瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:琴弾八幡神社

    
観音寺湊 復元図1

中世の観音寺湊の復元図です。この湊が河口に浮かぶ巨大な中洲に展開していたことが分かります。
琴弾八幡宮とその別当寺・観音寺の門前町として発展した港町
 観音寺は讃岐国の西端の苅田郡(中世以降は豊田郡に改称)に属し、琴弾八幡宮とその別当寺であった神恵院観音寺の門前町として、中世には町場が形成されていたようです。
観音寺琴弾神社絵図
鎌倉後期の「琴弾宮絵縁起」には、琴弾八幡宮が海辺に浮かぶ聖地として描かれています。聖地は人の住むところではないようです。この絵図には、集落は描かれていません。今回は、川のこちら側の人の住む側を見ていくことにします。
観音寺地図1
 財田川と手前の一ノ谷川に挟まれた中洲には、いくつかの浦があり、それぞれに町場をともなって港湾機能をもっていたようです。中洲と琴弾神社と、財田川に架かる橋で結ばれます。この橋から一直線に伸びる街路が町場の横の中心軸となります。そして、中洲上を縦断する街路と交差します。中洲上には「上市や下市」と呼ばれる町場ができています。

観音寺 琴弾神社放生会
 享徳元年(一四五二)の「琴弾八幡宮放生会祭式配役記」(資料21)には、上市・下市・今市の住人の名があり、門前市が常設化してそれぞれ集落(町場)となっていたことがうかがえます。放生会の祭には、各町場の住人が中心となって舞楽や神楽、大念仏などの芸能を催していたようです。町場を越えて人々を結びつける役割を、琴弾神社は果たしていたようです。
そして各町場は、財田川沿いにそれぞれの港を持ちます。
 文安二年(1455)の「兵庫北関入船納帳」には、観音寺船が米・赤米・豆・蕎麦・胡麻などを積み、兵庫津を通過したことが記されています。財田川の背後の耕作地から集められた物資がここから積み出されていたことが分かります。そして、いつの頃からかこの中洲全体が、観音寺と呼ばれるようになります。
 かつて財田川沿いには、船が何隻も舫われていたことを思い出します。その中には冬になると広島の福山方面からやって来て、営業を始める牡蠣船もありました。裁判所の前の河岸も、かつては船の荷揚場であったようで、それを示す境界石がいまでも残っています。その側に立つのが西光寺です。立地ロケーションからして、町場の商人達の信仰を一番に集めていたお寺だったことがうかがえます。
 中世の宇多津や仁尾がそうであったように、中核として寺院が建立されます。寺院が、交易・情報センターとして機能していたのです。そういう目で観音寺の財田川沿いの町場を歩いてみると、お寺が多いのに気がつきます。さらに注意してみると、西光寺をはじめ臨済宗派の寺院がいくつもあるのです。気になって調べてみると、興昌寺・乗蓮寺・西光寺などは臨済宗聖一派(しよういち)に属するようです。私にとって、初めて聞く言葉でした。
「聖一派」とは? 
またどうして、同じ宗派のお寺がいくつも建立されたのでしょうか?  国史辞典で開祖を調べてみると
弁円(諡・聖一国師)が京都東福寺を中心に形成した顕密禅三教融合の習合禅
②弁円は駿河国(静岡県)に生まれ,5歳のときに久能山に入り教典,外典の研鑽に努める
③22歳で禅門を志し,上野長楽寺に臨済宗の栄朝を訪ね
④嘉禎1(1235)年4月34歳で入宋。臨済宗大慧派の無準師範に7年間参学,
⑤帰国後,寛元1(1243)年,九条道家の帰依を得て、道家が建立した東福寺の開山第1世となる。
⑥入院後、後嵯峨,亀山両上皇へ授戒を行い、東大寺,天王寺の幹事職を勤める
 当時の朝廷・幕府・旧仏教へ大きな影響力を持った禅僧だったようです。さらに、東山湛照,白雲慧暁,無関玄悟など,のちの五山禅林に関わる人たちに影響を与える弟子を指導しています。この門流を彼の諡から聖一派と呼んでいるようです。
  ここでは教義内容的なことには触れず、弁円の「交易活動」について見ておきましょう。
淳祐二年(1242)、宋から帰国して博多に留まっていた彼のもとに、留学先の径山の大伽藍が火災で焼失した知らせが届きます。彼は直ちに博多商人の謝国明に依頼して良材千枚を径山に贈り届けています。弁円から師範に材木などの財施がなされ、師範からは円爾に墨蹟その他の法施が贈られています。ここには南宋禅僧が仏道達成の証しになるものをあたえると、日本僧が財力をもってその恩義に報いるというパターンがみられます。
 日本僧が財力を持って入宋している例は、栄西や明全・道元らの場合にも見られるようですが、円爾にもうかがえます。彼の第1の保護者は、謝国明ら博多の商人たちで、その支援を受けて中国留学を果たしたのです。そして、資力に任せて最先端の文物を買つけて帰国します。その中には仏典ばかりではく流行の茶道具なども最先端の文物も数多くあったはずです。大商人達たちに布教を行うと同時に、サロンを形成するのです。同時に、彼は博多商人の宋との貿易コンサルタントであったと私は考えています。これは、後の堺の千利休に至るまで変わりません。茶道は、交易業者のたしなみになっていくのです。博多商人の船には、弁円の弟子達が乗り込み宋への留学し、あるときには通訳・医者・航海祈祷師としての役割も果たしたのではないでしょうか。それは、宋王朝に対する対外的活動だけではなく瀬戸内海においても行われます。
 こうして、円爾弁円(聖一国師)を派祖とする聖一派は、京都東福寺や博多を拠点として、各港町に聖一派の寺院ネットワークを形成し、モノと人の交流を行うようになります。観音寺が内海屈指の港町となるなかで、こうした聖一派の禅僧が博多商人の船に乗ってやって来て、信者を獲得し寺院が創建されていったと考えられます。
 これは、日隆が宇多津に本妙寺を開くのと同じ布教方法です。
日隆は、細川氏の庇護を受けて瀬戸内海沿岸地域で布教を展開し、備前牛窓の本蓮寺や備中高松の本條寺、備後尾道の妙宣寺を建立しています。いずれも内海屈指の港町であり、流通に携わる海運業者の経済力を基盤に布教活動が行われています。お寺が日宋貿易や瀬戸内海交易のネットワークの中心になっていたのです。その中で僧侶の果たす意味は、宗教的信仰を超え、ビジネスマン、コンサルタント、情報提供など雑多な役割を果たしていたようです。
伊予への弁円(聖一国師)の門下による聖一派の布教を見てみましょう。弁円の師弟関係が愛媛県史に載っています。

