瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:琴平町の山城

小松庄 本荘と新荘
本庄城と石川城の推定地(山本祐三 琴平町の山城)

「本条(本荘)」という地名が琴平五条に残っています。このエリアが九条家が小松荘を立証した際の中心で、もともとの立荘地とされているようです。「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)という文書には「本荘殿」、「新荘殿」とあって、本荘と新荘それぞれに領主がいたことがうかがえます。新荘(庄)については、榎井にあたり、そこに石川氏が居館を構えていたことを前回に見ました。今回は、本荘を探ってみることにします。テキストは前回に続いて「山本祐三 琴平町の山城」です。

五条にあったとされる居館跡(城址)は史料には、次のように記されています。
『讃岐廻遊記』1799年
榎井村光泉(興泉)寺  一向宗にて 美景の庭有り 井法蔵ひくの尊像有 和田小太郎兵衛正利 屋鋪と云
『讃州府志』1745年
本庄城 小松庄ニアリ 能勢大蔵之二居タリ 文明(1469~87)中 泉州人和田小太郎兵衛正利(和田和泉守正則ノ子)此邦ニ来リ大蔵ノ嗣トナル…入道シテ寺ヲ建テ祐善坊卜云フ 今の興泉寺是ナリ
〇興泉寺  同上 真宗興正寺末寺 天文二年(1533)榎井僧祐善ノ開基也 昔文明二年泉州人和田小太郎兵衛正則ナルモノ  此邦ニ来リ能勢大内蔵ノ養子トナリ 姓フ泉田卜改メ後剃髪シテ本願寺二帰シ 祐善坊卜琥シ寺ヲ立テタリト云フ
  ●『全讃史』1828年(現代語訳)一古城志―
本庄城  同郡(那珂郡)小松庄に在る。
能勢大蔵(のせおおくら)がここにいた。文明(1469~87)中、泉州の人和田小太郎兵衛正利(和田和泉守正則ノ子)がこの邦に来たり、大蔵ノ後嗣(養子)となった。天文(1532~55)中に入道し寺を建てて祐善坊といった。いまの興泉寺がこれである。
●『讃陽古城記』1846年
一 同(那珂郡)  同村小松庄割季分城屋敷  能勢大蔵 今本庄卜云
一 同(那珂郡)  同村泉田屋敷   和田小太郎兵衛正利 右正則 泉州之住和田和泉守孫ナリ 文和(文明の誤りか)年中当國エ来たり住居ス 能勢大蔵之養子分二成り 後改名泉田氏卜云 剃髪シテ号祐善坊卜 今興泉寺卜云
  ●『古今讃岐国名勝図絵』1854年
◎榎井村
○興泉寺  同所にあリ ー向宗京都興正寺末寺
 文明2年(1470年) 泉州人和田小太郎兵衛正利なる当國エ来たり住居ス 能勢大蔵之の弟子となり 姓を泉田と改め、剃髪して本願寺に帰し、祐善坊と号し寺を建てたという
○割季分城屋敷跡 同所にあり 能勢大蔵といふもの是に居たり 今此地を本荘という。
○泉田屋敷跡 同所にあり 和田小太郎兵衛正利と云者是に居たり 正則は泉州和田和泉守が孫なり
○本庄城  小松庄にあり 能勢大蔵之に居たり 文明中(1469~87)和田小太郎兵衛正利(正則の子)此邦に末り大蔵嗣となる。天文(1532~55)入道して寺を建て祐善房と云う
  ●『新撲讚岐国風土記』1898年
本庄城  那珂郡榎井村  能勢大内蔵    六条の南民四、五軒ある所を本庄という。少し東に小祠ある所など城跡ならむ
馬場  那珂都五条村    馬場南大井堀地 馬場北
  『仲多度郡史』(大正7年(1918)
本庄城址  神野村 大宇 五條
村の北部 榎井村 宇 六條の地に接する所にあり。
元は榎井村たりき。而して今民家四五軒ある所を本庄と称す。此の邊すなわち城址なるべし。全讃史に「能勢大内蔵居之」とあり。東に小祠ありと称せしか 数年前廃せり。
榎井村興泉寺々伝に「沙円祐善の草創なり。文明二年(1470)和田小太郎兵衛正利、この地に来たり 能勢大内蔵の養子と為り 姓を和泉田と改む。後剃髪して本願寺に属し 祐善坊と称す」云々とあれは 廃城の事明らかなり。今榎井村の血泉秀八は其の一門の裔なりと云ふ.

