金倉川河口 土地利用図
金倉川河口付近(土地利用図) 旧流路が幾筋も見える 
丸亀平野を流れる金倉川について、丸亀市史は「人工河川」説を唱えています。満濃池築造時に金倉川は流路変更され、その跡に用水路が整備されたと以前にお話ししました。そんな中で
「金倉川の下流部も、生駒藩時代に流路変更されている。旧金倉現在の現在の西汐入川である。」

という説が出てきました。それは、香川大学の田中教授です。この説を今回は、見ていきます。  テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
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青が西汐入川の流路
 
廃城となった丸亀城  
慶長15年 (1610)に生駒藩では初代一正が亡くなると、嫡子正俊が家督を継ぎます。正俊は高松城を領国支配の拠点と定め、祖父親正の時代に築城された丸亀城を廃城とします。その後に作成された「高松国絵図」には城地に「圓亀古城」と注記され、「丸亀国絵図」 には、樹木の茂る小山として描かれいます。ここからは丸亀城は生駒時代に、城割は行われていたことがうかがえます。
廃城後の丸亀城址について
寛永17年(1640)2月15日「生駒高俊公御領分讃州郡村村並惣高帳」には、那珂郡の中で丸亀城跡の地名が次のように記されています。
一、高四百六石八斗九升壱合  圓亀(丸亀浦)
   内拾八石古作      見性寺領
    四拾七石三斗五升七合 新田悪所
また、翌18年10月20日の山崎家治宛ての讃岐国内五万石領之小物成帳には、次のように記されています。
一、銀子弐百拾五匁  円亀村
  但横町此銀ニ而諸役免許
一、米三石      円亀村
  但南条町・上ノ町此米ニ而諸役免許
この二つの史料からは、次のようなことが分かります。
① 廃城後の旧丸亀城下町は「」 や「村」になっていたこと
②しかし、築城後に作られた横町や南条町、上ノ町などの町場も残っていたこと。
生駒家の改易後、寛永18年(1641)9月、西讃岐五万石の領主としてやってきたのが山崎家治です。山崎家は翌年7月、丸亀の古城を修復し居城にすることを江戸幕府に認められ、丸亀城の再築と城下町作りに着手します。山崎家は三代で絶えますが、初代家治のとき、正保二年 (1645) に幕府の命を受けて、丸亀城の領分の絵図を提出しています。この時の絵図は、「讃岐国丸亀絵図」で検索すると、国立公文書館のデジタルアーカイブで閲覧できます。
 研究者は、同時期に作られた「正保国絵図」の 「讃岐国丸亀絵図」と比較することで、丸亀城下町とその周辺地域での開発の様相を明らかにしていきます。それを見ていきたいと思います。

金倉川流路変更 

まず研究者が示すのは上図です。高松市歴史資料館の「讃岐国絵図」 には「圓亀古城」とあり、海側に「町」と記されています。これが、先ほど史料で見た廃城後も存続した城下町の一部のようです。海沿いのほんの一部にしか過ぎなかったようです。この地図で、注目したいのは西側(右側)から回り込むようにして「町」の北に流れ込んでいる川です。最初は西汐入川かと思っていました。しかし、地図に書き込まれた地名を見ると、上流の流域が細い部分には、「上金倉」や「今津」が見えます。どうやら金倉川のようです。金倉川が今津の北で流域を広げて、大きく東に向きを変えて、丸亀城の北側で瀬戸内海に流れ出していたようです。

丸亀城周辺 正保国絵図
 一方、上図の国立公文書館版の讃岐国絵図を見ると、丸亀城の西側を流れる川は、そのまま北に直流して、下金倉村で海に流れ出しています。ほぼ同時代に、作られた絵図なのに金倉川の流路が違うのです。これをどう考えればいいのでしょうか。
研究者は「この両図が作成される間に金倉川の河道は、付け替えられた」と指摘します。
 ここで、研究者が注目するのは砂州や砂堆です。丸亀城の北側 (海側) に二本の砂堆 (砂嘴) が描かれています。先ほどの絵図では、金倉川の河口は、二本の砂堆の間にあります。この砂堆は、現在のどの辺りになるのでしょうか。次に研究者が利用するのは、国土地理院の土地利用図です。
丸亀の砂嘴・砂堆
 「図13」 は、丸亀城周辺地域の砂堆と河道を示したものです。
黒い部分が砂堆や砂州です。これを見ると丸亀城の北側の海岸線には、東西方向に延びる①と②の二本の砂堆が発達していたことが分かります。さらに、西北部には③と④二本の砂堆があります。これらの砂堆が並んでいるために、旧金倉川は北流することが出来なくて、砂堆と平行に東流して丸亀城の北側で海に流れ出していたようです。
丸亀平野の扇状地
多度津から丸亀の旧海岸線には砂堆や砂州が形成されていた

