瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:琴平町阿波町

象頭山金毘羅全図1 新町 阿波町
金毘羅五街道 五街道が集まって一本の参道となる
「四国の道は、こんぴらに続く」と云われるように、五街道が金毘羅門前町で合流し、一本の参道となって本社につながっていました。そのうちの阿波から金比羅への道を「阿波みち」と呼んでいました。その街道の付け根に、お旅所(神事場)があり、街道にはノコ屋、目立て屋、ヤスリ屋、鍛治屋などがひしめていました。今回は、この阿波町について見ていくことにします。
  テキストは「町史ことひら3 民俗編 83P」です。
まず略図で阿波町の位置を確認しておきます。

金毘羅門前町
街道の合流位置は、次の通りでした。
①の髙松街道に、
②の丸亀街道が新町で北から合流
③の阿波街道が鞘橋手前で南から合流
⑤多度津街道が内町で北から合流
④伊予土佐街道が、谷川町で合流。
ここでは、③の阿波街道は鞘橋の東側が起点になっていたことを押さえておきます。それを18世紀初頭に描かれた「金毘羅大祭行列屏風図」で見ておきます。

金毘羅大祭行列屏風図 10
「金毘羅大祭行列屏風図」(金刀比羅宮宝物館)

金毘羅大祭行列屏風図 新町 容量縮小版
            大祭行列屏風図 寺領入口の木戸から鞘橋まで

鞘橋祭礼屏風図鞘橋沐浴図
鞘橋周辺の拡大図 右下が阿波町

この部分からは次のような事が読み取れます。
①池の御領(天領)の榎井村から寺領への入口には木戸が設けられていること
②木戸から鞘橋まで街道沿いに「新町」が形成されていたが、その背後は田んぼであったこと
③新町の丸亀街道の合流点に石造の白い鳥居が建っていること
④鞘橋手前で南からの阿波街道が合流していること
⑤そして街道沿いに阿波町が形成されていること。
DSC01023鞘橋から阿波町
金毘羅門前町 阿波町
この絵図では阿波町が鞘橋を起点に、石淵附近までのびていたことが分かります。神事場が整備されるのは神仏分離の明治維新以後のことです。神事場のたりには雑木林が描かれています。注目したいのは、街並みが戸切れるところに柵のように見える木製の鳥居が描かれていることです。これは、あとで見ることにして幕末の阿波町を、讃岐国名勝図会で見ておきましょう。

大祭絵図 鞘橋・阿波町・金倉川 讃岐国名勝図会
           瀬川神事(後の大祭行列) 金毘羅参詣名所図会
この絵図からは次のような事が読み取れます。
①頭家行列が本社から下りてきて内町から鞘橋を渡ろうとしている
②金倉川の対岸には、神事場に続く阿波町の街並みが続く。
③建物は川にせり出すような2階建ての建物が並ぶ
④鞘橋の上流には小さな板橋も渡されている。
この絵図からは幕末の阿波町は、金倉川沿いに南に伸びて、その沿道が市街化していったことが裏付けられます。 文政五年(1822)に片岡正範が著した「証記」の中に「当地町方の事」には次のように、阿波町が記されています。
阿波町の事 是又昔はとぼとぼにこれ有り、今は繁昌し町並に成り阿波国え越く出口故阿已町と云う事
意訳変換しておくと
阿波町については、昔はぽつぽつとしか家がなかったが、今は繁盛して街並みとなっている。阿波への出口なので阿波町という。

先ほど見た阿波町の入口にあった鳥居を見ておきましょう。
 
3 阿波町鳥居
阿波町の鳥居(現在は学芸館前 もともとは南神苑(神事場)東側に立っていた)

この鳥居は、嘉永元年(1848)に阿波国三好郡講中の人たちによって奉納されています
鳥居の銘文にある講中の村々を挙げてみます。

 東山・昼間・足代(三好町)太刀野・太刀野山・芝生(三野町)・中庄・西庄・西庄山・加茂(三加茂町) 辻・西井川(井川町) 池田・州津・西山(池田町)

