瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:琴平急行電鉄

第一次大戦後の1920年代に琴平には4つの鉄道が乗り入れていました。今回は最後に乗り入れてきた琴平急行電鉄(コトキュウ)について見てみましょう。まずは、いつものように年表チェック

琴平に乗り入れていた4つの鉄道

琴平急行電鉄は、1930年4月に金刀比羅宮へ乗り入れます。琴平参詣路線としては4番目の最後の乗り入れになります。起点になる坂出は、丸亀と並んで本州と四国をつなぐ重要な港町で、金刀比羅宮へ参拝客増加から充分に採算がとれると見込んだようです。しかし、髙松や丸亀・多度津と比べると、参拝客の利用は各段に劣りました。その上に、坂出には先行するライバル会社として、琴平参宮電鉄(路面電車)と、鉄道省(後の国鉄)予讃本線支線(現・四国土讃線)があり、それぞれの駅は下図のように隣接していました。
坂出駅 3つの駅

1935(昭和10)年の坂出駅周辺 ①鉄道省 ②琴平参拝鉄道 ③琴平急行
さらに琴平電鉄(琴電)が、宇高連絡船の発着する高松市から琴平まで路線を先に延ばしています。そこに後から割り込んでいくという構図になります。これは当時の人口からしてしても過当競争です。その上沿線は、農村地帯を結ぶ「人口希薄地帯」です。営業は当初から不振が続きます。
 琴平急行電鉄の強みは、その名が示すとおり、何と言ってもそのスピードでした。

坂出発琴平 3つの路線図
会社名   略称     路線距離 所要時間  運行間隔
琴平急行  コトキュウ   15.7km  41分  25分
琴参電鉄  コトサン    20.6km  70分  15分
国鉄(省営)ショウエイ   22.3km  50分  16往復
琴平参宮電鉄(琴参)が坂出・丸亀から善通寺を経由し琴平まで70分かかるのに比べると、琴平急行電車は琴平まで一直線で41分で結びました。それは新型の大型車両で、スピードが出せたからです。
琴平急行電鉄デ1形電車
            琴平急行電鉄デ1形電車
電車は日本車輌製造で作られた制御電動車の新型車両が6両導入されました。そのため乗り心地もよくスピードもだせたようです。ちなみに社名の「急行」は、路面電車の琴平参宮電鉄や汽車の土讃線に比べて速いという意味でで、実際には全列車が各駅停車だったようです。

琴平急行 路線図
                琴平急行電鉄のパンフレット
このパンフレットの真ん中には、丸亀平野のシンボルである讃岐富士(飯野山)が描かれています。そして、左側に赤く坂出と、右側に象頭山金毘羅さんがあり、両者をコトキュウ(琴急)が一直線に結ぶ様子がデフォルメされて描かれています。「坂出からは、コトキュウが琴平に一番早い!」を売り物にした広報戦略は、先行する省線(鉄道省)やコトサンに危機感を抱いたようです。

琴参2
丸亀・多度津からの金毘羅参拝の利便性をアピールする琴参

電車るーと香川
コトキュウの路線を包囲するかのような琴参・琴電連合(?)
琴電のCM
琴電のパンフレット 髙松から琴平への「ちかみち」鉄道をアピールしている


坂出駅と琴平急行鉄道駅
     隣接する坂出駅(鉄道省)と琴平急行電鉄
 それに拍車を掛けたのが、先ほど見たように3社の坂出駅が隣接していたことです。金毘羅参拝客は、坂出の3つ駅の前で、乗る電車を選びます。その際に、早くて快適で時間は半分で安いとなれば、琴平急行が選ばれるのが当然になります。そのため各社間の競争は熾烈なものとなりました。特にコトサンとコトキュウの競争は激しかったようです。タオルや石鹸などの景品付乗車券や映画入場券付乗車券なども販売され、両社で競い合います。

琴平急行 乗車券2
    琴平急行の切符     「女学校前」は現在の坂出商業高校

琴平急行電鉄駅名
     琴平急行電鉄の駅 (数字は坂出駅からの距離数)

琴平急行電鉄にはスピードという武器がありましたが、それは坂出・琴平間を直線に結んでいたからです。しかし、それは一方では沿線観光不足という弱点にもなります。また沿線が坂出・琴平間の農村部ということは、通勤客などの固定客不足ということを意味しました。そこで会社は、次のような沿線の観光資源開発に尽力します。
①讃岐富士と呼ばれる飯野山
②1922年に陸軍特別演習の時に、皇太子(後の昭和天皇)の御野立台となった与北村の買田池周辺
③1932年8月7日に、坂出小歌の盆踊りを飯野余興所で3年連続で開催
琴平急行 飯野山
       コトキュウの讃岐富士登山案内 
このように人を集めるためのイベントを行って乗客確保に努めています。コトキュウはコトサンと競いながら、沿線開発やさまざまなイベントを開催しますが、営業的には苦しかったようです。

