瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:玉手山古墳と快天塚古墳

 
古代讃岐には、4世紀後半から5世紀前半に、古墳の石棺をつくる技術者集団がいて、各地の豪族たちの需要に応じていたようです。石棺製作集団は次の2グループがありました。
①綾歌郡国分寺町鷲の山産の石英安山岩質凝灰岩を石材として用いた集団
②大川郡相地(火山)産の白色をした石英安山岩質凝灰岩を石材として用いた集団
①の鷲の山産の石棺は、海をわたって近畿にまで「輸出」されています。この石棺を作った技術舎集団を管理支配していたのが快天山古墳の被葬者、
②の相地産の石を使った集団を支配したのが、讃岐凡氏につながる人物と羽床正明氏は考えているようです。
快天塚古墳

快天塚古墳
快天塚古墳は4世紀後半につくられた全長約100mの讃岐有数の前方後円墳です。この古墳からは三基の石棺が出土し、
一号石棺からは舶載方格規矩文鏡と碧玉製石釧が、
二号石棺からは竹製内行花文鏡が、
三号石棺からは同じく傍製内行花文鏡

快天塚古墳第2号石棺

快天塚古墳第3号石棺
快天塚古墳の石棺

『播磨国風土記』印南郡の条には、羽床石が次のよう記されています。
帯中日子命(仲哀天皇)を神に坐せて、息長帯日女命(神功皇后)、石作連大来を率て、讃伎の国の羽若(羽床)の石を求ぎたまひき。

ここからは神功皇后が仲哀天皇のために、讃岐の国の羽若の石を求めて、古墳をつくろうとした物語が記されています。事実、大阪府柏原市からは、次の2つの讃岐の鷲の山産の石棺が見つかっています。
①柏原市安福寺の勝負山古墳出土と伝えられる鷲の山産の石棺のふた
②柏原市の松岳山古墳から長持形石棺
1柏原市安福寺の勝負山古墳出土
安福寺境内に安置されている割竹形石棺の蓋

 柏原市玉手町の安福寺境内に安置されている割竹形石棺の蓋は、勝負山古墳から出てきたという伝承があるようですが、棺身は見つかっていません。この石棺は、香川県の鷲ノ山産の凝灰岩をくり抜いて造られています。この石棺によって、玉手山古墳群の被葬者集団が、香川県の集団と何らかの関係をもっていたことがわかります。両小口面の縄掛突起は削りとられ、周囲には直弧文と呼ばれる直線と曲線を複雑につないだ線刻がみられます。何らかの呪術的な意味があるようです。
1柏原市kohunngunn

柏原市玉手山古墳群(3号墳が勝負山古墳)

②の松岳山古墳は後円部墳頂に組合式の石棺が露出していて、竪穴式石室が確認されています。
1柏原市河内松岳山古墳2

 この組合式石棺は、底石と4枚の側石、そして蓋石の計6枚の板状の石材が組み合わされています。古墳時代中期の大王墓などで使用される長持形(ながもちがた)石棺と同じタイプで、そのの初期タイプのものと研究者は考えているようです。 石棺の底石と蓋石は黒雲母花崗岩(くろうんもかこうがん)を使用されていますが、まわりを囲む側石4枚は香川県の鷲の山産の凝灰岩が使われています。快天塚古墳が築かれた時代に、鷲の山の石材が摂津柏原まで海を越えて運ばれていたようです。
1柏原市河内松岳山古墳
松岳山古墳の長持形石棺と石室周辺


