金毘羅大権現が発展していく礎石となったのが、生駒家時代の寄進地でした。
何回にも分けて金毘羅に寄進された石高は330石になります。
これを他の寺院と比較してみると寄進地が圧倒的に多いのが分かります
①2番目に多いのが勝法寺(興正寺)の150石②3番目は生駒家の菩提寺法泉寺の100石③国内で古い由緒を誇る国分寺・誕生院(善通寺)でも60石程度。⑤白峰寺・田村神社は50石で、親正ゆかりの弘憲寺と同じ。⑥屋島寺が43石、水主明神の35石、引田八幡宮30石、滝宮27石、威徳院20石、根来寺18石と続きます。
金毘羅へは、寛永年開になっても祭祀料50石が寄せられていたので、生駒家からの寄進は実際は380石であったと考えてもいいようです。生まれたばかりの新興宗教団体の「金毘羅大権現」に、生駒家が寄進を重ねたのはオナツという女性の力があったことを以前にお話ししました。


生駒家2代藩主・一正
一正の愛したのが於夏(オナツ)です
一正は讃岐入国後に於夏(オナツ・三野郡財田西ノ村の土豪・山下盛勝の息女)を側室として迎えます。於夏は一正の愛を受けて、男の子を三豊の山下家で産んでいます。それは関ヶ原の戦い年でした。この子は熊丸と名付けられ、のち左門と称すようになります。彼は成人して、腹違いの兄の京極家第三代の高俊に仕えることになります。
寛永十六年(1639)の分限帳には、左門は知行高5070石と記されています。これは藩内第二の高禄に当たり。「妾腹」ではありますが、藩主の子として非常に高い地位にあったことが分かります。 金毘羅大権現への寄進・保護を進めたのも於夏とその子ども達です。
オナツと金毘羅を結ぶ糸は、どこにあったのでしょうか?
それはオナツの実家の山下家に求められます。この家は戦国の世を生き抜いた財田の土豪・山下盛郷が始祖です。その二代目が盛勝(於夏の父)で、生駒一正から2百石を給され、西ノ村で郷司になります。三代目が盛久で於夏の兄です。父と同様に、郷司となり西ノ村で知行200石を支給されます。彼は後に出家して宗運と号し、宋運寺(三豊市山本町)を建立し住職となる道を選びます。
それはオナツの実家の山下家に求められます。この家は戦国の世を生き抜いた財田の土豪・山下盛郷が始祖です。その二代目が盛勝(於夏の父)で、生駒一正から2百石を給され、西ノ村で郷司になります。三代目が盛久で於夏の兄です。父と同様に、郷司となり西ノ村で知行200石を支給されます。彼は後に出家して宗運と号し、宋運寺(三豊市山本町)を建立し住職となる道を選びます。
一方、於夏の弟の盛光は、財田西ノ村の西隣の河内村に分家します。
この分家の息子が金毘羅の院主になっていたのです。 1613~45年まで32年間、金光院の院主を勤めた宥睨は、殿様の側室於夏と「甥と叔母」という関係だったことになります。宥睨が金毘羅の院主となった慶長18年(1613)の3年前に、一正は亡くなりますが、伯母於夏を中心とする血脈は脈々とつながっていきます。オナツを中心に強力な「金毘羅大権現の応援団」が生駒藩には形成されていたのです。そのメンバーを確認しましょう。
この分家の息子が金毘羅の院主になっていたのです。 1613~45年まで32年間、金光院の院主を勤めた宥睨は、殿様の側室於夏と「甥と叔母」という関係だったことになります。宥睨が金毘羅の院主となった慶長18年(1613)の3年前に、一正は亡くなりますが、伯母於夏を中心とする血脈は脈々とつながっていきます。オナツを中心に強力な「金毘羅大権現の応援団」が生駒藩には形成されていたのです。そのメンバーを確認しましょう。
①2代目・一正未亡人の於夏②一正とオナツの息子で藩内NO2の石高を持つ筆頭家老・生駒左門③一正とオナツとの間に生まれた娘山里(?実名不明)(左門の妹)④於夏の娘山里③が離婚後に産んだ生駒河内(一正の養子)⑤於夏の娘山里③の再婚相手である生駒将監と、その長男・帯刀
こうして「生駒左門 ー 生駒河内 ー 生駒将監・帯刀」を於夏の血脈は結びつけ、生駒氏一門衆の中に、外戚山下家の人脈(閨閥)を形成していきました。この血脈が大きな政治的な力を発揮することになります。その結果、もたらされたのが生駒家の金毘羅大権現への飛び抜けた寄進になるようです。
オナツの娘(山里?)について、生駒記には次のように記されています
家嫡正俊、讃岐守ニ任ジ四品二叙シ家督相続ス。二男左門ハ五千石宛行、家老並ニナル。女子一人猪隈人納言公忠公ニ嫁セシ所故アリテ後 高俊ノ代二至り国ニ戻ル。
意訳すると
生駒家二代一正は、長男正俊を讃岐守に任じ四品を叙任し家督を相続させた。二男左門(正俊異母弟)には、五千石を知行させ家老並に扱った。女子一人(山里?)は、猪隈人納言公忠公に嫁がせたが故ありて高俊の代になって国に戻ってきた。
この様に史書は一正の息女が猪隈大納言へ嫁しことを伝へています。
しかし、「公忠公ニ嫁セシ所故アリテ後 高俊ノ代二至り国ニ戻ル」とあり、京都の猪熊大納言公忠卿に嫁しますが「故あって」懐胎したままで讃岐に帰ってきます。なぜ帰ってきたのでしょうか、しかも懐妊状態で?
