瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:琴平町榎井

 讃岐の中世遺跡の発掘調査によって分かってきたことのひとつが、平安時代末から鎌倉時代にかけての時期が、新田開発の一つの画期があったことです。新田開発を進めたのは、その多くは武士団の棟梁であったり、有力な農民たちです。中には、西遷御家人としてやってきた東国の武士たちが進んだ治水技術で、水田化した所もあります。その代表が高瀬郷にやってきた秋山氏で、残された秋山文書から水田や塩田開発の様子がうかがえます。
 こうして新たに拓かれた新田には、新たな集落が形成されていきます。そして、村の安全と豊穣を願って氏神、産土神、鎮守や村堂、あるいは、五穀成就を祭る社祠への奉仕を厚くしたり、新たに祭神を勧請するなどの宗教活動が盛んに行われるようになります。
 
今回は中世の小松荘(現琴平町)の神社を見ていくことにします。
テキストは「小松庄・櫛梨保住人の宗教生活 町史ことひら166P」です。

琴平 本庄・新庄
琴平の本庄と新庄

小松荘は、藤原氏の本流である九条家の荘園として立荘されます。

琴平町内には現在も「本庄」という地名が残っています。これは、琴平町五条の金倉川右岸で、現在の琴平中学や琴平高校周辺になります。この地域の農業用水は、大井八幡神社の出水を水源地としています。ここからは大井八幡神社は古代以来の湧水信仰に基づき、その聖地に水神が祀られ、中世になって社殿などの建造物が建てられるようになったことがうかがえます。
 大井神社から南を見ると買田峠の丘の上には、かつては古墳時代の群集墳が数多くあったようです。また、現在の西村ジョイの南側の買田岡下遺跡からは郡衙跡的な遺構も出ています。さらに、東南1㎞の四条の立薬師堂には、白鳳時代の古代寺院の礎石が並んでいます。そして、丸亀平野の条里制施行の南限に位置します。古代には大井神社付近に、丸亀平野の有力氏族がいたことがうかがえます。
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榎井の春日神社の出水と水神社

 早くから開発されたこの地域は立荘化され、本庄となります。その後、新庄が開発されたようです。そのエリアは金倉川の伏流水が流れる榎井の春日神社の出水を農業用水として利用するエリアです。それは、榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域のようです。
琴平 本庄・新庄2
石川城跡と小松庄新庄

 現在は春日神社と呼ばれています。俗説では「立荘の際に藤原氏の氏神である奈良の春日大社を勧進」したからと説明されます。しかし、社伝には「榎井大明神」と記され、榎の大樹の下に泉があり、清水が湧出することから名付けられと記します。また、社殿の造営なども次のような人たちが関わっていたようです。
寛元二年(1244)、新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興、
貞治元年(1362)、新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建
永禄12年(1569)、石川将監が社殿を造営
新庄氏・本庄氏については、観応元年(1350)十月日付宥範書写(偽書)といわれる『金毘羅大権現神事奉物惣帳』に、「本庄大庭方」「本庄伊賀方」「新庄石川方」「新庄香川方」などと出てくる宮座を構成する有力メンバーの一族の者のようです。もともと、小松荘の本庄・新庄に名田を持つ名主豪農クラスの者で、後に国人土豪層として戦国期に活動したことが、残された感状などからも分かります。
 こうして見てくると、この春日神社は新庄氏や、後の石川氏の氏神としての性格を併せ持っていたことがうかがえます。

石井・大歳・櫛梨・富隈神社
金毘羅街道沿いの神社 (金毘羅参詣名所図会)
石井神社も、もともとは旧金倉川の出水を水神として祭る神社です。
社伝では、そこに天元5年(982)8月、左大臣源重信(清和源氏)が宇佐八幡神を勧請して石井八幡宮と称したとされます。八幡信仰の流行が見られるのは、十世紀のことだとされるので、八幡神勧請が伝承どおりでも不思議ではありません。しかし、社伝にある左大臣源重信が讃岐へ拠ったとある天元二年(979)には、彼は、まだ左大臣ではなく大納言であり、皇太后宮大夫を兼任していた時期で、讃岐にはいません。
石井神社と金刀比羅街道
石井神社周辺拡大(金毘羅参詣名所図会)

 石井神社周辺の地侍たちによって、水神を祀る石井神社に、八幡神が「接木」されたようです。讃岐各地の八幡さまは、このようにもともとあた地主神に「接木」されている場合が多いようです。これで小松荘の3つの神社を見てまわりました。本題は、これからです。

