瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:生駒家時代讃岐高松城屋敷割図

 
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『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』です
この絵図の特徴は、その名の通り家臣団の屋敷がぎっしりと書き込まれた平面図であることです。外堀、内堀の内側はもちろん、外堀の南と西にも侍屋敷が続きます。侍屋敷は外堀内が108軒、外堀西が162軒で、重臣屋敷は中堀の外側に沿って配置されているのが上図から分かります
 今回はこの絵図を見ながらどんな家臣が、どこに屋敷を構えていたのかを見ていくことにします。
 外堀の内側に並ぶ屋敷を、研究者が石高で色分けしたのが下の絵図です。
生駒藩屋敷割り図3拡大図
①1000石以上 オレンジ色
②500石以上   紫色
③300石以上  緑
④300石以下  黄土色
この絵図からは、次のような点が見て取れます
①中堀の外側には1000石以上の家臣団の屋敷がならび、敷地が広い。
②その姓を見ると「生駒」が多く、藩主につながる生駒一族の屋敷と思われる
③外堀の南側入口にも家禄の多い家臣の屋敷が5軒並ぶ
西嶋八兵衛の屋敷が外堀西側の入口角に見える。
もう少し詳しく生駒藩の重臣達の屋敷を見ていくことにしましょう
多くの写本がある生駒家侍帳(分限帳)には、全ての家臣団(生駒宗家の直臣)の氏名が、その役職、知行高と共に記されています。いくつかの写本中には、知行高を記した数値の横に、小さな文字で知行内に含まれる自分開の新田に関する注記もあります。これと、上の屋敷割図をリンクさせながら、重臣達の屋敷を見ていきましょう。
「生駒家侍帳」は、今で云うと家臣団名簿になります。
ここには、生駒家に仕えた百数十名の家臣団の名前があります。しかし、注意しなければならないのは、ここにある名前は「直臣」だけです。封建制度のセオリーである
「王の家臣の家臣は、王の家臣ではない」
を思い出さなければなりません。つまり、各重臣が抱える家臣は「直臣」でないので、ここには名前がでてきません。生駒時代になって讃岐の地侍達がリクルートされますが、生駒家の家臣に採用された場合が多かったようです。生駒家に直接採用されなければ、この分限帳には載っていません。大手企業と、下請け企業の社員の関係になるのかもしれません。
戦闘ユニット「大番組」にみえる生駒藩の重臣達は?
生駒藩では大番組と呼ばれる戦闘ユニットが、総知行高一万石平均で構成されていました。各ユニットの兵力は、三百人から五百人で、九つの正規ユニットがありました。予備ユニットとして三組、そして、槍隊、弓隊、鉄砲隊と、作事・普請といった工兵隊から、軍役衆が構成されていました。その大番組のユニットを見ていくことします。