これらの史料から分かることは、
①本庄城の城主は、能勢大蔵(おおくら)則季(のりすえ)
②「泉田屋敷」は、興泉寺の地のことらしい。
③泉州から移ってきた和田正則が、本庄城主の能勢大蔵の弟子となって本庄城の北の興泉寺の辺りの「泉田屋敷」にいた。
④和田正則は後に剃髪して祐善と号し、興泉寺を建立した。
⑤「泉田屋敷」と呼ぶのは、和田正則がもともと泉州に居た和田氏(泉州之住和田和泉守孫)の子孫なので、琴平に来てから「泉州+和田」=「泉田」と名乗った。
⑥彼が住みついたところが「和泉屋敷」で、後に興泉寺と呼ぶようになった。興泉寺というのは「州からる」の意味
ここまではなんとかまとまるのですが、以後が文書によってバラバラです
⑦和田正則が能勢氏の養子となって、本庄城と和田屋敷を相続した
⑧和田正則には男子がなかったので、能勢家から男子を迎えて養子とした
興泉寺に残る「橘楠和田系図」は⑧の立場です。「琴平町の山城」では、この系図が信頼性が高いとして、⑧を採用しています。
 
  ちなみに泉州からやってきてた和田正則は「入道して寺を建て祐善房と云う」とあります。彼は修験者であったのではないかと私は考えています。この時期から金毘羅山は修験道のメッカであった気配がします。そして、能勢氏も入道し、修験活動を行っていたのではないでしょうか。その能勢氏に和田正則は「弟子」となり入門し、男子がいないので師匠の子どもを養子として迎えたと推測します。金毘羅山の里には、そのような修験者たちが住み着き有力者に成長していたことが考えられます。
琴平町八反地地籍簿 本庄城址2 

もう一度、能勢大蔵則季の居館とされる「本庄城(居館)」の位置を見てみましょう。
 これは、現在の琴平高校の北側の「八反地」とよばれるエリアだとされてきました。そして、仲多度郡史には「今民家四五軒ある所を本庄と称す。此の邊すなわち城址なるべし。全讃史に「能勢大内蔵居之」とあり。東に小祠ありと称せしか 数年前廃せり。」とあります。
ここからは、六条の南民四、五軒ある所が本庄で、その少し東に小祠ある所が「城跡」らしい。しかし、数年前に取り壊された」とあります。約百年前に、祠はなくなったようです。
琴平町八反地地籍簿 本庄城址 

 小松荘本荘は、琴平町 五条に相当します。
そして、五条の「本条 八反地」に居館跡はあったようです。明治の地籍簿を見ると、「八反地」は現在の琴平高校の北側のエリアであったことが分かります。広さは、2400坪ですので(1坪=畳2丈=1,8㎡)で計算すると、4320㎡で、約65m×65mの広さになります。中世の居館としては、少し小規模な感じです。
 この付近が九条家荘園の小松庄の立荘の際の中心で「本所」であったと、町誌ことひらは推測しています。
琴平町八反地 本庄城址 
「山本祐三 琴平町の山城」から

手がかりはとなるのは、次の記述です
①六条に接する辺りには「田城(居館)」があった。(『琴平町史』(昭和45年(1970))
②居館の東に祠あり、「椋木祠」と称せりが、数年前に廃せり「仲多度郡史』大正7年(1918))
手がかりは「椋木祠」のようです。「椋木祠」があれば、そこが居館の東側にあたることになります。「琴平町の山城」には、現地を歩いて「椋木祠」を探しています。そして、二本の石柱を見つけます。これが「椋木祠」跡ではないかと推測します。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
         「山本祐三 琴平町の山城」

 DSC04801

  以前に紹介した「琴平町の山城」です。著者は私のかつての同僚で、ライフワークとして讃岐の山城を歩きつぶしていました。退職後はその集大成として、調査した山城の成果を各町毎に次々と出版しています。「琴平町の山城」の中には、私にとっては刺激的な山城がいくつか取り上げられています。そのひとつの櫛梨城は、以前に紹介しました。今回は小松荘(琴平町)の榎井にあった石川城(居館)を、この本を手に散策してみることにします。
 琴平 本庄・新庄
琴平町の山城より引用

