瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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弥谷寺 四国遍礼名所図会1800年jpg
弥谷寺 四国遍礼名所図会(1800年)

 弥谷寺は、四国八十八ヶ所霊場71番札所です。伽藍の一番高いところに、磨崖に囲まれるように①本堂があり、諸堂も岩山に囲まれるように配されています。境内の磨崖や岩肌には数え切れないほどの五輪塔や梵字、名号などが刻まれています。中には納骨された穴もあって「死霊の集まる山」として民俗学では、よく知られた寺院です。
弥谷寺は江戸時代の「弥谷寺略縁起』には、次のように記されています。
行基が弥陀・釈迦の尊像を造立し、建立した堂宇にそれらを安置して蓮花山八国寺と号した」
「その後、弘法大師空海が虚空蔵求聞持法を修したこころ、五鈷の剣が天から降り、自ら千手観音を造立して新たに精舎を建立し、剣五山千手院と号した」
「行基=空海」の開基・中興というのは、後世の縁起がよく語るところで、開創の実態については史料がなく、よく分かりません。ただ岩山を穿って獅子之岩屋や磨崖阿弥陀三尊が作られる以前の平安時代に、修行者や聖といった人々が修行の場を求めて弥谷山に籠ったことが、この寺の成立の基礎となったことはうかがえます。
 平安時代末期には、四国の海辺の道を修行のためにめぐり歩く聖や修験者らがいました。彼らの修行の道や場として「四国辺地」が形成され、それがベースとなって四国遍路の祖型が出来上がっていきます。弥谷山の修行者や聖たちも、そうした四国遍路の動きと連動していたようです。
仁治4年(1243)に、高野山の党派抗争の責任をとらされて讃岐に流された高野山僧の道範は、宝治2年(1248)に善通寺の「大師御誕生所之草庵」で『行法肝葉抄』を書いています。その下巻奥書には、この書が「弥谷上人」の「勧進」によって記されたと記されています。これが「弥谷」という言葉の史料上の初見のようです。弥谷寺ではなく「弥谷上人」であることに、研究者は注目します。
「弥谷上人」とは、弥谷山周辺で活動した修行者や聖のような宗教者の一人と考えられます。
 ここからも鎌倉時代の弥谷山は、聖たちの修行地だったことがうかがえます。それを裏付けるもうひとつの「証拠」が鎌倉時代末期に作られた本堂の東にある阿弥陀三尊の磨崖仏です。
弥谷寺 阿弥陀三尊像
弥谷寺の阿弥陀三尊磨崖仏
この阿弥陀三尊像は、弥谷山を極楽浄土に見立てる聖たちが造立したものです。また仁王門付近にある船石名号の成立や磨崖五輪塔にみられる納骨風習の成立には、時衆系高野聖の関与があったと研究者は考えています。
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船石名号(弥谷寺 仁王門上部)

当時の高野山は、一山が時衆系の念仏聖に占領されたような状態で、彼らは各地の聖山・霊山で修行を行いながら熊野行者のように高野山への信者の誘引活動を行っていました。弥谷山も「死霊の集まる山」として祖先慰霊の場とされ、多くの五輪磨崖物が彫られ続けます。これが今でも境内のあちらこちらに残っている五輪五輪塔です。ここでは中世の弥谷寺は、浄土阿弥陀信仰の聖地で、弘法大師の姿は見られないことを押さえておきます。
IMG_0017弥谷寺磨崖仏
磨崖五輪塔(弥谷寺)
弥谷寺に発展の機会が訪れるのは、室町時代になってからです。その契機となったのが讃岐守護細川氏の下で西讃守護代となった香川氏の菩提寺となったことです。香川氏は多度津に居館を置き、天霧城に山城を構えます。天霧城の裏側(南側)が弥谷寺という位置関係になります。こうして天霧城と山続きの弥谷寺には、香川氏の五輪塔が墓標として二百年あまりにわたって西の院に造立され続け墓域を形成していきます。つまり、守護代香川氏の菩提寺となることで、その保護を受けて伽藍整備が進んだようです。同時に、この時期は弥谷寺境内から切り出された天霧石で作られた石造物が三野湾から瀬戸内海各地に向けて運び出された時期でもありました。その代表例が、白峰寺の石造十三重塔(西塔)です。


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香川氏のものとされる五輪塔(弥谷寺西院跡から移動)