生駒藩屋敷割り図3拡大図
①生駒隼人組 
四代藩主壱岐守高俊の弟、生駒隼人(通称:西ノ丸殿)のユニットです。藩主の弟ということで、屋敷は城内の西の丸にあります。他の生駒姓の屋敷よりも広さもロケーションも群を抜いているようで「家格NO1」と云えそうです。しかし、藩の実権は、生駒將監(生駒帯刀の父)が握っていました。
与力は、安藤蔵人(1000石)で、侍数26人。彼らの平均知行高は、253石。この組内には安藤氏を名乗る侍が5名いましたが、生駒騒動の際には、その全てが生駒家を去っています。そういう意味では安藤家は、反生駒帯刀派に色分けされるようです。
 生駒隼人の知行4609石の内4588石が寒川郡に集中しているようです。これは生駒甚介(三代藩主正俊の弟、左門の異母兄弟)から引き継いだようです。勘介は引田城主として、東讃岐を支配していましたが、大坂の陣の際に豊臣方に加勢し破れて、引田に戻ります。しかし、追っ手が迫り切腹、所領は没収されました。その所領を生駒隼人が引き継いだようです。
②生駒將監(生駒帯刀の父)が預かる組。
この屋敷は、中堀の南門を守る形で立地します。北側と南側の通路の両方に屋敷は面し、入口も両方に持つ構造で、特別な役割を持たされていたことが想像できます。この家はもともとは、初代親正の兄弟の創始と云われ、当時は將監、帯刀父子が家老として藩政を掌握していたようです。家格意識が高く尊大であったため譜代の家老連との対立が絶えなかったと云われます。後世の史料には
「家臣としての分を忘れ、宗家(生駒本家)を倣い、子の帯刀に至っては、その妻に大名家の姫を望んだ。この幕法をも無視した非常識極まる要求に反対した江戸家老、前野助左衛門、石崎若狭の両名は、この後、將監、帯刀父子に深く恨まれる。これが後の生駒騒動の発端となる」
と批判的に記されています。生駒騒動の発火点は、この家にあるようです。
 この組の特徴としては、次の2点が挙げられるようです。
①尾池氏、河田氏、佐藤氏、吉田氏、加藤氏、大山氏、今瀧氏など、讃岐武士が数多くリクルートされている。
②生駒騒動の際に、職務放棄して讃岐を去った立退者がいない
                ③生駒左門組(三代藩主正俊の異母弟)
私が最も興味を持っているのがこの組です。屋敷は城内の東側で中堀に面するロケーションで、敷地面積はNO3くらいでしょうか。
この屋敷は二代目一正とその側室との間に生まれた左門に与えられたものです。
  左門の母・於夏は、三豊財田の山下家出身です。そして、彼女の甥が金毘羅大権現の別当を務めるようになります。於夏は、生駒家の中に外戚・山下家の太い血脈を作り出していきます。於夏の果たした役割は想像以上に大きいようです。左門の母於夏について見ていきましょう。
  2代藩主・一正の愛した於夏とその子左門
 一正は讃岐入国後に於夏(オナツ・三野郡財田西ノ村の土豪・山下盛勝の息女)を側室として迎えます。於夏は一正の愛を受けて、男の子を産みます。それは関ヶ原の戦い年でした。この子は熊丸と名付けられ、のち左門と称すようになります。彼は成人して、腹違いの兄の京極家第三代の高俊に仕えることになります。
 寛永十六年(1639)の分限帳には、左門は知行高5070石と記されています。これは藩内第二の高禄に当たり。「妾腹」ではありますが、藩主の子として非常に高い地位にあったことが分かります。
   同時に、金毘羅大権現への保護を進めたのも於夏です。
於夏と金毘羅を結ぶ糸は、どこにあったのでしょうか?  それはオナツの実家の山下家に求められます。この家は戦国の世を生き抜いた財田の土豪・山下盛郷が始祖です。その二代目が盛勝(於夏の父)で、生駒一正から2百石を給され、西ノ村で郷司になります。三代目が盛久で於夏の兄です。父と同様に、郷司となり西ノ村で知行200石を支給されます。彼は後に出家して宗運と号し、宋運寺(三豊市山本町)を建立し住職となる道を選びます。
 一方、於夏の弟の盛光は、財田西ノ村の西隣の河内村に分家します。この分家の息子が金毘羅の院主になっていたのです。 慶長十八年(1613~45年)まで32年間、金光院の院主を勤めた宥睨は、殿様の側室於夏と「甥と叔母」という関係だったことになります。  宥睨が金毘羅の院主となった慶長十八年(1613)の3年前に、一正は亡くなりますが、伯母於夏を中心とする血脈は脈々とつながっていきます。そのメンバーを確認しましょう。
①一正未亡人の於夏
②藩主一正と於夏の息子で藩内NO2の石高を持つ生駒左門
  左門には、異母兄弟として生駒甚介がいたことは先ほど紹介しました。しかし、勘介が大坂の陣に参加し、敗軍の責を被り自刃した後は、左門が生駒氏一門衆筆頭となったようです。
 この組には、讃岐出身の三野氏が四人いるほか、山下権内(150石)の名があります。この人は、三野郡の財田西村に自分開の知行所を持っているので、於夏の実家の山下家に連なる人物であったことがうかがえます。また、豊田郡中田井村の香川氏とも関係が深いなど、西讃・三豊地区との関わりが見えます。他に、この組の重要な特徴として、自分開の新田1144石があることを研究者は注目しています。
於夏と一正との間に生まれた於夏の娘山里(左門の妹)について
 山里は京都の猪熊大納言公忠卿に嫁しますが、故あって懐胎したままで讃岐に帰えってきます。離縁後に讃岐で産んだ子が生駒河内で、祖父一正の養子として3160石を支給されます。つまり、左門と生駒河内は「伯父と甥」関係になります。そして、生駒河内出産後に山里は、家老の生駒将監(5071石)と再婚し、生駒帯刀の継母となります。こうして
③於夏の娘山里が離婚後に産んだ生駒河内(一正の養子)
④於夏の娘山里の再婚相手である生駒将監と、その長男・帯刀
   こうして「生駒左門 ー 生駒河内 ー 生駒将監・帯刀」を於夏の血脈は結びつけ、生駒氏一門衆の中に、山下氏の人脈(閨閥)を形成していきました。この血脈が大きな政治的な力を発揮することになります。その結果、もたらされたひとつが生駒家の金毘羅大権現への飛び抜けた寄進です。この背後には、於夏の血脈があると研究者は考えているようです。
  もうひとつは、讃岐の土着土豪勢力との接近・融合を進めたのが生駒左門に連なる勢力ではなかったかということです。
於夏の実家である山下氏は、この時期に新田開発を活発に行い、分家を増やしています。山下家に代表されるように、土着勢力からリクルートされた家臣達は、新たな開発を行い自分の土地とすることが生駒家では許されていたようです。この「自分開の新田」は、加増の対象となります。 そのために積極的に新田開発を行います。知行に新田(自分開)が含まれる侍は、生駒騒動の際に、讃岐を去ることはなかったと研究者は指摘します。

