瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:琴平町櫛梨

南北朝初期の康永元年(1342)ごろの善通寺の寺領目録には、次のような寺領が記されています。
善通寺々領目録
①壱円(善通寺一円保)
②弘田郷領家職善通寺修理料所
③羽床郷萱原村誕生院領
④生野郷内修理免
⑤良田郷領家職
⑥櫛無郷内保地頭職 当将軍家御寄進
己上
この目録によると善通寺領の一つとして⑥に「櫛無郷内保地頭職当将軍家御寄進」と記されています。ここからは善通寺が「櫛無郷内保地頭職」を所有し、それが「当将軍=足利尊氏」の寄進によるものだとされていたことが分かります。この寺領の由来や性格について、今回は見ていくことにします。テキストは「 善通寺誕生院の櫛無社地頭職  町史ことひらⅠ 135P」です。

⑥が誕生院に寄進されたときの院主は、宥範になります。
宥範については以前にお話ししましが、櫛無郷で生まれた名僧で、「贈僧正宥範発心求法縁起」によると、彼は善通寺の衆徒たちに寺の再興を懇願されて、次のような業績を残しています。
元徳三年(1321)7月28日に、善通寺東北院に居住
建武年間(1334~38)に誕生院に移り
暦応年中(1338~42)より、五重塔並びに諸堂、四面の大門、四方垣地などをことごとく造営
こうして宥範は善通寺中興の祖といわれます。
その宥範が観応元年(1352)7月1日に亡くなる5日前の6月25日に、法弟宥源にあてて譲状持を作成しています。そのなかに次の一項があります。
一、櫛無社地頭職の事、去る建武3年(1336)2月15日将軍家ならびに岩野御下知にて宥範に成し下されおわんぬ。乃て当院の供僧ならびに修理等支配する者也

  意訳変換しておくと

一、櫛無神社の地頭職については、去る建武3年2月15日将軍家と岩野氏の御下知で宥範に下されたものである。よって誕生院の供僧や修理などに供されるものである。

ここからは誕生院の持つ櫛無保の地頭職は櫛無社地頭職ともいわれ、建武3年(1336)2月15日に、足利尊氏と「岩野」家より宥範に与えられたものであることが分かります。ここで「岩野」家が登場してきます。これが宥範の実家のようです。これについては、後で触れることにして先に進みます。
建武の新政 | 世界の歴史まっぷ

建武三(1336)年2月の讃岐を取り巻く情勢を見ておきましょう。
この年は鎌倉から攻め上った足利尊氏が京都での戦に破れて九州に落ちていく時です。尊氏は後備えのために中国・四国に武将を配置します。この中で四国に配されたのが細川和氏、顕氏で、彼らには味方に加わる武士に恩賞を与える権限が与えられます。和氏、顕氏はこの権限を用いて各地の武士に尊氏の名で恩賞を約し、尊氏方に従うよう誘ったのです。讃岐においても、細川顕氏が高瀬郷の秋山孫次郎泰忠に対して次のように所領を宛行っていたことが秋山文書から分かります。
讃岐国高瀬郷領家職の事、勲功の賞として宛行わる所也、先例を守り沙汰致すべし者、将軍家の仰によって下知件の如し
建武三年二月十五日        兵部少輔在御判
           阿波守在御判(細川顕氏)
秋山孫次郎殿            
日付を見ると、誕生院宥範が櫛無社地頭職を与えられたのも同じ日付です。ここからは、この宛行いも目的は同じで、顕氏・和氏が有力な讃岐の寺院である誕生院に所領を寄進して、その支持を取り付けようとしたものであることが分かります。
櫛無郷

ここで疑問に思えてくるのが島津家が持っていた櫛無保の地頭職との関係です。
貞応三年(1324)以来、櫛無保守護職は薩摩守護の島津氏が地頭職を得ていたはずです。これと誕生院が尊氏から得た櫛無保内地頭職(櫛無社地頭職)は、どのような関係にあるのでしょうか
このことについて、別の視点から見ておきましょう。
「善通寺文書」のなかに、建武五年(1328)7月22日に、宥範が櫛無保内の染谷寺の寺務職を遠照上人に譲った譲状があります。
染谷寺とは持宝院のことで、善通寺市与北町谷の地、如意山の西北麓にあったお寺で、現在は墓地だけが林の中に残っています。この寺伝には、文明年中(1469~86)に奈良備前守元吉が如意山に城を築く時に寺地を移したと伝えられます。もともとは、この寺は、島津氏が地頭職を持つ櫛無保の中ににあったようです。譲状の内容を要約して見ておきましょう。
染谷寺(持宝院)は宝亀年中(770~80)の創立で、弘法人師御在生の伽藍であるが、年を経て荒廃していたのを、建久年間(1190~98)に、重祐大徳が残っていた礎石の上に仏閣を再建した。さらに嘉禎(1235~37)に至り、珍慶が重ねて伽藍を建立した。これより以来「偏に地頭家御寄附の大願所として」、珍慶・快一・尊源・公源・宥範と歴代の住持が御祈躊を重ねてきた。
 宥範も寺務職についてから多年御祈躊の忠勤を励んできたが、老齢になったので、先年門弟民部卿律師に寺務職を申し付け、努めて柴谷寺に住して「地頭家御所願の成就を祈り奉る」よう命じていた。ところが、民部卿律師はこの十数年京都に居住して讃岐の寺を不在にして、宥範の教えに違背した。そこで改めて奈良唐招提寺の門葉で禅行持律の和尚であり密宗練行の明徳である遠照上人を染谷寺寺務職とし、南北両谷の管領、田畠山林などを残らず譲与することにした。しからば、長く律院として、また真言密教弘通の寺院として興隆に努め、「天長地久の御願円満、殊に地頭家御息災延命御所願の成就を祈り奉るべき也」

「嘉禎(1235~37)に至り、珍慶が重ねて伽藍を建立」とありますが、この年は島津忠義が櫛無保の地頭に任じられてから12年後のことになります。「地頭御寄附の大願所」とあるので、珍慶の伽藍建立には、地頭島津氏の大きな援助があったことがうかがえます。荘園領主や地頭が、荘民の信仰を集めている荘園内の神社や寺院を援助、保護する、あるいはそれがない時には新たに建立することは、領主支配を強化する重要な統治政策です。島津氏も染谷寺に財物や寺領を寄進して再建を援助することで、信仰のあつい農民の支持を取り付け、また自身の家の繁栄を祈らせたのでしょう。  また「南北両谷の管領、田畠山林などを残らず譲与」とあるので、持宝院は周囲の谷に広がる田畑や山林を寺領として持っていたようです。
櫛梨
持宝院(現在は廃寺)
こうして見ると「⑥櫛無郷内保地頭職当将軍家御寄進」というのは、櫛梨保全体のことではないようです。
善通寺寺領の「⑥櫛無郷内保地頭職」は、櫛梨保の一部であったものが、染谷寺(持宝院)が島津氏によって建立された際に、寺領としてして寄進されたエリアであると云えそうです。そのため櫛無保における誕生院の地頭職と島津氏の地頭職は、互いに排斥し合うものではなく両立していたと研究者は考えています。
 そうだとすると誕生院の「櫛梨社地頭職」というのは、櫛無保の一部を地頭職の名目で所領として与えられたことになります。また「櫛無地頭職」ともあるので、櫛無神社の社領であったところでもあるようです。荘園の一部が荘内の寺院、神社に寄進されて自立した寺社領となることは、よくあることでした。櫛無神社は、神櫛皇子を祭神とし、「延喜式」の神名帳に載る式内神社です。
 この推測が当たっているとすれば、神仏混淆が進んだ南北朝・室町時代には、櫛無神社も誕生院の管領下にあったことになります。つまり櫛無神社の別当寺が善通寺で、その管理は善通寺の社僧が行っていたことになります。櫛無神社の祭礼などのために寄進された田地は、善通寺が管理していたようです。
 讃岐忌部氏の氏寺で式内社の大麻神社が鎮座する大麻神社の南には、称名寺というお寺がありました。
宥範も晩年は、この寺で隠居しようと考えた寺です。この寺も善通寺の末寺であったようです。善通寺で修行し、後に象頭山に金比羅堂を建立した宥雅も、称名寺に最初に入ったとされます。彼は西長尾城主の弟とも伝えられ、長尾一族の支援を受けながら称名寺を拠点に、象頭山の中腹に新たな宗教施設を造営していきます。それが金毘羅大権現(現金刀比羅宮)の始まりになります。
 私は、称名寺・瀧寺・松尾寺などは、善通寺の「小辺路」ルートをめぐる修験者たちの行場に開かれた宗教施設が始まりと考えています。櫛梨の公文山にある持宝院も、広く見ればその一部であったと思うのです。それらの管理権は、善通寺が握っていたはずです。例えば、江戸時代になって善通寺誕生院が金毘羅大権現の金光院を自分の末寺として藩に訴え出ていることは以前にお話ししました。これも、当寺の善通寺が管理下に置いていた行場と辺路ルートにある宗教施設を考慮に入れないと見えてこないことです。