こうして見ると三好・三野・三加茂・井川・池田など三好郡の吉野川の両岸に分布する村々の人達の寄進で建立されたことが分かります。昼間村から講元引請人と世話人四人を出しているので、このエリアの人達が中心になって寄進奉納が行われたことがうかがえます。昼間には「金毘羅さんの奥社」を自称する箸蔵寺があって、箸蔵の修験者たちが金比羅周辺でも活動していたので、そんな関係もあったのかも知れません。ここでは、昼間村を中心とした勧進活動が行われ阿波町の入口に鳥居が建立されたことを押さえておきます。
 どうして阿讃山脈の向こう側の三好の人達が金毘羅門前町に鳥居を寄進したのでしょうか
金毘羅ほどの賑わいのある町は、吉野川沿いにはありませんでした。金比羅は品物も豊富で、金毘羅さんの阿波街道の入口には「阿波町」が形成され、阿波出身の商人達がいろいろな店を出していました。贔屓の店が、ここにあったのです。また。山仕事に必要な道具を扱う鍛冶屋、鋸屋など職人の町でもありました。ここには阿波の人たちによって鳥居が奉納され、大勢の阿波の人達が金毘羅参詣を兼ねて訪れました。東山では明治の中頃まで、年末になると金毘羅の阿波町へ正月の買い物にいき、めざしや塩鮭、昆布、下駄などを天秤棒にぶらさげて、日の明るい内に帰ってきたと伝えられます。
阿波の人達によって寄進された石畳と玉垣・灯籠・鳥居などの寄進を歴史順に並べると次のようになります。
①文政三年(1820) 阿波藩主の灯籠寄進
②天保十五年(1844)  「阿州藍師中」による玉垣奉納
③嘉永元年(1848) 阿波街道起点の石鳥居 吉野川上流の村々から奉納
④安政七年(1860)  石燈龍奉納 麻植郡の山川町・川島町の村人77人の合力
⑤文久二年(1862)  阿波敷石講中による桜馬場敷石奉納スタート   池田・辻中心
4 玉垣桜馬場21
⑤の文久二年(1862)阿波敷石講中による桜馬場の玉垣 「阿州穴吹」と見える
ここからは、阿波の蜂須賀家の殿様 → 藍富豪 → 一般商人 → 周辺の村々の富裕層へという寄進層の変遷が見えます。殿様が灯籠を奉納したらしいという話が伝わり、実際に金毘羅参拝にきた人たちの話に上り、財政的に裕福になった藍富豪たちが石垣講を作って奉納。すると、われもわれもと吉野川上流の三好郡の池田・辻の町商人たちが敷石講を作って寄進。それは、奉納者のエリアを広げて祖谷や馬路方面まで及んだことは以前にお話ししました。

DSC01447阿波町 阿波街道
琴平町阿波町 
「町史ことひら3 民俗編 83P」には阿波町の賑わいを次のように記します。

阿波町界隈には、ノコ屋九軒、ノコ目立て屋四軒、ヤスリ屋四軒のほか、農鍛冶屋、ヤリ屋、下駄屋布団屋、小間物屋、麦わら帽子屋豆腐屋、肥料屋、箱製造、表具屋、染め物屋、能屋、提灯屋八百屋、古物屋、酒屋、たばこ屋質屋果物屋、風呂屋、床屋、建材店、桶屋、精米店、佛壇屋、運送屋、魚屋、うどん屋等々が建ち並んでいた。徳島県からの参拝客だけでなく、ほかの街道を通った人達も、何でもそろっている阿波町に立ち寄った。

 ノコは山林用に使う大物から小物まで多彩。こんぴら参詣のついでに目立てノコを持参して、お参りする前に阿波町に立ち寄り、帰りに仕上がったノコをもらって帰った。日数のかかる目立てノコは、近所の人がこんぴら参りをするとき、持って帰ってくれた。その代わり、以前預けた人のノコを持ち帰ることもあった。

 阿波町のノコ製造は、江戸末期ごろから始まり、明治末期からは、谷口清太郎、山下長松浅田(庚申堂)の三人が「こんぴらノコ」の基礎を作った。材料のハガネは山陰の東郷や安木から仕入れ、フイゴと「トッテンカン」の荒打ち作業、仕上げ作業を経参詣客用の土産ノコを作った。
 
ヤリ屋は「ぼう屋とか」、ロクロを回すので「ロクロ屋」とも呼ばれる。

 江戸時代、槍の柄を作っていたので「ヤリ屋」と呼ぶ。ヤリ屋の仕事は、真樫で鍬の柄(え)を作ることだった。両方の掌にすっぽりと収まる柄は、真ん中にいくほど、細くなるように仕上げる。材料の真樫は、満濃町、仲南町・綾南町のヤリ屋仲間と一緒に、徳島県の半田や高知県の大辺りまで木を見に出かけて手に入れる。いい木があると伐ってもらい、柄が取れるように、クサビを打ち込み、カケヤを使って「フロワリ」する。あとは、フロワリした材を束ねて運び出す。原木のまま運ぶより、その方が作業がはかどる。フロワリした材は、二年以上仕事場で干す。しっかり乾燥した材は、狂いが少ない。一本作るのに、すべて手作業である。(中略)阿波町のヤリ屋の手仕事は、五色台の瀬戸内海民俗資料館に収蔵されている。

以上をまとめておきます。
①金毘羅門前の鞘橋から神事場にいたる街道沿いに阿波町が形成された。
②この町筋は、ノコやヤリ屋などの職人や阿波からやってきた人達が商売をしていた
③阿波三好の人達は、徳島城下町よりも金比羅の方が便利であったので、何かの折には阿波町の贔屓の店を利用した。
④そのため阿波町の鳥居は、三好郡の有力者の寄進によって建立されている。
⑤阿波街道を経ての人とモノの流れの起点となっていたのが阿波町であった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「町史ことひら3 民俗編 83P」 
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DSC02527
東三好町のソラの集落 男山 
 
