瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:琴平駅

  今から99年前の1923(大正12)年5月21日に、琴平-財田間の鉄道が開通しました。
琴平駅2
財田への延長と供に姿を現した金刀比羅停留所(現琴平駅)
開通を祝する当時の新聞を見ておきましょう。(現代語意訳)
徳島へ・高知へ 一歩を進めた四国縦断鉄道 
琴平・讃岐財田間8里は今日開通 総工費130万円
香川・徳島の握手は大正16年頃の予定。 (以下本文)
 土讃線琴平財田間8里は21日開通となったがこの工事は大正9年3月に起工し、第一工区琴平塩入間四里と大麻の分岐点から琴平新駅まで一哩は京都市西松組が土工橋梁等を25万余円で請負い10年6月に竣工。また第ニ工区塩入・財田間三里九分も同組が43万円で請負、10年2月起工し11年8月に竣工した。それから土砂撒布と橋梁の架設軌道敷設琴平塩入財田の三駅舎の新築などその他の設備の総工費130万円を要した。工事監督は岡山建設事務所の大原技師にして直接監督は同琴平詰所の最初の主任三原技手後の主任は佐藤技手であった。
 工事の内の橋梁は第一金倉川60尺2連、第二金倉川60尺1連・照井川40尺2連・財田川65尺5連・多治川50尺1連などが大きい方である。切り通しの最高は十郷大口の55尺、山脇の165間などで8ケ所あった。盛土の最高は財田川付近にある。
ここからは、総工費が130万円で3年間の工期の末に、琴平ー財田間が完成したこと、その区間の橋梁や切通部分などが分かります。

 財田に向かう乗客は①新琴平駅で列車を乗り換える。琴平旭町の道を横切り神野村五条に入り、再び金倉川の鉄橋を過ぎ、岸の上を経て真野に抜けて行く。この間は、少し登りで、田園の中を南に進む。左手に満濃池を眺めつつ七箇村照井に入り、福良見を過ぎ十郷村字帆山にある②塩入駅に着く。塩入駅は、西に行けば大口を経て国道に達する大口道、東に行けば琴平・塩入を結ぶ塩入道につながる交通要衝の地に作られている。この駅から満濃池へは東へ約1,7㎞、七箇村の福良見・照井・春日・本目へはわずかである。この附近の産物は木炭薪米穀類である。
 塩入駅からさらに西に向かい十郷村を横断し、後山・大口を経て大口川を越える。それから南に転じて新目に至る。列車は徐々に上り、③17mの高い切通し④高い築堤の上を走りつつ、⑤橋上から眺めも良い財田川を渡り、約300mの長い切取しを過ぎて山脇に入る。帰来川を渡ると間もなく財田村字荒戸にある⑥讃岐財田駅に着く…(以下略)
 番号をつけた部分を補足しておきます。

DSC01471
1923年完成の金刀比羅停車場(琴平駅)
①の新琴平駅が現在の琴平駅です。それまでは、現在の琴参閣の所にあったものが琴平市街を抜けるために、現在地に移動してきました。
この駅の建築費は13万円で、総工費の1/10は、この駅舎の建築費にあたります。西日本では有数の立派な駅だったようです。
塩入駅

②の塩入駅周辺では、東山峠を越えて阿波昼間との里道が開通したばかりでした。そのため阿波との関係の深い宿場街的な塩入の名前がつけられます。阿波を後背地として、阿波の人達の利用も考えていたようです。
③の切通しは、山内うどんの西側の追上と黒川駅までの区間です。ここから出た土砂がトロッコで塩入駅方面に運ばれ線路が敷かれていきます。
琴平駅~黒川駅周辺> JR四国 鉄道のある風景
黒川駅(黒川築堤の上に戦後できた駅)
④の高い築堤には、現在は黒川駅があります。ちなみに黒川駅が、ここに姿を現すのは戦後のことです。

土讃線財田川鉄橋
黒川鉄橋
⑤は、黒川鉄橋で当時としては最新技術の賜で巨費が投じられました。同じ時期に作られた琴電琴平線の土器川橋梁や香東川橋梁は、旧来の石積スタイルの橋脚がもちいられていますが、ここではコンクリート橋脚がすでに使われています。それが現役で今も使われています。

土讃線・讃岐財田駅-さいきの駅舎訪問
讃岐財田駅
⑥の財田(さいだ)駅が終着駅でした。郵便や鉄道荷物も扱うので、職員の数は45人もいたようです。池田方面へ向かう人々は財田駅で降りて、四国新道を歩いて猪ノ鼻峠を越えるようになります。その宿場として財田の戸川は、発展していきます。同じように、塩入街道を通じて阿波を後背地に持つ塩入も、この時期に発展します。阿波の人とモノが塩入駅を利用するようになったからです。
 開通当時の時刻表を見てみましょう。
琴平発の始発が5時47分、その列車が財田駅に到着するのが6時10分。折り返し始発便として6時25分に出発します。一日6便の折り返し運転で、琴平と讃岐財田が30分程度で結ばれました。
 これによって、樅の木峠を越えていた馬車は廃業になります。追上や黒川の茶屋も店終いです。交通システムの大変革が起きたのです。
  1923年に財田まで鉄道が延び、現在の琴平・塩入・財田の3つの駅が開業しました。来年は、その百周年になります。20世紀の鉄道の時代から自動車の時代への転換を、これらの駅は見守り続けて来たのかもしれません。
関連記事 