 小松荘には「本荘」と「新荘」のふたつの荘があり、そこには、それぞれ有力な地侍がいたことを前回は見ました。それでは「本荘」と「新荘」は、現在の琴平町の、どこにあったのでしょうか。また、その有力者とはどんな勢力だったのかを今回は見ていくことにします。
 荘園の開発が進んで荘園エリアが広がったり、新しく寄進が行われたりした時に、もとからのエリアを本荘、新しく加わったエリアを新荘と呼ぶことが多いようです。「本庄」という地名が琴平五条の金倉川右岸に残っています。このエリアが九条家による小松荘の立荘の中核地だったようです。具体的には、下の地図の党利現在の琴平高校の北側の「八反地」が、本荘の中心エリアではなかったのかと研究者は考えているようです。
琴平 本庄・新庄2
山本祐三「琴平町の山城」より
 
一方、新庄の地名は残っていません。町誌ことひらは、新荘を大井八幡神社の湧水を源とする用水を隔てた北側で、現在の榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域と推測します。
 「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)という文書には「本荘殿」・「新荘殿」と記されています。ここからは、本荘と新荘それぞれに領主がいたことがうかがえます。それでは新荘殿とは、どんな武士団だったのでしょうか?
 それを知るために榎井の「春日神社」を訪れてみました。
 
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春日神社(琴平町榎井)
この神社は小松の荘が九条家(藤原氏宗家)の荘園として立荘された際に、藤原氏の氏寺である奈良の春日大社が勧進されたのが創始されたと云われます。しかし、社伝には、そうは書かれていないのです。社伝には、もともとは榎井大明神を称しており、社伝によれば榎の大樹の下に泉があり、清水が湧出することから名付けられたと云います。そして次のような記録が残ります。
寛元 二年(1244) 新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興
貞治 元年(1362) 新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建
永禄十二年(1569) 石川将監が社殿を造営

 新庄氏・本庄氏については、前回に見た観応元年(1350)十月日付の『金毘羅大権現神事奉物惣帳』に、「本庄大庭方」「本庄伊賀方」「新庄石川方」「新庄香川方」などの名前が出てくる一族です。彼らは、もともと小松荘の本庄・新庄に名田を持つ名主豪農クラスの者で、後に国人土豪層として、戦国期には小松荘を基盤に活動する地侍たちと研究者は考えているようです。
 ここからは、中世に榎井明神(春日神社)の維持管理を行ってきたのは、新庄氏であり、その一族である石川氏であったことがうかがえます。このようにして見てくると、この春日神社は新庄氏、後の石川氏の氏神としての性格を併せ持っていたと町誌ことひらは指摘します。
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春日神社の出水
 春日神社には、神域の中に出水があります。
南の大井神社方面から流れてくる水脈が地下を流れているようです。この出水を中心に古代には、開発が進められたようです。この湧水地に水神や水上神が祀られ、それが祠となり、中世には建造物が姿を現すようになったことが想像できます。それが榎井大明神と呼ばれていたのが、いつの間にか春日神社と名前が変わってしまったのかも知れません。
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春日神社の湧水と水神社
 この神社を訪ねて私の印象に残るのは、本殿の南側の湧水です。底から湧き出す伏流水は青く澄んでいます。ここには水神さんの祠が建てられています。これがこの神社の原初の姿だと私には思えてきます。ちなみに、この透明な湧水で近くの武士団のお姫様が化粧の際には、顔を洗ったので「化粧堀」とよばれているという話が伝えられています。

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 春日神社の北側には、醤油屋さんや凱陣の酒蔵が並んでいます。これも豊富な伏流水があればこそなのでしょう。さらに春日神社から湧き出した水の流れを追いかけて見ると、下図のように石川氏の居館跡の続きます。
小松荘 石川居館

春日神社の西北には、中世武士の居館跡があったようです。
「琴平の山城」には、上のような地図が掲載され、2つの推定エリアが示されています。小さい「中心部?」という枠で囲まれたエリアが居館跡になるようです。これは、現在では、国道319号によって貫かれたエリアで、コトデンの高架橋の南手前の信号付近になります。
この地図を参考に現地を歩いてみました。居館周囲の堀の痕跡が次のように残っていると指摘します。
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東側の堀跡(隣は長谷川佐太郎の墓地)
①東側の堀が、長谷川佐太郎墓地との墓地の間に

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北側の堀跡
②北側の堀が京金醤油のとの間に残ります。
居館跡の西端には、榎井蔵中の新しい鎮守堂が鎮座しています。
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榎井鎮守堂
この鎮守堂に掲げられた「説明板」には、次のように記されていました。

