瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:生野南口遺跡

稲木北遺跡
稲木北遺跡は、大型建築物がいくつも出てきたことから多度郡の郡衛跡候補とされているようです。どんな遺跡なのか調査報告書を見ていきます。この遺跡は善通寺市稲木町にあり、国道11号坂出丸亀バイパス建設工事のために平成17年度に発掘調査が行われました。
稲木北遺跡 上空写真

位置は、新たに作られたバイパスと旧11号線の分岐点の南側です。上の写真では、国道北側に見えるのが新池になります。道路手前の掘り返されている部分が発掘されたエリアになるようです。
 新池の西側には丸亀城からの街道が通っていました。稲木遺跡を南に越え行くと、すぐに伊予街道と合流します。そこには永井湧水があり、殿様が休息所に使っていた建物があったようです。丸亀の殿様も国内巡視には、この道をよく利用しています。

稲木北遺跡 上空写真2
 この遺跡からは、古代の郡衛跡を思わせるような大型の掘立柱建物跡や柵列跡がでてきました。これらは左右対称に整然と配置され、柵列跡でかこまれたエリアは一辺約60mになります。これは、全国の郡衛政庁と同じ規模にです。そうだとすると、ここは多度郡の政庁があった可能性が高くなります。まずは、調査報告書に従って、遺跡を見ていくことにします
稲木北遺跡 配置図

  調査区域はバイパス工事で立体化される拡張部のみで上記の4区になるようです。
稲木北遺跡が、どんな所に立地していたかを見ておきましょう。
稲木北遺跡 地形復元図

等高線が引かれた地図を見ると①②ともに微髙地のうえにあることが分かります。
①の西側に河道跡が見えます。これが遺跡の西端を区切っています。
②は東側に河道跡があります。同じくこれがエリアの境界となるようです。
この遺跡の東約1,3kmには金倉川があり、この旧河道の中に頭一つ出ていた微髙地上にあります。上の第5図からは遺跡の東西で旧河道の存在を見て取れます。旧河道が8世紀代の遺構群の東・西限のようです。
稲木北遺跡 遺構配置図

  出てきた柱跡をつないでいくと、大きな掘立柱建物跡が8棟出てきました。それを復元してみると、次のようになるようです。
稲木北遺跡 復元想像図2

これらの掘立柱建物群は、8世紀前半から半ばにかけて、同時に立ち並んでいたと研究者は考えているようです。ここからは次のようなことが分かります。
①大型の掘立柱建物跡8棟
大型柵列跡2基(SA4001とSA2001)で東西の柵で囲まれている
③建物跡は多度郡条里坪界線に沿って建っている
④建物レイアウトは、東西方向への左右対称を意識した配置に並んでいる。
⑤対称の関係にあるの基準線からの距離だけでなく、建物跡の種類や規模についても対応する。
⑥柵列跡の内部では床束建物(Ⅲ 区SB3001)が中核建物群
⑦柵外では総柱建物の倉庫群(東の2棟・西の1棟)があって、機能の異なる建物が構築されている。
⑧柵列跡の区画エリアは東西約60mで、全国の郡衛政庁規模と合致する。
⑨ 見つかった遺物はごく少量で、硯などの官衛的特徴がない
⑩ 出土した土器の時期幅が、ごく短期間に限られている

ここからは、稲木北遺跡(8c前葉~中葉)が、大型建物を中心にして、左右対称的な建物配置や柱筋や棟通りに計画的な設計上の一致があることが分かります。

 それでは郡衙(郡家)とは、どんな施設だったのでしょうか。何を満たせば郡衙と云えるのでしょうか
 郡衙は文献史料によって、「郡庁」「正倉」「館」「厨家」「門」「垣」などの施設があったことが分かっています。
 律令の「倉庫令」には、郡衛設置について次のように規定されています
①倉は高くて乾燥した場所に設けること、
②そばに池や濠を掘ること
③倉から五〇丈(約150m)以内には館舎を建ててはならない
ここからは、郡衙は低湿地には作ってはならなかったことが分かります。また、多くの倉(正倉)が立ち並ぶエリアがあったようです。今は正倉院といえば、奈良にある東大寺の宝物庫の正倉院のことをすぐに思い浮べてしまいます。しかしもともと、正倉とは建物をさすのではなく、国家所有の倉庫群の一郭をさすことばだったのです。発掘で、倉庫群が出てくれば郡衙にまちがいないようです。
 倉庫(正倉)以外にも郡衛には、次のような施設(建築物)がありました。
稲木北遺跡 郡衙の構造

「郡庁」は、郡衙の政庁であり、郡司らが執務するところ。
 郡庁は、「庁屋」「副屋」「向屋」など数棟の建物から構成されていたようです。全国の郡衙復元図を見てみましょう。
上総国新田郡家跡の配置図です。
稲木北遺跡 新田郡衙遺跡

 中央に(1)郡庁があり、その真ん中に庁屋があり、左右に「副屋」「向屋」など数棟の建物が建っていたことが分かります。
  「倉から五〇丈(約150m)以内には館舎を建ててはならない」という規定通り、郡庁と(2)(3)正倉(倉)は、距離を置いて設置されています。また正倉も規則性をもって建てられています。しかし、周囲を囲む堀は不整形です。
稲木北遺跡 新田郡衙遺跡復元図