コトキュウ開業の2年後には日中戦争が勃発します。
戦時体制が色濃くなった1938年8月には、国は鉄道・バス会社の整理統合の促進をはかるため陸上交通事業調整法を施行します。4つの鉄道が乗り入れ鉄道過密状態にあった丸亀平野は、「交通事業調整委員会」での審議した結果、適用地域に指定されます。その結果、鉄道会社の統合が国策によって進められます。1943年11月1日に琴平電鉄、高松電気軌道、讃岐電鉄の3社は統合され、高松琴電気鉄道が誕生します。そして、コトキュウは1944年1月に営業を休止します。
それでは「日本車輌製造」で作られた6両の車両は、どこにいったのでしょうか?

琴平急行電鉄デ1形電車2
 女学校前駅から川津駅に向かって走る琴急(現在の坂出商業高校付近でバックは笠山)
琴平急行鉄道路線1
①コトキュウ坂出駅→②女学院(坂出商業)→③川津駅(鎌田池西)→津之郷駅の線路が見える 

坂出市史には「全施設を撤去し、日本占領下にあった南方のセレベスに送るために営業を停止した。」とあります。しかし、これは誤りのようです。14年しか使用されていなかった車両の第二の働き先は海外ではなく国内でした。沿線に多くの軍需関連施設を抱えて、輸送力増強が急務であった名古屋鉄道(名鉄)へ、全6両が譲渡されます。書類上は1944年3月7日付認可で譲渡されたこととなっていますが、名鉄側に残る記録では前年の6月購入とあるようです。ここからはコトキュウは1944年1月以前に営業休止になっていた可能性があります。考えて見れば1944年というのは、南洋航路が途絶え、敗戦が明らかとなっていた時代です。そこに鉄道を移築するということは考えられない話かもしれません。
琴平急行 琴平駅

琴平急行電車(コトキュウ)の琴平駅 (現琴平郵便局)
琴平急行
「急行電車のりば」の看板が屋上に掲げられている
開業時の1930年にコトキュウに導入された電車6両は、終戦末期に名古屋鉄道で第二の人生を送ることになります。ウキで「 琴平急行電鉄デ1形電車」を検索すると、次のように記されていました。

 譲渡後のデ1形1 - 3・5・7・8は、名鉄においてはモ180形の形式称号およびモ181 - モ186の記号番号が付与された。導入に際してはパンタグラフを名鉄における標準機種であった東洋電機製造PT-7へ換装した程度の小改造に留められ、当時架線電圧が直流600 V規格であった尾西線において運用を開始した。当時の尾西線は、尾西線を敷設・運営した尾西鉄道発注のモ100形(初代)など高経年の木造車によって運行されており、小型車ながら比較的経年の浅い半鋼製車体を備える本形式は琴平急行電鉄にちなんだ「こんぴらさん」の愛称で呼称され、利用者や現場から歓迎されたという。また戦中戦後の混乱期においては、構造の単純な直接制御仕様の本形式は間接制御仕様の他形式と比較して故障が少なく、尾西線の輸送力維持に貢献した。

「琴平急行電鉄にちなんだ「こんぴらさん」の愛称」で呼ばれていたという所を見て、なにかホッとしたような気になりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史通史 近代篇
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琴平に4つの鉄道が乗り入れていた時代

 1889年に丸亀ー琴平間にマッチ箱のような小さな客車4両の汽車が走り始めます。しかし、以後30年間、土讃線は南に伸びることはありませんでした。第一次世界大戦後にやっと財田までの延長工事が始まります。そして、今から約百年前の1920年代は、琴平に次々と電車が乗り込んでくるようになります。琴平には4つの鉄道駅が並立する時代を迎えるのです。その過程を見ていきましょう。
日露戦争後の讃岐では、電気軌通会社の設立が次のように行われます
1908 明治四十二年十月 高松電気軌道が設立。
1909 明治四十三年五月 東讃電気軌道が設立
1910 明治四十四年九月 讃岐電気軌道(後のコトサン)が設立
しかし、琴平までの開業は、第一次世界大戦後のことになります。
それをまず年表で確認しておきましょう。
1919 大正8年3月 土讃線 琴平-土佐山田間の路線決定
1920  2月 高松-琴平間の「コトデン鉄道申請」の認可状交付
1920  4月 3日 土讃線琴平~財田着工。
1922 10月22日 琴平参拝電車の丸亀-善通寺間の開業
1923  5月21日 琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
1923  8月 5日 コトサン善通寺-琴平間開通 琴平駅が開業
1924 10月 9日 コトサン 善通寺-多度津間の開業
1928  1月22日 コトサン 丸亀-坂出間が開通して全線開業
1929  3月15日 「コトデン」が、琴平町へ乗り入れ開始
1929  4月28日 土讃線 財田-阿波池田間完成。
1930  4月 7日 琴平急行電鉄 坂出 - 電鉄琴平間を開業
1935 11月28日 土讃線開通、高松・高知間が全通。
1944  1月    琴平急行が不要不急線として営業休止。
  琴平への乗り入れの順番で、3つの電車会社を見ていくことにしましょう。まずはコトサンです。
 国鉄の財田までの延長に伴い、土讃線は琴平市街の東を迂回するルートになり、新駅も建設されます。創業以来、30年以上使われてきた旧琴平駅は廃止されます。その旧駅舎に隣接して、コトサンの新琴平駅が建設され、3ヶ月後にチンチン電車の終着駅となります。