観音寺 弁円

①山叟恵雲は
正嘉二年(1258)入宋、円爾門十禅師の一人で正覚門派祖、東福寺五世で宇摩郡土居町関川東福寺派大福寺は、弘安三年(1280)に彼によって開かれたと伝えられます。
②弁円の高弟癡兀(ちこつ)大恵は、
平清盛の遠孫で、東福寺九世で没後仏通禅師号を賜わっています。彼は保国寺(西条市中野、東福寺末)の中興開山とされ、その坐像は重要文化財に指定されています。伊予に巡回してきた禅師を迎えて開山としたと伝えられます。しかし、禅師の伊予来錫説については否定的見解が有力で、臨済宗としての中興開山は二世とされる嶺翁寂雲であると研究者は考えているようです。
③孫弟子に鉄牛継印は、
観念寺(東福寺末、東予市上市)の開祖とされます。もとは時宗による念仏道場だったようですが、元弘二年(1332)元から帰朝して間もない鉄牛を迎えて中興し禅寺としたと伝えられます。鉄牛は諱を継印、越智郡の菅氏の生まれです。晩年の祖師弁円に学んだ後、元王朝に渡り帰朝しています。
④悟庵智徹(ごあんちてつ)近江の人で、
豊後を中心に九州に布教の後で、宇和島にやってきて正平20年(1365)に、西江寺を開きます。また、西光寺も同じような由来を伝えます。
⑤伊予に最も深い関係をもつのは弟子南山士雲の法系のようです。
彼は北条・足利両氏の帰依を受けた当時のMVPです。伊予の河野通盛が遊行上人安国のすすめで南山士雲の下で剃髪して善恵と号したと云われます。この剃髪によって河野通盛は、足利尊氏の知遇を得て、通信以来の伊予の旧領の安堵されたと『予章記』には、次のように記されています。
 建武三年(1336)、通盛は自己の居館を寺院とし、南山士雲の恩顧を重んじてその⑥弟子正堂士顕を長福寺から迎えて善応寺(現東福寺派、北条市河野)を開創した。ちなみに、正堂士顕は渡元して無見に参じて印可を受け、帰国後当時長福寺(東予市北条)にあった。善応寺第二世はその法弟南宗士綱である。
 河野通盛は、足利尊氏への取りなしの御礼として、建立したのが北条市の善応寺のようです。しかし、正堂士顕が長福寺にいたことを記すのは『予章記』のみのようです。同寺の縁起には、河野通有が、弘安の役に戦死した将兵を弔うため、士顕の弟子雲心善洞を開山として弘安四年(1281)に開創したと伝えますが、年代があいません。
⑥正堂士顕を招請開山として応永二一年(1414)に中興したと伝えるのが宗泉寺(美川村大川)です。しかし、正堂士顕の没年は応安六年(1373)とされますので、これも没後のことになります。
⑦南山士雲の弟子中溪一玄は、暦応二年(1339)開創の仏城寺(今治市四村)の開山に迎えられています。さらに、河野通盛によって中興したとされる西念寺(今治市中寺)は、南山士雲を勧請開山としますが、事実上の開山はその法孫枢浴玄機のようです。
 このように中世の伊予には、弁円(聖一国師)の弟子達が多くの寺院を開いたことが分かります。
1高屋神社
高屋神社から望む観音寺市街
讃岐の西端で燧灘に面する観音寺は、西に向かって開かれた港で、古代以来、九州や伊予など瀬戸内海西部との関係が深かった地域です。伊予での禅宗聖一派ネットワークの形成が進むにつれて、その布教エリア内に入ったのでしょう。それが観音寺町場に、聖一派の禅宗寺院が建立された背景と考えられます。
 しかし、なぜいくつもの寺院が必要だったのでしょうか。
宇多津の日蓮宗寺院は本妙寺だけです。しかし、伊予の場合を見ていると、宇和島や今治・北条市などには、複数の聖一派寺院が建立されています。周辺部への拡大とも考えられますが。観音寺では、各町場毎に競い合うように建立されたのではないかと私は考えています。
観音寺の旧市街の狭い街並みを歩いていると、瀬戸の港町の風情を感じます。
観音寺 アイムス焼き

古くから続く乾物屋さんには、伊吹のいりこをはじめ、酒のつまみになるいろいろな乾物があります。アイムス焼き物や山地のカマボコ、路地の中の柳川うどんなどを味わいながらの町場歩きは楽しいものです。そんな町場の荷揚場に面して禅宗聖一派の西光寺はあります。ここがかつての伊予の同宗派の拠点の一つで、ここに禅僧達がもたらす情報やモノが集まっていた時代があったようです。
 以上、これまでのことをまとめておきます。
①中世の財田川と一ノ谷川に挟まれた中洲に、琴弾神社の門前にいくつかの町場が形成された
②定期市から発展した上市・下市・今市などの町場全体が観音寺と呼ばれるようになった。
③各町場は、それぞれ港を持ち瀬戸内海交易を展開した。
④中世には各宗派のお寺が建立されるようになるが、臨済宗聖一派のお寺がいくつかある
⑤これは開祖弁円(聖一国師)の支援者に博多商人が多かったためである。
⑥博多商人の進める日宋貿易や瀬戸内海交易とリンクして聖一派の布教活動はすすめられた。
⑦伊予は開祖弁円の弟子達が活発に布教活動を進め、各港に寺院が建立された。
⑧そのような動きの中で燧灘に開かれた観音寺もそのネットワークに組み込まれ、商人達の中に信者が増えた
⑨それが観音寺にいくつもの聖一派のお寺が作られる背景である

