瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:琴陵宥常

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像2
琴陵宥常(ことおかひろつね)
 金毘羅大権現の最後の別当職は「宥常(ゆうじょう)」です。
彼は、明治の神仏分離の激流の中で、金刀比羅宮権現を神社化して生き残る道を選びます。そして、自らも還俗して琴陵宥常(ことおかひろつね)と名乗ることになります。彼が神仏分離の嵐とどのように向き合ったかについては、以前お話ししました。今回は、彼の結婚について焦点を絞って見ていきたいと思います。
  テキストは「山下柴  最後の別当職琴陵宥常の婚姻と山下盛好 ことひら39 昭和59年」で
1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像

  金毘羅大権現は、金光院の院主が「お山の殿様」でした。
金毘羅大権現は神仏習合の社で、最高責任者は、金光院の院主でした。社僧ですから妻帯できません。したがって跡目は実子ではなく、一族の山下家から優秀な子弟から選ばれていました。宥常の先代の金光院院主は、宥黙で優れた別当で和歌を愛する文化人でもありました。しかし、病弱だったようで、そのために早くから次の院主選びが動き出していたようです。 
皇霊殿遥拝式2

 山下家一族の中に、宇和島藩士の山下平三郎請記がいました。
その二男の繁之助(天保11年(1840)正月晦日生)の神童振りは、一族の中で噂になるほどで白羽の矢が当たります。宥黙は信頼できる側近の者を宇和島藩に派遣して、下調査を重ねた上で琴平・山下家への養子縁組みを整わせます。嘉永2年(1850)11月29日、10歳の繁之助は、次期院主として金毘羅に迎えられたのです。これが先ほど紹介した宥常で、18代別当宥黙(ゆうもく)の後継者に選ばれます。そして安政4(1857)年10月22日に第19代別当に就任しました。宥常18歳の時です。これを進めた琴平の山下家当主の盛好は、次のような歌を詠んでいます。
  「今日よりは象の御山の小松菊
       千代さかえ行く末や久しき」   
 ちなみに宥常は父平三郎、母おつ祢の二男で、兄弟姉妹は兄と妹3人の5人兄弟でした。宥常は、安政五年六月八日、徳川将軍家定公に御目見、同年七月十二日孝明天皇に拝謁しています。そして、明治維新を28歳で迎えることになります。何もなければ彼は、このまま金光院別当として生涯を過ごすはずでした。しかし時代は明治維新を迎え大きく変わります。「御一新」の嵐は、象頭山のにも吹き荒れます。
なぜ宇和島藩の藩士の子が、後継者に選ばれたのでしょうか。
 それは先述したとおり、金毘羅大権現のトップは山下家の一族の中から優秀な子弟から選ばれるよいうルールがあったからです。 山下家一族のうち、中の村(三豊郡)の山下助左衛門盛寿の男、盛昌、山下輿右衛門については
「延宝二年(1675)甲寅年、伊達侯に仕う。知行二百石、中奥頭取」
とあります。財田の出身の山下家の一族の中に、宇和島藩の伊達家に仕官した者がいました。それが山下盛昌で、俳諧が上手な文化人であったようです。山下盛昌は、琴平宮本社の棟札にも名が残っているので、恐らく金光院の関係で京、大坂へも上った際に、徘徊のたしなみを身につけたのでしょう。
 あるときに、金毘羅さん参詣した伊達家重役が彼の俳諧に傾倒し、宇和島まで同道し仕官を奨めたという話が伝えられます。時の藩主は、七万石に減石されていたのを元の十万石に高直したとされる名君伊達宗貳です。山下盛昌という人物に、文化人だけではない何かを見いだしたのでしょう。
 伊達家に仕えた山下盛昌は、中奥頭取にまで出世しています。彼が現実的経世的知識をそなえ、藩主の信頼を得ていたことがうかがえます。盛昌の叔父も宇和島藩の梶谷家(知行二百石)へ養子に入っています。こうして、山下家を通じて金毘羅さんは宇和島藩とのつながりを持っていたようです。
白峰神社例祭 …… 奥社遥拝


  琴平・山下家の盛好による嫁探し
 山下盛好の日記には
「小松を藤原朝臣に改め琴陵を廃し、小松屯に仕度申出候得共叶不申」明治二巳七月二十二日

とあります。宥常は金毘羅大権現を、神社化することで生き残る道を選びました。そして自らも還俗します。その結果、「嫁取り」の話が出て来ることになります。
 その候補者選びの方針は、「結婚相手を京都公卿の姫」に求めることだったようです。関係する高松藩松平家などから迎えるという選択もあったはずですが、公家から迎える道を選びます。御一新の時代、天皇家に近い公家との新たな関係を築くことが今後の金刀比羅宮の発展につながると考えたのでしょう。それでは、具体的に候補者をどのように選んだのでしょうか。
白峰神社例祭2

 具体的な候補者選びを行ったのは、琴平・山下家の盛好だとされています。彼の日記「山下盛好記」には、次のように記されています。
「御簾中 称千万姫・正二位大納言胤保卿御女 安政元申九月二日生レ玉フ」
「己レ今年両度上京六月二日 始テ保子姫御目見」
 盛好は二度上京し、交渉に当たったようで「辛労甚シ」とも書いています。千万姫は三十二才を迎えていましたが「才色兼備のお姫様、美しく漓たけた誠におやさしい」と宥常に報告します。これを聞いて、宥常は喜び「頬を染め厚く厚く礼を述べた」と、盛好は記しています。