   豪族居宅型の郡庁
 郡庁の中には地方豪族の居宅から発展してきたものもあると研究者は考えているようです。古い時代の地方豪族の居宅の形が郡庁に踏襲されているというのです。郡司が国造など地方豪族の流れをくむ者から選ばれていたことを考えるとそれは、当然考えられることでしょう。これを「豪族居宅型」の郡庁と呼んでいます。その代表がこの新田郡家遺跡のようです。

  それに対して左右対称の強い規格性を見せるのが広島県の三次郡衙です。
稲木北遺跡 三次郡衙
  三次郡衙は、庁屋を中心に左右対称に建物群が配置され、周囲の塀も規格性を持っています。そして正倉も、その南と東に集中して並んでいます。
稲木北遺跡 三次郡衙2

  これらの郡衙跡と稲木北遺跡の復元図を比較してみましょう。
  稲木北遺跡 復元想像図2

 庁舎を中心に建物が左右対称に配されています。正倉は掘建柱塀の東西の外側に距離を置いてあったことが分かります。発掘エリアが広がればもう少し数が増える可能性もあります。これは郡衙跡の可能性大のようです。
 
しかし、実は多度郡の郡衙跡候補はすでに発掘されているのです。
それが善通寺の生野本町遺跡です。
生野本町遺跡 

この遺跡は善通寺西高校グランド整備のための調査で現れた遺跡で、
①一辺約55mの範囲内に、大型建物群が規格性、計画性をもつて配置、構築されている。
②遺跡の存続期間は7世紀後葉~9世紀前葉で、稲木北遺跡より少し先行し、しかも存続期間が長い
③中心域の西辺に南北棟が2棟、北辺に東西棟が3棟の大型掘立柱建物跡
④中心域(郡庁?)は微髙地の一番高いところに設置
 郡衙的な色合いが強い遺跡です。
生野本町遺跡の南 100mには、生野南口遺跡があり、次のようなのもヶ出土しています。
⑤8世紀前葉~中葉の床面積 40㎡を越える庇付大型建物跡 1棟
⑥杯蓋を利用した転用硯
生野本町遺跡に隣接するので、郡庁に属する建物であると研究者は考えているようです。

 稲木北遺跡と生野本町遺跡を比べると、多度郡の郡衙跡候補地としてはどちらもその可能性があるように思えます。しかし、この二つの現存期は7世紀後半から8世紀初頭にかけてになります。つまり同時併存していた遺跡なのです。多度郡に2つ郡衙があったのでしょうか。有力豪族たちは、それぞれが郡衛的な施設を建てたということは考えられます。

しかし、次の3つの要素で考えるとぐーんと生野南口遺跡が有利になるようです
A 生野本町遺跡の北側には、南海道が通っていた。
B 有力豪族である佐伯直氏の本拠地に近いこと 
C 仲村廃寺や善通寺が造営されていること
Aの推定南海道については、以前にお話ししたように次のような根拠から四国学院内を通過していたという説が有力になっています.

DSC01748
①多度郡条里地割の6里 、7里 の里界線沿いが南海道の有力な推定ラインとなる。
②多度郡の東側の那珂郡では、この推定ライ ンに沿つて余剰帯 (条里型地割において南北幅が東西幅に比べて10mほ ど広い坪の連続する箇所)があり、これを西側へ延長した位置にあたる。
③13世紀代の善通寺文書において五嶽山南麓に延びるこの道が「大道」と記載 されている
そして、四国学院大学構内遺跡同遺跡からは②の推定南海道の位置とぴったりと合う所で、併行して延びる2条の溝状遺構が見つかっています。この遺構は7世紀末~8世紀初頭に掘られたもので、その方向は条里型地割と一致し、溝状遺構の幅は約8,5mです。ここから南海道の道路側溝である可能性が高いと研究者は考えているようです。
稲木北遺跡 多度郡条里制

  全国の郡衛の多くは主要街道の近くに設置されています。
それは中央集権的な国家体制作りからすれば、当然の立地条件だったのでしょう。かつては、伊予街道=南海道とされきましたが、先ほど見たように南海道が善通寺の現市街地を貫いていたと、現在の研究者の多くは考えています。そのため生野南口遺跡がぐーんと有利になります。また南海道の建設工事が7世紀末から8世紀初頭とすれば、生野南口遺跡の多度郡衛の設置時期とも重なります。
  この時代の西讃地方で行われていた土木建設工事を挙げてみると
 7世紀半ば       三野郡に讃岐初の古代寺院・妙音寺が丸部氏
       (?)によって造営開始
663 日本,百済軍が唐,新羅軍に敗れる(白村江の戦い)
667 近江大津宮に遷都.瀬戸内沿岸に山城築造(大和国・高安
城,讃岐国・屋嶋城)
672 壬申の乱
695 藤原京造営 宮殿に三野郡の宗吉瓦窯の瓦使用
         三野郡の妙音寺完成  
    稲木北遺跡(多度郡郡衛?)完成