大般若経転読法要(興福寺) - 奈良寺社ガイド

 神仏混淆の進んだ中世の郷社的神社では、別当寺の供僧よって大般若経の転読が神社で行われるようになります。
大般若経が村々を回って、お経を転読するさいの「般若の風」が疫病神を払い、郷村に繁栄と平和をもたらすとされました。そのため地方の有力寺社は、こぞって大般若経六百巻を書写し、保管するようになります。その書写方法は、僧侶のネットワークを利用したもので、各地の何十人もの僧侶が写経には関わるようになります。それを組織したのが与田寺の増吽のような有力な「勧進僧侶」でもあったようです。
石井神社と春日神社は、中世後半期に両社で大般若経を共有保管していました。それが分かる史料があります。
金井町 - Wikiwand
佐渡郡金井町

新潟県佐渡郡(佐渡島)金井町の大和田薬師教会に、比叡山の僧朗覚が延暦寺大講堂落慶に際して、元徳四年(1332)から延元5年(1340)にかけて写経をした大般若波羅蜜多経六百巻が所蔵されています。その巻四以降の巻数に移管した時の註記が記され、そこに次のような文言が後補されています。
① 「讃州仲郡子松庄 石井八幡榎井大明神宮 両社御経也」
② 「両社 御経」
③ 「讃州仲郡子松庄 石井八幡宮 榎井大明神宮 為令法久住読之坊中」
④ 「讃州仲郡子松庄 石井八幡榎井大明神宮」
⑤ 巻二十四の巻頭には「讃州財田庄八幡宮流通物也」
ここからは次のようなことが分かります。
A 仲郡小松荘の石井八幡宮と榎井大明神(春日神社)に保管されていた大般若経の一部が、佐渡島まで伝来したこと
B 春日神社は「榎井大明神宮」と呼称されていたこと
C ⑤からは、石井・榎井神社に所蔵されていた時に、その欠落巻を「讃州財田庄八幡宮」から補充したこと。
Cの財田庄八幡宮は鉾八幡神社(三豊市財田町)のことで、鎌倉時代の木造狛犬を所蔵する古社です。ここにも大般若経が収蔵され、転読が行われていたことがうかがえます。

第980話】 「般若の風」 2015(平成27)年3月11日-20日 | 曹洞宗 光明山 徳本寺

佐渡の金井町文化財指定の解説は、次のように記されています。

「この写経は、叡山より讃州仲郡子松庄(香川県琴平町)石井八幡宮と榎井大明神宮の別当社に伝わり、所有していたが、慶長十年(1605)、法印快秀の手によって畑野町長谷寺にもたらされた。長谷寺から大和田薬師に伝来したのはいつであるか不明である。」

ここからは佐渡に渡った大般若経六百巻が、南北朝以降から慶長十年までの間は、もともとは小松庄の石井・榎井神社(春日神社)に共有の形で所蔵されていたことが分かります。地方の有力寺社では、毎年期日を決め、恒例行事として転読が行われていたのは先ほど述べた通りです。
次に疑問になるのは、転読を主催していた「石井八幡宮と榎井大明神宮の別当社」のことです。これはどこのお寺だったのでしょうか?

比叡山と石井八幡宮と榎井大明神宮の関係についてはよく分かりません。小松庄の近辺の木徳荘は延暦寺領でした。16世紀末の讃岐の戦国時代の中で、焼き討ちや押領で衰退した別当寺が手放したことは考えられます。それを周辺の比叡山に関係する僧侶が手に入れ、持ち帰り、それが法印快秀の手に渡り、佐渡にもたらされたという仮説は考えられそうです。ちなみに、小松荘に隣接する真野荘は、智証大師(円珍)の園城寺領でした。また、叡山僧→延暦寺比叡山座主慈円→九条家→小松荘という関係も考えられます。

まんのう町の郷
真野郷と小松郷の関係

榎井大明神や三井八幡の別当寺として私が考えるのは、隣接する真野郷岸上の光明寺です。
光明寺については以前にもお話ししましたが、金毘羅大権現の出現以前の丸亀平野南部において、大きな勢力を持っていたと考えられる真言系密教山岳寺院です。ここは「学問寺」でもあり、多くの僧侶を輩出してています。高野山の明王院の住持を勤めた岸上出身の2人が「歴代先師録」に、次のように記されています。
勝義は「泉聖房と呼ばれ 高野山明王院と讃岐国岸上の光明寺を兼務し、享徳三年二月二十日入寂」

