瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:琴平町

  新しいことは当分の間は書けそうにないので、これまでにまんのう町報のために書いてきた原稿を転載することにします。悪しからず。今回は、100年前の琴平以南の土讃線延長工事についてです。

琴平駅から南の土讃線建設は、どこから始まったか?                
今から130年前の1889(明治22)年5月21日に、丸亀・琴平間で「陸蒸気」が走り始めます。四国で2番目の鉄道開通でした。多度津駅構内での式典に参列した財田の県会議員・大久保諶之丞は祝辞の最後を
「(鉄道)を四州一巡スルニ至ラシメバ、貨多ヲ加へ運送便ヲ得ルヤ必セリ、是ノ時二当テ塩飽諸島ヲ橋台トナシ山陽鉄道二架橋連結セシ」

と未来への大きな「夢と課題」を語りました。しかし、その後の鉄道は琴平から南にはなかなか伸びません。高知への路線が決定して、線路建設が始まるのは第一次世界大戦が終わって2年後の1920(大正12)年4月3日)のことです。琴平までの鉄道開業から30年以上の年月が経っていました。
 開業時の琴平駅は現在の琴参閣ホテルにあり、ここが終点駅でした。土讃線が琴平を通過するには線路を琴平市街の東側に移し、新しい駅舎を作る必要がありました。そこで、ルート変更が行われます。現在の大麻神社前の踏切から左にカーブして金倉川を渡り、直進した所に新駅が建てられることになります。ところが、ここに問題が起きます。当時、認可を受けていた高松ー琴平を結ぶ「コトデン」の線路と交差するのです。そこで、その解決策として土讃線を土盛りして、コトデンの線路の上を高架させる策がとられます。このために、新琴平駅と金倉川までの区間は高く土盛りする必要が出てきました。

コトデン 土讃線交差
コトデンの線路を跨ぐ土讃線高架 後は象頭山

琴平駅と土讃線の土盛り用土砂は、どこから運ばれてきたの?
 当時の新聞「香川新報」には着工後6ケ月たった進捗状況を
「工事にあたっては三坂山より東の神野方面にはトロッコで土砂を運び、西の琴平新駅方面には豆機関車で運搬している。新駅から旧線の分岐点である大麻までの工事は、来月下旬頃に着工予定」

と記されています。また1年経った5月30日の記事には
「鉄路の土盛はほとんど全部終えて、新琴平駅の土盛り作業が小機関車に土運車十数輛をつないで三坂山より運搬して、土盛りし既に大部分埋立てられている」

とあります。  つまり、工事の起点は三坂山であったことが分かります。
まんのう町三坂山切通
まんのう町三坂山切通 ここから盛土はトロッコ列車で琴平駅方面に運ばれた
さて、それでは「三坂山」とはどこにあるのでしょうか?
三坂山は、土讃線と現在の国道32号バイパスが交差する南西側の小さい丘のような山で、すぐ東側を金倉川が流れています。この山の裾の三坂山踏切に立ち琴平方面を眺めてみると、まっすぐに線路が琴平に向かってゆるやかに下って行くのが見えます。ここを切り崩した土砂で整備した上に土讃線のレールは敷かれていったのです。そして、琴平駅もここから「豆機関車」で運ばれた土砂で土盛りされた上に建っているのです。ちょうど百年前の話になります。
 また新聞には
「塩入・財田間の工事も京都の西松組が請負って、本年3月に起工し、目下各方面に土盛をして軽便軌道を敷いて手押土運車で土砂を運んでいる。しかし、これから農繁期に入るため当分人夫が集まらず工事は停滞予定である」

 確かにかつては「5月麦刈り、6月田植え」で農繁期になり、農家はネコの手も借りたい忙しさでした。線路工事は、農家の男達の冬場の稼ぎ場としては、いい働き口でしたが本業の「田植え」が最優先です。そのため工事は「停滞」するというのです。
まんのう町三坂山踏切
三坂山踏切からの象頭山

工事開始から4年目の春、琴平・財田間の開通日を迎えて次のように報じます。
1919 大正8年9月 実測開始 
1920 4月1日 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)
1920 大正 9年4月 3日 土讃線琴平~財田着工。
1923 大正12年5月21日
1923 大正12年5月21日 土讃線琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
 

 
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以前にも紹介した讃岐の金毘羅宮の「元禄祭礼図屛風」で、歌舞伎や人形浄瑠璃の芝居小屋について、説明不足だと指摘されました。その部分のみを補足します。

DSC01342 鞘橋 こりとり


 この屛風図は右隻は金倉川を真ん中にして、鞘橋を渡る「頭人行列」を始めとして金毘羅参りで賑わう参道の光景を描いています。まずは、鞘橋付近の情景です。
DSC01344 鞘橋 コリトリ