潮川神事

結納や諸手続についての覚書が残されているので、見ておきましょう
一、御願立御日限之事但シ御下紙拝見仕度候事
  御内約御治定之上御結納紅白縮緬二巻差上申度候事 
  但シ右代料金五十両 差上度候事
  御家来内二ハ御肴料御贈申候事
一、御主従御手当金二百五十両差上申度候事 
  但シ御拵之儀 当方之御有合二而宜敷御座候事伏見御着 
  迄之警固入費金十五両差上候
  御乗船ヨリ当方マデ 御賄申上候御見送り御家来御開之
  節 同様京都迄御賄申上候事
  居残り御女中御手当金前後十五両御贈申候事
一、御供之儀 伏見御家政之内壱人御老女壱人御女中壱大
  御半下壱人刀差壱人御下部壱大二御省 略被下度 下部
  壱人当方ヨリ相廻シ申恨事 女中老人壱ケ年又ニケ年見
  合二而御嘔巾度似事
一、御由緒書拝見仕度候事
一、御内約御治定ノ上 先不取敢御肴料差上度候事
  但シ御家来内江モ同様御贈申上度候事
一、御土産物総而御断申上候事
一、御姫様御染筆御所望申上度候事
  右之件二御伺申上度営今之御時節柄二付可成丈御省略之御取計奉願候也
                 琴陵家従五位内
 明治四年辛未五月        山 下 真 澄
 
意訳変換しておくと
一、日取りや時間については、下紙(添付書)で確認すること
  御内約が整った上で、御結納は紅白の縮緬に巻いて差上ること。
  但し、代料金は五十両。御家来内には、御肴料をお贈りするこ
  と。
一、主従手当金として二百五十両を差上げること 
  但し、拵之儀(伏見までの警固費十五両)
  御乗船から金刀比羅宮までの費用、家来の京都までの見送り費用
  居残り女中の御手当金など、合わせて十五両
一、御供について、伏見御家、老女、女中、半下、刀差 御下部
  をひとりずつつけること。この費用については当方が負担するこ 
  と。女中老人は、1年か2年お供する予定である。
一、御由緒書を準備し拝見すること
一、御内約が決定した上で、御肴料を差上げること。但し御家来にも
同様の贈り物を準備すること
一、御土産物は、すべてお断りすること
一、姫様の御染筆(揮毫)を、所望すること
  以上についてお伺い申し上げ、御一新の時節柄に付き、省略できるものは省くようにお願いしたい。
            琴陵家従五位内
 明治四年辛未五月        山下真澄

 私が気になるのは婚礼費用です。
ここに出てくる数字だけだと650両前後になるようです。明治元年に新政府から求められて、貢納した額が1万両でした。この翌年に、神仏分離で廃物され蔵の中に収められていた仏像などを入札販売していますが、その時の一番高額で落札されたのは、金堂(現旭社)の丈六の薬師如来でした。その値段が600両と松岡調の日記には記されています。それらから比べると高額な出費とは、私には思えません。
金毘羅大権現 旭社
旭社(旧金堂)

こうして段取りが整った後、明治4年8月29日、山下盛好はお姫様をお迎えするため、粟井玄三、仲間の福太、房吉を連れ三度目の上京をします。そして約1ヶ月後の9月30日に、千万姫と共に丸亀港に還ってきます。その夜九ツに駕で丸亀を出発、丸亀街道を進んだようです。途中、小休止をニケ所でとり、無事に中屋敷へ到着します。
「御姫様御元気にて御休息。老女とよ、女中おゆき、家令の築山恒利大夫と挨拶をかわす。」
と記されます。その後の盛好記には、次のように記されています。

宥常殿報 恐悦至極ノ態 下山セシハ夜モホノボノ明渡り候事

「夜モ ホノボノ明渡り候事」に盛好の、満足感と大任を果たした安堵感がうかがえます。そして、3日後の「十月二日夜、御婚礼千秋万才目出度く」とあります。翌日、廣橋正二位大納言胤保殿へ逐一報告済と記るされています。
 18歳で出家し、金光院別当となった時には、仏に仕える身となりました。もう家庭をもつことは、なくなったと思っていた宥常は、32歳で妻帯することになったのです。そして一男二女を設けます。これを契機にするかのように、金刀比羅宮には追風が吹くようになります。
 金比羅講に代わって、近代的なシステムに整備されたは、多くの信者を組織化し、金刀比羅宮へと送り込むようになります。まさに「金を生むシステム」として機能するようになります。そこから生まれる資金を背景に、宥常は博覧会や新たな神道学校作りなどに取り組めるようになります。事業的にも、家庭的にもまさに「追い風に帆懸けてシュラシュシュシュ」だったのかもしれません。