 大阪府から、鷲の山石棺が出土したということは、「播鷹国風土記が」が事実をもとにして書かれたことがうかがえます。風土記にあるように讃岐で作られた石棺が各地に「輸出」されていたと云えそうです。同時に、快天塚の主と柏原の首長は、密接な関係にあったことがうかがえます。
 しかし、羽若(羽床)は快天塚古墳がある所で、石材を産するわけではありません。
石材は鷲の山産なのです。これをどう考えればいいのでしょうか。
  ①羽若は地名の羽床のことではなく、羽床を拠点とする勢力が管理支配していた羽床石とする説
快天山古墳の出現期には、国分寺エリアでは前方後円墳が作られなくなっています。そのため快天塚古墳の主は、国分寺方面まで支配エリアを広げていたと考えています。そうすると石材の産地である鷲の山は、その支配エリアに含まれます。快天塚古墳のある羽床地区は、この豪族の勢力基盤の拠点であったからこそ、この勢力基盤にちなんで羽床の石が羽若の石と誤伝されたと羽床氏は考えているようです。
快人山古墳のある綾歌町栗熊住吉と羽床は、わずかの距離です。快天塚古墳の主にとって羽床は、その勢力の中心となる重要な地区であり、そこから『播磨国風土記』のような誤伝が生まれたとしておきましょう。
蔵職の設置と鷲住王
「日本書紀」の履中天皇6年2月癸丑朔条には、讃岐国造の祖の鷲住王について次のように記されています。
二月の癸丑の朔に、鮒魚磯別王の女太姫郎姫・高鶴郎姫を喚して、後の宮に納れて、並に妃としたまふ。是に、二の濱、恒に歎きて日はく、「悲しきかな、吾が王、何処にか去りましけむ」といふ。天皇、其の歎ぐことを聞じめして、問ひて曰く、「汝、何ぞ歎息く」とのたまふ。
 対へて曰さく、「妾が兄鷲住王、為人力強くして軽く捷し、是に由りて、独八尋屋を馳せ越えて遊行にき。既に多くの日を経て、面言ふこと得ず。故、歎かくのみ」とまうす。
 天皇、其の強力あることを悦びて喚す。参来ず。亦使を重ねて召す。猶し参来ず。恒に住吉邑に居り。是より以後、廃めて求めたまはず。是、讃岐国造・阿波国の脚咋別、凡て二族の始祖なり。
意訳変換しておくと
履中天皇6年2月に、鮒魚磯別王の女太姫郎姫・高鶴郎姫のふたりを、後宮に入れて妃とした。二人の妃は「悲しいことよ、吾が王が、何処にか去ってしまいました。」と嘆くのを天皇が、聞いて、「どうして、悲しみ嘆くのか」と問うた。
 「私の兄鷲住王は、力強くて身も軽く捷く。独八尋屋を馳せ越えて遊行に行ってしまいました。長い月日が経ちますが帰ってきません。故に、悲しんでいます」と答えた。
 天皇は、妃の兄が秘めた力を持っていることに興味を持ち召喚した。しかし、やって来ない。再度召喚したが、やはりやって来ない。住吉邑から離れようとしない。そのため以後は、召喚しなかった。この鷲住王が、讃岐国造・阿波国の脚咋別の二族の始祖である。

ここには住吉邑に強力な能力を持つ鷲住王がいて、これを履中天皇は召喚しようとしたが応じなかったこと。鷲住王が讃岐国造・阿波国の脚咋別の始祖であることが書かれています。
それでは、鷲住王が住んでいた住吉邑というのはどこなのでしょうか。当然思い浮かぶのは摂津の住吉(大阪市住之江区)です。それなら摂津に住む鷲住王が、どうして讃岐国造になるのでしょうか。
ここで羽床氏は「異説」を出してきます。
鷲住王がすんだ住吉邑とは、大阪府の住吉ではなく、讃岐の国の栗熊村の住吉だ。そうでないと鷲住王が、讃岐の国造と阿波の脚咋別の二族の始祖となった説明がつかない。

というのです。これはすぐには私には受けいれられませんが先を急ぎます。
履中紀の物語は、『日本書紀』にあって、『古事記』にはありません。そこで、鷲住王の物語は、713年に撰進の命令が出された風土記のうちの『讃岐国風土記』にあったもので、『日本書紀』の編者が『讃岐国風土記』を見てとりいれたとの推定します。とにかく風土記がつくられた八世紀になっても、快天山古墳をもとにした鷲住王の物語は、讃岐で流布していたと推測します。
快天塚古墳周辺地図

たしかに快天塚古墳は、栗熊の住吉の丘陵に、あたりを威圧するかのごとく築かれています。そして近くには住吉神社もあります。快天山古墳がもとになって、讃岐国造の祖の鷲住王の物語がつくられたと云える材料はあります。
 快天山古墳の主の先祖は、前方後円墳祀りを共有する「ヤマト政権」に初期から参加していたメンバーだったのでしょう。初期の前方後円墳が周辺からはいくつも見つかっています。連合政権のメンバーとして、先端技術や鉄器を手に入れ、大束川や綾川流域の開発を進め、栗熊から羽床の辺りに、あらたな拠点を構え周辺領域を支配するようになったのが快天塚古墳の主だったと私は考えています。
快天塚古墳第3号石棺2
快天塚古墳の第3号石棺