   弥谷寺に弘法大師信仰が姿を見せるようになるのは、近世になってからのようです。今まで語られたことのなかった弘法大師伝説が、弥谷寺には伝えられます。
承応2年(1653)に澄禅が記した『四国遍路日記』には、次のように記されています。

   弥谷寺・劔五山千手院は、坂口に仁王門があり、ここから上の参道沿いの石面には仏像や五輪塔が数しれず彫付られている。自然石を切りつけた階段で寺の庭に上っていく。寺は南向していて、西向きに持仏堂(現大師堂 旧奥の院)がある。磨崖の壁に指が架かるところを選んでつたい登っていくと、広さニ回半奥に、九尺、天井は人の頭が当たらないほどの高さに、堅固に掘り抜いた岩屋(獅子の岩屋)がある。そこに仏壇一間奥へ四尺ほど切り開いて左右に5つの如来を彫りだしている。また、そこには中尊大師(弘法大師)の御木像と、その左右に藤新太夫夫婦(弘法大師の父母)の石像がある。北の床は位牌壇で、正面の床の脇には護摩木棚が二段ある。東南のニ方に敷居・鴨居を入れて戸が入るようにしてある。(後略)

ここには現在の大師堂には、木像の弘法大師と石像の藤新大夫(とうしんだゆう)夫婦が安置されていたことが記されています。高野山関係の史料には、空海の父母は古くから弘法大師の父は佐伯氏、母は阿刀氏の女とされてきました。ところがここでは、空海の父母は、藤新大夫夫婦で父は「とうしん太夫」、母は「あこや御前」とされていたことが分かります。ここからは、江戸時代初期の弥谷寺では、高野山や善通寺とはちがうチャンネルの弘法大師伝が作り出されて流布されていたことが分かります。「空海の父母=藤新大夫夫婦」説は、近世初頭には四国遍路の開創縁起として、かなり広く流布されていて、多くの人たちに影響を与えていたようです。これに対して「正統的な弘法大師信仰者」の真念は、「愚俗のわざ」として痛烈に批判しています。

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           現在の獅子の岩屋の配列 弘法大師の横には佐伯田公(父君)と記されている

 こうした異端的な弘法大師伝が生まれた背景には、弥谷寺やその近辺で活動する高野聖の存在が考えられます。それをたどると、多度津の海岸寺・父母院から道隆寺、そして児島五流修験や高野聖が関わっていたことが浮かび上がってきます。そういう意味でも、四国遍路の成立過程はひとつの流れだけではなく、何本もの流れがあったことがうかがえます。それが弥谷寺からは見えてきます。

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獅子の岩屋 空海の横には母玉依御前

戦国時代に兵火で焼失した弥谷寺は、近世の生駒家の下で復興が始まります。
本堂焼失後に仮堂を建立し、残された本尊千手観音や鎮守の神像等をおさめて伽藍の再興がはかられます。そして、17世紀後半には境内整備が進展して伽藍が復興されます。また近世の弥谷寺は、生駒家に続いて丸亀藩・多度津藩の祈躊寺として位置づけら、五穀成就や雨乞いの祈躊を執行するなど、丸亀・多度津両藩の保護を受ける特別な寺となります。

弥谷寺 一山之図(1760年)
弥谷寺一山之図(1760年)
 同時に民衆にとっても中世以来の「死霊の集まる山」で先祖供養にとして重要な存在でした。承応2年(1653)の『四国遍路日記』には、弥谷寺の境内には岩穴があり、ここに死骨を納めたとあります。江戸時代前期の弥谷寺は、中世に引き続いて死者供養の霊場として展開していたことが分かります。
 弥谷寺の年中法会の中で重要なものとされる光明会が、 日牌・月牌による先祖供養の法会として整備されていきます。近世の弥谷寺は檀家を持っていませんでしたが、この光明会によって死者供養、先祖回向の寺として、広範囲にわたって多くの人々の信仰を集め続けます。また、修行者や聖などの宗教者の修行地とされていた弥谷寺には、彼らが拠点とした院房が旧大門(八丁目大師堂)から仁王門にかけて、十を越えて散財していました。それが姿を消します。これは、白峰山の変貌とも重なり合う現象です。
弥谷寺 八丁目大師堂
院坊跡が潅頂川沿いにいくつも記されている