生野南口遺跡周辺の有力豪族と云えば、空海を生んだ佐伯直氏です。
現在の誕生院は佐伯氏の館で、空海の生誕地であると云われますが、それを実証する史料はありません。『類衆国史』には、9世紀前半に佐伯鈴伎麻呂が大領 (郡司)となっています。それ以前には、佐伯直氏の館跡との関係を直接的に示す遺跡は分かりません。しかし、善通寺には、他地域を凌ぐ寺院や古墓があります。
 まず寺院については仲村廃寺、善通寺があります。
仲村廃寺は、原型に近い川原寺式軒丸瓦や法隆寺式の軒平瓦などが出土し、奈良時代まで多くの種類の軒瓦が使用されています。善通寺跡からも白鳳期から平安期にかけての多種類の軒瓦が出てきていて、両寺とも盛んに造寺活動が行われていたことが分かります。これらの背後には佐伯直氏の活動がうかがえます。
 一方、古墓については8世紀中葉~9世紀代の火葬墓群が筆の山の南麓、東麓で見つかっています。このうちカンチンバエ古墓では銅製骨蔵器が使われ、畿内で貴重で珍しい材質なようです。佐伯氏と思われる有力豪族が存在していたことがうかがえます。

稲木北遺跡 条里制

稲木北遺跡付近を本拠地とした豪族としては因岐(いなぎ)首氏が考えれます
因岐首氏については『日本三大実録』に「多度郡人因支首純雄」らが貞観8年 (866年)に 改姓要求の申請を行つた結果、和気公が賜姓された記事がありますので、多度郡に因岐首氏という豪族がいたことは確実です。
 500年後の1423年の「良田郷田数支配帳事」には、多度郡良田郷内に 「稲毛」 という地名が記されています。この「稲毛」を因岐首氏の 「因岐」からの転化と研究者は考えているようです。そして、良田郷を因岐首氏の本拠地とします。この説に従えば、稲木北遺跡は良田郷に属しますので、8世紀初頭には因岐首氏がこの地域を本拠地としていた可能性は高くなります。。
 智弁大師はこの因岐首氏の出身で、その系図を残しています。
それは『和気系図』と呼ばれ、今は国宝となっています。その系図には始祖である忍尾別君から因支首純雄らの世代までが記されています。また、忍尾別君が伊予国から移住し、因岐首氏と婚姻し、因岐首氏の姓を名乗るようになったということも記されています。この伊予からの移住時期を7世紀中頃と研究者は考えているようです。つまり、大化の改新から白村江の敗北の前後に、伊予からやって来た豪族というのです。ここからは次のようなことが考えられます。
佐伯直氏の郡衙       多度郡部の生野本町遺跡
因岐首氏(和気氏)の郡衛     多度郡部の稲木北遺跡
しかし、見てきたように佐伯直氏と因岐首氏の勢力を比べると、これは佐伯直氏に軍配があがります。例えば、古代寺院の造営という点からしても多度郡南部には、同時期に仲村廃寺と善通寺があります。壬申の乱以後も佐伯直氏は、勢力を保持し郡司の座にあったと考えられます。
それでは、善通寺に郡衛(生野本町遺跡)があったのに、なぜ稲木の地に新たに郡衛ぽい施設を作ったのでしょうか。
稲木北遺跡の同時代に並立していた遺跡を見てみましょう
①稲木遺跡では「口」の字形の官衛的な建物配置、
②金蔵寺下所遺跡では河川管理祭祀
③西碑殿遺跡と矢ノ塚遺跡は鳥坂峠の麓という交通の要衝に立地する
といったそれぞれの機能的側面を持っていたます。 
 7世紀半ば以後に、伊予から多度郡北部にやって来て急速に力を付けた新興勢力の因岐首氏の台頭ぶりを現すのがこれらの遺跡ではないかと研究者は考えているようです。
 因岐首氏による多度郡北部の開発と地域支配のため新たに施設が作られ、
「既存集落に官衛の補完的な業務が割り振られたりするなどの、律令体制の下で在地支配層が地域の基盤整備に強い規制力を行使した痕跡」

と研究者は指摘します。つまり、新興勢力の因岐首氏による多度郡北部の新たな支配拠点として、この官衛的な施設は作られたというのです。
 しかし、この施設は長くは使われませんでした。
非常に短期間で廃棄されたようです。使用痕跡が残ってあまり残っていないのです。例えば土器などの出土が極めて少ないようです。また、硯や文字が書かれた土器なども出てきません。つまり、郡衛として機能したかどうかが疑われるようです。
 因岐首氏が作った稲木北遺跡の建築物群は、律令体制の整備が進む奈良時代になると放棄されたようです。その理由は、よく分かりません。多度郡の支配をめぐる佐伯直氏との対立もあったのかもしれません。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
稲木北・永井北・小塚遺跡調査報告書2008年

DSC01155
王墓山の墳丘の麓にある箱形石棺  
「古代善通寺の王家の谷=有岡」に、王墓山と菊塚の横穴式石室を持つふたつの前方後円墳が相次いで造られたのが6世紀後半のことでした。しかし、それに続く前方後円墳を、この有岡エリアで見つけることはできません。なぜ、古墳は築かれなくなったのでしょうか?
 その理由に研究者たちは、次の2点を挙げます
①646年に出された「大化の薄葬令」で墳墓築造に規制されたこと
②仏教が葬送思想や埋葬方法の形を変えて行った
こうして古墳は時代遅れの施設とされたようです。変わって地方の豪族達が競うように建立をはじめるのが仏教寺院です。