  最後に宥範と実家の岩野家について見ておきましょう。
  14世紀初期の善通寺の伽藍は荒廃の極みにありました。そのような中で、善通寺の老若の衆徒が、宥範に住職になってくれるように、隠居地の称名寺に嘆願に押し掛けてきます。ついに、称名寺をおりて善通寺の住職となることを決意し、元徳三年(1331)7月28日に善通寺東北院に移り住みます。そして、伽藍整備に取りかかるのです。
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櫛梨城跡から南面してのぞむ櫛無保跡 社叢が大歳神社 

そして、建武三年(1336)の東北院から誕生院へ転住するのに合わせて「櫛無社地頭職」を獲得したようです。
 これは先ほど見たように「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」です。ここからは宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であったことがうかがえます。宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、経済的保護者がいたことが考えられます。宥範には有力パトロンとして、実家の岩野一族がいたことを押さえておきます。

 櫛梨神社や大歳神社は、岩野家出身者の社僧が管理運営していたようです。
「大歳神社」は、今は上櫛梨の産土神ですが、もともとは櫛梨神社の旅社か分社的な性格と研究者は考えているようです。例えば、宥範は高野山への修業出立に際して、大歳神社に籠もって祈願したと記されています。ここからは、大歳神社が櫛梨神社の分社か一部であったこと、岩野一族の支配下にあったことがうかがえます。

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       琴平町上櫛梨小路の「宥範僧正誕生之地」碑
 別の研究者は、次のような見方を示しています。

  「大歳神社の北に「小路(荘司)」の地字が残り、櫛梨保が荘園化して荘司の存在を示唆していると思われる。しかし、鎌倉時代以降も、保の呼称が残っているので、大歳神社辺りに保司が住居していて、その跡に産土神としての大歳神社が建立された」

櫛梨保の現地管理人として島津氏が派遣した「保司」が居館を構えていた跡に大歳神社が建立されたと云うのです。そして、宥範の生地とされる場所も、この周辺にあります。つまり、岩野氏は島津氏の下で、櫛梨保の保司を務めていた現地の有力武将であったことになります。当寺の有力武将は、一族の中から男子を出家させ、菩提を供来うとともに、氏神・氏寺の寺領(財産)管理にも当たらせるようになります。宥範もそのような意図を持って、岩野家が出家させたことが考えられます。
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    「宥範墓所の由来」碑(琴平町上櫛梨)背後の山は大麻山
 善通寺の伽藍整備は暦応年中(1338~42)には、五重塔や諸堂、四面の大門、四方の垣地(垣根など)の再建・修理をすべて終ります。こうして、整備された天を指す五重塔を後世の人々が見上げるたびに「善通寺中興の祖」として宥範の評価は高まります。
 それを見て、長尾城主もその子を善通寺に出家させます。それが、先ほど見た宥雅で、彼は一族の支援を受けて新たな宗教施設を象頭山中腹に造営していきます。それが現在の金刀比羅宮につながります。

   以上をまとめておくと
①鎌倉時代の承久の変後に櫛無保地頭職を薩摩守護の島津氏が得て「保司」による支配が始まった
②島津氏は櫛梨保の支配円滑化のために式内社の櫛無神社を保護すると共に、新たな信仰拠点として、持宝院を建立し寺領を寄進した。これが「櫛無郷内保地頭職(櫛梨社地頭職)」である。
③その後「櫛無郷内保地頭職」は、南北朝動乱の中で細川顕氏・和氏が有力な讃岐の寺院である誕生院宥範のの支持を取り付けようとして、誕生院に寄進された。
④その寄進に対して、宥範の一族である岩野氏も同意している。
以上からは、岩野氏が櫛梨保の「保司」あるいは「荘司」であり、宗教政策として櫛梨保内の寺社などの管理権を一族で掌握し、ひいては善通寺に対する影響力も行使していたことがうかがえます。宥範の善通寺伽藍再興も、このような実家である岩野氏の支援があったからこそできたことかもしれません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

南北朝の動乱が勃発してから10年余り過ぎると、南朝方の勢力はすっかり衰え、戦乱は終結に向かうように見えました。ところがそれが再び活発になり、さらに50年近く戦乱が続くのは、争いの中心が、
南朝と北朝=幕府の政権争いから、守護や在地武士たちの勢力拡大のための争いに移ったからだと研究者は指摘します。

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 観応の擾乱(かんのうのじょうらん)を契機として、守護・在地武士は、ある時は南朝方、ある時は尊氏方、また直義・直冬方と、それぞれ、自分の勢力の維持や拡大に都合のいい方へついて、互いに戦いを続けます。
.観応の擾乱

 薩摩守護の島津貞久が尊氏方についたのも、大隅・日向の支配をめぐって対立していた日向守護畠山直顕が、直義方であったことが大きな要因のようです。これを好機と見て動いたのが讃岐守護細川顕氏です。
アベノ封印解除記4】~龍王の眠るところ~ | 螢源氏の言霊
細川顕氏
顕氏は直義方だったので、島津氏が尊氏側に立ったのを見て、櫛無保の島津の代官を討取るか追放するかして、櫛無保を支配下に入れたようです。こうして、島津氏の櫛無保の地頭職は細川氏に奪われます。
尊氏と直義の和睦によっていったんおさまったように見えた観応の擾乱は、まもなく尊氏・義詮と直義の対立があらわになって、再び燃え上がります。

島津家系図
島津家系図 貞久は5代目
 康安二(1362)年6月、薩摩守護の島津貞久は再び幕府に提訴状を提出しています。
その内容の前半2/3は、半済の撤回を繰り返して求めたものです。後半の1/3は、讃岐国櫛無保が中国大将細川頼之に押領されていることを次のように訴えています。
進上 御奉行所  
嶋(島)津上総入道 (貞久)々璽謹言上
(中 略)
 讃岐国櫛無保地頭職は、曾祖父左衛門少尉藤原忠義、去る貞応三年九月七日、勲功の賞と為て拝領せじめ、知行相違無きの処、(頼之)近年中国大将細河典厩押領の条堪え難き次第也、道璽御方に於て数十ケ度の軍功抜群の間、恩賞に預るべきの由言上せしむる上は、争でか本領に於て違乱有るべきや、就中九州合戦最中、軍忠を抽んずる時分也、然らば則ち、彼両条厳密の御沙汰を経られ、御教書に預り、弥忠節を致さんが為め、言上件の如し、
康安二年六月 日              
意訳変換しておくと
讃岐国櫛無保の地頭職は、曽祖父の忠義が勲功の賞として拝領した由緒のある所領である。ところが近年中国大将の細川典厩(頼之)が押領しており許しがたい。私(貞久)は幕府の味方として数十度の合戦に抜群の働きをしてきた。恩賞に預かるべきが当然なのに、どうして本領の櫛無保が押領されてよいであろうか。

将軍義詮はこの訴えを受けて、次のような書状を讃岐守護の細川頼之に送って、押領を止めるよう命じています。
嶋(島)津上総入道々雪申す讃岐国櫛無保地頭職の事、道璽鎮西に於て近日殊に軍忠を抽ずるの処、譜代旧領違乱出来の由、歎き申す所也、不便の事に候歓、相違無きの様計り沙汰せしむべき哉、謹言
十一月二日               (花押)
細河稀駐頭殿             
意訳変換しておくと
嶋(島)津上総入道が訴える讃岐国櫛無保地頭職の件について、島津氏は、鎮西において近頃抜群の軍忠を示したものであるが、譜代の旧領が違乱されていることについて、対処を求めてきた。不便な事でもあるが、相違ないように計り沙汰せよ。
十一月二日              将軍義詮 (花押)
細河稀駐頭(細川頼之)殿 
島津氏は、櫛無保以外にも、下総・河内・信濃などの遠国に所領を持っていたことは前回に見たとおりです。南北朝時代も後半になると、守護や地頭が遠国に持っている所領は、その国の守護や在地の武士たちによって押領されるようになります。島津氏も同様だったと思うのですが、特に讃岐の櫛無保の押領だけを取り上げて幕府に訴え、所領として確保しようとしています。この背景には、櫛無保が島津氏にとって薩摩と畿内を結ぶ中継基地として重要な所領であったことを示している研究者は指摘します。
押領停止の将軍の命が出された頃の讃岐は、どのような状勢だったのでしょうか?
細川氏系図
細川氏系図
  讃岐守護細川顕氏は、頼春の戦死に遅れること四か月余りで病死し、子息の繁氏(しげうじ)があとを継ぎますが、彼も延文四年(1359)六月に急死してしまいます。
『太平記』によると、繁氏は九州で征西軍と戦っていた少弐頼尚を救援するため九州大将に任じられて自分の分国讃岐で兵力を整えていましました。その際に崇徳院御領を秤量料所として取り上げたので、崇徳院の神罰を受けて、もだえ死んだと伝えられます。
  それはともかく繁氏死去の後、しばらく讃岐守護の任命がなく、讃岐の守護支配は一時空白状態になったようです。
一方、京都では、延文三年(1358)4月20日、足利尊氏が没し、義詮が征夷大将軍になります。
義詮は細川清氏(きようじ)を執事に任命します。

