本庄城と石川城の推定地(山本祐三 琴平町の山城)
「本条(本荘)」という地名が琴平五条に残っています。このエリアが九条家が小松荘を立証した際の中心で、もともとの立荘地とされているようです。「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)という文書には「本荘殿」、「新荘殿」とあって、本荘と新荘それぞれに領主がいたことがうかがえます。新荘(庄)については、榎井にあたり、そこに石川氏が居館を構えていたことを前回に見ました。今回は、本荘を探ってみることにします。テキストは前回に続いて「山本祐三 琴平町の山城」です。
五条にあったとされる居館跡(城址)は史料には、次のように記されています。
●『讃岐廻遊記』1799年榎井村光泉(興泉)寺 一向宗にて 美景の庭有り 井法蔵ひくの尊像有 和田小太郎兵衛正利 屋鋪と云
●『讃州府志』1745年○本庄城 小松庄ニアリ 能勢大蔵之二居タリ 文明(1469~87)中 泉州人和田小太郎兵衛正利(和田和泉守正則ノ子)此邦ニ来リ大蔵ノ嗣トナル…入道シテ寺ヲ建テ祐善坊卜云フ 今の興泉寺是ナリ〇興泉寺 同上 真宗興正寺末寺 天文二年(1533)榎井僧祐善ノ開基也 昔文明二年泉州人和田小太郎兵衛正則ナルモノ 此邦ニ来リ能勢大内蔵ノ養子トナリ 姓フ泉田卜改メ後剃髪シテ本願寺二帰シ 祐善坊卜琥シ寺ヲ立テタリト云フ
●『全讃史』1828年(現代語訳)一古城志―本庄城 同郡(那珂郡)小松庄に在る。能勢大蔵(のせおおくら)がここにいた。文明(1469~87)中、泉州の人和田小太郎兵衛正利(和田和泉守正則ノ子)がこの邦に来たり、大蔵ノ後嗣(養子)となった。天文(1532~55)中に入道し寺を建てて祐善坊といった。いまの興泉寺がこれである。
●『讃陽古城記』1846年一 同(那珂郡) 同村小松庄割季分城屋敷 能勢大蔵 今本庄卜云一 同(那珂郡) 同村泉田屋敷 和田小太郎兵衛正利 右正則 泉州之住和田和泉守孫ナリ 文和(文明の誤りか)年中当國エ来たり住居ス 能勢大蔵之養子分二成り 後改名泉田氏卜云 剃髪シテ号祐善坊卜 今興泉寺卜云
●『古今讃岐国名勝図絵』1854年◎榎井村○興泉寺 同所にあリ ー向宗京都興正寺末寺文明2年(1470年) 泉州人和田小太郎兵衛正利なる当國エ来たり住居ス 能勢大蔵之の弟子となり 姓を泉田と改め、剃髪して本願寺に帰し、祐善坊と号し寺を建てたという
○割季分城屋敷跡 同所にあり 能勢大蔵といふもの是に居たり 今此地を本荘という。○泉田屋敷跡 同所にあり 和田小太郎兵衛正利と云者是に居たり 正則は泉州和田和泉守が孫なり○本庄城 小松庄にあり 能勢大蔵之に居たり 文明中(1469~87)和田小太郎兵衛正利(正則の子)此邦に末り大蔵嗣となる。天文(1532~55)入道して寺を建て祐善房と云う
●『新撲讚岐国風土記』1898年本庄城 那珂郡榎井村 能勢大内蔵 六条の南民四、五軒ある所を本庄という。少し東に小祠ある所など城跡ならむ馬場 那珂都五条村 馬場南大井堀地 馬場北
『仲多度郡史』(大正7年(1918)本庄城址 神野村 大宇 五條村の北部 榎井村 宇 六條の地に接する所にあり。元は榎井村たりき。而して今民家四五軒ある所を本庄と称す。此の邊すなわち城址なるべし。全讃史に「能勢大内蔵居之」とあり。東に小祠ありと称せしか 数年前廃せり。榎井村興泉寺々伝に「沙円祐善の草創なり。文明二年(1470)和田小太郎兵衛正利、この地に来たり 能勢大内蔵の養子と為り 姓を和泉田と改む。後剃髪して本願寺に属し 祐善坊と称す」云々とあれは 廃城の事明らかなり。今榎井村の血泉秀八は其の一門の裔なりと云ふ.