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当地は石川将監の「石川城址」であり、子孫の豪族石川家が居住し、江戸時代榎井村の庄屋をつとめ、金比羅祭の頭人(とうにん)を出す頭屋(とうや)であった。石川家鎮守は、古代石川城の西に位置し、霊験あらたかな神として万人に崇敬されている。祭神  弁財天
善女龍王(清瀧権現)」

この鎮守堂が建つ所から東側が石川氏の居館跡のエリアになると 「琴平の山城」は記します。

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そして、次のような聞き取り調査の結果を記します。

「この鎮守はもともとは「石川家鎮守堂」ですが、個人名では、一般の人のお参りがしにくいので、今では「榎井町鎮守」として祀られている。7月26日(正当縁日)は、石川氏の命日として、今でも毎年お祭りをしている。

昭和の初めまで、このあたりは樹木と竹藪が覆い茂って「石川藪」と呼ばれていた。東側の外堀(現在は水路)は、春日神社からの清らかな水が流れていて、城の姫はこの水で顔を浄め化粧したと伝えられる。そのためこの水路は、化粧股と呼ばれていた。
 
  中世の武士居館の特徴は、水源開発と絡んで行われることが多かったようです。居館まで水源から用水路を整備し、それを居館周囲の堀として、さらにそこから周辺に用水を供給するというプランです。

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榎井神社からの用水路の又(分岐点)に建つ三十番社

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ここでも榎井大明神(春日神社)の湧水を居館まで用水路で引き、その後に周辺に用水路として農業用水を配布していた地侍達の農業経営の姿もうかがえます。
 この居館の主は、どんな武士だったのでしょうか。
「琴平の山城」は、次のような史料を紹介しています
『讃州府志』1745年
榎井城 榎井ニアリ 石井(川?)将監之二居タリ
『全讃史』1828年(現代語訳) 一古城志一
榎井城  那珂郡榎井村に在る。石井(川?)将監がここに居た。
『讃陽古城記』1846年
 同(那珂郡) 榎井村大屋敷  石川将監居城卜云テ 今有小城ト云
讃岐岐国名勝図絵』1854年
榎井村屋敷跡  同所(榎井村)にあり 石川将監是に居たりしなり。今の地を小城ともいう 
●『新撰讃岐国風土記』1898年
石川城  那珂郡榎井村  石川将監 中町の北裏にあり 石川将監之に居たり。全讃史に石井とあるのは誤りなり。いまは六反ばかりの畑地にして、将監が子孫と云う石川某が屋敷となれり。又北には三方に外堀残れり。また北には樹木茂りて、東には地蔵堂、西には弁天祠あり。
『仲多度郡史』(大正7年(1918)
石川城址  榎井村 中ノ町の北裏に営れる所に在り。石川将監の城址なりと云ふ。現今は六段餘歩の畑地となりて 将監が子孫と称する石川某の屋敷なれり。東北西の三方には外堀残れり。又北には樹木を存し 東に地蔵堂あり、西に弁天祠あり
或記|こ「榎井 石川兵庫助従五位下 七千二十石」と見ゆるは是に由あるか
ここからは次のようなことが分かります。
①榎井の城(居館)の主は、石川氏であること
②明治の中頃には、居館跡とその周囲の六反ばかりは、畑地となっていたこと
③東西北に外堀が残っていたこと
④東に地蔵堂があり(現在はない)、西側に弁天祠があった。これは現在は鎮守堂として残っている。
居館の周辺の施設を確認しておきましょう
①東には三十番神堂、榎井大明神(春日神社)
②東の堀跡に面して、長谷川佐太郎墓地、
③西側に鎮守堂(弁天祠、善女竜王堂)。
④西南には、玄龍寺。

以前にも紹介したように、中世武士の居館は、周囲に堀を巡らし竹木を植えた土塁を○○城と表記していました。石川城址は、百年前の大正時代までは東北西に堀を巡らした、竹木の藪であったことが資料から分かります。これは典型的な中世武士の居館です。このエリアが石川氏の居館である可能性は高いようです。

理文先生のお城がっこう】歴史編 御家人の館
中世の居館
石川氏についての史料には、どんなものがあるのでしょうか?
石川氏については、西長尾城主の長尾氏が南北朝時代に軍功を挙げて、庄内半島から長尾(まんのう町)やってきた。その際に、家臣として長尾氏についてやって来て、小松庄に定着したのが石井氏や石川氏であると記す史料があります。これが「石井家系譜」で、町史ことひらにも収められています。

