鎌倉後期の「琴弾宮絵縁起」には、琴弾八幡宮が海辺に浮かぶ聖地として描かれています。聖地は人の住むところではないようです。この絵図には、集落は描かれていません。今回は、川のこちら側の人の住む側を見ていくことにします。
財田川と手前の一ノ谷川に挟まれた中洲には、いくつかの浦があり、それぞれに町場をともなって港湾機能をもっていたようです。中洲と琴弾神社と、財田川に架かる橋で結ばれます。この橋から一直線に伸びる街路が町場の横の中心軸となります。そして、中洲上を縦断する街路と交差します。中洲上には「上市や下市」と呼ばれる町場ができています。
享徳元年(一四五二)の「琴弾八幡宮放生会祭式配役記」(資料21)には、上市・下市・今市の住人の名があり、門前市が常設化してそれぞれ集落(町場)となっていたことがうかがえます。放生会の祭には、各町場の住人が中心となって舞楽や神楽、大念仏などの芸能を催していたようです。町場を越えて人々を結びつける役割を、琴弾神社は果たしていたようです。
そして各町場は、財田川沿いにそれぞれの港を持ちます。
文安二年(1455)の「兵庫北関入船納帳」には、観音寺船が米・赤米・豆・蕎麦・胡麻などを積み、兵庫津を通過したことが記されています。財田川の背後の耕作地から集められた物資がここから積み出されていたことが分かります。そして、いつの頃からかこの中洲全体が、観音寺と呼ばれるようになります。
かつて財田川沿いには、船が何隻も舫われていたことを思い出します。その中には冬になると広島の福山方面からやって来て、営業を始める牡蠣船もありました。裁判所の前の河岸も、かつては船の荷揚場であったようで、それを示す境界石がいまでも残っています。その側に立つのが西光寺です。立地ロケーションからして、町場の商人達の信仰を一番に集めていたお寺だったことがうかがえます。
かつて財田川沿いには、船が何隻も舫われていたことを思い出します。その中には冬になると広島の福山方面からやって来て、営業を始める牡蠣船もありました。裁判所の前の河岸も、かつては船の荷揚場であったようで、それを示す境界石がいまでも残っています。その側に立つのが西光寺です。立地ロケーションからして、町場の商人達の信仰を一番に集めていたお寺だったことがうかがえます。
中世の宇多津や仁尾がそうであったように、中核として寺院が建立されます。寺院が、交易・情報センターとして機能していたのです。そういう目で観音寺の財田川沿いの町場を歩いてみると、お寺が多いのに気がつきます。さらに注意してみると、西光寺をはじめ臨済宗派の寺院がいくつもあるのです。気になって調べてみると、興昌寺・乗蓮寺・西光寺などは臨済宗聖一派(しよういち)に属するようです。私にとって、初めて聞く言葉でした。
「聖一派」とは?
またどうして、同じ宗派のお寺がいくつも建立されたのでしょうか? 国史辞典で開祖を調べてみると
①弁円(諡・聖一国師)が京都東福寺を中心に形成した顕密禅三教融合の習合禅②弁円は駿河国(静岡県)に生まれ,5歳のときに久能山に入り教典,外典の研鑽に努める③22歳で禅門を志し,上野長楽寺に臨済宗の栄朝を訪ね④嘉禎1(1235)年4月34歳で入宋。臨済宗大慧派の無準師範に7年間参学,⑤帰国後,寛元1(1243)年,九条道家の帰依を得て、道家が建立した東福寺の開山第1世となる。⑥入院後、後嵯峨,亀山両上皇へ授戒を行い、東大寺,天王寺の幹事職を勤める
当時の朝廷・幕府・旧仏教へ大きな影響力を持った禅僧だったようです。さらに、東山湛照,白雲慧暁,無関玄悟など,のちの五山禅林に関わる人たちに影響を与える弟子を指導しています。この門流を彼の諡から聖一派と呼んでいるようです。
ここでは教義内容的なことには触れず、弁円の「交易活動」について見ておきましょう。