以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。


観音寺・神恵院調査報告書2019.jtdcの画像
中世讃岐のある港町の復元イメージ図だそうです。
ふたつの河が分流し海に注ぎ込んでいます。その中州に走る街道沿いに集落が形成されています。引田でも宇多津でもなく・野原(高松)・松山林田でもなく、観音寺だそうです。
地図上に地名を落としてみると次のようになります。
HPTIMAGE

 家々が集中するのは、財田川の河口に浮かぶ巨大な中洲です。そして、画面手前側は急速に陸地が進み、手前の川は小さな支流(現一ノ谷川)になっていきます。人々の居住区の向こうには、財田川をはさんで琴弾山があります。これは古代からの甘南備山で、頂上には琴弾八幡宮が鎮座します。川の向こう側が聖なる地域であったようです。
 聖域の琴弾八幡には、早くから橋(原三架橋)が架かっていたようです。参道から財田川に架かる三架橋を経て、真っ直ぐに中州に伸びてくる街路が町の中心軸となっています。このセンターラインの街路と交差する道が何本か伸びて、集落化しています。
 「琴弾八幡宮放生会祭式配役記」(享徳元年(1453)には、上市・下市・今市の住人の名があり、門前市が常設化してそれぞれ集落(町場)となっていたことがうかがえます。そして放生会の祭には、住人が中心となって舞楽や神楽、大念仏などの芸能を催していたことが分かります。それだけの経済力を持った港町に成長していたようです。その背景は、瀬戸内海交易への参加です。絵図からは町場がそれぞれの港を持っている様子が分かります。(絵図の湊1~3)この港は漁港としての機能だけでなく交易港としての機能も果たしていました。
 例えば、文安二年(1445)の「兵庫北関入船納帳」には、観音寺船が米・赤米・豆・蕎麦・胡麻などを積み、兵庫津を通過したことが記録されています。財田川河口の港を拠点に、活発な交易活動を展開する各港は、まとめて「観音寺」と呼ばれました。
 各町場には、中核として寺院、なかでも臨済宗派寺院が多く建ち並び、港や流通に深く関わっていたようです。注目したいのは室町期以降に増加する興昌寺・乗蓮寺・西光寺などの臨済宗聖一派の寺院です。円爾(聖一国師)を派祖とする聖一派では、京都東福寺や博多を拠点として各港町の聖一派の寺院でネットワークを築き、相互に人的交流を行っていました。観音寺が三豊屈指の港町となるなかで、こうした聖一派の寺院が創建されていったようです。
  専門家達はこのイメージ絵図のように観音寺は、琴弾八幡宮とその別当寺であった神恵院観音寺の門前町として、中世からすでに町場が形成されていたとみています。