 石井家系譜

意訳変換しておくと
十一世 石井太郎左衛門  信光
貞和二年(1346年)正月に、三野郡の海崎・詫間両城主の大隅守橘元高(もとたか)に仕えて五百石を受け、馬廻り武士組となった。
 その後貞治元年(1362)に主人の大隅守が北朝の勅命によって、南朝方の長尾城(西長尾城)に遠征し、中院源少将(なかのいんみなもとのしょうしょう)を誅伐し、その勲功によって主人橘元高は讃岐国の奈賀(那珂郡)・鵜足(宇多津郡)の二郡を賜り、學館院領とした。讃岐国で、北朝将軍(足利)義詮公より六万石を賜っている。
 これによって橘元高は長尾に新城を築き、応安元年(1368年)正月七日に海崎城より長尾城へ移り、長尾大隅守と改名した。
 この時に石井太郎左衛門・石河兵庫介・三井大膳守も勲功によって、那珂郡小松庄に領地をもらつた。榎井・五条・苗田の半分の三か所はおよそ學館院領のうち三千石となり、石河兵庫介に下された。石河はすなわち榎井に居城した。また四条本村・苗田本村・松尾本村のおよそ学館院領のうちの二千石は石井太郎左衛門に下された。石井は松尾愛宕山の陣所に居城した。四条半村・松尾半村・大麻上村はおよそ学館院領のうちの二千石となり、三井大膳に下された。三井は松尾西山に居城した。

しかし、これは300年以後の後世の文書で、同時代史料ではありません。石井・石川氏たちが海崎氏(後の長尾氏)に、西長尾城にやってくる以前から仕えていたということが強調された作為が感じられる史料のようです。どちらにしても、小松荘の地侍たちが長尾氏に従っていたことは押さえておきます。

それでは、石川氏が同時代文書に出てくるのはいつ頃からなのでしょうか。 
前回見た「石井家由諸書」には、九条家領のころは、預所のもとで案主、田所、公文などの荘官が中心になって法会を行っていたと記します。それが南北朝時代以後になると、荘内の有力者が頭屋に定められて、法会に奉仕することになったようです。
 南北朝のころになると、民が結合し、惣が作られるようになったとされます。小松荘の惣については、よくわかりませんが、「金毘羅山神事頭人名簿」を見ると、慶長年間には次のような家が上頭人になっています。
香川家が五条村
岡部家が榎井村
石川家が榎井村
金武家が苗田村
泉田家が江内(榎井)村、
守屋家が苗田村、
荒井家が江内(榎井)村
彼らは、それぞれの村の中心になった有力者だったことが想像できます。このような人たちを「地侍」と呼びました。侍という語からうかがえるように、彼らは有力農民であるとともに、また武士でもありました。この中に榎井の石川家も入っています。

 法華八講の法会の頭屋のメンバーによって宮座が作られ、宮座による祭礼運営が行われるようになっていたことがうかがえます。その背景には、南北朝時代から小松荘の領主は、それまでの九条家から備中守護細川氏に代わっていました。しかし、応仁の乱後には、細川氏の支配力は衰退します。代わって台頭してくるのが地侍たちです。戦国時代に小松荘を実質的に支配していたのは、このように宮座などを通じて相互に結び付きを強めた荘内の地侍たちであったと研究者は考えているようです。