古墳時代末期に横穴式の大型古墳群がある地域には、必ずと言ってよいほど古代寺院が存在する」

と研究者は言います。各地の豪族は、権力や富の象徴であり地域統治のシンボルであった古墳築造事業を寺院建立事業へと変えていったのです。
古墳から寺院へ
古墳から古代寺院へ
 それでは豪族達は、自分の好きなスタイルの寺院建築様式や、仏像モデルを発注できたのでしょうか。
そうではなかったようです。前方後円墳と同じく寺院も、中央政権の許可なく建立できるものではありませんでした。寺院建築は瓦生産から木造木組み、相輪などの青銅鋳造技術など当時のハイテクの塊でした。渡来系のハイテク集団の存在なくしては、作れるものではありません。それらも中央政府の管理下に置かれていました。中央政府の認可と援助なくしては、寺院は作れなかったのです。逆にそれが作れるというのは、社会的地位を表す威信財として機能します。
 前方後円墳がヤマト政権に許された首長しか建設できなかったこと、その大きさなどにもルールがあったことが分かってきています。つまり、前方後円墳は地方の首長の「格差」を目に見える形で示すシンボルモニュメントの役割を果たしてもいたと言えます。このような中央政府による「威信財(仏教寺院)」管理で地方豪族をコントロールするという手法は、寺院建立でも引き続いて行われます。

3妙音寺の瓦

 例えば壬申の乱の勝利に貢献した村国男依〔むらくにのおより〕は死に際して、最高クラスの外小紫位〔げしょうしい〕を授けられ、氏寺の建立を許され下級貴族として中央に進出しました。このように戦功の功賞として、氏寺の建立は認められています。地方豪族が氏寺を建てたいと思うようになった背景には、寺を建てることで、さらなる次の中央官僚組織への進出というステップにを窺うという目論見が見え隠れします。
3宗吉瓦2

 その例が、多度郡のお隣の三野郡で丸部氏が讃岐最初の古代寺院を建立するプロセスです。丸部氏は、天武朝で進められる藤原京造営に際して「最新新鋭瓦工場=宗吉瓦窯跡」を建設し、瓦を供出するという卓越した技術力を発揮します。中央政府は「論功行賞」として、丸部氏が氏寺を建設する事を認めます。こうして、讃岐で一番最初の古代寺院・妙音寺(三豊市・豊中町)が、姿を見せるのです。これを手本にして、佐伯氏の氏寺の建立は始まったと私は考えています。

佐伯氏の氏寺建立のプロセスを見ていきましょう。

DSC01201
伝導寺跡(仲村廃寺)
  佐伯氏の最初の氏寺は  伝導寺(仲村廃寺)
 佐伯氏の氏寺と言えば善通寺と考えがちですが、考古学が明らかにした答えとは異なるようです。善通寺の前に佐伯氏によって建立された別の寺院(Before善通寺)が明らかにされています。その伽藍跡は、旧練兵場遺跡群の東端にあたる現在の「ダイキ善通寺店」の辺りになります。
 発掘調査から、古墳時代後期の竪穴住居が立ち並んでいた所に、寺院建立のために大規模な造成工事が行われたことが判明しています。

DSC04079
仲村廃寺の軒丸瓦

出土した瓦からは、創建時期は白鳳時代と考えられています。瓦の一部は、先ほど紹介した丸部氏の宗吉瓦窯で作られたものが鳥坂峠を越えて運ばれてきているようです。ここからは丸部氏と佐伯氏が連携関係にあったことがうかがえます。また、この寺の礎石と考えられる大きな石が、道をはさんだ南側の「善食」裏の墓地に幾つか集められています。
ここに白鳳時代に古代寺院があったことは確かなようです。
この寺院を伝導寺(仲村廃寺跡)と呼んでいます。
ここまでは、有岡の谷に前方後円墳を造っていた佐伯家が、自分たちの館の近くに土地を造成して、初めての氏寺を建立したと受けいれやすい話です。

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墓地の中に散在する仲村廃寺の礎石

 ところが話をややこしくするのが、時を置かずにもうひとつの寺を建て始めるのです。
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善通寺の軒丸瓦
それが現在の善通寺の本堂と五重塔のある東院に建立された古代寺院です。そして、善通寺東院伽藍内からも伝導寺と同じ時期の瓦が出てくるのです。中には伝導寺と同じ型で模様が付けられたものも出てきます。これをどう考えればいいのでしょうか。考えられることは
①伝導寺も善通寺伽藍の創建も白鳳時代で、同時代に並立した。
 しかし、伝導寺と現在の善通寺東院は、直線にすると300㍍しか離れていません。佐伯氏がこんな近い所に、ふたつの寺を同時に建立したのでしょうか。前回に紹介した大墓山古墳と菊塚古墳は非常に隣接した時代に造営されたことをお話ししました。そして、被葬者は佐伯一族の中の有力一族の関係にあったのではないかという推察をしました。ここでも、本家と親家のような関係にある人物がそれぞれ氏寺を建立したという仮説もだせますが・・・何か不自然です。

