指摘します。
①天霧石製は紀年銘が入ったものがないが、豊島石製には紀年銘が入ったものが比較的多い
②天霧石製は形態が稚拙でシンプル
③豊島製の屋根上端部の鬼瓦の表現、屋根下端部の削り抜き、祠部正面下端部の突出など複雑で手が込んでいる
ラントウの変遷は屋根が上方に細長く延びてく変化があるようです。
弥谷寺 ラントウ
弥谷寺と豊島産のラントウ

そこに注意すると、第54図1は17世紀初頭、図2は17世紀中頃、第54図3の豊島石製は18世紀前後頃になるようです。第54図1の祠部奥の石仏の下半身の上端部が両端に反り上がる類例は1599~1620年の豊島石製ラントウ内に彫刻された石仏に見られ、第52図1の石仏とも共通します。天霧石製ラントウは17世紀前半に登場したようです。
弥谷寺 石造物の流通エリア
天霧石製石造物の分布エリア
室町期のⅡ期には、天霧石製石造物が瀬戸内海で広域流通しましたが、Ⅲ期になると急速に衰退します。
その背景には、16世紀後半の阿波の三好勢力の侵入による香川氏との抗争激化があったようです。以前にお話したように三好勢の侵入により香川氏は、天霧城を落ち延び、毛利氏を頼って安芸に一時的に亡命しています。このような混乱の中で三好氏の乱入を受け、弥谷寺も退転し、石工たちも四散したのかもしれません。ここで弥谷寺における石造物の生産は一時的な活動停止に追い込まれたようです。注意しておきたいのは、この混乱が阿波の三好氏によるものであり、土佐の長宗我部元親によるものではないことです。

弥谷寺において石造物の生産活動が再開されるのは、16世紀末になってからです。
香川氏の宝筐印塔4基は1601年のものです。つまり、先ほど見たように生駒氏の登場と保護によって、荒廃した弥谷寺の再興が開始され、同時に石造物の生産活動も再開されたと考えられます。
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      牛額寺薬師堂(善通寺市)お堂の後が採石場跡
 この再開時に新たな採石場として拓かれたのが善通寺市牛額寺薬師堂付近だったようです。
これは弥谷寺の採石場からの「移動」ではなく、「分散化」だったと研究者は考えているようです。弥谷寺境内にはⅢ期になっても天霧石製石造物が活発に造られ続けています。採石活動が継続していたことがうかがえます。Ⅲ期に弥谷寺に造立された天霧石製石造物の多くは、天霧Cです。天霧Bが中心であったⅡ期と比べると石材選択の変化が見られます。牛額寺薬師堂には天霧Cの転石が多く見られます。

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牛額寺薬師堂裏の転石

同じように弥谷寺境内にも生駒一正五輪塔から磨崖阿弥陀三尊像にかけて天霧Cの露頭があります。Ⅲ期に造立された石造物は、これらからの石を使って製作されていたと研究者は考えているようです。 しかし、弥谷寺産の天霧石で造られた石造物が瀬戸内海エリアに広く積み出され供給されるということは、もはやなかったようです。

以上をまとめておくと
①弥谷寺石造物生産活動のⅡ期は、保護者であった天霧城城主の香川氏の退城で終わりを迎える。
②再び生産活動が再開されるのは、1587年に生駒氏がやって来て新たな保護者となって以後のことになる。
③生駒氏は弥谷寺を保護し、伽藍復興が進むようになり、境内にも石造物が造営されるようになる。
④Ⅲ期の代表作としては、1601年の香川氏の宝筐印塔4基、1610年以後に作成された生駒一正の巨大五輪塔などが挙げられる。
⑤再開時に、善通寺市牛額寺薬師堂付近に新たな採石場が開かれた。
⑥しかし、競争相手としてて豊島産石造物が市場を占有するようになり。弥谷寺産の石造物が瀬戸内海エリアに供給されることはなかった。

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弥谷寺のラントウ

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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