忠義も「讚岐國岸上之人で泉行房と呼ばれ、勝義の弟子で、光明院と兼務」

「第十六重義泉慶房 讃岐国人也。香西浦産、文明五年二月廿八日書諸院家記、明王院勝義阿閣梨之資也」
 多門院の重義は、讃岐の香西浦の出身で、勝義の弟子であったようです。  以上の史料からは、次のような事が分かります。
①南北朝から室町中期にかけて、高野山明王院の住持を「讃岐国岸上人」である勝義や忠義がつとめていたこと。
②彼らを輩出した岸上の光明寺は「学問寺」としてもが繁栄していたこと
③それが金毘羅大権現が現われると、その末寺に組み込まれ衰退していったこと

まんのう町岸の上 寺山
岸上村に残る寺山・寺下の地名 光明寺跡推定地

   当寺の真言系僧侶は学僧だけでは認められませんでした。
行者としても山岳修行に励むのがあるべき姿とされました。後の「文武両道」でいうなれば「右手に筆、左手に錫杖」という感じでしょうか。岸上の光明院の行場ゲレンデは、次のような辺路ルートが考えられます。
①金毘羅山(大麻山)から、善通寺背後の五岳から七宝山を越えて観音寺までの「中辺路」ルート
②大麻山から尾野瀬寺や仲村廃寺の奧の大川山、あるいは萩原寺を経て雲辺寺など
近世になって、大麻山に金毘羅神が現れ、松尾寺別当金光院が生駒家からの手厚い保護を受けるようになると、丸亀平野南部の宗教地図は大きく塗り替えられていきます。中世に栄えた山岳寺院が衰退していくのです。これは、金光院院主宥盛の修験者としての力にもよるものなのでしょう。多くの天狗(修験者)たちが彼の下に集まり、周辺山岳寺院を圧迫吸収していったようです。それは、尾背寺(まんのう町新目)をめぐる抗争からもうかがえます。そして、自分の腹心の修験者を送り込み、最終的には廃寺化させています。その際には、仏像・仏具・聖典などが、金光院に運び込まれたことが考えられます。
 明治になって神仏分離の際に、金刀比羅宮禰宜だった松岡調の日記には、大量の仏像・仏具・聖典類がオークションで売られ、残ったものは焼却したことが記されていることは以前にお話ししました。これらは、近世初頭に周辺寺院から金光院に集積されたものが数多く含まれていると私は考えています。その中に、尾背寺や光明寺のものもあった。
 さらに想像を加えると、榎井大明神(春日神社)や石井八幡社の別当寺は、光明寺ではなかたのかということです。光明寺の聖典類も売却されます。ちなみに、岸上は真野荘に含まれ、智証大師(円珍)の園城寺領でした。この縁から圓城寺を通じて畿内に運ばれ、それが佐渡にもたらされたという「仮説」を私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  小松庄・櫛梨保住人の宗教生活 町史ことひら166P
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小松庄 本荘と新荘
本庄城と石川城の推定地(山本祐三 琴平町の山城)

「本条(本荘)」という地名が琴平五条に残っています。このエリアが九条家が小松荘を立証した際の中心で、もともとの立荘地とされているようです。「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)という文書には「本荘殿」、「新荘殿」とあって、本荘と新荘それぞれに領主がいたことがうかがえます。新荘(庄)については、榎井にあたり、そこに石川氏が居館を構えていたことを前回に見ました。今回は、本荘を探ってみることにします。テキストは前回に続いて「山本祐三 琴平町の山城」です。