生駒騒動の残留藩士グラフ
 地元勢力を活用し、新田開発を積極的に行うグループと、それができないグループとの間に政策対立が起きたことは推測できます。それが後の生駒騒動につながっていくひとつの要因と研究者は考えているようです。
 ここでは土豪勢力をとりこみ、新田開発を活発に行ったのが山下家の於夏の血脈でつながる
「生駒左門 ー 生駒河内 ー 生駒将監・帯刀
の生駒一門衆であったことを押さえておきます。これらの派閥からは、生駒騒動の時に藩を出て行く者は、ほとんどいなかったのがグラフからも読み取れます。
次に藩を飛び出して行った重臣達を視てみましょう。
生駒藩屋敷割り図3拡大図

④前野助左衛門組
 屋敷は「屋敷割図」では前野次太夫と記され、中堀南の重臣屋敷群の一角を占めています。前野助左衛門は石崎若狭と共に江戸家老を勤めた人物です。
 前野助左衛門と石崎若狭は、生駒家の譜代ではありません。もともとは豊臣家の家臣で「殺生関白」と呼ばれた秀次の老臣・前野但馬守長泰の一門でした。秀次が秀吉の怒りに触れて自殺した時、長泰も所領を奪われて両人ともにも浪人の身となります。かねてから前野家が生駒家と親しい関係だったので、生駒家を頼って讃岐にやってきたようです。初代親正は、秀長の下で一緒に仕えた前野長泰の子息の前野助左衛門と石崎若狭を息子一正の家臣としてとりたてます。両人とも相当才気があり、勤務ぶりも忠実であったため、一正の気に入られ千石の知行をあてがわれて、さらにその子の正俊付となります。
 両人は正俊の江戸参観には供をして、諸家への使者などを勤めます。豊臣秀次の老臣であった前野家どいえば、豊臣時代にはよく知られた存在で、親しくしていた因縁があるので、どこの藩でも大事にしてくれて、諸藩と関係もそつなく果たします。
ちなみに前野の母は、織田家中で勇猛を馳せた佐々成政の妹です。また、前野の男子の内、一人は、阿波蜂須賀家に仕えています。
生駒家家臣 前野助左衛門
 生駒記などでは、前野助左衛門、石崎・若狭は、悪役を振り当てられていますが、実際のところはそうともいえないようです。例えば、各部隊ユニットを預かる大番組の高禄者たちの中で「分散知行」に徹しているのは前野助左衛門だけです。そこには彼が地方知行制から切米知行制へ切り替えを目指していた姿をうかがうことができます。藩政改革を藩主から託された前野は、国元に石崎と上坂を置き、自分は江戸家老として連携を密にしていきます。また、年寄の森出羽の息子で江戸在府の森出雲を、自らの派閥に引き入れることに成功します。こうして、生駒一門衆への対決姿勢を強めていきます。
 助左衛門亡き後は、息子治太夫が江戸詰家老職を継ぎます。代が変わっても生駒衆門派と前野派の対立は収まらず激化します。そこで、生駒帯刀は、主君高俊を動かして、石崎、前野両人を罷免する動きに出ます。罷免された両者は激怒し、一類の者をはじめ家臣あげて脱藩、離散するという「職場放棄=讃岐脱出」という集団行動にでるのです。
 生駒家では幕閣のとりなしを依頼しますが「武士団の集団職場放棄」というショッキングな行動に対して、さすがに藤堂高次、土井利勝の力量でも幕府を抑えきれません。寛永17年7月、幕府は讃岐生駒藩十七萬千八百石を取りつぶします。関係者への措置は以下の通りです。
①藩主は出羽国(秋田県)由利郡矢島へ移され、堪忍料一万石
②前野治太夫、石崎若狭は切腹。
③上坂勘解由、森出雲守両者は脱藩した家臣と共に死刑
④石崎八郎右衛門、安藤蔵人、岡村又兵衛、小野木十左衛門ら、前野氏に使えた一類の人々も徒党を組んで国を走り出た罪で、いずれも死刑。
⑤生駒帯刀は忠義の心から事を起したとはいえ、家老としての処置を誤ったという理由で出雲国(島根県)松江藩に預けられ、五十人扶持。しかし、仇討ちに遭い万治2(1659)49歳で死去。