東三好町の旧東山村には、讃岐山脈から北に張り出した尾根に多くのソラの集落が散在します。このソラの住人たちの生活圏は、車道が整備されるまでは讃岐に属していたようです。吉野川筋の昼間へ下りていくよりは、讃岐との往来の方が多かったと云います。その理由は
①小川谷に沿って昼間へ出る道が整備されていなかったこと
②金毘羅(琴平)が商業的・文化的にも進んでいだこと
そのため阿波藩の所領ですが、経済的には讃岐、特に「天領で自由都市」である金毘羅さん(琴平)との結びつきの方が強かったようです。東山から金毘羅への道は、次のようなルートがありました。
4 阿波国図     5
①内野から法市・笠栂を経て樫の休場(二本杉)から塩入へ
②葛龍から水谷・樫の休場(二本杉)を経て塩入へ
③貞安・光清から男山峰を越えて、尾野瀬山を経て春日へ。
④差山(指出・登尾山)を越えて石仏越で箸蔵街道と合流して財田へ。
⑤滝久保からは峰伝いに塩入や財田へ
4 阿波国図 15

 どの道も塩入や財田経て、金毘羅さんへ続きます。「四国の道は、金毘羅さんに続く」の通り、金毘羅さんを起点に、次の目的地をめざしたのです。
金毘羅ほどの賑わいのある町は、吉野川沿いにはありませんでした。
品物も豊富で、金毘羅さんの阿波街道の入口には「阿波町」が形成され、阿波出身の商人達がいろいろな店を出していました。贔屓の店が、ここにあったのです。また。山仕事に必要な道具を扱う鍛冶屋、鋸屋など職人の町でもありました。ここには阿波の人たちによって鳥居が奉納され、大勢の阿波の人達が金毘羅参詣を兼ねて訪れました。東山では明治の中頃まで、年末になると金毘羅の阿波町へ正月の買い物にいき、めざしや塩鮭、昆布、下駄などを天秤棒にぶらさげて、日の明るい内に帰ってきたと伝えられます。
DSC02495
男山集落

 阿讃越の峠道は、ソラの集落の尾根を登って峰を越えていく山道でした。
尾根道は、最短距離を行く道で、迷うことも少なく、雪に埋まることも少なかったようです。今でも讃岐山脈の県境尾根の道は広く、しっかりしていて快適な縦走路です。この道を、当時の人たちは、荷物を背負ったり、前後に振り分け玉屑に加けたり、天秤棒にぶら下げて運んだりしたようです。

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 天に近いほど、山の頂上に近いほど、金毘羅にも近いことになります。
つまり、奥地ほど讃岐に近いく便利だったのす。その結果、奥へ奥へと開墾・開発は進められます。それは当時のソラの集落の重要所品作物が煙草であったことも関係します。煙草は気象の関係から、高いところで栽培された物ほど高く売れたようです。これは髙地の畑作開墾熱を高め、そこへの開墾移住熱をも高めました。そのため、葛龍の奥にもなお人家があり、男山の奥にも「二本栗」・「にのご」と集落が開かれていったようです。
 葛尾の集落が街道沿いの集落として、明治までは繁昌していた様子が、残された屋敷跡や立派な石垣からうかがえます。これは、讃岐への交通の要に位置していたからでしょう。

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    男山から昼間への道 打越越えの開通は? 
 昼間の奥の男山は、讃岐に経済的には近かったこと。その要因として、徳島側への道が整備されていなかったことを挙げました。徳島側の拠点となる昼間から東山中心部への往来は、谷と険しい峰に阻まれており、谷に沿って、何回も何回も谷を渡り、河原を歩かなければならなかったようです。 この川沿いの悪路を避けて、尾根沿いに新たな新道が開かれたのは、いつのことなのでしょうか。
それは案外遅く、幕末になってからのようです。
 教法寺の過去帳には、弘化三年(1846)10月24日から11月2日にかけて昼間村地神から東山村貞安小見橋間の道普譜が行われた際の次のような動員文書があります。

 昼間村地神より東山村貞安小見橋まで道お造りなされ候、東山村より人夫千人百人程出掛ヤ御郡代より御配り候て道作り候。普請中裁判人、与頭庄屋助役佐々水漉七郎・西昼間庄屋高木政之進・五人与甚左衛門・福田利喜右衛門・嘉十郎・東山中野右衛門・恭左衛門他に三、四人裁判の由にて、霜月の二日に道造直し、御郡代三間勝蔵殿十月二十七日に御見分担戊申事。
意訳すると
 昼間村の地神から東山村貞安小見橋まで、道を作るときに、東山村より人夫1100人程が郡代の命で動員され道作りに参加した普請の裁判人は、与頭庄屋助役佐々水漉七郎・西昼間庄屋高木政之進・五人与甚左衛門・福田利喜右衛門・嘉十郎・東山中野右衛門・恭左衛門の他に三、四人裁判したようで、霜月の2日に道を点検し、郡代三間勝蔵殿が10月27日に御見した。