DSC01203
仲村廃寺の礎石
②白鳳時代に伝導寺が建立されたが短期間で廃寺になり、今の伽藍の場所に移転した
 善通寺伽藍内で発見された白鳳時代の瓦は、廃寺とした伝導寺から再利用のために運ばれ使われた。この仮説には、移転の原因を明らかにする必要があります。
.1善通寺地図 古代pg
  伝導寺の南にあった3つの遺跡を見てみましょう。 
  ①生野本町遺跡は、善通寺西高校のグランド整備に伴う発掘調査で出てきた遺跡です。
溝状遺構により区画された一辺約55mの範囲内に、大型建物群が規格性、計画性をもつて配置、構築されている。遺跡の存続期間は7世紀後葉~8世紀前葉であり、官衛的な様相が強い遺跡である。

  ②生野本町遺跡の南 100mに は生野南口遺跡が 位置する。
ここでは 8世紀前葉~中葉に属する床面積40㎡を越える庇付大型建物跡1棟、杯蓋を利用した転用硯1点が出土している。生野本町遺跡に近接し、公的な様相が窺えることから、両遺跡の有機的な関係が推測できる。
 そして、文献学的な推定からこの付近には南海道が通っていたとする次のような説がありました。
南海道は、多度郡条里地割における6里と7里の里界線沿いが有力な推定ラインである。13世紀代の善通寺文書には、五嶽山南麓に延びるこの道が「大道」と記載されてる。
 
 ③これを裏付ける考古学的な発見が、四国学院大学構内遺跡から出てきました。
この遺跡は、南海道推定ライン上にあるのですが、そこから併行して延びる2条の溝状遺構が見つかりました。時期的には7世紀末~8世紀初頭で、この2条の溝状遺構は南海道の道路側溝である可能性が高いようです。また、ここからは伝導寺で使われた同じ瓦がいくつか出てきています 。  
この3つの遺跡について述べられているキーワードを、取り出して並べてみましょう。
①7世紀後半という同時代に同じ微高地の位置するひとまとまりの施設
②計画的に並んだ同じ大きさの大型建物群
 → 官衛的な様相が強い遺跡
③延床400㎡の大型建築物
 → 地方権力の拠点?
④遺跡の間を南海道が通っていた           
 → 多度郡の郡衛が近くにあるはず
⑤伝導寺の瓦が出土
  → 佐伯氏の氏寺・伝導寺の建設資材の保管・管理
⑥どの建築物も短期間で消滅
これらを「有機的な関係」という言葉でつなぎ合わせると、出てくる結論は何でしょうか?
それは、四国学院キャンパスから南にかけての微髙地に多度郡の郡衛施設があったということ、そして、佐伯氏の館もこの周辺にあったということでしょう。
それを研究者は次のような言葉で述べます
   この様相は、官衛や豪族による地域支配のため新たに遺跡や施設が形成されたり、既存集落に官衛の補完的な業務が割り振られたりするなどの、律令体制の下で在地支配層が地域の基盤整備に強い規制力を行使した痕跡とみると整合的である。

要は、研究者も、7世紀後半には多度郡の郡衛がここにあったと考えているようです。
DSC01748

以上から7世紀後半の善通寺の姿をイメージしてみましょう。
 条里制の区割りが行われた丸亀平野を東から一直線に、飯山方面から五岳を目指して南海道が伸びてきます。それは四国学院大学キャンパスの図書館あたりを通過してさらに、西へ伸びて行きます。その南海道の北側に、大きな集落(旧練兵場遺跡)が広がり、その集落の東端に、この地域で初めての古代寺院・伝導寺が姿を現します。そこから600㍍ほど南を南海道は西に向けて通過します。南海道に隣接するように北側には倉庫群(四国学院遺跡)が立ち、南側には多度郡の郡衛とその付属施設が並びます。そして、その周囲のどこかに佐伯氏の館があった・・・

DSC01741
 
多度郡の郡衛の北に姿を現した古代寺院。これは甍を載せた今までに見たことのないような大きな建造物で、中には目にもまばゆい異国の神が鎮座します。古墳に代わる新たなモニュメントとしては最適だったはずです。佐伯の威信は高まります。

DSC01050
佐伯氏の居館は、どこにあったのでしょうか?
  従来説は、
  ①佐伯氏の氏寺は現在の善通寺伽藍で、佐伯氏の居館は現在の西院であった
 
でした。  しかし、以上の発掘調査の成果を総合すると

  ②佐伯氏の最初の氏寺である伝導寺が建立され頃、佐伯氏の拠点は生野本町遺跡付近(四国学院の南)にあった

  ③そして伝導寺の廃絶と善通寺伽藍への移転に伴い、佐伯氏の活動の拠点も今の誕生院の場所へ移動した と考えられるようになっているようです。
 ここで、残された問題に帰ります。
なぜ伝導寺が短期間で廃棄されたのかです。
 この問題を解くヒントが、実は3つの遺跡の中に隠されています。それは、
「④三つの遺跡の建築物は、建てられて短期間で姿を消している。
ということです。これは伝導寺とおなじです。何があったのでしょうか?
7世紀後半の南海沖地震の影響は?
災害歴史の研究が進むにつれて
「白鳳時代半ばを過ぎた頃、四国地方は大地震による大きな被害を受けた」