これらの史料から分かることは、
①本庄城の城主は、能勢大蔵(おおくら)則季(のりすえ)
②「泉田屋敷」は、興泉寺の地のことらしい。
③泉州から移ってきた和田正則が、本庄城主の能勢大蔵の弟子となって本庄城の北の興泉寺の辺りの「泉田屋敷」にいた。
④和田正則は後に剃髪して祐善と号し、興泉寺を建立した。
⑤「泉田屋敷」と呼ぶのは、和田正則がもともと泉州に居た和田氏(泉州之住和田和泉守孫)の子孫なので、琴平に来てから「泉州+和田」=「泉田」と名乗った。
⑥彼が住みついたところが「和泉屋敷」で、後に興泉寺と呼ぶようになった。興泉寺というのは「泉州から興る」の意味
ここまではなんとかまとまるのですが、以後が文書によってバラバラです
⑦和田正則が能勢氏の養子となって、本庄城と和田屋敷を相続した
⑧和田正則には男子がなかったので、能勢家から男子を迎えて養子とした
興泉寺に残る「橘楠和田系図」は⑧の立場です。「琴平町の山城」では、この系図が信頼性が高いとして、⑧を採用しています。
ちなみに泉州からやってきてた和田正則は「入道して寺を建て祐善房と云う」とあります。彼は修験者であったのではないかと私は考えています。この時期から金毘羅山は修験道のメッカであった気配がします。そして、能勢氏も入道し、修験活動を行っていたのではないでしょうか。その能勢氏に和田正則は「弟子」となり入門し、男子がいないので師匠の子どもを養子として迎えたと推測します。金毘羅山の里には、そのような修験者たちが住み着き有力者に成長していたことが考えられます。
もう一度、能勢大蔵則季の居館とされる「本庄城(居館)」の位置を見てみましょう。
これは、現在の琴平高校の北側の「八反地」とよばれるエリアだとされてきました。そして、仲多度郡史には「今民家四五軒ある所を本庄と称す。此の邊すなわち城址なるべし。全讃史に「能勢大内蔵居之」とあり。東に小祠ありと称せしか 数年前廃せり。」とあります。
ここからは、六条の南民四、五軒ある所が本庄で、その少し東に小祠ある所が「城跡」らしい。しかし、数年前に取り壊された」とあります。約百年前に、祠はなくなったようです。
小松荘本荘は、琴平町 五条に相当します。
そして、五条の「本条 八反地」に居館跡はあったようです。明治の地籍簿を見ると、「八反地」は現在の琴平高校の北側のエリアであったことが分かります。広さは、2400坪ですので(1坪=畳2丈=1,8㎡)で計算すると、4320㎡で、約65m×65mの広さになります。中世の居館としては、少し小規模な感じです。
そして、五条の「本条 八反地」に居館跡はあったようです。明治の地籍簿を見ると、「八反地」は現在の琴平高校の北側のエリアであったことが分かります。広さは、2400坪ですので(1坪=畳2丈=1,8㎡)で計算すると、4320㎡で、約65m×65mの広さになります。中世の居館としては、少し小規模な感じです。
この付近が九条家荘園の小松庄の立荘の際の中心で「本所」であったと、町誌ことひらは推測しています。
「山本祐三 琴平町の山城」から
手がかりはとなるのは、次の記述です
①六条に接する辺りには「田城(居館)」があった。(『琴平町史』(昭和45年(1970))②居館の東に祠あり、「椋木祠」と称せりが、数年前に廃せり「仲多度郡史』大正7年(1918))
手がかりは「椋木祠」のようです。「椋木祠」があれば、そこが居館の東側にあたることになります。「琴平町の山城」には、現地を歩いて「椋木祠」を探しています。そして、二本の石柱を見つけます。これが「椋木祠」跡ではないかと推測します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山本祐三 琴平町の山城」