文中の「裁判」は、人夫を指揮監督することだそうです。この文書からは、郡代による大規模な工事が行われたことが分かります。この工事が新設か改修かは、文書からは分かりませんが、「状況証拠」から新設に近いものであったと研究者は考えているようです。昼間の地神さんを起点として打越を越え、内野までの尾根沿いの安全な道が、幕末になってやっと確保されたのです。

DSC02539
 
こうして樫の休場越は、それまでの阿波の三加茂・芝生・足代方面からのルートに加えて、
昼間 → 打越峠 → 男山 → 葛籠 → 樫の休場

という新ルートが加えられ、ますます利用者が増えます。讃岐側では
「塩入 → 春日(七箇村) → 岸上 → 五条」 

を経て金毘羅阿波町に至るので。七箇村経由金毘羅参拝阿波街道とも呼ばれるようになります。
 明治になると「移動の自由」「経済活動の自由」が保証され、人とモノの動きは活発化します。
讃岐の塩や鮮魚・海産物などと、阿波の薪炭・煙草・黍などとの取引が盛んに行われるようになります。特に煙草・藍などの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、また借耕牛の行き来も盛んになります。
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樫の休場から望む満濃池 手前が塩入集落

 こうして、樫の休場では、二軒の茶屋が営業をはじめるようになります。讃岐側の塩入は、塩や物産の中継基地といて賑わいを見せるようになり、うどん屋や旅人宿ができ宿場化していきます。明治年代の地形図からは、街道沿いに街並みが形成されているのが分かります。
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東山峠越の新道建設へ
 このような背景を受けて、以前にお話ししたように明治28年(1895)ごろから塩入と阿波の男山を結ぶ新たな里道工事が始まるのです。この工事の際に、里道(車道)としては、男山まで道路改修が進んでいました。そこで、峠はその上部に作られることになります。これが現在の東山峠の切通です。阿讃の物資は大八車で、東山峠で行き交うようになります。その結果、樫の休場越は次第に寂れていきます。
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東山峠の切通 ここで阿波の里道と讃岐からの里道は結ばれた
 
   ソラの集落への「猫車道」の開設は
 大正初期に書かれた『東山の歴史』に、ソラの集落への道路開設の様子がどのように進められたかを見ていきましょう。。
   葛籠線 
DSC02500

葛籠は男山から樫の休場への途中にある集落です。
それまでの道は、男山谷に沿って入っていくので大変険悪だったようです。また、谷を9回も渡らなければならないので、洪水の時には男山峰からの迂回路を取るか、危険を冒して「引綱」を頼りに渡るしかなかったと云われます。
 明治33年(1900)に、幅六尺(約180㎝)の新道建設が始まり、東山の各部落から夫役の無償供与を受けて完成しています。猫車を押して通れるようになったのでこれを「猫車道」と呼んだようです。
DSC02504


 男山線 
男山新道は、男山西浦から始まって二本栗でで塩入線に接続します。大正元年(1912)に起工し大正四年に完成しています。これも各部落からの夫役寄付で工事が行われました。当時は、半額が国・県負担で、残りの半額は「地元負担」でした。そのため自分たちの道は、自分たちで作るという気概がリーダー達にないと、造れるものではありませんでした。
 このように明治末から大正初年の新道開設は、ようやく普及し始めた猫車による運搬に対応するためのものだったようです。それが戦後まで利用されます。

DSC02513
 戦後の高度経済成長が始まると「軽四トラック」が里の村には走り始めます。
そのため、ソラの集落も軽四トラックが通れるように道を広げることが悲願となります。この時代になると国や県も山間部の道路整備にも補助金を出すようになっていました。こうして各部落の道路が改良・整備され、農家の庭先に軽トラックの姿が見られるようになります。
 そうなると買い出しは、トラックで昼間のスーパーに行った方が便利になります。しかし、今でも東山の人たちは讃岐との関係を持ち続けて生活している人が多いようです。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 三好町史 民俗編309P   讃岐への道