地方の首長にとって、ヤマト政権との関係は微妙なものがあったのではないでしょうか。同盟者であると同時に、次第に抑圧者の姿も見えるようになります。羽床エリアを拠点とする首長は、鷲の山の石棺製造集団を管理して、石棺を他の豪族に供給することでネットワークを広げようとしていたのかもしれません。それはヤマト政権の介入を許さないためであったかもしれません。しかし、快天塚古墳の主の後に起こったことを推察すると、ヤマト政権はこの地から石棺製造集団の引き離し、播磨などの石の産出地に移動させることを命じたようです。そして、快天塚古墳の後継者達は衰退していきます。それは快天塚続く前方後円墳がこのエリアからは姿を消すことからうかがえます。つまり、快天山古墳の後継者達はヤマト政権に飲み込まれていったようです。
古墳時代の羽床盆地と国分寺を見ておきましょう。
快天塚古墳編年表

羽床盆地では,快天塚古墳を築造した勢力が4世紀から5世紀後半まで盆地の指導的地位を保っていました。この集団は,快天山古墳の圧倒的な規模と内容からみて,4世紀中頃には羽床盆地ばかりでなく,国分寺町域も支配領域に含めていたと研究者は考えているようです。
上の古墳編年表を見ると国分寺町域では、4世紀前半頃に前方後円墳の六ツ目古墳が造られただけで、その後に続く前方後円墳が現れません。つまり、首長がいない状態なのです。
 その後も羽床盆地北部では、大型横穴式石室が造られることはありませんでした。羽床勢力は6世紀末頃になると勢力が弱体化したことがうかがえます。坂出地域と比較すると,後期群集墳の分布があまり見られないことから、坂出平野南部に比べて権力の集中が進まなかったようです。そして、最終的には坂出平野の勢力(綾氏)に併合されたと研究者は考えているようです。これは継続して前方後円墳を作り続け、古代寺院建立にいたる善通寺勢力とは対照的です。

以上をまとめておくと
①『播磨国風土記』にでてくる羽若(羽床)とは地名で、石棺を製作した集団が快天山古墳の主によって支配されていたところから、その支配者の中心勢力だった地名をとって誤伝された。
②快天山古墳は讃岐で2番目の規模をもつ古墳で、当時は善通寺勢力と拮抗する勢力を持っていた
③快天塚の主は、生前の権力と古墳の規模の大きさから、履中紀に鷲住王の物語がつくられ、風土記を経て『日本書紀』の中にとりいれられた
④石棺をつくった石工たちは通常は羽床に住み、鷲の山山麓に石棺をつくる仮設小屋を設け、仕事をした。
⑤飯山町西坂元には鷲住王の墓と伝えられる古墳があって、銅金具・刀剣・勾玉・管玉・土器が出土している。しかし、古墳は鷲住王のものではない。鷲住王の伝説を生み出したのは、住吉趾にある快天山古墳であった。
⑥快天山古墳の上に、快天和尚の墓がつくられ、快天和尚の墓として有名になると、鷲住王の墓が別のところに求められ、それが飯山町西坂元の鷲住王墓とされるようになった。
⑦しかし、古代(奈良時代)の人たちは、快天山古墳を鷲住王の墓としていた。

ちなみに、鷲住王は阿波国造の祖ともされています。


そのため讃岐以上に、阿波では鷲住王の拠点探しが昔から活発に展開されています。いまでも「鷲住王」で検索すると、数多くの説が飛び交っているのが分かります。一方、香川では「鷲住王」の知名度は低いようです。それは「神櫛王」が讃岐国造の祖という伝説が中世以後に拡大し、競合関係にあたる「鷲住王」は、故意に忘却されたからのようにも思えます。
 讃岐では日本書紀の履中紀の物語よりも、中世に作られた綾氏の出自を飾る神櫛王伝説の方が優先されるようになり「鷲住王」にスポットが当たることがなかったと云えるのかも知れません。
  快天山古墳を、讃岐国造の始祖となった鷲住王の墓と考える説があることを改めて心に刻みたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献

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