 最後に宥常が21才の時に、京に上がって天皇に拝謁の時の記念として、御厨子を京で作らせ盛好に贈っています。自分を、院主に付けてくれた感謝の意だったのかもしれません。そこには次のように記されています
   奉献御厨子
    右意趣者為興隆仏法国家安穏
    殊者山下家子孫繁栄家運長久
    而已敬白
   万延元康中歳二月吉辰
      金光院権大僧都 宥常
 また「京師堀川 綾小路正流仏工 田中弘造 刻」ともあります。
この御厨子は、今は山下家の菩提寺の山本町の宋運寺(盛好の遠祖、山下宗運建立)に保管されているようです。この奉献厨子の中には、山下家云々とあります。ここからは、二人の間には山下家としての同族意識があったことがうかがえます。金毘羅大権現の影の実力者として山下家は山内に、大きな影響力を持ち続けていたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
1琴綾宥常 肖像画写真

琴綾宥常 高橋由一作

参考文献
「山下柴  最後の別当職琴陵宥常の婚姻と山下盛好 ことひら39 昭和59年」で

C-23-1 (1)

 明治初期に吹き荒れた神仏分離・廃仏毀釈の嵐を、金毘羅大権現は金刀比羅神社に姿を変えることで生き残りました。そこでは、仏閣から、神社への変身が求められました。それに伴って金毘羅大権現の仏像・仏具類も撤去されることになります。仏さん達は、どこへ行ったのでしょうか。全て焼却処分になったという風評もあるようですが、本当なのでしょうか。金毘羅大権現を追い出された仏達の行く方を追って見たいと思います。

  松岡調の見た金毘羅大権現の神仏分離は       
 明治2年(1869)4月、「事比羅宮」(旧金毘羅大権現・以後は金刀比羅宮使用)を多和神社社人の松岡調が参拝しています。彼の日記『年々日記』同年4月12日条に、次のように記されています。

 (前略) 護摩堂、大師堂なとへ行見に、①内にハ檀一つさへなけれハ、ゐてこしヽ老女の涙をおしのこひて、かしこき事よと云たるつらつき、いミしうおかし、かくて本宮へ詣て二拝殿へ上りて拝奉る、御前のやう御撫物のミもとのまヽにて、其外は皆あらたまれり、白木の丸き打敷のやうなる物に、瓶子二なめ置、又平賀のさましたる器に、②鯛二つかへ置て奉れり、さて詣っる人々の中にハ、あハとおほめく者もあれと、己らハ心つかしハそのかミよりは、己こよなくたふとく思へり、
絵馬堂へ行て頚(くび)いたきまて見て、やうように下らんとす、観音堂も金堂も十王堂も皆、③仏像ハとりたる跡へ御簾をかけて、白幣を立置たり
  意訳しておきましょう
4月12日 護摩堂、大師堂なども見てまわったが、①堂内には檀一つも置かれていない。それを見た老女が涙を流しながら「かしこき事よ」と呟いた表情が、印象に残った。
 本宮に詣て、拝殿に上り拝奉した。御前の様子は御撫物は、もとのままであるが、その他は全て神式に改められていた。白木の丸い打敷のような物に、瓶子が置かれ、平賀のさましたる器に、②鯛が2匹が供えられていた。参拝する人々の中には、生ものが供えられていることに驚く者もあるが、私は、その心遣いが上古よりのものであり、こよなく貴いものをと思った。
 絵馬堂を見て、階段を下ろうとすると観音堂も金堂も十王堂も皆、③仏像は取り除かれている様子で、その跡に御簾をかけて、白幣を立置いてあった。
この日記からは、仏教伽藍から神社へのリニューアルが進む金刀比羅宮の様子が見えてきます。仏像仏具に関しては
①護摩堂、大師堂などの、堂内には仏像はもちろん檀一つも置かれていない。
②拝殿も全て神式に改められ生ものの鯛も供えられていた。
③観音堂も金堂(現旭社)も十王堂も、仏像は取り除かれ、その跡に御簾をかけて白幣を立置かれてあった。
 松岡調の日記からは仏像たちがお堂から撤去され、神仏分離が急ピッチで進行していたことが分かります。ちなみに、これから3年後の明治5年〔1872〕1月27日に松岡調は、金刀比羅宮の禰宜に就任します。
1 金毘羅 狛犬1

さて、撤去された仏像はどうなったのでしょうか。
 取り除かれた仏像・経巻・仏具類は、仏堂廃止とともに境内の一箇所に取りまとめて存置されていたようです。それが動き出すのは、松岡調が金刀比羅宮の禰宜に就任した年になります。明治5年4月に香川県宛に旧金光院時代の仏像の処分について、伺いが出されています。これについては『年々日記』明治五年四月二十四日条に、
二十四日 一日ハ(晴)れす、会計所へものせり、さきに県庁へねき聞へし条々につきて、附札にてゆるされたる事ども
事比羅神社社用之廉々伺書
一 当社内二在之候従来之仏像、御一新後悉皆取除、山麓之蔵中江集置候処、右撥遣(廃棄) 二相成候上者、如何所置可仕哉、焼却二及候而も不苦候哉之事、
      焼却可申事 (○中略)
事比羅神社
  県庁御中
意訳しておくと
当社内に保管する仏像について、維新後に全て取除き、山麓の蔵中へ集めて保管してきました。これらについて廃棄することになった場合は、どのように所置すればよろしいか。焼却してもよそしいか。

この伺いに対する香川県の回答が「焼却可申事」であったようです。ここからは仏像類の処分方法について、金刀比羅宮が事前に香川県の承認をうけていたことが分かります。4月に焼却処分の許可を得た上で、8月4日に仏像類の大部分を焼却したようです。
これだけ見ると「全ての仏像・仏具を焼いた」と思われそうです。実際に、そのように書かれた本や言説もあります。しかし、松岡調の日記を見ると、そうではないことが分かります。

