瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:獅子舞

獅子舞 三十二番職人歌合の獅子舞

以前に、讃岐獅子舞の獅子たちが、いつ、どこからやって来たのかをお話ししたことがあります。それでは、讃岐にやって来る前の獅子舞は、どこから来たのかと聞かれて困ってしまいました。現在の時点で、私が考えている讃岐にやってくる前の獅子舞の姿を追いかけてみます。テキストは「山路興造 獅子舞の原型とその変容 中世芸能の底流     岩田書店2010年」です。
獅子 信西古楽図」の獅子図

古代の獅子舞については、よく引き合いに出されるのが上の「信西古楽図」の獅子図です。この獅子図は、現在では我が国で演じられていた獅子舞を描いたものではなく、大陸で演じられていた芸能を描いた絵巻があり、それを写したものとする説が有力なようです。だとすれば、ここに描かれた獅子舞は、中国唐代の獅子ということになります。全身毛布の縫いぐるみで覆った胴体は、昔よく見た中国のカンフー映画に登場してくる獅子舞姿です。カンフーの達人達が、かっこよく動かしていたのを思い出します。確かに、あの獅子を思い出すとあまり違和感はなくなります。
この絵に描かれた獅子を整理しておくと
①全身毛布の縫いぐるみ
②胡児が二人付くこと
③獅子に綱を付けその端を持ち、棒状のものを手にした獅子あやし(面はつけていない)が付くこと、
④獅子の楽器として腰鼓・銅鉄子打ち・鉦叩きなどがいること(笛役は描かれていない)、
これが我が国に伝来した獅子舞の現形のようです。
それでは、中国にはどこからやってきたのでしょうか。
中国唐代の詩人白楽天の「西涼伎」には、獅子舞が次のように記されています。
仮面ノ胡人仮ノ獅子、木ヲ刻ンデ頭卜為シ、糸デ尾ヲ作ル、
金ヲ眼晴二鍍シ銀ヲ歯二帖ル、奮迅ノ毛衣、双耳ヲ提キ、
流沙従り万里来タルガ如シ、紫髯深目ノ両胡児、鼓舞跳梁シテ前二辞ヲ致ス、
意訳変換しておくと
仮面を被った胡人が獅子を使う、木造の獅子頭で、尾は糸で作られている。金を眼晴りして、銀を歯に貼り付けてる。毛衣は奮い立ち、双耳を立て、胡国の流沙を越えて万里の道をやってきた獅子を、紫髯で深目ふたりの胡児(ソグド人?)が鼓舞跳梁しながら導いていく、

ここからは次のようなことが分かります。
①獅子頭は木製
②目に金、歯に銀が貼られ、尾は糸で作られ、毛衣を着ており、
③眼の深い相貌の胡児二人を従えていた
④シルクロードを越えてやってきた西国異国のものであるという認識
⑥「鼓舞跳梁」とあり、カンフー映画に出てくる獅子のように飛び跳ね俊敏に動いた
白楽天は詩人ですので、若十の誇張はあるでしょうが、唐代の獅子の様子はうかがえます。白楽天は獅子舞が胡人の芸能であり、シルクロードを通じて西方からもたらされた異国趣味の芸能として認識していたことが読みとれます。
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   古代メソポタミアでは、獅子は百獣の王で最も獰猛な野獣として畏れられました。それゆえに王達は獅子狩りに熱中します。獅子狩自体が王の権勢を伝えることになったからでしょう。それは、アケメネス朝やササン朝の「獅子狩文錦図」をみると納得できます。こうして獅子は、畏れられると同時に威厳のある神獣として神化されていきます。
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同時に獅子舞的なものがすでにササン朝時代には、あったのではないかと私は考えています。それが唐時代になって、シルクロードが開かれるとソグド人達(胡人)によって、長安に入ってきたのでしょう。先ほど見た白楽天の獅子舞はそのような姿を伝えているようです。
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 それでは、わが国にはいつ頃入ってきたのでしょうか。
正倉院には、東大寺の大仏開限供養の際に使われた伎楽の獅子頭が八頭保管されています。

獅子 正倉院
正倉院の獅子頭

8頭の姿は、少しずつ異なっています。どれも獰猛な姿をしているのは同じです。しかし、ライオンには見えません。当然、現物を見たことのない職人が作ったものなので実物からはだんだん遠ざかっていきます。
 各パーツは下顎と舌、両耳を別に作り、下顎は鉄棒を通して開閉できるように工夫されています。それを打ち合わせることで大きな音を出すことができます。舌も開閉すると動いたようです。目を大きく見開き、目が動くものもあます。目を開閉して、音を出し、威嚇することができたようです。この獅子たちが、大仏開限供養祭で、どんな風に使われたかは分かりません。後の史料で、補って「復元」して見てみましょう。