細川清氏 - Wikipedia
細川清氏 白峰合戦で敗れる

清氏は頼春の兄和氏の子で、観応の擾乱以来たびたび戦功を挙げ、義詮の信頼を得ていたのです。しかしまもなく佐々木道誉らの有力守護と対立し、謀反の疑いをかけられて若狭に逃れ、その後南朝に帰順します。康安二年(1362)の初め、清氏は阿波に渡り、 そして守護不在となってきた讃岐に入ってきます。讃岐は前代からの顕氏派、頼春派の対立がまだ尾を引いていたようです。そこを狙って、清氏は進出してきたようです。
 『南海通記』によると、清氏はまず三木郡白山の麓に陣を置いて帰服する者を招きます。これに応じたのが山田郡の十河・神内・三谷らの諸氏です。清氏はこれらを傘下に入れて、阿野郡に進み、白峯の麓に高屋城を構えて、ここを拠点とします。
これに対して将軍義詮は、清氏の討伐を細川頼春の遺子頼之に命じます。
細川頼之」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書
細川頼之
頼之は、そのころ中国大将に任ぜられていました。彼は、九州から中国に渡って山陰の山名氏などの援助を得て勢力をふるっていた足利直冬と備中で戦っていました。将軍義詮の命を受けて讃岐に渡り、宇多津に陣を置いて、清氏の軍と対峙します。
 先ほど見た、薩摩守護の島津貞久の櫛無保押領の訴えは、この時に出されたものになります。細川頼之は、阿野郡に拠点を構えた清氏に対抗するために、父頼春の死後ゆるみかけた中・西讃の支配を固め直す必要があると判断したのでしょう。そのための行動の一つが、南朝方に帰属していた島津氏櫛無保の押領し、兵糧米確保や味方する諸将に与えることだったと推測できます。これが島津貞久から訴えられることになったと研究者は考えています。
どこいっきょん? 讃岐での細川頼之さん
白峰合戦
康安二年(1362)7月23日、頼之は高屋城を攻撃して、清氏を敗死させます。これが中世讃岐の合戦は有名な白峯合戦です。那珂郡辺りの武士は、頼之に従ってこの合戦に参加したようです。この時に、清氏に味方した南朝方中院源少将が守っていた西長尾城(満濃町長尾城山)は、庄内半島の海崎城にいた長尾氏に与えられています。櫛無保も同じように戦功のあった者に与えられた可能性があります。
 こうして白峰合戦に勝利した細川頼之を、足利義詮は讃岐守護に任命します。同時に、先に挙げたように書状を送り、守護として責任を持って櫛無保の押領を止めるように命じたのです。この書状を手にした細川頼之は、どのように反応したのでしょうか。
将軍足利義詮の命令通りに、「押領」を停止して櫛無保の守護職を島津氏に返却したのでしょうか。それとも無視したのでしょうか。それを示す史料は残っていないようです。

島津家五代の墓
島津家五代の墓(出水市)
島津貞久は、貞治二(1363)七月二日、九十五歳で戦いに明け暮れた生涯を終えます。
その3ケ月前の4月10日に、薩摩国守護職を師久に、大隅国守護職を氏久に分与します。これによって島津氏は二流に分かれることになります。師久のあとを総州家といい、氏久のあとを奥州家と云います。
島津家五代の墓2

櫛無保は師久への譲状の中に、次のように載せられています。
譲与  師久分
薩摩国守護職
同国薩摩郡地頭職
(中略)
讃岐国櫛無保上下村
公文名并光成
田所
(中略)
右、代々御下文以下證文を相副之、譲り与える所也、譲り漏れの地においては、惣領師久知行すべきの状件の如し
貞治弐年卯月十日     道竪      
しかし、櫛無保の名はこれ以後の島津氏の所領処分目録には見えなくなります。南北朝末期には島津総州家は衰退に向かい、次第に薩摩国内の所領すら維持が困難になるような状態に落ち入っています。讃岐櫛無保の地頭職も島津家の手に還って来ることはなかったようです。

島津貞久の墓
 島津貞久の五輪塔
一方、讃岐国では、白峯合戦に勝利した讃岐守護細川頼之が、領国支配を着々と固めています。
島津家領の櫛無保も、細川頼之の支配下に収まったと見るのが自然です。荘園領主法勝寺の櫛無保支配については、関白近衛道嗣の日記『愚管記』の永和元年(1375)4月11日の条に、法勝寺領櫛無保をめぐって法華堂公文実祐と禅衆とのあいだに相論があったことが記されているので、南北朝末期まで法勝寺の支配が続いていたことがうかがえます。しかし、地頭職をだれが持っていたのかなどについては、他に史料がなくよく分からないようです。

どこいっきょん? 讃岐での細川頼之さん
細川頼之の宇多津守護所
 以上をまとめておくと
①櫛無郷は古代末に、白河天皇が建立した法勝寺の寺領となり、櫛無保が成立した
②鎌倉時代の承久の乱の功績として、薩摩守護の島津氏が櫛無保の地頭職を獲得した。
③以後、島津氏は歴代の棟梁が櫛梨保守護職を引き継いできた
④南北朝混乱期に、南朝方について讃岐守護となった細川顕氏は島津氏の櫛無保を奪った
⑤白峰合戦に勝利して、讃岐守護となった細川頼之も島津氏の櫛無保を押領した。
⑥これに対して、薩摩守護の島津氏は室町幕府に、押領停止を願いでて将軍の停止命令を出させた。
⑦しかし、その将軍の命令が実行された可能性は低い。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献  法勝寺領櫛無保と地頭島津氏 町史ことひらⅠ 119P

讃岐丸亀平野の郷名の
古代の櫛梨郷
   古代の那珂郡櫛無郷は、東が垂水、南が小松、西が生野、北が木徳郷に接して郷の北部に式内神社の櫛梨神社が鎮座し、西側を金倉川が北に流れていきます。
櫛無郷

古代の櫛無郷は現在の次のエリアを併せたものになります。
①上櫛梨(無) 琴平町
②下櫛梨    琴平町
③櫛梨町    善通寺市
櫛梨郷は古代末には櫛梨保となり、中世にはその地頭職を薩摩守護の島津氏が持っていたようです。今回は櫛梨保の成立とその地頭職を島津氏が、どのように相続していたかを見ていくことにします。テキストは「法勝寺領櫛無保と地頭島津氏 町史ことひらⅠ 119P」です。
 櫛梨保が最初に登場する史料は、『経俊卿記(後嵯峨院に仕えた吉田経俊の日記)』の正嘉元年(1257)4月19日の次の記事のようです。
十九日雨降、参院、奏條ヽ事、(中略)
正嘉元年四月十九日源雅言 奉
法勝寺條ヽ
(中 略)
櫛無保年貢事、
仰、於寺用者、地頭抑留不可然之由、先度披仰下了、任彼趣重可被仰遺武家、
(図書寮叢刑)
この日記には、後嵯峨院の評定での記録が記されています。この日の記録には天候は雨で「法勝寺条々」が議せられ、その審議の中に「櫛無保年貢事」が出てきます。ここから櫛無保が京都の法勝寺の寺領だったことが分かります。また、鎌倉時代には、櫛無保の地頭が年貢を送ってこなくなり「抑留」していたことも分かります。この日の院評定で、櫛無保の年貢を抑留している地頭に、幕府に命じて止めさせるよう議定しています。
櫛無保 法勝寺1
法勝寺町バス停 地名として残っている
ここに出てくる法勝寺とは、どんなお寺だったのでしょうか?
法勝寺のあったのは、平安神宮の南側、岡崎一帯で、現在では京都国立近代美術館、京都市美術館、京都会館、京都私立動物園、都メッセなどの文化施設が建ち並ぶエリアです。
法勝寺

この地は、平安時代の後期、白河天皇が建立した寺院が大伽藍を並べる地域でした。その最初は、白河天皇が藤原師実から別荘地を譲り受け、1075年(承保2年)に造営を始めたのが法勝寺です。

法勝寺の説明版
 法勝寺の説明版
 白川天皇は「神威を助くるものは仏法なり。皇図を守るものもまた仏法なり」との考えの下に、仏教を保護して統治する金輪聖王(転輪聖王)にならって法勝寺を建立したと伝えられます。この寺を、慈円は「国王の氏寺」と呼んでいます。それは天皇家の氏寺という意味だけでなく、太政官機構の頂点に位置する「日本国の王の寺院」ということのようです。白河には法勝寺に続いて次々と寺院が作られ、総称して六勝寺と呼ばれるようになります。法勝寺は六勝寺のうち最初にして最大のものでした。法勝寺には、金堂、五大堂、講堂、阿弥陀堂などが建ち並び、約四町という広大な寺域を誇っていました。
法勝寺の塔
①が法勝寺の大塔 ②が東寺五重塔 ③醍醐寺五重塔