森出雲組 
生駒一族を除くと家臣筆頭の知行(3948石)を誇る組です。
この屋敷は西浜船入(港)に面し、西門守備の要の位置にあります。森氏は生駒家譜代筆頭の家老ですが、生駒氏一門衆の家老、生駒將監、帯刀父子と対立し、生駒騒動では讃岐を退く道を選びます。
 出雲の父は出羽、妻は前野助左衛門(伊豆)の娘です。そのため出雲は、前野次太夫とは義兄弟の関係に有り、ここも血縁関係で結ばれた一族を形成します。
この組には、戦国時代に西讃岐守護代の香川氏の筆頭家老を勤めた河田氏の嫡流である河田八郎左衛門がいます。八郎左衛門も、生駒騒動では土着侍でありながら、生駒家を去る道を選んでいます。。他にも、高屋、林田、福家氏など、東讃岐守護代香西氏の家臣たちも、この組に属していたようです。この組の特徴は、所属の家臣団が、生駒氏一門衆旗下の大番組のように同一氏族に集中していないことです。いろいろな侍衆の寄せ集め的な性格のようです。
   与力は、生駒氏の縁者、大塚采女(500石)で、侍数21人で、平均知行高は267石。
⑥上坂勘解由組 
 屋敷は森出雲の隣にあたり、西浜船入と外堀の間にある西門を守るコーナーストーン的な位置にあります。上坂勘解由は、西讃の豊田郡にて2170石の一括知行地を持っていました。このような知行形態は、他にはないものでこの家の特別な存在がうかがえます。
 勘解由は、寛永四年には、三野四郎左衛門と並んで5000石を給されています。上坂氏の母国は近江で、勘解由は、遠く古代豪族の息長(おきなが)氏の系譜を引く湖北の名門出身と名乗っていました。この一族の持城の一つが琵琶湖東岸の今浜城で、後に秀吉が長浜城と改名し居城にします。 生駒騒動の時には、盟友の石崎、前野の両家老をかばって、譜代筆頭の家老、森出雲と共に生駒家を立ち退きます。上坂氏の娘は、前野次太夫の妻で、両家は婚姻関係で結ばれていました。
 上坂氏一門は、西讃岐の観音寺では、太閤与力の侍です。
与力侍とは、生駒家を監察・管理するために秀吉が配置した役職です。上坂氏の居城は観音寺殿町の高丸城(観音寺古絵図)で 、現在の一心寺周辺とされます。もともとこの城は、戦国時代の天霧城主香川信景の弟景全が、築城した居館で観音寺殿といわれていたようです。それが天正7年(1579)の長宗我部元親の侵攻の際に香川氏は無血開城し、兄弟共に土佐勢に従いました。その後は、秀吉の四国侵攻を受けて、兄弟で元親を頼り土佐に落ち延びました。
 この城は、天正15年生駒氏が讃岐守に封ぜられた時、秀吉によって1万石を割いて大阪の御蔵入の料所にあて、観音寺城が代官所にあてられました。しかし、豊臣氏の滅亡により廃城となったようです。
 家臣団構成は、森出雲組と同じように、いろいろな一族の寄せ集め的な性格です。
生駒藩屋敷割り図拡大図4

石崎若狭組 
江戸家老を勤めた石崎若狭が預かる組です。
屋敷は外堀南側に面して、大手門の守備を念頭に置いた屋敷配置がされているようです。石崎若狭は寛永四年には2500石を給されていて、1000石の前野伊豆(助左衛門)とは、家中での立場が少し違っていたようです。石崎家は、元和六年に断絶した出石の田中吉政の家中から、生駒家に移った武士達のひとつのようです。
与力は下石権左衛門(500石)。侍数19人。
 旗下侍18人の平均知行高は278石で、大番組中、最も高い。
 
浅田図書組 
知行2500石を有する浅田図書が率いる組。
 この組は、先代の右京の時代に新参家臣として取り立てられますが、大坂の陣で勲功のあった萱生兵部と対立するようになります。家臣団のほとんどは兵部に与しますが、右京は藩政の後見役である藤堂高虎の支援を取り付けて反対派に打ち勝ちます。浅田右京は、讃岐武士である三野四郎左衛門や、高虎から讃岐に派遣された西嶋八兵衛・疋田右近とともに、惣奉行(国家老に相当)を務めるようになります。この党争の中で、讃岐の小領主の流れをひく有力家臣が数人没落しました。代わって藤堂高虎の讃岐支配に同調した家臣が取り立てられることになったようです。
 しかし、この屋敷割図が作成された頃は、奉行を勤めた浅田右京は失脚し、図書が後を継いでいますが、家中の重要ポストには就けてなかったようです。
宮部右馬之丞組 
知行1998石を有する宮部右馬之丞が率いる組で大番組中、最も小さな組です。与力は、佐橋四郎右衛門(400石)。侍数は14人である。
 屋敷の割当は、郭内屋敷三軒、西浜屋敷六軒。
 旗下侍13人の平均知行高は、232石。

生駒藩の屋敷割図から生駒騒動に関わる重臣達を見てきました。
講談的な「勧善懲悪」的な生駒騒動物語には、その背景に
①土地問題をめぐる政策対立
②藩主への権力集中に反発する生駒衆一門の反発
③幕府・藤堂藩の介入
などがあったことがうかがえます