 史料で、古代の獅子の原型を研究者は次のように押さえます
①獅子は行列の先導役を勤める.(祓い)
②獅子は行道として歩くために四つ足で、当然二人立ちとなる。
③獅子は獰猛な動物なのでに、綱などを持つた口取りが付く。
④獅子にはそれをあやす役が付く。(二人の獅子児)

 獅子は、行列の先導役を勤めるので、「祓い」の役目を持っていたようです。これは獅子舞が移入された当初からの役割だったようです。古代メソポタミアの古代文明以来、獅子(ライオン)は、王の象徴であり、悪魔祓いの属性を持っていました。ギリシャにも獅子像はもたらされ、ミケーネ城門で睨みを効かせています。それが中国を経て、日本には狛犬としてやってきているのはご存じの通りです。
 獅子は、伎楽の中に最初に登場したようです。二頭でワンペアでの出演でした。面を着けた獅子児(獅子子で、童子の役)は、獅子をあやす役で、必ず獅子一頭につき二人が付き従います。
獅子 治道面
治道面(正倉院)

治道は、行列の露払い的な役目で、彼らの着ける面は正倉院に伝わる面の中では最も鼻が高いそうです。これが「鬼」に成長していくのかもしれません。
 「筑紫国観陛音寺資財帳」の治道の項には「麻鞭 壱条」と記されています。治道は麻の鞭を持っていたようです。治道は獅子の使い手だったのでしょう。この資財帳には笛吹2人・銅銭子撃1人・鼓撃10人がと記されています。獅子に付随する音楽集団というよりも、伎楽全体のものとしておきましょう。音楽付きでペアの獅子が先頭で露払いを演じながら舞台まで、パレードしたのかもしれません。
  世界遺産・シルクロードから薬師寺へ ~1400年の時を越え甦る幻の仮面劇~(BSテレ東)の番組情報ページ | テレビ東京・BSテレ東 7ch(公式)                                       

伎楽は呉楽(くれのうたまい)とも呼ばれていたようです。
そのなかに獅子舞(獅子舞)が、あったことは、天平十九年(749)の「法隆寺伽藍縁起及流記資財帳」(『寧楽遺文」中巻宗教編上)に伎楽用具として、次のように記さていることから分かります。
伎楽壱拾壱具
獅子弐頭、獅子子卑面衣服具、治道弐面衣服具、呉公壱面衣服具服(以下略)
ここからは、伎楽で演じられる獅子舞は、二頭一組で、獅子一頭につき二人が、五色の毛のある縫いぐるみのようなものに入って、演じたことが分かります。

 伎楽は中央の大寺院だけで演じられていたように考えられてきましたが、そうではないことが近年の研究で分かってきたようです。各国の国分寺などを中心として、法会の荘厳芸能として演じられていたようです。諸国の国分寺が整備された奈良時代には、その法会の荘厳芸能として、伎楽が演じられるようになっていたこと、そして地方の諸人も、伎楽という渡来芸能を通じて、獅子の芸能を見ていたと研究者は考えているようです。そして、中世に成ると瀬戸内海交易を通じて経済力を蓄えた小豆島の肥土庄の八幡神社や、観音寺市の琴弾八幡にも、パレード用の獅子は姿を現すようになることは以前にお話ししました。

獅子は舞楽にも登場するようになります
舞楽の獅子舞が文献に登場するのは、伎楽の獅子よりずーと遅れます。平安時代中期以降のことになります。その早い例が、『法成寺金堂供養記』治安二年(1022)七月―四日条で、
(前略)此間乱声、両獅子出臥舞台巽坤、次吹調子 雅楽寮卒楽人迎衆僧、(中略)
楽人到会集帳、発音声如前、経前道到楽屋前立獅府昴、
 ここからは、獅子は法会の最初に乱声を奏した後に、左右の両楽屋から一頭ずつ登場し、舞台の巽(たつみ)と坤(ひつじさる)に臥します。何もしないで舞台の隅に臥すことにより、悪霊を威嚇するという役目を担っていたと研究者は考えているようです。悪霊退散の役目です。まるで番犬のようです。
 約百年後の天承二年(1132)二月一十八日に行われた法成寺東西両搭の供養の舞楽の様子を、公家の平知信が日記『知信記』に、次のように記されています。
次獅子出自左右楽屋方、臥舞台艮・巽角、件獅子付緋綱、舞者四人、京中業者応召、単衣、末濃袴合袴、毛沓付爪、綾獅子四人、左右舞人進之 面形、半腎・表袴・団扇・糸蛙・機、袖、単衣、大口給之、朧四人、面形、□、抱、補補、袴、□腰、錯懸、糸軽、袖、単衣、合袴等給之、(その後に右方から菩薩六人・胡蝶六人、左方から菩薩六人・迦陵頻六人が出る)