  新しいことは当分の間は書けそうにないので、これまでにまんのう町報のために書いてきた原稿を転載することにします。悪しからず。今回は、100年前の琴平以南の土讃線延長工事についてです。

琴平駅から南の土讃線建設は、どこから始まったか?                
今から130年前の1889(明治22)年5月21日に、丸亀・琴平間で「陸蒸気」が走り始めます。四国で2番目の鉄道開通でした。多度津駅構内での式典に参列した財田の県会議員・大久保諶之丞は祝辞の最後を
「(鉄道)を四州一巡スルニ至ラシメバ、貨多ヲ加へ運送便ヲ得ルヤ必セリ、是ノ時二当テ塩飽諸島ヲ橋台トナシ山陽鉄道二架橋連結セシ」

と未来への大きな「夢と課題」を語りました。しかし、その後の鉄道は琴平から南にはなかなか伸びません。高知への路線が決定して、線路建設が始まるのは第一次世界大戦が終わって2年後の1920(大正12)年4月3日)のことです。琴平までの鉄道開業から30年以上の年月が経っていました。
 開業時の琴平駅は現在の琴参閣ホテルにあり、ここが終点駅でした。土讃線が琴平を通過するには線路を琴平市街の東側に移し、新しい駅舎を作る必要がありました。そこで、ルート変更が行われます。現在の大麻神社前の踏切から左にカーブして金倉川を渡り、直進した所に新駅が建てられることになります。ところが、ここに問題が起きます。当時、認可を受けていた高松ー琴平を結ぶ「コトデン」の線路と交差するのです。そこで、その解決策として土讃線を土盛りして、コトデンの線路の上を高架させる策がとられます。このために、新琴平駅と金倉川までの区間は高く土盛りする必要が出てきました。

コトデン 土讃線交差
コトデンの線路を跨ぐ土讃線高架 後は象頭山

琴平駅と土讃線の土盛り用土砂は、どこから運ばれてきたの?
 当時の新聞「香川新報」には着工後6ケ月たった進捗状況を
「工事にあたっては三坂山より東の神野方面にはトロッコで土砂を運び、西の琴平新駅方面には豆機関車で運搬している。新駅から旧線の分岐点である大麻までの工事は、来月下旬頃に着工予定」

と記されています。また1年経った5月30日の記事には
「鉄路の土盛はほとんど全部終えて、新琴平駅の土盛り作業が小機関車に土運車十数輛をつないで三坂山より運搬して、土盛りし既に大部分埋立てられている」

とあります。  つまり、工事の起点は三坂山であったことが分かります。
まんのう町三坂山切通
まんのう町三坂山切通 ここから盛土はトロッコ列車で琴平駅方面に運ばれた
さて、それでは「三坂山」とはどこにあるのでしょうか?
三坂山は、土讃線と現在の国道32号バイパスが交差する南西側の小さい丘のような山で、すぐ東側を金倉川が流れています。この山の裾の三坂山踏切に立ち琴平方面を眺めてみると、まっすぐに線路が琴平に向かってゆるやかに下って行くのが見えます。ここを切り崩した土砂で整備した上に土讃線のレールは敷かれていったのです。そして、琴平駅もここから「豆機関車」で運ばれた土砂で土盛りされた上に建っているのです。ちょうど百年前の話になります。
 また新聞には
「塩入・財田間の工事も京都の西松組が請負って、本年3月に起工し、目下各方面に土盛をして軽便軌道を敷いて手押土運車で土砂を運んでいる。しかし、これから農繁期に入るため当分人夫が集まらず工事は停滞予定である」

 確かにかつては「5月麦刈り、6月田植え」で農繁期になり、農家はネコの手も借りたい忙しさでした。線路工事は、農家の男達の冬場の稼ぎ場としては、いい働き口でしたが本業の「田植え」が最優先です。そのため工事は「停滞」するというのです。
まんのう町三坂山踏切
三坂山踏切からの象頭山

工事開始から4年目の春、琴平・財田間の開通日を迎えて次のように報じます。
1919 大正8年9月 実測開始 
1920 4月1日 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)
1920 大正 9年4月 3日 土讃線琴平~財田着工。
1923 大正12年5月21日
1923 大正12年5月21日 土讃線琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
 

このページのトップヘ