という説が近年出されています。
「日本書紀」の巻二九、天武十三年(678)10月14日の記録に
「山は崩れ、川がこつぜんと起った。もろもろの国、郡の官舎、及び百姓の倉屋、寺の塔、神社など、破壊の類は数えきれない。人民のほか馬、牛、羊、豚、犬、鶏がはなはだしく死傷した。このとき伊予温泉は埋没して出なかった。土佐の国の田50余万頃が没して海となった。古老はこんなにも地が動いたことは、いまだかつて無かったことだと言った。」
とあります。
 続いて十一月三日には
「土佐の国司が、大潮が高く陸に上がり海水がただよった。このため調(税)を運ぶ船が多く流失したと知らせてきた。」
ともあり、10月14日の地震により発生した津波の被害の報告のようです。7世紀後半に何回か大きな地震が起きていたようです。「伊予」「土佐」でも大きな被害が出ていることから、讃岐の善通寺市付近でも、戦後の南海地震と同じような被害があったのではないかと研究者は考えています。
 伝導寺が姿を見せた頃は、佐伯氏の居館は生野町本町遺跡付近にあった?
 先ほど見てきたように、この遺跡は白鳳時代の初め頃(七世紀後半)に成立し、白鳳時代末頃(八世紀初め頃)には廃絶しています。寺の移転に併せるように現在の西院に佐伯の居館も移転したようです。これも同じ地震被害に関連するものではないか、と研究者は推測します。確かに、戦後の南海地震規模と同規模の揺れなら善通寺にも被害があったでしょう。実際に多度津からの金毘羅街道の永井集落に立っていた鳥居は根元からポキンと折れています。建立されたばかりの寺院に、大きな被害が出たことは考えられます。
王墓山古墳や菊塚古墳の報告書には、大地震によると考えられる石室の変形が見られるとしています。善通寺市周辺における奈良時代以降の大地震の記録は残っていませんから、これらも白鳳時代の大地震によるものではないかといいます。
 こうした白鳳の南海大地震の被害を受けて、佐伯家の主がその対策をシャーマンに占なわせた結果、新しい場所に寺も本宅も移動して再出発せよという神託が下されたというSTORYも充分に考えられるとおもうのですが・・・・
  以上が現時点での伝道寺短期廃棄説の仮説です。これにて一件落着!と言いたいところなのですが、そうはいかないようです。
伝導寺跡からは平安時代後期の瓦が出土するのです。これをどう考えればいいのでしょうか?
普通に考えれば、この寺は平安末期まで存続していたということになります。しかし、寺として存続していたのなら瓦が別な場所で再利用されることはありません。とりあえず次のように解釈しているようです
「奈良時代の移転に伴い伝導寺が廃絶した後、平安時代後期になって伝道寺跡に再び善通寺の関連施設が置かれたのではないか」

しかし、今後の発掘次第では「解釈」は変わっていくことでしょう。

   以上をまとめておくと次のようになります。
①7世紀後半に佐伯氏は、初めての氏寺・伝導寺を建立した
②この建立には三野郡の丸部氏の協力があった
③伝導寺建立後に南海道が整備された。
④現四国学院大学の図書館付近を東西に南海道は走っていた
⑤その付近には、多度郡の郡衛や付属施設が建ち並び、佐伯氏の館も周辺にあった。
⑥しかし、天武十三年(678)10月14日の「天武の南海大地震記録」によって大被害を受けた
⑦そのため建立されたばかりの伝導寺や郡衛・館も廃棄された。
⑧そして、新寺を現在の善通寺東院に、郡衛・館を現在の西院に移動した
これが空海が生まれる半世紀前のこの地域の姿だと私は考えています。  
最後までお付き合いいただいてありがとうございました。

四国学院のキャンパス内を南海道が通っていた?
古代善通寺地図

南海道想定ルート 四国学院のキャンパス内を横断している

四国学院の図書館新築に伴う発掘調査が2003年に行われました。その際に出てきた条里制の溝が南海道に付属する遺構ではないかとされています。その後、飯山町のバイパス工事に伴う遺構からも同じような溝が検出されました。その溝は条里制に沿って飯山町と四国学院を東西に一直線に結んでいることが分かりました。ますます古代南海道跡であるとの「状況証拠」が強まりつつあります。

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 飯山町岸の上遺跡の推定南海道の溝跡
旧来は南海道は、伊予街道と同じで鳥坂峠を越えているとする説が有力でした。しかし「考古学的発見」がそれを塗り替えています。どのような形で南海道のルートは明らかになっていったのでしょうか? 
四国学院大学は、戦前には旧陸軍第十一師団の騎兵隊の兵舎があったところです。
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現在でも二号館やホワイトハウスは騎兵隊の建物をそのまま使っています。戦前は、ここで馬が飼われ広い敷地では騎兵訓練が行われていたのです。
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   我拝師山をバックに建つホワイトハウス 旧騎兵隊施設
そのキャンパスの中に新しい図書館を建設することになり、発掘調査が2003年に行われました。考古学の発掘調査からどんなことが分かったのでしょうか? 
普段は、あまり読まない発掘調査報告集のページをめくってみましょう。
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新設された図書館
古代は、四国学院がある所はどんな場所だったのでしょうか?
調査報告書は、図書館敷地(発掘現場)周辺の現在地勢を確認していきます。それによると、この付近は旧金倉川の氾濫原西側の標高約31mの微高地の上にあります。北西約500mにある善通寺旧境内よりも約5m高いようです。
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また、発掘後に新しくできた図書館の東側には今は人工の小川が流れています。ところが古代にも、ここには旧金倉川の旧河道があったことが分かりました。その伏流水は、今でも四国学院敷地東側の市道の暗渠になった溝の中を流れているそうです。
 遺跡の西側は、護国神社・旧善通寺西高校の間には道路を挟んで約1,5mの高低差があり、小河川(中谷川)が流れています。この河川が遺跡の西端を示しているようです。南側は、市道拡張時に立会調査を行った結果、ここからも旧河道が出てきました。この旧河道が、この遺跡と生野本町遺跡を区切っていたようです。
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 以上から、この遺跡は東西南の三方を河川で区切られ微髙地にあったようで、
学校敷地の北西側を中心に東西400m、南北250mの範囲に広がっていると考えられます。この内2003年の調査区は図書館建設予定地全域で、広さは南北41.5m、東西33mでした。
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ホワイトハウスとその隣の図書館