この時は、まず左で乱声があり、続いて左の振枠があり、次に右の乱声が奏され、振鉾が出て舞います。次いで獅子が左右の楽屋から出て、舞台の巽と艮の角(隅)に臥せます。この獅子には緋の綱が付けられていて、獅子の舞人は一人ずつで、演者は京中の業者で召しに応じた者だったようです。その衣装は単衣、袴、爪の着いた毛沓を履いています。獅子と同時に、左右から舞人による「綾獅子」が左右各二人登場。彼らの姿は面を着け、半腎・表袴・草性・機、袖、単衣、大日で、団扇を持って出てきます。この役が獅子あやしのようです。獅子を先導する朧(口取り)も一頭に二人付きます。彼らの姿は面、補補、□腰等で、糸戦を履き、獅子に付けられた緋綱を取ります。
 獅子が決められた位置に伏せると、法会が始まります。その後に左方から菩薩(六人)・迦陵頻(六人)、有方から苦薩(六人)胡蝶(六人)が、供花を持って一行に分かれて出てくる、というスタイルです

舞楽の獅子も、綱を口取りが持ち、獅子あやしが二人付くという演じ方が、以後のパターンになるようです。舞楽の獅子舞は、最初は法会が行なわれる舞台に伏すだけだったようです。邪魔者を人れないという役目で、舞台を監視する役目が与えられていたようです。
 しかし、舞台に現れた獅子は、いつまでも舞台の隅に臥しているばかりではありませんでした。いつとはなく法会の途中で舞うようになります。どんな舞を舞ったのかは今は分かりません。

獅子 四天王寺 聖霊会舞楽大法要

四天王寺の聖霊会舞楽大法要に登場する獅子たちも、現在では舞が失われているので,舞台を二度回るだけの舞になっているようです。
 舞の詳しい内容は分かりませんが承暦元年(1077)十月十八日に法勝寺で行なわれた『法勝寺供養記』には
「散華・引頭・納衆・讃衆・梵音・錫杖等次第雁行、経金堂・講堂・舞台等東西大行道、左右獅子分舞、次楽人行列」

と「左右獅子分舞」とあります。「法成寺金堂供養記」には、獅子が臥した後、楽人が衆僧を迎えて楽屋の前に立つと「楽不正、獅子舞」とあります。獅子は舞っていたようです。
四天王寺聖霊会舞楽大法要

 行道(神興渡御)の獅子と獅子の舞
 奈良時代に大陸からやってきた獅子舞は、平安時代以降になると舞楽のなかに取り入れられて、悪魔を追い祓う役目で定着したようです。そして伎楽・舞楽の一行と舞台までの行道(パレード)の先頭を行く役目も担うようになります。悪魔を祓うという獅子の役割は、祭礼の神輿渡御のパレードからもお呼びが懸かるようになります。
『百錬妙』承安一年(1173)六月十四日条には、次のように記されています。
祗園御霊会、上皇有御見物、殊被印刷之、神興三基、獅子七頭、去四日自院被調進之、

ここからは祗園御霊会の神輿渡御の神輿三基の先頭に七頭の獅子がいたことが分かります。神興を先導する獅子の場合は、頭数は関係がなかったようで『年中行事絵巻』巻十二の稲荷祭りなどには、多くの獅子が出てきます。

獅子 年中絵巻図の獅子舞

民間の祭礼に登場した獅子は、早い時期から舞ったようです
京都仁和寺の座主覚法法親王が高野山に参詣した折の日記『御室御所高野山御参籠日記』の久安四年(1148)五月二日条に、
自山崎着仁和寺丁、(中略)於淀辺有下人為市之所、令導之、今日淀祭也、乃獅子舞等令舞之、召師子於舟辺、獅子二、子一也、賜禄了、
ここには、仁和寺の座主が高野山に参詣した帰路に、淀川を行く船の近くに淀の祭りに参加していた獅子舞を呼んで舞わせ、禄を与えたことが記されています。この獅子舞は獅子が二頭で、獅子あやしの子供が一人居たとあり、「獅子舞等令舞之」と記されます。この獅子は行列の先導役のみではなく、獅子舞を演じていたことが分かります。
 以後、獅子舞は祭礼芸能の一環としてあちこちの祭礼に活躍するようになります。その基本は二頭一組で、巫女集団・上の舞・細男座・田楽座・猿楽座など、専門の芸能集団とともに大きな社寺の祭礼に姿を見せるようになったことが『年中行事絵巻』などから分かります。ここに描かれた獅子舞は専門の座が形成されていたと研究者は考えているようです。そして、獅子舞は、荘園鎮守社の祭礼などにも演じられ、地方にも広がっていったようです。