五条にあったとされる居館跡(城址)は史料には、次のように記されています。
『讃岐廻遊記』1799年
榎井村光泉(興泉)寺  一向宗にて 美景の庭有り 井法蔵ひくの尊像有 和田小太郎兵衛正利 屋鋪と云
『讃州府志』1745年
本庄城 小松庄ニアリ 能勢大蔵之二居タリ 文明(1469~87)中 泉州人和田小太郎兵衛正利(和田和泉守正則ノ子)此邦ニ来リ大蔵ノ嗣トナル…入道シテ寺ヲ建テ祐善坊卜云フ 今の興泉寺是ナリ
〇興泉寺  同上 真宗興正寺末寺 天文二年(1533)榎井僧祐善ノ開基也 昔文明二年泉州人和田小太郎兵衛正則ナルモノ  此邦ニ来リ能勢大内蔵ノ養子トナリ 姓フ泉田卜改メ後剃髪シテ本願寺二帰シ 祐善坊卜琥シ寺ヲ立テタリト云フ
  ●『全讃史』1828年(現代語訳)一古城志―
本庄城  同郡(那珂郡)小松庄に在る。
能勢大蔵(のせおおくら)がここにいた。文明(1469~87)中、泉州の人和田小太郎兵衛正利(和田和泉守正則ノ子)がこの邦に来たり、大蔵ノ後嗣(養子)となった。天文(1532~55)中に入道し寺を建てて祐善坊といった。いまの興泉寺がこれである。
●『讃陽古城記』1846年
一 同(那珂郡)  同村小松庄割季分城屋敷  能勢大蔵 今本庄卜云
一 同(那珂郡)  同村泉田屋敷   和田小太郎兵衛正利 右正則 泉州之住和田和泉守孫ナリ 文和(文明の誤りか)年中当國エ来たり住居ス 能勢大蔵之養子分二成り 後改名泉田氏卜云 剃髪シテ号祐善坊卜 今興泉寺卜云
  ●『古今讃岐国名勝図絵』1854年
◎榎井村
○興泉寺  同所にあリ ー向宗京都興正寺末寺
 文明2年(1470年) 泉州人和田小太郎兵衛正利なる当國エ来たり住居ス 能勢大蔵之の弟子となり 姓を泉田と改め、剃髪して本願寺に帰し、祐善坊と号し寺を建てたという
○割季分城屋敷跡 同所にあり 能勢大蔵といふもの是に居たり 今此地を本荘という。
○泉田屋敷跡 同所にあり 和田小太郎兵衛正利と云者是に居たり 正則は泉州和田和泉守が孫なり
○本庄城  小松庄にあり 能勢大蔵之に居たり 文明中(1469~87)和田小太郎兵衛正利(正則の子)此邦に末り大蔵嗣となる。天文(1532~55)入道して寺を建て祐善房と云う
  ●『新撲讚岐国風土記』1898年
本庄城  那珂郡榎井村  能勢大内蔵    六条の南民四、五軒ある所を本庄という。少し東に小祠ある所など城跡ならむ
馬場  那珂都五条村    馬場南大井堀地 馬場北
  『仲多度郡史』(大正7年(1918)
本庄城址  神野村 大宇 五條
村の北部 榎井村 宇 六條の地に接する所にあり。
元は榎井村たりき。而して今民家四五軒ある所を本庄と称す。此の邊すなわち城址なるべし。全讃史に「能勢大内蔵居之」とあり。東に小祠ありと称せしか 数年前廃せり。
榎井村興泉寺々伝に「沙円祐善の草創なり。文明二年(1470)和田小太郎兵衛正利、この地に来たり 能勢大内蔵の養子と為り 姓を和泉田と改む。後剃髪して本願寺に属し 祐善坊と称す」云々とあれは 廃城の事明らかなり。今榎井村の血泉秀八は其の一門の裔なりと云ふ.

これらの史料から分かることは、
①本庄城の城主は、能勢大蔵(おおくら)則季(のりすえ)
②「泉田屋敷」は、興泉寺の地のことらしい。
③泉州から移ってきた和田正則が、本庄城主の能勢大蔵の弟子となって本庄城の北の興泉寺の辺りの「泉田屋敷」にいた。
④和田正則は後に剃髪して祐善と号し、興泉寺を建立した。
⑤「泉田屋敷」と呼ぶのは、和田正則がもともと泉州に居た和田氏(泉州之住和田和泉守孫)の子孫なので、琴平に来てから「泉州+和田」=「泉田」と名乗った。
⑥彼が住みついたところが「和泉屋敷」で、後に興泉寺と呼ぶようになった。興泉寺というのは「州からる」の意味
ここまではなんとかまとまるのですが、以後が文書によってバラバラです
⑦和田正則が能勢氏の養子となって、本庄城と和田屋敷を相続した
⑧和田正則には男子がなかったので、能勢家から男子を迎えて養子とした
興泉寺に残る「橘楠和田系図」は⑧の立場です。「琴平町の山城」では、この系図が信頼性が高いとして、⑧を採用しています。
 
  ちなみに泉州からやってきてた和田正則は「入道して寺を建て祐善房と云う」とあります。彼は修験者であったのではないかと私は考えています。この時期から金毘羅山は修験道のメッカであった気配がします。そして、能勢氏も入道し、修験活動を行っていたのではないでしょうか。その能勢氏に和田正則は「弟子」となり入門し、男子がいないので師匠の子どもを養子として迎えたと推測します。金毘羅山の里には、そのような修験者たちが住み着き有力者に成長していたことが考えられます。
琴平町八反地地籍簿 本庄城址2 

もう一度、能勢大蔵則季の居館とされる「本庄城(居館)」の位置を見てみましょう。
 これは、現在の琴平高校の北側の「八反地」とよばれるエリアだとされてきました。そして、仲多度郡史には「今民家四五軒ある所を本庄と称す。此の邊すなわち城址なるべし。全讃史に「能勢大内蔵居之」とあり。東に小祠ありと称せしか 数年前廃せり。」とあります。
ここからは、六条の南民四、五軒ある所が本庄で、その少し東に小祠ある所が「城跡」らしい。しかし、数年前に取り壊された」とあります。約百年前に、祠はなくなったようです。
琴平町八反地地籍簿 本庄城址 