 前回は重要有形民俗文化財の指定を受けた鳥居10基の内で、境内にある4基を見て回りました。今回は、残り6基を見ていきます。これらは琴平に集まってくる5本の金毘羅街道の起点に作られたものです。しかし、時の流れの中で最初に建てられた所から移動しているのもあるようです。
 古い順に鳥居を並べてみると、次のようになります  
①1782 天明二 高藪(現北神苑)  粟島 廻船中 徳重徳兵衛 
②1787 天明七 二本木(現書院下) 江戸 鴻池儀兵衛他 
③1794 寛政六 牛屋口       予州 績本孫兵衛
④1794 寛政六 奥社道入口     当国 森在久       
⑤1848 嘉永元 阿波町(現学芸館前)三好郡講中
⑥1855 安政二 新町        当国 武下一郎兵衛
⑦1859 安政六 一ノ坂(撤去)   予州 伊予講中   
⑧1867 慶応三 賢木門前      予州 松齢構       
⑨1878 明治11 四段坂御本宮前  当国 平野屋利助・妻津祢
⑩1910 明治四三 闇峠       京都 錦講         
3 高藪町の鳥居

まずは①北神苑(高灯籠公園)の鳥居です。
 この鳥居はもともとは、多度津街道の高藪口に建っていました。写真のように鳥居が建てられると灯籠が並んでいくようになり、多度津からの参拝客を迎える玄関口の役割も果たしていました。
 ところが昭和48年、この鳥居に生コントラックが衝突し一部が壊れてしまいます。そのために安全性を考え、高燈龍の南側正面に移されたようです。移築の背景には、モータリゼーションの普及で狭い旧街道にも車が入ってきて、通行の邪魔になり出したという社会的背景があるようです。道路拡張と共に、旧街道を跨いでいた鳥居は「邪魔者」として取り除かれたり、移築されるようになります。しかし、移築先は高灯籠の正面で一等地です。今では最初からここにいたような顔で、建っています。

3 高藪町の鳥居2
 この鳥居は花崗岩製の明神鳥居で、約240年前の天明二年(1782)に粟島廻船中によって奉納されています。今ある鳥居の中では最も古いものになるようです。粟島(三豊市詫間町)は庄内(三崎)半島の沖合に、3枚のプロペラの様な形で浮かぶ小島です。ここは塩飽諸島と同じように古くから優れた船乗りのいたところで、江戸時代になり海上運送がさかんになると、廻船の船主、あるいは船乗りとなって活躍し、島に大きな富をもたらします。この鳥居は海上運送で大きな役割をはたした粟島廻船の船主や船乗りたちによって奉納されたようです。
3 鳥居meisyou
 この鳥居の奉納経過を、残された資料から見てみましょう。
建立の前年安永十年(1781)に建立願が次のように出されています。
 乍恐奉願上口上之覚
笠石共惣高 壱丈六尺五寸一 
石ノ鳥井 横中ノ庭サ地際二而内法り壱丈六尺
柱ふとささし渡り 壱丈五寸
右者丸亀御領阿波嶋(粟島)庄屋徳右衛門
御宮山江御立願御座候二付、此度御願申上建申度由御座候、数年私方常宿二而熟懇二仕候、
何卒御願申上呉候様ニト申參候、右願之通被為仰付被下候ハバ難有奉存候、
右之段宜被迎上被存候様卜奉願上候。
  以上
          内町 中嶋屋長七
 安永十年丑四月十六日
          組頭 嘉原治殿
意訳すると
恐れながら次の通り鳥居奉納について願い出ます
笠石も含めて全体の高さは壱丈六尺五寸 
石造の鳥居で 笠石を除くと内法は壱丈六尺
柱の長さは 壱丈五寸
この鳥居を、丸亀藩の阿波嶋(粟島)庄屋徳右衛門が、お宮へ奉納をお願い申し上げます。この旅の奉納願いは数年前より考え、計画してきたことです。何とぞ、お聞き届けいただき、この計画書通りに許可していただければ有難いことです。以上通り、謹んでお願いいたします。
            以上  内町中嶋長七
 阿波嶋(粟島)の庄屋徳右衛門(徳兵衛の間違い)は、鳥居に名前が刻まれている「取次 徳重徳兵衛」のことで、内町中嶋屋長七とあるのが「世話人富所、中嶋屋長七」のことです。つまり、粟島の徳兵衛が金毘羅参拝の際に、定宿としている内町の中嶋屋長七に粟島廻船中が鳥居を奉納する願いをもっていると相談をもちかけ、それを長七が金毘羅当局に聞きとどけてもらえるようにと組頭嘉原治に申し出た文書です。
 しかし、この申し出は一度では聞きとどけられなかったようす。
翌年の天明二年(1882)3月15日に再び同じような書状が長七から嘉原治に出されています。
 なぜ許可が下りなかったのでしょうか。
 それは建立を申請した場所に問題があったからのようです。
「高松様並びに京極御両家其外他國諸侯方より萬御寄附物留記」の天明2年4月朔日の項に次のような記録があります。
高藪町入口江 石鳥居丸亀領粟嶋 庄屋徳右衛門より寄附
 但一之坂上り口江相建中度願出候得共、御神前より一ノ阪迪鳥居之数四ツニ相成不宜候二付及断高藪町入口江取建候事
意訳すると
高藪町入口へ石鳥居が丸亀領粟嶋の庄屋徳右衛門より寄附された。
ただし、最初は一之坂上り口へ建設願い出されたが、ここは神前から一ノ阪までの鳥居の数が四つ目になるため宜しくない。そのためにこの場所に建てることは断り、高藪町入口へ変更した。
一之坂上り口は、内町方面からの参拝道と、伊予土佐方面からの参拝道が出会い、金毘羅五街道すべての道が一つになるところで、最も参拝客で賑わうところです。そのため札場も置かれていました。奉納者の気持としては、より神前に近く、より多くの参拝者の目にふれる所に建てたいと願うのは当然のことです。しかし、金毘羅さんにも思惑があります。この時点では一ノ坂に鳥居をたてるのは「不吉」と判断したようです。結局、一ノ坂上り口ではなく高藪入口に建立するこで許可が下りたようです。