二人使いの獅子舞は、大きく分けて次の二つに分類できるようです。
ひとつは、神興渡御の先頭を行く獅子です。もともとは、二頭一組が一般的だったようです。
獅子の前を行く天狗面なども、伎楽の治道や、舞楽における口取りの変形バージョンとして残っているのかも知れません。この神興を先導する獅子は、讃岐の獅子舞にも云えますが、華麗に舞を舞うところが多く、祭礼の獅子舞として発展してきたようです。
 中世期の京都などでは、獅子舞を舞う専門芸能座があったようで、祗園社には片羽屋座などが所属していたようです。彼らは祗園御霊会などで神興渡御に付き従いました。
獅子 年中絵巻図の獅子舞
笛や太鼓の鳴り物に逢わせて、路上で舞う獅子

しかし、それだけでは生活できません。彼らは、祇園社が所属した比叡山延暦寺膝下の村々へ進出し、祈祷の獅子舞を演じる祭礼権を持つようになっていきます。こうして、獅子舞が地域の祭礼に姿を見せるようになります。
獅子舞 年中行事絵巻 稲荷祭りの獅子舞
何頭もの獅子が神輿の先払いとして舞ながら進む

民俗芸能として伝承された獅子舞のもう一つは、太神楽系の獅子舞です。
樺猛な獅子の姿が悪魔祓いに有効とされたのは、唐の時代の中国からでした。我が国ではその頭に神を勧請して「神の力 + 獅子の威力」の相乗効果を期待するようになります。こうして獅子頭自体を独立させて、悪魔を祓ってまわるようになります。その最初は山伏・修験者たちだったようです。
獅子頭(権現さま) | いわての文化情報大事典

 南北朝期以降に東北地方で熊野山伏が展開したスタイルは、神を勧請した獅子頭を権現様と呼び、それを舞わすことで悪魔を祓うものでした。彼らは家々の悪魔祓いをしてまわるようになります。同時に、その余興として当時の流行芸能である「猿楽能(現在の能・狂一三」のスタイルで神々の登場する能(仮面劇)を演じ、激しく美しい舞を舞って人気を得ます。こうして、東北では地域を「巡業」する獅子舞集団がいくつも現れます。
獅子舞 年中行事絵巻 稲荷祭りの獅子舞2

 さきほど見た京都祇園の獅子舞の座も、獅子頭を用いて悪魔祓いを行なうと同時に、猿楽能も演じています。このスタイルは、熊野山伏の専売ではなかったようです。戦乱が進む中世末には熊野信仰は、下火になり、熊野山伏の活躍も徐々に衰えていきます。それに代わって登場するのが、伊勢皇太神宮の信仰です。もともとは天皇家の氏神であった伊勢神宮も、中世末期になるとその維持が困難になります。そこで庶民への教線拡大策として、真似られたのが熊野山伏が行なっていたスタイルです。つまり獅子頭に神を勧請して諸国を巡り、悪魔祓いを行ない、御札を配ります。その代償として初穂を戴くようになります。彼らを「御師」と呼びますが、本来の御師は伊勢神宮の近辺に宿泊施設を構え、地方に檀那場を確保して講中を組織し、伊勢への参宮を促す役割を持っていました。だから、獅子頭を奉じて諸国を巡る太神楽の団員達は、もともとは御師ではありません。あくまで芸人なのです。
放下 - Wikipedia
         放下芸 皿回しや傘回し

  この時、祈祷の獅子舞とともに演じられたのが「放下芸」でした。放下芸はもともとは古代に大陸から渡来した散楽系の曲芸で、中世を通じて雑芸能者の手によって伝えられてきました。それがこの時期に、大道芸能として脚光を浴びるようになり、いろいろな芸人が現れるようになります。さまざまな芸をもった一団の中に、獅子の舞も取り込んで演じて見せたようです。
伊勢大神楽について - 伊勢大神楽 伊勢大神楽教 渋谷章社中
背負った屋台に獅子頭や太鼓が見える

 ここで注意しておきたいのは、獅子頭を奉じて祈祷にまわる大神楽の獅子舞は、伊勢信仰の流布のためではなかったことです。あくまで営業活動の一環なのです。
 太神楽を演じたのは伊勢神宮などの神人ではなく、伊勢神宮や熱田神宮から御札の配布を請け負った下級宗教者でした。彼らは、伊勢国桑名や吾鞍川、尾張国繁吉村などに集住して、そこを拠点地として各地に出向くという営業スタイルをとるようになります。そして巡回範囲は、全国に及ぶようになります。そういう意味では、太神楽系の獅子舞は、彼らが持ち伝えたオリジナルな獅子舞です。
伊勢大神楽講社 山本勘太夫社中