1083年(永保3年)なると、高さ約80mという当時の高層建築である八角九重塔が建立されます。ちなみに現存する日本最大の塔は、東寺の五重塔で高さ55mです。

法勝寺八角九重塔 CG復元図

 また、白河には他にも次々と天皇の寺院が作られ、六勝寺(法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺)と総称されました。しかし、文治元年(1185)の大地震で法勝寺の諸堂の大半は倒壊し、八角九重塔もかろうじて倒壊は免れたものの垂木はすべて落ちるという状態でした。1208年には落雷で八角九重塔も焼失し、一部は再建されましたが、1342年の火災で残る堂舎も焼失しました。鎌倉時代になると寺領からの年貢が途絶え、伽藍維持が困難になり衰退していきます。現在は遺跡をとどめるのみです。
 以上からは法勝寺は、11世紀末に白川天皇によって建立された「国王の氏寺」で、栄華を誇った寺院であったこと。それが鎌倉時代には、維持管理が出来なくなり衰退していったことが分かります。これだけの寺院の維持管理のためには、大きな経済的な基盤が必要です。そのために櫛梨郷もどこかの時点で、「櫛無保」に指定され法勝寺領になったようですが、その過程は史料がないのでよく分からないようです。ただ「保」という用語がついています。
保は、本来は国衛領のなかの特別行政区域になります。
 律令制が傾いてくると、封戸からの租税の徴収が困難になってきます。そこで封戸の代わりに田地を定めて、そこから納められる租税(官物・雑役)を封主に与えることになります。このような代替給付を行うことを便補といい、定められた田地が保と呼ばれるようになります。(便補保)。
 法勝寺も、落慶供養の6日後の12月24日に、1500戸の封戸が寄せられています。寺は出来ても経済的な基盤を保証されないと「持続可能」にはなりません。この封戸が何処にあったのかは分かりませんが、櫛無郷が便補保とされたのが法勝寺領櫛無保ではないかと研究者は考えているようです。

法勝寺跡
白川院・法勝寺跡

  島津忠義は、宇治川合戦の戦功によって櫛無保地頭職に補任された
 貞応三年(1324)9月7日付で、鎌倉幕府の北条泰時が藤原(島津)忠義を櫛無保地頭職に任命した開東下知状には次のように記されています。     
可令早左衛門少尉藤原忠義(忠時) 、為讃岐國 (那珂郡)櫛無保地頭職事、
右人為彼職、任先例可致沙汰之状、依仰下知如件、
貞應三年九月七日
                                                       武蔵守不(花押)   (北条泰時)
読み下しておくと
早く左衛門少尉藤原忠義をして、讃岐国櫛無保地頭職と為すべき事。右の人彼の職と為し、先例に任せ沙汰致すべきの状、仰に依て下知件の如し、
貞応三年(1324)九月七日
武蔵守平(花押)    (北条泰時) 
藤原忠義は忠時ともいい、薩摩国守護島津氏の第二代当主のことです。
忠時の父忠久は、本姓は惟宗氏で、摂関家近衛家の家人です。近衛家の荘園である薩摩国島津荘の荘官となり、文治二年(1186)、源頼朝から島津荘惣地頭職に補せられて島津氏を名乗るようになります。藤原氏を称することもあったようですが、主家藤原氏(近衛氏)との関係を強調して家柄を高める意図があったのではないかとされます。これは古代綾氏の流れを汲むとされる讃岐藤原氏も同じようなことをやっています。

島津家系図
島津家系図

 島津氏は建久8年(1197)に、薩摩・大隅の守護職に任ぜられ、さらに日向の守護も兼ね勢力を拡大していきます。ところが建仁3年(1203)、二代将軍源頼家の外戚比企能員とその一族が反逆を起こし、北条時政によって滅ぼされたれます。(比企氏の乱)、この時に島津氏は破れた比企氏側に味方したために三か国守護職及び島津荘惣地頭職を没収されます。しかし、その後に薩摩国守護職だけはほどなく返され、建暦三年(1213)には、島津荘惣地頭職も返されています。ここでは比企氏の乱で、「勝ち馬」に乗れなかった島津氏が領地を大きく削られたことを押さえておきます。

承久の乱 (1221年)【政広】 - 居酒屋与太郎

島津忠義に復活のチャンスはすぐにやってきました。承久の乱です。
先ほど見たようにその3年後に、櫛梨保の地頭職が島津氏に与えられています。ここからは、この補任は承久の乱の功賞によるものと推測できます。島津忠久、忠義も承久の乱の当時は鎌倉に在住し、上京の軍勢に加わって戦功を挙げたようです。『吾妻鏡』の承久3年6月18日の記事には、14日の宇治川の合戦で敵を討ち取った戦功者98人の名が挙げられています。そのなかに「島津二郎兵衛尉(忠義)(辻袖離一ゑ)」の名前もあります。幕府は後鳥羽・順徳・土御門の三上皇を配流し、上皇方についた貴族や武士の所領を没収して、戦功のあった武士たちに恩賞として与えました。島津忠義も宇治川合戦の戦功によって櫛無保地頭職に補任されたとしておきます。

地頭職

鎌倉幕府が武士に所領を与えるのは、当寺は地頭に任命する形をとりました。
「綾氏系図」には、讃岐藤原氏の頭領であった羽床重基が、承久の乱の際に讃岐国の軍勢を率いて後鳥羽院の味方に参じ、敗戦で所領を没収されたことが書かれています。また『全讃史』には、綾氏の嫡流綾顕国が羽床重員とともに院方として戦ったと記されています。院方について破れた勢力は、当然領地没収されました。その跡に、東国武士たちが地頭として送り込まれたわけです。承久の乱で、地頭が置かれたことが明らかなのは、櫛無保のほか法勲寺、金倉寺、善通寺などです。讃岐の地頭のほとんどが承久以後になって現れる東国武士であることは、以前にお話ししました。
地頭が新恩の地に補任された時は、前の領主の所領・得分を受け継ぐのが原則です。承久新恩地頭の場合は、前領主の所領・得分が少なく、またはっきりとした基準がなかったので、やってきた地頭地頭に対して幕府は新しく所領・得分の率を次のように定めています。
①荘園全体の田地に対して11町について1町の割合で与えられる給田
②一段ごとに五升の加徴米徴収権
これを新補率法と呼びます。承久の乱後に地頭になったものを一般に新補地頭と呼んでいますが、厳密な意味では新補率法が適用される地頭が新補地頭になるようです。 これに対して、前領主の所領・得分を受け継いだ地頭を本補地頭と呼びます。島津氏が補任された櫛無保地頭職は、承久の乱後の地頭なので、本補地頭になるようです。
櫛無保は、封戸から転じた便補保ですので、地元に保司(ほうし)という保を管理する在庁官人がいて、租税を徴収して保の領主に送ります。したがって、保司は保全体に対して強い支配力を持つようになります。櫛無保にもこうした保司(武士団)がいて、保領主の法勝寺とは無関係に後鳥羽上皇方につき、所領没収の憂目を見たと研究者は推測します。

島津氏が前保司から受け継いだ櫛無の所領は、給田・給名などの限られた田地ではなく、上村・下村といった領域的な所領です。
さらに公文名や田所名を所有しています。これは下級荘官の公文や田所の所領名田です。地頭島津氏は、公文や田所の所職も兼ねていたことがうかがえます。公文は文書の取り扱い、年貢の徴収に当たる役人、田所は検田などに当たる役人で、これらの下級荘官は実際に田地や農民に接して検地や徴税に当たります。彼らの権限を掌握することは、地頭が荘園を支配する上で重要な意味を持ていました。ちなみに、櫛梨町には公文という地名が今も残ります。このあたりに公文名や彼らの舘があったことが推測できます。

島津氏は三代久経までは鎌倉に在住し、その後は薩摩国守護として薩摩に本拠を置いていました。
そのため櫛無保には、一族か腹心の家臣を代官として派遣して支配したようです。そして、今見てきたような背景から考えて、その支配力はたいへん強力なものであったと研究者は考えています。

最初に挙げた『経俊卿記』正嘉元年(1257)4月19日の記事には、この日の院評定で、法勝寺に納入すべき櫛無保の年貢を地元の地頭が送ってこないのを、幕府に命じて止めさせるよう議定されていました。地頭はもともとは土地管理、治安維持、租税の徴収などを職務とする役職で、所領を与えられたものではなく「領主」ではありませんでした。しかし鎌倉時代の中ごろから、地頭たちは次のような「不法行為」を次第に働くようになります。
①徴収した年貢を荘園領主に送らず自分のものとしたり(年貢抑留)
②給田以外の田地を押領したり
③規定外の租税を農民から徴収したりなどの手段で、荘園全体を支配下に置こうとする動き
櫛無保地頭島津氏も、①の年貢抑留という手段によって、櫛無保内の領主権をさらに強化しようとしていたことがうかがえます。
 隣接する善通寺領良田郷では地頭が年貢抑留に加えて農民の田地を奪い、永仁6年(1298)には、領主善通寺と土地を分け合う下地中分になっています。三野郡二宮荘でも、地頭の近藤氏と領家とのあいだで下地中分が行われています。さらに鎌倉幕府が倒れた元弘の乱の時には、荘園領主分の年貢をことごとく押領していたことは以前にお話ししまします。櫛無保以外でも讃岐各地で地頭の荘園侵略が進んでいたのです。
島津家系図