コトサンが開業までに18年もかかった背景は?

讃岐電気軌道表紙
讃岐電気軌道株式会社設立趣意書(1904年)

  琴平参宮電鉄(コトサン)が、営業申請したときの社名は「讃岐電気軌道株式会社」で、明治37年(1904)のことです。その趣意書には次のように記されています。
讃岐電気軌道設立趣意書2
讃岐電気軌道の設立趣意書
予定の運行経路図です。
讃岐電気軌道株式会社1
讃岐電気軌道の敷設予定図(朱線部)
讃岐電気軌道予定図 琴平
琴平・善通寺間の路線予定表
讃岐電気軌道 善通寺
善通寺周辺の路線予定図

予定運行経路です。線路が書き込まれているのが讃岐鉄道(現JR路線)です。多度津から西の予讃線は未着工で多度津駅が港の側にあります。善通寺を拡大して見ます。予定の電車軌道は朱で書かれています。生野から善通寺駅前通りを抜けて金倉寺へと抜けています。気がつくのは、多度津への路線がないこと、駅前通りを通過していることです。これは、騎兵隊(四国学院大学)から馬が怯えるという理由で、路線変更になったと言われています。

開業が1922年ですから、開業までに18年の時が流れています。この間に、一体何があったのでしょうか?
 この会社の発起人に名前を通ねた人達を見ておきましょう。
讃岐電気軌道 特許状 増田穣三
讃岐電気軌道の「特許状」に名前を連ねる人達

讃岐鉄道特許
丸亀市の生田丈太郎、
仲多度郡の増田一良・増田穣三・東条正平・長谷川忠恕・
景山甚右衛門・掘家虎造、
綾歌郡の鎌田勝太郎
木田郡の大場長平・久保彦太郎、
大川郡の松家徳二 蓮井藤吉、
三豊郡の小野麟吾
  ここには「多度津の七福人」の総帥・景山甚右衛門や代議員の堀家虎造・坂出の鎌田家など資産家達が顔を並べています。一方で、増田一良・増田穣三の七箇村春日の増田家の従兄弟二人の名前も見えます。増田穣三は、当時は政治的には七箇村村長と県会議長を兼務する立場でした。そして実業界では、西讃電灯の社長として、電灯会社の発電所を金倉寺駅に隣接する所に建設中でもありました。そのふたりが電気鉄道の設立発揮人として名前を連ねています。「電気軌道」に対して、電力を供給する立場として設立の旗振り役を果たしたと私は考えています。
 この会社の営業免許を得た後の動きは不可解です。
讃岐電気軌道特許状3
讃岐電気軌道の特許譲渡状
讃岐電気軌道特許状4
電力供給の特許状の譲渡状
電力供給の特許状の発起人総代は、増田穣三と大場長平です。ここからも増田穣三が中心的な役割を果たしていたことがうかがえます。