次に町誌ことひらの史料編に収められている〔石川家由緒書〕を見てみましょう。
石川九左衛門事
一 曽祖父            改
           石川権兵衛
右者生駒讃岐守正俊様へ被召出地方二而弐百石頂戴、榎井村二住居仕 御番出府仕候
一 祖父        石川六郎兵衛
右者生駒家牢人之後、藤堂大学様へ罷出、中小性役相勤居申候処、病氣二付、御晦申請罷帰り、榎井村二牢人二而住居仕居申候
一 親         石川平八
延宝之頃御料所榎井村庄屋役被仰付候
御預り地之頃る御出入御目見被為仰付候
右平八悴
                          平八
当時御出入御目見被為 仰付候
            倅 弥五郎
当時庄屋役相勤御出入御目見へ被為仰付候
            倅 石川九左衛門
            御駕籠脇組頭役相勤居申候
当時酒井大和守様二相勤御小性役相勤居申候
右之通二御座候 以上                     平八(二代目)
意訳変換しておくと
曽祖父の石川権兵衛は、もともとの名である九左衛門を改名したものです。曽祖父が生駒家から知行をもらいながら、榎井村に住み、御番の際には高松城下に出府していました。
祖父・六郎兵衛は、生駒騒動後に浪人となりましたが、その後は藤堂家に中小性役として仕えていました。しかし、病身のため暇を頂き、榎井村へ帰って牢人していました。
私の父である初代平八は延宝年間に、池御料所の榎井村の庄屋役を仰せつかるようになりました。
そして、享保六年(1721)年から高松藩の預りの池御領に出入り御目見えさせて頂くようになりました。二代平八の私や、倅の弥五郎もそれを引き継いでいます。なお、もう一人の悴である九左衛門は、酒井大和守様に奉公しています。
この由緒書からは次のようなことが分かります。
①祖父母の時代に生駒家に地侍として知行二百石で召し抱えられた。
②しかし、生駒騒動で牢人となった
③祖父の時代に、生駒家の外戚である伊賀藤堂家に召し抱えられたが病弱で帰讃した。
④小松庄に帰った後に。父平八の代には、榎井村の庄屋を務めるようになった。
⑤この由緒書きを書いたのは二代目の平八である。

生駒藩は讃岐の地侍達を数多く召し抱えます。それ以上に、生駒家の重臣達が召し抱えた地侍は多かったようです。以前にもお話ししましたが生駒藩では、家臣達は自分の領地に居着いたままであったようです。石川氏も、長宗我部元親の讃岐侵入をやり過ごし、なんとか戦国末期を乗り切り、生駒氏の地方侍として知行を得る身になっていたとしておきましょう。
 しかし、生駒騒動でお家は断絶し、浪人の身となりますが生駒藩の外戚である伊賀の藤堂家に再就職ができたようです。しかし、祖父が病弱のため暇乞いをして讃岐に帰ってきたと記されます。
 ここで疑問に思えるのは石川氏は中世以来、小松荘の有力地侍であったはずです。前回見たように、「神事記」には石川家の名前は、宮座の構成メンバーとして次のように登場します。
慶長十二年石川庄太郎
元和 三年石川権之進、
寛永十八年石川幾之丞
承応元年(1653)喜太郎子三太郎、
寛文三年(1663)喜太郎子権之介
の名前が見えます。
ここからは、戦国末期からは、石川氏は小松荘の庄官でもあったことが分かります。しかし、提出された由緒書きには、そのことが何も触れられません。庄大郎以前のことは、忘れ去られていたのでしょうか。それとも別系統の石川氏なのでしょうか。今の私には、このたりのことはわかりません。

 豊臣秀吉によって兵農分離政策が進められると、地侍たちは、近世大名の家臣になるか、農村にとどまって農民の道を歩むかの選択を迫られます。この史料からは小松荘の地侍のひとりである石川家は後者を選び、榎井村の庄屋としての道を歩んでいたことが分かります。それが、石川氏の居館跡で、その周囲六反地だったのかもしれません。しかし、石川家が途絶えた後は、居館は堀に囲まれた竹藪と、その周辺の畑地となっていたようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    参考文献
山本祐三 琴平町の山城 石川城 
町誌ことひら第1巻 室町・戦国時代の小松・櫛梨
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 DSC04801
 知人から「琴平の山城」という冊子が送られてきました。
定年退職後に、讃岐の山城を歩いて調査して、それを何冊も自費出版し続けています。開いてみると最初に登場したのは櫛梨城でした。
私も最近、善通寺中興の祖・宥範の生誕地である琴平町櫛梨についてアップしたばかりでしたので、なんか嬉しくなりました。そこで、今回はこの冊子に引かれて櫛梨城跡を訪ねて見ます。
1 櫛梨城 地図2
櫛梨周辺図(「琴平町の山城」より)

 櫛梨城は如意山の西に続く尾根上に築かれています。この山は丸亀平野のど真ん中に位置しますので、ここを制した者が丸亀平野を制するとも云える戦略的な意味を持つ位置になります。