1 金毘羅 狛犬222表

 処分に先立って、松岡調自ら仏像・仏具類を納めた倉庫を検分したり、松崎保とともに社中に残し置くべき仏像などについて、立ち合い検査を行なっています。6月から7月になると『年々日記』に、次のような記述が見られるようになります。
 
五日 (中略)今日は五ノ日なれは会計所へものせり、梵鐘をあたひ二百二十七円五十銭にて、榎井村なる行泉寺へ売れり、(『年々日記』明治五年 三十三〔6月五日条〕、読点筆者)

八日 雨ふる、こうきあり、例の時より会計所へものセり、西の宝庫に納たりし雑物を出して塵はらわせり、来る十一日にハ、仏像仏具を始、古きものともをうらんとて置そす、今夜いミしう雨ふる、(以下略)(『年々日記』明治五年〔七月八日条〕)

6月5日には、金毘羅さんのお膝元・榎井村の行泉(興泉)寺が梵鐘を227円50銭で買いつけています。これも、戦中の金属供出で溶かされたのでしょうか、今は興泉寺に、この鐘はないようです
7月8日には、西の倉庫に保管されていた「雑物」を出して奇麗にしたようです。それは仏像仏具を売りに出すための準備であったようです。
 九日 雨はれす、二字(2時)のころやうくはれたり、御守所へ詣てつ、間なく裏谷なる仏像、仏具を納たる倉を見にものセるか、大きなる二層の倉の上にも下にも、かの像ともの古きなる小きなる満々たり、小きこまかなるは焼ハらふも、いとあたらしきワさなれハ、仏ゑと共にうらんとて司庁(社務所)へおくりやる、数多の中に大日仏の像なとは いみしき銅像になん、
(『年々日記』明治五年 〔七月九日条〕)
意訳すると
7月9日 
雨晴れず、2時頃からようやく晴れてきた。御守所へ参拝してから「裏谷」の仏像、仏具を保管している倉を見行く。そこには大きな2層の倉の上にも下にも、古い仏像や小さい仏像などで満ちている。小さい仏像は燃いても、造られたばかりの新しいものは、仏絵と共に売ることにして司庁(社務所)へ運んだ。数多くある中でも大日如来像は、価値のあるもののように見える。       
ここからは、次のような事が分かります。
①「裏谷」にある倉に仏像、仏具を保管してあったこと
②倉の中には、仏像でいっぱいだったこと
③新しい仏像は、仏絵と共に販売するために運び出したこと
④大日如来像はすぐれた作品であると「鑑定」していたこと
明治元年に撤去された仏像たちは、「裏谷の倉」の一階と二階に保管されていたようです。そして、売れるものは売るという方針だったことがうかがえます。
1 金毘羅 備前焼狛犬1

十日 れいの奉納つかうまつりて、会計所へものセり、明日のいそきに、司庁の表の書院のなけしに仏画の類をかけて、大よその価なと使部某らにかゝせつ、百幅にもあまりて古きあり新きあり、大なるあり小なるあり、いミしきもの也、中にも智証大師の草の血不動、中将卿の草の三尊の弥陀、弘法大師の草の千体大黒、明兆の草の揚柳観音なとハ、け高くゆかしきものなり、数多きゆえ目のいとまハゆくなれハ、さて置つ 
   (『年々日記』明治五年 【七月十日条】)
     ○
意訳すると
7月10日 明日11日から始まるオークションの準備のために、書院のなげしに仏画などをかけて、おおよその価格を推定し係の者に記入させた。百以上の仏画があり、古新大小さまざまである。中には、智証大師作の「草の血不動」、中将卿の「草の三尊の弥陀」、弘法大師の「草の千体大黒」、明兆の「草の揚柳観音」などもあり、すぐれたものである。数が多過ぎて、目を休める閑もないほどであった。 

  仏画類については、前日に書院のなげしに掛けて「鑑定」を行って、おおよその価格を事前に決めていたようです。
1 金毘羅1 狛犬11

さて入札当日は、どうだったのでしょうか。
十一日 御守所へものセり、十字のころより人数多つとひ来て見しかと、仏像なとハ目及ハぬとて退り居り、かくて難物古かねの類ハ大かたに買とりたり、或人云、仏像の類ハこの十五日過るまて待玉へ、此近き辺りの寺々へ知セやりて、ハからふ事もあれハと、セちにこへ口口口口口、
 (『年々日記』明治五年 七月十一日条)
意訳すると 
7月11日 10時ころより、多御守所でセり(入札)が始まり。多くの人がやって来て入札品を見てまわった。しかし、仏像などは鑑定眼がないので、近寄る者はいない。難物や古かねの類の価値のないものはおおから買取り手が見つかった。ある人が言うには、仏像の類は15日が過ぎるまで待ったらどうか。近くの寺々に、この入札会のことを知らせれば、買い手も集まってくるだろう。