 小松荘本荘は、琴平町 五条に相当します。
そして、五条の「本条 八反地」に居館跡はあったようです。明治の地籍簿を見ると、「八反地」は現在の琴平高校の北側のエリアであったことが分かります。広さは、2400坪ですので(1坪=畳2丈=1,8㎡)で計算すると、4320㎡で、約65m×65mの広さになります。中世の居館としては、少し小規模な感じです。
 この付近が九条家荘園の小松庄の立荘の際の中心で「本所」であったと、町誌ことひらは推測しています。
琴平町八反地 本庄城址 
「山本祐三 琴平町の山城」から

手がかりはとなるのは、次の記述です
①六条に接する辺りには「田城(居館)」があった。(『琴平町史』(昭和45年(1970))
②居館の東に祠あり、「椋木祠」と称せりが、数年前に廃せり「仲多度郡史』大正7年(1918))
手がかりは「椋木祠」のようです。「椋木祠」があれば、そこが居館の東側にあたることになります。「琴平町の山城」には、現地を歩いて「椋木祠」を探しています。そして、二本の石柱を見つけます。これが「椋木祠」跡ではないかと推測します。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
         「山本祐三 琴平町の山城」

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  以前に紹介した「琴平町の山城」です。著者は私のかつての同僚で、ライフワークとして讃岐の山城を歩きつぶしていました。退職後はその集大成として、調査した山城の成果を各町毎に次々と出版しています。「琴平町の山城」の中には、私にとっては刺激的な山城がいくつか取り上げられています。そのひとつの櫛梨城は、以前に紹介しました。今回は小松荘(琴平町)の榎井にあった石川城(居館)を、この本を手に散策してみることにします。
 琴平 本庄・新庄
琴平町の山城より引用

 小松荘には「本荘」と「新荘」のふたつの荘があり、そこには、それぞれ有力な地侍がいたことを前回は見ました。それでは「本荘」と「新荘」は、現在の琴平町の、どこにあったのでしょうか。また、その有力者とはどんな勢力だったのかを今回は見ていくことにします。
 荘園の開発が進んで荘園エリアが広がったり、新しく寄進が行われたりした時に、もとからのエリアを本荘、新しく加わったエリアを新荘と呼ぶことが多いようです。「本庄」という地名が琴平五条の金倉川右岸に残っています。このエリアが九条家による小松荘の立荘の中核地だったようです。具体的には、下の地図の党利現在の琴平高校の北側の「八反地」が、本荘の中心エリアではなかったのかと研究者は考えているようです。
琴平 本庄・新庄2
山本祐三「琴平町の山城」より
 
一方、新庄の地名は残っていません。町誌ことひらは、新荘を大井八幡神社の湧水を源とする用水を隔てた北側で、現在の榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域と推測します。
 「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)という文書には「本荘殿」・「新荘殿」と記されています。ここからは、本荘と新荘それぞれに領主がいたことがうかがえます。それでは新荘殿とは、どんな武士団だったのでしょうか?
 それを知るために榎井の「春日神社」を訪れてみました。
 
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春日神社(琴平町榎井)
この神社は小松の荘が九条家(藤原氏宗家)の荘園として立荘された際に、藤原氏の氏寺である奈良の春日大社が勧進されたのが創始されたと云われます。しかし、社伝には、そうは書かれていないのです。社伝には、もともとは榎井大明神を称しており、社伝によれば榎の大樹の下に泉があり、清水が湧出することから名付けられたと云います。そして次のような記録が残ります。
寛元 二年(1244) 新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興
貞治 元年(1362) 新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建
永禄十二年(1569) 石川将監が社殿を造営

 新庄氏・本庄氏については、前回に見た観応元年(1350)十月日付の『金毘羅大権現神事奉物惣帳』に、「本庄大庭方」「本庄伊賀方」「新庄石川方」「新庄香川方」などの名前が出てくる一族です。彼らは、もともと小松荘の本庄・新庄に名田を持つ名主豪農クラスの者で、後に国人土豪層として、戦国期には小松荘を基盤に活動する地侍たちと研究者は考えているようです。
 ここからは、中世に榎井明神(春日神社)の維持管理を行ってきたのは、新庄氏であり、その一族である石川氏であったことがうかがえます。このようにして見てくると、この春日神社は新庄氏、後の石川氏の氏神としての性格を併せ持っていたと町誌ことひらは指摘します。
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春日神社の出水
 春日神社には、神域の中に出水があります。
南の大井神社方面から流れてくる水脈が地下を流れているようです。この出水を中心に古代には、開発が進められたようです。この湧水地に水神や水上神が祀られ、それが祠となり、中世には建造物が姿を現すようになったことが想像できます。それが榎井大明神と呼ばれていたのが、いつの間にか春日神社と名前が変わってしまったのかも知れません。
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春日神社の湧水と水神社
 この神社を訪ねて私の印象に残るのは、本殿の南側の湧水です。底から湧き出す伏流水は青く澄んでいます。ここには水神さんの祠が建てられています。これがこの神社の原初の姿だと私には思えてきます。ちなみに、この透明な湧水で近くの武士団のお姫様が化粧の際には、顔を洗ったので「化粧堀」とよばれているという話が伝えられています。