3 高藪町の鳥居3
   ところで、この鳥居の笠の部はバランスを失なっていると研究者は指摘します。その理由は、笠を中央で支える額束が短かすぎるためだと云います。これについては嘉永七年(1854)の11月の金光院当局の書きとめた記録に次のようなものがあります。

新町石島居柱損少し西へ傾き、高藪口石鳥居笠木四寸斗喰違候由申出手常申付候へども及暮笠木等も難出来、今晩は番人附置通行人用心可致、明朝より足いたし飯高藪口ハ外二明地有之候ゆへ鳥居下ハ縄張いたし通不中段夜四ツ時村井為右工門拙宅へ来り申出候事
意訳すると
新町の石島居の柱が損傷し西へ傾き、高藪口の石鳥居も笠木が四寸ほど食い違っていると報告があった。今晩は監視人を付けて通行者に用心するように知らせ、明朝より対応することにした。高藪口は周りに空き地があるので、鳥居の下は縄張して通行禁止にした。夜四ツ時に村井為右工門がやってきて以上の報告を受けた。

  嘉永七年(1854)の大地震は、讃岐にも大きな被害を与えました。前年に底樋工事を行った満濃池も工法ミスから堤防が決壊し、金毘羅の町も多くの橋が流されます。地震の揺れで、この鳥居も笠木が中央部で、四寸(21㎝)喰違ったとあります。このとき笠木をうける額束もいたみ修理を行ったのが、今の姿ようです。今では鳥居の建っていた一帯は家が建ち並んでいますが、その当時は空地がいっぱいあったことも分かります。

  書院下の鳥居       丸亀街道の起点・二本木の金鳥居
3 二本木鳥居

現在、境内の書院下に建つ青銅製の黒く見える大鳥居は、もと丸亀街道が金毘羅領に入ってすぐのところに建っていました。上図の右手に建っている黒い鳥居です。ここには、丸亀街道をはさんだ両脇に一里塚の松と桜の大樹があったところから二本木と呼ばれていました。そのためこの鳥居も二本木の鳥居と呼ばれるようになります。
 丸亀からこの鳥居までは百五十町、今でもここには「百五十町」と書いた町石があります。丸亀から馬や駕寵できた参拝者も、ここからさきは歩いて参拝したと云われます。
 この鳥居は天明七年(1787)、九月に発願され、翌年5月には完成しています。願主は、江戸茅場町の鴻池儀兵衛で、さすがに豪商鴻池一族が中心となっただけに手際もよいものです。

3 金鳥居2
   その間の経過を史料で見ていきましょう。
天明八年正月に、鴻池儀兵衛、世話人鴻池太良兵衛・同栄蔵の連名で、鳥居の各部寸法、および青銅の重量を記したものが提出されています。先ほどの場合もそうでしたが奉納を願うときには、奉納物の寸法も書き添えています。それは、鳥居を建てる用地が問題となるからでしょう。
 「二本木鳥居用地覚書」によると、
 天明八申三月、江戸鴻ノ池儀兵衛抒中田藤助と申仁施主二而二本木下之唐金鳥井寄進有之、則三月廿二日右藤助十人斗大召連到着有之、廿五日尊勝院此方多聞院同道二而二本木下地とこ見分候處、追々尊勝院より藤助へ及相談東西場所田地 禰右衛門持地高屋禰右衛門持地五間四方相調相済書附也
意訳すると
 天明八(1789)申三月、江戸の鴻ノ池儀兵衛が而二本木に唐金(青銅)鳥居を寄進した。
3月22日に 藤助が関係者を連れてやって来た。25日尊勝院と多聞院が同道して、二本木の建設予定地を下見し、具体的な建設地点を確認した。その上で、建設予定地の持ち主である禰右衛門と高屋禰右衛門の同意を取り付け、書類も提出させた。
 こうして、用地も整い二ヶ月後の五月に完成します。高灯籠が姿を現すのは幕末ですので、この鳥居の姿は、ランドマークとして旅人の目を奪い、丸亀街道を通った人の旅日記にも必ず記されるようになります。菱谷平七の旅日記には
道の中に大なるからかねの鳥居あり、江戸の人びとの建てるよし
とあります。金毘羅の町の人たちも親しみを込めて「かねんとりい(金鳥居)」と呼ぶようになりました。
1 金毘羅 高灯籠1