琴弾宮絵縁起

 琴弾神社に八幡さんは、どのようにして招来されたのでしょうか。
それを語るのが「琴弾宮絵縁起(ことびきのみやええんぎ)」(重文)です。
観音寺に所蔵されるこの絵は、琴弾山周辺の景観を描いた掛幅であり、琴弾宮草創縁起の一部が絵画化されたものです。
さて、それではこの絵図を縁起と突き合わせながらみてみましょう。
  この絵図を最初に見て、これが琴弾神社を描がいたものとは思えませんでした。
琴弾山が有明海に向かって立っている姿なのでしょうが、「デフォルメ」されすぎています。研究者は
「そこには本図に社寺の縁起を絵画化する縁起絵としての側面と共に、琴弾宮一帯を浄土とみなす礼拝図としての側面も含まれている」
といいます。なるほど「琴弾宮一帯を浄土」として描いているのです。リアルではく「宗教的な色眼鏡」を通して描かれていると理解すればいいようです。
 一方でこの絵からは琴弾宮周辺の景観を意識したと要素が見て取れるといいます。例えば、井戸や巨石など指標物の位置が現在のものとほぼ一致しているようです。
琴弾宮絵縁起3
下を右から左に流れるのが財田川です。
財田川に赤い橋(三架橋?)が掛かり、参道が一直線に山頂に伸びます
頂上には本殿や数多くの建物が並び立っています
財田川には河床に張り出した赤い建物が見えます。何の用途の建物かは分かりません。
川にせり出した建物と広い広場を向かい合って、山を背に社殿が建ちます。
  簡単に言えば、両縁起文を絵図化して「説法」用に使用したのがこの「琴弾宮絵縁起」のようです。
 『四国損礼霊場記』に従って、どんな事件が起きたのかを見てみましょう
①この宮は文武天皇の御宇、大宝三年、宇佐の宮より八幡大神爰に移りたまふといへり。
其時三ケ日夜、西方の空鳴動し、黒霊をほひ、日月の光見えず。国人いかなる事にやとあやしみあへる処に、②西宮の空より白霊虹のごとくたなびき、当山にかかれり。
③この山の麗、梅腋脹の海浜に一艘の怪船が流れ着いた。中に琴の宮ありて、共宮美妙にして、嶺松に通ひはり。
④この山に上住の上人あり。名を日証といひけり。
⑤日証上入が船に近づきて
「いかなる神人にてましますや。何事にか此にいたらせ玉ふ」ととひければ、
「我はこれ八幡大菩薩なり。帝都に近づき擁護せんがために、宇佐から上り出たが、この地霊なるが故に、此にあそべり」
とのたまへり。
⑥上人又いはく
「疑惑の凡夫は異端を見ざれは信じがたし。ねがはくは愚迷の人のために、霊異をしめし給へ」と。
⑦共夜の内に海水十余町が程、緑竹の茂藪となり、又沙浜十歩余、松樹の林となれり。人皆此奇怪を感嵯せずといふ事なし。
⑧上人郡郷にとなへ、十二三歳の童児等の欲染なきもの数十人を集め、此山竹の谷より御船を峰上に引上げ斎祀して、琴弾別宮と号し奉る。御琴井に御船いまに殿内に崇め奉る。
琴弾宮絵縁起1