元寇前の文永二年(1265)、島津忠義(時)の嫡子久経が父のあとを継いで薩摩国守護となります。
文永四年(1267)12月に、忠義(忠時)は譲状を作っています。そのなかで、「櫛無保内光成名給米百石」については、次のように記されています。
こけふん (後家分)
さつまのくに みついゑのゐん
しなのゝくに かしろのかう
さぬきのくに(讃岐国)くしなしのほう(櫛無保)の内
みつなり名(光成)給米百石  一 このちはすりのすけ(修理免久経)
ここからは次のようなことが分かります。
①久経の母尼忍西に「後家分」として、「櫛無保内光成名給米百石」が給米として与えること
②百石という年貢はたいへん多いので、光成名は大きな名田で、荘官の給名田だったこと
③この給米は、彼女の死後は嫡子久経に返すように指示されていること
建治元年(1275)、それまで鎌倉にいた三代目の久経は、文永11年(1274)に、蒙古軍の再度の来攻に備えて九州にやってきています。そして弘安4年(1281)の弘安の役では、薩摩の御家人を率いて奮戦しています。久経は元寇後の弘安七年(1284)に没し、嫡子忠宗が4代目を継ぎます。
それから34年後に文保二年(1318)二月十五日に、忠宗は次のような2つの譲状を書いています。
    〔史料A 島津道義(宗忠)譲状〕
 〔島津道義譲状〕
「任此状、可令領掌之由、依仰下知如件、
文保二年三月廿三日
相模守(花押)(北条高時)
武蔵守(花押)(北条貞顕)
ゆつりわたす  (譲り渡す)
    ちやくし(嫡子)三郎左衛門尉貞久
さつまの國すこしき(薩摩国守譲職)
十二たうのちとうしき(地頭職)
さつまこほり(薩摩郡)のちとうしき(地頭職)
山門のゐん
いちくのゐん
かこしま(鹿児島)のこほり 同なかよし
さぬき(讃岐)の国くしなしのほ(櫛無保)上村・下村
しなのゝ(信濃)國太田の庄内南郷
下つさの國さむまの内ふかわのむら、下黒
ひうか(日向)の國たかちを(高千穂)の庄     
ふせん(豊前)の國そへたの庄
右所ヽ、貞久にゆつりあたうる(譲り与える)所也、女子分子なくば其一この後ハ、そうりやう(総領)貞久可知行之状□□
文保二年二月十五日     沙爾道義(花押)
 (島津家文書)
   〔史料B 島津道義納譲状〕
「任此状、可令領掌之由、依仰下知如件、
文保二年三月廿三日
相模守(花押)(北条高時)
武蔵守(花押)(北条貞顕)
ゆつりわたす  (譲り渡す)
女子大むすめ御せん分
さぬきの國くしなしのほう(櫛梨保)のうちくもんみやう(公文名) 同たところみやう(田所名)
右、大むすめ御せんにゆつりあたうる所也、但、子なくハ、一この後ハ(死後は)、そうりやう(総領)貞久ちきやうすへし(返還すべし)、乃状如件、
文保二年三月十五日      沙爾道義(忠宗)(花押)
史料Aは、忠宗が、嫡子貞久に譲ったすべての「領地」の中に、讃岐国櫛無保の上村・下村も含まれています。上村・下村は現在の琴平町上櫛梨・下櫛梨(一部善通寺市櫛梨町)の地になります。
 ところが忠宗は同じ日に、史料Bの譲り状を書いています。そこには「女子大むすめ御前」に櫛無保内の公文名・田所名を譲り、ただしこれについては、その死後には惣領貞久に返す定めであると記されています。このように所領を生きているあいだ(一期)に限り認め、死後は一族の惣領(家督を継いだもの)に返  す規定は、領地分散を防ぐための方策で、鎌倉中期以後武家領のあいだでは一般的になります。特に女子は、そのままでは婚嫁先に所領が移ってしまうので、この規定が設けられるようになったようです。櫛梨保地頭職は、島津氏出身の女性たちに一代限りで認められ、死後は総領に返却され、島津家のものとして相続されたことがうかがえます。
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文元年(1356)8月6日に、足利義詮が島津貞久に与えた安堵下文には、櫛無保上村・下村のほか、公文名・光成名が加わっています。ここには公文名とともに貞久に返されるはずの田所名がありませんが、その所有については分かりません。

櫛無郷2
櫛梨(明治39年地形図)

 貞久は、鎌倉幕府が滅亡する2年前の元徳三年(1321)八月九日に嫡子生松丸(宗久)に、薩摩国薩摩郡以下の所領を譲っています。
そのなかに櫛無保については次のように記されています。
さぬきの国くしなし(櫛無)の保上村・下村 此内上殿給ハ、資久一期之後可令知行之
同くもんみよう(公文名)
同みつなりみやう(光成名)
これによると上村・下村のうちに「上殿給」というのがあって、当時は貞久の弟である資久がそれを知行していたことが分かります。そしてこれは「資久一期」のもので、資久の死後は宗久が知行することになっています。しかし、宗久は父貞久に先立って死んでしまいます。 すでに老齢に達していた貞久は、その後二男師久、三男氏久とともに貞治二年(1363)、95歳で亡くなるまで、南北朝動乱を戦い抜くことになります。その混乱の中で、島津家も櫛無保の地頭職を押領され失っていくようです。
以上をまとめておくと
①櫛無郷は延喜式の櫛梨神社一帯に成立した古代の郷である。
②櫛無郷は白川天皇が造営した法勝寺の保に指定され櫛無保となった。
③鎌倉時代の承久の乱後に、櫛無保の地頭職を得たのが島津氏である。
④島津氏は地頭として、領主である法勝寺への「抑留」などを行いないながら、実質的な支配権を獲得していった。
⑤櫛無保は、一時的には女性の一代限りの相続を経ながらも、基本的に島津氏の棟梁が相続して引き継がれて行った。
⑥しかし、南北朝の動乱期に「押領」を受け、島津氏の支配から脱落していく。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  法勝寺領櫛無保と地頭島津氏 町史ことひらⅠ 119P

金毘羅大権現に成長して行く金毘羅堂の創建は、戦国時代のことになります。松岡調の『新撰讃岐風土記』には、次のような金比羅堂の創建棟札が紹介されています。
 (表)「上棟象頭山松尾寺 金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉 
于時元亀四年発酉十一月廿七日記之」
 (裏)「金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
ここからは次のようなことが分かります。
①金毘羅王赤如神が金毘羅神のことで、御宝殿が金比羅堂であること。
②元亀四年(1573)に金光院の宥雅は、松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建立した
③本尊の開眼法要を、高野山金剛三昧院の良昌に依頼し、良昌が開眼法要の導師をつとめた
宥雅は長尾一族の支援を受けながら松尾寺を新たに建立します。
さらにその守護神として「金毘羅王赤如神=金毘羅神」を祀るため金毘羅堂を建立したようです。それでは、後に金毘羅大権現に成長して行く金比羅堂は、どこに建立されたのでしょうか。今回は、創建時の観音堂や金比羅堂の変遷を追ってみることにします。テキストは羽床正明   松尾寺十一面観音の由来について ことひら平成12年」です。

長尾城城主の弟であった宥雅は、善通寺で修行して一人前の僧侶になった時、善通寺の末寺で善通寺の奥の院でもあった称名院を任されるようになります。そして善通寺で修行した長尾高広は師から宥の字を受け継ぎ「宥雅」と名乗るようになります。
「讃岐象頭山別当職歴代之記」には

宥範僧正  観応三辰年七月朔日遷化 住職凡応元元年中比ヨリ  観応比ヨリ元亀年中迄 凡三百年余歴代系嗣不詳」
意訳変換しておくと
宥範僧正は、 観応三年七月朔日に亡くなった。応元元年から  元亀年中まで およそ三百年の間、歴代住職の系譜については分からない。

宥範から後の凡そ300年近くの住職は分からないとした上で、「元亀元年」から突然のように宥雅を登場させます。この年が宥雅が松尾山の麓にあった称名院に入った年を指していると羽床正明は考えているようです。善通寺の末寺である称名院に、宥雅に入ったのは元亀元年(1570)頃としておきましょう。
 ここからは羽床氏の「仮説」を見ていくことにします
1570年 宥雅が称名院院主となる
1571年 現本社の上に三十番社と観音堂建立
1573年 四段坂の下に金比羅堂建立
宥雅は、荒廃していた三十番神社を修復してこれを鎮守の社にします。三十番社は、甲斐からの西遷御家人である秋山氏が法華経の守護神として讃岐にもたらしたとされていて、三野の法華信仰信者と共に当時は名の知れた存在だったようです。三十番社の祠のそばに観音堂を建立し、1573年の終わりに四段坂の下に金毘羅堂を建立したとします。