DSC04654
櫛梨神社への参道と、その上にある櫛梨城跡
 
 櫛梨は銅鐸・平形銅剣が捧げられ、式内社の櫛梨神社が鎮座することから分かるように、早くから開発が進み諸勢力を養ってきた地域です。中世には、櫛梨は宥範を出した岩崎氏の勢力下にあり、彼の生誕地ともされています。戦国時代には、この山に山城が築かれていたようですがそれが岩崎氏のものであったかどうかは分かりません。
 三野の秋山家文書には、応仁の乱後に櫛梨山周辺での戦闘があり、秋山氏の戦功に対して、天霧城主の香川氏から報償文書が出されています。丸亀平野に侵入しようとする阿波三好勢力と、香川氏の間に小競り合いが繰り返されていたことうかがえます。
 それから約百年後に、毛利軍が守る櫛梨城を取り囲んだ三好軍のほとんどは、讃岐武士団でした。その中には西長尾城主の長尾氏もいました。長尾氏が目論む丸亀平野北部への勢力拡大のためには、香川氏との争いは避けては通れないものだったはずです。これ以前にも、長尾氏は堀江津方面に侵入し、香川氏への挑発行為を繰り返していたことが道隆寺文書などからは見えます。
1 櫛梨城 地図
櫛梨神社と櫛梨城の関係図(琴平町の山城より)

 どちらにしても元吉合戦が始まる前には、この城には毛利氏の部隊が駐屯し、山城の普請改修をおこなっていたようです。その経過については、以前にお話ししましたので、要点だけを羅列します。
 毛利氏は石山本願寺支援のための備讃瀬戸ルート確保が戦略として求められます。そのためにも讃岐を押さえておく必要性が高まり、櫛梨城を調略し、改修普請を行います。これに対して、織田信長の要望を受けた三好勢力は、配下の讃岐惣国衆を動員し、櫛梨城を攻めました。これが1577年の元吉合戦です。
元吉合戦の経過


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櫛梨神社
   麓には式内社の櫛梨神社が鎮座します。明治になって合祀した周辺の祠が集められきちんと祀られています。この神社にも神櫛王(讃留霊王)伝説が伝わっています。しかし、社伝ではなく善通寺中興の祖=宥範の伝記の中に記されているものです。中世以後に、語られるようになったものであることは以前にお話ししました。

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 神社に参拝し、拝殿の東側から整備された遊歩道を登ります。遊歩道は頂上に向かって直登するのではなく、トラバースした道でなだらかな勾配です。10分ほどで①尾根上に立つことができました。
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毛利援軍が陣取ったという摺臼山、その向こうには善通寺の五岳

ここからは、西への展望が開けます。毛利の援軍が陣を敷いたという摺臼山が、金倉川を越えて指呼の間に望めます。

1 櫛梨城 山本先生分
 
毛利軍の冷泉元満らが送った勝利報告書には次のようにあります。
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000程です。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。
 そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
ここからは、元吉城に攻めかかっている三好軍の背後を毛利援軍が襲ったようです。そうだとすると三好軍は、摺臼山に陣取る毛利軍を背後にしながら元吉城の攻撃を始めたようです。敵を背後にしながら攻城戦をおこなうのかな?と疑問に思いながら緩やかで広い稜線を東に歩いて行きます。そうすると木橋と階段が見えてきました。ここが縄張り図Aの位置になるようです。

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竪堀にかかる木橋

   ここで縄張り図について、専門家の説明を聞いておきましょう。
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(東部分の)曲輪Ⅱは低い土塁で囲み北側に虎口を開く。Iとの段差は小さい。Iへは北西部で虎口より上り、南側隅は緩い斜面で下の曲輪へ通ずるが虎口かどうかはっきりしない。この曲輪は土塁に囲まれ両側に虎口を有するので大型の枡形といえる。
 曲輪は幅4~8mでI・Ⅱを完全に取り囲む。Iとの段差は3m前後と高い。南側中央には虎口状の小さな凹みがあり山道が下る。東端は低いが土塁となっている。
 曲輪IVは頂部を半周し、西側には一部土塁が残り土橋状地形もある。曲輪IVの南西隅から緩やかに下ると小さな平場があり、直下には幅6m前後の堀切Aがあり、両側へ竪堀となって数十m落ちる。堀切西側には平坦地がありここと上の小さな平場には木橋がかかっていたのかも知れない。

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 南西尾根先端には出曲輪Vがある。尾根は緩やかに下るが途中両側に土塁があり、先端に性格不明の凹みがある。V南直下には曲輪があり、その下は採石場により崖となる。現在神社よりここまで立派な道が作られている。
  木橋がかかる所は「堀切A」で「両側へ竪堀となって数十m落ちる。堀切西側には平坦地がありここと上の小さな平場には木橋がかかっていたのかも知れない」とあります。報告書通りに、木橋がありました。そして木橋の両側には竪堀があり、下におちています。
  山城としては、なかなか遺構が良く残っています。木橋を渡って整備された急な階段を登っていくと曲輪Ⅳを経てⅠへたどり着きます。ここが頂上ですが、まず感じるのは、その広さと大きさです。
人為的な整地や整形が加えられているような感じがします。