時代順に発掘現場を覗いてみましょう。
第1期:弥生時代後期 灌漑用の溝のみ 住宅地はなし
 遺物が出てくるのは、弥生時代後期からです。この面からは竪穴住居など集落に直接かかわるものは出てきませんでした。しかし、注目すべきは「溝3」で、北西から南東万向に横断し、幅約2m、深さ0.5mで、断面V字状で非常に深く溝内からは弥生土器が出土しています。この溝は、この遺跡の500㍍北にある旧練兵場遺跡の濯漑用の溝と規模・形状が似ています。「溝3」が濯漑用の幹線水路で、そこから導水する水路が幾本も伸びていたようです。
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ここで思い出したのが善通寺一円保絵図(上図)です。
これは中世に起きた水争いの裁判の際に、当時の名主達が作成したと云われています。真ん中にあるのが善通寺で、三層(?)の本堂と、二重塔(多宝塔?)が現在地に描かれています。そして、その西方には誕生院も姿を見せています。有岡大池を源流とする弘田川が誕生院の裏を弘田川が流れています。注目すべきは東南(地図左上)の水源です。これは現在の壱岐と二頭の湧水と考えられています。ここからの水が用水路を通じて西に流され、条里制に沿って北側に分水されている様子がうかがえます。特に二頭からの導水された水は東中学校の前を通って、四国学院の南に導かれていたように思えます。

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一円保絵図の拡大図
このような灌漑設備が弥生時代後期に遡る可能性があります。四国学院内のこの溝を流れていたを流れていた水は二頭湧水からもたらされ、旧練兵場方面に導水された可能性があることを記憶に留めておきます。
本論に戻りますが、この時代の四国学院キャンパスは水田でした。人が住む集落は北側の現在の市街地周辺にあったようです。
第II期:7世紀前半~中葉    集落が形成される時期です。
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 蘇我氏が全盛を誇る7世紀前半に、水田だった所に竪穴住居・掘立柱建物、大規模な溝が相次いで現れます。しかも竪穴住居が6基が同時期に作られます。主軸を同じくする掘立柱建物3棟も作られ、また小規模な掘立柱建物や柵列も作られ集落としての姿が整います。これを「四国学院村」と名付けておきましょう。
注目したいのは、掘立柱建物を壊して短期間の内に条里地割に沿って集落内の建物が計画的に配置・整理されている点です。これは条里地割りのに伴う「開発整備」が行われたと見ることができます。
 もうひとつの注目点は東西に掘られた溝が、条里地割りである溝1の南側約9.0mに平行している点です。これを両側の溝に挟まれた部分の解釈として、余剰帯や道であった可能性が考えられます。これが南海道に結びついていくのです。
第3期:7世紀後半~末   竪穴住居などの建物はほとんどが廃絶
 遺構としては溝は3本残りますが、四国学院村の建物はほとんどが姿を消します。つまりこの時期には集落としての機能は終わり、溝のみが残っていたようです。
近 代
古代後半から近世にかけての遺構は全くでてきませんでした。田畑などに利用されていたようです。明治後半になると、この場所は旧陸軍の用地として使用されることになります。この時期の遺構として掘立柱建物が出てきました。この建物は2間×4間の大型のもので柵で区切られていることなどから、第十一師団騎兵隊の兵舎や厩舎と考えられます。

以上から四国学院大学構内遺跡は7世紀前半から中葉が遺跡の中心であったと考えられるようです。この時期に竪穴住居、掘立柱建物、溝が一斉に展開します。そして7世紀後半になると急に姿を消すのです。
四国学院側 条里6条と7条ライン
この時期の様子を善通寺周辺遺跡と比較してみましょう。
 近接する遺跡として、南西約0.3kmの位置に所在する生野本町遺跡があります。旧善通寺西高校のグランド作成の際に発掘されたこの遺跡は、柵で囲まれた条里地割と平行あるいは直交する溝が出てきました。報告者は、この溝を区画溝群と評価し、7世紀後半~8世紀前半の時期としています。また、この遺跡の柵列を掘立柱建物の一部と解釈すると約50㎡に復元でき、郡衛など官衛的要素を持った建物群と考えることもできる遺跡です
 さらに、南接する生野南口遺跡からは、40㎡を超える庇付大型掘立柱建物が出てきました。転用硯も出土しているので、二つの遺跡を含むこの一帯は、庶民が居住する集落とは異なる性格をもつと考えられ、多度郡衛の関連施設と推定されます。そうだとすれば空海の先祖達は、国造としてここで多度郡の政務を執っていたのかもしれません。伝えられるように空海が香色山の麓の佐伯家本宅で生まれたとすれば、そこから空海の父は、ここまで通っていたことになります。