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 春日神社の北側には、醤油屋さんや凱陣の酒蔵が並んでいます。これも豊富な伏流水があればこそなのでしょう。さらに春日神社から湧き出した水の流れを追いかけて見ると、下図のように石川氏の居館跡の続きます。
小松荘 石川居館

春日神社の西北には、中世武士の居館跡があったようです。
「琴平の山城」には、上のような地図が掲載され、2つの推定エリアが示されています。小さい「中心部?」という枠で囲まれたエリアが居館跡になるようです。これは、現在では、国道319号によって貫かれたエリアで、コトデンの高架橋の南手前の信号付近になります。
この地図を参考に現地を歩いてみました。居館周囲の堀の痕跡が次のように残っていると指摘します。
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東側の堀跡(隣は長谷川佐太郎の墓地)
①東側の堀が、長谷川佐太郎墓地との墓地の間に

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北側の堀跡
②北側の堀が京金醤油のとの間に残ります。
居館跡の西端には、榎井蔵中の新しい鎮守堂が鎮座しています。
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榎井鎮守堂
この鎮守堂に掲げられた「説明板」には、次のように記されていました。

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当地は石川将監の「石川城址」であり、子孫の豪族石川家が居住し、江戸時代榎井村の庄屋をつとめ、金比羅祭の頭人(とうにん)を出す頭屋(とうや)であった。石川家鎮守は、古代石川城の西に位置し、霊験あらたかな神として万人に崇敬されている。祭神  弁財天
善女龍王(清瀧権現)」

この鎮守堂が建つ所から東側が石川氏の居館跡のエリアになると 「琴平の山城」は記します。

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そして、次のような聞き取り調査の結果を記します。

「この鎮守はもともとは「石川家鎮守堂」ですが、個人名では、一般の人のお参りがしにくいので、今では「榎井町鎮守」として祀られている。7月26日(正当縁日)は、石川氏の命日として、今でも毎年お祭りをしている。

昭和の初めまで、このあたりは樹木と竹藪が覆い茂って「石川藪」と呼ばれていた。東側の外堀(現在は水路)は、春日神社からの清らかな水が流れていて、城の姫はこの水で顔を浄め化粧したと伝えられる。そのためこの水路は、化粧股と呼ばれていた。
 
  中世の武士居館の特徴は、水源開発と絡んで行われることが多かったようです。居館まで水源から用水路を整備し、それを居館周囲の堀として、さらにそこから周辺に用水を供給するというプランです。

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榎井神社からの用水路の又(分岐点)に建つ三十番社

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ここでも榎井大明神(春日神社)の湧水を居館まで用水路で引き、その後に周辺に用水路として農業用水を配布していた地侍達の農業経営の姿もうかがえます。
 この居館の主は、どんな武士だったのでしょうか。
「琴平の山城」は、次のような史料を紹介しています
『讃州府志』1745年
榎井城 榎井ニアリ 石井(川?)将監之二居タリ
『全讃史』1828年(現代語訳) 一古城志一
榎井城  那珂郡榎井村に在る。石井(川?)将監がここに居た。
『讃陽古城記』1846年
 同(那珂郡) 榎井村大屋敷  石川将監居城卜云テ 今有小城ト云
讃岐岐国名勝図絵』1854年
榎井村屋敷跡  同所(榎井村)にあり 石川将監是に居たりしなり。今の地を小城ともいう 
●『新撰讃岐国風土記』1898年
石川城  那珂郡榎井村  石川将監 中町の北裏にあり 石川将監之に居たり。全讃史に石井とあるのは誤りなり。いまは六反ばかりの畑地にして、将監が子孫と云う石川某が屋敷となれり。又北には三方に外堀残れり。また北には樹木茂りて、東には地蔵堂、西には弁天祠あり。
『仲多度郡史』(大正7年(1918)
石川城址  榎井村 中ノ町の北裏に営れる所に在り。石川将監の城址なりと云ふ。現今は六段餘歩の畑地となりて 将監が子孫と称する石川某の屋敷なれり。東北西の三方には外堀残れり。又北には樹木を存し 東に地蔵堂あり、西に弁天祠あり
或記|こ「榎井 石川兵庫助従五位下 七千二十石」と見ゆるは是に由あるか
ここからは次のようなことが分かります。
①榎井の城(居館)の主は、石川氏であること
②明治の中頃には、居館跡とその周囲の六反ばかりは、畑地となっていたこと
③東西北に外堀が残っていたこと
④東に地蔵堂があり(現在はない)、西側に弁天祠があった。これは現在は鎮守堂として残っている。
居館の周辺の施設を確認しておきましょう
①東には三十番神堂、榎井大明神(春日神社)
②東の堀跡に面して、長谷川佐太郎墓地、
③西側に鎮守堂(弁天祠、善女竜王堂)。
④西南には、玄龍寺。