簡単に意訳すると・・
 天変地異の如く、黒雲が月日を隠しています。そこへ 「②西の空より白霊虹のごとくたなびき」大分の宇佐神宮から琴の宮に「③一艘の白い怪船」が流れ着きます。
⑤怪しんだ日証上人が「誰何」すると、神は「八幡大菩薩」と名乗り、「帝都に近づき擁護」するたの途上であると答えます。そこで日証上人は「凡夫は奇蹟をみないと信じられません、何か奇蹟を起こして見せてください」と云います。すると、その夜に海水に浸かっていた湿地に竹が生え、砂浜は松林に変わります。奇蹟が起きたのです。これを見て人皆、この神の尊さを知ります。
琴弾宮絵縁起2
 上人は村々を回ってお説経をし、まだ欲を知らない無垢な童見数百人を集めて、
⑧竹の谷から御舟を山上に引き揚げ祀り、これを琴弾別宮と号して祀るようになりました。この時の神舟は、今でも殿内にあり祀られています。
  ここにはもともとの地主神である琴弾神の霊山である琴弾山に、海を越えたやって来た客神の八幡神が「別宮」として祀られるようになった経緯が示されます。つまり、琴弾神と八幡神が「神神習合」して「琴弾 + 八幡」神社となっていく姿です。
 さて、この宗教的イヴェント(改革)を進めた日証上人とは何者なのでしょうか?
  日証上人についての史料はありません。
  観音寺寺の由来には次のように記します。
大宝三年(703)、法相宗の高僧日証(證)上人が琴弾山山頂に草庵を結んで修行をしていた折、宇佐神宮から八幡大菩薩が降臨され、海の彼方には神船が琴の音と共に現れた。上人は、里人と共に神船と琴を引き上げて、
①山頂に琴弾八幡宮を祀り、
②神宮寺を建立して、当山は仏法流布、
③神仏習合の霊地
と定められた。
 時は平安の世に移り、唐より帰朝された弘法大師が、大同二年(807)に当山に参籠。八幡大菩薩の御託宣を感得され、薬師如来・十二神将・聖観世音菩薩・四天王等の尊像を刻み、七堂伽藍を建立。
④山号を七宝山、寺号を観音寺と改められ、八幡宮の別当に神恵院をあてられた。大師はしばしの間、当山に留まられ第七世住職を務められたと寺伝にある。以後、
⑤真言密教の道場として寺門は隆盛を極めた。
  観音寺の設立年代や、空海伝説は脇に置いておくとして、ここからは次のような情報があります。
①②③琴弾八幡宮の別当寺神宮寺(旧観音寺)を建立し神仏習合の霊地となった。
④空海が山号を七宝山観音寺に改めた
真言密教の道場として隆盛した。
 まず山号が琴弾山ではなく七宝山であることに注目したいとおもいます。そして「真言密教の道場」だったというのです。
琴弾神社9 金毘羅参詣
 ちなみに四国霊場の本山寺も山号は七宝山です。そして、その奥の院は七宝山山中の興隆寺跡です。この伽藍跡には花崗岩製の手水鉢、宝篋印塔、庚申塔、弘法大師像や凝灰岩製の宝塔、五輪塔など石造物が点在しています。 寺の縁起や記録などから、この石塔群は修験道の修行者の行供養で祈祷する石塔であったようです。一番下の壇には不動明王(座像)の磨崖仏を中央にして、状態のいい五輪塔約30基が並びます。
琴弾八幡 金毘羅参詣名所図会 3
 つまり、ここから不動の滝、そして高室神社に架けては行場が点在する修験者にとっての聖地だったのです。本山寺が修験者の活動の拠点寺院であったように、観音寺もおなじように真言修験道の拠点であったと私は考えています。観音寺と本山寺は、行場である七宝山を共有し行者達が行き交うような関係にあったのではないでしょうか。それはひとつの「辺路修行」であり、それが四国遍路へとつながって行くのかもしれません。
琴弾八幡 金毘羅参詣名所図会 4