 それが大きく変化し出すのは江戸時代中期以降です。
毎年やって来る伊勢太神楽と次第に経済力を得た各地の村々の若者組が交流するようになります。彼らからその芸能を教わり、自分の村で獅子舞を演じる舞場権を買い取って、自分の村の祭礼に若者組自身が演じるようになります。研究者はこれを「祭礼芸能の民俗芸能化」と呼んでいるようですが、こうして獅子舞は村人の手に移って行きます。そして獅子舞は、それぞれに土地の風土に合わせて変化発展していくようになります。
 ここまで見てきて、なぜ小豆島の祭礼に獅子が登場しないのかが何となく見えてきました。
讃岐の獅子についての記録は、南北朝時代の『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』の応安三年(1370)2月に初めて登場します。「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた」という記事があり、これが一番が古いようです。それから五年後の永和元年(1375)には「放生会大行道之時獅子面」を塗り直したと記されています。ここからは獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。ここでも獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。
 さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。祭事のパレードに獅子たちが14世紀には、小豆島で登場していたのです。
 当時の小豆島や塩飽の島々は瀬戸内海という人と物が流れる「中世のハイウエー」に面して、幾つもの港が開かれていました。そこには「海のサービスエリア」として、京やその周辺での「流行物」がいち早く伝わってきたのでしょう。それを受入て、土地に根付かせる財力を持ったものもいたのでしょう。獅子たちは、瀬戸内海を渡り畿内からやってきて、肥土庄に根付いていたのです。
しかし、これはパレード用の獅子です。獅子舞ではないのです。
 一方小豆島には、いまでも伊勢大神楽の獅子舞一座がやってきます。ということは、小豆島での獅子舞を演じる舞場権を手放さなかったということになります。小豆島では、伊勢大神楽が舞場権を持っている限り、村の若者達が獅子舞を行う事はできなかったというのが私の仮説です。そのため小豆島の若者達のエネルギーは、農村歌舞伎に向けられ、祭りでは獅子ではなく太鼓台(ちょうさ)にエネルギーが注ぎ込まれるようになったのではないでしょうか。巡回する伊勢太神楽一座も瀬戸内海の島々は、古くからの自分たちのテリトリーであり、将来も有望な地域です。手放すことはなかったのでしょう。一方讃岐の農村部は、もとから伊勢太神楽のテリトリーに属していないところが多かったのではないでしょうか。そこでは、獅子舞はスムーズに移植されたのかもしれません。伊勢太神楽のやって来るところは、村の祭りで獅子舞は舞われないという仮説が成立するのかどうか、今後の課題です。話が横道に逸れましたので、元に戻します。


 もともと伊勢太神楽系の獅子舞は、神興渡御に供奉することはありませんでした。
車付きの屋台に獅子頭を載せて、村の各戸をまわって悪魔祓いの祈疇の舞を演じたり、神社境内などの要所で、祈蒔の舞や曲芸を見せるのがメインでした。しかし、これが村の若者組の手によって演じられるようになると、話は変わります。村の祭りの花形として、獅子は華々しく登場します。
 その際のプロデュース役を演じたのは、村に住む山伏や修験者たちだったかも知れません。時代の流行芸能なども取り込んで、より華やかなもの、より面白いものに変化・発展しはじめます。村々の独自性が求められるようになります。そして、讃岐にはいろいろな変化バージョンの獅子が登場するようになるのは以前にお話ししました。
獅子舞、勇壮に 伊勢大神楽を披露 丹波篠山・泉八幡神社 /兵庫 | 毎日新聞
 