 一方、四国学院大学構内の遺跡では、最大の掘立柱建物でさえも約25㎡程度で、大型の掘立柱建物の基準(40㎡以上)には及びません。統一性のない建物配置からも「官衛的要素」は見られず一般集落であったようです。ただし、一般集落からは出てこない「異質な遺物」が出土しています。
「四国学院村」から出てきた珍しいものは?
 土師質土玉・フイゴの羽口・須恵器・円面硯・瓦が出てきました。
 土師質土玉は竪穴住居の竃中から出土しました。住居を廃絶する時に祭礼用具として使用されたものと考えられます。このような風習は古墳時代にもみられ、旧練兵場遺跡の古墳時代の住居の竃中からも土玉が出てきました。住居を壊して土に返す際に、土玉を置いて祈るという風習が四国学院にあった村にも継続されているようです。
 フイゴの羽口は、住宅内や溝から破片が出土しています。関連遺物と考えられる鉄犀が溝から、砥石が竪穴住居から出土しました。しかし、点数が少ないことや周囲に炉跡遺構も確認されなかったことから、精錬・鍛冶などの製作集団による工房があったとは言えないようです。集落内での日常的な道具の製作など小規模に操業されていたと考えられています。
遺物からみた「四国学院村」の性格は?
硯や瓦の存在は、当遺跡の性格を知る上で重要です。硯は、文字が読み書きできる高位の一部の者しか持てなかったものです。また瓦は、中村廃寺出土瓦と同箔ですが出土個数が少なく、ここにに瓦葺の建物があったとは考えられません。屋根瓦としてではなく、何らか別の理由でここに運び込まれたものでしょう。どちらにしても、ここに住んでいた人が仲村廃寺と何らかの関係があったことは考えられます。
 以上から、この遺跡あるいは周辺に仲村廃寺と関係のある集団の拠点があったことがうかがえます。その集団とは、善通寺地区の「王家の谷」である有岡地区に首長墓である前方後円墳を東西に一列に並べて何世代にも渡り造営し続けた佐伯氏以外には考えられません。佐伯氏は、仏教が伝わるといち早く古墳造営から古代寺院建立へと切り替え、中村廃寺を造営します。その瓦制作にこの村の住人達も関わっていたのかも知れません。
発掘された溝と条里制の地割の関係を探っていくと
 
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これで普通の発掘報告書は終わるのです。ところがこの報告書の凄いところはここからです。図書館敷地に残る溝が、多度郡の条里制の地割のどの部分に当たるのかを丁寧に当てはめていったのです。それが南海道発見につながる糸口となって行きます。
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赤い実線が条里制地割 点線が南海道推定ルート

 
調査区域である図書館敷地の南端には、条里型地割に平行する溝があることが分かりました。この溝が条里型地割であることを、どうすれば証明できるのでしょうか? 細かいデーターを地図上に落とし込んだ結果、溝は坪界溝とほぼ合致することが分かりました。すなわち、東西方向の溝が里境の溝だったのです。
 次に発掘調査により検出した条里型地割の遺構などを元に、さらに大縮尺の地図にはめ込みると、東西方向の溝は多度郡六里と七里の境の溝であったことが分かりました。
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ピンクの部分が南海道 幅は8~9㍍ その両側に溝がある

さらに、先行する研究者は南海道を次のように想定していました
鵜足郡六里・七里境、
那珂郡十三里・十四里境、
多度郡六里・七里境を直進的に西進し、
善通寺市香色山南麓にいたる直線道路を想定。(金田1987)
つまり、この溝が多度郡の六里と七里の境界であるとすれば、予想していた南海道の位置とピッタリ合うことになります。そして道の両側には溝があるのです。
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 以上の想定を、出てきた溝と合せてみると・・・
① 溝1南側の溝状遺構群を一連の遺構としたときの幅は?
  幅は東側で9m、中央付近で約8.5m、西側で約8.5mと、ほぼ平行しています。
② 県内で発掘された南海道駅路推定地の幅約12m、三谷中原遺跡の幅約10mよりは細いものの、他の伝路が幅6m程度の所もあるので、この遺構か南海道であった可能性は否定できないと結論づけます。
発掘調査報告会の時点で注目されたのは?
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「空海の生まれた時代の村か 佐伯氏の村か」などの新聞の見出し記事に見られるとおり、空海との関連についてでした。南海道についてはあまり関心は持たれなかったのです。ところが、後の発掘で飯山町のバイパス工事現場でも同じような南海道推定ライン上に二条の平行する溝が検出されたのです。そして、その地点と善通寺の四国学院の溝とは一直線につながることが分かってきたました。こうして旧来の鳥坂峠越えの伊予街道=南海道説は舞台から姿を消しつつあります。それに代わって条里制沿いに側溝をもつ9~6㍍の大道が南海道であることが定説になってきました。
その発見のきっかけが四国学院の図書館工事に伴う発掘調査だったのです。

参考文献  県教委 四国学院大学校内遺跡 発掘調査報告書2003年


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