金倉川で身を清めて山上へ参拝を済ませます。その後は、精進落としのお楽しみです。内町から南の金山寺の道に入っていくと・・
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金倉川の河畔には、歌舞伎や相撲・見世物などの小屋が六座描かれており、道も溢れんばかりの賑わいぶりを見せています。よく見ると川沿いに建てられた曲芸などの見世物小屋が二本の御幣をたてるだけで、寂しげな感じがします。それに対して、道を隔てた西側は歌舞伎や人形芝居・相撲興行の小屋は共に槍を横たえた櫓を上げ、看板も掲げた立派なものです。
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 黒い幕を張った人形芝居の小屋が描かれています。
地方興行ということで、周囲を竹矢来で囲んだ小屋で、櫓の下の鼠木戸の部分だけが板塀です。そのため後ろ側の囲いの横には、木戸銭を払わずに鐘の隙間から覗き見をする人がいます。舞台は櫓の正面には、位置していないように見えますが研究者によれば、絵師が舞台を描こうとしたための構図上の問題とされます。小屋の中には桟敷席らしきものはありません。見物人は土間に腰を下ろして舞台を見上げています。舞台は平側を正面にした建物の中央部分に切妻の屋根をのせたような形になっています。
 人形が出ている手摺は二段です。全体の手摺の形式は「西鶴諸国はなし」のものとよく似ていると専門家は指摘します。
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 舞台を数えると八体の武者人形が出ています。さらに「本手摺」の前に「前手摺」には、二体の人形が出ています。上手と下手には山の装置が置かれていて、人形は中央部に出ているようです。
低い手摺を使用する場合には、地面を掘り下げることもあったようです。
『尾陽戯場事始』に
「享保二丁酉より戌年頃 稲荷社内にて稽古浄瑠璃といふ事はじまり 手摺一重にひきくして 地を掘り通し 其中にて人形をつかへり 尤人形の数 五つ六つに限る」

とあります。浄瑠璃にも地面を掘って低い手摺を使ったことが分かります。

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   金山寺町は、元禄時代には精進落としの街として、芝居小屋や人形小屋・相撲興行・見世物小屋が立ち並ぶ空間として繁盛するようになります。そして百年後にはここに常設小屋の金丸座が姿を現すことになります。
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  元禄祭礼図屏風の全体像については、こちらで紹介しました。
      
 参考文献
 人形舞台史研究会編、「人形浄瑠璃舞台史 第二章 古浄瑠璃、義太夫節併行時代」

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近世初頭の金毘羅さんは、どのように見られていたのでしょうか?

「修験道 天狗」の画像検索結果
 
当時の参拝姿を描いた絵図には、ふたのない箱に大きな天狗面を背中に背負った金比羅詣での姿が描かれています。江戸時代の人々にとって天狗面は、修験道者のシンボルでした。
 幕末の勤王の志士で日柳燕石は次のような漢詩を残しています
夜、象山(金毘羅さんの山号)に登る
崖は人頭を圧して勢い傾かんと欲す。
満山の露気清に堪えず、
夜深くして天狗きたりて翼を休む
十丈の老杉揺らいで声有り
 ここにも天狗が登場します。当時の人々にとって、金比羅の神は天狗、象頭山は修験道の山という印象であったようです。

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金毘羅宮奥社 ここには天狗となった宥盛が祭られている
金毘羅神(大権現)を、金光院は公式にはどんな神だと説明していたのでしょうか。
薬師瑠璃光如来本願功徳経には、次のように記されています。
「爾時衆中有十二薬叉大将俱在会坐。所謂宮比羅大将...」
薬師如来十二神将の筆頭に挙げられ、
「此十二薬叉大将。各有七千薬叉以為眷属。」
金毘羅神は、ガンジス川のワニの神格化を意味するサンスクリットのKUMBHIRA(クンビーラ)の音写で、薬師如来十二神将(天部)の筆頭で、「宮毘羅、金毘羅、金比羅、禁毘羅」と表記されます。十二神将としては宮比羅大将、金毘羅童子とも呼ばれ、水運の神とされていました。つまり仏教の天部の仏のひとつということです。
新薬師寺 公式ホームページ 十二神将
新薬師寺のクビラ大将

それがインドから象頭山に飛来したというのです。ところが金毘羅に祭られていた金毘羅神とクビラ大将とは似ても似つかない別物でした。江戸時代の金毘羅の観音堂近くに祭られていた金毘羅神を見た人たちは、次のような記録を残しています。
「生身は岩窟に鎮座。ご神体は頭巾をかぶり、数珠と檜扇を持ち、脇士を従える」
これは、役行者や蔵王権現など修験道の神そのものです。その金比羅神が象頭山の断崖の神窟に住み着きます。その地は人の立ち入りをこばみ、禁をやぶると暴風が吹きあれ、災いをもたらすと説きます。今日でも神窟は、本殿背後の禁足林の中にあり、神職すら入れないようです。 ã€Œé‡‘比羅ç\žã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ 
金毘羅大権現像
 ギメ東洋美術館