参考文献 合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」

  
高松城下図屏風3
県立ミュージアムにある「高松城下図屏風」の精密コピーを眺めながら、今日も高松城下を探ってみます。 
寛永19(1642)年に松平頼重が高松に入り,生駒藩は高松藩となりました。この「高松城下図屏風」が、いつ、何のために、誰によって描かれたのかについては、はっきりしません。しかし、作られたのは入部から14年後の明暦2年(1656)前後と研究者は考えているようです。
『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』と比べると、どんな変化が城下町の南には見られるのでしょうか。
高松城侍屋敷図. 生駒藩jpg
「屋敷割図」は、讃岐のため池灌漑に尽力した西嶋八兵衛の屋敷も書き込まれているので、1638年頃のものだとされています。作成目的はその表題の通り「生駒藩藩士の住宅地図」で、これを見ると、だれの屋敷がどこにあって、どのくらいの広さかすぐに分かります。この「住宅地図」で城下町南端の寺町を見てみましょう。
生駒家時代讃岐高松城屋敷割図 寺町

   南部を拡大して「中央通り」を、縦軸の座標軸として書き入れてみます。そして寺町周辺を探すと、外堀南西コーナーから県庁方面へ南に伸びる道(現在は消滅)の一番南に「けいざん寺」と書かれた広い区画が見えます。これが前回紹介した法泉寺です。当時の二代住職が恵山であったことから「けいざん寺」と呼ばれていました。
 注目したいのは、その南の三番丁にの区画に記された文字です。「寺・寺・寺・寺・寺・寺」と寺が6つ記され、現在の中央通りを超えて、お寺が並んで配置されていたことが分かります。
個別の寺院名は記されません。まあ家臣団の「住宅地図」ですから作成依頼者にとって、寺は関係なかったのかもしれません。
 ここから分かることは、生駒時代は三番丁の南に配された寺院群が南の防備ラインであり、ここで城下町は終わっていたということです。今の市役所や県庁がある場所は、当時は城外の田んぼのド真ん中だったようです。
  それから約20年近くを経て描かれた「高松城下図屏風」には、このあたりはどのように描かれているのでしょうか。
高松城下図屏風 寺町2
 高松の南部への発展は、どのように進んだのでしょうか?
高松城下図屏風を見ると、次のような事が分かります
①寺町の南に、新たに街並みが形成されている
②丸亀町の東側の「東寺町」の南には堀が出現している。
③その堀の南側にも白壁の屋敷群が立ち並んでいる。
ここから松平頼重がやった南方方面防衛構想は、
①防備ラインである寺町の南に新たに堀(水路)を通して
②堀の南に侍屋敷群を配置し
③西寺町の南に、広い境内を持つ大本寺(現四番丁小学校)や浄願寺(現市役所・中央公園)を配置。
④仏生山に法念寺造営
これらによって南方方面への防衛力を高めたと考えられます。
  高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には、この時期のことについて次のように記します。
御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,
(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」
とあります。ここからは、私は次のように推察しています。
①生駒藩時代は時代に逆行した知行制を温存したために、高松に屋敷を持つ者が少なかった。
②あるいは屋敷を持っていても、そこに住まずに知行地で生活する者が多く城下町の経済活動は停滞気味であった。
③結果として、城下町の拡張エネルギーは生まれなかった。
④また、知行制をめぐる政策対立が生駒騒動の要因のひとつと考えられる
⑤松平高松藩は検地を進め、家臣団のサラリー制を進めたので城下町に住む家臣は増え、町の膨張傾向が高まった。
そして南に向かって、六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場にも新たに侍町が整備されたようです。ちなみに三番「町」でなく、「丁」が使われているのは生駒氏のマチ割りの特色だそうです。生駒氏が関わった引田や丸亀も「丁」が使われているようです。ここから築城に独特の流儀を生駒氏は持っていたと考える研究者もいるようです。
 前回に触れた浄願寺が現在の市役所や中央公園を境内として整備されたのも、この時代のことになります。屏風図には寺町の南に大きな境内が見えます。