  讃岐の獅子と大神楽系獅子舞との違いは?
 大神楽系獅子舞の特徴は、獅子頭(木製)を被り、内部の上下顎をつなぐ横棒を口でくわえたり、顎にあてがって、空いた両手で幣や鈴・剣などを手に持って舞うことです。この獅子は、二人立ち獅子舞で初めて「両手」を使うことができるようになった画期的な獅子舞です。ところが讃岐の獅子頭の特徴は、紙製で軽く内部に縦棒がついていて、演者の頭は入りません。つまり、大神楽系獅子舞とはちがう「進化」の道を辿ることになります。それが讃岐独自の獅子舞につながります。紙製で頭が軽いので、それだけ激しく動き回れます。
 つまり、当時全国的なメジャー獅子舞であった大神楽の影響を、讃岐獅子舞は受けていないと研究者は指摘します。そして、讃岐という狭い地域でガラパゴス状態で進化を遂げてきた「変種」ともいえる獅子舞のようです。四国香川の獅子舞は、全国的にも珍しい紙製獅子芋三流の獅子舞文化であるようです。 香川の獅子舞は、うどん屋の数だけあると云われますが、その数の多さだけでなく讃岐の独自性も誇るべきなのかもしれません
以上を振り返り要点を整理しておきます
①獅子は古代ペルシャで神獣とされ、シルクロードのキャラバン隊と共に唐代の中国になってきた。
②日本の獅子舞と中国の獅子舞は、同じルーツをもつ
③日本古代には伎楽や舞楽の中で「番犬」的な役割を演じてきた
④中世には獅子は、各祭礼のパレードに姿を見せるようになり、舞うようにもなる
⑤伊勢太神楽は、全国を巡業し獅子舞を演じるようになる
⑥経済的に豊かになった村々の若者組は、伊勢太神楽から獅子舞を学び、興行権を買い取り、独自の獅子舞を祭礼で行うようになる
⑦しかし、讃岐の獅子頭は紙製で頭が入らないので、伊勢太神楽とは違う形で進化してきた独自性を持つ
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山路興造 獅子舞の原型とその変容 中世芸能の底流     岩田書店2010年」
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 私は獅子舞の始まりを、江戸時代の始め頃とおぼろげながら考えていました。
しかし、獅子舞が舞われるようになるのは、もっと後の江戸時代も後半の19世紀になってのようです。それも各集落が獅子を持つようになるのは、明治になってからの所もあるようです。
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村の神社に、獅子が登場するようになる前と、登場してからの変化について見てみます。
 江戸時代に「村」が成立し、近世の神社が讃岐の地に姿を見せるようになるのは18世紀あたりでしょうか。現在に残る各神社の棟札を見てみると、延喜式内神社などの古社を別にすると、社殿や拝殿が建てられるようになるのは18世紀頃のようです。
 もちろんそれまでも「氏神としての神社」はあったのでしょうが、社殿や拝殿を玉垣、鳥居などが整備されていくのは江戸時代後期から明治になります。このような神社のハード面の整備が先行します。そして祭礼が大衆化し、その目玉として獅子舞が登場するという運びになるようです。
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 前回に紹介したように中世15世紀半ばに琴弾八幡神社(観音寺市)の太鼓に合わせて舞う獅子現れ、江戸時代の18世紀後半に式内社・黒島神社(観音寺市池之尻町)に、紙製獅子頭を使った獅子が現れ獅子舞へと「変身」していきます。古社に導入された獅子たちが周辺の新設された神社に姿を現すのは19世紀になってからです。
祭礼記録に獅子たちが残した痕跡を追ってみましょう。 
県下の神社には、獅子舞の経費に関わる文書が数多く残されています。これらの文書を見ていくと、いつ頃に獅子舞が祭礼に定着していったのかが分かります。
その中には、獅子舞の数が増え奉納順を争ったり、新しい芸を稽古したりしことも記されています。