『讃州七宝山縁起』(徳治2年[1307])には、
「凡当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿建立精舎
とあます。ここには、弘法大師が創始した「七宝山修行」があったと記されています。そして観音寺・琴弾八幡宮を起点として、七宝山から五岳の山中に設けられた第2~5宿を巡り、我拝師山をもって結宿とする行程が描かれています。大師信仰にもとづく巡礼といっても良いかもしれませんが、これが
観音寺 → 本山寺 → 弥谷寺 → 曼荼羅寺 → 善通寺周辺の行場をめぐる修行ルート
でなかったのかと想像しています。これはもちろん現在の遍路道とは、ちがいます。
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神恵院・観音寺の成立について、今までのべてきたことをまとめておきましょう。
① 神恵院・観音寺は元々、琴弾八幡宮の別当寺として機能した神宮寺であった。
② 琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を本尊とし、神恵院は弥勒帰敬寺と称され、観音寺も、当初は神宮寺宝光院と称されていた。
③ 平安時代初期になって、神恵院とともに七宝山観音寺と改称された。
④ 財田川河口は、中世には港町として知られ「兵庫北関入船納帳」にも「観音寺」からの船舶が塩や干魚などを納めていた。この港を管理していた寺社が琴弾八幡宮であった。別当寺である神恵院・観音寺が港の庶務を管理していた。
⑤ 琴弾八幡宮や観音寺の境内には、中世の石造物である層塔や宝塔、五輪塔などが残っていて、中世・通じて琴弾八幡宮の別当寺として神恵院・観音寺が隆盛を誇っていたことをうかがわせる。
⑥このような状況は、宇多津や志度などにおいても、同じような状況が見える。
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⑦この状況は明治維新によって一変します。
 明治維新後、新政府の神仏分離政策により、神宮寺は神社から分離されます。神恵院も、琴弾八幡宮からの分離を余儀なくされ、明治4年(1871)に本尊の阿弥陀如来画像(琴弾八幡宮本地仏)を観音寺の西金堂に移し、神恵院の本尊とします。そして観音寺の西金堂を神恵院の本堂とし、ここを七宝山神恵院と称するようになります。現在の観音寺の「一境内二札所」は、こうして成立します。
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    讃岐は獅子舞王国?
 田んぼの畦に彼岸花が咲くことになると、讃岐の里は秋祭りに向けた準備が進められていきます。讃岐のお祭りで演じられる芸能の代表格といえば獅子舞でしょう。獅子舞は県下全域に広がっていて、その数はうどん屋さんと同じ約800頭が「生息」していると言われます。「獅子生息密度」の高さは、全国のベストテンの上位にランクされ、富山県とトップ争いをしているそうです。(出典不詳・・・)
 獅子はいつ、どこから、何のためにやってきたのでしょうか? 
讃岐では、室町時代には獅子頭が祭礼に現れていたようです。南北朝時代に書かれた『小豆島肥土荘別宮八幡宮御縁起』(応安三年(1370)2月に初めて獅子が登場します。
「御器や銚子等とともに獅子装束が盗まれた
というあまり目出度くない記事ですが、これが一番が古いようです。ちなみにこの犯人は捕まったと、後にでてきます。この縁起の永和元年(1375)には
「放生会大行道之時獅子面を塗り直した
と記されています。ここからは獅子が放生会の「大行道」に加わっているのが分かります。行道(ぎょうどう)とは、大きな寺社の法会等で行われる行列を組んで進むパレードのようなものです。獅子は、行列の先払いで、厄やケガレをはらったり、福や健康を授けたりする役割を担っていたようです。
 さらに康暦元年(1379)には、「獅子裳束布五匹」が施されたとあるので、獅子は五匹以上いたようです。祭事のパレードに獅子たちが14世紀には、小豆島で登場していたのです。