次に丸亀町の東の寺町(東寺町)を見てみましょう。
高松生駒氏屋敷割り 寺町2
この生駒時代の屋敷割図から見えてくることは
①瓦町から数えて南へ四本目の東西の通りの北側に寺が配置され寺町を形成。
②寺町の南側の通りは「馬場」と書かれています。
③その南の並びは「侍屋」とあります。
④しかし、馬場と侍町の間に堀割はありません。
この部分を『高松城下図屏風』と比較してみましょう。
高松城下図屏風 馬場
なんとここには本当に馬を走らせている武士の姿が描かれています。ここは「馬場」だったようです。勝法寺の南側にも数頭の馬が描かれています。その南側は堀割りで,堀割のさらに南は白壁の侍屋敷が東西に並んでいます。そして、馬場の南に堀が姿を見せています。この堀割は松平頼重時代になってから南方防衛ライン強化のために新たに作られたようです。
この馬場は、現在のどこにあったのでしょうか?
高松には「古馬場」という地名があります。古馬場といってすぐに連想するのは、私は「飲み屋街」の風景です。このあたりで武士達が乗馬訓練を行っていたのです。ならば馬場跡は、古馬場にどんな形で残っているのか探ってみましょう。
「北古馬場」と「南古馬場」の通りを見ていくことにします
高松古馬場 現在
 現在の「南古馬場」の通りは丸亀町をはさんで、その西側の道とは、まっすぐにはつながっていません。よく見ると、「丸亀町」のところで①のように「ズレ」ているのが地図から分かります。
高松古馬場 明治
明治四十二年の『高松市街全図』にもおなじようにな①の小さな「ズレ」は、見ることができます。そして①の町名は「古馬場町」と記されています。
高松城下図屏風 古馬場
丸亀町の「ズレ」に着目して『高松城下図屏風』を見ると、①の堀の南の東西の通りがやはり「ズレ」ています。ここから現在の南古馬場の通りが①の侍町南側の道であるようです。だとすれば、生駒時代は、ここが高松城下の最南端だったので、南古馬場は『高松城最南端通り」と呼ぶことも出来そうです。
同じような要領で北古馬場について探ってみましょう
②の堀に面した南側の道は、丸亀町のところで、突き当たりになっています。これは明治42年の『高松市街全図』の「北古馬場」と同じです。ここから②の道は、現在の「北古馬場」の通りだと分かります。
 現在の「北古馬場」の通りの北側の店の並びは「堀(水路)」、そして、水路を埋め立ててできたのが、今の「北古馬場」の飲食街の「北側」の店並びということでしょうか。
 馬を走らせていた馬場は、堀の北側でした。ということは現在の古馬場地区一帯というのは、「馬を走らせている場所」の南側の地帯で、「堀の南の侍町」になります。以上から「図屏風』の中の「馬を走らせている場所」は、現在のヨンデンプラザの東あたりと研究者は考えているようです。
さて、この馬場はいつ消えたのでしょうか?
享保年間の「高松城下図」には、勝法寺の南方に東西に並ぶ侍屋敷は見えますが,馬場はなくなっています。そして、馬場の北側にあった勝法寺が南部に寺域を広げ,御坊町も南部に拡大しています。そして「高松城下図」では,馬場は浄願寺の西に移動しています。有力寺院の拡大によって、馬場は境内に取り込まれていったようです。
高松城絵図9
 元文5年の「高松地図」には、それまで掘割の南側にあった侍町がなくなっています。代わって古馬場町と名付けられ町人町となっています。これについて「小神野夜話』は、この理由を次のように記します。
「今之古馬場勝法寺南片輪,安養寺より西の木戸迄侍屋敷本町両輪,北片輪之有候処、享保九辰,十巳・十一午年御家中御人減り之節,此三輪之侍屋敷皆々番町へ引け跡は御払地に相成,町屋と相成申候,享保十一,二之比と覚え申候,本町之南輪には,鈴木助右衛門・小倉勘右衛門・岡田藤左衛門・間宮武右衛門,外に家一二軒も有之候処覚候得共,幼年の節の義故,詳には覚不申候,北輪は笠井喜左衛門・三枝平太夫・鵜殿長左衛門・河合平兵衛。北之片輪には栗田佐左衛門・佐野理右衛門・飯野覚之丞・赤木安右衛門・青木嘉内等、凡右の通居申候,明和九辰年迄,右屋敷引五十年に相成候由,佐野宜休物語に御座候」
ここからは以下のようなことが分かります。
①享保11(1726)年頃に,御家人が減ったので,勝法寺に南側にあった侍屋敷は番町へ移した。
②その跡は払い下げて町屋となり古馬場町と呼ばれるようになった。
ちまり古馬場は、もとは侍屋敷街だったのが、享保年間に払い下げられ町人町となったようです。かつて武士達が馬を走らせていた馬場は乗馬訓練していた空間は、四国有数の夜の繁華街になっています。

参考文献 井上正夫 「
古地図で歩く香川の歴史」所収


  
HPTIMAGE高松

 
高松城下を描いた絵図資料は25点、19種類あるそうです。これらの絵図には高松城及び高松城下が描かれています。これらを製作年代順に並べて見比べてみると、どんなことが分かってくるのでしょうか。まずは生駒藩時代の二枚の絵図を見ていくことにしましょう。
 高松城は生駒親正によって天正16(1588)年,香東郡野原庄の海浜に着工されました。
高松城の地理的要害性ついて『南海通記』は
「此ノ山ナイテハ此ノ所二城取り成シ難ク候、此ノ山アリテ西ヲ塞キ、寄口南一方成ル故二要害ヨシ,殊二山険阻ニシテ人馬ノ足立ナク,北ハ海ニ入テ海深ク,山ノ根汐ノサシ引有リテ,敵ノ止り居ル事成ラズ,東八遠干潟 川人有リテ敵ノ止ミガタシ,南一ロノ禦計也,身方干騎ノ強ミトハ此ノ山ノ事也」