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       綾川町 文政9年 北の宮獅子ほうが(奉賀)帳      
 神社付き獅子(=トウヤ獅子)から組持ちの寄進獅子へ
綾川町の北宮八幡神社には、文政9年(1826)年に獅子頭をつくった時の寄付に関わる記録類が残っています。それによると当屋や獅子舞を4組が交替で務めていたようで、「当屋入目」の記録の翌年に「獅子入目」の記録があります。ここからは当屋があたった翌年に、獅子舞の役目が回ってきたことがうかがえます。
 注目したいのは、江戸時代後期のこの時代には、各組で獅子を持っていたのではないということです。つまり獅子頭は、最初は神社が購入した「神社付き獅子」を、各組が順番で担当していたのです。それが次第に、それぞれの組が持つようになります。なお、これより先の文化12年(1815)の当屋入目にも獅子が出てくることから、この時に「神社付き」獅子用具一式がつくり替えられたようです。ちなみに費用は「銀百八拾目 獅々かしら」とあり高価なものであったことが分かります。
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男山神社蔵(さぬき市寒川町年)では、今でも、各組から出される獅子とは別に「当番獅子」と呼ばれる獅子が奉納されています。当番獅子の順番がくると、自分の組の獅子と当番獅子の二頭をつかいます。これは、神社付獅子を氏子の組が輪番でつかう江戸時代の古いかたちが残っているのでしょう。県内には、他にも宮獅子、当番獅子と呼ばれる神社付の獅子だけを氏子が交替で奉納を続けている神社もあるようです。
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 もう一度整理すると、一番古い形としては神社や氏子全体で持っていて、順番に奉納当番が廻ってくるトウヤジシとかトウバンジシと呼ばれる様式です。でも、次に廻ってくる順番を待ちかねた「獅子ホッコ達」がお金を出し合ってこしらえたり、暮しに余裕ができてきた集落や、モッタサンと呼ばれる旦那衆が居る地区では「うちでも出さんか」といって単独でこしらえるところも出来てきたのでしょう。
 先ほども出てきた綾川町あたりでは、集落持ちの獅子をキシンと呼ぶそうです。これはトウヤ(陶屋・頭屋)獅子に対する言葉で、トウヤジシが祭りの神役の一つとして奉納するのに対して、キシンはすなわち寄進で、氏子から自主的に奉納するということからきた呼び名のようです。この他にも大字(江戸時代の旧村)全体で出す獅子や、広い範囲(数地区連合)で持っている獅子もあり、これらも古い形でなのでしょう。
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北宮八幡神社の獅子入目人別割付帳
獅子舞の役割は?
綾川町陶の北宮八幡神社の獅子入目人別割付帳天保3年(1832)には、獅子役割として、獅子遣・太鼓打・曲太鼓・鉦・摺鉦・狸々舞などの役が記されています。この記録からは、獅子遣に2名の名前があり「二人遣い」だったことが分かります。また、獅子舞に「狸々舞」という獅子あやしのような芸が付いていたようです。
また、天保7年(1836)の記録には「ならし」と呼ばれる獅子舞の稽古について「獅子拍子始テミタチ流二相改候二付彼是ならし夜数例年より席数余分二相成候」などとあり、ミタチ流という新たな獅子舞の芸に改めたために稽古数が増えたことを記しています。私は祭礼の奉納のための獅子舞ですから先祖から受け継いだ物を大事に継承しているものとばかり思っていました。ところが、旧来の流派から新たな流派に変更することも頻繁に行われているのがうかがえます。
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             「獅子三頭始より究書」
獅子舞の奉納順番をめぐって争った高屋神社
嘉永3年(1850)の坂出市高屋町に「獅子三頭始より究書」と題された記録があります。もともと高屋神社には獅子が1頭だけでした。ところが、やがて南北2頭になって争いが起きるようになり、ついには獅子舞が奉納できなくなる事態になります。そこで嘉永3年(1850)に遍照院の仲裁で、もう1頭新設してより3頭に別れて奉納することになりました。獅子の数が1頭から2頭へと増えたことで、その順番をめぐって争いが起こっていたようです。神社で1頭の獅子しかいなかった頃には、起きなかった争いが何頭もの獅子が登場することで、奉納順や位置をめぐっての争いが各地でおきたことが残された文書から分かります。
獅子舞をめぐる取り決めを額にして随身門に掲げた国分八幡宮
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         国分八幡宮獅子順番定書(上)と追條目(下)
国分八幡宮蔵(高松市国分寺町)の定書も、安政6(1859)年の幕末期のものです。獅子舞を出していた下所・大東・東奥・馬場の4組では、神前の席順で争論が絶えませんでした。そこで安政6年(1859)未年と翌申年の奉納場所を取り決めたものがこれです。
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「追條目」は、定書を定めたのに翌年にまた争いが起こったので、獅子奉納については総代頭と相談して争いのないようにすること、獅子舞の宰領等は羽織袴で来るようになどと定められています。威儀を正して、争いの起きないように監視せよと言うことでしょうか。この神社では、この定書を額にして随神門に掲げてきました。争いの激しさと、それを収めるための智慧がうかがえます。
 ところが同社に伝わる「祭典奉納獅子席次帳」(昭和10年・1935)によると、その後も争いは絶なかったようです。そこで明治22年(1889)には、祭礼前日のトウヤ、当日の神殿前、お旅所それぞれの獅子組の奉納席順を定めています。また、昭和15年(1940)には、江戸時代に取り決めた6ヶ條の追條目で獅子舞奉納についての責任の所在などについて、坂出警察署国分駐在所巡査の立ち合いのもと協定をしているのです。獅子舞をどの場所で奉納するか、何番目に奉納するのかは獅子組にとって非常に重要だったのです。