十二日 東風つよく吹けり、会計処へものセり(払い下げ)、今日も商人数多ものして、くさくさの物かへり、己ハ柳にて作れる背負の鎧櫃やうのもの、価やすけれハかいつ、よさり佐定御願へものセるに、かたらへる事あり。    
意訳
7月12日 束風が強く吹いた日だった。会計所へ払下品を求めて、今日も商人たちが数多くやってきて、買っていく。自分は、柳で編んだ背負の鎧櫃のようなものを、値段が安いので買った。佐定は御願へもとするのに使うために、相談があった。

仏像・仏具の払い下げが、11日から始まったようです。最初に売れたのは、「難物・古金」のように重さで売れるものだったようです。仏像などは、見る目がないので手を出す者は初日にはいなかったようです。そして、ここでもコレクターとしての血が騒ぐのでしょう、松岡調は「柳で編んだ背負の鎧櫃」を買い求めています。

1 金毘羅 真須賀神社狛犬12
18日 今日も同じ、裏谷の蔵なる仏像を商人のかハんよしをぬきだし、ままに彼所へものさハりなきをえり出して売りたり、数多の商人のセりてかへるさまのいとおかし
 (『年々日記』明治五年 [七月十八日条])

十九日 すへて昨日に同し、のこりたる仏像又売れり、けふ誕生院(善通寺)の僧ものして、両界のまんたらと云を金二十両にてかへり、(○以下略)『年々日記』明治五年〔七月十九日条〕)
意訳
7月18日 裏谷の蔵にあった仏像の中で、商人が買いそうなものを抜き出して、問題のないものを選んで売りに出した。数多くの商人が、競い合って買う様子がおもしろい。
     
7月19日 昨日と同じように、次々と入札が進められ、残っていた仏像はほとんど売れた。誕生院(善通寺)の僧侶がやってきて、両界曼荼羅図を金20両で買っていった(以下略)
1 金毘羅 牛屋口狛犬12

7月21日 御守処のセリの日である、今日も商人が集い来て、罵しり合うように大声で「入札」を行う。刀、槍、鎧の類が金30両で売れた。昨日、県庁へ書出し残しておくtことにしたもの以外を売りに出した。百幅を越える絵画を180両で売り、大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。今日で、神庫にあったものは、大かた売り払った。(『年々日記』明治五年七月二十一日条〕)

ここからは入札が順調に進み「出品」されていたものに次々と、買い手が付いて行ったよです。
二十三日 御守所へものセり、元の万燈堂に置りし大日の銅像を、今日金六百両にてうれり
 (『年々日記』明治五年〔七月二十三日条〕)
意訳すると
23日 御守所での競売で、旧万燈堂に安置されていた大日如来像が金600両で売れた。

1 金毘羅 高灯籠1

 二十日 会計所へものせり、去し六月のころ厳島の博覧会にいたセる、神庫物品目録と云を見に、仏像、仏具を数多のセたるより、ワか神宮の仏像の類も古より名くハしき限りハのこし置て、さハる事もなからすと思ふまゝに佐定とかたらひ定て、この程県庁へさし出セし神宮物品録の追加として、仏像(木造9体、絵図13軸)・仏具(15品)の目録かかせて、明日戸長の県庁へものセんと聞かハ、上等使部山下武雄をやりてかたらひつ、此つひてに志度郷の神宮の宝物、また己かもたる古器をも、いさヽかいつけ(買付けて)てことつけたり、
  (○中略)
 よさり佐定と共に裏谷に隠置(かくしおき)たる物を検査にものセしに、長櫃二つあり。蓋をとりて見に、弘法大師の作といふ聖観音立像、及智証大師の作といへる不動の立像なといミしきもの也、外に毘沙門また二軸の画像なとの事ハ、こヽには記しあへす、今夜矢原正敬かりに宿る。
(『年々日記』明治五年[七月二十日条])
意訳すると 
会計所での「ものせり(入札)」の日である。昨年6月に安芸の宮島厳島神社の博覧会の時の「神庫物品目録」を目にした。そこには仏像、仏具を数多く載せてある。我が金刀比羅宮の仏像類も古くて価値があるものは残して置いても支障はないと思うようになる。
 佐定と相談して、県庁へ提出した神宮物品録の追加として、仏像(木造9体、絵図13軸)・仏具(15品)の目録に追加させた。それを明日、琴平の戸長(町長)が県庁(高松)へ出向いて入札すると聞いたので、上等使部山下武雄を使いにやって、志度郷の神宮の宝物、また自分のものとして古器なども、かいつけ(買付けて)を依頼した。
  (○中略)
 佐定と一緒に、裏谷に隠置(かくしおき)たる仏像類を検査しに出向いた。長櫃が2つあった。蓋をとって中を検めると、弘法大師作という聖観音立像智証大師作という不動立像などが出てきた。その他に、毘沙門像や二軸の画像など事については、ここにも記せない。今夜は矢原正敬宅に宿る。        (『年々日記』明治五年[七月二十日条])
1 JR琴平駅前狛犬