絵図で創建当時の松尾寺と金毘羅堂の位置を押さえておきましょう。本堂下の四段坂を拡大した「讃岐国名勝図会」のものを見てみましょう。四段坂 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会の四段坂周辺

金堂の竣工に併せて四段坂も石段や玉垣が整備されました。
それがこの讃岐国名勝図会には描き込まれています。長い階段の上に本宮が雲の中にあるように描かれています。しかし、創建当初は松尾寺の本堂である観音堂がここに建っていました。その守護神として金毘羅堂が最初に姿を見せたのは、階段の下の矢印の所だと研究者は考えています。両者の位置関係からしても、この宗教施設は松尾寺を主役で、金比羅堂は脇役としてスタートしたことがうかがえます。

5 敷石四段坂1
幕末の四段坂 金毘羅堂はT39の創建された
金毘羅堂と観音堂の位置

今度は17世紀中頃正保年間の境内図を見てみましょう。
境内図 正保頃境内図:
正保年間の金毘羅大権現の境内図

  金毘羅神が流行神となり信仰をあつめるようになると金毘羅神を祀る新しい御宝殿(本宮=金毘羅堂))は、観音堂を押しのけて現在地に移っていきます。その本宮はどんな様式だったのでしょうか?
『古老伝旧記』には、この本宮について次のように記します。

元和九年御建立之神殿、七間之内弐間切り三間、梁五間之拝殿に被成、新敷幣殿、内陣今之場所に建立也、

ここからは元和九(1623)年に建てた金毘羅堂の寸法などが分かります。同時に「神殿」とあり、次いで拝殿、幣殿、内陣とあるので神道形式の社殿であったことが分かります。こうして観音堂は、金比羅堂に主役を譲って脇に下がります。
 階段の下にあったそれまでの金毘羅堂は、修験者たちの聖者を祀る役行者堂となります。このあたりにも当時の金毘羅さんが天狗信仰の中心として修験者たちの信仰を集めていたことがうかがえます。それは金光院の参道を挟んで護摩堂があることからも分かります。ここでは、社僧達がいろいろなお札のための祈祷・祈願をおこなっていたようです。神仏混淆化の金毘羅大権現を管理運営していたのは社僧達だったようです。
 創建当初の金毘羅堂には、祭神の金毘羅神は安置されていなかったようです。
代わって本地仏の薬師如来が安置されていました。金比羅堂が本宮として現在地に「昇格」してしまうと、それまで金比羅堂に祀られていた薬師様の居場所がなくなってしまいました。そこで新たに薬師堂が建立されることになります。
境内平面図元禄末頃境内図:左図拡大図konpira_genroku
元禄末期の境内図

薬師堂の建立場所は、鐘楼の南側の現在旭社がある場所が選ばれます
同時に高松藩初代領主の松平頼重の保護を受けた金光院は、境内の大改造を行い、参道を薬師堂の前を通って、本宮に登っていく現在のルートに変更します。
 また、観音堂も現在の三穂津姫社の位置に移します。そして観音堂の奥には、初代金光院院主の宥盛を祀る金剛坊が併設されます。宥盛は「死して天狗となり、金毘羅を守らん」と言い残して亡くなった修験のカリスマ的存在であったことは以前にお話ししました。全国から集まる金比羅行者や修験者の参拝目的はこちらであったのかもしれません。
 金光院のまわりを見ると、書院や客殿が姿を現しています。高松松平家の保護を受けて、全国からの大名たちの代参もふえてきたことへの対応施設なのでしょう。

金毘羅山本山図1
本宮と観音堂は回廊で結ばれている。その下の薬師堂はまだ小型

こうして松尾寺の中心的な3つの建築物が姿を現します。
金毘羅大権現 本宮
松尾寺本堂  観音堂
薬師堂          金毘羅神の本地仏
以後、明治の神仏分離までは、このスタイルは変わりません。

観音堂と絵馬堂の位置関係
幕末に大型化し金堂と呼ばれるようになった薬師堂が見える

19世紀になると、寺院の金堂は大型化していきます。
その背景には大勢の信者を集めたイヴェントが寺社で開催されるようになるためです。そのためには金堂前には大きな空間も必要とされます。同時代の善通寺の誕生院の変遷を見ても同じ動きが見られることは以前にお話ししました。
 金光院も急増する参拝客への対応策として、大型の金堂の必要性が高まります。そこで考えられたのが薬師堂を新築して、金堂にすることです。薬師堂は幕末に三万両というお金をかけて何十年もかけて建立されたものです。この竣工に併せるように、周辺整備や参道の石段化や玉垣整備が進められていくのは以前にお話ししました。
4344104-31多宝塔・旭社・二王門
金堂(薬師堂=現旭社)と整備された周辺施設(讃岐国名勝図会)

 そして明治維新の神仏分離で、仏教施設は排除されます。観音堂は大国主神の妻の神殿となり、金堂(薬師堂)は旭社と名前を変えています。金堂ににあった数多くの仏達は入札にかけられ売り払われたことが、当時の禰宜・松岡調の日記には記されています。ちなみに薬師像は600両で競り落とされています。また、ここにあった両界曼荼羅は善通寺の僧が買っていったとも記されています。

旭社(金堂)設計図
松尾寺金堂(薬師堂)設計図

 金堂は今は旭社と名前を変え、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神 などで平田派神学そのものという感じです。今は堂内はからっぽです。

金毘羅本宮 明治以後
神仏分離後の絵図 
観音堂は三穂津姫殿となり旧金堂は雲で隠されている

 以上をまとめておきます
①16世紀後半に長尾一族出身の宥雅は、新たな寺院を松尾山に建立し松尾寺と名付けた。
②その本堂である観音堂は三十番社の下の平地に建立された。
③観音堂の下の四段坂に、守護神金比羅を祀るための金比羅堂を建立した
④金比羅神が流行神として信仰をあつめると、観音堂の位置に金比羅堂は移され金毘羅大権現の本宮となった。
⑤松尾寺の観音堂は、位置を金毘羅神に明け渡し、その横に建立された。
⑥金比羅堂に安置されていた薬師像(金毘羅神の本地仏)のために薬師堂が建立され、参道も整備された。
⑦19世紀には、薬師堂は大型化し松尾寺の金堂として姿を現し、多くの仏達が安置されていた。
⑧明治維新の廃仏毀釈で仏殿・仏像は追放された。
境内変遷図1

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明   松尾寺十一面観音の由来について ことひら平成12年」


 DSC04801
 知人から「琴平の山城」という冊子が送られてきました。
定年退職後に、讃岐の山城を歩いて調査して、それを何冊も自費出版し続けています。開いてみると最初に登場したのは櫛梨城でした。
私も最近、善通寺中興の祖・宥範の生誕地である琴平町櫛梨についてアップしたばかりでしたので、なんか嬉しくなりました。そこで、今回はこの冊子に引かれて櫛梨城跡を訪ねて見ます。
1 櫛梨城 地図2
櫛梨周辺図(「琴平町の山城」より)

 櫛梨城は如意山の西に続く尾根上に築かれています。この山は丸亀平野のど真ん中に位置しますので、ここを制した者が丸亀平野を制するとも云える戦略的な意味を持つ位置になります。

DSC04654
櫛梨神社への参道と、その上にある櫛梨城跡
 
 櫛梨は銅鐸・平形銅剣が捧げられ、式内社の櫛梨神社が鎮座することから分かるように、早くから開発が進み諸勢力を養ってきた地域です。中世には、櫛梨は宥範を出した岩崎氏の勢力下にあり、彼の生誕地ともされています。戦国時代には、この山に山城が築かれていたようですがそれが岩崎氏のものであったかどうかは分かりません。
 三野の秋山家文書には、応仁の乱後に櫛梨山周辺での戦闘があり、秋山氏の戦功に対して、天霧城主の香川氏から報償文書が出されています。丸亀平野に侵入しようとする阿波三好勢力と、香川氏の間に小競り合いが繰り返されていたことうかがえます。
 それから約百年後に、毛利軍が守る櫛梨城を取り囲んだ三好軍のほとんどは、讃岐武士団でした。その中には西長尾城主の長尾氏もいました。長尾氏が目論む丸亀平野北部への勢力拡大のためには、香川氏との争いは避けては通れないものだったはずです。これ以前にも、長尾氏は堀江津方面に侵入し、香川氏への挑発行為を繰り返していたことが道隆寺文書などからは見えます。
1 櫛梨城 地図
櫛梨神社と櫛梨城の関係図(琴平町の山城より)

 どちらにしても元吉合戦が始まる前には、この城には毛利氏の部隊が駐屯し、山城の普請改修をおこなっていたようです。その経過については、以前にお話ししましたので、要点だけを羅列します。
 毛利氏は石山本願寺支援のための備讃瀬戸ルート確保が戦略として求められます。そのためにも讃岐を押さえておく必要性が高まり、櫛梨城を調略し、改修普請を行います。これに対して、織田信長の要望を受けた三好勢力は、配下の讃岐惣国衆を動員し、櫛梨城を攻めました。これが1577年の元吉合戦です。
元吉合戦の経過