旧金倉川の流れをもう少し詳しく見てみましょう。
①河口に三角州帯が形成されたため⑤の砂堆に沿って東へ流れる
② ④の砂堆との切れ目を抜けて海岸近くへ流れる
③しかし、③や②の砂堆に妨げられてまたも東へ方向を変える
④最終的には②と①の砂堆の間から海へ流れ込む。
このように旧金倉川は、いくつもの砂堆によって北に流れることを邪魔されて、東へ東へと導かれていたようです。この流路地と【図12の「高松国絵図」に見える金倉川の流路は、一致します。以上から、次のように研究者は結論づけます。
旧金倉川は中津と今津との間を流れ東流し、九亀城北方の二本の砂堆の間で海へ注いでいた。
ところが「正保国絵図」では、金倉川は砂堆の間を通らず今津・下金倉間から真直ぐ北に流れ海へ注いでいる。一方、北方の二本の砂堆間の入江は金倉川とはつながっていない。ここには西汐入川が流れ込んでいた。つまり、西汐入川は、かつての金倉川の流路を流れていたのである。この川は【図13】から知られるように、中津から今津、津森にかけての後背低地や旧河道からの排水路の役割を果たしている。

それでは、金倉川の付け替えが行われたのは,いつでしょうか。
金倉川の流路変更2

その、決め手史料として研究者が提出するのが【図15】です。
この絵図の中央下よりの海岸線近くには、小判型の中に「円亀」と記されています。その上には小山に木が茂っている様子が描かれています。これが丸亀城跡のようです。「丸亀」の左脇に「三浦」が同じ小判型の中に記されています。寛永一七・八年ごろ、「丸亀浦」や「九亀町」と呼ばれていた城下町跡です。この地域が「古町」になるようです。
 河川については、土器川と金倉川が次のように描かれています。
①津郷の上井・高津両村と、同じく津郷の土器村との間を流れる土器川、
②下金倉村と杵原今津村との間を流れる金倉川
土器川の流路は、【図12】の「正保国絵図」と変わりありません。研究者が注目するのは、金倉川の流路です。こちらも「正保国絵図」と流路は同じです。ということは、【図12】の「高松国絵図」が作られたのち、「正保国絵図」が描かれるまでの間、さらに時期を絞れば、【図15】が作られる寛永10年(1633)までの間に、金倉川の流路は付け替えられたことになります。この間は、九亀城は廃城になっていた時期に当たります。九亀城は、無くなっているのに金倉川の付け替えという工事が行われなければならなかったのか。何らかの理由があったはずです。
  それを、研究者は次のように説明します。
旧丸亀城下町には、港が置かれていた。九亀は「」であって、そこは「町」となっていた。言い換えれば、港町として機能していたのである。その機能は丸亀城の廃止後も、保たれていたから、安全に船が出入りできるよう港湾の保全を図る必要があった。金倉川を遠方へ付け替えることで、洪水時の水量を減らし、港が設けられている河ロヘ流入する土砂の減少をはかったのである。

 お城はなくても、港と古町は残った。それを守るために金倉川の付け替え工事は、行われたと研究者は考えているようです。
 満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大2
整備された満濃池用水

最後に、私の仮説を出しておきます。
 丸亀城廃城後の寛永10年(1633)までの間に、生駒藩が金倉川の付け替えと、西汐入川の新設を行ったことについて、もう少し広い視点から見ておきたいと思います。注目したいのは、この時期の西嶋八兵衛の動きです。襲い来る旱魃に対して、生駒藩奉行に就任した西嶋八兵衛は治水・灌漑を各地で進め、危機に立ち向かう姿勢を藩全体で作り出す事によって難局を乗り越えようとします。その目玉が1628年に着工し、3年後に完成させた満濃池でした。しかし、満濃池の水を丸亀平野全体に供給するためには、整備された用水網が必要です。

まんのう町 満濃池のない中世地図
満濃池が描かれていない絵図。かつての池の中に池之内村があった。

 ここからは以前にもお話ししたので要点だけ記します。
 満濃池の工事に先駆けてか、平行して、丸亀平野の用水路整備が行われたと私は考えています。これは治水工事とセットで行う必要がありました。その治水工事の大きな柱が、暴れ川の金倉川の流路変更です。何カ所かで金倉川は付け替えられた痕跡があることは、丸亀市史が指摘するとおりです。その時期は、満濃池完成までに間に合わせる必要があります。池ができても、用水路がなければ水は来ません。用水路を整備するためには、何匹もの龍が暴れるような川筋を持つ金倉川や四条川を「退治」する必要があったはずです。高松平野の郷東川や新川・春日川で行われたことが丸亀平野の金倉川に対しても行われたということにしておきます。
金倉川旧流路 与北町付近
善通寺与北町付近の金倉川旧流路跡 
 そして、金倉川下流での流路変更は、丸亀の湊と町を守るためであった。さらに、流路変更後の河川跡地が新田開発されていったのではないでしょうか。研究者は次のように指摘します
西汐入川は「中津から今津、津森にかけての後背低地や旧河道からの排水路の役割を果たしている。」
西嶋八兵衛の動き
1627年寛永4年8・- この頃までに,西島八兵衛,生駒藩奉行に就任
1628年寛永5 10・19 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手する
           この年 西島八兵衛,山田郡三谷池を修築する
 1631年 寛永8 2・-満濃池の全工事,完成する.
1635年 寛永12 4・3 奉行西島八兵衛,生駒高俊の命により矢原又右衛門に50石を与え満濃 池の管理を命じる
    9・8 西島八兵衛,山田郡神内池を築造する
1637年 寛永14 春 西島八兵衛,松島から新川の間の堤防築造。
1639年 寛永16 12・- 生駒帯刀と石崎若狭らの対立が拡大し、家中立退きの状況となる。生駒騒動勃発
1640年 寛永17 7・26 幕府,生駒藩騒動の処分として生駒高俊の封地を収公し,出羽国矢島1万石に移す.

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)