ここからは、次のようなことが分かります。
①宮島厳島神社の目録を見て、価値のある仏具類は残すことが出来ないか考えるようになったこと
②一部は志度の多和神社や自分のものとして、買い付けていたこと。
③裏谷の倉の長櫃から弘法大師や智証大師の作という仏像が出てきた
④その他にも毘沙門天像や軸物など「お宝」でいっぱいだったこと。
⑤矢原正敬を訪れ、今夜はそこに泊まること
ここからは価値のある仏像類は、残そうという姿勢がうかがえます。また、個人蔵とするために、お宝を買い付けていたことが分かります。このあたりに、松岡調のコレクターしての存在がうかがえます。多和神社や多和文庫の中には、金毘羅大権現からやってきたものがあるようです。
  そして、矢原正敬が登場してきます。
「矢原家家記」によると、矢原氏は讃岐の国造神櫛王(かんぐしおう)の子孫を自称し、満濃池再興の際には、弘法大師が先祖の矢原正久(やばらまさひさ)の邸に逗留したと記し、自らを「鵜足郡と那珂郡の南部を開拓し郡司に匹敵する豪族」とします。
 そして、近世になって西嶋八兵衛の満濃池再築の際にも、池の中に出来ていた「池内村」を寄進し、再築に協力したと伝えられます。その功績で、満濃池の池守として存続してきた家です。 矢原正敬はその当主になります。   歴史的な素養もあり、骨董品についても目利きであったようなので松岡調とは、気心があったようです。この日も、夜を明かして、「裏谷の倉」に眠る「お宝」についての話が続いたのかもしれません。

倉の中に保管していた仏像・仏具を、明治五年になって処分しようとしたのはなぜでしょうか。
それは、宥常が進める事業の資金を賄うためであったようです。
明治5年4月,宥常は権中講義に補せられ,布教活動プランを提出するよう教部省から求められます。これに対して、宥常は早速に東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館を設置案と提出します。しかし、これには多くの経費が必要となりました。上京していた宥常は、資金調達のため一旦帰国しています。そして、6月から仏像・仏具・武器・什物の類の売却が始まるのです。ここからは、東京での出費を賄うために「仏像・仏具の入札」という方法が採られたと研究者は考えているようです。

 残った仏像類の処分に関しては、次のような記録があります
 葉月三日 四日
   今日第八字ヨリ於裏谷、仏像不残焼却致候事、
   担シ 禰宜、社掌、筆算方 立合ニ罷出候
中略
佐定云、さハりありとて残置し仏像を此八日の頃に皆焼きすてたり、一日の内に事なくハて、灰なとハ何処となく埋めさセたり、ことにをかしき事にハ、たれに聞きつけたるか、其日の日暮れ頃に老いぼれたる老女の二三人、杖にすかりあえき来て、かの仏像を焼たる跡に散りぼひたる灰を、恐ろしきことよとつまミ取て、紙に包ておしいたヽきて帰りしさまと、又仕丁ともの灰をかきよセて埋る時に、眼の玉を5つ六つ7つなと拾ひて、緒しめにせんなと云あへりし事よ、又瓔珞(ようらく)の金具のやけ残りたるを集さセて売しに、金三両にあまれりなと かたれり。
 (『年々日記』明治五年〔八月十八日条〕

意訳すると
8月3・4日 今日8時から裏谷で、仏像を全て焼却した。これには、禰宜、社掌、筆算方は立ち会ていない。(中略)
佐定は次のように話した。
「障りがあると残していた仏像を、皆焼きすてた。一日の内に、無事終えて、灰などは何処となく埋めさせた。印象に残ったことは、誰に聞いたのか、その日の日暮頃に老女が二、三人、杖にすがり喘ぎながら登ってきて、仏像を焼いた跡に散らばる灰を、「恐ろしきことよ」と、拾い集めて、紙に包んで押し頂くように帰って行った姿と、仕丁たちが灰をかき寄せ埋る時に、眼の玉をいくつも拾ひて、緒び締めにしようと言い合っていたことである。
 また瓔珞(ようらく)の金具のやけ残を集めて売ったところ、金三両になったと云うことだ。 
 こうして仏像・仏具類などは売却され、残ったものは焼却処分にされたようです。
ここからは「全てが焼かれた」のではないことが分かります。例えば、最後まで残った大日如来像が金600両で入札されています。松岡調が目を付けていた仏像だけの価値はあったようです。これがどこの寺に収まったのか気になるところです。入札で、買い手が付いた仏像や仏画などは商人の手を経て、どこかの寺に収まったのかもしれません。また、全国ネット取引を通じて、横浜に運ばれ海外に流出したものもあるのかもしれません。それも仏像に「流出先 金毘羅大権現 明治5年競売」とでも書かれていない限りは、探しようがありません。どちらにしても大量の仏像・仏具が、明治初期には市場に出回ったことがうかがえます。
 そして、こうした仏像は「寺勢」のある寺に自然と集まってくるのです。古い仏像があるだけでは、そのお寺の年暦が判断できないのは、こんな背景があるからなのでしょう。
 
禰宜であった松岡調が「宝物」として遺した仏像類も何体かあったようですが、現在残るのは次の二体です。

Kan_non
①伝空海作とされていた十一面観音立像(社伝では正観音といわれており、旧観音堂本尊)重文
1 金刀比羅宮蔵 不動明王

②伝智証大師円珍作とされていた不動明王像
(旧護摩堂本尊)重文
 
備前西大寺には、金毘羅から二体の仏像が「亡命」しています。
これは万福院の宥明(福田万蔵)が、明治3年に岡山の実家角南悦治宅に移したものでした。裏谷の倉の中に保管されていた仏像群の中から不動明王と毘沙門天を選んで、密かに運び出したようです。このような例は、これ以外にもあったのではないかと思うのですが、その由来が伝わっているところは、あまりありません。確かに本尊伝来書に
「金毘羅さんで競売された仏を入札したのが現在の本尊」

