古い写真を集めて、デジタル化して保存していくという動きが各地で進められています。まんのう町教育委員会でも、今までに保存されていた写真のデジタル化を行っています。その一部を見せてもらいました。今回はその中から、天空のそば畑・島ケ峰の変遷を、残された写真で追いかけて見たいと思います。

今年も多くの人が訪れそうな「そばの花見会」。頂上附近にはこんな光景が広がります。

天空のそば畑には、先人たちの歴史が刻まれていました。それを目で見える形で残してくれているのがアーカイブに保存された写真資料だと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
まんのう町教育委員会 デジタルアーカイブ
琴南町誌1027P 573P
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今年も多くの人が訪れそうな「そばの花見会」。頂上附近にはこんな光景が広がります。
天空に拡がる島が峰のそば畑(まんのう町)

それでは、そば畑になる以前の島ケ峯はどうだったのでしょうか?
ここから読み取れる情報を挙げておくと
①川東村の入会の野山で、共同の柴草刈場であった。
②明治になって農家に分割され下草を刈ったり、炭焼をするのに利用されてきた。
③昭和十(1935)年ごろ、スキー場計画が持ち上がったが実現しなかった。
放牧場だった島ケ峯(1970年頃) 放された牛が何頭か見える
島ケ峯放牧場の草刈り(写真 まんのう町教育委員会提供)
それでは、そば畑になる以前の島ケ峯はどうだったのでしょうか?
琴南町誌1028Pには、次のように記されています。
この集落の裏山頂上に島ヶ峯と言われる広い平坦地がある。この一帯はもと①川東村の入会の野山であって、共同の柴草刈場であった。明治になりこの地区の農家に分割されたもので、下草を刈ったり炭焼をするのに利用されてきた。昭和十(1935)年ごろ、阿讃自動車株式会社が、ここを②スキー場として売り出そうと宣伝に努めたことがあったが、諸条件が整わず定着するには至らなかった。
ここから読み取れる情報を挙げておくと
①川東村の入会の野山で、共同の柴草刈場であった。
②明治になって農家に分割され下草を刈ったり、炭焼をするのに利用されてきた。
③昭和十(1935)年ごろ、スキー場計画が持ち上がったが実現しなかった。
琴南町では、ここを牧場として畜産振興を図ることを計画し、昭和41年から三か年継続で牧野造成事業を実施し、43㌶を開墾し③牧場を造成した。川奥周辺農家に和牛を導入させ、冬期を除いてここで放牧飼育した。昭和45年ごろは、120頭余の牛が飼育されていた。ところが間もなく牛価の急激な低落により大打撃を受け、ついに昭和47年牧場は閉鎖された。
放牧場だった島ケ峯(1970年頃) 放された牛が何頭か見える
島ケ峯放牧場の草刈り(写真 まんのう町教育委員会提供)
昭和55年に至り、牧野を再開発してキャベツを作ろうとする周辺地域の人々による共業体がつくられた。それから数年にわたって再開発が行われ、大型機械を使ってのキャベツ生産団地として生まれ変わり、琴南随一の④高冷地集団農場となり、品質のよいキャベツが生産されるようになった。
④昭和41(1966)年から43㌶を開墾し牧場を造成し、和牛の放牧飼育を開始した
⑤しかし、牛価の急激な低落で昭和47(1972)年に牧場は閉鎖した。
⑥昭和55(1980)年に、高原キャベツ野菜に再開発され、高冷地集団農場となった。
その後、放置されていたのを近年に有志によってそば畑としリニューアルされたという歴史が見えて来ます。
⑥昭和55(1980)年に、高原キャベツ野菜に再開発され、高冷地集団農場となった。
その後、放置されていたのを近年に有志によってそば畑としリニューアルされたという歴史が見えて来ます。
島ケ峯のキャベツ収穫風景
旧琴南地区に、キャベツがどのようにして根付いていったのかを見ていくことにします。
琴南にキャベツがもたらされたのは、北海道への開拓農民からでした。葛籠野集落の黒川正行の叔父で、北海道旭川に住んでいた黒川嘉之助から、明治末にキャベツの種子が送られてきたのを栽培したのがはじまりとされます。品種は中生サクセッション系で形体が大きく、美味しそうな大きく伸びた鬼葉を食べてなると、とても苦くて食べられたものではなかったようです。そこで手紙で問い合わせたところ、キャベツは玉を食べるものだと知らされ、大笑いしたしたというエピソードが伝えられます。葛籠野のキャベツになるまでには、苦労の連続だったようです。それが軌道に乗ると、周辺の、名頃・大佐古・勝浦・仲野へと拡大します。
琴南にキャベツがもたらされたのは、北海道への開拓農民からでした。葛籠野集落の黒川正行の叔父で、北海道旭川に住んでいた黒川嘉之助から、明治末にキャベツの種子が送られてきたのを栽培したのがはじまりとされます。品種は中生サクセッション系で形体が大きく、美味しそうな大きく伸びた鬼葉を食べてなると、とても苦くて食べられたものではなかったようです。そこで手紙で問い合わせたところ、キャベツは玉を食べるものだと知らされ、大笑いしたしたというエピソードが伝えられます。葛籠野のキャベツになるまでには、苦労の連続だったようです。それが軌道に乗ると、周辺の、名頃・大佐古・勝浦・仲野へと拡大します。
キャベツ生産が急速に増えた背景について、琴南町誌570Pは次のように記します。
①唯一の換金作物であったたばこ耕作が衰退化し、代替え農作物が求められていたこと②キャベツが高冷地栽培のため、夏出しキャベツが生産できて、競争力があったこと。③キャベツに病虫害も少なく、品質と味がよく、高価に販売できたこと④たばこに比べると、労働力が少なくてすんだこと。
高冷地栽培として導入したキャベツのメリットは、平地部の産地が高温のため、病虫害その他により高品質のキャベツが生産できない七月に出荷して、高価に販売できることであった。ところが最近は、全国的に品種改良や病虫害予防の研究が進み、平地部においても、その生産が拡大した。そのため美合地区の栽培は、主として八・九月産のキャベツに切り替えた。しかし、連作の問題と、労働力配分の問題などによって、この時期だけの生産にしぼることができず、中熊などで行っているたばことキヤベツの組合せ栽培という方法がとられている。
ここには信州の嬬恋などの高原キャベツとの産地間競争が激化して、苦戦していることが記されています。こうして1980年代になると、病害発生や生産者の高齢化もあってキャベツ生産は廃れていきす。「農地も荒廃して、8ha程あった畑はすっかり草と木に覆われてしまった」と、関係者は回顧しています。そんな中で2016年、旧琴南町の会社などをリタイアされた数人が、この美しい島ヶ峰を次世代に残そうと一念発起し、手持ちの重機と力作業で少しずつ開墾して、約4ヘクタールの見事なそば畑に生まれ変わらせました。この風景を「次世代に残したい」という想いの中から誕生したのが「島ヶ峰そば」です。

天空のそば畑には、先人たちの歴史が刻まれていました。それを目で見える形で残してくれているのがアーカイブに保存された写真資料だと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
まんのう町教育委員会 デジタルアーカイブ
琴南町誌1027P 573P
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