とあり、北は海岸で,東は遠浅の海岸が広がり,西は山が迫っており,山の麓は浜が広がる要害の地に築かれたことを指摘します。
 最も古い絵図は寛永4(1627)年に記された『讃岐探索書』の絵図(絵図1)のようです。
これは題名からうかがえるように幕府隠密が書き残した報告書で、絵図のほかに高松城の他にも町の広さなどが記録されています。当時は生駒藩時代で外様大名でなので監視の目がそそがれていたようです。隠密は次のように高松城を絵図入りで報告しています。

1讃岐探索書HPTIMAGE
天守閣は三層で,三重の堀をもつ。内堀の中に天守のある本丸があり,堀を挟んで北側に二の丸,東に三の丸がある。天守の西側の西の本丸は多聞で囲まれ,南西・北西・北東の角に二重の矢倉がある。二の丸は矢倉で囲まれていて,北角には矢倉が2つある。二の丸と内堀を挟んで西側にある西の丸の北側は塀で、北の角には屋敷があり,南の角に矢倉が2つある。しかし、中堀の石垣は6~7間が崩れて放置されている。海側にも海手門と矢倉があり,その東側には塀が続いているが、土が剥げ落ちている。
 また海側には海手門があった。中堀の東南付近には対面所がみられるが,この北側には堀を挟ん
で三の丸との間に門がある。三の丸は東南角に二重の矢倉があり,矢倉に続いて30間の多聞が続く。海の方にも矢倉があり,塀が巡っているが塀は崩れかかっていた。
 
1生駒藩時代
お城周辺の拡大図
これは高松城のことを記した一番古い史料になりますが,築造開始より年数が経過して,土塀や石垣は相当傷んでいて、それを放置したままになっていたことがうかがえます。藩内のお家騒動が激化してそれどころでなかったのかもしれません。
「讃岐探索書』は、城下の周辺ついては次のように記します
城下は城の西側,南側,東側に広がっていて、東10町(約1km),北南6町(約650 m)程度の広さで,800~900軒の家が並んでいる。城下町の東西には潮が入る干潟が広がり,南側は深田であった。 
 ここからは高松城の西と東はすぐ海浜で、東西の町は小規模で、南に向かって城下町は発展していく気配を見せています。町屋数は900軒前後であったといいます。公儀隠密の描いた「絵図1」は略図で、高松城下の町の名や,その広がりなどについては詳しくは分かりません。しかし、東西に干潟が広がる海岸の先端にお城が築かれていたことは分かります。
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これに対して『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』(絵図2)は詳細に描かれています。
この絵図を見て気付くことを挙げておくと
①城と港(軍港)が一体化した水城であること
②中堀と外堀の東側には町人街があること
③外堀の南に掛けられた橋に続いて丸亀町がまっすぐに南に続いていること
外堀の南と西にはは侍屋敷が続きます。侍屋敷は外堀内が108軒、外堀西が162軒で、重臣屋敷は中堀の外側に沿って配置されているのが上図から分かります
町筋を見ていくと東西に5筋、南北に7筋の通りが配されています。注目しておきたいのは東側の外堀の内側には、町屋があることです。これらは特権的な保護を受けていた気配があります。町屋の総数は1364軒になるようです。公儀隠密の報告から10年あまりで1,5倍に増えていることになります。急速な町屋形成と人口の集中が起きていたことがうかがえます。
 東西南の町屋を見ておきましょう。
 東部は町屋が広がり,いほのたな町・ときや町・つるや町・本町・たたみみ町などの町名が見えます。外堀の東側は東浜舟入で,港ですが舟入の東側にも町屋が広がり、材木屋、東かこ(水夫)町があります。
 南側には丸亀町,兵庫かたはら町,古新町,ときや町,こうや(紺屋)町,かたはら町,百聞町,大工町,小人町が続きます。この数からも城下町は南に向かって伸びていった様子がうかがえます。
 城下の東には通町,塩焼町が、城下のはずれには「えさし町」が見えます。
絵図の西端は、現在の高松市錦町に所在する見性寺付近で、東端は塩焼町で,現在の高松市井口町付近にあたります。
 南端には三番丁の寺町が見えます。そこには西からけいざん(宝泉)寺・実相寺、脇士、浄願寺・禅正寺・法伝寺・通明寺・福泉寺・正覚寺・正法寺の寺院がならび南方の防備ラインを形成します。なお「けいざん寺」は宝泉寺のことで、二代住職が恵山であったことから人々は「けいざん寺」と呼んだようです。
 この南にはかつては堀もあったようで、それが埋め立てられて「馬場」となったとも伝えられます。それを裏付けるように厩,かじや町が描かれ,南東部には馬場があり,その南には侍屋敷があります。この辺りは、現在の高松市番町2丁目で、高松工芸高校の北側あたりから御坊町にかけてになります。
「生駒家時代高松城屋敷割図』(絵図2)には三番丁が描かれていますので、この時代に城下はこの辺りまで広がっていたようです。
しかし、高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には
御家中も先代は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」