と書くのは憚られます。それに、似合う物語を創作するのが住職の仕事でしょう。
西大寺の金毘羅大権現の本地仏
西大寺に移された仏像
以上をまとめておくと
①神仏分離で金毘羅大権現の仏像・仏具類は撤去され、裏谷の倉に保管された
②明治5年に、東京虎ノ門の事比羅社内に神道教館を設置することになり資金が必要になった。
③そこで、保管していた仏像・仏具類の入札販売を行うことになった
④6月から仏像・仏具・武器・什物の類の売却が始まり、7月末には売却を終えた。
⑤8月に残ったものを償却処分にした。
ここから多くの仏像は、競売品として売られていたことがうかがえます。それが、いまどこにあるのかは一部を除いてわかりません
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
松原秀明    神仏分離と近代の金刀比羅宮の変遷
西牟田 崇生 金刀比羅宮と琴陵宥常  国書刊行会

                                                        

  明治を迎える直前に新政府から出された神仏分離令によって、各藩では神社の御神体チェックが始まります。その後の「神社取調」に示された項目に従って各神社の「身元調べ」が行われたことを前回はお話しました。その調査スタッフの中心メンバーが松岡調(みつぎ)でした。今回はこの人物について見ていきたいと思います。
彼は、高松藩士・佐野衛士の四男として天保9年(1830)生まれています。
友安三冬(良介)から国学、中村尚輔から和歌、森良敬から絵画を学ぶとあり、平田神学や水戸学とのつながりはみられません。
  「天性学を好み友安良介に従い 皇典の学を学び、後に松岡氏を継ぎ、多和神社の禰宜(ねぎ)となり、・・・」
とあり、20歳の時に多和神社に養子に入り、36歳で養父の松岡寛房を継いで神主に就任します。
多和神社 (香川県さぬき市志度 神社 / 神社・寺) - グルコミ
多和神社は、志度寺の守護神の八幡神を祀る神社で「多和八幡宮」と呼ばれ、
志度寺の境内に隣接していたようです。しかし、15世紀後半に志度寺とともに焼失します。江戸時代になって、高松藩藩主松平頼重の手で志度寺と同時に再興されますが、場所は現在地に移転します。高松藩からの保護を受けると同時に、港町として賑わう志度の氏子達の信心も集め、経済基盤もしっかりとした神社であったようです。現在は式内神社とされますが、この指定経過には問題が残るようです。
多和神社
 
松岡調が多和八幡宮の神主となった頃は、明治維新の嵐が四国にも吹きつけ、高松藩が「賊敵」として土佐藩などに占領される時期でもありました。このような激動の中で、明治2年(1869)に高松藩の家老の推薦を受けて藩校・皇学寮の教授に就任します。
 時を同じくして、新政府は、神仏分離令を出し、そのために「御神体チェック」や「神社取締」作業をおこなうことを矢継ぎ早に各藩に通達します。讃岐において、これらの作業の中心的な存在として活動したのが藩校教授に就任したばかりの松岡調でした。その後の調査経過については、前回にお話ししましたので省略します。

 以後、松岡調は東讃から高松にかけての担当エリア五郡の神社についての「神社取調」を進めます。各神社の御神体をチェックし、そこに何が保存され、どんな文書や絵図などがあるかを頭の中に入れていきます。今なら研究者にとっては絶好のフィルドワークです。神社・仏閣に出向いて、そこに保管・保存されている文書や絵図類を「強制力」を行使して見る事が出来るのです。現在の研究者にとってはうらやましいと思う人も入りかも知れません。この2年間あまりの経験は、彼を研究者として大きく成長さる契機となったと私は考えています。この経験が神道界のみならず、文化財や郷土史などの面でも第一人者としての立場を築く事になったようです。

 神社取調が一段落した明治3年の春、桜の季節に松岡調は、妻と娘と共に金刀比羅宮に参詣しています。
そして、金毘羅大権現の仏教伽藍から神社へのリニューアルが進む金刀比羅宮の様子を細かく日記に記していますので見てみましょう。
 金倉川に掛かる普請中の鞘橋を見ては、その美しさを讃えます。内町から小坂までの家の門毎に桜が一本ずつ植えられているのを見て、四、五年経った年の春の日の花をしのび、大門まで登って金毘羅神が去り給うたことを記した立札を見ています。
 琴陵家を訪ねて、書院の広く美しいのを見て、娘は手をうって喜ぶ。護摩堂・大師堂によって、内には檀一つさへないのを見て涙する妻に対し、かしこきことなりと言って、わが心のおかしさを思う。
本宮に詣で、拝殿に上りて拝み奉る。御前の模様、御撫物のみもとのままにて、その外はみなあらたまっているのを見る。白木の丸き打敷のやうなるものに瓶子二なめ置き、又平賀のような器に鯛二つがえ置きて供えている。さて詣でる人々の中には受け入れられない人々もあろうが、己れらはその昔よりはこの上なく尊くかしこく思われた。
 絵馬堂を見て、下りに諸堂を廻る。観音堂も金堂も、十五堂も、皆仏像をとりのぞきたる跡は、御簾をかけて白幣を立てていた。(中略)     
      金刀比羅宮文書 「松岡調日記抄」
  高松街道を徒歩か人力車でやって来たのでしょう。大門には
「金毘羅神が去り給うたことを記した立札」
があったと記します。
神仏分離によって山号は象頭山から金毘羅山へ、社号は金毘羅大権現から金刀比羅宮へと「転身」したことを告げる告知文を読んだのでしょう。そして、旧金光院であった琴陵家を訪ね、書院で接待を受けた事を記します。
この時の当主は琴陵宥常(ありつね)で、松岡調よりも十歳若い若者でした。
維新の際には、上京し神祇科との交渉を重ね金毘羅大権現の存続のための働きかけを行い、金刀比羅宮として生き残る道を開いた若き指導者でした。それから、着々と改革を推し進めていました。宥常については前回にお話ししましたので省略します。
   本宮に参拝すると
が御供えしているのを見て、参拝者の中には受けいれられないかも知れないが自分にとっては「尊くかしこく」感じられた
と述懐します。
金刀比羅宮の仏閣の時代には生魚が御供えされるということは考えられなかったことでしょう。ここに「神仏分離」の新時代の到来を感じたのかも知れません。帰りに見た金堂(現旭社)なども仏像が取り除かれ、御簾がかけられ御幣がたててあった記します。