DSC04665
櫛梨神社
   麓には式内社の櫛梨神社が鎮座します。明治になって合祀した周辺の祠が集められきちんと祀られています。この神社にも神櫛王(讃留霊王)伝説が伝わっています。しかし、社伝ではなく善通寺中興の祖=宥範の伝記の中に記されているものです。中世以後に、語られるようになったものであることは以前にお話ししました。

DSC04673

 神社に参拝し、拝殿の東側から整備された遊歩道を登ります。遊歩道は頂上に向かって直登するのではなく、トラバースした道でなだらかな勾配です。10分ほどで①尾根上に立つことができました。
DSC04692
毛利援軍が陣取ったという摺臼山、その向こうには善通寺の五岳

ここからは、西への展望が開けます。毛利の援軍が陣を敷いたという摺臼山が、金倉川を越えて指呼の間に望めます。

1 櫛梨城 山本先生分
 
毛利軍の冷泉元満らが送った勝利報告書には次のようにあります。
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000程です。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。
 そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
ここからは、元吉城に攻めかかっている三好軍の背後を毛利援軍が襲ったようです。そうだとすると三好軍は、摺臼山に陣取る毛利軍を背後にしながら元吉城の攻撃を始めたようです。敵を背後にしながら攻城戦をおこなうのかな?と疑問に思いながら緩やかで広い稜線を東に歩いて行きます。そうすると木橋と階段が見えてきました。ここが縄張り図Aの位置になるようです。

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竪堀にかかる木橋

   ここで縄張り図について、専門家の説明を聞いておきましょう。
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(東部分の)曲輪Ⅱは低い土塁で囲み北側に虎口を開く。Iとの段差は小さい。Iへは北西部で虎口より上り、南側隅は緩い斜面で下の曲輪へ通ずるが虎口かどうかはっきりしない。この曲輪は土塁に囲まれ両側に虎口を有するので大型の枡形といえる。
 曲輪は幅4~8mでI・Ⅱを完全に取り囲む。Iとの段差は3m前後と高い。南側中央には虎口状の小さな凹みがあり山道が下る。東端は低いが土塁となっている。
 曲輪IVは頂部を半周し、西側には一部土塁が残り土橋状地形もある。曲輪IVの南西隅から緩やかに下ると小さな平場があり、直下には幅6m前後の堀切Aがあり、両側へ竪堀となって数十m落ちる。堀切西側には平坦地がありここと上の小さな平場には木橋がかかっていたのかも知れない。

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 南西尾根先端には出曲輪Vがある。尾根は緩やかに下るが途中両側に土塁があり、先端に性格不明の凹みがある。V南直下には曲輪があり、その下は採石場により崖となる。現在神社よりここまで立派な道が作られている。
  木橋がかかる所は「堀切A」で「両側へ竪堀となって数十m落ちる。堀切西側には平坦地がありここと上の小さな平場には木橋がかかっていたのかも知れない」とあります。報告書通りに、木橋がありました。そして木橋の両側には竪堀があり、下におちています。
  山城としては、なかなか遺構が良く残っています。木橋を渡って整備された急な階段を登っていくと曲輪Ⅳを経てⅠへたどり着きます。ここが頂上ですが、まず感じるのは、その広さと大きさです。
人為的な整地や整形が加えられているような感じがします。

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   平成7年の試掘調査では、主郭中央で柱穴が見つかっているようです。さらに、主郭と堀切Aの間で地山を削り出した上に盛り土を行った3段の帯曲輪を確認し、そこからは土器片や火炎を受けた石材が多数出土したようです。
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休息所のベンチに腰を下ろして、報告書を読みながら改めて、南に広がる景観を楽しみます。
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琴平やまんのう町の丸亀平野南部の平野が南に伸びます。その向こうには低く連なる讃岐山脈。木が茂っているので、東の西長尾城は見えません。しかし、西長尾城を睨むには最適の要地です。長尾氏に取ってみれば、ここを押さえられたのでは、丸亀平野の北部に勢力を伸ばすことは難しかったでしょう。何が何でも欲しかった要地でしょう。
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 クヌギの大きな木の枝にブランコが懸けられています。
洒落たおもてなしに感謝しながらブランコに座って丸亀平野の北を見回します。讃岐富士や青野山の向こうには備讃瀬戸が広がります。北西部には、多度津の桃陵公園が見えます。ここには香川氏の居館があったとされます。眼下には与北山と如意山の谷間に堤を築いて作られた買田池の水面が輝いていました。この櫛梨城を制した毛利氏が、備讃瀬戸の南を通る海上ルートを確保できたことを実感します。
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如意山に向かっては、いったん鞍部を東に下りていきます。その前に、報告書で確認です。
 曲輪Ⅲの東下には塹壕状の突出を持つ横堀Bがあり北寄りに虎口が開く。この横堀は上の曲輪の切岸を高くしたために出来たと思われるが、北端と南端は上の曲輪とつながる道があり、曲輪Ⅲから横矢も効くので登城路として使用し、突出部は枡形機能を持たせ尾根続きへの防御を強めたものであろう。その下には2重堀切Cがあり竪堀となって両側へ深々と落ちる。C北側にはしっかりした連続竪堀2本(1本はその後の調査で判明のため未描写)を構築している。竪堀の間には上の横堀より道が下る。 
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   確かに鞍部まで下りると竪堀が2本連続して、鞍部を横切っています。これは、今から向かう如意山方面からの攻撃に備えるためのようです。「東方の防御性に備えた縄張り」となっているようです。
 しかし、これは毛利氏による修築ではないようです。
   櫛梨城は、この後すぐに土佐の長宗我部元親のものになります。信長や秀吉と対立するようになっていた元親は、西長尾城とセットで、この城を丸亀平野の防備拠点としたようです。何千人もの籠城戦を考えていた節もあります。どちらにしても、ここにみえる二重堀切は長宗我部築城法の特徴で、長宗我部氏の存在を示す遺構であると研究者は指摘します。
1 櫛梨城 山本先生分

この鞍部からさらに東に伸びる稜線を辿っていくと、石の祠があるピークに着きます。
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この祠の前には、こんな「説明版」が置かれていました。
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近代には、雨乞い行事がここで行われていたようです。社伝に伝えられる尾野瀬山から運ばれた聖なる火がここで再び灯され、雨乞いが行われたのかも知れません。
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 さらに、なだらかな歩きやすい稜線を行くと三角点のあるピークに出ました。ここが如意山頂上のようです。櫛梨山に比べると頂上は狭く、山城を築くには不適な印象を受けます。展望もないので早々に、稜線を下ります。
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ピンクの誘導テープに従って下りていくと出てきたのは神社の境内でした。グーグルで見ると丸王神社とあります。 どうも如意山を西から東まで縦走したことになったようです。
山を歩きながら考えたこと

①天霧城の香川氏が本当に、毛利氏のもとに亡命していたのか
②香川氏の讃岐帰国支援とリンクした備讃瀬戸海上覇権確保
③そのための毛利水軍衆による櫛梨城防衛=元吉合戦
④その後の土佐・長宗我部元親の侵攻と西長尾城や櫛梨城の改修普請
そんなことを頭の中で考えながらの里山歩きは、楽しいものでした。
山城についての著書を送っていただいたYさんに感謝
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山本祐三 琴平町の山城
          中世城郭分布調査報告書 香川県教育委員会


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櫛梨神社が鎮座する櫛梨山
 
  櫛梨神社と宥範の関係については、以前にお話ししました。
今回は、その話しにもとづいて宥範の里を歩いてみようと思います。まずは、その生誕地とお墓を訪れてみましょう。丸亀平野を南北に区切るのが如意山です。その西側の頂が櫛梨山で、ここには麓に櫛梨神社があります。その背後には、毛利方が西讃岐支判の拠点とした櫛梨山城があります。

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 櫛梨山からの眺めは抜群で、南には丸亀平野が拡がり、その向こうに阿讃山脈が東西に低く連なります。目を落とすと眼下に見える鎮守の森が大歳神社です。大歳神社は櫛梨神社の御旅所ともされ、その周辺に宥範の生家岩野家はあったとされます。
 ある研究者は、宥範の生家と大歳神社の関係について、次のように記します。

大歳神社の北に「小路」の地字が残り、櫛梨保が荘園化して荘司の存在を示唆していると思われる。しかし、鎌倉時代以降も、保の呼称が残っているので、大歳神社辺りに保司が住居していて、その跡に産土神としての大歳神社が建立された」