淳祐二年(1242)、宋から帰国して博多に留まっていた彼のもとに、留学先の径山の大伽藍が火災で焼失した知らせが届きます。彼は直ちに博多商人の謝国明に依頼して良材千枚を径山に贈り届けています。弁円から師範に材木などの財施がなされ、師範からは円爾に墨蹟その他の法施が贈られています。ここには南宋禅僧が仏道達成の証しになるものをあたえると、日本僧が財力をもってその恩義に報いるというパターンがみられます。
日本僧が財力を持って入宋している例は、栄西や明全・道元らの場合にも見られるようですが、円爾にもうかがえます。彼の第1の保護者は、謝国明ら博多の商人たちで、その支援を受けて中国留学を果たしたのです。そして、資力に任せて最先端の文物を買つけて帰国します。その中には仏典ばかりではく流行の茶道具なども最先端の文物も数多くあったはずです。大商人達たちに布教を行うと同時に、サロンを形成するのです。同時に、彼は博多商人の宋との貿易コンサルタントであったと私は考えています。これは、後の堺の千利休に至るまで変わりません。茶道は、交易業者のたしなみになっていくのです。博多商人の船には、弁円の弟子達が乗り込み宋への留学し、あるときには通訳・医者・航海祈祷師としての役割も果たしたのではないでしょうか。それは、宋王朝に対する対外的活動だけではなく瀬戸内海においても行われます。
淳祐二年(1242)、宋から帰国して博多に留まっていた彼のもとに、留学先の径山の大伽藍が火災で焼失した知らせが届きます。彼は直ちに博多商人の謝国明に依頼して良材千枚を径山に贈り届けています。弁円から師範に材木などの財施がなされ、師範からは円爾に墨蹟その他の法施が贈られています。ここには南宋禅僧が仏道達成の証しになるものをあたえると、日本僧が財力をもってその恩義に報いるというパターンがみられます。
日本僧が財力を持って入宋している例は、栄西や明全・道元らの場合にも見られるようですが、円爾にもうかがえます。彼の第1の保護者は、謝国明ら博多の商人たちで、その支援を受けて中国留学を果たしたのです。そして、資力に任せて最先端の文物を買つけて帰国します。その中には仏典ばかりではく流行の茶道具なども最先端の文物も数多くあったはずです。大商人達たちに布教を行うと同時に、サロンを形成するのです。同時に、彼は博多商人の宋との貿易コンサルタントであったと私は考えています。これは、後の堺の千利休に至るまで変わりません。茶道は、交易業者のたしなみになっていくのです。博多商人の船には、弁円の弟子達が乗り込み宋への留学し、あるときには通訳・医者・航海祈祷師としての役割も果たしたのではないでしょうか。それは、宋王朝に対する対外的活動だけではなく瀬戸内海においても行われます。
こうして、円爾弁円(聖一国師)を派祖とする聖一派は、京都東福寺や博多を拠点として、各港町に聖一派の寺院ネットワークを形成し、モノと人の交流を行うようになります。観音寺が内海屈指の港町となるなかで、こうした聖一派の禅僧が博多商人の船に乗ってやって来て、信者を獲得し寺院が創建されていったと考えられます。
これは、日隆が宇多津に本妙寺を開くのと同じ布教方法です。
日隆は、細川氏の庇護を受けて瀬戸内海沿岸地域で布教を展開し、備前牛窓の本蓮寺や備中高松の本條寺、備後尾道の妙宣寺を建立しています。いずれも内海屈指の港町であり、流通に携わる海運業者の経済力を基盤に布教活動が行われています。お寺が日宋貿易や瀬戸内海交易のネットワークの中心になっていたのです。その中で僧侶の果たす意味は、宗教的信仰を超え、ビジネスマン、コンサルタント、情報提供など雑多な役割を果たしていたようです。