 松岡調が、東讃・高松地区の神社の「神仏分離」を行っている間に、金刀比羅宮でも改革が進んでいたようです。
 この時の琴平訪問は、「面接」のようなものだったのかも知れません。翌年の1月から彼は、藩校の教授を兼務しながら、ここで禰宜として勤める事になります。それは以後、23年間続く事になるのです。松岡調は、翌年に禰宜就任に当たって次のように述べています
 いみじきことなり、わがすめらみくにの神社仏堂のうちにて、かかるところはおさおさあらじとぞ思われる
当日の彼の日記には 月給20円を受け取ったと記しています。

 翌々年の3月に政府が任命した深見速雄が鹿児島より宮司として赴任してくると、そのもとで宥常が社務職として、松岡調が禰宜として金刀比羅宮の改革を推し進めていく事になります。若い指導者の下で、金刀比羅宮は新たな輝きを放ち始めるのです。

琴陵宥常と松岡調と神仏分離の年表
1857 10月22日宥常18歳で 第19代金光院別当に就任
1868
 3月13日 明治政府が神仏分離令を通達
 4月21日 金光院宥常は、嘆願のために上京
 6月14日 金光院宥常は京都で還俗し、琴陵宥常と改名
       神祇官からの達書で神号は「金刀比羅宮」
 8月18日 宥常に社務職付与 しかし宥常が求めた大宮司は許されず
 10月28日 多度津藩が「藩内一宗一寺」統合案発表。
       領民の反対運動が高まる。
1869 2月 琴陵宥常が京都での陳情活動を終えて1年ぶりに帰讃
              神祇伯白川家の古川躬行が琴平到着、以後逗留して改革指導
 2月5日  松岡調が「御神体検査」メンバーにとして「神社取調」開始
1871 1月 5日 「社寺領上知令」が出され、社寺領を上知(没収)
     4月12日 松岡調が、妻と娘と共に金刀比羅宮に参詣
     6月    金刀比羅宮は事比羅宮となり国幣小社に列せられる
1872 1月27日 事比羅宮の祢宜に松岡調が就任   以降23年間、禰宜
     3月21日 事比羅宮は県庁の指示で職員を三十数人にまで削減
1873 6月      仏像・仏具の処分開始 ~7月まで
1874 3月    鹿児島より深見速雄が宮司として赴任

その後の松岡調
松岡調

 神仏分離にともなう讃岐の神社仏閣の調査・研究によって、松岡調は古典考証学や考古学に通じ、さらには東京大学に遊学し、研究活動を深めました。仕事を通じて日本各地に出張して学者・文人たちと交わり、各地の典籍・書画・考古遺物の蒐集・調査、讃岐郷土史の研究などを深化させていきます。1885年には、多和神社内の自邸に蔵を建てて「香木舎」と命名し、自分が集めた典籍や事物を保管します。これが現在の多和文庫につながります。
 しかし、日清戦争の時に、金刀比羅宮が朝鮮半島や遼東半島において、政府や軍の許可なく神道布教を図ったことが問題になり、1895年に長年勤めた金刀比羅宮禰宜を解任されます。
 文久4年(1864年)から死の直前まで書かれた『年々日記』は、讃岐における廃仏毀釈・神道国教化の動きを知る上での根本史料です。しかし、残念ながら一般公開されていません。これが讃岐の神仏分離の研究を進める上では大きな障害となっているように私には思えます。
  それともうひとつ讃岐式内社の「選定」めぐる経緯に関しては、問題があると思います。選定の責任者として歴史考証・史料批判等も行わず松岡家が社家を勤める神社を多和神社として、指定したと後世に云われても仕方のない手順が取られているように思います。研究者らしからぬ対応ぶりです。多くの功績を残した人物ですが、晩節を汚したと云われても仕方がないように思えます。
 これに対してはこんな声も聞こえてきそうです。
維新の際の神仏分離の「神社取調」とは、「研究」ではないのだよ。「政治」だったのだ。式内神社の指定もまたしかり・・・と・・・

このページのトップヘ