 当時の小豆島や塩飽の島々は、人と物が流れる「瀬戸内海のハイウエー」に面して、幾つもの港が開かれていました。そこには「海のサービスエリア」として、京やその周辺での「流行物」がいち早く伝わってきたのでしょう。それを受入て、土地に根付かせる財力を持ったものもいたのでしょう。獅子たちは、瀬戸内海を渡り畿内から小豆島にやってきたようです。
 香川県内の古い神社には、中世の木製獅子頭が伝わっています。
 東かがわ市の水主(みずし)神社は、中世は四国の熊野信仰の中心拠点として機能し、それを背景に登場した勧進僧の増吽が阿波や吉備、瀬戸の島々の寺社を再興します。その河口の三本松も重要な港町でした。
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「讃岐国名勝図会』に描かれた水主神社の獅子頭
 ここにはは、県内で一番古い年代の入った木造獅子頭(県有形文化財)があります。
上顎裏側に文安五年(1448)に三位公全秀によってつくられ、文明四年(1472)に彩色されたと墨で書かれています。
銘文には「奉安置獅子頭事」とあります
が、胴衣を縫い付けた孔も残り、獅子頭内側には、上下顎をつなぐ軸棒のほか、上方にもう一本横棒が渡っており、そこを持ち手として獅子頭を扱ったと考えられます。「安置」するだけでなかったようですが激しく頭を振り回すような機能はありません。パレードへの参加用のようです。
次の訪れるのは善通寺と琴平町の境にある大麻神社です。
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 大麻山を甘南備山とする式内社大麻神社(善通寺市)に伝わる木製の獅子頭です。
下あごが失われているために少し見慣れない感じもしますが、形状などから水主神社の獅子頭とおなじく室町時代、ひょっとするとそれ以前の鎌倉時代のものと考える研究者もいるようです。そうだとすれば「現存する県内で一番古い獅子頭」ということになります。残念ながら下顎をなくしているが惜しまれます。この木造獅子頭は、江戸末期の『西讃府志』巻第五六にも「大麻神社所蔵之獅子頭圖」として上顎部のみが描かれています。
よくみると
後の方に、油単を縫い付けたと思われる小穴が7ヵ所ほどあるのが見えますか?
これもパレード用と考えられています。
祭礼行列の参加以外にも、獅子の出番が出てきます。
享徳元年(1452)に書かれた観音寺の『琴弾八幡宮放生会祭式配役記』には、行道の「獅子首二人」とは別の姿を見せます。それは「舞車」の上で舞う「師子舞」です。獅子が稚児「楠法師」と褐鼓舞(小さな鼓=掲鼓を胸に付けて打つ舞)を演じるのです。これは当時の都で、風流(ふりゅう)拍子物として人気のあった流行物です。新しい芸能の流れを汲んだ獅子の姿です。
  そんな中で登場してくるのが紙製の獅子頭です。
 紙製の獅子頭で一番古いのは式内神社の黒島神社(観音寺市池之尻町)に残るものです。江戸時代中期の宝暦八年(1758)の銘があります。
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この獅子頭の内部は「土」の字型の木組構造です。その構造は現在の獅子頭の持ち手と同じです。紙製の補強のための縦材を持ち手に利用することで、獅子頭を片手で持つことできるようになりました。これは紙製という軽量化とあわせて、獅子を使いやすくしたはずです。獅子が激しく動き舞えるようになったのです。
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 この黒島神社の獅子頭とセットで「稚児頭巾」と呼ばれる赤い紐飾りのついた円錐状の笠が残っています。これは先ほど見た琴弾八幡神社の「獅子が稚児と舞う褐鼓舞」の際に稚児がかぶっていたものではないでしょうか。観音寺に伝わった中世の風流踊りが近世三豊の地域に、祭礼の中で広がって行ったのではないかと私は考えています。
その際に紙製の獅子頭が果たした役割は、決して小さくないような気がします。芸能性に富んだ獅子舞が生まれた要因の一つかも知れません。