 修験者や聖たちに替わって、弥谷寺を訪れるようになったのは遍路たちです。そして、弥谷寺も遍路ら巡礼者に対応した札所寺院に脱皮・変貌していくことになります。それが例えば遍路接待のための施設設置です。
正徳4年(1714)までは、寺内の院坊の一つである納涼坊が遍路ら参詣者の接待所を兼ねていました。しかし、享保10年(1725)に財田上の大庄屋・宇野浄智惟春が接待所(茶堂)を、現在の大師堂の下に寄進設置しています。
弥谷寺 茶堂
金毘羅参詣名所図会に描かれた茶堂
この接待所は弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図会』などにも描かれていて、ここで接待が行われていたことが分かります。

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「永代常接待碑」
現在は、この接待所の跡地に、永代にわたって接待することを宇野浄智が記した「永代常接待碑」(享保10年2月銘)が建っています。またその2年後には宇野浄智から「永代常接待料田畑」が寄進されています。この他、弥谷寺の門前には、ある程度の店も立ち並んでいたようで、遍路ら参詣者を迎え入れる札所寺院として整備されていったことが窺えます。
丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋
             「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」明治初年

 しかし、江戸中期以降の弥谷寺への参拝者の増加は、四国遍路よりも金毘羅詣りの参拝者の増加とリンクしたものでした。金毘羅さんにお参りした客を、弥谷寺に誘引しようとする動きが強まります。そのため丸亀に上陸した参拝客に「七ヶ所詣り」の地図が手渡され、善通寺方面から弥谷寺への誘引をはかります。そのために寺へ通じる沿道の整備が進められます。
 弥谷寺は、鳥坂越手前で伊予街道から分岐する遍路道を整備します。そして寛政4年(1792)に分岐点近くの碑殿村の上の池の堤防横に接待所を設置し、往来の参拝客に茶を施したいと願い出て、多度津藩から許可されています。この接待所は「茶堂庵」と称され、講中によって維持されていきます。同時に、この接待所には弥谷寺に向けたスタート・モニュメントとして大地蔵を建立されます。

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善通寺市碑殿町の大地蔵

ここから弥谷寺境内の法雲橋へ至る道に、10の仏像を安置する計画が立てられ、ゴールの境内では寛政3年(1791)、金剛挙菩薩像(当初は大日如来)の造立に取りかかっています。このように弥谷寺は周辺地から境内へ至る道の整備を進め、増加しつつある参詣者を誘致に務めています。

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金剛拳菩薩(弥谷寺)
 近代の弥谷寺は、明治5年(1872)に山林が上地処分によって官有地として没収されます。これによって経済的な打撃を受けますが、明治39年に「上地林」は境内に再び編入されます。諸堂の整備も引き続き行われ、明治11年には大師堂が再建されます。また江戸時代以来の接待所(茶堂)は、通夜堂ともよばれ、近代でもにおいて遍路の宿泊施設としても機能します。しかし、これも昭和50年代に廃絶したようです。

弥谷寺 西院跡
 弥谷寺の現存建造物としては、次のようなものがあります。
明治11年 大師堂
弘化5年(1848)再建の本堂
天保2年(1831)再建の多宝塔
大正6年(1917)再建の観音堂
大正8年再建の十王堂
残された絵図を見ても本堂や大師堂など中心的な伽藍の配置は、江戸時代から大きな変更はありません。境内とそれを取り囲む岩山は、遍路や参拝者が行き交った近世の札所霊場の景観を伝えるものと研究者は考えています。
以上をまとめておくと
①弥谷寺は中世まで修行者や聖などの修行地であった。
②彼らは弥谷寺を浄土阿弥陀信仰の聖地として信者たちを誘引し、その結果磨崖五輪塔が造立された。
③中世から近世への移行期に高野山との交流によって、弘法大師信仰が定着した。
④近世前期には、中世同様に死者供養の霊場として参詣者の間に浸透していった。
⑤近世中期以降、さらに多くの民衆が金比羅詣りや遍路として訪れるようになり、接待所が設置されるなど、弥谷寺は遍路ら参詣者を迎え入れる開放的な空間として整備されていった。
⑥境内へ至る沿道についても整備が進められ、不特定多数の人々にも開かれた場へと展開していった
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
        参考文献 弥谷寺調査報告書 2015年 香川県教育委員会

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