 ところが25年後の文化十一年(1814)10月26日の夜に台風による大風が吹いて、この鳥居は倒れてしまいます。この灯籠はみんなから愛されるものになっていましたから、丸亀と金毘羅の多くの人々のボランテイアなどによって、4年後の冬に再建にとりかかり、文化同十五年の二月二十七日に完成します。
3高灯籠
明治時代の写真
 再建から約80年後の明治三十五年再び倒れるのです。このときは、しばらく倒れたまま放置されたようです。再再建されるのは大正になってからで、大正元年九月に姿を見せます。この時の再建には、大阪四天王寺生まれの十二代朝日山四郎右衛門の寄附や、同じく大阪の鋳縫人の協力によって行われたようです。そして10年後に、二本木から現在の書院下に移されます。

3 金鳥居

 命あるものは死に、形あるものは壊れるのが必定です。出来上がった時には、その立派さから壊れたり朽ちたりすることまで考える人はあまりいません。しかし、半世紀も経つと青銅や石の灯籠でも壊れるのです。それが修理され維持されていくのは、信仰という心で結ばれた人たちの手がさしのべられたからなのかもしれないと思うようになりました。 この鳥居は天明八年に建立されてから現在まで、江戸・大坂・丸亀・金毘羅といった多くの人々の協力で維持されてきたようです。
この鳥居の履歴をまとめておきます。
天明七年 (1787年)丸亀街道、金毘羅町口の二本木に建立
文化11年(1814年)大風により破損倒壊
文化15年(1818年)再建
明治35年(1902年)8月28日、破損取壊し
明治45年(1912年)6月10日、再建起工
明治45年(1921年)10月9日、金刀比羅宮社務所南側に移転建立

  牛屋口の鳥居

3 牛屋口鳥居2

 土佐伊予方面からの参拝者は、伊予川之江から讃岐の豊浜に入り、伊予見峠を越えて佐文(さぶみ)の牛屋口から金毘羅領に入りました。牛屋口は、象頭山のちょうど鼻の部分にあたり、街道最後の峠で金毘羅領への入口でした。ここは、琴平から豊浜方面に抜ける新道が別ルートでできたため、むかしの雰囲気が残る数少ないスポットです。ここの狛犬は個人寄進により川之江の石工によって掘られたもので特徴があります。この狛犬については、以前に紹介しましたの省略して先へ進みます。狛犬の向こうに鳥居が建ち、それに続く道筋の左側は、石垣を築いた上に土佐から奉納された石燈龍が並び建ちます。
 
3 牛屋口鳥居
 さてここの鳥居ですが、寛政六年(1794)の銘があり、この峠に2番目に現れた奉納品のようです。一番早いのは前年に奉納された参拝碑です。それに続いて、石燈龍が明治はじめにかけて次々と奉納され、立ち並んでいくようになります。ここでも奉納品のスタートは鳥居です。
   この牛屋口の鳥居は花崗岩製の明神鳥居で、予州宇摩郡野田村(愛媛県宇摩郡土居町野田)の績木孫兵衛宗信により奉納されたものです。 績木家は代々庄屋をつとめた名家で、野田村の金毘羅信仰の中心にいた家です。これも個人寄進で左側の柱に奉納者の績木孫兵衛宗信の名前だけが刻まれています。