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 香川県の獅子舞の大きな特徴は、獅子頭が紙製ということです。
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紙製の獅子頭は、型にあわせて和紙を張り重ね、漆を塗ったり毛を植え込んだりして仕上げます。伝統的工芸品の「讃岐獅子頭」を見てきた私は、「獅子頭は紙製(張り子)」という思い込みありました。ところが差に非ず。全国的には獅子頭は木製が主流でないようです。
 たしかに紙製獅子頭も全国各地にあり、型抜きや竹骨組など形状や構造も様々なものがあるようです。しかし、香川県以外で二人立ち獅子舞で紙製獅子頭を使うのは、松山・徳島・播磨等の瀬戸内圈、と臼杵・宇土・熊本等の九州の一部、ほか京都・和歌山・静岡・長野・岩手等にも点々と広がる程度です。しかも、局所・散在的で香川ほどの分布密度はないようです。「紙製の獅子頭」というのは讃岐の大きな特徴のようです。

最後に、獅子頭の成長ぶりをもう一度確認しておきましょう。
 中世は 小豆島肥土山の祭礼のパレードに参加する獅子
 中世末は観音寺琴弾八幡の太鼓に合わせて舞う獅子
 近世は 紙製獅子頭の登場で舞い踊る獅子へ 
これを祭礼の風流(ふりゅう)化と言うそうです。
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参考文献 高嶋 賢二 香川県の獅子舞と獅子頭 
           香川県立ミュージアム「祭礼百選」所収





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