以前にも紹介したように、中世武士の居館は、周囲に堀を巡らし竹木を植えた土塁を○○城と表記していました。石川城址は、百年前の大正時代までは東北西に堀を巡らした、竹木の藪であったことが資料から分かります。これは典型的な中世武士の居館です。このエリアが石川氏の居館である可能性は高いようです。

理文先生のお城がっこう】歴史編 御家人の館
中世の居館
石川氏についての史料には、どんなものがあるのでしょうか?
石川氏については、西長尾城主の長尾氏が南北朝時代に軍功を挙げて、庄内半島から長尾(まんのう町)やってきた。その際に、家臣として長尾氏についてやって来て、小松庄に定着したのが石井氏や石川氏であると記す史料があります。これが「石井家系譜」で、町史ことひらにも収められています。

 石井家系譜

意訳変換しておくと
十一世 石井太郎左衛門  信光
貞和二年(1346年)正月に、三野郡の海崎・詫間両城主の大隅守橘元高(もとたか)に仕えて五百石を受け、馬廻り武士組となった。
 その後貞治元年(1362)に主人の大隅守が北朝の勅命によって、南朝方の長尾城(西長尾城)に遠征し、中院源少将(なかのいんみなもとのしょうしょう)を誅伐し、その勲功によって主人橘元高は讃岐国の奈賀(那珂郡)・鵜足(宇多津郡)の二郡を賜り、學館院領とした。讃岐国で、北朝将軍(足利)義詮公より六万石を賜っている。
 これによって橘元高は長尾に新城を築き、応安元年(1368年)正月七日に海崎城より長尾城へ移り、長尾大隅守と改名した。
 この時に石井太郎左衛門・石河兵庫介・三井大膳守も勲功によって、那珂郡小松庄に領地をもらつた。榎井・五条・苗田の半分の三か所はおよそ學館院領のうち三千石となり、石河兵庫介に下された。石河はすなわち榎井に居城した。また四条本村・苗田本村・松尾本村のおよそ学館院領のうちの二千石は石井太郎左衛門に下された。石井は松尾愛宕山の陣所に居城した。四条半村・松尾半村・大麻上村はおよそ学館院領のうちの二千石となり、三井大膳に下された。三井は松尾西山に居城した。

しかし、これは300年以後の後世の文書で、同時代史料ではありません。石井・石川氏たちが海崎氏(後の長尾氏)に、西長尾城にやってくる以前から仕えていたということが強調された作為が感じられる史料のようです。どちらにしても、小松荘の地侍たちが長尾氏に従っていたことは押さえておきます。

それでは、石川氏が同時代文書に出てくるのはいつ頃からなのでしょうか。 
前回見た「石井家由諸書」には、九条家領のころは、預所のもとで案主、田所、公文などの荘官が中心になって法会を行っていたと記します。それが南北朝時代以後になると、荘内の有力者が頭屋に定められて、法会に奉仕することになったようです。
 南北朝のころになると、民が結合し、惣が作られるようになったとされます。小松荘の惣については、よくわかりませんが、「金毘羅山神事頭人名簿」を見ると、慶長年間には次のような家が上頭人になっています。
香川家が五条村
岡部家が榎井村
石川家が榎井村
金武家が苗田村
泉田家が江内(榎井)村、
守屋家が苗田村、
荒井家が江内(榎井)村
彼らは、それぞれの村の中心になった有力者だったことが想像できます。このような人たちを「地侍」と呼びました。侍という語からうかがえるように、彼らは有力農民であるとともに、また武士でもありました。この中に榎井の石川家も入っています。