  学芸参考館前の鳥居   阿波街から移された阿波鳥居
 
3 阿波町鳥居
阿波町にあった鳥居 (現在は学芸産公館前に移築)
南神苑(神事場)から新町に至る一帯を阿波町と云います。阿波から金毘羅に来た人々が、まずこの町に入ってきたからこの地名がついたようです。現在、学芸参考館前に建つ鳥居は、もともとは阿波町の人口、南神苑の東側に建っていました。ところが、多度津街道の鳥居と同じで、自動車の時代をむかえ、大型車が通りぬけできないようになります。石鳥居を保存する上でも、通行円滑のためにも移転されることになります。それで昭和三十年代のはじめ解体され、学芸参考館の前方に移されたようです。
 この鳥居は、嘉永元年(1848)に阿波国三好郡講中の数多くの人たちによって奉納されています
三好郡は阿波国では西端で、金毘羅とは阿讃山脈をはさんで背中合わせの関係にあります。人的・経済的な関係も深かったようです。鳥居の銘文にある講中の村々を見てみましょう。
 東山・昼間・足代(三好町)太刀野・太刀野山・芝生(三野町) 中庄・西庄・西庄山・加茂(三加茂町) 辻・西井川(井川町) 池田・州津・西山(池田町)
と吉野川の両岸に分布する村々です。その中心部にあたる昼間村から講元引請人と世話人四人を出しています。この近くには「金毘羅さんの奥社」を自称する箸蔵寺があります。箸蔵寺は真言密教系の修験者の寺で、いつの頃からか金毘羅大権現を祀るようになり、周辺に金毘羅信仰を広げていきます。そのため信者たちは、本家の金毘羅さんにも定期的にお参りする人が増えてくることは以前にお話ししました。箸蔵寺は今も金毘羅大権現を祀る寺院ですが、その境内の玉垣には日本に留まらず朝鮮や中国東北部からの信者の寄進が数多く見られます。戦前に至るまで活発な宗教活動が行われたいたことがうかがえます。それが現在の立派な仏教伽藍にも現れているのでしょう。
そのような中で昼間村を中心とした集金マシーンが働き、鳥居の寄進となったのではないかと私は考えています。
  新町の鳥居   高松街道の起点
3 新町の鳥居

 新町の鳥居は、旧高松街道の新町商店街の中に建っています。花崗岩製の明神鳥居で、安政二年(1855)、高松市川部町の武下一郎兵衛によって奉納されたものです。これも個人奉納です。
 一郎兵衛は、中讃から東讃にかけての酒と油の販売権をもっていた人で、盛期には使用人が百人をこえ、掛屋・札差といった金融業など手広く商をしていた商人です。この鳥居が奉納された頃は、彼の事業の最盛期でもあったようです。
 この鳥居には、笠木の裏側に剣先型の彫り込みが見え、不動明王の種子と願文が彫られていると研究者は云います。残念ながら私には確認できません。この彫り込みは建造物の棟札をイメージしたものと研究者は考えているようです。
 しかし、掘られているのが不動さまというところ引っかかってくるものがあります。不動明王は修験者の守神です。奉納者と修験道に何らかの関係があったのではと勘ぐってみたいのですが、いかんせん資料がありません。
 新町には以前から鳥居が建っていました。金毘羅さんへ奉納された鳥居のなかで街道に建てられたものとしては、新町のものが一番古いのではないかと研究者は考えているようです。
 元和七年(1621)に、「新町に鳥居が建った」という最初の簡単な記事があるようです。
 次は寛永十年(1633)でと『古老伝旧記』の中に次のように記されています。
   新町石之華表(鳥居)之事
 寛永十契酉年造立(朱)
「施主当國岸之上村荒川安右衛門」
  惣高さ壱丈八尺弐寸 笠木厚壱尺八寸
  内のり壱丈三尺三寸 笠木長弐丈五尺
  柱廻り目通にて 五尺六寸
  右鳥居は古は木にて有之也

 岸之上村の荒川安右衛門が木の鳥居にかえて石の鳥居を建てたとあります。木の鳥居は元和七年のもので、11年後に石の鳥居に建てられたということでしょう。しかし、この鳥居は嘉永七年(1854)末に火事や地震で倒れ、取除かれてしまったようです。その翌年になって建てられたのが現在の鳥居になるようです。

3 新町鳥居
 元禄時代の「祭礼図屏風」には、前の鳥居が描かれています。その位置は高松街道と丸亀街道が出会う合流点です。つまり今の鳥居より50㍍ほど金毘羅さん寄りに建っていたようです。
 文化年(1804~17)の末頃に書かれた『中国名所図絵』には、この鳥居について
「石鳥居(丸亀街道から)新町を行常り角にあり。右は參詣道、左は高松街道(後略)」
と記されます。
屏風図をもう一度見てみましょう。ここには10月10日の大祭に、お山に上がっていく頭人行列の人々が枯れています。彼らは高松街道(右)をやって来て、金毘羅さん(左)に動いていきます。それを見守る人々の姿も描かれています。注意してみて欲しいのは、白い鳥居の前で高松街道と丸亀街道が合流し、人々が密集していることと、その右手に白い柵(木戸)があることです。ここが金毘羅領と天領の榎井村の境界であったようです。現在の鳥居が建っている位置は、このあたりになるようです。現在地になってからは、丸亀街道をやって来た人たちがこの鳥居の下をくぐることはなくなりました。
   前回も触れましたが、金毘羅さんの石鳥居で現在残っているものは近世後半のものです。近世前半のものはありません。金毘羅さんだけでなく鳥居自体が中世以前のものは少ないようです。ほとんどが近世中期以後と考えてよいと研究者は云います。その理由としては
①石鳥居を造る技術をもつ石工が全国的に少なかった
②鳥居は大きくて重量で運搬も大変であった
こういったことを合せて考えると、寛永十年に高さ5,5㍍と小形ではあっても石鳥居が奉納されていることは誇るべき事なのだと思います。

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