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獅子頭の大型化は?
 江戸時代後半の天保年間に由佐の大溝の人たちによってつくられた「由佐古河の大獅子」と称される獅子頭です。獅子が各神社に姿を見せるようになった2百年前には獅子頭の大型化という現象も見られるようになりますます。現在の獅子頭は明治24年(1891)につくり替えられたものと伝わり、頭には「大正十口年」「昭和五十一年修繕/三豊郡三野町丸岡光信」などの銘があります。修理が重ねられて百年以上も使われてきたことが分かります。
 冠綴神社の祭礼には、池内大獅子(ともに県有形民俗文化財)と夫婦獅子として供奉されます。高さ90cm、幅160cm、奥行100㎝ 重さ50kg、油単の長さ12mで、運行には25人ほどの人手が必用です。
昭和の獅子舞大会がもたらした物は?
昭和になると獅子舞がさらに風流(ふりゅう)化しショウアップされるようになります。それが獅子舞大会の各地での開催でした。
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        県下獅子競技大会の優勝旗 昭和6年(1931)
 昭和6年に昭和天皇の御大典記念事業として多度津町に桃陵公園が開園します。その記念行事として「桃陵公園開園記念県下獅子競技大会(第1回)」(多度津商工会)が開かれ、ます。その時に優勝した家浦二頭獅子舞(三豊市仁尾町)が保存する優勝旗です。これをきっかけに開戦までは、県内各地で獅子舞大会が開かれるようになります。各獅子組は、県内から集まった獅子組との競演によって刺激を受けることになります。獅子頭や油単にも贅がこらされ、演技方法にも今までにないものが取り入れられ、獅子舞の「差別化」が進みます。この上に、現在の獅子舞はあります。そういう意味では獅子舞の歴史は、そんなに古い物ではないといえるのかもしれません。
さまざまな油単(ゆたん)
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          獅子舞油単  奥村定義製作(宇多津町) (戦後)
 獅子舞の胴をあらわす布は、香川県では油単(ユタン)、着物(キモノ)、幕(マク)などと呼ばれます。栗林公園の民芸館が所蔵するのり染の油単は、香川県の伝統的な絵模様の一つです。獅子油単の絵模様は、武者絵や龍虎などの絵模様が多いのですが、他にも毛模様や神紋などを配した油単、馬のたてがみを植えた油単も現れ、趣向が競われるようになります。
大漁旗が継ぎ当てされた油単
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 坂出市の白峰宮に奉納している原獅子舞保存会が使用していた稽古用の油単です。
古くなった油単に大漁旗の継ぎ当てされています。
戦争中は獅子舞が中止されていましたが、戦後になると混乱の中でも獅子舞を復活しようとする動きが出てきます。しかし、物がありません。最初は布団地の布を急造の油単にして復活させます。それでお花を集めてお金を貯め、新しい油単や獅子頭を購入したというところが多いようです。用具が十分でなくても獅子舞の復活を望んでいたのでしょう。
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  神風号東京-ロンドン間最短飛行時間樹立記念 白方自治会蔵(さぬき市鴨庄)
 さぬき市鴨庄の白方自治会の獅子に使われていた油単です。昭和12年(1937)に、朝日新聞社の「神風号」が東京-ロンドン間の最短時間新記録樹立(51時間19分23秒)しました。これは当時の日本にとっては、大きなニュースとして報じられ国民の心を揺さぶりました。それをテーマに図案化された油単です。中央は飯沼操縦士と塚越機関士で、当時のヒーローとなりました。油単には、社会の流行テーマも取り入れたのです。それは、中世以来の祭礼の風流(ふりゅう)化の流れを受け継いだ物なのでしょう。
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      獅子舞油単(乃木希典)  陶大宮八幡神社西川南組(祓川町)
 善通寺第11師団初代師団長として香川県にもゆかりの深い乃木希典の騎乗姿を図案化した油単です。乃木将軍は国定教科書に取り上げられるなど知名度も高く、庶民にも親しまれる人物だったので、英雄視されて油単にも登場しています。しかし、近代人が油単に登場するのはごく稀です。
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        虎頭の舞用具    東かがわ市白鳥虎頭舞保存会蔵
 東かがわ市の白鳥神社には獅子頭でなく虎頭舞が奉納されます。和唐内、虎つかい、鉦打ち、太鼓叩き、笛吹き 笹張り、拍子木、頭取で構成されます。面白いのは近松門左衛門の「国姓爺合戦」にちなんで、歌舞伎の趣向を取り入れて、隈取りをした少年扮する和唐内が虎を退治するストーリーが演じられるのです。大正11年(1922)に摂政宮であった昭和天皇が陸軍大演習の視察のため来県したおりには、善通寺第11師団で演じたようです。県内には、三本松・富田・津田でも虎頭が舞われていますが珍しいものといえます。

さて獅子舞がさかんに舞われる讃岐ですが、いろいろな問題に直面しています。
さきほど、大漁旗を貼り縫いして油単にしていた原集落では、それ以後も子舞存続のためのさまざまな取り組みをしています。
昭和30年(1955)頃、戦後休止していた獅子舞を青年会で復活。
平成10年(1998)若者不足により青年会による獅子舞奉納を中止。代わって年齢制限のない保存会発足。同時に中学・高校生による後継者育成開始
平成15年(2003)中学生、高校生による獅子舞開始
平成16年(2004)女子中学生による獅子舞(つかい手)開始
平成17年(2005)太鼓打ちに小学生女子児童がデビュー。
 原獅子舞保存会をはじめ、県内の多くの獅子組で、地域社会の変化に対応したさまざまな工夫が重ねられているようです。
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参考史料 香川県立ミュージアム 香川・瀬戸内の風流 祭礼風流

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