最初にこの金毘羅大権現像を見たときは、びっくりしました。まるでドラゴンボールのサイヤ星人の戦士のように思えたからです。神様と思い込んでいたから戸惑ったので、最初から仏を守る天部の武人像姿と思っていれば違和感なく受けいれられたのかもしれません。
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本殿から奥社に向かう参道の入口

つまり、金光院は金毘羅神について、次のようにふたつの説明を使い分けていたようです。

①幕府・髙松藩などへの説明 インドより渡来したクビラ神②実際に祭られていたのは  初代院主宥盛の自らが彫った自像

金毘羅神が修験者の姿をしていると伝えられたのはなぜ?

 それは山内を治めていた別当・金光院の初期の院主が修験道とかかわりが深かったからです。例えば、現在の奥の院に神として祀られている金毘羅神は、慶長11年(1606)、自らの姿を木像に刻み、その底に「入天狗道沙門金剛坊像」と彫り込んでいます。
 この金剛坊像、すなわち宥盛の像は、元々は現在の本殿脇に祀られていましたが、参拝者に祟るため、観音堂の後堂に祀りなおされ、最終的には奥社に祀られます。
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金毘羅宮奥の院 岩場は修験者等の行場でもあった
奥社は、金比羅信仰以前から修験者の行場として聖地だったところです。列柱岩が立ち並んで切り立っていて行場には最適です。宥盛も修験者として、ここで業を行っていたのかもしれません。

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金毘羅宮奥の院の威徳巌
 神窟の暴風や金剛坊の祟りにみられる神秘的な信仰要素は、修験特有のものです。このように金毘羅信仰の誕生には、山岳信仰や修験道の要素が入り込んでいます。この二つの信仰が合わさって、風をあやつる異形の天狗となり、海難時に現れ救済する霊験譚や海難絵馬に登場するようになったのかもしれません。
五来重(仏教民俗学)は修験道について、次のように述べています。
「天台宗、真言宗の一部のようにみられているけれども、仏教の日本化と庶民信仰化の要求から生まれた必然的な宗教形態であって、その根幹は日本の民俗宗教であり神祇信仰である」
 修験道の解明は日本の庶民信仰(金毘羅信仰を含む)の解明につながるとの思いが託されているようです。

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 磐の上には烏天狗と(左)と天狗(右)がかけられています。
明治の神仏分離で金毘羅大権現を初め、修験道色は一掃された金毘羅さんです。しかし、ここにはわずかに残された修験道の痕跡を見ることができます。  

奥社に祀られる 金光院別当宥盛(ゆうせい)の年譜

①高松川辺村の400石の生駒家・家臣井上家の嫡男として生まれる。高野山で13年の修行後に真言僧
②1586(天正14)年 長宗我部の讃岐からの撤退後に高野山より帰国。
 別当宥巌を助け、仙石・生駒の庇護獲得に活躍
③1600(慶長5)年 宥巌亡き後、別当として13年間活躍 
    堺に逃亡した宥雅の断罪に反撃し、生駒家の支持を取り付ける。 金比羅神の「由来書」作成。金比羅神とは、いかなるものや」に答える返答書。善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神との関係調整に辣腕発揮。
④修験僧としてもすぐれ「金剛坊」と呼ばれて多くの弟子を育て、道場を形成。
⑤土佐の片岡家出身の熊の助を育て「多門院」を開かせ院首につかせる。   
⑥真言学僧としての叙述が志度の多和文庫に残る  高野山南谷浄菩提院の院主兼任
⑦三十番神を核に、小松庄に勢力を持ち続ける法華信仰を金比羅大権現へと切り替えていく作業を行う。
⑧1606(慶長11)年 自らの岩に腰を掛る山伏の姿を木像に刻む
⑨1613(慶長18)年1月6日 死亡
⑩1857(安政4)年 朝廷より大僧正位を追贈され、名実共に金比羅の守護神に
⑪1877(明治10)年 宥盛に厳魂彦命(いずたまひこのみこと)の神号を諡り「厳魂神社」
⑫1905(明治38)年 神殿完成、これを奥社と呼ぶ
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金毘羅宮 巌魂神社(奥社)
ちなみにこの厳魂神社を御参りして、記念に私が求めたのは・・・

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このお守りでした。
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天狗が描かれ「御本宮守護神」と記されています。宥盛は神となり守護神として金毘羅宮を守っているのかもしれません。

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