 法華八講の法会の頭屋のメンバーによって宮座が作られ、宮座による祭礼運営が行われるようになっていたことがうかがえます。その背景には、南北朝時代から小松荘の領主は、それまでの九条家から備中守護細川氏に代わっていました。しかし、応仁の乱後には、細川氏の支配力は衰退します。代わって台頭してくるのが地侍たちです。戦国時代に小松荘を実質的に支配していたのは、このように宮座などを通じて相互に結び付きを強めた荘内の地侍たちであったと研究者は考えているようです。

次に町誌ことひらの史料編に収められている〔石川家由緒書〕を見てみましょう。
石川九左衛門事
一 曽祖父            改
           石川権兵衛
右者生駒讃岐守正俊様へ被召出地方二而弐百石頂戴、榎井村二住居仕 御番出府仕候
一 祖父        石川六郎兵衛
右者生駒家牢人之後、藤堂大学様へ罷出、中小性役相勤居申候処、病氣二付、御晦申請罷帰り、榎井村二牢人二而住居仕居申候
一 親         石川平八
延宝之頃御料所榎井村庄屋役被仰付候
御預り地之頃る御出入御目見被為仰付候
右平八悴
                          平八
当時御出入御目見被為 仰付候
            倅 弥五郎
当時庄屋役相勤御出入御目見へ被為仰付候
            倅 石川九左衛門
            御駕籠脇組頭役相勤居申候
当時酒井大和守様二相勤御小性役相勤居申候
右之通二御座候 以上                     平八(二代目)
意訳変換しておくと
曽祖父の石川権兵衛は、もともとの名である九左衛門を改名したものです。曽祖父が生駒家から知行をもらいながら、榎井村に住み、御番の際には高松城下に出府していました。
祖父・六郎兵衛は、生駒騒動後に浪人となりましたが、その後は藤堂家に中小性役として仕えていました。しかし、病身のため暇を頂き、榎井村へ帰って牢人していました。
私の父である初代平八は延宝年間に、池御料所の榎井村の庄屋役を仰せつかるようになりました。
そして、享保六年(1721)年から高松藩の預りの池御領に出入り御目見えさせて頂くようになりました。二代平八の私や、倅の弥五郎もそれを引き継いでいます。なお、もう一人の悴である九左衛門は、酒井大和守様に奉公しています。
この由緒書からは次のようなことが分かります。
①祖父母の時代に生駒家に地侍として知行二百石で召し抱えられた。
②しかし、生駒騒動で牢人となった
③祖父の時代に、生駒家の外戚である伊賀藤堂家に召し抱えられたが病弱で帰讃した。
④小松庄に帰った後に。父平八の代には、榎井村の庄屋を務めるようになった。
⑤この由緒書きを書いたのは二代目の平八である。

生駒藩は讃岐の地侍達を数多く召し抱えます。それ以上に、生駒家の重臣達が召し抱えた地侍は多かったようです。以前にもお話ししましたが生駒藩では、家臣達は自分の領地に居着いたままであったようです。石川氏も、長宗我部元親の讃岐侵入をやり過ごし、なんとか戦国末期を乗り切り、生駒氏の地方侍として知行を得る身になっていたとしておきましょう。
 しかし、生駒騒動でお家は断絶し、浪人の身となりますが生駒藩の外戚である伊賀の藤堂家に再就職ができたようです。しかし、祖父が病弱のため暇乞いをして讃岐に帰ってきたと記されます。
 ここで疑問に思えるのは石川氏は中世以来、小松荘の有力地侍であったはずです。前回見たように、「神事記」には石川家の名前は、宮座の構成メンバーとして次のように登場します。
慶長十二年石川庄太郎
元和 三年石川権之進、
寛永十八年石川幾之丞
承応元年(1653)喜太郎子三太郎、
寛文三年(1663)喜太郎子権之介
の名前が見えます。
ここからは、戦国末期からは、石川氏は小松荘の庄官でもあったことが分かります。しかし、提出された由緒書きには、そのことが何も触れられません。庄大郎以前のことは、忘れ去られていたのでしょうか。それとも別系統の石川氏なのでしょうか。今の私には、このたりのことはわかりません。

 豊臣秀吉によって兵農分離政策が進められると、地侍たちは、近世大名の家臣になるか、農村にとどまって農民の道を歩むかの選択を迫られます。この史料からは小松荘の地侍のひとりである石川家は後者を選び、榎井村の庄屋としての道を歩んでいたことが分かります。それが、石川氏の居館跡で、その周囲六反地だったのかもしれません。しかし、石川家が途絶えた後は、居館は堀に囲まれた竹藪と、その周辺の畑地となっていたようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    参考文献
山本祐三 琴平町の山城 石川城 
町誌ことひら第1巻 室町・戦国時代の小松・櫛梨
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