日隆は、細川氏の庇護を受けて瀬戸内海沿岸地域で布教を展開し、備前牛窓の本蓮寺や備中高松の本條寺、備後尾道の妙宣寺を建立しています。いずれも内海屈指の港町であり、流通に携わる海運業者の経済力を基盤に布教活動が行われています。お寺が日宋貿易や瀬戸内海交易のネットワークの中心になっていたのです。その中で僧侶の果たす意味は、宗教的信仰を超え、ビジネスマン、コンサルタント、情報提供など雑多な役割を果たしていたようです。
伊予への弁円(聖一国師)の門下による聖一派の布教を見てみましょう。弁円の師弟関係が愛媛県史に載っています。
①山叟恵雲は、
正嘉二年(1258)入宋、円爾門十禅師の一人で正覚門派祖、東福寺五世で宇摩郡土居町関川東福寺派大福寺は、弘安三年(1280)に彼によって開かれたと伝えられます。
②弁円の高弟癡兀(ちこつ)大恵は、
平清盛の遠孫で、東福寺九世で没後仏通禅師号を賜わっています。彼は保国寺(西条市中野、東福寺末)の中興開山とされ、その坐像は重要文化財に指定されています。伊予に巡回してきた禅師を迎えて開山としたと伝えられます。しかし、禅師の伊予来錫説については否定的見解が有力で、臨済宗としての中興開山は二世とされる嶺翁寂雲であると研究者は考えているようです。
平清盛の遠孫で、東福寺九世で没後仏通禅師号を賜わっています。彼は保国寺(西条市中野、東福寺末)の中興開山とされ、その坐像は重要文化財に指定されています。伊予に巡回してきた禅師を迎えて開山としたと伝えられます。しかし、禅師の伊予来錫説については否定的見解が有力で、臨済宗としての中興開山は二世とされる嶺翁寂雲であると研究者は考えているようです。
③孫弟子に鉄牛継印は、
観念寺(東福寺末、東予市上市)の開祖とされます。もとは時宗による念仏道場だったようですが、元弘二年(1332)元から帰朝して間もない鉄牛を迎えて中興し禅寺としたと伝えられます。鉄牛は諱を継印、越智郡の菅氏の生まれです。晩年の祖師弁円に学んだ後、元王朝に渡り帰朝しています。
観念寺(東福寺末、東予市上市)の開祖とされます。もとは時宗による念仏道場だったようですが、元弘二年(1332)元から帰朝して間もない鉄牛を迎えて中興し禅寺としたと伝えられます。鉄牛は諱を継印、越智郡の菅氏の生まれです。晩年の祖師弁円に学んだ後、元王朝に渡り帰朝しています。
④悟庵智徹(ごあんちてつ)近江の人で、
豊後を中心に九州に布教の後で、宇和島にやってきて正平20年(1365)に、西江寺を開きます。また、西光寺も同じような由来を伝えます。
⑤伊予に最も深い関係をもつのは弟子南山士雲の法系のようです。
彼は北条・足利両氏の帰依を受けた当時のMVPです。伊予の河野通盛が遊行上人安国のすすめで南山士雲の下で剃髪して善恵と号したと云われます。この剃髪によって河野通盛は、足利尊氏の知遇を得て、通信以来の伊予の旧領の安堵されたと『予章記』には、次のように記されています。
彼は北条・足利両氏の帰依を受けた当時のMVPです。伊予の河野通盛が遊行上人安国のすすめで南山士雲の下で剃髪して善恵と号したと云われます。この剃髪によって河野通盛は、足利尊氏の知遇を得て、通信以来の伊予の旧領の安堵されたと『予章記』には、次のように記されています。
建武三年(1336)、通盛は自己の居館を寺院とし、南山士雲の恩顧を重んじてその⑥弟子正堂士顕を長福寺から迎えて善応寺(現東福寺派、北条市河野)を開創した。ちなみに、正堂士顕は渡元して無見に参じて印可を受け、帰国後当時長福寺(東予市北条)にあった。善応寺第二世はその法弟南宗士綱である。
河野通盛は、足利尊氏への取りなしの御礼として、建立したのが北条市の善応寺のようです。しかし、正堂士顕が長福寺にいたことを記すのは『予章記』のみのようです。同寺の縁起には、河野通有が、弘安の役に戦死した将兵を弔うため、士顕の弟子雲心善洞を開山として弘安四年(1281)に開創したと伝えますが、年代があいません。