ここからは次のようなことが類推できることが分かります。
①大歳神社の北に「小路」の地字が残ること。
②「小路」から櫛梨保が荘園化して荘司がいたこと
③鎌倉時代以降も、大歳神社辺りに保司が住居していて、その跡に産土神としての大歳神社が建立されたこと
さっそく「小路」に行ってみましょう。
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  コミュニティーバスの停留所名に「小路(しょうじ)」とあります。「しょうじ」という地名が出てくれば、研究者はすぐに「庄司」と頭の中で変換して、中世の荘園機構の一部があったところと推察します。ちなみに、この集落の背後の鎮守の森が大歳神社です。そして、すぐ後が「小路」集落の墓地になります。中世にはここに寺院もあったようですが、今は墓地だけが残っています。この墓地に宥範の墓はあるようです。

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「宥範墓所の由来」碑

 ここには 大麻山(象頭山)を背景に「宥範墓所の由来」碑があり、次のように記されています
「宥範増上は今から700年ほど前に、この上櫛梨の地に生まれ、若き日に大歳の社に参籠し、心願を念じ、その大願を達せられんことを祈った。」

と宥範縁起を要約した内容です。宥範縁起は、応永九年(1402)3月に、善通寺誕生院住持・宥源が書いたもので正式には『贈僧正宥範発心求法縁起』と呼ばれるようです。

少し長いですが「宥範縁起」を意訳変換しておきます
宥範僧正は文永七年(1270)に那珂郡櫛梨郷で生まれ、幼い頃に櫛梨郷の北に釜える標高158mの如意山の麓にあった如意谷新善光寺に通って、上人から読み、書き及び経典を教わった。弘安十年(1287)17歳の時に出家して大式坊と名乗り、香河郡坂田郷にあった無量寿院の覚道上人について東密、特に金剛界のことを学んだ。翌年18歳の時に新善光寺の上人の勧めに従い、信濃国の善光寺で浄土教を学んだ。21歳の時帰国して、無量寿院で胎蔵界のことを学んだ。永仁元年(1293)4月24日無量寿院で三宝院実賢から潅頂を受け西三谷(飯山町三谷寺?)で倶舎を学んだ。水仁2年25歳の時に、備前国出身の観蔵坊と連れになり、高野山に修学のために行った。しかし、高野山は南北朝の内乱で荒れていて学問をするような状態ではなく、宥範は高野山を去ったが、観蔵坊は留まった。
 宥範は下野国の鶏足寺に行き、学頭頼尊から事相(実践修法面)教相(教義面)を学び、26歳の時に三宝院成賢方の灌頂を四人の僧と伴に受け、名を了賢坊と改めた。鶏足寺は東・台両密兼学の学問所だつたが、台密は捨てた。
 永仁五年28歳の時鶏足寺を出て衣寺に行き、妙祥上人から大日経の奥疏を学ぼうとしたが、妙祥上人は老齢の隠居の身であるとして宥範の申し出を断わり、奥州ミカキ郡の如法寺の道性房が大日経の奥疏の権威であると教えてくれた。下野国の赤塚寺の衆徒の浄乗坊も一緒に行くことになり、赤塚寺の寂静坊にあいさつに行くと途中で食べるようにといって大きな二連の串柿をくれた。この時天下は大早で、串柿や松の葉などを食べながらやつとの思いで如法寺に着くと道法房という人がいて、大日経の奥疏に詳しくはないというので暫く逗留して、下野国に帰ることにした。
 途中は大飢饉で、野山に自生する蕗をとって食べ、炎天下で肌は黒く焼け、食べるものもなくやせおとろえて鶏足寺に辿り着いた。その姿を見た妙祥上人は鶏足寺で、大日経の奥疏を学ぶことを許可してくれた。正安元年(1299)30歳の時に妙祥上人の伴をして武蔵国の広田寺と伊豆国走湯山の密厳院に行った。妙祥上人の勧めで一「妙印抄』を著すことになり、のちいつしか、三十五巻として完成させた。
 嘉元三年(1305)36歳の時に鎌倉殿に招かれて妙祥上人は鎌倉に行くことになり、宥範に伴をするようにいった。が、生まれ故部に帰って両親にから帰国するようにいった旨を上人に告げると、上人は密厳院の覚典を一人前の僧侶に育ててから帰国するようにと云った。
 覚典が一人前の僧侶に僧侶になったので、徳治死年(1306)36歳の時に、京都を経て西宮で船に乗ると順風に恵まれ、香河郡八輪島(屋島)観音堂前にあっという間に着いた。無量寿院の末寺の野原郷の常福寺にいた師の覚道上人と再会を果たした。徳治2年以後、櫛梨郷の正覚寺にたびたび通って両親に孝行をし、また、善通寺に度々通って終に寂園坊に住んだ。覚道上人に隠遁の志を告げると、常福寺の傍らに草庵をつくつて住むようにいった。この草庵に野原草堂という名前をつけた。
徳治二年に善通寺の末寺で奥の院でもあった称名院(象頭山)の傍らに草庵をつくって住み、この草庵に小松小堂という名前をつけた。延慶二年(1309)から嘉暦三年(1328)迄の十八年の間に数度上洛して、安祥寺に行き、大日経の奥疏を極めることにした。鎌倉から妙祥上人の弟子の是咋房が小松小堂を訪れ、宥範に再び一「妙印抄』を著すように勧めて、元徳2年(1330)に『妙印抄』85巻を完成させた。この年に善通寺の奥の院の称名寺に移った。
 善通寺の衆徒たちがやって来て宥範に善通寺に入って大破した善通寺を復興するよう再三頼んだので、元徳三年七月二十八日に善通寺に入つて東北院に住んだ。元弘年中(1331~33)に誕生院を造営し始めて、建武年中(1334~38)に完成なった誕生院に移り住んだ。暦応年中(1338~1342)には五重の塔・四面大門・四方垣をつくり終えた。観応三年(1352)7月1日誕生院で弟子の宥源にみとられて、遷化した。享年八十三歳であった。

「宥範縁起」は、幼少の頃から弟子として宥範に仕えた宥源僧都が、宥範から聞いた話を書き纏めたものです。
応安四年(1371)三月十五日に宥源の奏上によって、宥範に僧正の位が贈られています。 ここからは以下のようなことがうかがえます
①如意山の麓に新善光寺という善光寺聖がいて浄土宗信仰の拠点となっていたこと
②そのため香河郡坂田郷(高松市)無量寿院で密教を学んだ後に信濃の善光寺で浄土教を学んだこと。
③その後、高野山が荒廃していたので東国で大日経を学んだこと
④善通寺を拠点にしながら各地を遊学し大日経の解説書を完成させたこと
⑤現在の金毘羅宮の下の称名寺に隠居したが、善通寺復興の責任者に担ぎ出されたこと
⑥14世紀中頃に、荒廃していた善通寺の伽藍を復興し名声を得たこと。
東国での修行を終えて36歳で帰国した宥範は、両親に孝行するため、善通寺の野原草堂から正覚寺にたびたび通ったと記されています。ここからは、宥範の両親がいる居館(大歳神社?)家と正覚寺は近かつたことがうかがえます。さきほど見た小さな墓地は地元では「宥範三昧」と呼ばれているようです。
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         「宥範三昧」と呼ばれる墓地
この墓地は、もとは正覚寺の墓地であったのが、寺が無くなって墓地だけが残ったのかもしれません。
宥範の両親が亡くなると正覚寺の墓地に葬られ、宥範は宥源に自分が亡くなると両親の墓のそばに葬つてくれるよう頼んだとしておきましょう。墓地の中に小さなお堂があって、この中に宥範の石像が安置されています。
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小路の中
それでは宥範の実家は、どこにあるのでしょうか?
墓地の北側にの集落が「小路」で、集落内にある森氏宅が宥範の生誕地とされています。そこには大きな「宥範僧正誕生之地」と刻された石碑と地蔵が建っています。

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「宥範僧正誕生之地」碑
宥範は、建武三年(1336)誕生院へ転住するのに合わせて「櫛無社地頭職」を相続しています。
これは「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」の地位です。ここからは宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であり、それを相続する立場にあったことがうかがえます。宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、岩野氏という経済的保護者が背後にあったことも要因のひとつのようです。

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櫛梨神社に続く参道

 そうだとすれば、櫛梨神社や大歳神社は、岩野家出身者の社僧の管理にあったことになります。
「大歳神社」は、今は上櫛梨の産土神ですが、もともとは櫛梨神社の旅社か分社的な性格と研究者は考えているようです。例えば、宥範は高野山への修業出立に際して、大歳神社に籠もって祈願したと記されています。ここからも大歳神社が櫛梨神社の分社か一部であったこと、岩野一族の支配下にあったことがうかがえます。14世紀には上櫛梨や櫛梨神社は、宥範の実家である岩野一族の支配下にあったとすれば、次のような疑問が浮かんできます。
①岩野氏のその後はどうなっていくのか。武士団化するのか
②櫛梨神社の背後の山城・櫛梨城と岩野氏の関係は?
③東隣の公文にあったとされる島津氏の所領との関係は?
④丸亀平野南部で「戦国大名化」する長尾氏との関係は・
それはまた課題と言うことにして・・・

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最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 羽床雅彦 宥範松尾寺初代別当説は正か否か?   
         ころひら65号 平成22年

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