前置きが長くなりましたが「謎の女・オナツの娘(山里)」について紹介した文章に出会いましたので紹介したいと思います。
テキストは「山下栄 讃岐の国主生駒一正公息女の悲運の生涯 ことひら45号 平成2年」です。
ここには、宮中一の美男子と云われた猪熊大納言公忠卿に嫁した「オナツの娘(山里)」が、なぜ懐胎したままで讃岐に還ってきた理由が明らかにされています。史料を見てみましょう。
幕末の金光院の役人山下盛好の覚書の一文です。
意訳して見ましょう
後陽成天皇 慶長十三(1608)年3月、猪隈侍徒教利(この家は今は絶家となっている。生駒一正侯ノ女、猪隈大納言公忠公に嫁いだと記録にあるのは、この教利の一族のことである)鳥丸参議光廣公(同家六代目ノ所に見える人物である)花山院少杵忠長公(同家の系譜からは削除されたのか見えない。今の花山家とは別かもしらない。徳大寺少特実久公(同家十九代目である)飛鳥井少将雅賢公(同家十四代目である)難波少膳宗勝(同家十四代目である)松本少格宗隆等以上の者達が共に結んで蕩遊し、密かに宮女五人を誘い出し、これを姦した。(内二人は実承寵幸)猪隈教利は斬首 宮女五人を八丈島に流した。宗隆・頼国は硫黄島、忠長を松前(北海道)、雅賢は隠岐、宗勝は伊豆へ流された。光廣・実久の二人は、許しを得て位階を復活させた。この引書は、逸史・続国史略・王代一覧に書かれていることに依った。
これはなかなかスキャンダラスな内容のようです。いまの週刊誌風に表現すると
イケメン貴族達 宮女5人と乱交バーテイー天皇は激怒し 首謀者は斬首
というようなタイトルが飛び交いそうです。
報道には「裏をとる必要」があるので、別の資料にも当たっておきましょう。
「高橋紀比古 江戸初期の宮中の風紀紊乱について 平成元年、歴史読本臨時増刊号 」に、は次のような内容が載せられています。
「高橋紀比古 江戸初期の宮中の風紀紊乱について 平成元年、歴史読本臨時増刊号 」に、は次のような内容が載せられています。
徳川幕府が成立し戦国時代の窮乏からは解きはなたれたものの政治から隔離された生活をしいられるようになると公家衆の風紀は著しく弛緩してゆく。宮廷随一の美男子ともてはやされると右近衛権少将猪熊教利は、女官との愛に溺れて素行がおさまらず、慶長十二年(1607)2月に勅勘をこうむり、京から出奔した。一説に相手の女官は後陽成天皇の寵をうけていたという。ところが事件発覚後も宮中の気風はいっこうに改まらず、慶長十四年七月には典薬の兼康備後なる者が手引きをし、参議鳥丸光広・左近衛権中将大炊御門頼国ら公卿と典侍、広橋氏、権典侍中院氏らの女官が、今でいう乱交パーティーをくりひろげた。この一件を知った後陽成天皇は激怒、公卿の官位を剥奪し、女官をそれそれの実家に帰し禁錮にした。さらに天皇は出奔して行方知れずの猪熊教利を捕縛のうえ乱交に加わった男女ともども極刑に処するよう幕府に求めた。これにたいし徳川家康は、同年11月に教利が日向国で逮捕されると、京へ押送させ、兼康備後とともに死刑にした。しかし、天皇の御母新上東門院や女御近衛氏による助名嘆願もあって鳥丸光広、徳大寺実久を無罪。他の公卿、女官を配流とするにとどめた。
金光院の山下家の文書と現代の歴史学者の説は一致しているようです。一正とオナツの娘(山里)、故あって懐胎したままで讃岐に帰ってきた背景には、こんなスキャンダルに巻き込まれたからのようです。
山下家の記録には、一正とオナツの子ども達が次のように記されています。
一男は生駒左門西村大屋舗(現在―三豊郡山本町)(山下盛久宅ナリ)ニテ誕生、慶長五子年也幼名 熊丸卜云、九才ノ時南無天満大自在天神卜染筆有、今宗運寺(山下盛久建立)ノ什物也連技家老トナリ五千七十石寛永十七辰年生駒家没落、作州森美作守侯へ御預、五十人扶持ニテ為方卜有万治三子年五月九日死去六十一才体本院雄心全功居士