⑥正堂士顕を招請開山として応永二一年(1414)に中興したと伝えるのが宗泉寺(美川村大川)です。しかし、正堂士顕の没年は応安六年(1373)とされますので、これも没後のことになります。
⑦南山士雲の弟子中溪一玄は、暦応二年(1339)開創の仏城寺(今治市四村)の開山に迎えられています。さらに、河野通盛によって中興したとされる西念寺(今治市中寺)は、南山士雲を勧請開山としますが、事実上の開山はその法孫枢浴玄機のようです。
⑦南山士雲の弟子中溪一玄は、暦応二年(1339)開創の仏城寺(今治市四村)の開山に迎えられています。さらに、河野通盛によって中興したとされる西念寺(今治市中寺)は、南山士雲を勧請開山としますが、事実上の開山はその法孫枢浴玄機のようです。
このように中世の伊予には、弁円(聖一国師)の弟子達が多くの寺院を開いたことが分かります。
高屋神社から望む観音寺市街
讃岐の西端で燧灘に面する観音寺は、西に向かって開かれた港で、古代以来、九州や伊予など瀬戸内海西部との関係が深かった地域です。伊予での禅宗聖一派ネットワークの形成が進むにつれて、その布教エリア内に入ったのでしょう。それが観音寺町場に、聖一派の禅宗寺院が建立された背景と考えられます。 しかし、なぜいくつもの寺院が必要だったのでしょうか。
宇多津の日蓮宗寺院は本妙寺だけです。しかし、伊予の場合を見ていると、宇和島や今治・北条市などには、複数の聖一派寺院が建立されています。周辺部への拡大とも考えられますが。観音寺では、各町場毎に競い合うように建立されたのではないかと私は考えています。
宇多津の日蓮宗寺院は本妙寺だけです。しかし、伊予の場合を見ていると、宇和島や今治・北条市などには、複数の聖一派寺院が建立されています。周辺部への拡大とも考えられますが。観音寺では、各町場毎に競い合うように建立されたのではないかと私は考えています。
観音寺の旧市街の狭い街並みを歩いていると、瀬戸の港町の風情を感じます。
古くから続く乾物屋さんには、伊吹のいりこをはじめ、酒のつまみになるいろいろな乾物があります。アイムス焼き物や山地のカマボコ、路地の中の柳川うどんなどを味わいながらの町場歩きは楽しいものです。そんな町場の荷揚場に面して禅宗聖一派の西光寺はあります。ここがかつての伊予の同宗派の拠点の一つで、ここに禅僧達がもたらす情報やモノが集まっていた時代があったようです。
古くから続く乾物屋さんには、伊吹のいりこをはじめ、酒のつまみになるいろいろな乾物があります。アイムス焼き物や山地のカマボコ、路地の中の柳川うどんなどを味わいながらの町場歩きは楽しいものです。そんな町場の荷揚場に面して禅宗聖一派の西光寺はあります。ここがかつての伊予の同宗派の拠点の一つで、ここに禅僧達がもたらす情報やモノが集まっていた時代があったようです。
以上、これまでのことをまとめておきます。
①中世の財田川と一ノ谷川に挟まれた中洲に、琴弾神社の門前にいくつかの町場が形成された
②定期市から発展した上市・下市・今市などの町場全体が観音寺と呼ばれるようになった。
③各町場は、それぞれ港を持ち瀬戸内海交易を展開した。
④中世には各宗派のお寺が建立されるようになるが、臨済宗聖一派のお寺がいくつかある
⑤これは開祖弁円(聖一国師)の支援者に博多商人が多かったためである。
⑥博多商人の進める日宋貿易や瀬戸内海交易とリンクして聖一派の布教活動はすすめられた。
⑦伊予は開祖弁円の弟子達が活発に布教活動を進め、各港に寺院が建立された。
⑧そのような動きの中で燧灘に開かれた観音寺もそのネットワークに組み込まれ、商人達の中に信者が増えた
⑨それが観音寺にいくつもの聖一派のお寺が作られる背景である
以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。