ここからは得たばかりの営業免許を、翌年に堺市の野田儀一郎ほか大阪の実業家六名に譲渡していることが分かります。その結果、創立総会も大阪で行われた上、本社も大阪市東区に置かれます。しかも、株式の第一回払込時に、地元株主の株数は全体の二割程度でしかなかったようです。つまり、開業する意志がなく、営業権を得た会社そのものを「転売」する目論見が最初からあったのではないかともおもわれます。
 その後の営業免許は、初代社長才賀藤吉の死去とともに、三重県の竹内文平とその一族に相続され、その後も高知県の江渕喜三郎、広島県桑田公太郎などの手を渡っていきます。大正6(1917)年に、ようやく事務所が丸亀東浜町に開設され、翌年に本社が丸亀東通町に設置されるという経過をたどります。
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多度津 土讃線を跨ぐコトサンのさよなら電車
コトサンの琴平駅について
 大正11(1922) 10月22日 丸亀-善通寺間の開業にこぎ着けます。翌年の8月には琴平まで線路が伸びてきます。コトサンと土讃線と四国新道は、3本が善通寺の風折あたりから条里制に沿って、真っ直ぐ南に並んで琴平に入ってきます。
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手前からチンチン電車のコトサン・その向こうに土讃線・讃岐新道が並んで走る
そして、コトサンの琴平駅は、現在のロイヤルホテル・琴参閣の場所で、南向きに新築されました。その隣には、3ヶ月前の5月までは国鉄の琴平駅として営業していた駅舎がありました。この年の土讃線の財田までの延長に伴い現琴平駅に移転したのでもぬけの殻状態でした。
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国鉄の旧琴平駅(現在の琴参閣周辺) 隣接してコトサン琴平駅はあった

そのため旧琴平駅舎一帯が空地となりました。 このことは事前に分かっていたのでコトサンでは、時の鉄道大臣・元田肇あてにこの廃駅舎と線路用地一切の払下願書を提出しています。しかし、なぜか琴参電鉄と琴平町との再三の払い下げ申請も、結局は実現しませんでした。
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コトサンの終点琴平駅
コトサンヘの社名変更
 
 開通に合わせて会社申請時の「讃岐電気軌道株式会社」から「琴平参宮電鉄株式会社」への社名変更を行います。大正11(1922)年11月10日に金刀比羅宮へ、次のような社名改称趣意書を提出して、賛同を求めています。(意訳)
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開業当時のコトサンの琴平駅 
 香川県の鉄道旅客数は、金刀比羅宮参詣者が大きな割合を占めている。讃岐を代表するのは金刀比羅宮であり、讃岐すなわち金刀比羅宮というつながりは、わが国の国民の脳裏に深く浸透している所で、琴平という地名はわが国民の意識に広く深く浸透している。我社業は中讃の要枢に交通機関経営を行うもので、従来の官線鉄道は多度津を迂回することにより時間と費用を余分に掛けていた。これを、本社の琴平への直通軌道によっていちじるしく節減できることになる。年々歳々千万の乗客は必ず我軌道を選び利用するようになるであろう。我社の前途洋々として未来に開けている。
 伊勢に参宮電車あり、高野に高野鉄道、日光に日光電気鉄道、その他、西大寺軌道、豊川鉄道、富士身延鉄道、成田電車、太宰府軌道、熱田電車、能勢電車、宇佐参宮鉄道など、有名な神社仏閣には参拝鉄道があり、その地域の基点となる地名を採って、其社に冠している。金刀比羅参りの軌道も同じである。金刀比羅宮と極めて密接深甚なる歴史的関係を有する丸亀市を起点とせる軌道を経営する我社は、従来の社名を琴平参宮電鉄株式会社と改称し、以て神徳の宏大無辺とともに社運の隆昌発展を期せんとす。
  『琴平参宮電鉄六十年史』
これに対して、金毘羅宮は「願了承」の回答を直ちに行っています。
こうして、金刀比羅宮の社名に冠した琴参電鉄は、丸亀ー坂出間の全路線が開通します。
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昭和38年廃業2ヶ月前のコトサン坂出駅 JR坂出駅構内から
その後の年間利用乗客数は?
昭和3年(1928)には     387万人
第二次世界大戦勃発の1939年には569万人
本土空襲が始まった1944年には 832万人
戦時下においては、「武運長久」を祈って神社仏閣への参拝が半ば強制され、陸海空の将兵とその家族たちの金比羅参拝の列がひきもきらない日々が続きます。まさに金比羅山参拝の足として活躍しました。
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昭和30年頃の善通寺赤門前 右が丸亀 左(直進)が多度津へ

 そして戦後は、復員、引揚者や食糧不足のヤミ物資を求める旅客で電車は毎日超満員となる姿が日常的に見られるようになります。1947年には、1468万人の利用者をマークします。
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善通寺赤門駅北側  ここが多度津と丸亀の分岐駅

しかし、世の中が落ち着きを取り戻し、道路事情も良くなって路線バスが普及するのに伴い、電車の利用者は年を追って落ち込みます。高度経済成長のスタートとなる1960年には、年間四八四万人と、ピーク時の三分の一に激減。その結果、1963年9月15日、交通手段をバスに転換することにより、40年の長きにわたって庶民の足として親しまれたコトサン電車は廃止されました。そして、コトサンと国鉄の旧琴平駅の敷地には現在は、琴参閣ホテルが建っています。
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コトサン さよなら電車

参考文献 町史 ことひら







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