女子 猪隈大納言公忠卿二嫁ス
(逸史略、続国史略、慶長十四年六月猪隈侍徒斬罪ノ吏有)有故高俊侯ノ代国二返り有胎ノマヽ一子ヲ生ム 後生駒特監二再嫁ス生駒帯刀ノ継母ナリ
意訳すると
逸史略、続国史略には、慶長十四年六月に猪隈侍徒斬罪となったことが記されるそのため三代高俊侯の時に、懐妊状態で讃岐に帰り、男子を産んだ。その後、生駒特監に再嫁し、生駒帯刀の継母となった
一子ハ生駒河内(猪隈大納言公忠卿の子)
釆地三千石余被下置、生駒騒動二際シ追放サンル。子孫、高松二有卜云フ
(以上、山下家譜)
どうして、一正は娘を公家に嫁がせたのでしょうか?・
理由のひとつは、一正が戦国武膊の悲情さ・無常さを充分味って、栄枯盛衰の少ない公家社会へ嫁がせたという説です。生駒家も関ヶ原の戦いでは、父親親正と子の一正は豊臣方と徳川方に引き裂かれました。また、勝ち馬に乗れなかった武人達の末路も見てきました。一正の心の中には「可愛い愛娘は、武将の嫁より宮廷人の嫁へ」と思ったのかもしれません。
第二の理由は、宮廷人(九条家)と姻戚関係を結ぶことで、生駒家の権威を得ようとしたのかもしれません。
しかし、選んだ相手が悪かったようです。こんなトラブルに巻きこまれようとは、おもってもいなかったでしょう。懐妊して讃岐に身も心も疲れ切って帰ってき娘にかける言葉もなかったのではないでしょうか。黙って見守った一正の心配りは父親としての愛情を感じさせるものでした。父なし子として産まれてきた子を自分の養子として育てます。そして後には、家老並みの知行を与えています。また母親となった山里には、家老・生駒格監の後妻として再婚させています。
こうして、山里は新たな伴侶と幸せに暮らせたかと云えば、そうではなかったようです。
再婚相手の生駒生駒格監も寛永9(1632)年に亡くなります。この病死については、毒殺説もあるようです。この頃から生駒家では、外戚山下家の権勢に反発する空気が広がっていきます。
それが生駒家騒動につながります。この結果、(山里)につながる人たちは次のような道を歩みます
①継子 帯刀は、松江藩松平家預五十人扶持②兄 左門(連技家老5070石)は、美作藩森美作守侯へ御預、五十人扶持。万治三子年五月九日死去六十一才③一子 生駒河内(釆地三千石) 追放サレル。子孫高松二在リト伝ヘラル
(山下家家譜)
この様に山里は、二人の夫、継子、兄、実子と別れ別れになります。彼女の晩年を伝へるものは、何一つ残されていないようです。継子と共に松江へ移ったか、兄と共に作州へ、それとも実子とともに追放され高松近在で余生を送ったのか分かりません。
一正とオナツの娘を「山里」と呼んできましたが、これも実名かどうかも確かには分からないようです。
彼女が、どこで亡くなり、どこに墓があるのかも分かりません。讃岐17万石の大名の息女として、産まれ京都の公家の嫁として旅だって行った頃には、その先にこんな展開が待ち受けているとは思ってもいなかったでしょう。
彼女が、どこで亡くなり、どこに墓があるのかも分かりません。讃岐17万石の大名の息女として、産まれ京都の公家の嫁として旅だって行った頃には、その先にこんな展開が待ち受けているとは思ってもいなかったでしょう。
母オナツと彼女につながる山下家の血縁が、生駒家の中で外戚として、大きな政治勢力となり、それが新興宗教施設の金毘羅大権現にとっては大きな力となったことを、記しておきたいと思います。
最後まで、おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山下栄 讃岐の国主生駒一正公息女の悲運の生涯 ことひら45号 平成2年






