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   平成7年の試掘調査では、主郭中央で柱穴が見つかっているようです。さらに、主郭と堀切Aの間で地山を削り出した上に盛り土を行った3段の帯曲輪を確認し、そこからは土器片や火炎を受けた石材が多数出土したようです。
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休息所のベンチに腰を下ろして、報告書を読みながら改めて、南に広がる景観を楽しみます。
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琴平やまんのう町の丸亀平野南部の平野が南に伸びます。その向こうには低く連なる讃岐山脈。木が茂っているので、東の西長尾城は見えません。しかし、西長尾城を睨むには最適の要地です。長尾氏に取ってみれば、ここを押さえられたのでは、丸亀平野の北部に勢力を伸ばすことは難しかったでしょう。何が何でも欲しかった要地でしょう。
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 クヌギの大きな木の枝にブランコが懸けられています。
洒落たおもてなしに感謝しながらブランコに座って丸亀平野の北を見回します。讃岐富士や青野山の向こうには備讃瀬戸が広がります。北西部には、多度津の桃陵公園が見えます。ここには香川氏の居館があったとされます。眼下には与北山と如意山の谷間に堤を築いて作られた買田池の水面が輝いていました。この櫛梨城を制した毛利氏が、備讃瀬戸の南を通る海上ルートを確保できたことを実感します。
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如意山に向かっては、いったん鞍部を東に下りていきます。その前に、報告書で確認です。
 曲輪Ⅲの東下には塹壕状の突出を持つ横堀Bがあり北寄りに虎口が開く。この横堀は上の曲輪の切岸を高くしたために出来たと思われるが、北端と南端は上の曲輪とつながる道があり、曲輪Ⅲから横矢も効くので登城路として使用し、突出部は枡形機能を持たせ尾根続きへの防御を強めたものであろう。その下には2重堀切Cがあり竪堀となって両側へ深々と落ちる。C北側にはしっかりした連続竪堀2本(1本はその後の調査で判明のため未描写)を構築している。竪堀の間には上の横堀より道が下る。 
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   確かに鞍部まで下りると竪堀が2本連続して、鞍部を横切っています。これは、今から向かう如意山方面からの攻撃に備えるためのようです。「東方の防御性に備えた縄張り」となっているようです。
 しかし、これは毛利氏による修築ではないようです。
   櫛梨城は、この後すぐに土佐の長宗我部元親のものになります。信長や秀吉と対立するようになっていた元親は、西長尾城とセットで、この城を丸亀平野の防備拠点としたようです。何千人もの籠城戦を考えていた節もあります。どちらにしても、ここにみえる二重堀切は長宗我部築城法の特徴で、長宗我部氏の存在を示す遺構であると研究者は指摘します。
1 櫛梨城 山本先生分

この鞍部からさらに東に伸びる稜線を辿っていくと、石の祠があるピークに着きます。
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この祠の前には、こんな「説明版」が置かれていました。
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近代には、雨乞い行事がここで行われていたようです。社伝に伝えられる尾野瀬山から運ばれた聖なる火がここで再び灯され、雨乞いが行われたのかも知れません。
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 さらに、なだらかな歩きやすい稜線を行くと三角点のあるピークに出ました。ここが如意山頂上のようです。櫛梨山に比べると頂上は狭く、山城を築くには不適な印象を受けます。展望もないので早々に、稜線を下ります。
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ピンクの誘導テープに従って下りていくと出てきたのは神社の境内でした。グーグルで見ると丸王神社とあります。 どうも如意山を西から東まで縦走したことになったようです。
山を歩きながら考えたこと

①天霧城の香川氏が本当に、毛利氏のもとに亡命していたのか
②香川氏の讃岐帰国支援とリンクした備讃瀬戸海上覇権確保
③そのための毛利水軍衆による櫛梨城防衛=元吉合戦
④その後の土佐・長宗我部元親の侵攻と西長尾城や櫛梨城の改修普請
そんなことを頭の中で考えながらの里山歩きは、楽しいものでした。
山城についての著書を送っていただいたYさんに感謝
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山本祐三 琴平町の山城
          中世城郭分布調査報告書 香川県教育委員会

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