とあり,松平頼重の頃に六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場が新たに侍町になっことが記されています。つまり、それまでに五番丁まであったと記します。生駒藩時代に、どこまで城下が広がっていたのかは、今の史料でははっきり分からないようです。
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 この「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」には製作年代が記されていません。
いつ作られたものなのでしょうか。研究者が注目したのは、中堀と外堀の間の西上角にあった西嶋八兵衛の屋敷が
描かれていることです。彼は藤堂家から派遣されて、讃岐のため池築造や治水灌漑に大活躍した讃岐にとっては「大恩人」です。西嶋八兵衛は寛永4(1637)年から寛永16(1639)年まで生駒藩に仕えますが、元々の屋敷は寺町にあって、その後に大本寺は建立されたと,大本寺の寺伝が記します。大本寺の建立は「讃岐名勝図会』では寛永15(1638)年,寺伝では寛永18(1641)年とあります。
 ここでもう一度「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」(絵図2)をみると,寺町の西端の大本寺の所に「寺」と記されています。ここから大本寺は、この絵図が描かれたときには建立されていたことが分かります。また,西嶋八兵衛が生駒藩に仕えたのは寛永16(1639)年までですから大本寺は寛永16(1639)年以前に創建されたことになります。
 以上から大本寺の建立は『讃岐名勝図会』の説のとおり寛永15(1638)年で,それ以前に西嶋八兵衛屋敷は中堀と外堀の間に移ったようです。彼が生駒藩に仕えたのは寛永16年までなので,寛永15(1638)年から寛永16(1639)年の間に、この絵図は製作された研究者は考えています。まるで推理小説を読むような謎解きは、私にとっては面白いのですが、こんな作業を重ねながら高松城を描いた19種類の絵図を歴史順に並べらる作業は行われたようです。

 生駒騒動で生駒氏が改易された後,寛永19(1642)年,高松城に入部した松平頼重は寛文10(1670)年に高松城の天守閣の改築をし,翌年には新しく東の丸を築造しています。東の丸があるかどうかが絵図をみる際のポイントになるようです。東の丸があれば、松平藩になってからの絵図と言うことになります。
1高松城 屋島へ
それでは、この絵図はどうでしょうか?
「讃岐高松丸亀両城図 高松城図』(第6図 絵図3)も製作年代がありません。東の丸が描かれていないので寛文11(1671)年以前のものであることは間違いありません。この絵図は、高松城下町は略されていますが、周辺への街道が描かれています。周囲をみると屋島(八嶋)島の状態で陸と隔てられ、屋島と高松城は湾として描かれています。また,志度へ向かう道が2本描かれています。1本は東浜より湾を渡って屋島の南に抜け,牟礼・志度方面へ向かう道,もう1本は長尾街道と分岐し,海岸線を経由して屋島の南で前者の道と合流する道です。この道のすぐ北側は海で,湾状となって描かれていますが,この辺りは西嶋八兵衛によって寛永14(1637)年に干拓が行なわれた場所になります。ところがこの絵からは干拓の様子が見えません。ここからこの絵図は生駒藩時代のもので,西嶋八兵衛が干拓を行う寛永14(1637)年より前のものと研究者は推理します。
 
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第8図「讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)です。
 この絵図と先ほどの「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』(絵図2)を比べると、2つの相違点に気がつきます。一つは(絵図2)では東浜舟入の東側は「東かこ町」でした。この東の海岸をみると,塩焼浜と記され,浜が広がっている様子が描かれています。一方この絵図4では、東かこ町側の海岸は直線的に描かれていて、絵図の着色から石垣の堤防が築かれたことがうかがえます。
 2つめは、この「絵図4」では西浜舟入の侍屋敷の西側には町人が見られますが『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』(絵図2)では町人町は描かれていませんでした。ここから『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)は『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」(絵図2』より新しいものと研究者は考えているようです。
 それでは『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)は生駒藩時代,高松藩時代のどちらをを描いた絵図なのでしょうか?
 松平頼重が高松城に入城するのは寛永19(1642)年で,『生駒家高松城屋敷割図』(絵図2)の製作の3~4年後です。東浜の海岸の石垣工事や,西浜町人町の建設などの工事は大工事であり,これだけの工事を3~4年間で行なうのは難しいようです。『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)は、松平頼重入封以後の高松藩時代のものと考えるほうが無難のようです。
 なお,明暦元(1655)年松平頼重が五番丁に浄願寺を復興します。浄願寺は寺域も広く「高松城下図」(絵図7)など後世の絵図にも大きく描かれています。しかし、この「絵図4」には浄願寺は描かれていません。これも明暦元(1655)年以前のものとされる理由のひとつです。
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  以前に生駒藩の高松城の建設は従来考えられていたような秀吉時代のことではなく、関ヶ原の戦い後になって本格化したと考えられるようになっていることをお話ししました。それは発掘調査から分かってきたお城の瓦編年図からも裏付けられます。
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 そして、新たにやってくる新領主・松平頼重のもとで高松城はリニューアルされ、城下は新たな発展の道を辿ることになるようです。

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